「すみません、でした」

 お客さんが帰り、私たちだけになった店内で、未だ顔を上げることができない私は、床を見つめながら、言った。

「気にしなくていいのよ。誰しも最初は緊張するもの」
「うん、私もグラス……割っちゃったこと、あるし……」

 ウメちゃんとつむぎ先輩が励ましてくれる。だけど、私の心は晴れない。

「赤城ちゃん、赤城ちゃん」
「うわっ」

 思わず、強制的に私は顔を上げる。下から瑠々香部長が覗き込んできたからだ。

「やーっと上向いたね。メイドさんなんだから、下向いちゃだめだぞー」
「で、でも……」

 言葉が続かないでいると、瑠々香部長は軽い足取りでカウンターの丸イスに腰かける。

 ちょいちょい、と手招きされ、私は誘われるがままに隣に座った。 

「緊張、した?」
「は、はい……」
「赤城ちゃんはさ、どうして緊張するんだと思う?」
「どうして、ですか」

 改めて理由を問われると、答えに窮する。私にとって、それはいつも隣り合わせで当たり前の存在になっている。

「ええと、その、失敗したら、とか考えるからだと……思います」
「そーそー。じゃあ、緊張しないにはどうしたらいいと思う?」
「それがわかれば苦労しませんよ……」

 こうして特別メニューと称して接客に挑んだけど、いきなり出鼻をくじかれてあえなく撃沈してしまった。私に、緊張せずにうまく接客できるようになる――そして試合でも緊張しなくなるビジョンが、見えない。

「赤城ちゃんはさ、緊張に対して意識しすぎだよ」
「意識、ですか」

 たとえば、と。瑠々香部長は言って、空のグラスに水を注ぎ、私の前に置く。

「お客さんが来たらこうして水を入れてあげるじゃん? その次は?」
「えと、注文を聞く、です」
「その次は?」
「注文をキッチンに伝えて……出来上がったら受け取ってお客さんのところに持っていきます」

 さっき習ったことをそのまま口にする。これが、なんだと言うんだろうか。

「ぴんぽーん。その通りだよ。つまりは、赤城ちゃんは今言ったことをただこなせばいいんだよ。作業中に、何かを考えようとせずに」
「考えずに、こなす……」

 今までとどう違うというのか。

「要は、赤城ちゃんは作業をする時に『失敗したどうしよう』とか考えるから、作業に集中できないんだよ。無心、言ってしまえばやるべきことだけをやるロボットって考えればいいんだよ」
「ロボット? でもそれだと接客が不親切になりませんか?」

 そしたら絶対、お客さんに嫌な気持ちをさせたらどうしよう、って思っちゃう。

「だーいじょうぶ。よっぽど無愛想だったり丁寧さに欠けない限り、そんなことはないから。それに接客を親切にやろうとするのは、もっと上達してからだよ」

 いきなり多くを求めすぎるからいけないんだよ。そう言って、瑠々香部長は私のおでこをつん、と指でつく。

「卓球でもおんなじ。打って絶対に入れなきゃーとか、ミスしたらどうしよーとか、考えるからミスにつながるわけ。こういう球が来たら攻撃する、しない。最初からそれを決めておいて、決めた通りのことをすればいいのさ」
「決めた通りの、こと……」

 確かに試合だと、点をとらなきゃ、入れなきゃと思って無理に攻撃してしまってミスすることがある。

「そ。自分はコンピュータだと思って、ね。最初のプログラム通りに動くの。そりゃーイレギュラーの時もあるだろうけど、その時はしょーがない」

 ばんざいしてお手上げのポーズをとる。様相がそれこそ小学生みたいで、傍から見たら高校生が小学生に教えを請うている図だけど、今はそれどころじゃない。

「だから、今は決めた通りのことをやるのに専念しよ? 応用なんて、基本ができてからだよ」
「はっ、はい」

 大きくうなずく。なんだか自分の緊張のメカニズムが少しわかった気がして、うまくいく糸口をつかめた気がする。

「じゃあ、次のお客さんが来た時にさっそく――」
「のんのん。せっかくだから、私で練習しときなよ」
「部長……」

 なんか、すごくうれしい。ここまで私のことを考えてくれて、力になってくれるなんて……。

「ありがとうございます、瑠々香部長」
「いーってことよ。んじゃ、私テーブル席に座るから、やろっか」
「はい!」

 そして、テーブル席に座り直した瑠々香部長(仮お客さん)に対して、接客の練習を開始する。

 ええと、まずはグラスにお水を入れて持っていく。

 自分が今やらなければならないこと、次にやならければならないことだけを考えて、身体を動かす。

「い、いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」
「……ぶぶー」
「え?」

 唇をεみたいな形にされた。えっと、なにか間違えただろうか。

「ちゃーんと、『お帰りなさいませお嬢様』って言わないと」
「えっ……ええ?」

 そんなの聞いてない! ってかウメちゃんにも教えられてないんですけど!
 さっき言われた『イレギュラー』がいきなり訪れた。ええと、その時はどうするんだっけ。しょーがない、ばんざーい。……どうにもならない。

「えっと、部長……」
「今はお客さんだよー。ほら、もう1回」
「……」

 まさか、メイド姿の私にこれを言わせたくてこの特別メニューを考えただけなんじゃあ……。せっかく色々教えてもらって、少し見直したところなのに。

「ほらほらー」

 だけど。
 今はなりふり構ってられない。……勝つためにも。私と勝ちたいと言ってくれた、青原さんのためにも。

 ええいままよ!

「い、いらっしゃいませ? お嬢様」
「はーい!」

 結局、その日は瑠々香部長相手に何十回と『お嬢様』と呼ぶ羽目になった。


 ◇


「ああ~~疲れた~~、いいお湯だった~~」

 家に帰り、お風呂から上がった私の第一声は、そんなセリフだった。

「ちょっと優月、そんな声出して。なんだかお父さんみたいよ」
「しょうがないじゃん、今日は疲れたの」

 お母さんの呆れ声を適当に返しつつ、自室に戻る。湯上がりで程よく体温の上がった身体が心地よい。お父さんみたいと言われたのはちょっとショックだけど。

「ん? メッセージ?」

 スマホがぴかぴか光っている。LINEの通知だ。画面には、卓球部のグループトークに誰かがメッセージをかきこんだことが表示されていた。

『瑠々香:画像を送信しました』

「画像? なんだろ」

 どうせネットで変な画像見つけて面白半分で送信してきたってところだろうか。あの人も見た目通り子どもっぽいところがあるというか。本人の前では絶対口にできないけど。

 すい、とスライドしてロックを解除する。

「えーと、なになに……って、うえええっ!?」

 思わず手からスマホが滑り落ちそうになる。そこには――瑠々香先輩の送ってきた写真は、紛れもなく今日の私のメイド姿だった。

「ちょ……ちょ、ええええ!」
「もう、変な声出さないの。ご近所迷惑でしょ?」

 お母さんの小言を無視し、『何送ってるんですか!』そう抗議の文を打とうとしたところで、ポン、ポンと他の部員から矢継ぎ早にメッセージが飛んでくる。

『わあ、優月ちゃんかわいい』
『すげえ! えろかわいい! ゆづっち最高!』

 めまぐるしいメッセージの応酬で、私が待ったをかける隙がない。そりゃあ褒められるのはうれしいけど、こんな恥ずかしい格好を称賛されても、ぜんぜん喜べない。

 そして少し遅れて、青原さんからもメッセージ。

『かわいい。うちにもひとりほしい』

「ひとり、ってなんなのさ……」

 そんな一家に一台、みたいに言われても。

 湯上がりの私の体温が、一層上昇したのは、言うまでもない。