山手線で新宿駅から品川駅まで行き、東海道新幹線に乗り換えて品川駅から名古屋駅まで行った。できれば、名古屋駅から下呂駅まで直通の特急電車に乗りたかった。しかし時間帯が悪く、次にその電車が運行するにはかなりの時間を要したためJR東海道本線で名古屋駅から岐阜駅まで行き、JR高山本線で岐阜駅から下呂駅までを特急電車で行くことになった。
「席空いてて良かったね。超ラッキー」
「そうですね」
愉快な彼女とは対照的に私は気怠げな声を聞かせた。
互いにこれというこだわりはなかったため指定席か自由席のどちらにしようか、と迷いつつあったが、指定席を悠長に決めている程の時間の余裕はなかったため自由席の切符の購入を強いられた。勿論、実際に買ったのは彼女の方だが。購入を待つ間、どんな顔をしていたら良いのか分からなかった。多分、仏頂面になっていたことだろう。
夏休み初日なため、もしかすると車内は混んでいるかと思われたが、予想とは裏腹に家族連れや老夫婦、若いカップルであろう男女が数組という具合で、さほど混んではいなかった。
やはり夏休み初日ということで子供が多く見られた。それこそ彼女と同じような無邪気な笑顔を見せる三歳児程のちびっ子が、父親とおもちゃの新幹線を使ってごっこ遊びをしている様子が目に止まった。
私はすぐに視線を彼女の方へ再び向けて、置いていかれないように後を続いた。
彼女に続いて後方の端の席へ向かった。こういうところでは彼女と私は似ているらしい。私が選んだとしても同じような位置の席を選んでいた。
私が窓側に座り、彼女が通路側を座った。
私が窓側に座りたいと、どことなく思っていたことが見抜けたらしい。窓側に座ったら、と呆気なく譲られた。
彼女の言葉に甘えて言われるがままに着席すると公共交通機関のあの独特な座り心地を感じた。
彼女は横で座席の上の荷物棚に洋服が入った紙袋を置いていた。駅に行く道中にちょっと急用ができた、と言って洋服屋に入店した時に買っていった物だろう。未だにスーツ姿の彼女は見るからに暑そうだった。
前の座席の背面テーブルを出して先程、彼女に買ってもらった駅弁や飲料水を置く。お腹は空いていないので結構です、と一度は断ったもののタイミング悪く腹鳴が彼女の耳に行き届いてしまったため渋々、彼女の厚意に甘えることにした。
私はなにやら愛知県のブランド牛である愛知牛とやらをふんだんに使った牛めしの駅弁を、彼女は名古屋名物がふんだんに詰め込まれた名古屋の玉手箱の駅弁をそれぞれ選んだ。
彼女の駅弁は駅弁にしては長時間の検討の末に選ばれたものだった。五分は悩んでいたのではないかと思う。 一方で私はすぐにそれを決め終え、度々新幹線の発車時刻を気にしてチラチラと新幹線の方を見つめていた。私としては気が気ではなかったが、店主のおじさんはじっくりと選んでいる彼女を微笑ましそうに見ていた。
彼女から手渡されたおしぼりで手を拭いて彼女の食べる体勢が整うのを待った。車窓に目をやると、丁度その時から景色が変わり始め出した。
背面テーブルに視線を戻して前の座席の模様を無意味に観察したり飲料水の栄養成分表示のそれぞれの含有量を確認したりしていたが、それに飽きるとなんとなく彼女の方を一瞥した。ばちりと彼女とが合うと、彼女は自分が待たれている身だと感じたのか、先に食べていいよ、と手で合図を送ってくる。私は手を横に振って大丈夫だというサインを出したが、それでも彼女は引き下がらなかったため少し申し訳なく感じたが、無駄な譲り合いをしたくなかったため遠慮せずに食べることにした。
「牛めし」とでかでか印刷された紙製の帯と蓋を取ると、食欲を促す牛めしが露になった。これまた車窓からの景色を楽しもうと、ブラインドを開けたままにしておいたため窓の外から光が差し込んで牛めしを照らしている。それにより牛肉と米がきらきらと輝いていて、スポットライトに当てられた主役たちはその存在をより強調しいていた。
左右非対称に割れた歪な形の割り箸で最初の一口を運ぶと、ひと噛みで肉の旨味と米の柔らかさの調和が感じられた。今朝の朝食に菓子パンを食べた以来、何も口にしていなかったため箸が進み続けた。彼女はこれもまた見抜いていたのだろうか。
駅弁の容器は特有の素材を扱っていて触り心地が独特だった。とは言えど、美味しいことに変わりなく、空腹は最高の調味料だとしみじみ感じた。
ものの十分足らずで食べ終わってしまった。こんなにも早く食事を済ませたのは中学生以来だろうか。中学生時代は学校で給食が用意されていたが、十五分間などと短時間で食べなければならなく、味わって食べた記憶がさっぱりなかった。
勢いよく胃の中に固形物を取り入れたせいで胃の中がぐるぐると気持ち悪かった。子供の頃に永遠とその場でただひたすらに一人でぐるぐると回る遊びをした後の感覚がした。
症状を緩和するために水をがぶ飲みするも尚、胃の不快感は治らなかった。
ふと窓の外に目をやると、少し前までは高層ビルで溢れかえっていた光景ががらりと一変し、辺り一面に住宅街や田畑が広がる光景へと化していた。
ぽつんぽつんとその街に暮らす人々が見えた。田んぼを耕している老人、公園で駆け回っている子どもたち、犬の散歩をしている少年、たくさんの生活がそこにはあった。やがて、再びビルやマンションなどの景色へと逆戻りする。
「じょーちゃん、そろそろ駅に着くから降りる準備しといてね」
「はあ」
覇気のない声で返事をした。気分が優れない状態であることも関係なくはないが、やはり心の中のどこかで来なければ良かっただろうか、とブルーな気持ちになる。自分で決めたことだというのに、来てしまった感というか、何か言い表せない微妙なものを感じる。決めたのは私自身なのに。
粗雑な態度な気がするが、今さら気遣う態度を取ろうとしても互いの居心地が悪いだろう。実際に彼女がどう思うかは分からないが。
それに数日後には私からは全て失われて何も残らない。幾ら気遣ったってそれは残らない。やさぐれたことをしているのは否めないが事実なので仕方がない。彼女からも何か言う素振りは見受けられないので放っておいても良いだろうか。
だが、一つだけどうしても個人的に放ってはおけないことがある。
「ずっと気になってたんですけど、いつまで『じょーちゃん』って呼ぶんですか?なんかちょっと変な感じがするっていうか、なんというか……」
「慣れないんだ?」
「ええ、まあそういうことです」
彼女に出会ってから何気にずっと気にかかっていることを問いかけた。
「嫌だった?気に入ってるんだけどなー」
「別にそういう訳じゃないですけど、やっぱり変な感じがするっていうか、違和感があるっていうか」
「じゃあ、名前教えてよ」
「……結生です」
見ず知らずの人に名前を教えることは気が引けた。見ず知らずといえど、出会ってから数時間は経過しているが。
しかし、この旅行とやらが終わるまで「じょーちゃん」と呼ばれることにも気が引けたため姓は教えず、名だけを教えることにした。偽名を教えることが脳裏を過ったが、辞めておいた。結局はツバメのように同じ場所に巣を作るために帰ってくるかのように起点に戻るのだが、数日後には私には何も残らないためそこまで大それたことをする必要性を感じなかった。
「で、人に名前訊いといて、自分は答えないんですか?フェアじゃないですよー」
口先を尖らせて言った。
彼女だけが私の名前を知っているのはフェアでないと感じたため彼女の名も教えるように要求する。それに彼女の名前を知らないと、彼女を呼ぶ時に私が困る。
停車駅が着々と迫ってきて次第に新幹線のスピードが遅くなっていく。座席に座っていても全身がふわっと感触のある空気に触れているような浮遊感に包まれた。
彼女は手に荷物を持ち、その場に立って降りる準備をしていたが、私は座ったまま彼女の返答を待っていた。駄々をこねてその場から離れようとはしない三歳児のようにその場で彼女の声を待ち続けた。
なぜか彼女は口を開こうとはしなかった。まるで彼女と私が初めて出会った時のあの奇妙な時間と瓜二つな沈黙が再び訪れた。
車内が小刻みに揺れ続ける。彼女はたどたどしい動きで仁王立ちしている。そして薄らと切なげで侘しい表情を浮かべていた。
その表情は変わらないまま彼女はごそごそとスーツの内ポケットを漁って一枚の紙切れを手に出す。
それをかしこまって丁寧な持ち方に直すと今度は私に差し出した。名刺だった。
「宮田早苗と申します。よろしくね、結生」
「えっと、早苗さん。よろしくお願いします」
早苗さんは暖かい口調で自己紹介をした。その口調と微笑んだ顔に、私は自分が今出会って僅かな人間に呼び捨てされたことに気が付かなかった。普段なら無礼な奴だなあ、なんて感じて好感度が下がるのだが、彼女の場合は特別だった。無駄に意地を張る私は彼女に見惚れていたことを認めたくなかった。
いかにも優しそうなオーラを持ち出されて、完全に私は早苗さんのペースに絆されそうになっていた。それを不意に自覚し頭を横に振って消し飛ばす。
改めて早苗さんの名刺に目を通すと、そこには「宮田早苗」と印字されていた。ゴシック体で氏名と会社名に加え、所属部署までご丁寧に示されている。彼女は営業部らしい。いや、今となっては営業部だったらしい、という方が正しいのか。
本来ならば私も早苗さんのような名刺を数年後には作らなければならなかっただろう。なんとなく高校生活を送って就職活動して、卒業して平凡な社会人になるというありふれた人生を送る予定だった。だが、そんな馬鹿みたいな徒労を私はしない。
私は母子家庭だった。父は物心ついた頃からいなかった。
父は果敢な消防士として民間人の救命に努めていた。しかし、大規模な火災の消火作業に加勢した時に懸命な人命救助の末に自らを犠牲にして火に包み込まれて死んだ。
運悪く母はその現場に居合わせていたらしく、自分の夫が死ぬ光景を目の当たりにしていたようだった。居合わせていたらしい、というのはいつだったかは正確に覚えてはいないが、寝ている母が悪夢にうなされて零した寝言から母がその火災現場に居合わせていた、ということを推測した。その寝言というのが、なんとも聞くに耐えないもので「行かないで」と何度も何度も、永遠とその言葉を繰り返し零していた。その他にも「お願いだから助けに行かないで」「火がそこまで来てるから逃げて」などと痛切な心の叫びを聞いた。消防士だから仕方がない、という簡単で単純な言葉では済まされなかった。
物心ついた頃には既に母は仕事三昧の生活を送るようになっていた。朝も昼も晩も三日三晩、母は働き続けた。当然、夜も帰って来れない日もあった。むしろ、その方が多かったまである。母子家庭だからその分、収入が少なく生活費や私の学費を稼ぐために躍起になって稼ぎに出てくれていたのだろう。しかし、単純にそれだけが母が働き続けた理由とは考えられなかった。私は母が夫を亡くした悲しみを少しでも考えないようにするためだった、とも思っている。母の精神の回復に引き換えて私は淋しさを患った。
まじまじと名刺を凝視していた私に向かって「ちょっとそんなにまじまじと見ないでよ。恥ずかしいから。そんなもの見てないで降りよう?」と早苗さんは照れくさそうに笑って言った。
彼女に促されて車内から降りた。彼女から貰った名刺をひらひらと手で弄びながら彼女の後に続いて行く。
ホームから改札口に行き、その近くに置かれていたゴミ箱に飲食した形跡を捨てて次に乗るJR高山本線の特急電車の切符を買うために券売機へと向かった。
早苗さんが券売機の前に立ち、私がその横で事が終わるのを待つ。切符の購入は先程と同様に彼女に任せていた。
私の手には未だに早苗さんの名刺があった。やはり名刺は人様に渡すだけあって質感が良かった。触り心地が非常に良く、道中は無意識にずっと指の腹で擦り続けていた。
流石にそろそろしまおうと思い、空の財布の札入れのスペースに名刺をしまい込んだ。
「うーん」
突然、早苗さんの唸り声が聞こえて彼女の方を一瞥する。早苗さんは眉間に皺を寄せながらも視線は彼女の眼前のタッチパネルにあった。どうやら気付かぬうちに早苗さんはタッチパネルと睨めっこを始めていたようである。
私はその問題のタッチパネルを覗き込んだ。ひと目で早苗さんが眉間に皺を寄せる理由が分かった。
タッチパネルにはどこどこ線の席を購入するだとか、方面がどうだとかが表示されており、なんにせよ複雑だった。初めて利用する者の多くは苦戦すると思われる。勿論、老若男女問わず利用できるように最大限に簡略化されているとは思うが、それでも複雑に見えた。
片手に収まる回数しかこういった交通機関を利用したことがない私にとっては、見ているだけで目が眩んだ。至難の業だった。
切符の購入はまるっきり早苗さんに任せていたが、彼女のタッチパネルを押そうとする指は完全に行き場を失って、ふらふらと彷徨い続けていた。早苗さんも私と同じようにこれは至極難解だと思っているのだろうと表情から分かった。激しく共感できた。
早苗さんは迷っていても埒が明かないと感じたのか、手当り次第にタッチパネルを押していく。しかし、そう易々と思うようにはいかない。
そんな不運に見舞われても着々と時間は進んでいき、発車時刻が迫る。彼女も私も天井から吊り下げられている時計をチラチラと何度も気にかけていた。しかし、まだ幾分か時間に余裕があった。とは言えど、油断はできないような時間だった。
「なんだい。お困りのようだねえ。手伝おうかい?」
隣の券売機の方から声がした。
早苗さんと私は揃いに揃って、声の方を見てから互いに顔を合わせてまた、声の方を見た。
声の主は老婆だった。目尻に皺を広げるその目は確かにこちらを捉えていた。
「ほれ、それに苦戦しとるんじゃろ。さっきから困った顔をしとるようやしなあ」
老婆はタッチパネルを人差し指で指差して言った。その皺が歪に広がる指には銀色の指輪が嵌められている。
「そ、そうです」
早苗さんがワンテンポ遅れて返答する。
「わしに任せとき」
老婆は早苗さんに目的の駅を訊くと、その後は素早い手つきでタッチパネルを操作していく。時折、細かな質疑応答を繰り返してあっという間に購入まで進んだ。老婆は年齢に反して機械に達者な人物だった。
早苗さんは何一つ皺のない紙幣を幾枚か券売機に刷り込ませていく。以外にも几帳面な人だと思いながらその様子を見守った。
早苗さんは販売機から出された切符の枚数を用心深く確かめる。
目的の切符を確保できると、彼女は老婆に向き直って深くお辞儀をした。これが社会人の礼というものらしい。
「すみません。ありがとうございました」
早苗さんに習って私も遅れて一礼する。
私が顔を上げると、早苗さんは横でまだ頭を下げていた。
「気にすんじゃないよ。困った時はお互い様じゃからな」
老婆の一言に早苗さんはようやくして顔を上げた。
「それにその電車じゃと、そろそろ発車時刻が迫ってきとるじゃろう?わしに構っとらんとはよ行きなさい」
私たちは時計の方を見て時刻に驚愕した。発車時刻まで残り三分程度だった。
本当にありがとうございました、と早苗さんは再び繰り返して老婆に礼を伝えると、バキバキにひび割れたスマホのロック画面に表示されている現在時刻を確認しながら私の手を引いて走り出す。そんな画面で画面が見づらくないのか、といつもならば呑気に考えているだろうが、今はそうもいかない。早苗さんに手を引かれるまま走る。
「あと数分で特急電車出発しちゃうね!やばいよ、急げ!」
早苗さんはなんだか楽しそうだった。時間の余裕の無さとは無縁のようにどこか余裕を持ち合わせていた。
「もう間に合わないですよ!ここからはまだまだ距離ありますし。諦めましょう?」
余裕がない私は早苗さんのようにはなれない。
切符代が少々、勿体ないと感じたが、両者共々必ずしも下呂温泉に行きたいわけではないはずのため彼女に諦めを助長させる。それに発車時刻にはもう間に合わない気がする。
近くで発車の合図のような声が聞こえていた。
「絶対にもう間に合わないですよ」
「間に合わないじゃない。間に合わせるの!」
手を引っ張られながら走っているせいで走りづらい。半ば二人三脚の状態になっていた。
すれ違う人々が、ちらりとこちらを興味深げに見ては、すぐに興味をなくして違う方を向いていく。誰も私たちの内を観ようとはしなかった。
足を踏み外してしまうのではないかと、ひやひやしながら超特急で階段を下りる。ドアの閉開を告げるアナウンスが私たちの背中を押して、間一髪で車内に乗り込んだ。
「いやあ本当に危なかった。ギリギリセーフでなんとか間に合ったね」
早苗さんは膝に手をついて息を切らしながら言った。几帳面にアイロンかけされていたスーツにはつい先程までの努力が現れていた。
まさか本当に間に合うとは思いもしなかった。
「諦めましょうって、言ったのに。久しぶりに、こんなに走った」
息が上がっているせいで途切れとぎれに言った。運動習慣は愚か、体育の授業以外での運動はもっての外だったため運動不足なのは言うまでもない。それこそ最近の二十代の若者は運動不足がどうだとか騒がれているのだが、早苗さんは私よりもよっぽど活力を持ち合わせていた。
それにしても疲れた。息はまだ弾んだままで、鼓動も五月蝿かった。立っている状態を維持することでさえも辛い。
身体の訴えを聞くがままに側の壁に手をついてしゃがみ込むと、眼前には早苗さんがいて彼女の方が私よりも先にしゃがみ込んでいた。早苗さんに特別、体力があったという訳ではないらしい。もしかすると、私よりも早苗さんの方が体力がないのかもしれない。どう比べようが、どんぐりの背比べ程度にしか早苗さんと私の体力の差は生じていないだろう。
しかし、早苗さんの方が私よりも余程、重症でまだまだ息が弾んでいるようだった。
「ちょっと大丈夫ですか?これだから諦めましょうって言ったのに」
早苗さんはここまでして旅行に行きたかったのだろうか。早苗さんの気持ちがどうであれ、彼女のこの旅行に私は必要なかった。私を誘った理由が分からなかった。自殺を止めたかった、というのは分かるのだが、ここまで必要以上に私に執着する必要など一体どこにあるというのだろう。所詮はただの他人で、それ以上も以下も、何もない関係だというのに。私に何かを求めているというのなら、私は早苗さんに何かを返すことは一生できなくなる訳で、見返りなんかこれっぽっちもないのに。
「何、言ってんの!諦めるわけないでしょう?お金は、大事なんだよ。自分が一生懸命に頑張って得たものだから。君もいつか働く時が来るだろうから、分かるよ。そのうちにね」
へえ、とテキトーに相槌を打った。私にそんな事が分かる日は永遠と来ないと思った。泣きたくなった。けれど、涙は出なかった。
「いやあ、それにしても万年、運動不足の社会人に全力疾走だなんて身体に毒すぎる。本当に心臓がちぎれそう。何でもするから神様助けて。本当に無理だ、ちぎれる!」
早苗さんは自分の心臓を労わるように撫でた。
「ふへへ、大袈裟ですよ。ちぎれるわけないんで安心してください。だいたい運動しない人が悪いんですよ。まあ、私も少しも人のこと言えたものじゃないんですけどね」
あまりにも過剰な表現に思わず笑みを浮かべた。こんな風に自然に笑うことができたのは久しぶりだった。
「え、へへ。そう?」
「そうですよ。それよりここから移動しましょう。そろそろ空いてる席を探しに行きたいのでね」
どこの車両が指定席で、自由席なのかを確認してきていなかったので、しらみ潰しに車内を歩き回った。
先程の恩人とも言える老婆曰く、指定席は全て既に予約済だったとの事を聞かされた。そして、またもこだわりのない私たちは自由席を選択したのだ。
しかし、車内を全て歩いたと言っていいだろう。端から端まで移動してみたが、座れる席はおろか、立って乗車する人が何人か見受けられた。この特急電車に揺られる多くの人々も、私たちと同じように下呂駅へと向かっているのだろうか。
座って乗車することは不可能だと分かり、諦めて車内の片隅で立って乗車することにした。
社内の前方にはステンレス製のメッシュラックが通路を挟んで両側に一つずつ設置されており、中方には座席が、後方にはある程度のスペースが確保されている、という構成の車両だった。
私たちは後方のスペースで乗車することにした。座席に座る人々が一望できる。また、左右どちらをとっても緑が広がる景色が見えた。
後方の一角に身を縮めて寄りかかる。窓に頭部を預けた。
道はとても複雑で特急電車は蛇行して進んでいく。進むと同時に心地よく横に揺れた。
車内が激しく揺れるため時折、その反動で壁に頭をぶつけては、ゴンと鈍い音が響いた。音が鳴る瞬間は頭に鈍痛が走って、どこが遠くへ逃げ出した後の気持ちになった。
不意に大きく痛みを感じる時もあったが、それすらも心地よく感じた。
立ちっぱなしに足が疲れると、次はしゃがんでみる。床に座るのは昔から抵抗を感じていたためしなかった。
昔から母の影響を受けやすい人間だった。母がピンクを好きと言えばピンクの物を積極的に集めたし、逆に母がアボカドを嫌いと言えば食べたことがないにもかかわらずアボカドを嫌いになった。床に座ることに抵抗を感じるのも、それが原因だった。
幾度も立ってはしゃがむという徒労を繰り返していた。しかし、確実に時間は過ぎていき、気づけば大きな深緑に取り囲まれていた。深々とした緑に私たちは吸い込まれていく。
河川が見えてくるとさらに周囲は夏色に彩られていく。河川は太陽に照らされて煌めいていた。夏を連想させる景色だった。
特急電車はもう春に近かった。
ようやくして下呂駅に到着した。ぞろぞろと人混みに紛れて下車し、改札口を通った。辺りは既に橙赤色の空気が漂っていた。
「とりあえずどこか泊まれそうな旅館探そっか。急だからすぐに見つかるか分からないけどね」
「そうですね」
辺りを見回すと、同じ特急電車を降りた乗客たちは当然のように揃って旅館から手配されたバスに乗車して目的地を目指そうとしていた。無論、泊まる旅館さえ決まっていない私たちはバスなんて利用できない。タクシーという手段が頭に浮かんだが、そんなものは見当たらなかった。
夕方といえど、三〇度は上回っているような気温だ。それに湿度が高いせいで余計に蒸し暑さを感じる。ここから歩いて坂をずっと登っていくのは正直、あまり気が向かない。早苗さん曰く、多くの旅館は坂の途中にあるらしいので、坂を登ることは避けられないようだ。
勿論だが、私は初めて足を踏み入れる土地のため道が分からないのは当然のことである。そのため子どものころに訪れたことがあるという早苗さんが、今もこの土地の道を覚えているかどうか、ということに今後の私たちの動きは委ねられていた。
しかし、早苗さんはやはりそうか、というように道を覚えていなかったようだ。その証拠に私たちは先程から立ち往生を続けていて、動く様子は微塵もなかった。
彼女は朧気な記憶を思い出そうとしているのか、何も話さずにずっと山の方を見ている。
途方に暮れたかと思われたが、どこかしらの旅館から手配されているであろういくつものバスが連なって移動していくのを捉えると、私たちは必然的にそれらに従って歩き出した。
始めは歩きながら、そして段々と小走りしながら、しまいには走りながらバスに着いていったが、当たり前に一つ残らずにバスを見失った。
今度こそ途方に暮れたかと思われたが、私が地図アプリを利用することを提案すると、早苗さんは手でグーをつくり反対の手のひらに叩いてそうか、と一言言ってスマホで調べだした。
早苗さんの道案内により(実際のところは地図アプリなのだが)旅館探しが再開された。
地図アプリの案内に促されるがままに山の麓に位置しているいくつもの旅館が見える方向へと進んだ。
「楽しみだね。結生もそう思うでしょ?」
「ええ、はいはいそうですね」
生返事を返す。早苗さんに対する気遣いはとっくに無くなっていた。普段の私ならこんな無関心な声は出さなかった。
「本当はそう思ってないでしょ。釣れないヤツめ」
「はいはいそうですね。正直言って面倒くさくなってきました。それに疲れました」
不満を漏らした。暑さも疲れも蓄積されていた。
「はいはいそうですね。疲れましたねえ」
早苗さんが私の真似をする。我儘を言う三歳児をあやすように言った。
思わず口元が綻む。
「あたしは楽しみにしてるんだ。温泉入って美味しいもの食べて……」
「確か、お母さんとここに来たんでしたっけ?」
「うん。確か小学校低学年くらいに行った気がする。もう大して覚えていないんだけどね」
へえ、と相槌を打ちながらも家族と旅行する楽しさを想像した。
「結生は家族とどこか旅行に行ったことある?」
「……私は特にないです」
家族の話題は私に気まずさをもたらした。
早苗さんは私の反応に違和感を持ったのか、首を傾げた。
「どうかした?」
「いや、別にどうって訳でもないんですけど。私、長い間児童養護施設で育ってきたから家族と出かけたことなんて数えられるくらいしかないなって。あ、家族って言ってもお母さんしかいないんですけどね。お父さんは私が生まれてすぐに交通事故で亡くなったらしいので」
大抵の人はこの話をすると同じような反応を示す。ばつの悪そうな顔をして、死ぬ間際の蝉がふらふらと彷徨うかのように視線を泳がせる。テンプレート化されているように思えた。
しかし、早苗さんは今日の朝食の話をする時と同じようなトーンでそっかー、と相槌を打った。
どことなく腑に落ちないものがあったが、話を続ける。
「児童養護施設で暮らしているって言っても、お母さんとは頻繁に面会であってはいますけどね。ただ、お母さんは昔から病弱であまり働けなかったから一緒に暮らすのは難しくて」
早苗さんはまたも、今日の朝食の話をする時と同じようなトーンでへえ、と相槌を打った。そこに見慣れた光景はなかった。
この話をして、大抵の人がばつが悪そうにするのも、私の息が詰まるのも、誰も悪くない。何も悪くない。
ただ、私は、私のお母さんは、私のお父さんは、最初からこういう運命だっただけだ。
神様がいるなんて思ってはいない。だけど皆が崇める神様という奴がいるのならこんな私を見てどう思っているのだろう。神様とやらさえも私を……
だいたい、皆は神様が人々を助けてくれるなんて戯言を謳っているけれど、神様に人々を助ける義理なんてどこにもないのに。人生の終わりだって結局は自分自身で決める。神様なんて関与していないし、できない。神頼みして命を救ってほしいだとか、皆は図々しすぎるんだ。だから神様に善意があったとしても私はこういう運命を辿ってしまうんだ。
地面の赤茶色のレンガタイルの線を目で追って歩いた。頭の中はぐるぐると渦巻いている。意味のないことの繰り返しは何も余計なことを考えなくて済むから好きだった。
傍の珈琲店からチリンチリンと誰かが出入りした合図とともに珈琲の香りが微かに鼻を掠める。店側を見ると、店内に飾られている赤いハイビスカスが目に止まった。ガラス越しにも艶やかな印象を受ける。
「ここをまっすぐと進むと大きな橋があるらしいよ」
早苗さんがスマホを見ながら口にした。
早苗さんの言う通りにまっすぐ進んで、さらに横断歩道を渡ると、大きな橋が私たちを迎えた。飛騨川を横断する橋だ。
橋の傍の木製の看板には「飛騨川」と墨で書かれていた。月日のせいで、看板の端々には小さな亀裂がいくつか走っている。
その看板を横目に歩を進める。足の裏はコンクリートの感触に変わっていた。水流の音が風に吹かれて耳に流れ込む。
飛騨川ははっきりとその正体を目にしなくとも、その圧倒的な威力を誇っていた。
私たちは、柵から顔を出して下を覗き込んだ。
以外にも橋と水面の距離はさほど遠くはなかった。しかし、圧巻の水流が迫力を演出していることによって、その脅威がチラついていた。
隣で縮み上がっている私に早苗さんは 「すごい迫力だね」と、その絶景に高揚してうわずった声で言う。
怖じける気持ちを掻き消すために普段よりも少しばかり大きな声で早苗さんの方を向いて返事をした。
「そうですね」
早苗さん程の声量ではなかった。
再度、下を覗き込んで水流を目にするも圧巻の流れは変わらない。私が実際に滝を目にしたことがないから本当はどうであるかは分からないが、滝をも連想されるような流れだった。
流石に長い時間、この脅威を目の当たりにしていると頭が少しふらついた。
「ここから落ちたら危ないですね。流石に流れが速すぎて泳げない人は勿論、泳げる人でさえもまず助からないでしょうね。多分、死んじゃうと思う」
自分に注意を促すように言った。
「うん。本当に危ないからあまり身を乗り出さないでね」
「分かってますよ。まあ、私は泳げないので、落ちたら一巻の終わりなんですけどね」
勢いのある流れを横目に自嘲気味に言い放つ。
泳げない、と言ってもバタ足は辛うじてできる。しかし、それ以外のクロールや背泳ぎなどは習得できなかった。だから水泳の授業は昔から嫌いだった。泳ぐくらいなら百枚の見学レポートを書く方が余程マシだと思っていた。とは言いつつも、結局は強制的に参加はしていた。そうしなければ、悪い成績が叩き出されることは目に見えていた。
「へえ。結生って泳げないんだ」
早苗さんのどこか嬉しそうな声が聞こえた。隣を向くと、早苗さんはニヤニヤと意味深げな笑みを浮かべていた。
「悪かったですね。泳げなくて」
早苗さんが私を嘲笑っていないことを理解した上で、わざと悪態をついて見せた。
「なんだか嬉しい。結生にもできないことあるんだって」
「当たり前ですよ。ただの人間ですからね。私はロボットじゃないのでね」
早苗さんは嬉しそうに微笑んだ。
「ちなみに、あたしは泳げるよ」
そうですか、と笑顔を早苗さんに向けながらぶっきらぼうに答える。
水流を眺めるのも程々にして私たちは再び歩き出した。
他愛もない会話を繰り広げていて気づかなかったが、夕日は既に沈んで辺りは暗くなってきていた。夏のおかげで大して暗くはないものの、またも気付かぬうちに暗闇に包まれることになるだろう。
今夜泊まる旅館の手筈を整えていない私たちは、歩幅を大きくして旅館が集う方へと向かった。
宛もなく出会う旅館先々に訪ねては、断られることを繰り返した。正直言って希望を感じなかった。
ここを訪れた時はどうとでもなるだろう、という安易な考えが満ち溢れていたが、こうもなるとそう易々と事が運ばれはしないということが薄々と勘づいてくる。
急遽のお泊まりはこちらの方では難しいですね、何度聞かされたものだろうか。ここ一帯が旅館地帯ということは関係なさそうだった。むしろ、どこの旅館も口々にオンライン予約を口にするので、時代のせいとでも言うしかなかった。恐るべし情報社会だった。
道には洒落た街灯がいくつも飾られている。街灯が暗闇の空間に色を与えていた。この暗闇では街灯がなければ白黒といったモノトーンな色彩しか見分けることができなかった。鮮やかな緑も淡い黒と一体化したように見えた。
街灯は色を与えるだけでなく、私たちが進む先々を灯してくれていた。光が坂道を照らしていた。
「アプリによるとこの先にある旅館は、ここからだと結構な距離があるらしくて……。戻る?」
「……戻りますか」
勇気のいる行動だと思ったが、そろそろ私たちの身体は疲労を訴え始めていた。この旅館地帯での突如となる宿泊は、私たちの想像以上に難しいことであったらしく、悲しいことに五回は確実に断られていた。坂道を歩き続けたこともあり、肉体的にも精神的にもすり減っていた。
足には疲労が蓄積されて立っていることすらも、今すぐに辞めてしまいたかった。座るか横になるか、どちらでもいいから今すぐにそうしたかった。
それが最もな理由なのかもしれなかったが、これ以上に滞在できる保証がない旅館を求めて歩き続けることは避けたかった。避けたいというよりも、もはやそのような活力は微塵も残っていなかった。
たったの五分、いや三分でも良いからこの道中で目にした足湯の椅子に座って休憩したい。
時刻は一九時二三分。夏至といえど、辺りは既に暗い。普段ならこんな早くには就寝しないが、今日だけは一刻も早くに眠りこけてしまいたかった。ふかふかの布団が恋しくなった。
進行方向を真逆に転化して来た道を戻り始めたその時、ふと早苗さんがぽつりと呟いた。
「……野宿」
疲労により性能が衰えた脳は、僅かな間を置いてその言葉を認識した。
野宿。屋外で睡眠をとるという、あの野宿。
あそこまで疲労を訴えている脳だが、野宿となれば話は変わってくる。野宿だけは何がなんでも避けたかった。
これも小さい頃に受けた母の影響でしかないのだが、外にはたくさんの菌が散乱している、という考えが脳に染み付いているので、不衛生な屋外での宿泊は脳が拒否反応を示した。若干、私にも潔癖な面がある、ということだ。細かく言うと、これだけが理由という訳ではないが。
疲労により身体の機能が衰えたせいで聞き間違いをしてしまった可能性がないとは言いきれないため一応、聞き取った言葉が正しかったかどうかを訊いてみる。
「聞き間違えかもしれないんですけど、野宿って言いました?」
期待は打ち砕かれたようだった。
「うん。野宿だね」
「の、野宿ですか」
「……嫌なんだ?」
「当たり前ですよ。虫がいっぱいいるし」
「そうだけど、さっきから泊まれそうな旅館に全然巡り会えてないし、多分野宿になるかな」
「いやいやいや!そうは言ってもさすがに野宿は却下ですよ。野宿だけは!絶対に」
焦りに口調が早くなる。野宿だけはどうしても受け入れられないのだ。
「ええ、どうして?」
「まあ、不衛生だし……。それに他にも寝ている間に誰かに貴重品盗まれるかもしれないし、怪しいと思った人が警察に通報して警察に取り締まられるかもしれないし、面白半分に写真撮られてSNSに投稿されちゃうかもしれないし……。いや、言い出したらキリがないですけど、何はともあれ絶対に辞めておく方が懸命というか、なんというか。私が耐えられないというか……」
早苗さんに半ば強制されて行く、と言ってのこのこ着いてきたものの一応、連れてきてもらっている身という手前、我儘を口にするのは少々どうかと思う。しかし、野宿は、野宿だけは耐えられなかった。
焦り散らかして深刻に話す私を見て早苗さんは微笑みながら、うんうん、と相槌を打つ。
私はその悠長な笑みに戸惑った。私の話を本当にしっかりと聞いているのか、と。その笑顔には、か弱い赤子や小さな動物を遠くで微笑ましく見守るようなものしか含まれていないと感じる。再度、説得する必要があるように思えた。
「そんなことになったら大変です。大問題ですよ。大問題。だから辞めときましょう。私たちの身の安全のためにも」
「そうかそうか、それは大問題だね」
早苗さんの表情は依然として変わらなかった。日中の暖かい時間に日向ぼっこをしている時のような綻んだ表情のままだった。
「それは本当に思ってる表情なんですかね」
脳天気な人だと半ば呆れて苦笑した。脳天気なところが早苗さんの良いところだとは思うが、そんな悠長な考えをしていると何が起こるか分かったものじゃない。勿論だが、私が超が付く程の心配性、というのは前提としておこう。
とはいえど、ある程度に泊まれる旅館を探し求めて進んだ道を今や、引き返してしまっているため再び、同じ道を歩くのは面倒くさい。それにそんな体力など到底残っているわけがない。
同じ道を進んでも、同じ結果に辿り着く気がしたため来た道を引き返したが、安易に決断を下したのはやはり良くなかったのだろうか。
早苗さんの言う通りに野宿は避けられないものなのか。
「まあまあ、落ち着きたまえ。結生くん」
早苗さんは時代劇のように私に諭す口調ぶりで言った。何か名案を隠し持っているように見えた。
「まあまあ、そんな顔しなさんな。ひとまずはあそこの足湯のベンチで一服しましょうや、旦那」
今度はくん付けからなぜか、旦那に変わっていたが、もう気にしないことにする。
早苗さんの提案によって、ひとまずは休憩することにした。もしかして隠し持っているように見えた名案とはこの休息なのかもしれないと悟り、小さく落胆を覚える。野宿を逃れる案を思いついた、とその口から聞きたかったものだ。
早苗さんがついさっきに見やった方の足湯に向かう。足湯の側にある街灯が、付近の揺れ動く湯気を照明していた。
足湯を挟んで、両側に木製のベンチが鎮座していて、早苗さんはそこに腰掛けて一服しようとしていた。つくづく呑気な人だ。
そこに近づいてから気づいたが、一匹の薄い茶色の蛾が街灯に集っていた。少し気になったが、見なかったことにして早苗さんが座っているベンチに腰かけた。
早苗さんは煙草の箱とライターを取りだして、煙草に火をつけようとしたが、直前でそれを辞めた。煙草を少しの間、見つめてから思い直すように煙草をしまった。
私は気が変わったのだろうか、と考えながら不思議そうに早苗さんの方を見つめる。それと、早苗さんは意外と結構な頻度で煙草を吸う人なのかと考えた。
早苗さんがずぼらな人間で本当に使えなくなるギリギリまでライターを使用しているせいだからなのか、はたまた使用頻度が多いせいだからなのか、ライターは薄汚れていた。
私は未成年なので勿論、煙草を吸ったことがないから一箱に何本の煙草が入っているかは知らないが、ちらりと見えたタバコの箱の中は時期に空になりそうに見えた。早苗さんの煙草の箱を持つ手からカラカラと音を立てているのも聞いた。
私の早苗さんを見つめる視線と、彼女の視線が出逢う。
「受動喫煙って知ってる?」
唐突に早苗さんが私に訊いた。
いきなり何を言い出すんだ、と思ったが、一応知らないわけではないため答えておく。それになんとなく、早苗さんが思い直したように煙草をしまった理由と結びついているような気がした。
小学校、中学校と、保健体育の授業の記憶を遡る。
体育教師の武本という二〇代の男の先生を思い出した。武本先生は二〇代という若さを持っているが、年齢に反して教師歴が長そうに見えるほど生徒には厳格な態度を示している教師だった。
武本先生のことで最も記憶に残っていることといえば、喫煙の授業だった。
当時では生徒の間で、武本先生が学校の敷地内で煙草を吸っている、という噂が密かに流れていた。
ある保健の授業後に私は一人でテスト日締切の提出物を早めに提出しようと、授業後に武本先生の後を追いかけた訳だが、気づけば校舎裏に着いており、武本先生は見事に噂通りの行動をしていた訳である。
その時の私は何も言わずにその場を去った。提出物もその時に出せずじまいで、テスト日の締切ちょうどに提出した。
大スクープではあったが、変にトラブルに巻き込まれて大事にしたくはなかったので誰にも話さなかった。当時の友達すら。そのため今でも私の記憶の中で留まっている。このまま墓場に持っていかれることは確実だった。
そして、これまた面白いことに例の事件を目撃した後の次の授業がなんと喫煙に関してだった。その授業で武本先生は彼自身が喫煙している身でありながらも、喫煙は体に悪いから初めっから喫煙なんてするなよ、と生徒に喚起を促していた。勿論、先生は喫煙なんてしていないぞ、と付け加えて。
当然、私は誰がどの口を言っているんだ、と心の片隅で軽く毒づきながら授業を受けたが、そのおかげというのか喫煙の授業は今でも鮮明に記憶していた。勿論、その単元のテストは武本先生のお陰と言っていいのか高得点だった。
私はつい数年前の私しか知らない事件を追憶しながら答えた。
「ん?ええ、知ってますよ。なんかあれですよね。煙草を吸っている人から出る煙を周囲の人が吸っちゃうことで間接的な喫煙になる、みたいな……」
武本先生のおかげというのか、所為でというのか確かに授業内容は記憶されていた。
「そうそう。よく知ってるね。やっぱり学校の授業をよく聞いてるんだ?そのおかげなのか」
「まあ、そんなとこです」
武本先生の事件は一応、早苗さんにも内密にしておこうと思う。
「ふうん。で、私が何を言いたいかって、受動喫煙の方が煙草を吸っている本人よりも身体に悪影響を及ぼすんだって。なんかさ、急に高校の保健体育の授業を思い出してさ。懐かしー。って、言ってもあんまり覚えていないんだけどね」
へぇと相槌を打った。あまりにも脈絡がなかったため、どういう流れでそのことを私に話したくなったのかが気になった。
「だからー、煙草辞めよっかな、私。結生のこと病気にさせたくないし。君は長生きするんだから病気になっちゃあべらぼうに困る!」
またも早苗さんに時代劇口調が混じる。
「ああ、そう」
微妙な彼女の気遣いになんとも言えない気持ちになった。多分、私の希死念慮に対する早苗さんなりの気遣いなのだろう。そのことを察することができてしまったためどんな顔をしていたら良いのか分からなかった。
深追いはしなかった。だけど、感傷の色が私の胸を染めた。
「辞めれるかなあ……」
早苗さんか独り言をこぼした。
いつもよりワンテンポ遅れて聞こえたため反応に遅れた。
「中毒になっちゃってるんですか?」
「いやあ、そんなことはないって言いたいけど、どうだろう。仕事の時とか休憩でよく吸っちゃうくらいかな」
「へえ。大丈夫ですよ、絶対。それに無理して辞める必要なんてどこにもないですからね。あ、でも、辞めれることなら辞めといた方が良いですけどね!?体には勿論悪いので」
「だね」
休憩と言いつつも、気付かぬうちに私たちは長居してしまっていた。時間は経てども、辺りの暗さは変わっていなかった。
これからどうしたものか、 と本日何度目かももはや分からないくらいに、またも途方に暮れた。本当の本当に野宿しか選択の余地はなくなってしまった。
通り過ぎゆく旅行客が浴衣を着てあちこちを歩いていた。多くの人がコンビニ袋を片手にしている。コンビニが坂のふもとにあったのでそのためだと思われる。
私は羨望の眼差しを向けた。早苗さんもまた同じだろうと一方的に思う。本来ならば今頃、私はふかふかの布団の中で眠っているのだろうか。
「それはさておき、ちょっくら行ってみるか」
早苗さんは手をついて立ち、迷いなく目先の建物に向かった。
突然の事といい、早苗さんの不十分な言葉といい、状況が把握できなかったが、滞在先の宛が見つかったのかもしれないと思い、何も言わずに彼女に続いた。
その建物は私たちが先程まで休憩していた足湯から一つ道路を挟んであった。
私の記憶によると、見覚えのない建物であったが、一度は横を通りはしていたので覚えていないだけで見たことはあるはずだった。
まず初めに目に止まったのは木製の大きな看板だった。上部外壁に「平山温泉」と黒字で描かれた看板が堂々と掲げられている。結構な大きさだったので一度見たらすぐには忘れないとは思うが、何せ上を見ながら歩く趣味はないのでやはり見覚えはなかった。
そして、それを目にしてようやくこの建物が旅館だということを認識する。
この建物の外観は旅館というよりかは、どちらかと言うと何の変哲のない建物だった。個人的には民家のようにも見えなくはなかった。
加えて、一階に当たる部分は駐車場になっているため二階に出入口が存在しているようだった。
建物の構造を観察しながら早苗さんに続いて、奥に設置されてあった螺旋階段を上る。自動ドアを通り抜け、旅館よりも、ホテルという方が相応しいようなロビーに足を踏み入れた。
ごわついたカーペットが私たちを当旅館に迎え入れた。
少し歩いた先には従業員が出迎えている受付口、両側にはくつろぐためのソファや古風な置物たちなど、奥手には多種多様な土産を揃えている土産屋。間違いなく旅館だった。
期待と不安が私たちの足に絡まっていた。
私たちは受付口にいる六〇代半ばのベテランそうな女性の従業員と目が合って会釈を交わした。目尻の皺が印象的だった。それが柔らかい雰囲気を作り不安が少し和らぐ。
先に口を開いたのは従業員の方だった。朗らかな声だった。
「もしかして、急遽お泊まりの方ですか?」
なぜ、私たちが滞在を希望する者だと分かっただろうか、と疑問に思った。浴衣に着替えずに私服のまま出歩いていた客だったのかもしれないのに。
しかし話が早くて助かる。
「そうです。二人なんですけど、一部屋泊まることは可能ですか?」
従業員の質問には早苗さんが答えた。
私は期待を胸にじっと成り行きを見守った。
従業員はパソコンを操作し、画面を凝視した後にこちらに向かって淡々と言った。
「えっと、そうですね。ちょうど一部屋空いてますよ。本旅館でしたら本日を含めまして三日間は可能ですね。ですが、三日間となりますと三日目は一日目と二日目とは異なったお部屋になりますが……どうされますか?」
「じゃあ、二日間お願いします」
早苗さんは即答した。
私はようやく眠れると内心、喜んだ。その場は、喜びをそっと胸に収めてチェックインの準備を待った。
チェックインの準備を待ちながら、今更ながらに早苗さんは未だにスーツを着ているため成人していることが分かるが、私はそうではないため年齢確認などをされないものだろうか、と不安に駆られた。しかし、私たちの関係を知らない従業員から見れば早苗さんは私の保護者に見えるので、すぐにその心配は吹き飛んだ。
「料金のお支払いはチェックアウトの際にあちらの精算機でお願いします。こちらでは部屋鍵のみお預かりしますね」
「分かりました。ありがとうございます」
早苗さんが従業員から支払いの説明を受けながら四二三号室の部屋鍵を受け取ると、私たちは四階にある部屋へと向かった。
部屋は突き当たりに位置していた。個人的にこの部屋の位置は嬉しかった。両隣の部屋の人たちを気にしなくて済むのでその分、配慮する負担が軽減されるからだ。
金属製で少し重たいドアを開けると、こじんまりとした玄関が私たちを迎えた。滞在する人数に反して部屋は全体として広々としていた。偶然、空いていた部屋だったため二人用ではないのかもしれなかった。
玄関からすぐの右手に洗面所、左手にクローゼット、十数歩進んだ先にシングルベットが二つ並んでいる。その傍らには白いプルメリアが飾られていた。他にも小さな机やテレビが端に置かれている。全体的に無駄な物がなく、だだっ広さだけが強調されているという印象だった。
右側のプルメリアの花弁をそっとなぞるようにして触れてやると、手に滑らかな触り心地が走った。それにより、この本物のように見えるプルメリアは造花だということにようやく気づいた。
部屋の探索も程々にして私たちはそれぞれが部屋の端々に私物を固めて置いた。とは言っても、私たちは宿泊客とは思えない程に軽装な荷物だった。キャリーバッグどころか、大きな鞄さえも持ってきていなかった。
興味本位で押し入れを開けると敷布団が何枚かきちんと整頓されて置かれている。
また、傍のクローゼットの中には数着分の浴衣がハンガーにかけられていた。
自分の身長に合わせてMサイズの浴衣を手に取った。
浴衣は紺色で、いかにも紅色の帯が似合いそうだった。そう思いながら帯を探していると、まさしく紅色の帯が見つかった。
「早苗さん、浴衣のサイズってどうしますか?」
「Mでお願い。ありがとう。そこら辺に置いといて」
再びMサイズを手に取って、邪魔にならないと思われる机の上に置いた。
カーテンを少し開けたその世界は、何の変哲もない景色だった。暗くてよくは見えなかった。しかし、暗闇の中でも私と同じ目線で、店がいくつか並んである光景だけは捉えることができた。
四階なだけあるため多少は見晴らしが良い景色が広がっていることを期待していたものの、ここ一帯は山頂に向かって一様に緩やかな傾斜が続いているのでそのような光景は拝めない。四階でこのような高さであれば、三階以下は土の壁でそびえ立っているように見えていることだろう。
興味が掻き立てられることはなかったので、すぐにカーテンを閉めた。
特にすることもないので寝ようと思う。就寝の前に入浴するか迷ったが、混雑していそうな時間帯だし、それに一刻も早くに眠りたかったため今日は見送ることにした。翌朝でも良いだろう、という考えだ。私の頭の中では入浴するべきだと主張されていたが、欲望には抗わずに従った。
流石に浴衣に着替える気力だけは残っているため不慣れな手つきで着替える。帯の結び方など知る由もないので感覚で結んだ。帯の結び方を知っている人が見たら目を丸くするだろう。しかし、誰も見ることはないので結び直す必要はない。
「えっと……寝ます」
こういう時は何と声を掛ければ良いのか分からない。
すぐに了解、と返事が聞こえた。それが合図のようにそのまま勢いよくベットに横たわる。ボフッと布団の音がした。
一日の身体の疲労感がじわじわと広がって染みる。深い溜息をついた。
いつものあの嫌な感覚が胸の中で渦巻いた。心が握り潰されてしまうような、喉を締められているような、鈍くて重いものだ。こういうのを日本語で感情的になる、と言うのだろう。
眠りにつく前はいろいろなことを考える。考える、というよりも私は記憶が反芻される、という方が多かった。
今日あった些細な出来事や誰かとの会話のやり取り。今日だけに限らず、ついさっきから大昔の記憶が脳内で永遠と漂っていた。
これは眠りにつく前だけではなかった。勉強している時も音楽を聴いている時も、授業を受けている時も。磁石みたいに一生、ずっと纏わり着いてくる。結局は私が同じ極になるしか手立てはないのだ。私が変わるしか。
私みたいな人間は寝ることが向いていないと思う。
だが、お母さんが横で絵本を読んでくれている時だけはすぐに寝つけていた。お母さんの温もりを感じて、安心感に包まれて何も考えずに眠って。それだけで幸せだった。
視界は暗闇だった。真っ黒。その裏に記憶が流れ続けていた。
その裏とやらで、初対面の人と同じ空間で寝られるものだろうか、と考えていた。できる人はできるだろうが、私は無理だろう、なんて考えていたら翌朝にはそこからの記憶はなくなっていた。
「席空いてて良かったね。超ラッキー」
「そうですね」
愉快な彼女とは対照的に私は気怠げな声を聞かせた。
互いにこれというこだわりはなかったため指定席か自由席のどちらにしようか、と迷いつつあったが、指定席を悠長に決めている程の時間の余裕はなかったため自由席の切符の購入を強いられた。勿論、実際に買ったのは彼女の方だが。購入を待つ間、どんな顔をしていたら良いのか分からなかった。多分、仏頂面になっていたことだろう。
夏休み初日なため、もしかすると車内は混んでいるかと思われたが、予想とは裏腹に家族連れや老夫婦、若いカップルであろう男女が数組という具合で、さほど混んではいなかった。
やはり夏休み初日ということで子供が多く見られた。それこそ彼女と同じような無邪気な笑顔を見せる三歳児程のちびっ子が、父親とおもちゃの新幹線を使ってごっこ遊びをしている様子が目に止まった。
私はすぐに視線を彼女の方へ再び向けて、置いていかれないように後を続いた。
彼女に続いて後方の端の席へ向かった。こういうところでは彼女と私は似ているらしい。私が選んだとしても同じような位置の席を選んでいた。
私が窓側に座り、彼女が通路側を座った。
私が窓側に座りたいと、どことなく思っていたことが見抜けたらしい。窓側に座ったら、と呆気なく譲られた。
彼女の言葉に甘えて言われるがままに着席すると公共交通機関のあの独特な座り心地を感じた。
彼女は横で座席の上の荷物棚に洋服が入った紙袋を置いていた。駅に行く道中にちょっと急用ができた、と言って洋服屋に入店した時に買っていった物だろう。未だにスーツ姿の彼女は見るからに暑そうだった。
前の座席の背面テーブルを出して先程、彼女に買ってもらった駅弁や飲料水を置く。お腹は空いていないので結構です、と一度は断ったもののタイミング悪く腹鳴が彼女の耳に行き届いてしまったため渋々、彼女の厚意に甘えることにした。
私はなにやら愛知県のブランド牛である愛知牛とやらをふんだんに使った牛めしの駅弁を、彼女は名古屋名物がふんだんに詰め込まれた名古屋の玉手箱の駅弁をそれぞれ選んだ。
彼女の駅弁は駅弁にしては長時間の検討の末に選ばれたものだった。五分は悩んでいたのではないかと思う。 一方で私はすぐにそれを決め終え、度々新幹線の発車時刻を気にしてチラチラと新幹線の方を見つめていた。私としては気が気ではなかったが、店主のおじさんはじっくりと選んでいる彼女を微笑ましそうに見ていた。
彼女から手渡されたおしぼりで手を拭いて彼女の食べる体勢が整うのを待った。車窓に目をやると、丁度その時から景色が変わり始め出した。
背面テーブルに視線を戻して前の座席の模様を無意味に観察したり飲料水の栄養成分表示のそれぞれの含有量を確認したりしていたが、それに飽きるとなんとなく彼女の方を一瞥した。ばちりと彼女とが合うと、彼女は自分が待たれている身だと感じたのか、先に食べていいよ、と手で合図を送ってくる。私は手を横に振って大丈夫だというサインを出したが、それでも彼女は引き下がらなかったため少し申し訳なく感じたが、無駄な譲り合いをしたくなかったため遠慮せずに食べることにした。
「牛めし」とでかでか印刷された紙製の帯と蓋を取ると、食欲を促す牛めしが露になった。これまた車窓からの景色を楽しもうと、ブラインドを開けたままにしておいたため窓の外から光が差し込んで牛めしを照らしている。それにより牛肉と米がきらきらと輝いていて、スポットライトに当てられた主役たちはその存在をより強調しいていた。
左右非対称に割れた歪な形の割り箸で最初の一口を運ぶと、ひと噛みで肉の旨味と米の柔らかさの調和が感じられた。今朝の朝食に菓子パンを食べた以来、何も口にしていなかったため箸が進み続けた。彼女はこれもまた見抜いていたのだろうか。
駅弁の容器は特有の素材を扱っていて触り心地が独特だった。とは言えど、美味しいことに変わりなく、空腹は最高の調味料だとしみじみ感じた。
ものの十分足らずで食べ終わってしまった。こんなにも早く食事を済ませたのは中学生以来だろうか。中学生時代は学校で給食が用意されていたが、十五分間などと短時間で食べなければならなく、味わって食べた記憶がさっぱりなかった。
勢いよく胃の中に固形物を取り入れたせいで胃の中がぐるぐると気持ち悪かった。子供の頃に永遠とその場でただひたすらに一人でぐるぐると回る遊びをした後の感覚がした。
症状を緩和するために水をがぶ飲みするも尚、胃の不快感は治らなかった。
ふと窓の外に目をやると、少し前までは高層ビルで溢れかえっていた光景ががらりと一変し、辺り一面に住宅街や田畑が広がる光景へと化していた。
ぽつんぽつんとその街に暮らす人々が見えた。田んぼを耕している老人、公園で駆け回っている子どもたち、犬の散歩をしている少年、たくさんの生活がそこにはあった。やがて、再びビルやマンションなどの景色へと逆戻りする。
「じょーちゃん、そろそろ駅に着くから降りる準備しといてね」
「はあ」
覇気のない声で返事をした。気分が優れない状態であることも関係なくはないが、やはり心の中のどこかで来なければ良かっただろうか、とブルーな気持ちになる。自分で決めたことだというのに、来てしまった感というか、何か言い表せない微妙なものを感じる。決めたのは私自身なのに。
粗雑な態度な気がするが、今さら気遣う態度を取ろうとしても互いの居心地が悪いだろう。実際に彼女がどう思うかは分からないが。
それに数日後には私からは全て失われて何も残らない。幾ら気遣ったってそれは残らない。やさぐれたことをしているのは否めないが事実なので仕方がない。彼女からも何か言う素振りは見受けられないので放っておいても良いだろうか。
だが、一つだけどうしても個人的に放ってはおけないことがある。
「ずっと気になってたんですけど、いつまで『じょーちゃん』って呼ぶんですか?なんかちょっと変な感じがするっていうか、なんというか……」
「慣れないんだ?」
「ええ、まあそういうことです」
彼女に出会ってから何気にずっと気にかかっていることを問いかけた。
「嫌だった?気に入ってるんだけどなー」
「別にそういう訳じゃないですけど、やっぱり変な感じがするっていうか、違和感があるっていうか」
「じゃあ、名前教えてよ」
「……結生です」
見ず知らずの人に名前を教えることは気が引けた。見ず知らずといえど、出会ってから数時間は経過しているが。
しかし、この旅行とやらが終わるまで「じょーちゃん」と呼ばれることにも気が引けたため姓は教えず、名だけを教えることにした。偽名を教えることが脳裏を過ったが、辞めておいた。結局はツバメのように同じ場所に巣を作るために帰ってくるかのように起点に戻るのだが、数日後には私には何も残らないためそこまで大それたことをする必要性を感じなかった。
「で、人に名前訊いといて、自分は答えないんですか?フェアじゃないですよー」
口先を尖らせて言った。
彼女だけが私の名前を知っているのはフェアでないと感じたため彼女の名も教えるように要求する。それに彼女の名前を知らないと、彼女を呼ぶ時に私が困る。
停車駅が着々と迫ってきて次第に新幹線のスピードが遅くなっていく。座席に座っていても全身がふわっと感触のある空気に触れているような浮遊感に包まれた。
彼女は手に荷物を持ち、その場に立って降りる準備をしていたが、私は座ったまま彼女の返答を待っていた。駄々をこねてその場から離れようとはしない三歳児のようにその場で彼女の声を待ち続けた。
なぜか彼女は口を開こうとはしなかった。まるで彼女と私が初めて出会った時のあの奇妙な時間と瓜二つな沈黙が再び訪れた。
車内が小刻みに揺れ続ける。彼女はたどたどしい動きで仁王立ちしている。そして薄らと切なげで侘しい表情を浮かべていた。
その表情は変わらないまま彼女はごそごそとスーツの内ポケットを漁って一枚の紙切れを手に出す。
それをかしこまって丁寧な持ち方に直すと今度は私に差し出した。名刺だった。
「宮田早苗と申します。よろしくね、結生」
「えっと、早苗さん。よろしくお願いします」
早苗さんは暖かい口調で自己紹介をした。その口調と微笑んだ顔に、私は自分が今出会って僅かな人間に呼び捨てされたことに気が付かなかった。普段なら無礼な奴だなあ、なんて感じて好感度が下がるのだが、彼女の場合は特別だった。無駄に意地を張る私は彼女に見惚れていたことを認めたくなかった。
いかにも優しそうなオーラを持ち出されて、完全に私は早苗さんのペースに絆されそうになっていた。それを不意に自覚し頭を横に振って消し飛ばす。
改めて早苗さんの名刺に目を通すと、そこには「宮田早苗」と印字されていた。ゴシック体で氏名と会社名に加え、所属部署までご丁寧に示されている。彼女は営業部らしい。いや、今となっては営業部だったらしい、という方が正しいのか。
本来ならば私も早苗さんのような名刺を数年後には作らなければならなかっただろう。なんとなく高校生活を送って就職活動して、卒業して平凡な社会人になるというありふれた人生を送る予定だった。だが、そんな馬鹿みたいな徒労を私はしない。
私は母子家庭だった。父は物心ついた頃からいなかった。
父は果敢な消防士として民間人の救命に努めていた。しかし、大規模な火災の消火作業に加勢した時に懸命な人命救助の末に自らを犠牲にして火に包み込まれて死んだ。
運悪く母はその現場に居合わせていたらしく、自分の夫が死ぬ光景を目の当たりにしていたようだった。居合わせていたらしい、というのはいつだったかは正確に覚えてはいないが、寝ている母が悪夢にうなされて零した寝言から母がその火災現場に居合わせていた、ということを推測した。その寝言というのが、なんとも聞くに耐えないもので「行かないで」と何度も何度も、永遠とその言葉を繰り返し零していた。その他にも「お願いだから助けに行かないで」「火がそこまで来てるから逃げて」などと痛切な心の叫びを聞いた。消防士だから仕方がない、という簡単で単純な言葉では済まされなかった。
物心ついた頃には既に母は仕事三昧の生活を送るようになっていた。朝も昼も晩も三日三晩、母は働き続けた。当然、夜も帰って来れない日もあった。むしろ、その方が多かったまである。母子家庭だからその分、収入が少なく生活費や私の学費を稼ぐために躍起になって稼ぎに出てくれていたのだろう。しかし、単純にそれだけが母が働き続けた理由とは考えられなかった。私は母が夫を亡くした悲しみを少しでも考えないようにするためだった、とも思っている。母の精神の回復に引き換えて私は淋しさを患った。
まじまじと名刺を凝視していた私に向かって「ちょっとそんなにまじまじと見ないでよ。恥ずかしいから。そんなもの見てないで降りよう?」と早苗さんは照れくさそうに笑って言った。
彼女に促されて車内から降りた。彼女から貰った名刺をひらひらと手で弄びながら彼女の後に続いて行く。
ホームから改札口に行き、その近くに置かれていたゴミ箱に飲食した形跡を捨てて次に乗るJR高山本線の特急電車の切符を買うために券売機へと向かった。
早苗さんが券売機の前に立ち、私がその横で事が終わるのを待つ。切符の購入は先程と同様に彼女に任せていた。
私の手には未だに早苗さんの名刺があった。やはり名刺は人様に渡すだけあって質感が良かった。触り心地が非常に良く、道中は無意識にずっと指の腹で擦り続けていた。
流石にそろそろしまおうと思い、空の財布の札入れのスペースに名刺をしまい込んだ。
「うーん」
突然、早苗さんの唸り声が聞こえて彼女の方を一瞥する。早苗さんは眉間に皺を寄せながらも視線は彼女の眼前のタッチパネルにあった。どうやら気付かぬうちに早苗さんはタッチパネルと睨めっこを始めていたようである。
私はその問題のタッチパネルを覗き込んだ。ひと目で早苗さんが眉間に皺を寄せる理由が分かった。
タッチパネルにはどこどこ線の席を購入するだとか、方面がどうだとかが表示されており、なんにせよ複雑だった。初めて利用する者の多くは苦戦すると思われる。勿論、老若男女問わず利用できるように最大限に簡略化されているとは思うが、それでも複雑に見えた。
片手に収まる回数しかこういった交通機関を利用したことがない私にとっては、見ているだけで目が眩んだ。至難の業だった。
切符の購入はまるっきり早苗さんに任せていたが、彼女のタッチパネルを押そうとする指は完全に行き場を失って、ふらふらと彷徨い続けていた。早苗さんも私と同じようにこれは至極難解だと思っているのだろうと表情から分かった。激しく共感できた。
早苗さんは迷っていても埒が明かないと感じたのか、手当り次第にタッチパネルを押していく。しかし、そう易々と思うようにはいかない。
そんな不運に見舞われても着々と時間は進んでいき、発車時刻が迫る。彼女も私も天井から吊り下げられている時計をチラチラと何度も気にかけていた。しかし、まだ幾分か時間に余裕があった。とは言えど、油断はできないような時間だった。
「なんだい。お困りのようだねえ。手伝おうかい?」
隣の券売機の方から声がした。
早苗さんと私は揃いに揃って、声の方を見てから互いに顔を合わせてまた、声の方を見た。
声の主は老婆だった。目尻に皺を広げるその目は確かにこちらを捉えていた。
「ほれ、それに苦戦しとるんじゃろ。さっきから困った顔をしとるようやしなあ」
老婆はタッチパネルを人差し指で指差して言った。その皺が歪に広がる指には銀色の指輪が嵌められている。
「そ、そうです」
早苗さんがワンテンポ遅れて返答する。
「わしに任せとき」
老婆は早苗さんに目的の駅を訊くと、その後は素早い手つきでタッチパネルを操作していく。時折、細かな質疑応答を繰り返してあっという間に購入まで進んだ。老婆は年齢に反して機械に達者な人物だった。
早苗さんは何一つ皺のない紙幣を幾枚か券売機に刷り込ませていく。以外にも几帳面な人だと思いながらその様子を見守った。
早苗さんは販売機から出された切符の枚数を用心深く確かめる。
目的の切符を確保できると、彼女は老婆に向き直って深くお辞儀をした。これが社会人の礼というものらしい。
「すみません。ありがとうございました」
早苗さんに習って私も遅れて一礼する。
私が顔を上げると、早苗さんは横でまだ頭を下げていた。
「気にすんじゃないよ。困った時はお互い様じゃからな」
老婆の一言に早苗さんはようやくして顔を上げた。
「それにその電車じゃと、そろそろ発車時刻が迫ってきとるじゃろう?わしに構っとらんとはよ行きなさい」
私たちは時計の方を見て時刻に驚愕した。発車時刻まで残り三分程度だった。
本当にありがとうございました、と早苗さんは再び繰り返して老婆に礼を伝えると、バキバキにひび割れたスマホのロック画面に表示されている現在時刻を確認しながら私の手を引いて走り出す。そんな画面で画面が見づらくないのか、といつもならば呑気に考えているだろうが、今はそうもいかない。早苗さんに手を引かれるまま走る。
「あと数分で特急電車出発しちゃうね!やばいよ、急げ!」
早苗さんはなんだか楽しそうだった。時間の余裕の無さとは無縁のようにどこか余裕を持ち合わせていた。
「もう間に合わないですよ!ここからはまだまだ距離ありますし。諦めましょう?」
余裕がない私は早苗さんのようにはなれない。
切符代が少々、勿体ないと感じたが、両者共々必ずしも下呂温泉に行きたいわけではないはずのため彼女に諦めを助長させる。それに発車時刻にはもう間に合わない気がする。
近くで発車の合図のような声が聞こえていた。
「絶対にもう間に合わないですよ」
「間に合わないじゃない。間に合わせるの!」
手を引っ張られながら走っているせいで走りづらい。半ば二人三脚の状態になっていた。
すれ違う人々が、ちらりとこちらを興味深げに見ては、すぐに興味をなくして違う方を向いていく。誰も私たちの内を観ようとはしなかった。
足を踏み外してしまうのではないかと、ひやひやしながら超特急で階段を下りる。ドアの閉開を告げるアナウンスが私たちの背中を押して、間一髪で車内に乗り込んだ。
「いやあ本当に危なかった。ギリギリセーフでなんとか間に合ったね」
早苗さんは膝に手をついて息を切らしながら言った。几帳面にアイロンかけされていたスーツにはつい先程までの努力が現れていた。
まさか本当に間に合うとは思いもしなかった。
「諦めましょうって、言ったのに。久しぶりに、こんなに走った」
息が上がっているせいで途切れとぎれに言った。運動習慣は愚か、体育の授業以外での運動はもっての外だったため運動不足なのは言うまでもない。それこそ最近の二十代の若者は運動不足がどうだとか騒がれているのだが、早苗さんは私よりもよっぽど活力を持ち合わせていた。
それにしても疲れた。息はまだ弾んだままで、鼓動も五月蝿かった。立っている状態を維持することでさえも辛い。
身体の訴えを聞くがままに側の壁に手をついてしゃがみ込むと、眼前には早苗さんがいて彼女の方が私よりも先にしゃがみ込んでいた。早苗さんに特別、体力があったという訳ではないらしい。もしかすると、私よりも早苗さんの方が体力がないのかもしれない。どう比べようが、どんぐりの背比べ程度にしか早苗さんと私の体力の差は生じていないだろう。
しかし、早苗さんの方が私よりも余程、重症でまだまだ息が弾んでいるようだった。
「ちょっと大丈夫ですか?これだから諦めましょうって言ったのに」
早苗さんはここまでして旅行に行きたかったのだろうか。早苗さんの気持ちがどうであれ、彼女のこの旅行に私は必要なかった。私を誘った理由が分からなかった。自殺を止めたかった、というのは分かるのだが、ここまで必要以上に私に執着する必要など一体どこにあるというのだろう。所詮はただの他人で、それ以上も以下も、何もない関係だというのに。私に何かを求めているというのなら、私は早苗さんに何かを返すことは一生できなくなる訳で、見返りなんかこれっぽっちもないのに。
「何、言ってんの!諦めるわけないでしょう?お金は、大事なんだよ。自分が一生懸命に頑張って得たものだから。君もいつか働く時が来るだろうから、分かるよ。そのうちにね」
へえ、とテキトーに相槌を打った。私にそんな事が分かる日は永遠と来ないと思った。泣きたくなった。けれど、涙は出なかった。
「いやあ、それにしても万年、運動不足の社会人に全力疾走だなんて身体に毒すぎる。本当に心臓がちぎれそう。何でもするから神様助けて。本当に無理だ、ちぎれる!」
早苗さんは自分の心臓を労わるように撫でた。
「ふへへ、大袈裟ですよ。ちぎれるわけないんで安心してください。だいたい運動しない人が悪いんですよ。まあ、私も少しも人のこと言えたものじゃないんですけどね」
あまりにも過剰な表現に思わず笑みを浮かべた。こんな風に自然に笑うことができたのは久しぶりだった。
「え、へへ。そう?」
「そうですよ。それよりここから移動しましょう。そろそろ空いてる席を探しに行きたいのでね」
どこの車両が指定席で、自由席なのかを確認してきていなかったので、しらみ潰しに車内を歩き回った。
先程の恩人とも言える老婆曰く、指定席は全て既に予約済だったとの事を聞かされた。そして、またもこだわりのない私たちは自由席を選択したのだ。
しかし、車内を全て歩いたと言っていいだろう。端から端まで移動してみたが、座れる席はおろか、立って乗車する人が何人か見受けられた。この特急電車に揺られる多くの人々も、私たちと同じように下呂駅へと向かっているのだろうか。
座って乗車することは不可能だと分かり、諦めて車内の片隅で立って乗車することにした。
社内の前方にはステンレス製のメッシュラックが通路を挟んで両側に一つずつ設置されており、中方には座席が、後方にはある程度のスペースが確保されている、という構成の車両だった。
私たちは後方のスペースで乗車することにした。座席に座る人々が一望できる。また、左右どちらをとっても緑が広がる景色が見えた。
後方の一角に身を縮めて寄りかかる。窓に頭部を預けた。
道はとても複雑で特急電車は蛇行して進んでいく。進むと同時に心地よく横に揺れた。
車内が激しく揺れるため時折、その反動で壁に頭をぶつけては、ゴンと鈍い音が響いた。音が鳴る瞬間は頭に鈍痛が走って、どこが遠くへ逃げ出した後の気持ちになった。
不意に大きく痛みを感じる時もあったが、それすらも心地よく感じた。
立ちっぱなしに足が疲れると、次はしゃがんでみる。床に座るのは昔から抵抗を感じていたためしなかった。
昔から母の影響を受けやすい人間だった。母がピンクを好きと言えばピンクの物を積極的に集めたし、逆に母がアボカドを嫌いと言えば食べたことがないにもかかわらずアボカドを嫌いになった。床に座ることに抵抗を感じるのも、それが原因だった。
幾度も立ってはしゃがむという徒労を繰り返していた。しかし、確実に時間は過ぎていき、気づけば大きな深緑に取り囲まれていた。深々とした緑に私たちは吸い込まれていく。
河川が見えてくるとさらに周囲は夏色に彩られていく。河川は太陽に照らされて煌めいていた。夏を連想させる景色だった。
特急電車はもう春に近かった。
ようやくして下呂駅に到着した。ぞろぞろと人混みに紛れて下車し、改札口を通った。辺りは既に橙赤色の空気が漂っていた。
「とりあえずどこか泊まれそうな旅館探そっか。急だからすぐに見つかるか分からないけどね」
「そうですね」
辺りを見回すと、同じ特急電車を降りた乗客たちは当然のように揃って旅館から手配されたバスに乗車して目的地を目指そうとしていた。無論、泊まる旅館さえ決まっていない私たちはバスなんて利用できない。タクシーという手段が頭に浮かんだが、そんなものは見当たらなかった。
夕方といえど、三〇度は上回っているような気温だ。それに湿度が高いせいで余計に蒸し暑さを感じる。ここから歩いて坂をずっと登っていくのは正直、あまり気が向かない。早苗さん曰く、多くの旅館は坂の途中にあるらしいので、坂を登ることは避けられないようだ。
勿論だが、私は初めて足を踏み入れる土地のため道が分からないのは当然のことである。そのため子どものころに訪れたことがあるという早苗さんが、今もこの土地の道を覚えているかどうか、ということに今後の私たちの動きは委ねられていた。
しかし、早苗さんはやはりそうか、というように道を覚えていなかったようだ。その証拠に私たちは先程から立ち往生を続けていて、動く様子は微塵もなかった。
彼女は朧気な記憶を思い出そうとしているのか、何も話さずにずっと山の方を見ている。
途方に暮れたかと思われたが、どこかしらの旅館から手配されているであろういくつものバスが連なって移動していくのを捉えると、私たちは必然的にそれらに従って歩き出した。
始めは歩きながら、そして段々と小走りしながら、しまいには走りながらバスに着いていったが、当たり前に一つ残らずにバスを見失った。
今度こそ途方に暮れたかと思われたが、私が地図アプリを利用することを提案すると、早苗さんは手でグーをつくり反対の手のひらに叩いてそうか、と一言言ってスマホで調べだした。
早苗さんの道案内により(実際のところは地図アプリなのだが)旅館探しが再開された。
地図アプリの案内に促されるがままに山の麓に位置しているいくつもの旅館が見える方向へと進んだ。
「楽しみだね。結生もそう思うでしょ?」
「ええ、はいはいそうですね」
生返事を返す。早苗さんに対する気遣いはとっくに無くなっていた。普段の私ならこんな無関心な声は出さなかった。
「本当はそう思ってないでしょ。釣れないヤツめ」
「はいはいそうですね。正直言って面倒くさくなってきました。それに疲れました」
不満を漏らした。暑さも疲れも蓄積されていた。
「はいはいそうですね。疲れましたねえ」
早苗さんが私の真似をする。我儘を言う三歳児をあやすように言った。
思わず口元が綻む。
「あたしは楽しみにしてるんだ。温泉入って美味しいもの食べて……」
「確か、お母さんとここに来たんでしたっけ?」
「うん。確か小学校低学年くらいに行った気がする。もう大して覚えていないんだけどね」
へえ、と相槌を打ちながらも家族と旅行する楽しさを想像した。
「結生は家族とどこか旅行に行ったことある?」
「……私は特にないです」
家族の話題は私に気まずさをもたらした。
早苗さんは私の反応に違和感を持ったのか、首を傾げた。
「どうかした?」
「いや、別にどうって訳でもないんですけど。私、長い間児童養護施設で育ってきたから家族と出かけたことなんて数えられるくらいしかないなって。あ、家族って言ってもお母さんしかいないんですけどね。お父さんは私が生まれてすぐに交通事故で亡くなったらしいので」
大抵の人はこの話をすると同じような反応を示す。ばつの悪そうな顔をして、死ぬ間際の蝉がふらふらと彷徨うかのように視線を泳がせる。テンプレート化されているように思えた。
しかし、早苗さんは今日の朝食の話をする時と同じようなトーンでそっかー、と相槌を打った。
どことなく腑に落ちないものがあったが、話を続ける。
「児童養護施設で暮らしているって言っても、お母さんとは頻繁に面会であってはいますけどね。ただ、お母さんは昔から病弱であまり働けなかったから一緒に暮らすのは難しくて」
早苗さんはまたも、今日の朝食の話をする時と同じようなトーンでへえ、と相槌を打った。そこに見慣れた光景はなかった。
この話をして、大抵の人がばつが悪そうにするのも、私の息が詰まるのも、誰も悪くない。何も悪くない。
ただ、私は、私のお母さんは、私のお父さんは、最初からこういう運命だっただけだ。
神様がいるなんて思ってはいない。だけど皆が崇める神様という奴がいるのならこんな私を見てどう思っているのだろう。神様とやらさえも私を……
だいたい、皆は神様が人々を助けてくれるなんて戯言を謳っているけれど、神様に人々を助ける義理なんてどこにもないのに。人生の終わりだって結局は自分自身で決める。神様なんて関与していないし、できない。神頼みして命を救ってほしいだとか、皆は図々しすぎるんだ。だから神様に善意があったとしても私はこういう運命を辿ってしまうんだ。
地面の赤茶色のレンガタイルの線を目で追って歩いた。頭の中はぐるぐると渦巻いている。意味のないことの繰り返しは何も余計なことを考えなくて済むから好きだった。
傍の珈琲店からチリンチリンと誰かが出入りした合図とともに珈琲の香りが微かに鼻を掠める。店側を見ると、店内に飾られている赤いハイビスカスが目に止まった。ガラス越しにも艶やかな印象を受ける。
「ここをまっすぐと進むと大きな橋があるらしいよ」
早苗さんがスマホを見ながら口にした。
早苗さんの言う通りにまっすぐ進んで、さらに横断歩道を渡ると、大きな橋が私たちを迎えた。飛騨川を横断する橋だ。
橋の傍の木製の看板には「飛騨川」と墨で書かれていた。月日のせいで、看板の端々には小さな亀裂がいくつか走っている。
その看板を横目に歩を進める。足の裏はコンクリートの感触に変わっていた。水流の音が風に吹かれて耳に流れ込む。
飛騨川ははっきりとその正体を目にしなくとも、その圧倒的な威力を誇っていた。
私たちは、柵から顔を出して下を覗き込んだ。
以外にも橋と水面の距離はさほど遠くはなかった。しかし、圧巻の水流が迫力を演出していることによって、その脅威がチラついていた。
隣で縮み上がっている私に早苗さんは 「すごい迫力だね」と、その絶景に高揚してうわずった声で言う。
怖じける気持ちを掻き消すために普段よりも少しばかり大きな声で早苗さんの方を向いて返事をした。
「そうですね」
早苗さん程の声量ではなかった。
再度、下を覗き込んで水流を目にするも圧巻の流れは変わらない。私が実際に滝を目にしたことがないから本当はどうであるかは分からないが、滝をも連想されるような流れだった。
流石に長い時間、この脅威を目の当たりにしていると頭が少しふらついた。
「ここから落ちたら危ないですね。流石に流れが速すぎて泳げない人は勿論、泳げる人でさえもまず助からないでしょうね。多分、死んじゃうと思う」
自分に注意を促すように言った。
「うん。本当に危ないからあまり身を乗り出さないでね」
「分かってますよ。まあ、私は泳げないので、落ちたら一巻の終わりなんですけどね」
勢いのある流れを横目に自嘲気味に言い放つ。
泳げない、と言ってもバタ足は辛うじてできる。しかし、それ以外のクロールや背泳ぎなどは習得できなかった。だから水泳の授業は昔から嫌いだった。泳ぐくらいなら百枚の見学レポートを書く方が余程マシだと思っていた。とは言いつつも、結局は強制的に参加はしていた。そうしなければ、悪い成績が叩き出されることは目に見えていた。
「へえ。結生って泳げないんだ」
早苗さんのどこか嬉しそうな声が聞こえた。隣を向くと、早苗さんはニヤニヤと意味深げな笑みを浮かべていた。
「悪かったですね。泳げなくて」
早苗さんが私を嘲笑っていないことを理解した上で、わざと悪態をついて見せた。
「なんだか嬉しい。結生にもできないことあるんだって」
「当たり前ですよ。ただの人間ですからね。私はロボットじゃないのでね」
早苗さんは嬉しそうに微笑んだ。
「ちなみに、あたしは泳げるよ」
そうですか、と笑顔を早苗さんに向けながらぶっきらぼうに答える。
水流を眺めるのも程々にして私たちは再び歩き出した。
他愛もない会話を繰り広げていて気づかなかったが、夕日は既に沈んで辺りは暗くなってきていた。夏のおかげで大して暗くはないものの、またも気付かぬうちに暗闇に包まれることになるだろう。
今夜泊まる旅館の手筈を整えていない私たちは、歩幅を大きくして旅館が集う方へと向かった。
宛もなく出会う旅館先々に訪ねては、断られることを繰り返した。正直言って希望を感じなかった。
ここを訪れた時はどうとでもなるだろう、という安易な考えが満ち溢れていたが、こうもなるとそう易々と事が運ばれはしないということが薄々と勘づいてくる。
急遽のお泊まりはこちらの方では難しいですね、何度聞かされたものだろうか。ここ一帯が旅館地帯ということは関係なさそうだった。むしろ、どこの旅館も口々にオンライン予約を口にするので、時代のせいとでも言うしかなかった。恐るべし情報社会だった。
道には洒落た街灯がいくつも飾られている。街灯が暗闇の空間に色を与えていた。この暗闇では街灯がなければ白黒といったモノトーンな色彩しか見分けることができなかった。鮮やかな緑も淡い黒と一体化したように見えた。
街灯は色を与えるだけでなく、私たちが進む先々を灯してくれていた。光が坂道を照らしていた。
「アプリによるとこの先にある旅館は、ここからだと結構な距離があるらしくて……。戻る?」
「……戻りますか」
勇気のいる行動だと思ったが、そろそろ私たちの身体は疲労を訴え始めていた。この旅館地帯での突如となる宿泊は、私たちの想像以上に難しいことであったらしく、悲しいことに五回は確実に断られていた。坂道を歩き続けたこともあり、肉体的にも精神的にもすり減っていた。
足には疲労が蓄積されて立っていることすらも、今すぐに辞めてしまいたかった。座るか横になるか、どちらでもいいから今すぐにそうしたかった。
それが最もな理由なのかもしれなかったが、これ以上に滞在できる保証がない旅館を求めて歩き続けることは避けたかった。避けたいというよりも、もはやそのような活力は微塵も残っていなかった。
たったの五分、いや三分でも良いからこの道中で目にした足湯の椅子に座って休憩したい。
時刻は一九時二三分。夏至といえど、辺りは既に暗い。普段ならこんな早くには就寝しないが、今日だけは一刻も早くに眠りこけてしまいたかった。ふかふかの布団が恋しくなった。
進行方向を真逆に転化して来た道を戻り始めたその時、ふと早苗さんがぽつりと呟いた。
「……野宿」
疲労により性能が衰えた脳は、僅かな間を置いてその言葉を認識した。
野宿。屋外で睡眠をとるという、あの野宿。
あそこまで疲労を訴えている脳だが、野宿となれば話は変わってくる。野宿だけは何がなんでも避けたかった。
これも小さい頃に受けた母の影響でしかないのだが、外にはたくさんの菌が散乱している、という考えが脳に染み付いているので、不衛生な屋外での宿泊は脳が拒否反応を示した。若干、私にも潔癖な面がある、ということだ。細かく言うと、これだけが理由という訳ではないが。
疲労により身体の機能が衰えたせいで聞き間違いをしてしまった可能性がないとは言いきれないため一応、聞き取った言葉が正しかったかどうかを訊いてみる。
「聞き間違えかもしれないんですけど、野宿って言いました?」
期待は打ち砕かれたようだった。
「うん。野宿だね」
「の、野宿ですか」
「……嫌なんだ?」
「当たり前ですよ。虫がいっぱいいるし」
「そうだけど、さっきから泊まれそうな旅館に全然巡り会えてないし、多分野宿になるかな」
「いやいやいや!そうは言ってもさすがに野宿は却下ですよ。野宿だけは!絶対に」
焦りに口調が早くなる。野宿だけはどうしても受け入れられないのだ。
「ええ、どうして?」
「まあ、不衛生だし……。それに他にも寝ている間に誰かに貴重品盗まれるかもしれないし、怪しいと思った人が警察に通報して警察に取り締まられるかもしれないし、面白半分に写真撮られてSNSに投稿されちゃうかもしれないし……。いや、言い出したらキリがないですけど、何はともあれ絶対に辞めておく方が懸命というか、なんというか。私が耐えられないというか……」
早苗さんに半ば強制されて行く、と言ってのこのこ着いてきたものの一応、連れてきてもらっている身という手前、我儘を口にするのは少々どうかと思う。しかし、野宿は、野宿だけは耐えられなかった。
焦り散らかして深刻に話す私を見て早苗さんは微笑みながら、うんうん、と相槌を打つ。
私はその悠長な笑みに戸惑った。私の話を本当にしっかりと聞いているのか、と。その笑顔には、か弱い赤子や小さな動物を遠くで微笑ましく見守るようなものしか含まれていないと感じる。再度、説得する必要があるように思えた。
「そんなことになったら大変です。大問題ですよ。大問題。だから辞めときましょう。私たちの身の安全のためにも」
「そうかそうか、それは大問題だね」
早苗さんの表情は依然として変わらなかった。日中の暖かい時間に日向ぼっこをしている時のような綻んだ表情のままだった。
「それは本当に思ってる表情なんですかね」
脳天気な人だと半ば呆れて苦笑した。脳天気なところが早苗さんの良いところだとは思うが、そんな悠長な考えをしていると何が起こるか分かったものじゃない。勿論だが、私が超が付く程の心配性、というのは前提としておこう。
とはいえど、ある程度に泊まれる旅館を探し求めて進んだ道を今や、引き返してしまっているため再び、同じ道を歩くのは面倒くさい。それにそんな体力など到底残っているわけがない。
同じ道を進んでも、同じ結果に辿り着く気がしたため来た道を引き返したが、安易に決断を下したのはやはり良くなかったのだろうか。
早苗さんの言う通りに野宿は避けられないものなのか。
「まあまあ、落ち着きたまえ。結生くん」
早苗さんは時代劇のように私に諭す口調ぶりで言った。何か名案を隠し持っているように見えた。
「まあまあ、そんな顔しなさんな。ひとまずはあそこの足湯のベンチで一服しましょうや、旦那」
今度はくん付けからなぜか、旦那に変わっていたが、もう気にしないことにする。
早苗さんの提案によって、ひとまずは休憩することにした。もしかして隠し持っているように見えた名案とはこの休息なのかもしれないと悟り、小さく落胆を覚える。野宿を逃れる案を思いついた、とその口から聞きたかったものだ。
早苗さんがついさっきに見やった方の足湯に向かう。足湯の側にある街灯が、付近の揺れ動く湯気を照明していた。
足湯を挟んで、両側に木製のベンチが鎮座していて、早苗さんはそこに腰掛けて一服しようとしていた。つくづく呑気な人だ。
そこに近づいてから気づいたが、一匹の薄い茶色の蛾が街灯に集っていた。少し気になったが、見なかったことにして早苗さんが座っているベンチに腰かけた。
早苗さんは煙草の箱とライターを取りだして、煙草に火をつけようとしたが、直前でそれを辞めた。煙草を少しの間、見つめてから思い直すように煙草をしまった。
私は気が変わったのだろうか、と考えながら不思議そうに早苗さんの方を見つめる。それと、早苗さんは意外と結構な頻度で煙草を吸う人なのかと考えた。
早苗さんがずぼらな人間で本当に使えなくなるギリギリまでライターを使用しているせいだからなのか、はたまた使用頻度が多いせいだからなのか、ライターは薄汚れていた。
私は未成年なので勿論、煙草を吸ったことがないから一箱に何本の煙草が入っているかは知らないが、ちらりと見えたタバコの箱の中は時期に空になりそうに見えた。早苗さんの煙草の箱を持つ手からカラカラと音を立てているのも聞いた。
私の早苗さんを見つめる視線と、彼女の視線が出逢う。
「受動喫煙って知ってる?」
唐突に早苗さんが私に訊いた。
いきなり何を言い出すんだ、と思ったが、一応知らないわけではないため答えておく。それになんとなく、早苗さんが思い直したように煙草をしまった理由と結びついているような気がした。
小学校、中学校と、保健体育の授業の記憶を遡る。
体育教師の武本という二〇代の男の先生を思い出した。武本先生は二〇代という若さを持っているが、年齢に反して教師歴が長そうに見えるほど生徒には厳格な態度を示している教師だった。
武本先生のことで最も記憶に残っていることといえば、喫煙の授業だった。
当時では生徒の間で、武本先生が学校の敷地内で煙草を吸っている、という噂が密かに流れていた。
ある保健の授業後に私は一人でテスト日締切の提出物を早めに提出しようと、授業後に武本先生の後を追いかけた訳だが、気づけば校舎裏に着いており、武本先生は見事に噂通りの行動をしていた訳である。
その時の私は何も言わずにその場を去った。提出物もその時に出せずじまいで、テスト日の締切ちょうどに提出した。
大スクープではあったが、変にトラブルに巻き込まれて大事にしたくはなかったので誰にも話さなかった。当時の友達すら。そのため今でも私の記憶の中で留まっている。このまま墓場に持っていかれることは確実だった。
そして、これまた面白いことに例の事件を目撃した後の次の授業がなんと喫煙に関してだった。その授業で武本先生は彼自身が喫煙している身でありながらも、喫煙は体に悪いから初めっから喫煙なんてするなよ、と生徒に喚起を促していた。勿論、先生は喫煙なんてしていないぞ、と付け加えて。
当然、私は誰がどの口を言っているんだ、と心の片隅で軽く毒づきながら授業を受けたが、そのおかげというのか喫煙の授業は今でも鮮明に記憶していた。勿論、その単元のテストは武本先生のお陰と言っていいのか高得点だった。
私はつい数年前の私しか知らない事件を追憶しながら答えた。
「ん?ええ、知ってますよ。なんかあれですよね。煙草を吸っている人から出る煙を周囲の人が吸っちゃうことで間接的な喫煙になる、みたいな……」
武本先生のおかげというのか、所為でというのか確かに授業内容は記憶されていた。
「そうそう。よく知ってるね。やっぱり学校の授業をよく聞いてるんだ?そのおかげなのか」
「まあ、そんなとこです」
武本先生の事件は一応、早苗さんにも内密にしておこうと思う。
「ふうん。で、私が何を言いたいかって、受動喫煙の方が煙草を吸っている本人よりも身体に悪影響を及ぼすんだって。なんかさ、急に高校の保健体育の授業を思い出してさ。懐かしー。って、言ってもあんまり覚えていないんだけどね」
へぇと相槌を打った。あまりにも脈絡がなかったため、どういう流れでそのことを私に話したくなったのかが気になった。
「だからー、煙草辞めよっかな、私。結生のこと病気にさせたくないし。君は長生きするんだから病気になっちゃあべらぼうに困る!」
またも早苗さんに時代劇口調が混じる。
「ああ、そう」
微妙な彼女の気遣いになんとも言えない気持ちになった。多分、私の希死念慮に対する早苗さんなりの気遣いなのだろう。そのことを察することができてしまったためどんな顔をしていたら良いのか分からなかった。
深追いはしなかった。だけど、感傷の色が私の胸を染めた。
「辞めれるかなあ……」
早苗さんか独り言をこぼした。
いつもよりワンテンポ遅れて聞こえたため反応に遅れた。
「中毒になっちゃってるんですか?」
「いやあ、そんなことはないって言いたいけど、どうだろう。仕事の時とか休憩でよく吸っちゃうくらいかな」
「へえ。大丈夫ですよ、絶対。それに無理して辞める必要なんてどこにもないですからね。あ、でも、辞めれることなら辞めといた方が良いですけどね!?体には勿論悪いので」
「だね」
休憩と言いつつも、気付かぬうちに私たちは長居してしまっていた。時間は経てども、辺りの暗さは変わっていなかった。
これからどうしたものか、 と本日何度目かももはや分からないくらいに、またも途方に暮れた。本当の本当に野宿しか選択の余地はなくなってしまった。
通り過ぎゆく旅行客が浴衣を着てあちこちを歩いていた。多くの人がコンビニ袋を片手にしている。コンビニが坂のふもとにあったのでそのためだと思われる。
私は羨望の眼差しを向けた。早苗さんもまた同じだろうと一方的に思う。本来ならば今頃、私はふかふかの布団の中で眠っているのだろうか。
「それはさておき、ちょっくら行ってみるか」
早苗さんは手をついて立ち、迷いなく目先の建物に向かった。
突然の事といい、早苗さんの不十分な言葉といい、状況が把握できなかったが、滞在先の宛が見つかったのかもしれないと思い、何も言わずに彼女に続いた。
その建物は私たちが先程まで休憩していた足湯から一つ道路を挟んであった。
私の記憶によると、見覚えのない建物であったが、一度は横を通りはしていたので覚えていないだけで見たことはあるはずだった。
まず初めに目に止まったのは木製の大きな看板だった。上部外壁に「平山温泉」と黒字で描かれた看板が堂々と掲げられている。結構な大きさだったので一度見たらすぐには忘れないとは思うが、何せ上を見ながら歩く趣味はないのでやはり見覚えはなかった。
そして、それを目にしてようやくこの建物が旅館だということを認識する。
この建物の外観は旅館というよりかは、どちらかと言うと何の変哲のない建物だった。個人的には民家のようにも見えなくはなかった。
加えて、一階に当たる部分は駐車場になっているため二階に出入口が存在しているようだった。
建物の構造を観察しながら早苗さんに続いて、奥に設置されてあった螺旋階段を上る。自動ドアを通り抜け、旅館よりも、ホテルという方が相応しいようなロビーに足を踏み入れた。
ごわついたカーペットが私たちを当旅館に迎え入れた。
少し歩いた先には従業員が出迎えている受付口、両側にはくつろぐためのソファや古風な置物たちなど、奥手には多種多様な土産を揃えている土産屋。間違いなく旅館だった。
期待と不安が私たちの足に絡まっていた。
私たちは受付口にいる六〇代半ばのベテランそうな女性の従業員と目が合って会釈を交わした。目尻の皺が印象的だった。それが柔らかい雰囲気を作り不安が少し和らぐ。
先に口を開いたのは従業員の方だった。朗らかな声だった。
「もしかして、急遽お泊まりの方ですか?」
なぜ、私たちが滞在を希望する者だと分かっただろうか、と疑問に思った。浴衣に着替えずに私服のまま出歩いていた客だったのかもしれないのに。
しかし話が早くて助かる。
「そうです。二人なんですけど、一部屋泊まることは可能ですか?」
従業員の質問には早苗さんが答えた。
私は期待を胸にじっと成り行きを見守った。
従業員はパソコンを操作し、画面を凝視した後にこちらに向かって淡々と言った。
「えっと、そうですね。ちょうど一部屋空いてますよ。本旅館でしたら本日を含めまして三日間は可能ですね。ですが、三日間となりますと三日目は一日目と二日目とは異なったお部屋になりますが……どうされますか?」
「じゃあ、二日間お願いします」
早苗さんは即答した。
私はようやく眠れると内心、喜んだ。その場は、喜びをそっと胸に収めてチェックインの準備を待った。
チェックインの準備を待ちながら、今更ながらに早苗さんは未だにスーツを着ているため成人していることが分かるが、私はそうではないため年齢確認などをされないものだろうか、と不安に駆られた。しかし、私たちの関係を知らない従業員から見れば早苗さんは私の保護者に見えるので、すぐにその心配は吹き飛んだ。
「料金のお支払いはチェックアウトの際にあちらの精算機でお願いします。こちらでは部屋鍵のみお預かりしますね」
「分かりました。ありがとうございます」
早苗さんが従業員から支払いの説明を受けながら四二三号室の部屋鍵を受け取ると、私たちは四階にある部屋へと向かった。
部屋は突き当たりに位置していた。個人的にこの部屋の位置は嬉しかった。両隣の部屋の人たちを気にしなくて済むのでその分、配慮する負担が軽減されるからだ。
金属製で少し重たいドアを開けると、こじんまりとした玄関が私たちを迎えた。滞在する人数に反して部屋は全体として広々としていた。偶然、空いていた部屋だったため二人用ではないのかもしれなかった。
玄関からすぐの右手に洗面所、左手にクローゼット、十数歩進んだ先にシングルベットが二つ並んでいる。その傍らには白いプルメリアが飾られていた。他にも小さな机やテレビが端に置かれている。全体的に無駄な物がなく、だだっ広さだけが強調されているという印象だった。
右側のプルメリアの花弁をそっとなぞるようにして触れてやると、手に滑らかな触り心地が走った。それにより、この本物のように見えるプルメリアは造花だということにようやく気づいた。
部屋の探索も程々にして私たちはそれぞれが部屋の端々に私物を固めて置いた。とは言っても、私たちは宿泊客とは思えない程に軽装な荷物だった。キャリーバッグどころか、大きな鞄さえも持ってきていなかった。
興味本位で押し入れを開けると敷布団が何枚かきちんと整頓されて置かれている。
また、傍のクローゼットの中には数着分の浴衣がハンガーにかけられていた。
自分の身長に合わせてMサイズの浴衣を手に取った。
浴衣は紺色で、いかにも紅色の帯が似合いそうだった。そう思いながら帯を探していると、まさしく紅色の帯が見つかった。
「早苗さん、浴衣のサイズってどうしますか?」
「Mでお願い。ありがとう。そこら辺に置いといて」
再びMサイズを手に取って、邪魔にならないと思われる机の上に置いた。
カーテンを少し開けたその世界は、何の変哲もない景色だった。暗くてよくは見えなかった。しかし、暗闇の中でも私と同じ目線で、店がいくつか並んである光景だけは捉えることができた。
四階なだけあるため多少は見晴らしが良い景色が広がっていることを期待していたものの、ここ一帯は山頂に向かって一様に緩やかな傾斜が続いているのでそのような光景は拝めない。四階でこのような高さであれば、三階以下は土の壁でそびえ立っているように見えていることだろう。
興味が掻き立てられることはなかったので、すぐにカーテンを閉めた。
特にすることもないので寝ようと思う。就寝の前に入浴するか迷ったが、混雑していそうな時間帯だし、それに一刻も早くに眠りたかったため今日は見送ることにした。翌朝でも良いだろう、という考えだ。私の頭の中では入浴するべきだと主張されていたが、欲望には抗わずに従った。
流石に浴衣に着替える気力だけは残っているため不慣れな手つきで着替える。帯の結び方など知る由もないので感覚で結んだ。帯の結び方を知っている人が見たら目を丸くするだろう。しかし、誰も見ることはないので結び直す必要はない。
「えっと……寝ます」
こういう時は何と声を掛ければ良いのか分からない。
すぐに了解、と返事が聞こえた。それが合図のようにそのまま勢いよくベットに横たわる。ボフッと布団の音がした。
一日の身体の疲労感がじわじわと広がって染みる。深い溜息をついた。
いつものあの嫌な感覚が胸の中で渦巻いた。心が握り潰されてしまうような、喉を締められているような、鈍くて重いものだ。こういうのを日本語で感情的になる、と言うのだろう。
眠りにつく前はいろいろなことを考える。考える、というよりも私は記憶が反芻される、という方が多かった。
今日あった些細な出来事や誰かとの会話のやり取り。今日だけに限らず、ついさっきから大昔の記憶が脳内で永遠と漂っていた。
これは眠りにつく前だけではなかった。勉強している時も音楽を聴いている時も、授業を受けている時も。磁石みたいに一生、ずっと纏わり着いてくる。結局は私が同じ極になるしか手立てはないのだ。私が変わるしか。
私みたいな人間は寝ることが向いていないと思う。
だが、お母さんが横で絵本を読んでくれている時だけはすぐに寝つけていた。お母さんの温もりを感じて、安心感に包まれて何も考えずに眠って。それだけで幸せだった。
視界は暗闇だった。真っ黒。その裏に記憶が流れ続けていた。
その裏とやらで、初対面の人と同じ空間で寝られるものだろうか、と考えていた。できる人はできるだろうが、私は無理だろう、なんて考えていたら翌朝にはそこからの記憶はなくなっていた。
