「大丈夫かな。先輩たち怒ってないかな」

 放課後、私は卓球場の前にいた。扉を隔てた向こうからは人の気配と、ピンポン球の音。

 実に何日ぶりだろうか。まるで初めて訪れた時と同じくらい……いや、それ以上に緊張していた。

「大丈夫。行こう、優月」

 隣に並ぶ青原さんが言う。その顔には以前見た微笑みはなく、いつも通りの無表情。だけど、それが頼もしくもあった。

「わたしもついてるし、なんくるないさ!」
「うわっ」

 後ろから私たちの肩を抱く杏子ちゃん。そうだ、3人寄ればなんとやら、だ。

「よし……よし」

 深呼吸を一回。覚悟を決めて、扉に手をかける。

「し、失礼します!」

 扉を開ける。同時に、しきりに鳴っていたピンポン球の音が一斉に止んだ。

 中にいるのはもちろん、先輩たち。ついこの間まで、ここで一緒の時間を過ごしていた人たちが、私の方を見ている。

 お互い、無言。それが数秒続いた後、

「おーゆずっち! ようやく来たかー!」
「……おかえり」

 どたどたどた。千穂先輩につむぎ先輩が駆け寄ってくる。

 続いて、

「おお~? 早速サボリとは、度胸あるな~赤城ちゃん」
「もう! 瑠々香ってば変なこと言わないの。……来てくれてありがとう、優月ちゃん」
「は、はい。すみません。……ごめんなさい」

 めぐ先輩のにっこり顔に気恥ずかしくなって、私はつい謝罪の言葉ばっかりが口をついて出る。

 そんな私に、瑠々香部長が「謝ることなんてないよ」と言うと、満面の笑みで言った。

「それでは改めて。ようこそ八高卓球部へ」


 ◇


 ……と、改めて歓迎され、いざ部活動再開、と私は思っていたわけだけど。

「いやー赤城ちゃんが戻ってきてくれてよかったよー!」
「は、はあ……」
「一時はどうなるかとヒヤヒヤもんだったからさー、マジマジ」
「えっと……」
「やっぱこう、若い子がたくさんいる方が練習場にも華があって」
「ぶ、部長!」

 なんとか瑠々香部長のセリフを制して、私は言葉をひねり出す。

「どしたの、赤城ちゃん」
「なんで私たち、またここに来てるんですか」

 ここ、というのは、以前に瑠々香部長と1年生組で訪れた、謎のカフェ。マスターさんこと、ウメちゃんが性別不詳(いや、間違いなく男性だけどそれを言うと怒られそう)で、ちょっと怪しげな雰囲気を持った、あのお店だ。

「なんでって、そりゃあ決まってるじゃん」

 さも当然、と言わんばかりの瑠々香部長。私はいまいち合点がいかないまま、彼女によって店内へと招き入れられる。

 ちなみに、後ろには前回と同じメンバーである、青原さんと杏子ちゃん。しかしふたりはここへ来た目的を理解している様子で、目線で早く入るよう促されてしまう。

「アラー! いらっしゃい!」

 迎えてくれたのは、ハスキーボイスと、しっかり化粧をした屈強な男せ……いや、店長のウメちゃん。前と同じように、バーテン服がはちきれんばかりの肉体を袖から覗かせながら、カウンターへと案内してくれる。

「また来てくれるなんて、うれしいわ」

 頬杖をつきながら、ほほ笑むウメちゃん。歓迎してくれるのはうれしいけど、筋骨隆々の顔で笑顔は正直、怖い。杏子ちゃんの顔だって若干引きつってるし。

「もう一度やることにしたのね? 卓球」
「は、はい」

 そしてふと、私はこの前来た時のことを思い出して、

「この間はすみませんでした」
「いいのよ。いつも最短で答えにたどりつけるとは限らないわ。けれどその遠回りで得るものも、たくさんあるのよ」

 ばちこん、とウィンク。そしてウメちゃんは瑠々香部長の方に向き直って、

「それで……優月ちゃんがここに来てくれたってことは、そうなのよね?」
「もちろんですとも」

 にんまり、と笑みを向けあって意味深な会話をするふたり。うんうん、とうなずくと、ウメちゃんはカウンターの奥へと消えてしまった。

 と、私はその光景を、つい数週間前にも見たことを思い出す。

 まさか。

「あの、部長」
「ん?」
「今日部活もせずにここに来たのって……」
「なーんだ、よーやく気づいたかー。そのまさか、ってやつだよー」

 にしし、と悪戯っぽく笑う。

「お待たせ~!」

 と、ウメちゃんが戻ってくる。手に持つお盆には、1杯のグラス。

「さ、どうぞ召し上がれ」

 グラスを、私の前に置く。それは以前見た、仰々しい色をした、スペシャルドリンクだった。

「飲まなきゃ……ダメですよね?」
「おうともー。それともなにかー? ボクの酒が飲めないっていうのかー?」

 めんどくさい上司みたいに絡んでくる。いや、実物に出くわしたことないからわからないけど。

 というか、酒じゃないですよね、これ。入ってないとは確信できないのが辛いところではある。

「さあさ! グイッと! 今度こそ入部したんだから、逃がさないわヨ~?」

 手を組んで私の方を見つめるマスターさん。ただ見てるだけなのかもだけど、威圧感がすごい。たとえるなら獲物を前にした肉食獣か。

「まあ、わたしたちも飲んだしねー」
「優月なら、できる」

 瑠々香部長とは反対側に座るふたりが、応援? 応援してくれる。そもそも飲むって行為はそんなにがんばるものだったっけ。

「大丈夫よ」

 決心がつかず、足踏みしている私に、マスターさんはいつもとは違う優しげな声をかける。

「アナタは、ひとりじゃない。瑠々香ちゃんが、みんながいるもの。いくら卓球が個人競技でもね」

 それから、もちろんアタシもいるわよ。恋の悩みなんかはアタシに相談するといいワ。なんて付け足した。それはまあ、おいおい、かな。おいおいなのか?

「はい。ありがとうございます」

 それでも。

 私は、今はひとりじゃない。

 言葉通りだ。

 杏子ちゃんとなら、瑠々香部長たちとなら。……青原さんとなら。やっていけそうな気がする。

「……いただきます」

 私は手を合わせ、目の前のグラスを持つ。そして、さながらサラリーマンがビールを飲み干すかのように、一気に喉へと流し込んだ。

 ごくり、ごくり……ごくり。

「…………ぷはぁっ!」

 だん、と空になったグラスをカウンターに置いた。同時に、周囲から感嘆の声が上がる。

「おお~」
「さすが優月!」
「いい飲みっぷりじゃない。アタシ惚れちゃいそう」

 そう言うウメちゃんは、上機嫌に拍手する。

「わっ」
「さっすが赤城ちゃん。それじゃあほんとのほんとに改めて」

 一息つく間もなく、肩に手を回された。

「入部おめでとう! これからがんばろうな」
「……はい」

 私は静かに返す。

 心臓のあたりに静かに火が灯っているのがわかった。この小さな小さな火に名前をつけるなら、闘志というのだろう。
 やるんだ、私が、勝つために。

 ……ちなみに。

 スペシャルドリンクは、すごく苦くてしょっぱかった。

 でも、それはなんだか汗と涙の味みたいで、それらをまとめて呑み込めたから、今度こそは強くなれそう。そんな風に、思ったのだ。