結局、私と杏子ちゃんが卓球場を後にしたのは、6時を回ってからだった。

 太陽はそのほとんどを地平線の彼方へ姿を隠しており、辺り一帯がオレンジに染まっている。

「いやー楽しかったー」
「疲れた……」

 駅までの道を歩く私たちはそれぞれ感想を口にする。足取りも対照的だった。どちらの歩調が重いかは言うまでもない。

 あの後もめぐ先輩たちから熱烈なアンコールを受けて、何度もラリーをすることになった。本当は杏子ちゃんを部まで案内してすぐに帰るつもりだったのに。
 ホント、人生は思うようにいかない。

「でもあんないい球打って、ホントに卓球部には入らないの?」
「う、うん……」
「先輩たちも、いい人ばっかりだったじゃん」
「それはまあ、そうだけど」

 最初、千穂先輩に捕まえられた時はビックリしたけど。
 だけど、いい人たちだからこそ、私が入るわけにはいかない。私が入ることで、あの人たちの和を、乱すことになるから。

「それはそうとあの人、なんかすごかったねー」
「あの人って……青原(あおはら)さん?」
「そうそう。わたしたちと同級生なのになんか大人びててさー」

 杏子ちゃんが言うのは、私たちの後にやって来た黒髪ポニーテールの新入生。青原(はな)。教室で見かけたことがないから、きっと私たちとは違うクラスだろう。

「なんか近寄りがたい雰囲気だったよねー」
「たしかに……」
「わたしがあいさつしても『よろしく……』としか言わなかったしー。嫌われちゃったかなー」

 彼女は自己紹介してから入部したい旨を先輩たちに伝えると、卓球場の奥にある部室で早々と着替えて練習に参加し始めた。同じ新入生の行動とは思えない。
 きっとああいう風に物怖(ものお)じしない人は卓球に向いているんだろうなあ。私とちがって。

「でも、優月は嫌われてないでしょ。なんかチラチラ見てたよ、優月のこと」
「え、そうなの?」

 気づかなかった。いかにして早くあの場を抜け出せるかで頭がいっぱいだったからかな。

「あの人も経験者みたいだったじゃん? 友だちとかじゃないの?」
「う、ううん。違うよ」

 そっかー、と杏子ちゃんは手を頭の後ろに組んで空を眺める。

「しっかし卓球って初心者と経験者の差って大きいよねー」
「うん、そうだね……」
「私もバシバシ打てるようになりたいなー」
「うん……」

 答えながら、私は全く別のことを考えていた。
 彼女、青原華のことを。

 私は……あの人と会ったことがある。
 小学6年生の時に通っていた卓球教室。たしか彼女は私の後から入ってきた。私が先輩ってことで少しだけ教えた記憶はあるけど、それくらいだ。それ以上の記憶は残っていない。一緒に遊んだことも、家に行ったこともない。だから、杏子ちゃんが言うような友だちなんて間柄でもない。知り合い、顔見知り、そんなレベルだ。
 それに、今日の様子を見る限りだと、向こうは私のことを覚えてないっぽいし。

「おーい。優月ー」

 そういえば中学に上がる直前、つまりは小学校を卒業した後で県外に引越したんだったっけ。八高に通ってるってことは、こっちに戻ってきたってことなのかな。

「優月ー? ゆづきちゃーん」

 まあ、今となっては関係ないかな。青原さんは卓球部に。私は今日限りな訳だし。

「優月ってば!」
「ひゃっ!」
「あら~、優月ちゃんてばえっちな声出すじゃな~い」
「も、もう! お腹つっつかないでよ、弱いんだから」
「だーって優月が声かけても反応しないだもーん。何か考え事?」
「あ、いや……別になんでもないよ?」
「ほんとかなー? やらしいことでも考えてたんじゃないのー?」
「そんなわけないから」

 本当、テンションの高い子だ。私とは正反対だ。

「ねえ杏子ちゃん」
「およ?」
「なんで今日、私に声かけたの? クラスにもっとその……話しやすそうな人いたと思うんだけど……」

 ふと気になって、訊く。

「あ、別に話しかけてくれたのが嫌だったってわけじゃないんだけど、なんでかなーと思って」
「あーそんなことか」

 何を今さら、といった顔をすると、

「そりゃーもちろん、優月がかわいかったからだよ。クラスで一番」
「かっ、かわっ!?」

 わ、のところで声が裏返った。なんてことを言うんだこの子は。
 あんまりびっくりしすぎてリュックが肩からずり落ちそうになる。

「わ、私なんか、かわいくないって」

 しかもクラスで一番とか、過ぎたお世辞は説得力なくなると思うんだけど。

「いやいやー、かわいいよー」
「じゃあ、たとえばどの辺?」
「たとえば? そうだなー」

 と、杏子ちゃんの口角が上がる。

「苦手なブラックコーヒーを無理して飲んじゃうところとか?」
「えっ、なんで……」
「なんでって言われても、表情でバレバレだって」

 にしし、と悪戯っぽく笑う杏子ちゃん。私は自分の顔が、夕日に照らされたのとはまた違う赤みを帯びるのを感じる。
 ば、ばれてたんだ。……恥ずかしくて彼女の方を見れない。

「だいじょーぶだよ、今度はちゃんとオレンジジュースにするからさ」
「そ、そういうことじゃなくて」
「おっと、もう駅に着いちゃった。じゃあ、わたし反対側のホームだから。優月、また明日ねー」
「あっ、ちょ……」

 私の弁明を聞くまでもなく、彼女の姿は遠ざかっていった。

「そんな顔に出てたかな、私」

 沈みかけの夕日が作る影が1つになったところで、ぽつりとつぶやく。右手で結んだ髪をいじりながら、左手でむに、と自分の頬を引っ張ってみる。
 きっと無意識のうちに、自分の感情が表情に変化をもたらしているのだろう。そして、ポーカーフェイスが良いとされる卓球に、そんな性格は不向きだ。
 やっぱり私は、卓球をやるべきじゃないんだ。

 再確認するように心の中でつぶやいてから、私は改札をくぐり抜けた。