身体が怠い。足取りもおぼつかなく、視界も蜃気楼のように揺れ動いている。歩くことが辛い。どこか涼しいところで横になりたい。身体が、心が受け続ける苦痛に音を上げていた。
自分が先程から何をしていたのか忘れてしまいそうになる。何故、ここにいるのか。ここで何をしているのか。
気怠い脳で思い返す。
上司に怒鳴られながら半ば強制的に取引先との接待を命じられて、猛暑の中を歩いて向かった。そして不満気な表情と皮肉を浴びせられて、今は会社へ帰る途中だった。
結果は勿論、失敗だった。何故ならば、前回の取引であたしに命令を下した上司が、取引先相手に対して失礼を働いていたからだ。大失言をかましたらしい。最悪だ、と唇の裏で落胆を零す。
女だから媚でも売ったら契約もぎ取れるだろ、となんとも理不尽で腹立たしい言葉と共に会社から放り出された。あの一言は少々頭にくるが、反抗できるはずもなく泣く泣く無言を貫くしかなかった。
新卒社会人一年目にして、あたしはもう限界を感じていた。毎朝四時三○には起床し、一番乗りで会社に出勤。皆勤賞を貰っても可笑しくはない。前日に上司に押し付けられた膨大な量の仕事が片付いていないためそうせざるを得なかった。そんな状況がもう数ヶ月続く。
営業部に配属されてしまったことが不運だったと思う。だが、他の部に配属されたとしても同じような運命を辿っていたのだろうか、とそんな気がしてくる。
配属したての頃はこんなことになるとは思いもよらなかった。少しぶっきらぼうな態度の上司、としか思っていなかったのが、今やストレスの捌け口にされてしまっている。
どうして。一体、何を間違えたのだろう。
学生時代は真面目に一生懸命に取り組んで、幾らか成績を収めれば上手くいっていたのに。学生と社会人は違う。そんなこと分かってはいたけれど、こうも大差あるものなのだろうか。それにどうして優しい人がいないのか。優しい人が必ずいつかは助けれくれるはずなのに、どうしてあたしはこんな苦しみを絶えず受け続けているのか。社会はこんなにも残酷なんだってことを誰かが教えてくれたら良かったのに。
ついには立っていることさえも辛くなり、よろよろと道端に座り込んだ。磨かれた石の感触がする。幸いにも都会っていう場所は建物が多い分、日陰も多いため座り込んだ場所は日陰だった。冷たい感触が手に伝わる。幾分かは身体が楽になった気がした。
しかし、今度は吐き気が催されてきた。脱水症状のせいだろうか。それとも上司から途方もなく与えられるストレスのせいだろうか。はたまた、両方か。
水分補給なんて今は到底できない。追い出されるも同然に会社を飛び出してきたため、必要最低限のものしか持ち合わせていない。重要書類に自分の名刺、ノートパソコンに筆記用具。使えそうな物は依然としてない。
精神的にだけでなく体調まで悪くなってくると流石に泣きそうになる。上京した身のため頼れる人なんていないし、お金もない。自然と大きな溜息が出た。
仕方がないから会社に戻るしかない。
通り過ぎゆく人々はこの状態の私を見てどう思うのだろう。酔っ払いにしてはこんな真昼間からと不自然に思って熱中症なのではないか、と誰か気づいてはくれないものだろうか。都会では真昼間に飲酒をすることは日常茶飯事なのか。あたしみたいな上京したてで、馴染めない田舎者にはそんなこと知り得ない情報だ。もう助けを求める気力すら残されてはいなかった。
ずっと項垂れていた。どれ程の時間が経ったかなんて分からなかった。夢を見ていたのかそれとも白昼夢を見ていたのか、何かしら現実的ではない幻想的な何かを気怠い脳で考えていたような気がする。それがどんなものだったのかは覚えていない。
ふと思い出す。私は今、仕事中でありこんなことをしている場合ではない。急いで会社に戻らなくてはならない。そうでないと上司に叱責されてしまう。いつまで道草食ってんだ、と。それに急いで戻ったとしても結果が最悪なものには変わらないためどの道、不遇な未来しか待ち受けていない。気が滅入ることしかない。
自分がこんな状況に追いやられていても考えてしまうのは仕事。そんな自分にも嫌気がさす。
もう疲れてしまった。仕事だけでは飽き足らず、生きることにも。毎日、会社と自宅の往復で休日は疲労感から寝てばかり。趣味も、生きがいも何もない虚しい生活が繰り返されるばかり。もういっそ死んでしまおうか。
「あのう……」
誰かの声が聞こえる。声はあたしから近いところにあった。もしかして、紛れもないあたしに声がかかっているのだとしたら……。
声に反応して顔を上げると、そこには胸元に青いリボンを身につけたセーラー服を身に纏う女子高生がいた。視線はあたしにあるようだ。危うく無視してしまうところだった。
何の用だろうか。知り合いでもないし、取引先でもない。ここ一帯の清掃員であたしが清掃の邪魔になるから、でもそうだとしたら格好がまず可笑しい。
「大丈夫ですか?さっきからずっとうずくまってたので気になってしまって。体調不良とかですか?もしかして……熱中症とか。少し顔が赤い気が……」
女子高生の表情は冷静さを保っていたが、口調から僅かに不安を抱えながら恐る恐る話しかけてきたことが分かった。それにしても優しい人だ。見ず知らずの人にもかかわらず心配で声をかけるなど、あたしも見習いたいくらいだ。
女子高生は手に持っていた土産袋の中からミネラルウォーターを取り出してこちらに手渡した。
土産袋を目にして彼女が修学旅行生だということに気づく。ここらの学生ではないらしい。あたしと同じように田舎の学生だったりするだろうか。
「これ買ったんですけど、やっぱり要らなかったなって丁度、思ってたところだったので良かったらどうぞ。勿論、新しいやつなんで心配しなくても大丈夫ですよ」
さっきよりも幾らか表情が綻んでいるように見える。猛暑で暑いはずなのに、まるで涼しいと言わんばかりの清々しい表情。あたしよりも余程、大人だった。
「ありがとうございます」
明らかにこちらの方が年上だが、彼女のどこか大人びすぎている雰囲気につられて思わず敬語で礼を言った。受け取ってから一度は断った方が社会人としてのマナーだっただろうか、なんて考えた。
女子高生からミネラルウォーターを受け取る。まだ冷たさが残っており、手に水滴がつく。首にあてるとその冷たさが心地よかった。
女子高生は私と同じように地面に腰を下ろした。私はその側でもらった水をがぶ飲みする。水滴が手を伝って手首に流れ込む。スーツが所々、色濃く滲んでいた。
体内に冷水が取り込まれると、内側からみるみると活力が戻ってくる感じが自分でも分かる。体調は随分と回復に近づいていった。それに暖かい優しさに心が救われた気持ちになった。
「お仕事大変そうですね」
「……へえ?」
回復に近づいたと言っても、まだ万全には至っていないため頭の回転はいつもよりかは劣っている。なんとも間の抜けた声を出してしまった。恥ずかしさがふつふつと湧き上がるが、一応、私の方が女子高生より大人のため大人の無駄な意地でグッと堪え、平常心を顔に浮かべる。
「まあね。あたしってそんなに疲れた顔してる?」
見ず知らずの女子高生に何を聞いているんだ、私。
「ええ、まあ。しんどそうな顔してましたよ」
「やっぱりそうか。……あたし、こういうところで働いてるんだ」
そう言って、あたしは胸ポケットから一枚の紙切れを取り出して女子高生に渡す。名刺だ。
女子高生はそれを受け取って 「へえ、営業部、ですか。やっぱり大変そうですね」とあたしの部署名を読み上げて言った。
「私もあと、数年で作らなくちゃいけないのか……働くって大変なことなんだ」
「まあ。あたしの場合は上司が本当に怖い人だし、一生怒られっぱなしで頭下げてるし、罵詈雑言の嵐だし。今日も暴言浴びせられ、ほぼほぼ追い出されてきたようなもんだよ。もう本当に全部辞めちゃいたいなー」
自虐気味に言う。誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。しかし言い切ってから我に返った。まだ社会に出ていない女子高生にこんな話は良くなかっただろう。それに大の大人がまだ、こんな未熟な女子高生に愚痴をこぼすなんて顔が立たない。やってしまった。
「ごめん。今の忘れて」
急いで言葉を取り消そうとする。
「いや、それってただのパワハラじゃないですか?」
「え?」
思わぬ返しに戸惑う。
パワハラか。言われてみれば確かにそうだ。なんでもっと早く気づかなかったのだろう。いや、正確にいうと気づいてはいた。だが、パワハラされているなんて誰に言えたものだろうか。でも、そうやって何かと言い訳をつけて自分の印象を守っていたかったのだろうか。
社会で上手くやっていくためには上司に気にいられることが必要不可欠だと思っていた。 上司だけでなくこれからできるであろう部下にも、だ。だが、その結果が上司の言いなりの言われっぱなしになって毎日、奴隷のように扱われることなのか。
あましには変わる勇気がない。多分、いや一生、このままパワハラに耐える日々を送っていくのだろう。
「確かにパワハラかもね。でも、仕方ないよ。変われない私のせいなんだから。多分、ううん。一生、このままなんだろうな」
情けなかった。こんなたまたま偶然に声をかけてくれた女子高生に愚痴をこぼして、上司からパワハラを受けていることを自覚しながらも現状を変える勇気がないことを白状し、自分の体調管理すらできずに介抱してもらって本当に情けなかった。彼女の顔など見れるはずもなかった。
泣きたかった。だが、そうしてしまえばそれこそ自分の情けなさが浮き彫りになってしまう。あたしは何を間違えたから今こうなってしまったのだろう。誰か教えてよ。
「無理しなくていいんですよ。辞めたかったら辞めてしまえばいい。自分を犠牲にしてまでその会社にいるメリットなんかないです。勇気を出して上に報告しましょう?」
女子高生の柔らかな言葉に肩の荷がおりた気がした。今の言葉だけでこんなにも心が軽くなることがあるのか。あたしには到底真似できない。彼女みたくそんな強さは残念ながら持ち合わせていない。
スーツに二粒の雫が落ちた。スっと広がって消えていく。女子高生には汗ということにしておいてほしい、と心の中で願う。
辞めたかったら辞めてしまえばいい、か。あたしにそんな勇気があるのだろうか。そんな勇気があったら今、こんな状況にはなっていないとも思うが。
「私あたしにはできないよ。そんな勇気ないから」
ひ弱な自分が潜んでいた。情けなくて向き合いたくない自分だ。
「あなたならできますよ。絶対に」
「そんなの君には分からないよ」
「わかりますよ。あなたなら絶対にできる。私はそう信じているから」
力強い眼差しだった。これ以上の根拠を必要としない信念だった。どうしてそう言い切れるのか。これ全てあたし次第の問題なのに。どうしてそこまで、あたしを信じることができるのか。
彼女の想いに絶対に答えたい。そう強く思った。彼女の勇気が私に流れ込む。
「ちょっと結生ー。集合時間遅れるよー」
遠くの方から女子高生の友達であろう女の子がこちらの方に向かって叫んでいた。
その女の子は私には中学生に見えた。幼い顔立ちでまだまだ未熟に見える。あたしが言えたものではないかもしれないが。
「今行くー!」
女子高生は元気よく返事をすると颯爽と立ち去ろうとする。振り向いてあたしに言う。
「諦めないでください。あなたは絶対に大丈夫ですから」
女子高生はそう言って、友達の元へと走り去っていった。スカートが蝶みたいにヒラヒラと揺れ動いていた。
女子高生の周囲には中学生がたくさん集まっていた。土産袋を持つ中学生がガヤガヤ騒ぎ立てる。
「ああ、そうか。あの子、中学生だったんだ。大人っぽいから高校生かと思っちゃってたよ」
彼女ともっと話してみたかったと思った。
「優等生でいればみんなが満足するって本気で思ってるの?」
予定外にも私の物語は続く。宮田早苗という一人の登場人物によって、空想の話が作り上げられる。
手摺にかけていた足を地面につける。
「何が言いたいの?」
質問を質問で返す。
彼女の言葉が何を意味しているのかが分からない。挑発めいたその言葉は一体、私に何を言いたいのか。早苗さんは優等生を嫌う奴がいるなんて、本当に思っているのだろうか。
クラスメイトからも先生からも信頼を得て、何のわだかまりも生まれることなく塩梅に過ごしてきた。喧嘩に巻き込まれることもなかった。喧嘩を起こすことなんてもってのほか。
「あたしはあんな嘘くさい笑顔貼り付けた優等生なんか大っ嫌いだね。自分の気持ちや意見は二の次で、周囲に気に入られることしか考えていない。周囲の奴らばっか気にかけて自分が我慢するなんてはっきり言って、ただの馬鹿だな!自分は自分だ!他人なんかいちいち気にしなくていい。どうせ、社会に出ても上司とかに頭垂れて、へりくだって翻弄される。そんな馬鹿げたことをするくらいなら自分らしく生きろ!」
早苗さんは軽々と言い放った。しかし、その言葉に含まれる意味は鉛のように重い。私はそんな重圧に耐えられない。
負けじとその言葉に楯突く。
「私だって、本当はもっと誰かに自分を理解してほしいって思うし、もっとありのままの自分でいれたらいいなって思うよ。でも……」
言葉が途切れた。声が掠れて、言葉を発することを拒む。これもまた、私が囚われ続けている人に対する猜疑心と恐怖心からなのか。どこまでも私を縛り付ける。
ありのまま生きれたら────
分かっている、そんなことくらい。勇気があれば私の人生は今頃、著しく変化していただろう。だが、実際はこの有様なのだから。もうどうしようもなかった。私も誰もどうすることもできない。選択肢は初めからたった一つだけだ。諦める。それだけなんだ。
「……できない」
弱々しく、力ない言葉だった。
楯突く気持ちも言葉も、覇気のない言葉と一緒に霧消していった。
何度も当たっては砕かれてきた。少しでも素を出そうものなら後々から酷く後悔してタラレバを繰り返した。やっぱり辞めておけばよかった、と。こんなことするんじゃなかった。誰かから憎まれたらどうしよう。悪く思われてしまったらどうしよう。不安で胸が張り裂けそうだった。
「この世界の人たちは絶対に、結生を憎んではいない。絶対に。信じて」
信じて。
真っ直ぐな言葉だった。取り繕われていない素朴な言葉。彼女の意思がどれ程までに強いのかを痛感させられる。痛い程に伝わってくる。
なんの根拠もない説得力に欠ける言葉だ。しかし、彼女の情熱が私の胸を貫いた。理由がなくても正しいと、信じたい、と思うことがあってもいいと思う。
「それにみんなから好かれる人間なんてこの世には存在しない。人間なんてものは十人十色なんだから。優等生がみんなから好かれると思ったら大間違いだ。優等生っていう立場を妬む人だって、真面目さを嫌う人だって、少なからず存在する。だからみんなから好かれる必要なんてないよ」
早苗さんの言うことには一理あるうえ、私も本当は頭の片隅では理解している。だが、理由をつけていないと私は惨めになってしまう。それを認めてしまえば、私は勇気が出ないただの愚か者。
「そんなことくらい分かってるよ!でも、どうしても人が怖い。誰も信じられないよ。私の嘘は私を守るためでもあるの。だけど、その私を守るための嘘が同時に私を苦しめる。自分を偽ることが安心で不安で。もうどうしたらいいのか分からないよ!私はたった一人。私は私なのに!」
十六歳の少女の紛れもない本音だった。ただ、矛盾を抱えて生きる少女。少女にとってはあまりにも大きすぎる苦悩だった。誰も救えなかった。
涙が本音と共に溢れた。人前で泣くのはいつぶりだろうか。いつからか、人前で泣いたりして弱みを見せてしまうと、それもまた悪いように利用されるのではないかと恐れ、躊躇してきた。面倒くさい奴だとか、弱虫だとか、毒を吐きつけられる気がして仕方がなかった。
苦しかった。矛盾ばかりを抱えて葛藤する毎日。私の居場所なんてどこにもなかった。居場所があるように見えているそこは、本当の私じゃない誰かの居場所だった。私の理想で、創りものの私。幻だった。
「結生!」
視線を早苗さんに向ける。
「人のことなんか気にするな!」
「私にはそんな勇気ないよ!」
彼女の言葉を跳ね除ける。私はやはり頑固なのだ。そんな簡単に人の、たったそれだけの言葉でコロッと自分を変えることはできない。植え付けられたものは、そう簡単に引っこ抜くことはできない。
「やっぱり人が怖い」
「世の中そんなに悪い人ばっかじゃないよ」
「それは……早苗さんが強い人だからそう思うだけでしょう?私は早苗さんみたいに強くなれない。いつまで経っても弱虫のまま」
私には勇気がないから。その一歩がどれ程、大きなものであるかを私は知っている。私は主人公なんかじゃない。主人公ならば困難に立ちはばかったときに勇気を奮い立たせて、向き合うことができるだろう。だが、私にはそんなことはできない。
所詮は脇役で、どうせヒロインの友人Aというポジションでしか生きることのできない存在に違いないのだ。
早苗さんと私は違う。私だって早苗さんみたいに強く生きられたら良かった。
「 どうしてそんなに強く生きれるのよ」
率直な疑問を投げかける。
私も早苗さんのような性格で生きることができたら世界は見違えるだろう。早苗さんのような人になりたかった。
「別に、あたしは強くなんかないよ。結生みたいに優しい人になりたいだけなの。結生のおかげで少しは変わることができた。前の弱いあたしに逆戻りなんてしたくない。強く生きたい。そう思って生きているだけ」
早苗さんは一瞬、泣きそうな顔をした。今もまだ、微かに瞳が小さく揺れ動いている。感傷の色が浮かんで消えない。私の知っている早苗さんではない。
早苗さんは自分が今、どんな表情をしているのかに気づいたのか、再びいつもの顔に戻る。
その時、私は分かった。早苗さんも私と同じように取り繕っている。私が見ていた早苗さんは表で、まだ私の知り得ない裏がある。実際には早苗さんは強いだけの人間ではない。裏の弱さの上に成り立った表の強さ。その裏を見せるかどうかは自分次第。
結局は早苗さんも私も似た者同士だったのだ。それに気づいた瞬間、早苗さんと私を分ける最後の隔たりが崩壊した。さっきまでの流れとは到底考えられない具合に、いとも簡単に壁はなくなった。
「何か話そうとしているみたいですけど、話したくなかったら話さなくていいんですよ。早苗さん、さっき嘘くさい笑顔とか言ってましたけど、結局はあなたも私と同じじゃないですか。無理して笑って馬鹿みたい。私の前ではそんなことしないで」
あっさりと私たちの緊張の糸が切れる。
「あたしはパワハラに耐えられなくて死のうとしたことがある」
「パワハラ、ですか。それはどういった?あ、いや、思い出したくないと思うんでやっぱり話さなくていいです。今のなし」
早苗さんがふっと笑った。
「ううん。もう大丈夫だから。罵詈雑言吐かれたり、仕事押し付けられたりしてた。ずっと耐えるしかないんだって思い込んでた」
「そうなんですか……」
想像できなかった。それにそんな現状があったこと、想像したくもなかった。
だから、さっき上司の話を不意に持ち出したか。不意に気づく。
「だけど、ちゃんと変われたよ。今のあたしが強いかどうかは分からない。でも、確実に結生のおかげだよ。強く見えるのは。結生がいなかったら今のあたしはいない」
あれ、何かが可笑しい。彼女の発言に違和感を抱き始める。私が早苗さんを強くしたとはどういうことだろうか。この数日で彼女の人生を劇的に変えるようなことをした記憶は全くない。早苗さんは相変わらずの明るい性格で、思い当たるような変化は微塵もない。辻褄が合わない。一体、どういうことだ。
「私は別に何もしてませんよ。この数日間で何か早苗さんのためにしたかと言われてもそんな記憶はないです。それに……助けられたのは私の方なのに」
「結生にとってはそこまで気にとめないことだったのかもしれないけど、あたしは本当に嬉しかったし、救われた!みんなはあたしを見ても素通りするだけだったのに、あなたは立ち止まって介抱して、寄り添ってくれた」
立ち止まる?介抱?一体なんの話だろうか。私は彼女の面倒を見た記憶など全くない。誰の話をしているのだろうか。やはり、いろいろ可笑しな点がある。
戸惑いは消えることなく、彼女の話は進む。
「わざわざ水を買いに行ってくれたことだって本当に嬉しかった。実はあたし、気づいてたんだよ。あれって本当はわざわざ買ってきてくれてたんでしょ?」
「待ってください」
彼女の話を遮る。
失礼なことしてしまったのでは、と脳裏に過ったが、今は自分が持つ疑問の答えを明らかにしたかった。
早苗さんは、頭にはてなマークを浮かべているが、はてなマークを浮かばせたいのはこちらの方だ。なぜならば、本当にそのような記憶がないからだ。
いつの話なのだろうか。私たちは出会って数日の仲だ。今日に至るまでにずっと一緒にいたが、そんなことは何もしていないし、そんな状況ですら作られていない。
早苗さんは先程からずっと私によく似た誰かの話をしているに違いない。だとしても、いつそんな出来事が起こったのだろう。
「それは誰の話で、いつの話なんですか?私は水を買いに行ったり、早苗さんを介抱したりした覚えはないですよ。いつの話なのか分からないですけど、私と出会う前の話をしているとしたらその人物は私じゃないですよ。だってつい先日知り合ったんだから」
早苗さんは唖然としている。ショック、とでも言うかのようだ。そんな表情に見える。それすらも私にはよく分からない。
私には一体何がどうやら……早苗さんが記憶の手違いを起こしているに違いないとしか言いようがないように思える。
「えっ?覚えてないの!?」
「覚えてないも何も、私はそんなことをした記憶なんて……」
そんなことをした記憶はない、と言いかけて何かを思い出す。ここ数日間の記憶ではない。もっと前の記憶だ。
早苗さんと目が合う。彼女のあの可愛らしい笑顔は以前、どこかで見たことがある気がする。最近の記憶ではない。もっと数年前の記憶のような────
欠落した記憶がパズルピースとなって埋め込まれていく。さっきまでのことが嘘みたいに、パズルに完成の兆しが見えてきている。
気づけば雨は止み、夕日の光が雨雲の合間から射し込んでいた。早苗さんの言う通り、通り雨のようだった。
夕日の光は美しく早苗さんを照らしている。飛騨川も早苗さんには劣るが、水が煌めいてその美しさを主張していた。
早苗さんは眩しさから光を遮るように夕日に向かって手を向ける。美しいその光景は様になっている。美術館の絵画のような光景だ。
思わず目を奪われる。まだ、微かに涙が残る瞳がそれを捉え続ける。
ふと、どことなく既視感を感じた。そしてその正体はすぐに明らかになる。
この光景を私は以前に見たことがある。はっきりと鮮明に思い出した。創りものでもない紛れもない真実。
確か、あれは中学生の時の修学旅行。私は観光客として東京に訪れて、偶然にも早苗さんと出会った。そして会話を交えた。早苗さんはスーツ姿だったような気がする。数日前に私たちが再会したときのようなスーツ姿だった。恐らく昼頃だろう。
徐々に欠落していた記憶が蘇ってくる。
「まだ思い出さない?」
彼女の笑顔が最後のピースを埋めた。
そうだ、思い出した。
一番大切である核心の記憶が舞い戻る。
あの時の早苗さんは熱中症なのかぐったりと道端に座り込んでいた。そしてそれに私が声をかけて、自動販売機で買ったミネラルウォーターを渡した。それから彼女の仕事の話をして……
「思い出した!」
思い出したことが嬉しくてつい、大きな声を出してしまった。咄嗟に口元を手で抑える。
早苗さんがくすくすと小さく笑っている。子供っぽいと思われているのだろうか。
「やっと思い出してくれたんだ。ていうか、知ってて一緒に着いてきてくれたのかと思っちゃってた」
「全然忘れてましたよ」
「酷いなー」
頬を膨らませてこちらを見ていた。早苗さんの方が子供っぽい、と思った。
「会社で見かけたときは本当に焦ったよ。あの時の子だって喜んで声をかけようとしたら、今にも死にそうな顔してエレベーターに乗っていくんだもん。屋上に行くんだろうってすぐに予想がついた」
あの時は多くの不審な目が私を向いていたため早苗さんの視線には気づかなかった。一刻も早くあの場面を切り抜けたかったから仕方がない。
「そんなに絶望に打ちひしがれた表情をしてたんですか、私は。お恥ずかしい」
「まあね。それに屋上はあたしが上司にムカついた時に施錠されてあった鍵を壊しちゃって普通に入れたから余計に焦った」
あの時の違和感はここに繋がっていたのか。
「あれって早苗さんが壊してたんですね。誰かが壊したんだろうなって思ってましたけど、まさか早苗さんが壊していたなんて……」
驚きもあったが、早苗さんがどうやってあれを破壊したのかが少し気になった。まさか、力づくで、なんてはないことを想像したいところだ。詮索は辞めておこうと思う。
「あたしって本当に運がないから一つ目のパワハラされてたところを辞めて、次の会社に入社したらまた、パワハラされて。まあ、それは結生と再開した会社のところなんだけどね。だから大目に見てあげようかな」
「ついてないですね、本当に」
つくづく気の毒な人だ。今回みたいに私に首を突っ込んで、苦労人なんだと思う。
「まあでもね、結生と再開できたんだからもうなんだっていいんだよ!」
「はいはい」
照れくさくなって雑に返事した。
夕日が沈んで辺りは飛騨川の音だけが響いていた。今、この空間に早苗さんと私、私たち二人の世界だった。
「帰ろっか」
早苗さんの一言に頷いて旅館の方に足を向けた。
このまま時間が止まればいいのに。ずっと続いてほしいと夕日に向かって願った。
「私、早苗さんとここで暮らしたい」
早苗さんはこちらを見て微笑んだ。
自分が先程から何をしていたのか忘れてしまいそうになる。何故、ここにいるのか。ここで何をしているのか。
気怠い脳で思い返す。
上司に怒鳴られながら半ば強制的に取引先との接待を命じられて、猛暑の中を歩いて向かった。そして不満気な表情と皮肉を浴びせられて、今は会社へ帰る途中だった。
結果は勿論、失敗だった。何故ならば、前回の取引であたしに命令を下した上司が、取引先相手に対して失礼を働いていたからだ。大失言をかましたらしい。最悪だ、と唇の裏で落胆を零す。
女だから媚でも売ったら契約もぎ取れるだろ、となんとも理不尽で腹立たしい言葉と共に会社から放り出された。あの一言は少々頭にくるが、反抗できるはずもなく泣く泣く無言を貫くしかなかった。
新卒社会人一年目にして、あたしはもう限界を感じていた。毎朝四時三○には起床し、一番乗りで会社に出勤。皆勤賞を貰っても可笑しくはない。前日に上司に押し付けられた膨大な量の仕事が片付いていないためそうせざるを得なかった。そんな状況がもう数ヶ月続く。
営業部に配属されてしまったことが不運だったと思う。だが、他の部に配属されたとしても同じような運命を辿っていたのだろうか、とそんな気がしてくる。
配属したての頃はこんなことになるとは思いもよらなかった。少しぶっきらぼうな態度の上司、としか思っていなかったのが、今やストレスの捌け口にされてしまっている。
どうして。一体、何を間違えたのだろう。
学生時代は真面目に一生懸命に取り組んで、幾らか成績を収めれば上手くいっていたのに。学生と社会人は違う。そんなこと分かってはいたけれど、こうも大差あるものなのだろうか。それにどうして優しい人がいないのか。優しい人が必ずいつかは助けれくれるはずなのに、どうしてあたしはこんな苦しみを絶えず受け続けているのか。社会はこんなにも残酷なんだってことを誰かが教えてくれたら良かったのに。
ついには立っていることさえも辛くなり、よろよろと道端に座り込んだ。磨かれた石の感触がする。幸いにも都会っていう場所は建物が多い分、日陰も多いため座り込んだ場所は日陰だった。冷たい感触が手に伝わる。幾分かは身体が楽になった気がした。
しかし、今度は吐き気が催されてきた。脱水症状のせいだろうか。それとも上司から途方もなく与えられるストレスのせいだろうか。はたまた、両方か。
水分補給なんて今は到底できない。追い出されるも同然に会社を飛び出してきたため、必要最低限のものしか持ち合わせていない。重要書類に自分の名刺、ノートパソコンに筆記用具。使えそうな物は依然としてない。
精神的にだけでなく体調まで悪くなってくると流石に泣きそうになる。上京した身のため頼れる人なんていないし、お金もない。自然と大きな溜息が出た。
仕方がないから会社に戻るしかない。
通り過ぎゆく人々はこの状態の私を見てどう思うのだろう。酔っ払いにしてはこんな真昼間からと不自然に思って熱中症なのではないか、と誰か気づいてはくれないものだろうか。都会では真昼間に飲酒をすることは日常茶飯事なのか。あたしみたいな上京したてで、馴染めない田舎者にはそんなこと知り得ない情報だ。もう助けを求める気力すら残されてはいなかった。
ずっと項垂れていた。どれ程の時間が経ったかなんて分からなかった。夢を見ていたのかそれとも白昼夢を見ていたのか、何かしら現実的ではない幻想的な何かを気怠い脳で考えていたような気がする。それがどんなものだったのかは覚えていない。
ふと思い出す。私は今、仕事中でありこんなことをしている場合ではない。急いで会社に戻らなくてはならない。そうでないと上司に叱責されてしまう。いつまで道草食ってんだ、と。それに急いで戻ったとしても結果が最悪なものには変わらないためどの道、不遇な未来しか待ち受けていない。気が滅入ることしかない。
自分がこんな状況に追いやられていても考えてしまうのは仕事。そんな自分にも嫌気がさす。
もう疲れてしまった。仕事だけでは飽き足らず、生きることにも。毎日、会社と自宅の往復で休日は疲労感から寝てばかり。趣味も、生きがいも何もない虚しい生活が繰り返されるばかり。もういっそ死んでしまおうか。
「あのう……」
誰かの声が聞こえる。声はあたしから近いところにあった。もしかして、紛れもないあたしに声がかかっているのだとしたら……。
声に反応して顔を上げると、そこには胸元に青いリボンを身につけたセーラー服を身に纏う女子高生がいた。視線はあたしにあるようだ。危うく無視してしまうところだった。
何の用だろうか。知り合いでもないし、取引先でもない。ここ一帯の清掃員であたしが清掃の邪魔になるから、でもそうだとしたら格好がまず可笑しい。
「大丈夫ですか?さっきからずっとうずくまってたので気になってしまって。体調不良とかですか?もしかして……熱中症とか。少し顔が赤い気が……」
女子高生の表情は冷静さを保っていたが、口調から僅かに不安を抱えながら恐る恐る話しかけてきたことが分かった。それにしても優しい人だ。見ず知らずの人にもかかわらず心配で声をかけるなど、あたしも見習いたいくらいだ。
女子高生は手に持っていた土産袋の中からミネラルウォーターを取り出してこちらに手渡した。
土産袋を目にして彼女が修学旅行生だということに気づく。ここらの学生ではないらしい。あたしと同じように田舎の学生だったりするだろうか。
「これ買ったんですけど、やっぱり要らなかったなって丁度、思ってたところだったので良かったらどうぞ。勿論、新しいやつなんで心配しなくても大丈夫ですよ」
さっきよりも幾らか表情が綻んでいるように見える。猛暑で暑いはずなのに、まるで涼しいと言わんばかりの清々しい表情。あたしよりも余程、大人だった。
「ありがとうございます」
明らかにこちらの方が年上だが、彼女のどこか大人びすぎている雰囲気につられて思わず敬語で礼を言った。受け取ってから一度は断った方が社会人としてのマナーだっただろうか、なんて考えた。
女子高生からミネラルウォーターを受け取る。まだ冷たさが残っており、手に水滴がつく。首にあてるとその冷たさが心地よかった。
女子高生は私と同じように地面に腰を下ろした。私はその側でもらった水をがぶ飲みする。水滴が手を伝って手首に流れ込む。スーツが所々、色濃く滲んでいた。
体内に冷水が取り込まれると、内側からみるみると活力が戻ってくる感じが自分でも分かる。体調は随分と回復に近づいていった。それに暖かい優しさに心が救われた気持ちになった。
「お仕事大変そうですね」
「……へえ?」
回復に近づいたと言っても、まだ万全には至っていないため頭の回転はいつもよりかは劣っている。なんとも間の抜けた声を出してしまった。恥ずかしさがふつふつと湧き上がるが、一応、私の方が女子高生より大人のため大人の無駄な意地でグッと堪え、平常心を顔に浮かべる。
「まあね。あたしってそんなに疲れた顔してる?」
見ず知らずの女子高生に何を聞いているんだ、私。
「ええ、まあ。しんどそうな顔してましたよ」
「やっぱりそうか。……あたし、こういうところで働いてるんだ」
そう言って、あたしは胸ポケットから一枚の紙切れを取り出して女子高生に渡す。名刺だ。
女子高生はそれを受け取って 「へえ、営業部、ですか。やっぱり大変そうですね」とあたしの部署名を読み上げて言った。
「私もあと、数年で作らなくちゃいけないのか……働くって大変なことなんだ」
「まあ。あたしの場合は上司が本当に怖い人だし、一生怒られっぱなしで頭下げてるし、罵詈雑言の嵐だし。今日も暴言浴びせられ、ほぼほぼ追い出されてきたようなもんだよ。もう本当に全部辞めちゃいたいなー」
自虐気味に言う。誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。しかし言い切ってから我に返った。まだ社会に出ていない女子高生にこんな話は良くなかっただろう。それに大の大人がまだ、こんな未熟な女子高生に愚痴をこぼすなんて顔が立たない。やってしまった。
「ごめん。今の忘れて」
急いで言葉を取り消そうとする。
「いや、それってただのパワハラじゃないですか?」
「え?」
思わぬ返しに戸惑う。
パワハラか。言われてみれば確かにそうだ。なんでもっと早く気づかなかったのだろう。いや、正確にいうと気づいてはいた。だが、パワハラされているなんて誰に言えたものだろうか。でも、そうやって何かと言い訳をつけて自分の印象を守っていたかったのだろうか。
社会で上手くやっていくためには上司に気にいられることが必要不可欠だと思っていた。 上司だけでなくこれからできるであろう部下にも、だ。だが、その結果が上司の言いなりの言われっぱなしになって毎日、奴隷のように扱われることなのか。
あましには変わる勇気がない。多分、いや一生、このままパワハラに耐える日々を送っていくのだろう。
「確かにパワハラかもね。でも、仕方ないよ。変われない私のせいなんだから。多分、ううん。一生、このままなんだろうな」
情けなかった。こんなたまたま偶然に声をかけてくれた女子高生に愚痴をこぼして、上司からパワハラを受けていることを自覚しながらも現状を変える勇気がないことを白状し、自分の体調管理すらできずに介抱してもらって本当に情けなかった。彼女の顔など見れるはずもなかった。
泣きたかった。だが、そうしてしまえばそれこそ自分の情けなさが浮き彫りになってしまう。あたしは何を間違えたから今こうなってしまったのだろう。誰か教えてよ。
「無理しなくていいんですよ。辞めたかったら辞めてしまえばいい。自分を犠牲にしてまでその会社にいるメリットなんかないです。勇気を出して上に報告しましょう?」
女子高生の柔らかな言葉に肩の荷がおりた気がした。今の言葉だけでこんなにも心が軽くなることがあるのか。あたしには到底真似できない。彼女みたくそんな強さは残念ながら持ち合わせていない。
スーツに二粒の雫が落ちた。スっと広がって消えていく。女子高生には汗ということにしておいてほしい、と心の中で願う。
辞めたかったら辞めてしまえばいい、か。あたしにそんな勇気があるのだろうか。そんな勇気があったら今、こんな状況にはなっていないとも思うが。
「私あたしにはできないよ。そんな勇気ないから」
ひ弱な自分が潜んでいた。情けなくて向き合いたくない自分だ。
「あなたならできますよ。絶対に」
「そんなの君には分からないよ」
「わかりますよ。あなたなら絶対にできる。私はそう信じているから」
力強い眼差しだった。これ以上の根拠を必要としない信念だった。どうしてそう言い切れるのか。これ全てあたし次第の問題なのに。どうしてそこまで、あたしを信じることができるのか。
彼女の想いに絶対に答えたい。そう強く思った。彼女の勇気が私に流れ込む。
「ちょっと結生ー。集合時間遅れるよー」
遠くの方から女子高生の友達であろう女の子がこちらの方に向かって叫んでいた。
その女の子は私には中学生に見えた。幼い顔立ちでまだまだ未熟に見える。あたしが言えたものではないかもしれないが。
「今行くー!」
女子高生は元気よく返事をすると颯爽と立ち去ろうとする。振り向いてあたしに言う。
「諦めないでください。あなたは絶対に大丈夫ですから」
女子高生はそう言って、友達の元へと走り去っていった。スカートが蝶みたいにヒラヒラと揺れ動いていた。
女子高生の周囲には中学生がたくさん集まっていた。土産袋を持つ中学生がガヤガヤ騒ぎ立てる。
「ああ、そうか。あの子、中学生だったんだ。大人っぽいから高校生かと思っちゃってたよ」
彼女ともっと話してみたかったと思った。
「優等生でいればみんなが満足するって本気で思ってるの?」
予定外にも私の物語は続く。宮田早苗という一人の登場人物によって、空想の話が作り上げられる。
手摺にかけていた足を地面につける。
「何が言いたいの?」
質問を質問で返す。
彼女の言葉が何を意味しているのかが分からない。挑発めいたその言葉は一体、私に何を言いたいのか。早苗さんは優等生を嫌う奴がいるなんて、本当に思っているのだろうか。
クラスメイトからも先生からも信頼を得て、何のわだかまりも生まれることなく塩梅に過ごしてきた。喧嘩に巻き込まれることもなかった。喧嘩を起こすことなんてもってのほか。
「あたしはあんな嘘くさい笑顔貼り付けた優等生なんか大っ嫌いだね。自分の気持ちや意見は二の次で、周囲に気に入られることしか考えていない。周囲の奴らばっか気にかけて自分が我慢するなんてはっきり言って、ただの馬鹿だな!自分は自分だ!他人なんかいちいち気にしなくていい。どうせ、社会に出ても上司とかに頭垂れて、へりくだって翻弄される。そんな馬鹿げたことをするくらいなら自分らしく生きろ!」
早苗さんは軽々と言い放った。しかし、その言葉に含まれる意味は鉛のように重い。私はそんな重圧に耐えられない。
負けじとその言葉に楯突く。
「私だって、本当はもっと誰かに自分を理解してほしいって思うし、もっとありのままの自分でいれたらいいなって思うよ。でも……」
言葉が途切れた。声が掠れて、言葉を発することを拒む。これもまた、私が囚われ続けている人に対する猜疑心と恐怖心からなのか。どこまでも私を縛り付ける。
ありのまま生きれたら────
分かっている、そんなことくらい。勇気があれば私の人生は今頃、著しく変化していただろう。だが、実際はこの有様なのだから。もうどうしようもなかった。私も誰もどうすることもできない。選択肢は初めからたった一つだけだ。諦める。それだけなんだ。
「……できない」
弱々しく、力ない言葉だった。
楯突く気持ちも言葉も、覇気のない言葉と一緒に霧消していった。
何度も当たっては砕かれてきた。少しでも素を出そうものなら後々から酷く後悔してタラレバを繰り返した。やっぱり辞めておけばよかった、と。こんなことするんじゃなかった。誰かから憎まれたらどうしよう。悪く思われてしまったらどうしよう。不安で胸が張り裂けそうだった。
「この世界の人たちは絶対に、結生を憎んではいない。絶対に。信じて」
信じて。
真っ直ぐな言葉だった。取り繕われていない素朴な言葉。彼女の意思がどれ程までに強いのかを痛感させられる。痛い程に伝わってくる。
なんの根拠もない説得力に欠ける言葉だ。しかし、彼女の情熱が私の胸を貫いた。理由がなくても正しいと、信じたい、と思うことがあってもいいと思う。
「それにみんなから好かれる人間なんてこの世には存在しない。人間なんてものは十人十色なんだから。優等生がみんなから好かれると思ったら大間違いだ。優等生っていう立場を妬む人だって、真面目さを嫌う人だって、少なからず存在する。だからみんなから好かれる必要なんてないよ」
早苗さんの言うことには一理あるうえ、私も本当は頭の片隅では理解している。だが、理由をつけていないと私は惨めになってしまう。それを認めてしまえば、私は勇気が出ないただの愚か者。
「そんなことくらい分かってるよ!でも、どうしても人が怖い。誰も信じられないよ。私の嘘は私を守るためでもあるの。だけど、その私を守るための嘘が同時に私を苦しめる。自分を偽ることが安心で不安で。もうどうしたらいいのか分からないよ!私はたった一人。私は私なのに!」
十六歳の少女の紛れもない本音だった。ただ、矛盾を抱えて生きる少女。少女にとってはあまりにも大きすぎる苦悩だった。誰も救えなかった。
涙が本音と共に溢れた。人前で泣くのはいつぶりだろうか。いつからか、人前で泣いたりして弱みを見せてしまうと、それもまた悪いように利用されるのではないかと恐れ、躊躇してきた。面倒くさい奴だとか、弱虫だとか、毒を吐きつけられる気がして仕方がなかった。
苦しかった。矛盾ばかりを抱えて葛藤する毎日。私の居場所なんてどこにもなかった。居場所があるように見えているそこは、本当の私じゃない誰かの居場所だった。私の理想で、創りものの私。幻だった。
「結生!」
視線を早苗さんに向ける。
「人のことなんか気にするな!」
「私にはそんな勇気ないよ!」
彼女の言葉を跳ね除ける。私はやはり頑固なのだ。そんな簡単に人の、たったそれだけの言葉でコロッと自分を変えることはできない。植え付けられたものは、そう簡単に引っこ抜くことはできない。
「やっぱり人が怖い」
「世の中そんなに悪い人ばっかじゃないよ」
「それは……早苗さんが強い人だからそう思うだけでしょう?私は早苗さんみたいに強くなれない。いつまで経っても弱虫のまま」
私には勇気がないから。その一歩がどれ程、大きなものであるかを私は知っている。私は主人公なんかじゃない。主人公ならば困難に立ちはばかったときに勇気を奮い立たせて、向き合うことができるだろう。だが、私にはそんなことはできない。
所詮は脇役で、どうせヒロインの友人Aというポジションでしか生きることのできない存在に違いないのだ。
早苗さんと私は違う。私だって早苗さんみたいに強く生きられたら良かった。
「 どうしてそんなに強く生きれるのよ」
率直な疑問を投げかける。
私も早苗さんのような性格で生きることができたら世界は見違えるだろう。早苗さんのような人になりたかった。
「別に、あたしは強くなんかないよ。結生みたいに優しい人になりたいだけなの。結生のおかげで少しは変わることができた。前の弱いあたしに逆戻りなんてしたくない。強く生きたい。そう思って生きているだけ」
早苗さんは一瞬、泣きそうな顔をした。今もまだ、微かに瞳が小さく揺れ動いている。感傷の色が浮かんで消えない。私の知っている早苗さんではない。
早苗さんは自分が今、どんな表情をしているのかに気づいたのか、再びいつもの顔に戻る。
その時、私は分かった。早苗さんも私と同じように取り繕っている。私が見ていた早苗さんは表で、まだ私の知り得ない裏がある。実際には早苗さんは強いだけの人間ではない。裏の弱さの上に成り立った表の強さ。その裏を見せるかどうかは自分次第。
結局は早苗さんも私も似た者同士だったのだ。それに気づいた瞬間、早苗さんと私を分ける最後の隔たりが崩壊した。さっきまでの流れとは到底考えられない具合に、いとも簡単に壁はなくなった。
「何か話そうとしているみたいですけど、話したくなかったら話さなくていいんですよ。早苗さん、さっき嘘くさい笑顔とか言ってましたけど、結局はあなたも私と同じじゃないですか。無理して笑って馬鹿みたい。私の前ではそんなことしないで」
あっさりと私たちの緊張の糸が切れる。
「あたしはパワハラに耐えられなくて死のうとしたことがある」
「パワハラ、ですか。それはどういった?あ、いや、思い出したくないと思うんでやっぱり話さなくていいです。今のなし」
早苗さんがふっと笑った。
「ううん。もう大丈夫だから。罵詈雑言吐かれたり、仕事押し付けられたりしてた。ずっと耐えるしかないんだって思い込んでた」
「そうなんですか……」
想像できなかった。それにそんな現状があったこと、想像したくもなかった。
だから、さっき上司の話を不意に持ち出したか。不意に気づく。
「だけど、ちゃんと変われたよ。今のあたしが強いかどうかは分からない。でも、確実に結生のおかげだよ。強く見えるのは。結生がいなかったら今のあたしはいない」
あれ、何かが可笑しい。彼女の発言に違和感を抱き始める。私が早苗さんを強くしたとはどういうことだろうか。この数日で彼女の人生を劇的に変えるようなことをした記憶は全くない。早苗さんは相変わらずの明るい性格で、思い当たるような変化は微塵もない。辻褄が合わない。一体、どういうことだ。
「私は別に何もしてませんよ。この数日間で何か早苗さんのためにしたかと言われてもそんな記憶はないです。それに……助けられたのは私の方なのに」
「結生にとってはそこまで気にとめないことだったのかもしれないけど、あたしは本当に嬉しかったし、救われた!みんなはあたしを見ても素通りするだけだったのに、あなたは立ち止まって介抱して、寄り添ってくれた」
立ち止まる?介抱?一体なんの話だろうか。私は彼女の面倒を見た記憶など全くない。誰の話をしているのだろうか。やはり、いろいろ可笑しな点がある。
戸惑いは消えることなく、彼女の話は進む。
「わざわざ水を買いに行ってくれたことだって本当に嬉しかった。実はあたし、気づいてたんだよ。あれって本当はわざわざ買ってきてくれてたんでしょ?」
「待ってください」
彼女の話を遮る。
失礼なことしてしまったのでは、と脳裏に過ったが、今は自分が持つ疑問の答えを明らかにしたかった。
早苗さんは、頭にはてなマークを浮かべているが、はてなマークを浮かばせたいのはこちらの方だ。なぜならば、本当にそのような記憶がないからだ。
いつの話なのだろうか。私たちは出会って数日の仲だ。今日に至るまでにずっと一緒にいたが、そんなことは何もしていないし、そんな状況ですら作られていない。
早苗さんは先程からずっと私によく似た誰かの話をしているに違いない。だとしても、いつそんな出来事が起こったのだろう。
「それは誰の話で、いつの話なんですか?私は水を買いに行ったり、早苗さんを介抱したりした覚えはないですよ。いつの話なのか分からないですけど、私と出会う前の話をしているとしたらその人物は私じゃないですよ。だってつい先日知り合ったんだから」
早苗さんは唖然としている。ショック、とでも言うかのようだ。そんな表情に見える。それすらも私にはよく分からない。
私には一体何がどうやら……早苗さんが記憶の手違いを起こしているに違いないとしか言いようがないように思える。
「えっ?覚えてないの!?」
「覚えてないも何も、私はそんなことをした記憶なんて……」
そんなことをした記憶はない、と言いかけて何かを思い出す。ここ数日間の記憶ではない。もっと前の記憶だ。
早苗さんと目が合う。彼女のあの可愛らしい笑顔は以前、どこかで見たことがある気がする。最近の記憶ではない。もっと数年前の記憶のような────
欠落した記憶がパズルピースとなって埋め込まれていく。さっきまでのことが嘘みたいに、パズルに完成の兆しが見えてきている。
気づけば雨は止み、夕日の光が雨雲の合間から射し込んでいた。早苗さんの言う通り、通り雨のようだった。
夕日の光は美しく早苗さんを照らしている。飛騨川も早苗さんには劣るが、水が煌めいてその美しさを主張していた。
早苗さんは眩しさから光を遮るように夕日に向かって手を向ける。美しいその光景は様になっている。美術館の絵画のような光景だ。
思わず目を奪われる。まだ、微かに涙が残る瞳がそれを捉え続ける。
ふと、どことなく既視感を感じた。そしてその正体はすぐに明らかになる。
この光景を私は以前に見たことがある。はっきりと鮮明に思い出した。創りものでもない紛れもない真実。
確か、あれは中学生の時の修学旅行。私は観光客として東京に訪れて、偶然にも早苗さんと出会った。そして会話を交えた。早苗さんはスーツ姿だったような気がする。数日前に私たちが再会したときのようなスーツ姿だった。恐らく昼頃だろう。
徐々に欠落していた記憶が蘇ってくる。
「まだ思い出さない?」
彼女の笑顔が最後のピースを埋めた。
そうだ、思い出した。
一番大切である核心の記憶が舞い戻る。
あの時の早苗さんは熱中症なのかぐったりと道端に座り込んでいた。そしてそれに私が声をかけて、自動販売機で買ったミネラルウォーターを渡した。それから彼女の仕事の話をして……
「思い出した!」
思い出したことが嬉しくてつい、大きな声を出してしまった。咄嗟に口元を手で抑える。
早苗さんがくすくすと小さく笑っている。子供っぽいと思われているのだろうか。
「やっと思い出してくれたんだ。ていうか、知ってて一緒に着いてきてくれたのかと思っちゃってた」
「全然忘れてましたよ」
「酷いなー」
頬を膨らませてこちらを見ていた。早苗さんの方が子供っぽい、と思った。
「会社で見かけたときは本当に焦ったよ。あの時の子だって喜んで声をかけようとしたら、今にも死にそうな顔してエレベーターに乗っていくんだもん。屋上に行くんだろうってすぐに予想がついた」
あの時は多くの不審な目が私を向いていたため早苗さんの視線には気づかなかった。一刻も早くあの場面を切り抜けたかったから仕方がない。
「そんなに絶望に打ちひしがれた表情をしてたんですか、私は。お恥ずかしい」
「まあね。それに屋上はあたしが上司にムカついた時に施錠されてあった鍵を壊しちゃって普通に入れたから余計に焦った」
あの時の違和感はここに繋がっていたのか。
「あれって早苗さんが壊してたんですね。誰かが壊したんだろうなって思ってましたけど、まさか早苗さんが壊していたなんて……」
驚きもあったが、早苗さんがどうやってあれを破壊したのかが少し気になった。まさか、力づくで、なんてはないことを想像したいところだ。詮索は辞めておこうと思う。
「あたしって本当に運がないから一つ目のパワハラされてたところを辞めて、次の会社に入社したらまた、パワハラされて。まあ、それは結生と再開した会社のところなんだけどね。だから大目に見てあげようかな」
「ついてないですね、本当に」
つくづく気の毒な人だ。今回みたいに私に首を突っ込んで、苦労人なんだと思う。
「まあでもね、結生と再開できたんだからもうなんだっていいんだよ!」
「はいはい」
照れくさくなって雑に返事した。
夕日が沈んで辺りは飛騨川の音だけが響いていた。今、この空間に早苗さんと私、私たち二人の世界だった。
「帰ろっか」
早苗さんの一言に頷いて旅館の方に足を向けた。
このまま時間が止まればいいのに。ずっと続いてほしいと夕日に向かって願った。
「私、早苗さんとここで暮らしたい」
早苗さんはこちらを見て微笑んだ。
