あなたと並んで勝ちたくて

 青原さんの部屋に戻ると、部屋が真っ暗だった。

 あれ?

 真っ暗というのは正確ではなく、月明かりだろうか、窓から差し込む光が仄かに部屋の中を濃い灰色に染め上げていた。

 窓……が開いてる?

 時折揺れるカーテン。その向こうに感じる人の気配。
 一歩一歩、確かめるように室内を進む。薄明かりを頼りに、ようやく窓際までたどりついた。

「青原、さん?」

 半開きになった窓に手をかけて顔だけ出すと……いた。彼女は窓に背を預ける形で膝を抱えて空を見ていた。

「どうしたの? 湯冷めしちゃうよ」
「大丈夫。いつも、こうしてるから」

 全く動く気配はなく、どうしたものかと2、3秒思案する。そして、空を見上げる彼女の横顔を見て、同じものを見たいと思った。

「隣、いい?」
「うん」

 同じように、腰を下ろした。
 同じように、空を見上げて――

「うわ……」

 そこから先は、言葉を失った。顔を上げた視界いっぱい、まさに満天と呼ぶべき星空。宝石箱を思いっきりぶちまけたみたいな輝きが、あった。

「きれい……」
「よく、見えるでしょ。引っ越してきたこの家の、お気に入り」
「うん」

 大小様々な光。瞬きを見せる星たち。半分だけ顔を見せている、月。ある意味では、昼間の空よりも、眩しいとさえ思った。家が小高い場所に建っているおかげなのか、邪魔をする光も、建物もない。視界には、星々しかない。

 そういえば、こうしてきちんと星空を見るのは、いつ以来だろうか。
 ふと、空に向かって手を伸ばす。

「届かない、ね」
「うん」

 当然だ。光さえたどりつくのに何年もかかる先にあるのだから。
 遠いのだ。彼我の距離は。

「なんだかあの星って、『勝つ』ことみたい。私にとって」
「……優月?」

 ふと思ったことを、口にする。ちゃんと勝ったことのない私には、『勝つ』ことはあの星ほどに遠い存在だ。文字通り、今まで勝ち星を上げられなかったのだから。

 けれど。

「今は、手が届きそうな気がする。みんなと、青原さんと、一緒だから」

 そこまで言ってから、私は首を振って隣を向いた。

「……ありがとう、ね」
「え?」

 こちらを向いた青原さんは珍しく、驚いた顔をしていた。ちょっと得意げな気持ちになる。

「そういえばちゃんとお礼、言ってなかったと思って」

 これをきちんと伝えておかないと、私たちは本当のダブルスペアになれない。そんな気がしたから。

 思い浮かべるのは、数週間前。雨の降る昼休みの卓球場。

「私がもう一度、卓球をやる気持ちにさせてくれたのは……『勝つ』ことを目指せるようになったのは、青原さんがあの時、私に向かって言ってくれたおかげだから。私と勝ちたいって、言ってくれて」

 改めて言うと、照れくさくなる。ぎこちない笑みを浮かべながら、指で頬を掻いた。

「だから、ありがとう」
「……」

 青原さんは、私の言葉を受け止めた後、少し下を向いた。瞬間、月明かりに反射した彼女の表情は、どこかバツの悪そうに見えた。

「青原さん?」
「……ごめん」
「……え?」

 予想外の返答に、目を瞬く。ごめん? 謝罪?

「どうして……青原さんが謝るの?」

 訊く。すると、青原さんは顔を上げた。覚悟を決めたみたいに。

「私が優月を卓球部に引きとめたのって……自分のためなの」
「自分、の?」
「うん」
「それって、どういう、こと?」

「優月、さっき言ったよね。手を伸ばす先の星が『勝つ』ことだって」
「う、うん」
「私にとってあの星は――優月なの」
「わた……し?」

 どういうこと? 頭が追い付かない。たしかに私は、『勝つ』という目指す目標を星に喩えた。その考えでいくと、目の前の青原さんにとってのそれは――

「私、ずっと優月に勝つことを目標にしてきた」

 勝つため?
 私に?

「覚えてる? 小学生の時、卓球教室での、最後の日のこと」
「う、うん」

 そう答えられたのは、さっきウメちゃんの喫茶店でぼんやりと考えていたからだ。

「じゃあその結果も、覚えてるよね」
「うん。たしか……私が、勝った」
「優月の言うとおり。私は完敗だった」

 ボロ敗けだった、と。

「私、すごく悔しかった」

 青原さんは、まるでその敗北が今さっきの出来事であるかのように、感情を込める。

 でも。たしか、あの時の試合は。

「あの敗けは、しょうがないと思うよ? だって青原さん卓球始めて数か月だったし。私の方が経験年数ずっと長かったから」

 まだ、初心者といえるレベルだった青原さん。卓球は経験者と初心者の差が最も大きいといえるスポーツ。だから、仕方ない。

「そんなことはわかってる」
「青原さん……」
「実力差があったことも。勝てる可能性が限りなく低かったことも。でも――」

 言葉を切り、一度息を吸う。

「敗けることは、悔しい。どんな条件でも、私は悔しくないなんて、絶対に思えない」

 膝を抱える腕に力がこもる。負けず嫌い。思えば、さっきゲームをしている時にも感じた、彼女のこと。

「優月は、悔しくないの? 今まで敗けてきたこと」
「それは」

 訊いてくる青原さんの表情は、まるで私の答えを見抜いているみたいだった。だって、私のことも、さっきこの人は知ったから。

「悔しいよ。めちゃくちゃ、悔しい」
「でしょ?」

 言って、青原さんは再び星空に視線を戻した。

「次会った時、絶対優月に勝とうと思った。そう心に決めて、転校してからも卓球を続けた」
「うん」
「だからこっちに戻ることが決まった時も、優月が行った中学の人があんまり行かない八高に行くことにした。敵として優月と、戦えるように。なのに」

 私も八高に、彼女と同じ学校に、進学していた。

「初めて卓球場に行った時、優月がいて本当にビックリした。ビックリしたけど、私がやることは変わらないと思った。部内のライバルとして勝てばいいって」

 でも、とさらに逆接で彼女はつなぐ。そう、それもそのはず。

「私が仮入部でいるだけだった、と」
「うん。だからどうしようか考えた。なんとか引きとめられないかって。そしたら、あのファミレスで優月と、あの人たちを見つけた」

 黒部さんと、眞白さん。私を引きとめるのに、体のいい相手。

 そうか、だから青原さんはあのファミレスに居合わせることができたのか。小学生の教室に通っていた時からよく行っていた場所だったから。

「だから、ごめん」

 青原さんは頭を下げてくる。

「優月はありがとうって言ってくれたけど、私はそれを受け取る資格はないの。優月を励まして卓球部に引きとめたのは、ダブルスの試合に参加させたのは全部、私のため」

 私の、身勝手。

「……」

 なんと言葉をかけようか。そう思ったところで、青原さんは頭を上げた。その表情は、決意に満ちていて、後悔なんて感情を微塵も感じさせない。

「けれど、私は優月に勝ちたい。優月とちゃんと試合をして」

 そう、言った。

「……本当は、言わないつもりだったの」
「青原さん……」
「言ったら、きっと優月は気を悪くする。それこそ、ダブルスだけじゃなくて、今度こそ卓球から離れちゃうかもしれないって思ったから。でも」

 でも。その言葉の後から紡ぎだされるのは、

「優月はちゃんと自分の気持ちを言葉にしてくれた。さっきだって私にありがとうって、言ってくれた。だったら、私も応えないわけには、いかないから」

 そこまで言って、彼女は口を真一文字に引き結んだ。

 ……あ。

 そこから読み取れるのは、不安。彼女が見せる、初めての感情。

 私が幻滅し、卓球から離れてしまうんじゃないか、という。

「ねえ」

 そんな不安な顔の女の子に向かって、私は訊くことにした。

「ひとつだけ、聞かせて。青原さんの、ホントの気持ち」
「本当、の?」
「あの日、言ってくれたこと。ダブルスで私と勝ちたいって言ってくれたことは、あなたの本心?」

 ダブルスで、今度の試合で、黒部さんたちに、勝ちたいと、言ってくれたこと。

「……本当だよ」

 小さく、だけど芯の通った声で、答えが返ってくる。

「何一つ嘘偽りはない。だって、優月は私が倒すんだから。あんな人たちに、敗けてほしくない。いや、敗けるわけない――」

 それだけで、十分だった。

「ゆづ……き?」

 気が付けば、私は青原さんを抱きしめていた。鼻孔をくすぐるシャンプーの香り。やわらかな肌の感触。伝わってくる体温。

 今この瞬間生きているという証の、鼓動。

「だったら私から伝えるのは、やっぱりありがとう、だよ。私のことこんなにも考えてくれる人がいて、ホントにうれしい」

 ライバルとして。仲間として。……ダブルスペアとして。

「私、もっと頑張るね。試合でちゃんと戦えるように。青原さんの倒す目標として、恥じないように」
「優月……」

 彼女の腕に力がこもり、抱きしめ返される。

「うん。ありがとう、優月」
「こちらこそ」

 そう言って、身体を離す。顔が見えた青原さんは、いつもの冷静な表情ではなく、確かに熱を持っていた。

「よろしくね、青原さん」

 右手を出す。すると、何やら曇り顔になった。

「あれ? 青原さん?」
「……華」
「え?」
「名前。私だけ名前で呼んでるのに、優月は苗字なんて、なんか不公平」

 じと、と不満を目線で訴えてくる。

 たしかにそうだ。ダブルスのペアは対等。まっすぐ、お互いのことを見つめ合うんだ。

「じゃあ……華」
「うん」
「華」
「なに?」
「呼んでみただけ」
「ぷっ、なにそれバカップルみたい」
「ちょっ、華が名前で言えっていったのに」
「あはは、ごめんごめん」
「もー」

 ひとしきり言い合って、私たちは天井を向く。

「よろしくね、優月」
「こちらこそ、華」

 今度こそ、互いの手を握り合う。力を込めて。

 それから、私たちは寄り添って、もう少しだけ星を眺めた。瞬く星たちはまるで私たちを祝福しているみたいて。

 この瞬間、私たちはちゃんと、ダブルスペアになれた。そう思えた。