身体は動かなくとも、少なからず脳だけはずっと働き続けていた。休息を取らないその脳は疲労感に満ちて皺が増えていることだろう。この猛暑のせいで身体は倦怠感を僅かに伴い続けるが、脳は活力を持ち合わさざるを得なかった。
今、行動すべきことは確かにあるはずだ。考えるより先に、体を動かせ。そう言い聞かせた。
そう、まずは行動からだ。
冷淡な赤い箱に足を向けた。

電車のブレーキによる揺れで目が覚めた。重たい頭が前に下がっている。焦点が髪の毛の先々に向けられていて周囲はぼんやりとモザイクがかかっているかのように見えていた。
どうやら私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。眠っていた脳が段々とはっきりとした意識を持ち始めて、状況を認識していく。
何度かの乗り換えを重ねてようやくある程度、私の住む街から離れたこの駅に辿り着いた。気づけば外の景色は緑とは無縁のものに風変わりしていた。建ち並んだ高層ビルは大きな壁がそびえ立つようだった。
気づくと顎にまで垂れてしまった涎を袖で乱暴に擦り取りながら、ここがどこの駅であるかを確認する。座っている私からでは電光掲示板と人々の頭が重なってしまうためなかなか見えない。
僅かな隙間からそれを見ようとする。
少しの葛藤の末に電光掲示板に「shinjyuku」とローマ字表記された文字を確認した。
「しーんーじゅーく?」
声に出して脳に言い正す。起きてまもないせいで文字の認識には時間がかかった。アルファベットなど尚、理解に時間を要する。
現在、停車している駅は新宿駅。そして私が降りる予定の駅も新宿駅。テキトーに決めた駅ではあるが、切符はこの駅までしか購入していない。
ここじゃないか。完全に眠っていた脳がようやく起床して、私はこの駅で下車する予定の人間であるということを再認識する。
そろそろ降りようかと呑気に車内を見渡していると、「発車します。ドアにご注意ください」という車掌のアナウンスがはっきりと耳に飛び込んできた。
慌てて起立し、転寝しているうちに増えてしまった乗客の波をかきわけて、今にも閉まる予感がして仕方がないドアを目指す。
降りようとしてタイミングよくドアに挟まれてしまったらどうしよう、と不安が襲いかかる。そんな羞恥を受ける事態はなんとしても避けたいところだ。それにこの駅を降り過ごしてしまえばこの駅以降からの乗車は無賃乗車になってしまう。なぜならば、やはり所持金がゼロ円だからだ。追い越し金が支払えないためなんとしてもこの駅で降りるしかないのだ。
所持金ゼロ円などと無謀なことをしすぎたと、反省していたが、今はそんなことを考えている場合ではないため有無を言わずに降りるしかない。
僅か数秒で結論までまとめた。
「すみません。降ります。降ります」
一瞬の冷たい視線に突き刺されて車内から飛び降りた。刺がある乗客からの視線はまるで本当にナイフのような鋭利なもので刺されてしまったのではないかと誤解してしまいそうだ。
プラットフォームに足を踏み込んだことを確認した瞬間、背後でドアの閉まる音がした。間一髪だった。コンマ数秒でも遅れていたら生涯忘れることのできない恥ずかしい記憶が塗りこまれてしまうところだった。とは言っても、すぐにその生涯とやらはこの世界には存在しないものとなるが。
先程の春の訪れを感じさせるような暖かな眠りとは一変し、緊迫な時間を過ごしてしまったため緊張感が高ぶり、鼓動が早くなる。大きく二酸化酸素を吐き出して気分を落ち着かせた。さっきのキンキンに冷えた二酸化炭素とは違って、じめじめと湿気が混じる生ぬるい二酸化炭素だった。
改札口へと通じる階段を探すために周囲を見回すと、さすが東京と言わんばかりの人の多さが認められた。この都会の空気中には先程の私の溜息に近い形で吐き出されたような二酸化炭素が数多く存在しているのだろうか。
人混みが苦手なので一刻も早く逃げ出してしまいたかった。都会に私の逃げ場なんてないことは分かってはいたが、そう思わざるを得ない。
東京の人は歩くのが早いと感じる。既に何人もの人が私の横を通り過ぎ、しまいには私の後ろを歩いている人でさえも通り過ぎていく。先程から靴の不協和音と無数の人々がだんだん小さくなっていくのを見送ってばかりだった。
ぽつりと異端な私が存在する。彼らと同じ東京に住む者ではないからではない。私という人間がこの空間で浮いているのだ。社会から疎外されるように。
改札機に切符が吸い込まれるのを見送る。改札口からピッというICカードの無数の音がそこらで鳴り響いていたが、切符はその存在を控えめに弱々しく告げるだけだった。
改札口を通り抜け、出口へ向かうが、前方からも横方からも人波が押し寄せてくるため、私は人にぶつかるまいと避けることに必死だった。全くもって前に進めずにいることは一目瞭然だった。
その動きのせいか後方から進む人々が私につっかえたのだろう。突如、背後から悪意を込めた舌打ちを聞いた。軽々しいものなのに、それはどこか重力を持ち合わせている。
急な出来事に驚いて、大きく心臓が鼓動する。身体に無駄な力が入り、肩は僅かに上がっている。表情も恐らく強ばっているだろう。
私に対してだろうか。いや、私に対してとしか考えられない。絶対に私だ。
後ろを振り返るほどの勇気はないため足早にその場を離れる。先程のもたもたした動きとは見違えるようにどんどん進んでいく。初めからこう動けていたら良かったのに、と思う。
こんなことに遭遇するのならはじめから新宿にしなければ良かったと後悔した。
わざわざ遠出してまで行きたかった場所はどこにでもある高層ビルだ。そのため絶対に新宿でなければならない理由などなかったのだ。高層ビルがある場所といえば都会、都会といえば東京、東京といえば新宿という安直な考えで行き先を決定した過去の自分を憎んだ。
しかし、行き先を新宿にしたのは偶然ではなく必然だったのかもしれない。なぜならば過去に一度この地を訪れたことがあるからだ。昨年の夏に中学生の私が修学旅行でここを訪れている。その時も人の多さに驚いていた記憶がある。確か、帰宅してからは過度な疲労でずっと眠りこけていたはずだ。苦い思い出ではあったものの少しは見知った土地の方が良いだろうと考えたのか、結局は記憶に誘導されて決めた。
重い足取りで階段を上ると、少し雲がかった空とともにいくつもの高層ビルが目に飛び込んだ。やはり都会の摩天楼は圧巻である。
気がつけば田舎者だと主張するかのように無意識に大胆にそれらを見上げていた。恐らく前回に訪れた時もまた、こうしていただろう。
私が住んでいるところはこういった高層ビルはごく稀にしか存在しない。駅周辺はある程度、栄えてはいるものの高層ビル、とまではいかない具合の建物が多い。やはり、田舎者にとって高層ビルは物珍しく好奇の目で見られる対象なのだ。
道の端をなるべく人が少なそうな道に進行方向を向けて歩く。都会なだけあるからしてどうしても人通りが多いことになんら変わりはなかった。
次第に首に鈍い痛みを感じて、無意識に上の方を見ながら歩いていたということに気づいた。
無意識だったな、と思いながらふと、ひとつの比較的小さなビルに、いや、マンションに目が止まった。どれも商業施設ばかりだと勝手に認識して眺めていたが、無数の換気扇がこちらを向いていること気づき、あれがマンションであるということに気づく。
なんとなくだが、このマンションに足を運ぶことにした。
近くにあった横断歩道を周囲の人々に合わせて足早に渡るが、向かいから歩を進める大勢の人々に怖気付いて、だんだんと歩くスピードが遅くなっていった。
この都市の景観にそぐわないどころか、不自然なまである木々に沿って四七メートル程を歩いた。僅かな緑よりも無機質な色のゴミの方が目についた。煙草の吸殻が後を絶たないのか、至る所に落ちている。少量の灰は既に燻られた後だった。
いざそのマンションを眼前にするが、立派な見た目に反してセキュリティは貧相なものだった。誰でも歓迎ですよ、という具合の寛容的な自動ドアが一重だった。
ガラスに反射して自分が映っているのが見えた。入らないのか、と問いかけるように突っ立っている自分がいた。
だが、そんな虚像の自分とはすぐに切り離され、受動的に足を踏み入れた。
所々、壁が色褪せており、見た目に反する内装だと感じた。見た目を気にしてなのか、受付口までにレッドカーペットが敷かれていた。長年使い古したようで粗っぽく薄汚れて見えた。
防犯カメラからの視線を何食わぬ顔で素通りし、エレベーターに乗り込む。最上階のボタンを押し、浮遊感に身を包まれて到着を待った。
キンコーンという音とともに扉が開き、辺りを一周見回してからふらふらと探索を始めた。
捜索を始めると言っても、長い通路の両脇に部屋が備わっているという構造で屋上へ続いているであろう階段はすぐに見つけることができた。
通路の突き当たりに目印かのように、年季の所為で赤褐色に色褪せた消化器が備え付けられている。そしてその傍に目的のそれはあった。
コン、コン、コン。
不気味に共鳴する一定の金属の音と、きしんだ一つの音によって外の空間へと繋げられた、はずだった。
しかし、実際はそうではなかった。屋上と私の空間にある分厚い金属の障壁には、いたずらにもさらに追加の施しがされていた。過剰なまでにぐるぐると巻き付けられている南京錠。ドアノブを掴もうにも掴めない。エントランスのセキュリティは最悪なものに対して、屋上へ繋がる扉のセキュリティは最凶なものだった。
普通に考えればそれもそのはずだ。屋上から飛び降り自殺する人がいたら運営側はたまったもんじゃない。勿論、それを見越してのそれなりの対策がこれなのであろう。
薄々、勘づいてはいたが、雀の涙ほどの希望であることは分かってはいたが、期待はしていたため気落ちする。無駄なことはしたくなかったため諦めてマンションを後にした。

しばらくの間、ひたすらテキトーな道をまっすぐと歩き続けた。高層ビルばかりが建ち並ぶ新宿は同じ道を永遠と果てしなく歩いているような気分にさせた。どこをどう歩いたのかでさえ分からなかったためここが新宿の範囲内であるかどうかすら怪しかった。
ふと我に返った時には身体中に汗をかいており暑さに限界を感じた。それにどことなく体がだるい。もしかすると、熱中症になりかけているのかもしれないと思い、これまたなんとなく近くの商業系の会社であろうマンションに足を踏み入れた。
冷房の匂いとともに涼しさが身体を包み込んだ。僅かに身体が強ばるのを感じる。
スーツ姿でない私は、余程目立つのか受付嬢らからジロジロと奇妙な目で見られた。
声をかけられてしまう前に逃げるようにしてエレベーターに乗り込んだ。エレベーターに乗り込む最後まで受付嬢らはこちらを凝視していた。幾ら大人でないといえど、もっと遠慮して見ることはできないのか、と怪訝に思った。それに普通に失礼だ。
エレベーターの上部には七一階までのボタンが存在していて、ここは七一階建てのマンションであることが分かる。これという意図もなく観察と分析を繰り返しては、忘れていくことを繰り返して先程と同様の順序で屋上をめざした。
屋上へと繋がる扉の前に立つ。一つ前のマンションのおかげか、驚くほど順調に目的地まで到達しそうだった。
先程のデジャブが繰り返される可能性が脳裏によぎったが、今回は少し違っていた。扉は先程の南京錠よりかは劣るが、例の如く南京錠によって施錠されていることにはされていた。
だが、大きく一つ違うこと。それは南京錠が壊されていたということだ。扉の真下には鎖の破片が無造作に散らばっている。そして南京錠だけが少し離れた位置に転がっており、扉には鎖のみが取手にだらりと引っかかっている状態だった。
かなりの年月が経っているように見えた南京錠ではあったが、自然に壊れた様子ではなく、誰かが意図的に無理やり壊したように見受けられた。
南京錠が扉の真下ではなく離れた位置に転がっていたことや鎖の破片が散らばっていたことを踏まえると、明らかに誰かが作為的に壊したことは言うまでもない。
この屋上に得体の知れない何かしらの問題が存在しているのだろうが、どうせ自分には関係ないことなので気づかなかったことにした。
不安と好奇が入り交じる中、おそるおそる扉に手をかけた。
外の明るさが少しずつ視界に映り込んでくる。
先程の予感とは裏腹に、いざ扉を開けて数歩進んでみるも、特に変わった様子は感じ取れなかった。
何もないし、誰もいない。あるのは私の腰よりも少し高いくらいのフェンスだけだった。こんな安っぽいフェンスじゃいとも容易く越えられてしまうではないか、と思った。
夏の湿った空気が私を包む。蒸し暑かった。田舎にいようが、都会にいようが、地元から離れただけでは私という人間は夏の暑さのようにどこにいても変わらないようだ。
じわじわと身体中が汗ばんできて不快感が襲ってくる。汗が目尻を伝って、頬に涙のように滴り落ちた。夏の暑さに絆された私の視界は蜃気楼のように揺れ動いていた。
夏の暑さに溶けてしまいそうだった。もういっそこのまま溶けてしまいたかった。大きく二酸化炭素を吐き出して夏の暑さと溶け合わせた。不安も嫌悪も、何もかも夏の暑さに混ぜて失わせたかった。
私は一歩、また一歩と着実に足を前へ進める。
フェンスに手をかけると金属の冷たさに身体が脱力した。しっかりと一つひとつの指に力を込めて掴む。フェンスが小刻みに揺れている気がした。
時間の流れなど気にもとめず、ただひたすらにぼんやりと広がる光景を眺めた。ジリジリとした陽射しが私を焼いた。
そういえば明日は焼肉にしよう、と昨夜職員さんに言われていたことを思い出す。やっぱり今から家に帰って焼肉を頬張ってから明日また、ここに来ようかと考えが過ったが、所持金がゼロ円ということを思い出し、焼肉は諦めることにした。
「はあー、喉乾いたな。暑いし、だるいし、眠いし、立ってるの疲れた。もう何もしたくない」
不満を大いに口から吐き出した。特に何もしていないくせに、なにもしたくないとは随分と怠惰な人間なこと。
いよいよ気だるさが頂点に達してきた。この脅威的な暑さが原因とも言えるが、気持ちの問題も少なからずあるだろう。
いよいよ覚悟を決めなければならなかった。覚悟を決めると言っても、元々は自分で決めたことなんだから今更、騒ぐなよ、と心の中で自分を叱責する。でも、少なからず覚悟を決める必要はあった。そうでないと多分、これからも一生死にながら生き続けてしまうのだろう。
フェンスから僅かに身を乗り出して下を覗く。こちら側は表通りではないため人の行き交いは大分、少なかった。真下から離れたところに人がぽつんと座っていたり、寝そべっていたりするくらいだ。
所持品をぶっきらぼうにぽいっとそこらに投げ捨てる。水色の四角い財布からは何ら一切、音はしなかった。鞄から出た空のペットボトルがからんからんと音を立てて転がった。
フェンスを掴みながら瞼の重みに身を委ねた。 夏の湿った風が頬を撫でた時、後方から扉の開く気配を感じとって振り返った。
こんなところに一体誰が、という疑問とともにここに私がいる都合のいい言い訳を考える。
しかし、それよりも先に一人の女性と目が合う。
その女性はこんな猛暑にしても黒のパンツスーツを纏っていた。ついでに、吸いかけの煙草を片手に、そしてもう片方の手には缶コーヒーが。
おそらく、このビル経営の会社の社員なのだろうと思ったが、その割にスーツの着こなしは随分とラフというか、着こなしている感というか。単刀直入に言うと少しだらしない。
アイロンがけを怠っているのか、至るところに薄く皺ができており、雑に腕捲りをした形跡として腕の方には酷く皺が刻まれている。加えて、OLであれば大抵の人が化粧をしているが、そのような一面は見当たらない。そのためか、隠す素振りを見せない隈ははっきりとその存在を強調していた。
互いに言葉を発することなく両者の沈黙がこの場を支配する。聞こえるのは、こんな都会でも生息している蝉の鳴き声だった。
沈黙に耐えられなくなった私は「仕事、戻らなくていいんですか」と言葉を絞り出したが、彼女は沈黙を貫いたまま、私を捉えて離さなかった。私の勇気は虚しくも無惨に彼女に消されてしまったのだ。何かしら言葉を発してくれてもいいと思うのだが、彼女にそんな考えは浮かばなかったようで、まさかの沈黙が依然として変わらぬまま貫かれる。
「あの、ほら、多分今って休憩時間終わってると思うんですけど」
人は焦ると思いがけない行動をとったり失敗を犯したりしてしまう。私もそれに該当する人間のようで、焦って変な事を言ってしまった。
しまったな。私にあの人のことは関係ないのに不用意に言葉を発しすぎた。余計なことをしたという自覚がひしひしと脳に染み付いてくる。
加えて言葉を続けたにもかかわらず彼女は未だに沈黙を貫く。無視されているのではないか、とも思ったが、確かに視線が交わっているためそれはない。
「そろそろ何か言ってくれても良くないですか?」
それ程までに沈黙を好む人なのだろうか。それとも何かしらを考えているからなのか。いずれにせよ、そろそろ何か言葉を発してくれてもいいのでは、と思う。
いたたまれなくなってこの場を去ることが脳裏をよぎった時、彼女がようやく口を開けた。もう少し早くにそうしてくれていれば、私は余計な発言をせずに済んだのに。
「こんなところで何してるんだい。じょーちゃん」と彼女は僅かに口角を上げ、首を傾げて言った。
「え、じょーちゃん?」
「うん。じょーちゃん」
変な人だと私の直感が訴えていた。呼び方といい、服装といい、不自然な点が彼女には多かった。私も例外ではないのだが。
今すぐにここから逃げ出したかったが、出入口である扉の前には彼女がいるためそう簡単には逃げ出せまい。
それに彼女に捕まってしまえば私には不都合な事がたくさん起きてしまう。見た目は高校生なので、警察に補導してもらうために通報されてしまうかもしれない。無許可で侵入したことは彼女もなんとなく察しがついていそうだから、住居不法侵入罪を訴えられるかもしれない。
ありとあらゆる可能性が検出されて脳内がパニックに陥る。他にも今すぐに思いつかないだけで、不都合なことは多いはずだ。
私は今からどう行動すれば良いのだろう。彼女には何がなんでも捕まりたくはない。意地でも逃げなければ……
「で、結局どうしてこんなところにいるの?」
彼女の一言によって光の速さで進んでいた思考に終止符が打たれる。
彼女はなかなか痛いところを突いてくる。無許可で侵入したため随分と後ろめたい。
「なんでなんでなんでー」
三歳児の子供のように無邪気な声で問いかけられる。母親の気持ちが僅かに分かった気がした。
「えっと、いや、あの、その……」
「ん?」
「……外の空気吸いたくて」
苦笑いをして答えた。
この答え方では必死に理由を探し出したことがバレバレだ。こんな不自然な理由が通用するとは思えない。外の空気を吸いたいだけなら屋上に来る必要はさらさらない。そんなこと誰にでも分かってしまうことなのに。
いつもならもっとマシな嘘がつけたはずなのに、と自分にがっかりして俯いた。なぜだか、彼女には嘘をつくことを躊躇っている自分がいた。
「そうなんだあ。分かるよ。私もたまに外の空気吸いたくなる時あるからさ。でも、本当に都会の空気って美味しくないよね。なんか息が詰まるって言うか」
「確かに田舎の方が空気は美味しい感じしますよね」
平常心を保って会話を繰り広げた。
あんな不自然な理由でも彼女には通用しているのだろうか。まさか、とは思うが、彼女の反応に大した不自然は見つからない。なぜ、彼女はあんな理由に納得できるのだろうか。多分、何も疑わずに値の張る壺を買うタイプの人間だ。純粋無垢にも程がある。
「だよねー」
おそらく、彼女とはそこまで歳は離れていないだろう。喋り方からそう見受けられた。
「ていうか、てっきりあたしはじょーちゃんがここから飛び降りちゃうのかと思ってたよ」
彼女が可愛らしい顔で微笑しながら、可愛らしくないことを言った。声色はどことなく冷たい。一定のトーンを保っていた。
「え、いや、その」
理解できなかった。彼女の言葉の意図が、私の目的を見抜いたきっかけが、わざわざ私に伝えた理由が。何もかも。考えたくもなかった。
そんな素振りを見せたつもりなど一切なかった。生まれてから一度も、誰にも、だ。でも、どうして彼女は見抜いてしまったのだろう。
ただ単純に疑問だけが残った。
返す言葉は浮かんでこなかった。言葉は重い錨のように海底に沈んで浮かび上がることを知らない。
金縛りにあったかのように身体が硬直していた。瞳は彼女だけを灯火で灯している。
脳が何か言葉を返すべきだと訴えていた。違う、とたった一言でも否定の言葉を口にしていれば良かったのに。
彼女から煙草の匂いがした。この時、本当なら今頃私も煙草の煙のように空高く舞い上がって、消え失せていたのかもしれないと考えていた。