「ふう~~~~」
最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったと同時、私は気の抜けていく風船のように長く息を吐いた。
疲れた……。
これが高校の授業か、はたまたレベルが高めだからか。それとも単に丸1日授業を受けるのが久しぶりだったからか、疲労感で両肩に石が乗っかっている気がした。
だけどここからは私たちの時間。放課後。
何をしたっていい。
「さてと……」
机から部活の一覧が書かれたプリントを取り出して眺める。気になる部はいくつかあるけど、まずはどこから見てみようかな……。
思い起こされるのは、今朝必死の思いで通り抜けた勧誘ロード。やっぱり、入るならガツガツ勧誘していない部の方がいいかな。静かな文化部とか。
リストの中から、声を張り上げて勧誘していたところを上からペンで横線を入れていく。みるみるうちに選択肢は少なくなり、案の定文化部ばかりが残った。
「うーん……」
残された候補がぐるぐると頭の中を泳ぐ。
おしとやかで上品そうな文芸部とかどうだろ。私も大人っぽくなれるかも。他には手芸部、なんて。かわいいぬいぐるみとか自分で作れるようになれたらいいなあ……。
どのみち、一度は見に行ってみた方がいいよね――
「やっほー赤城さん! どの部に入るか決めた!?」
「ひゃっ」
頭上から朗らかな声が降ってきて、思考の海から現実に引き戻される。
反射的に顔を上げた先には、ひとりの女の子。
陽射しが似合いそうな茶髪のショートカットに、まんまるの目。そしてその瞳の中は、星を散りばめたみたいに輝きで満ちていた。
「えっ……と……?」
たしかこの人はクラスメイトの、ええと。
「あれれ、もしかして名前覚えられてない?」
「い、いやいやそんなことないよ。黄粉さん、だったっけ?」
彼女は、いえーす、と親指を立てて、
「黄粉杏子。あらためてヨロシクー」
「う、うん……」
入学式の日の自己紹介の時、やたら甘そうな名前だと思った記憶がある。でも、彼女とは話したことがあるわけでも、中学の時からの知り合いでもない。
なんか、声かけられるようなことしたっけ……。
「どうしたの? 黄粉さん」
「杏子でいいよー、わたしも優月って呼ぶし。それにほら、黄粉だとなんかおばあちゃんみたいじゃん」
「あ、あはは……じゃあ、杏子ちゃんで」
「ありがとー! それでえーと、なんだっけ……そだそだ! 部活だよ部活! 優月は決めた?」
「部活? まだ、だけど……」
テンション高めの彼女の立ち居振る舞いに、私はどこか引き気味になる。私はサイドに結んだ髪の先をくるくるといじりながら、眼前の女の子と目を合わさないように視線を泳がせて、
「杏子ちゃんは、もう決めてるの?」
なんだか訊き返さないといけないような気がしたので問いかける。すると彼女は待ってましたとばかりに一層目を輝かせた。
「えーっとねー、わたしは……卓球部!」
「!」
「この間テレビで試合やってたの知ってる? あれ見てわたしすっかり引き込まれちゃてさー。高校入ったらやろうって思ったの!」
「そう、なんだ……」
「って言っても初心者なんだけどね」
言いながら彼女は小さく舌を出す。だけどそんな彼女の言葉は私の耳に入ってこなかった。なぜって、
「まだ部活決めてないんなら、優月も見学一緒に行かない?」
こういう流れになるんじゃないかって、脳内から危険信号が発せられていたから。
「えと、私はいいよ」
不恰好になっているであろう愛想笑いを浮かべて言う。卓球部だけは、遠慮したい。
でもこういうタイプの人がここで引き下がってくれないということは、たかが人生経験十数年の私にも理解できた。
「ええー、そんなこと言わずにさー。あ、もしかして中学の時入ってた部に行ってみようって思ってる?」
こんな感じで、私を放っておいて話がほいほい進んでいくのだ。
「わたしはバレー部だったんだけどさー、優月は何部だったの?」
「えーっと……」
ほら、こうやって矛先が自分に向かう。まあこの時点で矛は私に刺さってしまっているようなものだけど。
終業のチャイムが鳴った時に、一目散に教室を出ればよかった、と私は内心でため息をついた。
仕方ない。
「その……卓球部」
観念して、うつむきがちに告げる。どうせウソを言ってもそのうち明るみに出て面倒なことになるだろうし。器用にウソをつくなんてテクニック、私にはできない。
ゆっくりと顔を上げる。と、そこには瞳の中に満天の星空を内包していそうなほど目を輝かせた杏子ちゃんがいた。
「おおおお~! 優月、卓球やってたんだ! もー、なら最初に言ってよー」
ガッシ、と両手をつかまれる。まるで手錠のように見えた。私はまさに連行寸前の犯人に違いない。悪いことはしてないはずなのに。今すぐ釈放してほしい。
「ならさ、案内だけでいいから一緒に行ってくれない? 初心者のわたしがひとりだけで見学に行くのも心細いし」
心細いとか絶対思ってなさそうだ。そもそも私も入学したてなのに案内って……。
「ほら、卓球部の人って初心者の人に冷たそうじゃん?」
「それはまあ……」
経験上、否定できない。
「だからさ、お願い」
ぱん、と両手を合わせて懇願される。こんなにダイナミックな動作をとられても断れるほど、私に「度胸」というものはない。そんなものがあるならもっと胸のサイズだって大きくなってるに決まってる。
はあ……。
こうしてお願いされた時点で、私がとれる行動は決まっていた。
まあ今までこうやって流されて生きてきたし。それが高校生になったからっていきなり変わるわけもない。
心の裡で、再度ため息。そして答える。
「わかった。じゃあついていく、だけね」
半ば連行される形で教室を出た私は、なぜか校舎脇の自販機の前にきていた。
「はいっ、どうぞ!」
「えっと、ありがとう……?」
にこやかな顔とともに、杏子ちゃんは買ったばかりの缶を差し出してくる。
「今日一緒に行ってもらうお礼ってことで! まあお礼がジュース1本だけっていうのには目をつむってよ。今月ピンチだから、ね?」
「はあ……」
今一つ彼女のペースについていけない。けど、せっかくなので受け取る。黒いデザインの小さめの缶。
ってこれ、ブラックコーヒーだ。
「あれ? 優月ブラックはダメだった? 見た目クールだからブラック派だと思ったんだけど……」
「い、いや、いいよ。ありがとね」
「そかそか!」
杏子ちゃんはうなずくと再度、自販機に小銭を入れてボタンを押す。自分用であろうそれは、オレンジジュースだった。手早く取り出してプルタブを開けて、ごくごくと飲み始める。
「んー、んまーい!」
「あはは……」
ああ、私もそっちがよかったな……。
なんて言えるわけない。人生うまくいかないものだ。
人生の苦みを噛みしめつつ、私も手に持った缶をあおる。ブラックコーヒーの苦酸っぱさが口いっぱいに広がる。そもそもブラックコーヒーを美味しく飲む女子高生なんているわけない……と思う。
「そういえば、どうして卓球なの?」
口の中の苦みを紛らわせるためにも、私は訊いてみることにした。
「テレビでやってるのを見たって言ってたけど、テレビでやってるスポーツなんて、いっぱいあると思うんだけど」
「んー、そうだなあ……」
杏子ちゃんは人差し指をやわらかそうな唇に当てて考えるような仕草をとる。
「知らない世界に飛び込んでみたかったのかも」
「知らない、世界……」
「テレビに映ってるの見てさ、思ったの。そりゃ上手い人だからスゴいのは当たり前なんだけど、わたしが今まで知ってた卓球とは全然違う! って」
そう言って、杏子ちゃんは上を――空を向いた。
「せっかくの高校生活だから、今までいたところとは違う場所に行きたくなったの……変かな?」
「ううん、全然、そんなことない」
「そかそか、ありがと優月」
杏子ちゃんは笑う。その表情を、私は真正面から見ることはできなかった。
だって、私はきっと卓球に対してそんな風に思えないし、そんな顔をすることもできない。
知らない世界に飛び込む、か。
高校で新しい部活に入る。一見、私も杏子ちゃんも同じことをしようとしているけれど、その意味は全く違うように思えた。
私のそれは、ただの逃げじゃないんだろうか。……卓球、からの。
「おおっと! ゆっくりしすぎちゃった! ほらほら、優月! 行こ!」
「う、うん」
手に持った缶をゴミ箱に捨ててから、見えない糸で引っ張られているかのように、私は杏子ちゃんの後を追った。せっかく買ってくれたのに、苦味に耐え切れず飲みきれなかった罪悪感が残る。
と、ブラックコーヒーの苦みで頭が冴えたのか、私はあることに気づいた。
「ねえ、ちょっ、杏子ちゃん」
「ん? なになに?」
「杏子ちゃんは知ってるの? 卓球部がどこで練習してるか、とか」
「……あ」
この時、陽気な彼女の顔が引きつるのを初めて目にしたのだった。
最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったと同時、私は気の抜けていく風船のように長く息を吐いた。
疲れた……。
これが高校の授業か、はたまたレベルが高めだからか。それとも単に丸1日授業を受けるのが久しぶりだったからか、疲労感で両肩に石が乗っかっている気がした。
だけどここからは私たちの時間。放課後。
何をしたっていい。
「さてと……」
机から部活の一覧が書かれたプリントを取り出して眺める。気になる部はいくつかあるけど、まずはどこから見てみようかな……。
思い起こされるのは、今朝必死の思いで通り抜けた勧誘ロード。やっぱり、入るならガツガツ勧誘していない部の方がいいかな。静かな文化部とか。
リストの中から、声を張り上げて勧誘していたところを上からペンで横線を入れていく。みるみるうちに選択肢は少なくなり、案の定文化部ばかりが残った。
「うーん……」
残された候補がぐるぐると頭の中を泳ぐ。
おしとやかで上品そうな文芸部とかどうだろ。私も大人っぽくなれるかも。他には手芸部、なんて。かわいいぬいぐるみとか自分で作れるようになれたらいいなあ……。
どのみち、一度は見に行ってみた方がいいよね――
「やっほー赤城さん! どの部に入るか決めた!?」
「ひゃっ」
頭上から朗らかな声が降ってきて、思考の海から現実に引き戻される。
反射的に顔を上げた先には、ひとりの女の子。
陽射しが似合いそうな茶髪のショートカットに、まんまるの目。そしてその瞳の中は、星を散りばめたみたいに輝きで満ちていた。
「えっ……と……?」
たしかこの人はクラスメイトの、ええと。
「あれれ、もしかして名前覚えられてない?」
「い、いやいやそんなことないよ。黄粉さん、だったっけ?」
彼女は、いえーす、と親指を立てて、
「黄粉杏子。あらためてヨロシクー」
「う、うん……」
入学式の日の自己紹介の時、やたら甘そうな名前だと思った記憶がある。でも、彼女とは話したことがあるわけでも、中学の時からの知り合いでもない。
なんか、声かけられるようなことしたっけ……。
「どうしたの? 黄粉さん」
「杏子でいいよー、わたしも優月って呼ぶし。それにほら、黄粉だとなんかおばあちゃんみたいじゃん」
「あ、あはは……じゃあ、杏子ちゃんで」
「ありがとー! それでえーと、なんだっけ……そだそだ! 部活だよ部活! 優月は決めた?」
「部活? まだ、だけど……」
テンション高めの彼女の立ち居振る舞いに、私はどこか引き気味になる。私はサイドに結んだ髪の先をくるくるといじりながら、眼前の女の子と目を合わさないように視線を泳がせて、
「杏子ちゃんは、もう決めてるの?」
なんだか訊き返さないといけないような気がしたので問いかける。すると彼女は待ってましたとばかりに一層目を輝かせた。
「えーっとねー、わたしは……卓球部!」
「!」
「この間テレビで試合やってたの知ってる? あれ見てわたしすっかり引き込まれちゃてさー。高校入ったらやろうって思ったの!」
「そう、なんだ……」
「って言っても初心者なんだけどね」
言いながら彼女は小さく舌を出す。だけどそんな彼女の言葉は私の耳に入ってこなかった。なぜって、
「まだ部活決めてないんなら、優月も見学一緒に行かない?」
こういう流れになるんじゃないかって、脳内から危険信号が発せられていたから。
「えと、私はいいよ」
不恰好になっているであろう愛想笑いを浮かべて言う。卓球部だけは、遠慮したい。
でもこういうタイプの人がここで引き下がってくれないということは、たかが人生経験十数年の私にも理解できた。
「ええー、そんなこと言わずにさー。あ、もしかして中学の時入ってた部に行ってみようって思ってる?」
こんな感じで、私を放っておいて話がほいほい進んでいくのだ。
「わたしはバレー部だったんだけどさー、優月は何部だったの?」
「えーっと……」
ほら、こうやって矛先が自分に向かう。まあこの時点で矛は私に刺さってしまっているようなものだけど。
終業のチャイムが鳴った時に、一目散に教室を出ればよかった、と私は内心でため息をついた。
仕方ない。
「その……卓球部」
観念して、うつむきがちに告げる。どうせウソを言ってもそのうち明るみに出て面倒なことになるだろうし。器用にウソをつくなんてテクニック、私にはできない。
ゆっくりと顔を上げる。と、そこには瞳の中に満天の星空を内包していそうなほど目を輝かせた杏子ちゃんがいた。
「おおおお~! 優月、卓球やってたんだ! もー、なら最初に言ってよー」
ガッシ、と両手をつかまれる。まるで手錠のように見えた。私はまさに連行寸前の犯人に違いない。悪いことはしてないはずなのに。今すぐ釈放してほしい。
「ならさ、案内だけでいいから一緒に行ってくれない? 初心者のわたしがひとりだけで見学に行くのも心細いし」
心細いとか絶対思ってなさそうだ。そもそも私も入学したてなのに案内って……。
「ほら、卓球部の人って初心者の人に冷たそうじゃん?」
「それはまあ……」
経験上、否定できない。
「だからさ、お願い」
ぱん、と両手を合わせて懇願される。こんなにダイナミックな動作をとられても断れるほど、私に「度胸」というものはない。そんなものがあるならもっと胸のサイズだって大きくなってるに決まってる。
はあ……。
こうしてお願いされた時点で、私がとれる行動は決まっていた。
まあ今までこうやって流されて生きてきたし。それが高校生になったからっていきなり変わるわけもない。
心の裡で、再度ため息。そして答える。
「わかった。じゃあついていく、だけね」
半ば連行される形で教室を出た私は、なぜか校舎脇の自販機の前にきていた。
「はいっ、どうぞ!」
「えっと、ありがとう……?」
にこやかな顔とともに、杏子ちゃんは買ったばかりの缶を差し出してくる。
「今日一緒に行ってもらうお礼ってことで! まあお礼がジュース1本だけっていうのには目をつむってよ。今月ピンチだから、ね?」
「はあ……」
今一つ彼女のペースについていけない。けど、せっかくなので受け取る。黒いデザインの小さめの缶。
ってこれ、ブラックコーヒーだ。
「あれ? 優月ブラックはダメだった? 見た目クールだからブラック派だと思ったんだけど……」
「い、いや、いいよ。ありがとね」
「そかそか!」
杏子ちゃんはうなずくと再度、自販機に小銭を入れてボタンを押す。自分用であろうそれは、オレンジジュースだった。手早く取り出してプルタブを開けて、ごくごくと飲み始める。
「んー、んまーい!」
「あはは……」
ああ、私もそっちがよかったな……。
なんて言えるわけない。人生うまくいかないものだ。
人生の苦みを噛みしめつつ、私も手に持った缶をあおる。ブラックコーヒーの苦酸っぱさが口いっぱいに広がる。そもそもブラックコーヒーを美味しく飲む女子高生なんているわけない……と思う。
「そういえば、どうして卓球なの?」
口の中の苦みを紛らわせるためにも、私は訊いてみることにした。
「テレビでやってるのを見たって言ってたけど、テレビでやってるスポーツなんて、いっぱいあると思うんだけど」
「んー、そうだなあ……」
杏子ちゃんは人差し指をやわらかそうな唇に当てて考えるような仕草をとる。
「知らない世界に飛び込んでみたかったのかも」
「知らない、世界……」
「テレビに映ってるの見てさ、思ったの。そりゃ上手い人だからスゴいのは当たり前なんだけど、わたしが今まで知ってた卓球とは全然違う! って」
そう言って、杏子ちゃんは上を――空を向いた。
「せっかくの高校生活だから、今までいたところとは違う場所に行きたくなったの……変かな?」
「ううん、全然、そんなことない」
「そかそか、ありがと優月」
杏子ちゃんは笑う。その表情を、私は真正面から見ることはできなかった。
だって、私はきっと卓球に対してそんな風に思えないし、そんな顔をすることもできない。
知らない世界に飛び込む、か。
高校で新しい部活に入る。一見、私も杏子ちゃんも同じことをしようとしているけれど、その意味は全く違うように思えた。
私のそれは、ただの逃げじゃないんだろうか。……卓球、からの。
「おおっと! ゆっくりしすぎちゃった! ほらほら、優月! 行こ!」
「う、うん」
手に持った缶をゴミ箱に捨ててから、見えない糸で引っ張られているかのように、私は杏子ちゃんの後を追った。せっかく買ってくれたのに、苦味に耐え切れず飲みきれなかった罪悪感が残る。
と、ブラックコーヒーの苦みで頭が冴えたのか、私はあることに気づいた。
「ねえ、ちょっ、杏子ちゃん」
「ん? なになに?」
「杏子ちゃんは知ってるの? 卓球部がどこで練習してるか、とか」
「……あ」
この時、陽気な彼女の顔が引きつるのを初めて目にしたのだった。


