通り過ぎゆく人々は私たちに興味を示さなかった。視界に入って目に止まったとしても、すぐにその視線はまた違うところへ向けられる。
冷たい飲み物を手にして戻ってきたが、私はまたさっきと同じようにずっと目を離せずにその場に立ち止まっている。さっきと同じ状況。
大丈夫。私ならできる。話しかけられる。何も考えなくていい。不安なんてこの暑さにドロドロにして溶かしてしまえばいい。
さん、に、いち。
「あの、大丈夫ですか?」
やっと話しかけられた。無駄に入っていた肩の力がスっと抜けていくのが分かる。
いきなり話しかけられて戸惑っていることが表情から窺えた。視線が彷徨い続け、交わらない。視線と視線には見えない壁がある。まるで織姫と彦星の間を割って入る天の川のようだ。今日は七夕だっけ、と今日の日付を思い出す。が、当然違った。
「すみません。いきなり話しかけちゃって。体調悪そうにしていらしたので、つい」
手短に話しかけた経緯を伝える。それを伝えると、彼女の表情はみるみると綻んでいくように見えた。それでも顔色は悪かった。
「心配してくださって、わざわざありがとうございます」
よくよく顔を見ると、とても可愛らしい人だった。透き通った少し茶色の瞳に柔和な顔立ち。多分、育ちが良いのだろう。なんとなく思った。顔つきはその人のこれまでの人生を表していると思う。
「良かったらこれ、どうぞ」と、さっき急いで自動販売機で買ってきたミネラルウォーターを渡す。
「いえ、そんな。お気持ちは嬉しいですが」
彼女は申し訳なさそうに手を顔の前で横に振っている。出会って数分程度だが、これはなかなか頑固な人間な気がした。
どこかこのまま断られそうな気がしたので、断られる前にミネラルウォーターから手を離した。手からさっきまでの重さがなくなる。手にはまだ冷たい感触が残っていた。
ガシッ。手に着地する。しっかりとキャッチしてもらえたようで良かった。
強引な感じがするが、ここまで押し付けがましくしなければ無理をしてしまう人である気がした。それなら少しの失礼を承知で、強引に動いた方が良いと思った。
「では、私はこれで失礼しますね。次の用事があるので」
次の用事なんてない。嘘だった。良いことをすると気持ちがいい、と言うが、私はどこか気恥ずかしさを拭いきれなかったためできるだけ早く退散したかった。
「あ、ちょっと!せめてお名前だけでも」
名前くらいなら構わないだろう。
「林茉里です。あなたは?」
「宮田加奈子と申します。あなたのお名前は絶対に忘れません。今度、お礼しますので……」
「結構ですよ。お気持ちだけで嬉しいので。では、失礼しますね」
はにかんだ笑顔を向けて、目的地とは逆方向に進んだ。目的地が背後で遠ざかっていく。
この行動もどことなく気恥ずかしさを覚えた。顔が僅かに火照っている気がする。多分、熱中症のせいだ。

「大丈夫?おーい。聞こえてる?」
彼女が私を心配する声が聞こえた。彼女は目の前にいるはずなのに、どこか遠い場所から声が聞こえるように思う。
あの一言からどれほどの時間が経ったのだろう。はっきりとした記憶がなかった。だが、朧気ながらに白昼夢を見ていた気がする。そしてなぜかミネラルウォーターだけが記憶されていた。それ以外は何も覚えていなかった。
何故ミネラルウォーターなのか、と疑問に思ったが、すぐに考えるのを辞めた。どうせ、ここに来る道中で見たポイ捨てされていた飲みかけのミネラルウォーターを思い出しただけか、単純に喉が渇いていただけなのかもしれないと思ったからだ。どことなく腑に落ちない結論になってしまったが、気にしないことにした。それに明らかに重要なことではないためこっちの方には考える必要性を感じなかった。
私が今、一番に考えなければならないこと。それは彼女の脅威的なあの発言に対する返答だった。
「おーい」と彼女は私の顔の前で手を振りながら顔を覗き込む。
「へえ」
思わず間の抜けた声になってしまった。
現実に意識が引き戻らせられる。しかしまた、意識が考える方向へと向かう。ブランコのように意識が宙を舞って最終的には脳に着地した。
彼女から私は上の空に見えているだろうか。私はまだ、地上にいると言うのに。
なんと返当するべきか迷った。あの一言には最適な答えを導き出さなければ自分の身が危ういのではないかと考え、慎重かつ、迅速に最善な返答を頭の中で吟味する。
そもそも初対面であんなことを聞くなんてどうかしている、と思う。初対面関係なく、他の人でもそれはどうかしている、と思う。
言葉が浮かんでは沈むことを繰り返していた。どれもピンと来ない。それも当然。こんなことを言う人に出会ったことがないし、出会うはずがない。似合う返答が思いつかないのも頷けることだった。
あー、えー、うー。
私は幼児のようにクーイングを繰り返した。
脳は先程から怠慢な行動をとっていた。脳が怠けている、というよりも現実的に考えて熱中症の線の方が濃い。まともに給水した記憶がない。
「図星だった?」
私が何か言葉を発する前に彼女の方が先に口を開いた。
否定しようと口が開きかけたが、私の脳はどうやら職務放棄をするだけではなく、ボイコットし始めたようだ。どうせ終わってしまうのだから今さら人の視線なんか、嘲笑なんか、怖くないじゃないか、という自暴自棄な思想へと転嫁する。今までの私では考えられなかった。あまりにも投げやりな考えだ。
「だったらどうなの?あなたには関係ないでしょ」
突き放すように言い放った。声色が冷たく、言い方にも刺がある。
先程では考えられないような態度の一変の仕様に思えた。明らかに態度が異なっている。敵意がむき出しで、優等生のような朗らかさは皆無だ。こんなの私の知る優等生じゃない。
彼女の次の行動は分かりきっている。私には分かる。どうせ、嫌な顔を私に投げつけてここを去るのだ。
景色なんか眺めていないでもっと早く行動に移していればよかった。どうして最後の最後にこんな思いをしなければならないのだろう。もし、みんなが信じ崇める神様という奴が本当に存在するのなら、そいつはきっと、絶対に、私のことが嫌いで嫌いで、恨めしく思っているのだろう。
目の前のあなたもきっとそうでしょう?
何でもいえば?おまえが憎い、存在が疎ましい、今すぐに死んだらどうだ。そう言いたいんでしょう?
黙ってないで早くそう言ったらどうなの。ねえ。
彼女は一瞬、動揺からか動きが止まった。何かを考えているようで、視線が大きく動き出し、最終的には一つの円を描いて一周する。
嫌な顔をしたり、舌打ちしたりしてここをすぐに去ると確信していたが、意外にも違った。しかし、さっきから言葉を発することをしないのには、やはり私が言い放った言葉のせいなのだろう。嫌悪を感じて何も言わないのだろうか。
予想とは反していたが、無理もない反応か、と思っていた矢先、彼女は手に持っていた煙草を地面に落として手を叩きながら大声で笑いだした。音を立てずに煙草が転がる。
彼女の笑う理由が分からず、今度は私の動きが止まる。どこに笑いの要素があったのだろうか。本当に彼女は訳の分からない人だ。やはり変な人だと思う。
私の冷ややかな視線が伝わったのか彼女の息継ぎをする暇もなく続いていた笑いがようやく終わりを遂げる。そして、きょとんとした顔をこちらに向ける。まったくもって意味のわからない人だ。本当に変な人としか言いようがない。
「すごいね、めちゃくちゃ態度変わるじゃん!」と笑いすぎたために目尻から垂れかけた涙を人差し指の第二関節の部分で拭う。
「嫌味ですか?」
すかさず訊く。
「いやいやいや、違う違う違う!」と彼女は両手を勢いよく横に振る。
同じ言葉を何度も繰り返しているため、本当に違うのだろう。
「そういうことじゃなくて、こっちの方がいいと思うよ。人間らしいというか、なんというか。とりあえず何が言いたいかって、さっきのじょーちゃんよりこっちのじょーちゃんの方が私は好きってこと!」
「意味わかんない」
そんなことを言って、一体彼女は私に何を求めているのだろう。どう考えたって世界中にこんな腹黒い人間を好む人なんているはずがない。現代の人が今になって、ノストラダムスの大予言を聞いたら、呆れて笑いながらありえない、と口を揃えて言うくらいにありえない。
言葉巧みに私を操って利用する気なのだろうか。そうに違いない。
私の悪い癖が炸裂して、彼女に対しての不信感は強まる一方だ。けれど私の悪い癖が出なくとも、彼女に対しての不信感は元から強い。
「で、図星なんでしょう?もう死んじゃうの?ちょっと早くない?もっと何かしといた方がいいんじゃないの?」
「はあ」
溜息混じりに返事をした。またも意味が分からない。
この人は死ぬことを否定しないんだな、と思った。そこらの大人たちみたいに綺麗事を言われるよりかは断然マシだった。あんな綺麗事、聞いているだけで反吐が出る。
不服ながらも彼女の言葉によって気持ちが揺らぎ始める。ふらふらと今までの記憶が遡られる。ブランコや滑り台の外遊び、鬼ごっこやケイドロ、名古屋城の校外学習。さまざまな記憶がつなぎ合わさって自分の走馬灯が頭で流れる。
やり残したことなんてもう何もないと思っていた。しかし、実際に言葉にして問いただされてしまうと、もしかするとまだやり残したことがあったのではないか、というような気にされてしまう。
一瞬の迷いから生まれた沈黙が、良くなかった。
「あたし今から暇だしさ、どっか行かない?」
唐突に突飛な提案が飛んでくる。唐突にも程がある。初対面の人と出会って数分で、遊びに出かけるなど、私には考えられない。彼女はなんてフッ軽な人間なのだろう。
提案を蹴飛ばすように「仕事はいいんですか?」と先程と同様の質問をする。真正面から断るのは最終手段としてとっておく。
彼女は一瞬の躊躇いを見せた。それは彼女の口の端が僅かにキュッと結ばれた様子に現れている。私はそれを見逃さなかった。
だが、すかさず彼女は「仕事辞めたからいいの!」と躊躇いを揉み消すように再び笑顔で言った。
彼女の一瞬の躊躇いから、このことについて触れられるのは、都合が悪いことだと容易に想像できた。言われたくないことだったのだろうか。安易な発言だったと後悔する。キリキリと罪悪感が胃の中で渦を巻いた。
「そうなんですね。でも、手持ちゼロ円なので無理です」と私は断る姿勢を崩さない。最終手段を使ってしまった。首尾一貫としてこの主張は変わることはない。
彼女はえー、と不満を漏らして頬を膨らませる。無邪気な三歳児が眼前にあった。
諦めたかのように思えたが、彼女はごそごそと鞄の中から黒の長財布を取りだして、不敵な笑みでこちらを見たかと思うと、多くの渋沢栄一をチラつかせる。一目見ただけでは数え切れないくらいの札の量だった。給料日なのか、と思いながらも学生にとっては大金でしかないため気がつくころには、しっかりとその大金に瞳が吸い込まれるように見入っていた。
「よし、じゃあ行こう!どこ行こうか」
沈黙を了承と捉えたのか、彼女は勝手に話を進める。まだ、行くなんて一言も言っていないのだが……
「とりあえず、私が都会嫌いだからまず、田舎にしよう。どうせ行くなら泊まりたいし、夏といえば海、なんだけどそれはなしで……」
彼女のマシンガントークは私に口を挟む隙を与えなかった。お喋り好きな人。いや、この状況では私に断る隙を与えないための策略と捉えた方が良いのだろうか。
話すネタが尽きたのか、だんだんとスピードに衰えを見せてきたが、 「あ、そうだ」と一度は終わる気配を見せた彼女のマシンガントークに再び拍車がかかる。
「温泉とか行っちゃうか!子どもの頃、一度だけお母さんと行ったことがあるんだあ。確か、下呂温泉だっけ」
「ああ、岐阜の?」
「そうそう。旅行だー!」
子供のように無邪気な笑顔がこちらに近づいてきて後退りをする。彼女の言いたいことはおおよそ分かっている。おそらく一緒に行こう、と言いたいのだろう。賛同しか求めていないという彼女の笑顔に居心地が悪くなって視線を下へと逸らした。
私の視界から彼女が外れている間にも、彼女は手際よく自分のスマホを取り出して、バキバキに破損した画面を素早くタップして新宿から岐阜県の下呂市までの行き方を調べ始めた。どう扱ったらそんな悲惨な画面になってしまうのだろうか。
ちらりと彼女を盗み見してみると、ムスッと顔を顰めたり、晴れやかな顔に変わったりと表情がころころとオセロのように変わっていく姿が見られた。
そんな彼女を永遠とムスッとした顰めっ面にさせるかのように「行く気、満々な手前言い出しにくいんですけど、私は行かないですからね」と、当たり前に私は断りの宣言をした。
「え!?行かないの?」
「ええ、勿論」
私は初対面の人といきなり旅行に行けるような人間ではない。それに当初の予定がある。今日でなければ、せっかくの決意が台無しになる。そして、恐らくこの決意は今日限り。何度もそう簡単にできる決意ではない。明日以降からじゃ意味がない。今日じゃないとダメなんだ。
「じょーちゃんお願い、行こうよ。お願いします。この通り!」と彼女は両手を合わせて懇願する。
「行かないですから」
「お願いします!」
「行かない」
「お願いお願いお願い」
私は飼い主に無惨にも捨てられてしまった元飼い犬ですから拾ってください、というような渾身の涙目でこちらを凝視される。演技派だなあ、なんて関係ないことを考える。
絶対に死んでも行きたくないか、と言われればそうではないが、かといって行きたいわけでもない。
彼女と出会ってからのこの短時間で、彼女は変な人ではあるが、私の身を危険に晒すような人物ではないと分かっている。あの三歳児のような姿を見ていれば尚更だ。したがって、彼女の旅行とやらに着いていくことで私に危害が及ぶことはないように思える。加えて、今さら彼女に気を遣うだなんてことはしないから随分と気楽でいられるだろう。だか、今日を最期にする、と決めていた。
「今日、死にたかった?」
彼女は何でも見抜けるのだろうか。どうして私が躊躇っている理由が分かったのだろう。
「ええ、いや別にそんなことは……あるような?ないような?」
疑問形で答える自分に嫌気がさした。これではまるで希死念慮すら曖昧のように思えたからだ。
別に今日この夏休み初日、という日に重きを置いている訳ではないから特にこだわる必要は無い。偶然にも今日という日に決めただけに過ぎない。だけど、決めてしまった日以降っていうところが、私にとってはダメなんだ。
「別にいいじゃん。明日とかで。あ、やっぱ明日はダメだ。だって、明日はあたしと旅行だもんね。旅行が終わってからでもいいじゃん。ね?」
彼女が私の自殺をそれとなく引き留めようとしていることは分かっていた。そうでなければここまで赤の他人に必要以上に介入してくることはないだろう。無駄な善意だ。私ではない他の誰かに向けた方が余程、有意義だったと思う。
「ねえ、お願いお願い!行こうよ。絶対に楽しいよ!」
「……分かりました。行きますよ。行けばいいんでしょう」
半ば呆れて苦笑いをしながら承諾をした。
しかし所詮、これは大きな道草に過ぎない。旅行が終われば私も終わる。最後くらい道草でも食ってやろう。それに彼女の善意をぞんざいに扱うことは私の罪悪感を招いた。少しくらいならその善意に付き合ってみても悪くないだろう。
「やったね。じゃあ、行こう」と彼女は私の手を半ば強引に掴んで駅へ向かった。