「……じゃあ、開けるからな? ゆづっち、杏子っち」

「は、はい」

 言うなれば、ようやく見つけた財宝を目の前にしたような感覚だった。
 ごくりと喉を鳴らす千穂先輩。その指を扉――ロッカーの扉にかけ、ゆっくりと開く。

「おお……」

 背後から漏れ出る、杏子ちゃんの感嘆。首元にかかる息がくすぐったい。
 私の視界にも、ロッカーの中が映りこむ。

 ああ、財宝というのは少し的確ではない。あえて表現するならば、額縁をまとって飾られた、絵画のよう。まさに芸術品。

 心の奥底に眠る衝動を湧き立てるショッキングピンク。黄金比ともいえるやわらかな丸みを描く弧線。仄かに漂う、柔軟剤の香り。

「こ、これが……」

 言って、思わず息をのむ。千穂先輩が手に取ったその芸術品を間近で見る。

 これぞ私が憧れ、渇望する理想像――

「千~~~~穂~~~~ちゃ~~~~ん~~~~?」

 恨めしげな声が背後からして、3人一斉に、おそるおそる振り返る。声の主――めぐ先輩は頬をいつにも増して紅潮させ、身体はわなわなと震えている。

「なんでロッカーから私のブラ取り出してるの!?」
「あ、あれれー。めぐ先輩、もう着替えて練習場に行ったんじゃなかったんですか?」
「タオル忘れたから取りに戻ってきたのよ」

 それより、とめぐ先輩は私の方を向いて、

「まさか優月ちゃんに杏子ちゃんも一緒になってるなんて」
「ごっ、ごめんなさい」

 言うことを聞かない子どもを前に、仕方ないなあと言わんばかりにめぐ先輩は腰に手をあてる。

「ってかめぐ先輩って、練習の時はブラつけないんすか?」
「つけるわよ! 練習の時は揺れないようにスポーツブラに着替えてるだけ」
「揺れ、ないように……」

 なんて贅沢な悩みだ。贅沢は敵だ。これが大きさの暴力というやつか。

「そもそも私のブラなんか、見てもいいものじゃないでしょ?」
「そんなことないです!」
「ええっ?」

 思わず反論してしまった。拍子抜けするめぐ先輩。しかしここまできたら譲れない。

「めぐ先輩のブラはなんていうか……すごく美しいです! なんて言っていいのかわからないですけど……こう、すごいです!」
「よく言った、赤城ちゃん!」

 バタン、と勢いよく部室のドアが開いたかと思うと、瑠々香先輩が近づいてきて、

「そりゃー、めぐは毎日見てるからなんとも思わないだろうけど、この形、この肌触り、そしていい匂い。どれをとっても最高じゃん!」
「ちょっ、頬ずりなんかしないでよ! さすがに恥ずかしいってば!」

 すりすりしながら、めぐ先輩の追随をかわして、

「苦楽を共にしたダブルスパートナーなんだから、ブラジャーに頬ずりするなんてあいさつみたいなもんだよー」
「しないから!」

 まるでお気に入りのクッションを見つけたとばかりに頬にぴったりつけて離さない瑠々香部長。

「あ……指、治ったんですね」

 ブラを持つ彼女の指には、この間まであった包帯はきれいさっぱりなくなっていた。

「おうとも! これでめぐのおっぱいも揉み放題さ!」
「揉まないで!」
「いや~、それにしても、めぐもエロい下着つけるようになったな~。なんかちょっと透けてるし、もしかして勝負下着ってやつ?」
「ち~が~う~」

 ようやく捕まえ、ブラを奪い返した。そして大事そうに抱え込む。残念、もう少し拝んでいたかったのに。

「しっかし部長もいいこと言うよなー。さあつむぎ、わたしらも見せ合ってダブルスの絆を確かめよう!」
「……やだ」
「えー、固いこと言うなよー」
「今日のはあんまり、かわいくないから……」

 え、かわいかったらいいんですか、つむぎ先輩。

 ぎゃあぎゃあと騒がしくなる部室。もう何がなんだかわからない。……が、変な火の粉が降りかかってくる前に退散しておくのが吉、だ。
 そそくさと、部室から練習場へと移る。しばらくすれば収まるだろうし。

「優月」
「あ、青原さん」

 練習場にたったひとりいた彼女。もう練習の準備は万端といった感じだ。

「どうしたの?」
「私のも、見る?」
「ふぇっ?」

 そう言って、彼女は着ている練習着の裾をチラリ、と持ち上げた。さっきの話、聞いていたのか!

「いっ、いやいやいいよ!」
「そう……」

 言って、裾から手を離す。表情が残念そうだったのは見間違いだと信じたい。

「もう、練習始めるよ!」
「おいおいめぐー、部長はボクだぞー」

 そんな感じで、今日もゆるーく八高卓球部の練習はスタートしたのだった。


 帰り道。瑠々香部長と青原さんは薄暗くなった空を見上げながら、

「んー。赤城ちゃん、やっぱりいい球入ってると思うんだけどなー」
「私も、思います」

 ふたりの間に挟まれる形で歩く私は少しだけ照れくさくなる。

「ありがとうございます。お世辞でも一応、うれしいです」

 ちなみに各々の手には、コンビニで買ったアイスクリーム。なんと瑠々香部長のおごりである。

「いやいやお世辞なんかじゃないってば。つむぎともいいゲーム練習してたじゃん」

 ゲーム練習――試合形式の練習の結果は、1‐3で私の敗け。1ゲームも取れなかったこの間の試合とは大違いもいいところだ。だけど。

「実際の試合になると、練習どおりできる自信ないです……」
「あー……」

 瑠々香部長は言葉を濁す。それもそうだろう、この間の大会、私の無惨な敗けを見てるんだし。

 卓球部のみんなには私の現状――本番の試合になると緊張してロクに打てないこと、そして約2週間後に、黒部さんたちとの決着をつけるためにオープン大会に出場することを話した。それは完全に私情なのに、みんな協力すると言ってくれた。やっぱり、いい人たちにめぐり会えたな、と改めて思う。

「やっぱり緊張するのをなんとかしないとダメなのかな?」

 ひょこ、と横からめぐ先輩が言ってくる。みんながアイスを買う中、ひとりだけ肉まんを買っていた。成長の秘訣は、そこなんだろうか。私もアイスじゃなくて肉まんをおごってもらった方がよかったかな。

 それはともかくとして。

「多分、そうだと思います。普通の、今日やったような練習メニューは、中学の時もたくさんやってきましたし……」
「う~ん、たとえばいろんな試合に出て慣れる、っていうのもひとつの手なんだけど、次のオープン大会までになんとかしないとだからなあ」
「はい……」

 試合まで残された時間は、決して長くない。

「てゆーか、ダブルスの練習もしないとだな」
「そ、そうですね」

 ソーダアイスをもしゃもしゃ頬張りながらこちらを向く千穂先輩。

「はなっちと組むの、初めてなんしょ?」
「はい……」

 そして黒部さんと眞白さんは、中学の時からダブルスペアだった。経験の差は間違いなく、ある。

「そっちも対策考えないとなー。赤城ちゃんと青原ちゃんのダブルスなー」

 やることはたくさんある。中でも、緊張してしまうことへの効果的な解決策は正直、浮かばない。というかここでパッと私の頭で浮かぶようなら、そもそも卓球をやらないとか思ったりしていないはずで。

「緊張、緊張ねえ……」

 さすがの瑠々香部長も、頭をひねらせている。手に持ったアイスが溶けて落ちそうになっているのですごく心配。

「緊張、人前、う~ん…………おっ?」
「どうしたの? 瑠々香」
「にしし、いいこと思いついた」

 その割には、悪だくみをしているようにしか見えない。

「瑠々香部長?」
「明日から赤城ちゃんは特別メニューをやることにしよう! なーに、そんなにハードじゃないから安心してよ、ふひひ」

 その笑みのせいで全く安心できない。まだ出会って間もないけど、それだけは本能的に判断できる。

「ほいじゃ、ボクは準備があるから。また明日ー」

 残ったアイスをぺろりとたいらげると、瑠々香部長は行ってしまった。さっきまでの進行方向とは真逆なことが、余計に私の不安を煽る。

「うわあ~、部長ノリノリだな~」
「いいんですか……めぐ先輩」

 私よりも彼女のことをよく知っているはずの2年生も、苦笑している。

「ううん、きっと優月ちゃんのためを思っているから、大丈夫じゃないかな……」
「めぐ先輩……」

 なんかそれ、悪い夫を持つ健気な妻みたいです。

「特別メニュー、か」

 それで少しでも試合で緊張しなくなるなら、と期待1割・不安9割というなんともアンバランスな心境だったけど、私の心はざわついていた。
 丁度、目の前の沈む寸前の太陽みたいに。