「ごめんね。今日からここが結生ちゃんのお家になるからね。また会いにに来るからね」
その自分の母親の申し訳なさそうな顔に子供ながらに嫌悪感を感じた。ピーマンを食べた時のような苦味が心の中に広がる。でも、お母さんに悲しい顔はさせたくないから我慢して苦味を飲み込んだ。
「今日から私が結生ちゃんのママの代わりに一緒に住むからね。よろしくね、結生ちゃん。なんでも言ってね」
職員さんは優しそうな笑みを浮かべて私に向けて手を差し出した。恐る恐るその手に自分の手を近づける。手を重ねると、重ねられたその手は温かかった。私はその職員さんの内から溢れ出る優しさに安堵した。
しかし赤の他人であるという私の囚われた思いは、どうして拭い捨て去れなかった。私の手は変わることなくずっと終始一貫して冷えたままだった。
幼い子供ながらに自分の家庭環境を薄らと理解していたと思う。同じ保育園の子たちと私の違い。保育参観に誰も来てくれないのも、託児費用を期日通りに支払えないのも、全部ぜんぶ。
でも、仕方がないことだとも理解していた。
お母さんは病弱だった。お母さんは子供の頃からよく風邪を引いていた、と幼い私に向かって言っていた。しかし、今になってみるとそれは嘘だった、と思う。
いつだったか、偶然お母さんの学生時代のアルバムを見たことがあった。硬い質感のアルバムを開けると、一面に写真がずらりと広がっていた。どれも少し色褪せていた。
何百枚もある写真からお母さんが写っているものを探した。すると、想像以上にその写真は健在していた。
私は違和感を覚えて他のアルバムにも同様のことを繰り返していった。何百、何千という数の写真を目に通した。高校時代のアルバムは比較的に色褪せていなかったので、見ているうちにだんだんと写真独特の色彩が目に疲労感を募らせていた。それでも違和感の種を探すために辞めなかった。
全てのアルバムに目を通して気がついた。お母さんは子供の頃から病弱なはずだ。なのに、どうして。どうして、こんなにも学校での写真が数多く存在しているのだろうか。
昔から長期入院することも多かった、そうお母さんは口にしていた。
しかし、こんなにも学校での写真が多く残っているのは不自然ではないか。偶然にもこれらの写真を撮った日は元気だった、なんて都合が良すぎやしないだろうか。
それに決定的だったのは同級生からのメッセージだった。
元は白紙だったそのページにはお母さんの同級生からのメッセージがいくつか書き込まれてあった。その一つが違和感の種を消し去った。
『マリイのおかげで毎日が楽しかったよ!卒業しても会おうね。大好き』
「毎日」という言葉は子供の頃から病弱なお母さんにはありえない言葉だった。つまり、お母さんは子供の頃から病弱だった訳ではないのだ。お母さんは私に嘘をついていた。ただ、それだけだ。
だが、それに気づいたのは児童養護施設に預けられてからだった。ふと、思い出したかのように、突発的にこの嘘を見破ってしまったのだ。
とは言えども、病弱なお母さんを見てきたのは紛れもない真実だった。いつも間近で見ていた私が一番よく分かっている。
だから我儘は言ってはいけない。本当は児童養護施設じゃなくて、お母さんと一緒にいたい、なんて言えなかった。口は言えたとしても、声にならなかった。
児童養護施設での生活は順調だった。私は泣き叫ぶこともしなかったし、非行に走ることもしなかった。平凡に暮らしていた。
赤の他人である職員さんといえども、愛情を感じて育っていた。衣食住の整えてくれて、時折物を買い与えてくれて、誕生日を祝ってくれて、些細なことでも褒めてくれて。それなりの愛情を感じていた。それに私も感謝していた。
しかし、夜を迎える度に考え込んでいた。所詮は職員と利用者という関係で、そこに無条件の愛情はない。私への本当の愛情なんて所詮はどこにも最初からなかったんだって。
彼らはお金を貰って働いている。それがなくなった瞬間に私への愛情は当然の如く消え失せてしまう。そんな脆くて弱い愛情だ。初めからまるっきり本当に私が欲しがっているものなんてどこにもなかったのだ。苺がないショートケーキをずっと味わっているみたいな気分だった。そんなケーキを食べ続けるくらいなら初めから食べなきゃ良かった。
中途半端な愛情が私の首を絞めた。

耳をつんざくような爆音が眠っていた私を叩き起した。音の程度が大きいせいもあるが、音量的にそれ程遠くはないところから聞こえたもののように思われた。
飛び起きる程ではなかったが、音に身体をびくりと震わせた。心臓がドクドクと鼓動した。
この土地では朝から町内全体に響き渡るように、目覚まし音を流しているという可能性も考えられなくはなかったが、音が少々不自然なものだった。
先程まで固く閉ざされていた目を手で擦りながら無理やり開けて、壁にかけられている時計に目をやる。ぼんやりと靄がかかった視界が夏休み二日目を迎えた。
現在の時刻は四時三〇分。早朝もいいところだった。大抵の人なら起こされて文句を口にするような時間帯だが、私からしたらよくこのような中途半端な時間に目を覚ますことが多かったのであまり気にはならなかった。
現在時刻を踏まえれば、尚更町内に向けた目覚まし音ではなさそうだ。流石に早朝がすぎるし、ここは軍隊でもない。
よくよく音を聴き返すと、私はこの音に聞き覚えがあった。爆音の正体はよくあるスマホのアラーム音だった。
私はスマホを手に入れて、すぐにアラームの音を好きな音楽に変更していたために気づくのが遅れたが、よくよく思い返すと私のスマホに初期設定されていたアラーム音と同じものだった。たったの一度しか聞いたことはなかったが、特徴的なメロディのため眠っていた記憶の片隅が引き出されたようだった。
早苗さんの方を見やると、横で寝ていた彼女も爆音のアラーム音によって目が覚め、飛び起きていた。私と違って、早苗さんは焦りに満ちた表情をしていた。
私のスマホは昨日の電車に乗り始めた時点で既に電源は切っておいたため私のスマホが原因ではない。あれからスマホ自体に触れてすらいないので今も尚、電源は切られたままだ。と、なると必然的に早苗さんしかありえない、ということになってくるのだが……
私の推量は正しかった。案の定と言うように早苗さんのスマホから鳴っていた音だった。早苗さんは大慌てでアラームの音を止めている。だから早苗さんの顔はさっきから焦燥の色で染まっていたのか。
「ご、ごめんごめん。昨日まで普通に会社に行ってたからアラームの時間設定を変更するの忘れてた。本当にごめん」
申し訳なさそうに彼女が言った。寝ぼけているのか目の焦点ははっきりと私に定まっているようには見えなかった。
こんな早朝なので無理もない。それよりも私はこんな早朝に起こされていい迷惑、ということよりも早苗さんは毎朝このような早朝に目を覚まして会社に出勤していた、という事実に対する驚愕の方が勝り、何も言えなかった。
ただ、もし私が同じような状況に身を置かれたらどんなに大変な生活なのだろうと、実際に経験してすらいないが、そんな生活を味わったような気になり気が重くなった。
しかし、それ以上に未だ身体に居座る眠気の方が断然に勝っていたので、天井を仰ぎながら考え事をしていたが、気がつけば二度目の夢が私を迎えようとしていた。
遠くなる意識の中で、隣の部屋で寝ている別の客が怒鳴りに来ないことを願った。

次に目が覚めた時は、カーテン越しから強い陽光が差していた。薄らと朝は既に過ぎ去ったような気がした。
横から人の気配がしない。不思議に思って、早苗さんがいたはずの場所を見やると、そこには昨日、彼女が着ていたスーツが脱ぎ捨てられてあった。しかも、粗雑に。
時計を見ると現在時刻は一〇時五九分。思いの外に二度寝してしまったようだった。昨晩も今朝も食事を取り損ねているので空腹を通り越した時の不快感がいつの間にか居座っていた。
洗面所から音がして、立ちくらみを無理やり堪えながらふらふらと歩いて向かうと、早苗さんがいた。
今日の早苗さんは昨日とは異なって髪を下ろしていた。寝癖なのか、天然パーマなのか、髪はふんわりと緩くカーブがかかっており、可愛らしい女性という印象を与えた。紺色の浴衣もよく似合っている。
鏡越しに彼女と目が合って軽く会釈する。
「きにょうはよくねぬれは?(昨日はよく眠れた?)」
泡立った歯磨き粉を口いっぱいに含めながら話しかけられる。当の本人の手は止まっていない。
「ええ、まあ。てか、歯磨きしながら喋らないでくださいよ。呆れたー。こんなこと言わせないでくださいよ。子供じゃないんだから」
聞き取りずらい言葉に返事をする。ついでに軽く説教も加えて。子供に些細なことで説教する母親の気分だった。
そういえば、昨夜入浴は翌朝にしようと考えていたことを思い出した。早朝ならば人数なんてたかが知れているためその時間帯を狙っていこうと、小さな計画を企てていたのだが、現在は朝をとうに過ぎて昼だ。入浴しない、なんて選択肢はさらさらないので、諦めてこの昼時に温泉に向かうことにする。
私もある程度、旅館内を出歩けるような身なりに整えようと思ったが、洗面所は早苗さんが現在進行で使用している。僅かな間、暇をつぶす必要があった。
早苗さんの微笑んだ顔とオーケーサインを鏡越しに確認して、その場から立ち去った。
ふと、自分が着ている浴衣に違和感を覚えて浴衣を見やると、驚く程に着崩れていた。帯の結び目なんかは横腹に移動していた。そのため始めは着崩れ浴衣を着直して暇をつぶした。
早苗さんが洗面所を立ち退くまでは、私の寝相の悪さゆえに生み出してしまったベットのシーツでできた芸術作品を元の状態に近い形に直したり、テレビをつけた時に偶然、放送されていたグルメ番組を見たりして時間が流れるのを待った。グルメ番組は食レポをしている芸能人たちの反応が胡散臭く、見ていられなくなったためすぐに見るのを辞めた。
洗面所が使用できるようになると、洗顔や歯磨きをして最低限度の身なりにまで整えた。
温泉に向かう前に早苗さんも誘うべきか迷ったが、先程すれ違ったとき、彼女の方からほのかにシャンプーの香りがしたのを思い出し、一言告げるだけして温泉に向かった。
早苗さんの髪が緩くカーブがかっていたのは入浴後だったからだろうか、とつい先程の早苗さんが頭に浮かんだ。
温泉は数分して着くところにあった。やはり昼時のため道中はたくさんの旅客とすれ違った。
赤い暖簾の方を通り抜けて、旅館の草履を揃えて脱ぐ。すぐ側には多種多様な牛乳が自動販売機によって売られていた。
脱衣所には誰もいなかった。誰かがいるような痕跡は見当たらず、もぬけの殻そのものだ。扇風機の乾いた音だけがこの湿った空間の音頭を取っていた。
静かに心ゆくまでゆっくり入浴できると、内心喜んで脱衣を済ませて風呂場のドアを開けた。
しかし、思いとは裏腹に湯船に浸かっている老婆が一人いた。辺りを見回しても、老婆ただ一人だった。
釈然としないものがあったが、とりあえずは手際よく身体を洗って洗髪する。シャワーの温かさや音が心地よく身体に浸透した。
児童養護施設に預けられる少し前に、家の近くの銭湯にお母さんと二人きりで赴いたことがあった。家の水道が使えなくなったからだった。今思えば、単に壊れたなどと単純な理由ではなく、水道代が支払えなかったのだと思う。
ここのような旅館ではなく、単純に銭湯のみのためこじんまりとしものだった。狭い脱衣所に温泉も少ない。利用者も近所からやってくる者ばかりだった。
その時に幼い私は銭湯のルールなど知る由もないので、脱衣所から駆けて行きそのまま湯船に直行したのだ。
間一髪でお母さんが私を呼び止めた。
濡れたタイルがスケートのように足を滑らせて前進する。すぐに止まってしまうと私はくるりとお母さんの方に向き直った。
お母さんは焦ったような、怒ったような、よく分からない顔をしていた。不安げに私が見つめると、優しく銭湯でのルールを教えてくれた。気づけば湯気と一緒に不安はとうに消え去っていて、大きく顎を引いて明るく返事した。
シャワーの湯が広がった周囲から立ち込めていた湯気を見ていて、些細な思い出が巡らされた。
あの時とは違って、この温泉は屋内と屋外の二つのエリアに区別されている。屋内には電気風呂や泡風呂、詳しいことを私は知らないのでなんなのか分からないが、美白に効果が期待されそうな湯がいくつか、といったところが屋内の温泉だった。
屋内には老婆がいたため、どことなく気まずさを感じて屋外の方で入浴することにした。
ガラス一枚に内と外は区切られている。透明なガラスの向こうで、鮮烈な緑色の竹が見える。
近づいてそれを見ると、それらを連ねた壁が温泉を囲っていた。緑々しい世界が小さくが広がっていた。
ガラスのドアから一歩踏み出すと、人工芝が足裏をくすぐった。
こんな夏至の日にもかかわらず、冷風がスっと通り過ぎて身震いする。緑色の湯船に浸かって、身体を温めた。
湯船に浸かった時の、あの温かさがじんわりと薄い皮膚から身体中にじんわりと染み渡る感覚が好きだ。腕から脚、脚から肩にかけて温かさが移動していく。そして脱力していく。最後には考え事で固まった脳が和らいでいく。その時、私は何も考えなくていい幸福感に包まれたような気になる。
でも、感傷的になっている時はその感覚が嫌いになる。身体中に温かさが行き届いたとしても、力が僅かに入ったままで安らぎを感じない。首に纏わりついている寒さだけが強調されたかと思いきや、次は胸の奥の冷たさが身体を突き破りそうになる。身体は温められても、心だけは温められない。そんな感覚が絶望感を導き出す。だから嫌いだった。
傍らに置いてある鹿おどしの音が貫禄を演出していた。一定のリズムを繰り返すだけ。ただ、それだけで、何の生産性もない。徒労が続いていく。まるで人生のようだ。
児童養護施設での私は決まって一番最後に入浴していた。入浴中や髪の毛を乾かしている時、歯を磨いている時。それらの時、私は常に考え事をしてしまう。だから、事が済むのが遅いせいで迷惑をかけないように一番最後に入浴することにしていた。
考え事なんてしなかったらいい、と思うかもしれない。というか、私もそう思う。初めから何も考え事なんてしなければ済む話で、それだけで全て解決できるというのに、私という人間はどうもそれができないので、だらだらと徒労を続けてしまう。
私のこの考え事をする癖はある一種の中毒のように思われた。気づけば、風呂の中で小一時間くらい考え事をしていたことなど、しばしばよくあることだ。
傍から見れば、何をそんなにまじまじと見ているのだろう、と思われるかもしれない。でも、実際には何かを見ているようで何も見ていない。「見る」というより「見えている」という方が近しい気もする。じーっと、ぼーっと、どこかを見ている訳でもなく、定まらない焦点でどこかを眺め続ける。
しばらく経ってから、指の腹にいくつもの皺ができてしまっていた。指がふやけている。いつもの徒労を続けていたことに気がつく。
湯船から上がって、ふと真昼間だとどうも貫禄というのか、風情というのか、どこかそういうものが軽減されている気がした。暗闇の夜の方が月明かりの元に、薄らと暗いこの湯がよく映えるだろう。今夜、人が少なさそうな時間帯にまたここに来よう。
だらだらと考え事をする癖に、行動は意外と速い方だ。シャキシャキと手際よく動く。浴衣に再度着替えて、髪を乾かして部屋に戻った。
部屋のドアを開けた瞬間に早苗さんの声がした。彼女はいかにも待ってましたよ、と言わんばかりにほとんど目の前と言えるような場所に突っ立っていた。部屋の奥からの日差しが早苗さんを逆光に映し出す。そのせいか、早苗さんは酷く疲弊した表情に見えた。そこにはどこか虚ろな感情さえも憑依しているようで、思わず肩がすくむ。
しかし逆光が無くなると、すぐにそのような印象は消え去った。私の勘違いで、はたまたいつものように杞憂とかだったら良いのだか、早苗さんはいつものその笑顔の裏に、何かしらの重い感情を抱えている気がした。根拠は無い。確証も、何も無い。ただ、そういう直感がしただけだ。
黒い瞳を見つめていた。
早苗さんは首を傾げる。その表情に一点の曇りはない。ただ、初めて出会った時にも目に止まったその隈。仕事疲れなのだろう。だから、その隈のせいなのだろう。変な杞憂を起こしてしまう理由は。そう、隈のせい。
勝手な妄想を膨らますのはよそう。私の悪い癖だ。あの人はいつも笑ってるけれど、本当は無理しているのではないか。あの人はいつも誰彼構わずに反発しているけれど、本当は心の奥底で淋しさに打ちひしがれているのではないか。そういつも人の裏を考えてしまう。私の目に見えているその人が、本当の姿だと思うことは到底できなかった。
「おかえりー。これでようやく出掛けられるね。実は昨日、結生には内緒で服買っておいたから良かったらそれ着てね。結生が寝てた方のベットの上に置いてあるから」
早苗さんの落ち着いた暖かい声音に安堵を覚える。そしてその一言に、確かに早苗さんが昨日、私用の服を前もって購入してくれていなかったら、私は今日も昨日と同じ服を着ていかねばならないところだった、ということに気がつく。今更、気づいた。
「え、ありがとうございます」
「全然いいよー。絶対絶対ぜーったいに、結生に似合うよ」
「そうですか」
苦笑混じりに相槌を打った。
昨日といえば、思い出したくもない程に散々あちこちを歩き続けた。汚れているに違いない。それをもう一度、今日も着なければならなかったと思うと、考えたくもなくなる。早苗さんには感謝してもしきれない。
早苗さんは真新しい服を着ていた。昨日、新宿駅に向かう途中で彼女が買っていたものだ。紺のジーパンに白いシャツが彼女をより一層、美しく見せている。布に浮かび上がる皺さえも美しい。真っ白の布から覗き込む華奢な腕が酷く繊細なものに見えた。
早苗さんの言う通りに私が使用していたベットの方に置いてある服に着替える。昨日と似たような格好に見えたが、どこか頭一つ抜けている。ファッションに大して興味を持たない私にはその違いが分からない。が、たった数分でこのコーディネートが気に入った。
「やっぱり似合ってるね。さすが私」
早苗さんは自信過剰に腕を組みながら何度も頷く。
「はいはいそうですね」
半ば呆れ気味に、苦笑混じりにテンプレート化された言葉を言う。早苗さんが声高らかに何かものを言って、私がそれに声色は無関心に、半ば苦笑混じりに小さく同調する。このなんてことない一連の流れが心地よい。暖かい布団にくるまれるような安心感がする。
双方の身支度が整った。私の起床時間といい、身支度にかけた時間といい、外出するタイミングが遅くなってしまった。外の世界では太陽は既に南下している頃だった。
「忘れ物してない?」
早苗さんの一言に鞄の中身に不備がないかどうかを確かめる。普段であればスマホと財布があればいいのだが、今となってはどちらとも使い物にはならない。私に忘れ物の有無を確認することは間違っているのではないだろうか。
一応、ベットがある方を一瞥して確認する。ベットには布団や枕以外に何も置いていない。付近にも私物は見当たらない。整然とした光景が広がるだけ。
「多分ないです。部屋の電気も消したし、テレビもついてないし……大丈夫です」
空中に向かって一つずつ指差しをして確認する。その裏で、他に確認し忘れている場所がないかを頭の中で思い出そうとする。
「あ!」
「あ!」
私たちは同時に声を上げた。まるで双子のように、息ぴったりだった。互いに忘れていたことを偶然にも同時に思い出したのである。
すっかり忘れてしまっていた。空腹が極限状態になると、返ってそれが薄れるという謎の現象が身体に起きることがある。なんという名の現象かは知らないが、そのせいですっかりと空腹を忘れてしまっていた。しかし、空腹を自覚してしまうと、忘れていたそれが舞い戻ってくる。雪がぽつぽつと降り始めのように私たちに舞い落ちる。昼食を取らねば。
気絶するように眠りこけた私たちの腹は、空腹に悶えてこの静かな部屋の中で当時に悲鳴をあげた。珍妙な音が空気を伝って、鼓膜に受け渡される。
思わず、顔を見合わせた。
早苗さんは口をキュッと小さく結んでいる。しかし、その目は三日月が上に凸して横に倒れている。
そういえば昨日の夕食も、今朝の朝食も食べていなかった。
「昼食とってからにしよっか」と早苗さんは今更ながらに自分の腹鳴が恥ずかしくなったのか、頬を右手で小さく掻きながら提案した。
小さく繰り返し頷き賛同を示す。彼女の羞恥心が伝染した。
私たちは二階のレストランに歩を進めた。
レストランは二階の端に位置しており、傍には漫画本コーナーがあった。いくつかの木製テーブルとイスが並んでいる。数人がそこを利用していた。ただ、漫画本コーナーは何かしらの仕切りがある訳でもなく、周囲から直接見えるような格好をしていた。私なら通り過ぎ行く人が気になって、集中して読むことはできないな、と思う。
旅館なだけあって、レストランの入口にも緑の暖簾が掛けてある。それを手で端に押しやって、中に入った。
レストランはだだっ広い空間に、いくつもの円いテーブルが中央の主役である料理たちを取り囲んでいる。バイキング形式のようで料理の側には白いプレートに、白い皿。清潔な印象を与えた。料理を囲ってたくさんの人がその周りをゆっくりと歩き回っている。
昼時のためレストランは混みあっていた。空いている席もパッと一目見ただけでは見つからない程だった。
なんとか一室の端に空いている席を早苗さんが見つけた。彼女曰く、こういうことは得意らしい。変な特技だ。
テーブルに私物を置いて料理を取りに行った。安全な国と言えど、少々私物から目を離すのは不安だった。誰かに盗られはしないだろうか。そんな不安が片隅に居座る。今すぐに席に戻って確かめたくなる、とまでは不安にならないため歯痒さだけが後味悪く残る。誰にも盗られることはないだろう、と今は高を括っていよう。
みずみずしい野菜や深みのある肉、さっぱりとした麺類に鮮やかな海鮮。それからパンや中華。とにかく豪華だった。多種多様。何を食べようか迷う。贅沢な悩みだ。
少しは悩みながらも私はすぐに決めていく。僅かに偏食家なところがあるからか。はたまた決断力が人よりある方だからなのか。
私のプレートには、ミートボールや唐揚げ、小さくカットされた牛肉などの茶色がその場を占めていた。自分でもお世辞にも健康を意識したものとは思えない。しかし、数少ないこういった外食では好きなものを、いつもよりも美味しく食べたい。今日くらいは大目に見よう。
しかし、私の考えの甘さに早苗さんは許すまい。
早苗さんは私の茶色いプレートを凝視した後に、見兼ねるようにお野菜も取らなきゃね、と言いながら私の了承を得ずに、私のプレートにレタスを盛りに盛り合わせた。プレートの一角に緑の丘がちょこんとできあがる。丘を緩やかにドレッシングが下る。
レタスは嫌いではなかった。そのため特に何も思うことなく彼女のその行動を黙視していたが、彼女のプレートもまた、つい先程の私のプレートと同様に茶色一色に染まっているのを目にする。相反するその様子に思わず、二度見してしまう。怪訝な顔で彼女を凝視したが、のらりくらりと躱された。しまいには口先をすぼめて、鳴らない口笛を吹く様を見せられる始末。
何かしら言葉をかけたかったが、勢いで大きな声を出してしまいそうだった。そのため歯痒さだけが口の中でむず痒く残る。傍観者に留まるしかなかった。
そこらのキラキラした女子高生のように写真を撮るわけでもなく、料理はすぐに食べた。あまりにも腹が減っていたのである。腹が減っては戦ができぬ、ということでこの後、戦に行く訳ではないのだが、エネルギーは多く蓄えといた方が良い。
食事中、勢いよく食べるあまりに大胆にむせている早苗さんを見て、苦笑しながら心配する。時間はあるのだから、ゆっくりと食べればいいのに。
すかさず彼女の飲み物を手渡してやると、命の恩人だ、とこれまた大袈裟に言う。無邪気で、真っ直ぐで、大袈裟なんかじゃない、というような声色だった。微笑みながら、はいはい、と相槌を打つ。その片手間に冷えたレモンティを喉に流し込んだ。右の手のひらに水滴が残る。気づけば全て手のひらに染み込んでいた。
今回は昨日の昼食と違って、よく噛んでゆっくりと食事したため時刻はあれから既に一時間は経過して、現在時刻は一三時五分だった。
空腹だったとはいえ、食べすぎた。そのせいで、少し胃が苦しい。たくさん美味しいものを食べれたというのに、苦しさが襲う。たくさんの幸福を得たというのに、不幸が訪れる。この感覚が、この矛盾が、虚しさを生み出す。
今日は予定を決めていなかったが、早苗さんは出かける気でいたため、おそらく予定は決められているのだろう。何ら一つの情報でさえ彼女から聞いていない。
ロビーに向かいながら早苗さんに尋ねる。視線は目先のまま、歩き続ける。
「どこに行くんですか?」
「んー。内緒」
内緒らしい。特別気になる訳ではないので深追いはしない。
「そうですか」
「まあ強いて言うなら、あたしが昨日歩いててここ行きたいなって思ったところ」
「ふうん」
乾いた返事をした。心の中でもう少し具体的に教えてくれてもいいのに、と思う。
鋭い太陽の光が外を眩く照らす。
眉間に皺を寄せて、太陽を小さく睨む。今日も、いつもと変わらず世界は暑かった。
同じく旅館から今しがた出てきた旅客が、紫外線がどうだとかほざいているのが耳に入る。日焼け止めくらい持って来れば良かったと小さくタラレバを唇の裏で呟いた。
熱いアスファルトの坂道をぐんぐんと下っていく。反動で脚に力がかかる。不規則に風が身体を突き抜けていく。夏も悪くない気がした。
昨日と同じ飛騨川を横断する橋を通り超えて、さらに横断歩道も渡る。ひたすら真っ直ぐ。
突如、早苗さんは左に曲がる。そのことに気がついた時には、まだ私の体は前を向いていた。首だけが彼女の方に向き直っている。慌てて体を向き直して、続いていく。
早苗さんと私の距離は大して空いていなかった。何故ならば、早苗さんはすぐ側の珈琲店に入ろうとしていたからだ。遅れた分を追いつかなければならないと焦ったが、どうやら必要なかったようだ。
始めに向かったのは珈琲店だった。この珈琲店は昨日も目にしていた。確か赤いハイビスカスが窓の外から見えていたはずだ。ふと目に赤いハイビスカスが映る。やはり昨日と同じ艶やかなハイビスカス。
早苗さんがガラスの扉を開けると、鈴がちりんちりんと鳴った。微かに乾いた冷風が腕に触れた気がした。
店内に入ると冷房の効いた涼しさがひんやりとこの体に感じられた。冷房特有の独特な匂いが浅く鼻腔辺りを漂う。残り香がどこか煩わしさを覚えて、小さく鼻を啜った。
爽やかな笑顔を見せる大学生くらいであろう男性の店員に案内されて窓際の席に腰を下ろした。丁度、その側の窓には赤いハイビスカスが植木で咲いていた。
男性の店員は少し私たちから離れると、二つのお冷を持ってくる。微かに氷同士がぶつかる音が聞こえた。
男性の店員は本日のストレート珈琲をマニュアル通りにきっちりも説明した後、バックヤードへと戻った。バックヤードの方からは作業する音が、店内の優雅な音楽な混じえて、小さく聞こえていた。
店員の声がしなくなると、切り替わって店内の音楽の方が耳に強調される。音楽はクラシックのようだった。先程は洒落たトランペットの音色が印象的だったが、今は変わってピアノの無機質な音が響く。
私は音楽に疎いほうで、流行りの曲だとか、アーティストだとか、どの時代にかけても音楽には疎かった。楽器もできない。カスタネットやトライアングルであれば、教えられたら少しはできるようになるだろうが、学校で習得したリコーダーや鍵盤ハーモニカの運指なんてとうに忘れているし、今たちまちに私の技術でできる楽器は一つもなかった。
小学生の時の音楽会を思い出す。私はいつもリコーダーだった。授業でいつも練習しているリコーダー。それくらいしか私はできなかった。
音楽会ではリコーダーだけでなくいろんな楽器を用いて演奏する。王道なのはやはりリコーダー。他にも木琴や鉄筋、打楽器にオルガン。その中でも一際目立っていたのがオルガンだった。
オルガンはクラスでも、学年でも女の子たちからの人気の的だった。主役と言っても過言ではないくらいに。女の子はみんなオルガンを希望した。しかし、私一人だけはいつもオルガンを希望しなかった。希望しなかった、というより希望できなかった、の方が正しい。女の子みんながピアノを希望するという可笑しい状況だったのに、当時はピアノを希望しない私の方が可笑しいように扱われた。
「なんでオルガン希望にしないの?結生ちゃんも勿論ピアノ弾けるでしょ?」
子供ならでの純粋さがチクチクと胸に刺さった。悪気がないことなんて当然理解していた。だからこそ、余計に苦痛だった。
私の住む児童養護施設では習い事はできなかった。その点に関して私は何か不満を持つことはなかった。ただ、私以外の女の子はみんなピアノを弾けた、ということだ。ただ、それだけ。ただ、それだけが私はとても耐え難いものだった。
女の子みんながピアノを習っていたという訳ではないだろう。でも、少なからずそういった経験をどこかで積んでいたりしたのだろう。しかし、私には当然そんな環境なんて初めからない。誰かに教えてもらうことも、ピアノがすぐに弾けるような環境も、何も無かった。
だから私はいつも音楽会の期間は、ただ異色な目に耐えしのぐことしかできなかった。胸が張り裂けてしまいそうで、いっそのこと張り裂けてしまった方が楽だと誤解してしまいそうだった。
「なんだかお洒落なお店ですね。音楽もお洒落だし」
あまり思い出したくない記憶が脳内に込み上げた。それを吐き捨てるように自らその記憶と結びつく話題を持ち出す。
「ね。いい感じのお店だよね。来てよかったでしょ?」
口元に笑みを浮かべて、早苗さんは自信ありげに言う。
「ですね」
短く賛同を示した。
「ていうか、何頼みましょうか。流石にもうお腹は空いてないのでガッツリしたものは食べれないですけど」
柔らくて厚みのある質感が手に触れる。テキトーなページでメニューを広げると、美味しそうなデザートが一面に並べられていた。季節限定のかき氷や通常メニューのケーキ。
「かき氷美味しそう。さっきはデザート食べなかったから何か食べたい。ケーキも美味しそう」
早苗さんは一面のデザートにあちこち指を滑らせていく。
「他には何があるの?」
早苗さんにそう尋ねられて、パラパラとメニューを捲っていく。ランチなどのガッツリとした食べ物は素通りしていく。流石にそれを詰め込む胃袋の隙間は生憎今は持ち合わせていない。
「あ、ちょっとストップ」
メニューを捲る手を止めて、捲っていた手を少し巻き戻す。飲み物の一覧が現れた。端に可愛らしい珈琲のイラストが添えられている。
僅かな間、早苗さんはメニューを黙視し続けると、小さく頷く。飲み物を決めたらしい。意外にも彼女はすぐに注文を決め終えた。
私も飲み物を選ぼうとするが、稀に発する優柔不断が出る。アイスカフェラテとアイスティのどちらにするか迷っていた。
早苗さんはゆっくり悩んでいいよ、と言ってはくれるが、私が待たせたくなかった。
「どちらにしようかな天の神様の言うと、お、り」
言葉の一文字一文字に合わせてアイスカフェラテとアイスティを交互に指を指していく。止まった指はアイスティを指さしていた。天の神様とやらに決めてもらった結果、アイスティを注文することにした。
その傍で早苗さんが呼び出しベルを押す。力が足りなかったのか、二度押すのが目に入った。
「結生が住んでるところはそんな感じなんだ」
「何がですか?」
そんな感じなんだ、のそんな感じが何を指しているのか分からず尋ねる。
「天の神さまの言うとおり、のやつだよ」
ああ、と小さく納得する。
「早苗さんのところはこれとはまた違うんですか?」
「結生がさっき言ってたやつと一緒なんだけど、あたしのところはまだ続きがあってね。どちらにしようかな天の神さまの言うとおり。なもしのなもしの柿の種。って感じかな」
「へえ、聞いたことないです。それ。私はさっきのやつで終わりで、続きなんて聞いたことがないです。地域によって違うんですね。どこ出身なんですか?」
なんとなく興味本位で訊いてみる。
「それがさあ……分からないんだよね。物心つく前から何回か引っ越したりしてて。だからどこに住んでる時に覚えたやつか未だによく覚えてないんだ」
「ふうん」
冷たい水を喉に流し込む。グラスは冷たいままで、手のひらがヒリヒリと僅かに痛んだ。グラスを手放しても、ジンジンと冷たさが薄く残る。
「じゃあ……」
話を切り出そうとした時、視界に店員が私たちのテーブルに近づいてくるのが見えたため開きかけていた口を噤む。
「ご注文お伺いします」
同じ男性の店員だった。ハンディターミナルを片手に早苗さんが口にしながら指さすメニューを覗き込んでいる。その片手間にオーダーを記録していく。
手短にそれが終わって、中断していた話を再開する。
「なんだっけ」
「えっと、どんなとこに住んでたんですか?その……なんというか、地域の特徴的な」
早苗さんは顎に手をやって思い出す素振りを見せる。
どんなところなのだろう。物心つく前の町というのはなんだかノスタルジックで儚い印象を受ける。朧気ながらの記憶にあるそこでの思い出。田舎ならば、ほっこりする近所の公園や駄菓子屋だろうか。はたまた都会ならば、綺麗な夜景やミステリアスな裏路地だろうか。
「そうだなあ。自然が多いところだったよ。たくさんの山があって、川が流れてて。記憶が間違ってなければ田んぼに囲まれてる家に住んでたと思う。絵に描いたような田舎って感じのところだった」
「いいですね。自然が多いところってなんだか気分が晴れるって言うか。私も田舎住みですよ」
「もしかして同じ地域に住んでたりした?まさか。なんちゃってね」
「さあ、どうでしょうね。もしかしたら……なんてことあるかもしれないですね」
もしもそれが本当だったとして、それはそれで面白い。知らぬうちに道端ですれ違っていたり、はたまた会話までしたことがあったりしたらこの再会はもはや運命とでも言うしかないだろう。
その後も趣味や音楽、最近のニュースなどと他愛もない話を繰り広げた。時間はあっという間に過ぎ去っていった。意外にも早苗さんと私は会話の波長が合うようで、会話をしていて自然と、互いの表情が綻んで心地よい空気感が漂う。
私にしては珍しいことだった。普段からそんな人に会うことは滅多になかった。例え、そんな人が私の前に現れたとしても、いつも最後は私からこの身を引いた。今回もきっとそうなる。白昼夢のようにそれは一瞬のことで、その人との記憶は曖昧になる。綺麗に美化されたまま忘却していく。
早苗さんとの関係もすぐに、ふっと消え去ってしまうと考えると胸が物悲しさで満ち溢れかえった。私は今、夢現のまっさなかに閉じ込められている。夢くらい何も考えずにいたい。
三時のおやつの時間になって、店内が混んでくる。どうやらみんなが知らない秘密の穴場、とかではなかったようで、どんどん人がやってくる。段々とバックヤードからの物音が大きくなっていく。目にしなくとも、忙しさはひしひしと伝わってくる。
傍の赤いハイビスカスは陽光にしばらく照らされていなかったのか、薄らと萎れていた。店の頭上を濁った雲が覆う。
頃合いを見計らって会計を済ませ、店を後にした。勿論、会計は早苗さん持ちだった。ご馳走様です、と短く感謝を伝えた。
店内を出る最後の最後まで、珈琲の深みのある香りが鼻腔に行き届いていた。が、瞬時に夏の匂いへと変わる。夏の熱い空気が身体を包み込んだ。だか、店に入るまでに灼熱の炎を燃やし続けていた太陽は今や雲に隠されて、僅かに暑さは薄れている。
次はどこへ向かうのだろう。そう思いながらもそれを尋ねることもなく、アヒルの子供のようについて行く。無心でアスファルトを蹴り続ける。硬くて凸凹した感触が足裏に伝わる。
向かった先は足湯だった。ほとんど旅館に戻ってきたと言っていい。見覚えのあるその足湯は昨夜、訪れた場所だった。誰もいない。ぽつりと二つのベンチが鎮座していた。
私たちは昨日と同じようにそのベンチに腰かけた。
ズボンの裾を手で捲り上げて、足をゆっくりと湯へ沈ませる。夏の暑さを上回る熱だった。予想外にも足湯は日陰にあるというのに、湯はそれなりの温度を保ち続けていた。
思わず、足を引っこめる。足先が僅かに赤くなり熱を帯びている。靄が邪魔をするその様子をこの目で捉える。
熱を逃がすために足で湯を掻き混ぜると、少しは緩和された。時折、バシャッと湯が音を立てる。捲り上げられた裾は僅かに色が濃く滲んでいた。
猛暑日に足湯を楽しむ。それは季節外れな行動のように思えたが、それもまたいつもと一味違った試みで胸が弾んだ。それにここは世間の猛暑に比べて、比較的涼しい。熱さが苦になることはなかった。乾いた風が身体を突き抜ける。風の感触が心地よかった。でも、すぐに風はどこかへ去っていく。愁いだけを残して。
珈琲店での他愛もないやり取りによって話題はは既になくなっていた。互いに話題を提示する訳でもなく、ただひたすらに通行人を眺めたり、繰り返し湯を足で掻き混ぜたりしていた。沈黙も早苗さんとの空間では全く苦に感じない。むしろ心地よい。言葉を交わさずとも意思疎通が可能のような、そんな気がした。無論、疎通よりも早苗さんが私の考えを見透かしている、という方が的確だ。が、互いの空気感が上手く調和されているのも事実だった。
無心で脇道を眺めていると、ふと一匹の猫に焦点が定まる。それはまるで、一躍有名なスターに群衆の目が釘付けになっている様子と大差なく、私は何故かその猫から視線が逸らせない。
自然体な格好が目につく。首輪はしていない。首輪の跡もない。野良猫だろうか。この雄大な自然に囲まれた土地なら容易に想像できる。黒や茶の虎柄をしている猫。黒く透き通る瞳がこちらを見ていた。
興味本位。特に理由も見当たらないが、猫の行方を追ってみようと思った。なんとなく、このこの夏の暑さのようにじわじわと感じられる退屈さから抜け出したかったのかもしれない。
お気に入りの青のスニーカに素足を通す。折角、その気になったのに見失っては興が冷める。猫を見失いたくはなかった。それに少々、靴下を履きなおすことが面倒くさい、という気があったのだ。靴下はズボンのポケットに突っ込んだ。
初めは私の唐突な行動に戸惑いつつあった早苗さんも、有無を言わずに私に続いて後を追う。不思議な雰囲気がただ流れる。砂利を蹴る音と夏風だけが耳に行き届いていた。
猫は人目を避けるためか、細い裏路地のような道しか選ばなかった。雑草が生い茂る中に紛れて紫色のアサガオが灰色の空に微笑を向ける。
坂道を登っていくと膝まで伸びた雑草へと変わる。小さな虫が時折、顔付近を近くを飛び回るので、雑に手で追い払う。
平気で虫を手掴みできた子供の頃を懐かしく思う。家に何かしらの虫が現れた時は私がいつも追い払っていた。今じゃ、到底そんな真似はできない。
ようやく平坦な道へ出る。さらに進むと続く道は下り坂だ。辺りは木が生い茂る。雲隠れた太陽が道を照らして、その上を猫と私たちが彷徨い歩く。行先も、いつ到着するのかも、何も分からないまま後をつけた。始まりは簡単で、でも終わりはそう簡単には見えなくて。宛もなく彷徨い続ける恐怖は猫には感じられなかった。むしろ、それを楽しんでいるかのようだ。猫になりたいと思った。
山に沿っている石垣を猫は飛び乗って、さらにどこかへ向かった。カサカサと草が小さく動く音が聞こえる。
そのまま猫のように石垣を登ってついて行こうと思った。登れない高さではなかったけれども危険な行為だと分かりきっているため辞めておく。それに石と石との隙間に虫が暮らしていそうで触れない。
代わりにすぐ傍の石段を上る。階段の両側に竹で質素な手摺りが作られているものの、グラグラと揺れて不安定だ。ここは普段、あまり人通りが少ない場所なのかもしれない。設備が不完全であり、背高い雑草も悠々と生い茂っている。
山道から離れたこの場所は数多の木々が仁王立ちしていた。木の独特な匂いが立ち込める中、私たちの目先には大岩がちょうど三つ、三角形を作るように位置している。一つには例の猫が座っている。その様子はまるで小綺麗な猫の置物がそこにあるようだった。
残りの二つの大岩に私たちはそれぞれ腰を下ろした。猫の不思議な空気感に唆されたかのように自然と身体がそうするように向かっていった。
猫は逃げなかった。傍に人間がいるというのに、物怖じせずにちょこんと座って毛繕いをしている。物珍しい猫だと思った。
早苗さんの方に目をやると、彼女も猫を見ていた。優しく暖かい眼差しが猫を捉え続ける。私はその様子に釘付けになった。柔和そのものである彼女の表情は私が信頼したいと思える理由の一つなのかもしれない。顔つきはその人の人生を表していると思う。
猫に手のひらを近づけると、猫は匂いを嗅いでから舌先で指の腹を舐めた。実感のない感触が指の腹から生まれる。ひ弱な生き物。しかし強くて真っ直ぐな瞳が頑固たる信念を表している。私なんかよりも余っ程、強い生き物だった。
のろのろと猫は小さい足で私の脚の上を歩く。野良猫の証というのか足の爪が僅かに突き刺さってどことなく痛みを感じる。猫はしばらく突っ立って、そして座ってまた毛繕いを始めた。生ぬるい温度が脚に居座る。首筋を撫でてやると嬉しそうに体を捩らせてゴロゴロと鳴いた。
葉同士が擦れ合ってカサカサと音を立てる。するとそこに一枚の葉が猫の頭に舞い落ちた。それをひょいっと摘み取って、薄らとした繊細な葉脈を指でなぞる。胸の奥がスっと昇華していく気がした。
「猫ちゃん触ります?」
先程から視線を感じていた。その視線は私も猫に触りたいという意思表示。そう解釈して早苗さんに猫を渡す素振りを見せる。
どうやら私の解釈は一致していたようで、早苗さんは綻んだ笑顔を見せる。小声で歓喜しているのが聞こえる。拡がる彼女の両腕に向かって猫を両手で抱き、移動させる。
猫は私の時と同じように私の腕の中から彼女の左手の匂いを嗅ぐ。しかし何かしらが気に入らなかったのか、猫はぷいっとそっぽを向いて腕から逃げ出した。さっきまでの穏やかな雰囲気からは想像できない程に足早に逃げ去る。
私たちは黙ってそれを見送った。追いかける気にはもうならなかった。
「え、はあ?」
横で怪訝な声が聞こえる。今にも騒ぎ立てそうな声で耳を塞ごうかと考えが過ぎる。
「あたしの手が臭いって言いたいのか、あの猫は!失礼な奴!」
私は笑みを堪えるが、どうしても顔が歪む。口端が上がるのを手で覆い隠す。
早苗さんはこちらを見て、すかさず「笑うな!」と自分も破顔しているにもかかわらず、命令する。一体どの口が。
「あたしの手はこんなにもフローラルな香りしているというのに。ねえ?嗅いでみてよ」
彼女の手が前に出されるが、結構です、と笑いながら拒む。早苗さんは手を引っ込ませて猫が逃げ出した方を見ながらもう、と頬を膨らませていた。全く子供みたいだ、と保護者目線で見守る。
カラスの鳴き声が聞こえた。警告を示すかのような響きが山に広がる。遠くで草木が揺れる音が微かにする。他の動物かカラスの鳴き声に呼応するように動き出したのだろうか。
自然豊かで静かな場所。ここは私にピッタリの場所だ。いっそのこと、ここで自由気ままに暮らせたらどんなに素敵なことだろう。無駄に人間関係で疲れることも必死に勉強する必要さえもない。しなければないない、という義務的な考え方に囚われずに思いに従って生きることができる。
早苗さんも丁度タイミングよく仕事を辞めた訳だし、一緒にここで暮らせたらいいのに。自給自足で、大変でもいいから静かに、気ままに暮らしたい。
「ねえ。あのさ……」
どこか神妙な声色が私に話しかける。
声の方に顔を向けて、短く返事をする。
掴みどころのない微妙な表情がこちらを向いている。喜怒哀楽、どれにも当てはまらない。口が開く。
「ここって、どこ?」
小さく拍子抜けする。何か真剣な話でもされるのかと思った。そんな声色に聞こえていた。
「確かに……ここの近くの道はなんとなく覚えてますけど、それ以前の道は結構細くて入り組んでたから……もう覚えていないですよね」
「そう。それにさっきから天気がずっと怪しい。早く帰った方がいい気がする。多分、これは結構降るよ」
「同感です。ひとまず山道の方に行きましょう」
現段階では雨は降ってきていなかったものの、石段は湿気のせいか濡れた後のような色をしている。山道に出て、来た道を戻る。雲に太陽が隠れて、薄暗くて気味の悪い光景が広がる。早く建物がある道へ行きたい。
早苗さんはお馴染みの画面がバキバキに破損したスマホを取り出して、地図アプリを起動させる。ここまで地図アプリが役立つとは思いもしなかった。
「あの、気になってたんですけど」
「ん?」
「どうしてそんなにスマホの画面割れてるんですか?落としたにしては傷ができすぎてるなって」
なんとなく気になったことを問いかける。大方、早苗さんのことだからドジを踏んで幾回も落としてしまったのだろうとは思う。
しかし予想は大きく外れる。
「ああ、これか。実はムカついてた時に勢い余ってスマホを地面に投げちゃって」
その顔には笑みが浮かんでいる。
私は思わず、え、と言葉を漏らす。
「そうなんですか?てっきり落としたものかと」
「ううん。あ、ムカついたって言っても、上司に理不尽なことされてーって感じながらあたしが短気とか、そういうのじゃないからね!?そこんとこは間違えないでよ」
人差し指がこちらを指す。早苗さんは余程、自分が短気ではないということを知らしめておきたいらしい。いじったらしく目の端が歪んでいた。
「はいはい分かってますよ。まあ、ドジな早苗のことだから落としたっていう方が納得ですけどねー」
意地悪く言ってみせる。
「いや、ドジじゃないし!」
間伐入れずに否定が入る。なかなか早かった。
それにしてもあの温厚そうな早苗さんが地面にスマホを投げつけるくらいに苛立つとは、上司は一体どんな理不尽を彼女に強いたのだろうか。気になるところだ。その上司は恐らく、早苗さんが昨日辞めたという会社の上司だろう。辞めて正解だったと思う。
……何か引っかかる。でも、その正体は分からない。自分がどこに引っかかったのかも分からない。後味悪いモヤモヤとした感覚が胸に居座る。その正体を突き止めて、早く追い払いたい。
早苗さんともう一度、同じ会話をしてみれば分かるかもしれないが、面倒くさいという気持ちが現れたため出しかけていた言葉を仕舞った。
「結生。今スマホ持ってたりする?」
早苗さんが凝視しているスマホを覗き込む。画面は黒い映像しか流れなかった。いや正しくは何も流れなかった。
早苗さんは何度も電源ボタンを長押ししている。力を込めようが何の変化も起きない。
「充電しとけば良かったなあ」
「じゃあ、私のスマホで調べますね。一応、持ってきてはいるんで」
念の為にズボンのポケットに仕舞い込んでいたスマホを取り出す。電源ボタンを長押しして一日ぶりに電源をつける。画面が明るくなると、しばらくしてロック画面が現れる。ロック画面には新学期に新しく知り合ったクラスメイトとの自撮りが設定されていた。熊の耳や鼻がエフェクトで加工されてピースをこちらに向ける女の子が五人。仲睦まじそうに見える様子がある。
四桁のパスワードを入力する。ホーム画面に移行すると、そこにも映る女の子五人の顔を隠すように波のような通知が押し寄せてくる。どれもトークメッセージや着信履歴だった。
それらから目を背けたくて急いで、早苗さんと全く同じ地図アプリを開く。『平山温泉』と検索をかけて周囲の地形情報を確保した。
雨がぽつぽつと降り始めていた。心無しか風も強くなってきている気がする。今日は雨予報だったのだろうか。グルメ番組なんかよりも天気予報を見ておけばよかった、と脳内でタラレバを思いながら歩いた。
たちまち雨の匂いが立ち込める。雨によってアスファルトは色濃く変色してた。
いつの間にか小走りをしなければならないくらいに雨が降り注いでいた。一つひとつの雨粒は小さいけれど、とめどなく降り続けるせいで髪や衣服が僅かに湿り出す。
雨粒がぽつぽつと広がる画面を見ながら見覚えのある道を辿る。すぐそこにはあの足湯が見えた。
「やっと帰ってこれた。まさか雨予報だったとはね。今朝、天気予報を見た時は晴れだったのに。通り雨っぽい」
旅館に無事到着した。辛うじて服や髪も差程、濡れてはいない。数分すれば乾いているだろう。
雨音が鳴り響いて、他の音が聞き取りずらい。淀んだ灰色が大空を占める。晴れ渡った景色はなくなってしまっていた。
「完璧に降り始めちゃいましたね。風もさっきより全然強くなってきてるし」
「ともあれ、温泉にでも浸かって一息つくか」
「そうですね。そうしましょう」
小さい欠伸が零れる。歩き回ったからだろうか。僅かに眠気を感じる。昼食を散々食べたため流石に空腹感はまだ生まれていなかった。
雨によって濡れた階段を上る。僅かに滑り危ない。靴と濡れた階段が擦れて高音が鳴る。濡れた手すりに捕まって慎重に階段を上った。
透明なガラスのドア越しからロビーに私たちと同様に、不意打ちに雨に降られて逃げ帰ってきて客たちが大勢いた。皆、雨や風で格好は乱れている。
外出する前は綺麗に掃除されてきたフローリングも泥水が足跡となって汚れていた。今も尚、多くの人に汚されている。
ドアの傍には貸し出し用の透明なビニール傘が立ち並んでいる。誰もこの雨を予想していなかったのか、一つも雨に濡れた傘はなかった。
部屋に戻るためにエレベーターへと向かう。大勢の客の間を通り抜ける。雨の匂いがそこらに充満していて、鼻先にそれが残り香となってこびりつく。
「あれ?結生?」
唐突に誰かから名を呼ばれる。早苗さんの声ではない。では、一体誰なのか。
声には聞き覚えがあった。かつて毎日のように聞いていた声。
声の主を確認しようと振り返った。雨の匂いに紛れて懐かしい香りが鼻を掠める。
そこには確かに見覚えのある人物。中学時代の同級生がこちらに向けて手を振っていた。
頭の中が渦巻いて、断片的な記憶が流れ出した。