「だからね、ママはこの世界には優しい人で満ち溢れていると思うんだよ。だから優しく生きてね。辛くても苦しくても、きっと誰かが気づいてくれるからね」
母はまだ六つや七つくらいの幼い私に彼女自身の昔話を聞かせた。就寝前はいつもこれを聞いて幸せな心地で眠りにつく。
今となって専業主婦に転じた母だったが、現役時代はキャリアウーマンとして優秀な成績を収めていた。
ある外回りの営業でのことだ。その日は猛暑だった。激しく太陽が人々を照らしつけて、気温も高い。世間では熱中症がどうだとか騒いでいる頃だった。
母は自身を追い込みやすい性格なのか、営業実績と引き換えに自分の身を捧げる仕事人生だった。そのせいで、運悪く熱中症にかかってしまう。軽度のものだったら良かったが、生憎そうはいかなかった。軽度だとしても母は軽度であるからが故に軽視して働き続けただろう。いずれにせよ軽度だとか、重度だとか関係なかったように思える。
ふらふらとおぼつかない足取りに、定まらない焦点。ついには道の端に座り込んでしまう。ああ、やばいだろうなあ。そう場違いにどこかで他人事のように思った、と当時のあたしには難しいことを聞かされた。
視界には硬いアスファルトと足元だけの雑踏。瞼がゆっくりと閉じようとしている。このまま流れに身を任せようと脳が動こうとする。心の中では仕事中だ、と対抗する。
唐突に頭上から声がするのを聞いた。初めは通り過ぎ行く誰かの声だと思った。しかし、声はなかなかどこかへ行かない。
見上げると、それは見ず知らずの女性。その女性は私にミネラルウォーターを差し出す。ふと、彼女の手がミネラルウォーターから離れる。思わず両手で掴み取った。強引なやり方だと思った。けれど、それがその女性の優しさだと理解していた。
何度も礼を言う。何か礼をさせてはもらえないだろうか。
咄嗟に名を尋ねた。
「ああ、名前くらいなら。私は━━━です。あなたは?」
あれ。母はあの時、なんと言ったのだろう。古い記憶だから忘れてしまった。
この話をしている時だけは、母は幸せそうだった。だからあたしも幸せな気持ちで胸がいっぱいになった。母の幸せがあたしの幸せだった。ずっと母の幸せな気持ちが続けばいいのに、と思った。
幼い頃のあたしは自分の家庭環境の異常さに気づけなかった。母には時折、暴力を振られて泣き謝られて。父はあまり記憶上に存在しなかった。飲んだくれだった。そのため、あたしの世話は母が一人でしてくれた。
母はしばしば、あたしをことある事に罵詈雑言を吐いて殴ったり蹴ったりした。それがいつものように始まるきっかけは本当に些細なことで、洗い物の油がしつこくて取れなかったり干し終えた洗濯物をベランダの床に落としてしまったり。本当に些細なことだった。その些細なことが母には堪らなくストレスだったのだ。
完璧主義者。これ以上に母に相応しい言葉は見つからない。完璧主義者が過ぎる故にストレスを人一倍に感じてしまう。ただ、そのストレスを発散する矛先が偶然あたしだっただけに過ぎない。
殴って蹴って、その後にいつも幾度も私と同じ目線に立って縋りついてごめんね、と泣きじゃくりながら繰り返す。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
悪魔の呪文だった。ごめんね、と謝られたら許さなければならない。あたしは許す他ならなかった。
時にはあたしの眼前でただ咽び泣くことを続けていたりもした。その様子は当時のあたしよりも年下の赤子が母の元から遠のいたことに勘づいて泣きじゃくる光景をただひたすらに眺めている時と同じ気持ちになった。それはどこか他人事で、自分じゃない自分を見ているかのようで胸が空っぽになった。
でも、母を慰めなければないない。そんなどこからやってきたのか分からない衝動に駆られた。
あたしには母が悲しんでいる、ということしか感じられない。当時のあたしにはそれを解決する程の力も、同情して慰めの言葉をかけることも、何もできなかった。
ひたすらに母の手を掴んで、あたしの頬に手を当ててやる。こんなことくらいしかできなかった。
ある日のことだ。いつものように顔面を殴られて、腹を蹴られた。横たわるあたしは鼻から血が流れて、床にじわじわと赤色が広がっていく。
今日もあたしはまた母が泣きじゃくりながら謝ってくるいつもの流れを待っていた。
しかし、今日はいつまで経っても母は静かなままだ。謝罪の声も聞こえなければ、泣きじゃくる声さえも聞こえない。さっきまで泣き喚いていたのに。その声は今はもう聞こえない。
奇妙に感じて部屋を出た。顔を洗って鼻血を止めるために不器用ながらにティッシュ作った鼻栓で止血する。しばらく経った。それでも、母の声は何一つ聞こえない。眠ってしまったのだろうと思った。
自分でグラスにオレンジジュースを注いで、絵本を読みながら母が起きるのを待つ。また、しばらく経った。それでも、母の声は何一つ聞こえない。数少ない絵本も全てを読み切ってしまった。
気になって母がいる部屋のドアの隙間を覗いた。母が横になってぐっすり眠っているのが見える。あたしはそんな母の元に忍び寄り傍で眠った。起きたら、再び母のヒステリックが再開されるのだろうか。それとも泣きながら謝られるのだろうか。平常心でいてくれたらいいのに、と願って眠りに落ちた。
翌朝になって、今考えると子供にとっての朝は随分と遅いもので、おそらく昼に近い時刻だったであろう時刻に父から体を揺すられて起きた。
随分と眠ってしまっていたらしい。夕食を食べた記憶がなかった。風呂に入った記憶もない。
目を擦っても尚、靄がかかる視界で父の顔を捉える。口が動いていた。
「お前の祖父母の家へ行くぞ」
淡々と告げられた。当時のあたしには祖父母が何を指すのか分からなかった。
車に乗り込むと、見覚えのある顔があった。ようやくして、祖父母がなんなのか、そして誰なのかを知る。父方の祖父母はあたしは一瞥しただけで何も声をかけてくることはなかった。
黙って目を閉じて車に揺さぶられた。
すると、唐突に祖母と父が口論し始めるのを耳にした。唐突と言うよりも、段々と思いが爆発していった、という方が実感に近い。
なんとなく寝たフリをした方が良い気がした。そのせいであたしに配慮する必要がなくなったから口論へ発展したと言っても過言ではないと思うが。
これからの金がどうとか、警察がどうで事情聴取が面倒だとか。父が一方的に愚痴を吐いていた記憶しかない。しかし、あたしは頭の片隅で母にはもう二度と会えないことを悟った。多分、母は死んだ。そう悟ったのだ。
母の元に忍び寄ったつい先程に思えることが脳に反芻される。いつもそばにいる時に感じるあの温もり。それがあの時はなかった気がする。心なしか冷え冷えとした空気感すら薄らと伝わった。しかし、それも時間とともに希薄になっていく。時間が記憶を曖昧にさせる。
不思議とあたしは母の死に対して、悲しくも何ともなかった。ただ、事実を理解して、終わり。それ以上の感情は何も生まれなかった。それなりに愛情を感じて、母を愛していたはずなのに。私は母のように優しい人間ではなかったのだ。そう思い知らされた出来事だった。
その日は祖父母の家で過ごした。無心でテレビ番組を視聴し続け、気づけば時間は過ぎていって、一日が終わりに近づいていくのをひたすら待つだけの日だった。畳の触り心地だけを妙に今でも覚えている。畳の隙間を指でなぞって、ザラザラとした感触が手のひらに感じた。
例の日以降からも自宅に戻ることなく祖父母宅で暮らし続けた。僅かな時間しか共に学ぶことがなかったクラスメイトと早々に口で別れを告げることなく転校し、新しい学校に通った。その学校で多くを学び、友達もできた。気がつく頃には祖父母宅が自宅に替わり、その地が地元と化していった。祖父母宅があるその地こそが、一番長く留まった土地だったと今になっては思う。
祖父母は悪い人ではなかった。よく本を読み聞かせしてくれたり公園へと連れて行ってくれたりとしたものだ。今までに関わりがさほどなかったにも関わらず、衣食住を整えて、面倒を見てくれて、とても感謝している。
ある程度、成長すると私は上京した。それ以前にも何度か度重なる引っ越しを繰り返していた。そのため環境の変化はあたしにとっては苦ではなかった。
今まで祖父母に引っ越す理由を訊いても、はぐらされるだけで、明確な理由一つでさえ知らされたことはなかった。私たちは引っ越さなければならなくなった、とその一言だけを私に向けるばかりだった。
私も成長とともにその訳を追求してはいけないのだと、頭の片隅で理解するようになった。なんとなく、その理由に父が結びついている気がしたからだ。あくまであたしの推測の域に過ぎないのだが、借金返済の催促が祖父母に向けられていたのだろうと思う。だから表向きでは引っ越しと称し、裏向きには逃亡だったのだろう。そういう方が正しい。
祖父母宅で暮らすようになってからも、上京するようになってからも、ベットの上で時折、母が眠る前に語ってくれた昔話を夢で聞いた。母の声などとうに忘れてしまっていて、夢から覚めた時にはその声はどうしても思い出せない。柔らかい声だったような、冷たい無機質な声だったような。不確かなものだった。
その夢はいつも決まって、母がいつも言っていた時と同じように、夢の中でもある言葉で締めくくられている。
「だからね、ママはこの世界には優しい人で満ち溢れていると思うんだよ。だから優しく生きてね。辛くても苦しくても、きっと誰かが気づいてくれるからね」
辛くても苦しくても、きっと誰かが気づいてくれるんでしょう?いつかはきっと。
ママみたいな優しい人がいつかは助けてくれるんだよね。きっと、そうだよね。
じゃあ、どうして優しいママはあたしを置いていったの?
どうして、あたしはこんなに辛いままなの?
ねえ、ママ。答えてよ。

またあの夢を見た。トラウマに近い、でも忘れたくない記憶。これを忘れてしまったら私は何か大切なものを失ってしまうような気がして怖くなる。今更、母を想う気持ちなど残っていないはずなのに。
前職のせいでできあがった体内時計はたった数日程度では崩れることなく、今日もぴったり四時半に目が覚める。気がつけばそれを苦に思う気持ちはなくなっていた。慣れというものは恐ろしい。どれだけ眠りにつく時間が遅くとも、この早朝に目が覚める。上司に怒鳴り散らかされることを思うと余計に目を覚まさざるを得なかった。
横で微かな寝息が聞こえる。
昨日のことは夢のようだった。現実離れした朧気な記憶が残っている。所々が曖昧で、本当は夢だったのではないか、テレビドラマだったのではないか、小説だったのではないか。そんな実感が湧く。
生きててくれて本当に良かったと心からそう思う。紛れもない素朴な事実で、ありのままで受け取ってほしいと、結生には思う。難しくても、少しずつ前に進んで行ってほしい。結生は強い。あたしは分かってる。
ただ、このままあたしが結生に関わっていくことで彼女は本当に成長できるのだろうか。
あの時の結生の言葉が脳裏に蘇る。
『私、早苗さんとここで暮らしたい』
その言葉がどこまでが冗談で、本気なのか分からない。少なくともあたしには冗談を言っているようには見えなかった。
あたしも結生と居ると楽しいし、安心する。でも、このまま感情だけで行動して結生と暮らすことになったら私たちはどうなる?
結生は当然、元の生活には戻りたくないはずだ。あの意思が変わったとしても、元の生活に戻りたいかどうかは別だ。あたしだって仕事を辞めてしまって、今は手に職がない状態。これから就職活動を始めなければならない状況なのは分かっている。でも、働くことは面倒くさいし、嫌なこともたくさんある。二人でいると────必然的に互いが一番の存在になってしまう。
どちらかが欠けた時、それはどちらかが壊れてしまう時でもある。振り出しに戻るなんて御免だ。あたしたちは強く生きなければならない。これまでの成長を無駄にはしない。
布団が動く柔らかい音がする。隣で結生が寝返りを打った音だった。その穏やかな寝顔を見ていると道を間違えそうになる。あたしたちは離れたところで、それぞれが前に進む。
結生とは連絡先を交換しておこう。そうすればいつかまた会える時が来る。でも、それは今じゃない。いつか、また。
結生は自分のスマホを持ってきていた。充電もある。なかったとしたら誰かにモバイルバッテリーを貸してもらえばいい。誰かを頼ればいい。帰りは結生一人で大丈夫だ。
スマホで帰りの特急電車の時刻を調べる。あたしは結生が起きる前にここを去って、家に帰る。そして心機一転して新しい生活に挑む。前を進まなければいけない。
結生には驚かせてしまうかもしれない。それでもあたしはこの選択が正しいと信じている。これがあたしの決めた道だ。
身支度を整えて、机にルームキーを見える位置に置く。僅かにまだ湿りっ気のある靴に足を通す。結生のいる方を一瞥してからドアノブに手をかけた。

目が覚めると早苗さんがいなかった。
隣のベットにも、洗面所にも、館内にも、この町にも、どこにもいなかった。
最低限度の身なりを整えて部屋を飛び出して探し回った。昨日と同じように走り回った。けれど、早苗さんはどこにもいない。
もしかすると、入れ違いになって部屋に戻っているのではないかと考えて部屋に戻るも、やはり早苗さんはいなかった。
私を置いて帰った。取り乱す気にはなれなかった。涙も出ない。ただ喪失感だけが私に残った。
今日でここを出ていかなければならない。私には今日を滞在するお金がない。帰るお金もない。
ふと机のルームキーと一枚のメモが目に入る。慌てて部屋を飛び出したせいで、ルームキーの存在を忘れていたし、それにこんなメモも目に入らなかった。こんなメモは昨日、見た時にはなかったはずだった。
メモに書いてある文字を読む。
『先に帰ります。ここで一緒に暮らしていくことは難しい。ごめんね。あたしにも結生にもこれからそれぞれの生活があって、未来がある。だからお互いに前を向いて進んでいきたい。それに連絡先を知っていればまたいつか会えるでしょ?だからまたいつか会おうね。机にルームキーと結生の帰りの交通費を置いています。気をつけて帰ってね。』
メモの下敷きとなってお金が置いてあった。メモに書かれていたお金だった。
涙が溢れた。どうして私を置いていったの、私を裏切った、ずっとそばで支えてほしかった。そういった種類の涙ではなかった。私はこれから早苗さんと離れた場所でそれぞれが前を向いて生きていく。その覚悟ができて、私は今度こそ前を向いて生きていける気がした。希望が涙となって溢れ出したのだ。
世界には早苗さんのような優しい人がいる。早苗さんだけでなく、切符売り場で困っていたら助けてくれたお婆さん、優しく微笑みかけてくれた従業員さん。この世界には優しい人がたくさんいる。それを忘れてはならない。
帰ろう。私の家に。
荷物をまとめて、ルームキーを片手に部屋を出た。ロビーにてルームキーを返却する。滞在費は既に早苗さんが支払ってくれていた。次に会った時に直接礼を言いたい。
「結生!」
美奈が私を呼ぶ声に振り返る。正直言って驚いた。昨日の会話っきり会ってはいなかったし、話を中断して外に飛び出したものだから少なからず悪い印象を与えたと思っていた。だが、話しかけてくるということは、私が感じていたものとは違うらしい。
「美奈……」
久しぶりに美奈の名前を呼んだ。言葉の歯切れが悪い。
「あの……中学の時はごめん。本当に私、結生に酷いこと言って。私の好きだった人が結生のことを好きで、それで私嫉妬して……勉強もできて運動もできて、いろんな人から好かれてる結生が羨ましくて……」
不安の色が目に浮かんでいる。言葉も途切れ途切れで、美奈がどんな思いで話しているのかが分かる。
瞳が小さく揺れた。
「いいよ」
「私、本当はあんなこと思ってない。思ってないこと口にして、すごく後悔してて、ずっと謝りたかった。本当にごめん」
「そんなに謝らないで?私と美奈の仲でしょ?また仲良くしようよ」
「本当に?いいの?」
「勿論だよ」
「ずっとごめんね。それからありがとう」
互いの連絡先を交換して、私たちはその場を別れた。
太陽が今日も世界を照らし続ける。今日は快晴だった。私の新しい第一歩に相応しい快晴。もっと世界に目を向ければ良かった。世界はこんなにも明るいのに。
一粒の涙が頬を伝った。
袖で乱暴に拭って、太陽の眩しさに瞼を閉じた。