「それじゃ、いくよ」

 青原さんの声を皮切りに、フォアクロスのラリーが始まった。

「わっ、とと……」

 私は流されるままに打ち返す。部にあった予備のラケットで、靴はなくスリッパで。最初は用具がないからと断ったけど、最終的には押し切られる形でこうなっていた。
 そういえば、前にもこんなことあったなあ。あの時もふたりきりで、青原さんから打とうって誘ってきて。

 ……なんで、打とうなんて言ってきたんだろう。
 理由を探しても、私の中から答えは出てこなかった。もちろん、行き交うピンポン球が教えてくれるはずもない。

 カコンカコンカコン……。

「優月、強打してみて」
「え?」

 しばらくラリーを続けた後、青原さんからそんな言葉を投げかけられた。

「で、でも」
「いいから」

 有無を言わさない様子で、ゆるい球を送ってくる。強打しやすい、適度に浮いた球。
 こんなことして何の意味があるのか。青原さんはどういうつもりで言ってきたのか。いろんな疑問が湧き上がる。
 だけどそれよりも早く、私の身体は反応して、ラケットを振りぬいていた。

 スパン!

 渇いた音が、雨音を切り裂いた。私の放った強打が、青原さん側のコートを貫いた。そしてそれを、彼女は構えることなく、見ていた。
 脳裏にフラッシュバックする。彼女と初めてここで打った時のことを。
 だけど今は、前とは違った。青原さんは、まっすぐ私の方を見ていた。

「優月」

 コロコロと、彼女の背後を転がるボール。それをちらり、と一瞥してから、言葉を紡いだ。

「やっぱり、いい球打つね」
「そ、そんなことないよ」
「……練習、来ないの?」

 声音は静かな水音みたいだ。だけど、それには芯があるみたいに、雨音には決してかき消されず、私の鼓膜を震わせる。

「い、行かないよ……。青原さんだって知ってるでしょ? 部活は瑠々香部長の代わりに試合に出るまで。そういう約束だったし」

 その試合は、もう終わったのだ。
 だから部活には、もう行かない。

「じゃあ、どうするの?」
「どうするって……?」
「今度の試合。ダブルスの」
「あ、あれは」

 青原さんが勝手に話を進めただけじゃん。正直、私が話に噛む暇なく決まっていた。
 と、自分の気持ちをそのまんま言うこともできず。

「……私はもういいよ。どういう理由かは知らないけど、あの場で私を弁護してくれたのは、ありがとう。だけど、私は……もういいって、思ってる」

 卓球はしない。この前の試合で、それを再確認した。思い直すまでもない。

「よくない」

 それでも、青原さんは食い下がった。

「よくない、って……言われても」

 なんで、この人は断言できるんだ。そんなに自信を持って、言葉にできるんだ。
 どうして、わかった風なことを言えるんだ。

「それでいいはずない。先週の試合で負けたくらいで、諦めなくてもいい」

 青原さんの語気は、少しずつだけど確実に、強くなっていく。釣られて、私の気持ちのざわつきも大きくなる。

「優月なら、まだまだやれる。だから――」
「もう充分やったからいいって言ってるの!」

 青原さんの言葉を、切る。
 自分でも驚いた。他人の言葉を遮るほどの大きな声が出るなんて。だけど、これくらいしないと、わかってはもらえない。
 私のことを言わない限り、きっとこの人は納得しない。

「青原さんにはわかんないよ。私のことも。……私がやってきたことも」
「優月……」
「さっき、青原さん言ったよね。いい球打つって」

 こくり、と台を挟んだ向こう側の彼女はうなずく。

「この間の試合、私が一度でも今みたいなボールを決める場面、あった?」

 それは答えのわかりきっている質問。なぜなら、私が、一番よくわかっているから。そして、近くで見ていた青原さんもよく理解しているはず。

「それは……なかったけど」

 青原さんの結んだ髪が揺れる。

「この前の試合だけじゃないから」
「え?」
「私、一度も勝ったことないの」

 唇を噛んで、頭は重たくなって下を向いた。

「練習の時だけなの……いい球が入るのは。それが外に出て、試合になると、全然入らなくなる。……緊張して、手が震えちゃって、力が入って、力が入らなくなるんだ、私」

 話せば話すほど、つい先週の試合のことが鮮明によみがえる。夏でもないのに頭はオーバーヒートして、動くはずの身体が固まったままで、届くはずの球が届かなくて、打てるはずが打てなくて、台に入るはずが入らない。

「なんでだろうね。試合になると頭まっしろになっちゃって。練習してきたことぜーんぶ忘れて。カカシみたいにつっ立ってるだけになるの」

 いや、カカシの方がまだマシだ。ちゃんと役に、立っているのだから。
 役立たずは、私。誰の役にも、立たない。それはおろか、害悪でしかない。
 迷惑しか、かけない。

「だけど、学校で練習してる時はちゃんとできる、打てるの。……だから中学の時の部内のレギュラー争いでは……ちゃんと勝てる。私は部内で一番強くて……キャプテンになって……エースで……でも、試合の成績は誰よりも悪い」
「……」
「そりゃあ練習は必死にしたよ? 一番練習したって思ってる。みんなより早く来て……誰よりも遅くまで。……でも、結果が現れたことはたった一度もなかった」

 追憶はどんどん過去へ。次第に部員の私を見る目が変わっていったこと。私から離れていったこと。

「学年が上がるにつれて、3年になった時には黒部さ――同級生の人たちからは煙たがられた。迷惑だと思われてた」

 強いのは部内だけで、一歩外に出れば何の結果も残せずに、無様な姿をさらすしかない私のことを。

「だから、私はもう卓球はしないって決めたの。黒部さんも言ってたでしょ? 私がやっても、周りに迷惑かけるだけなんだよ。青原さんだって、せっかく一生懸命やろうとしているんだから、私はその邪魔を……したくない」

 きっと、瑠々香部長やめぐ先輩や……杏子ちゃんだって、一生懸命卓球をしようとしている。そこに水を差すようなことは――いや、引っ掻き回すようなことは、したくない。

「優月……」

 息を吐くように、名前をつぶやく青原さん。これで、諦めてくれただろうか。
 が、彼女の目つきは、鋭く、真剣なものへと変わった。

「馬鹿にしないで」
「え?」
「優月の気持ちはわかったけど、それは周りをバカにしてるよ」
「青原さ――」
「部内なら私にも、部長にも勝てるって思ってるってこと? 言い換えれば見下してるってことだよね」
「わっ、私はそんなつもりじゃあ……」

 ない。けど、言われてみればそうだ。チームの和を乱すのは、私の実力じゃない。
 私の気持ち、心の持ちようなのかもしれない。
 ならば、尚のこと。

「たしかに、青原さんの言うとおりかも。だから、やっぱり私は卓球部にいるわけにはいかないよ。こんな半端な気持ちでやってる人なんて、いない方がいい」

 それこそ迷惑だ。

「そんなことない」

 青原さんは、力のこもった声で言った。

「優月は半端な気持ちって言うけど、そんなことはどうでもいい」
「どうでも、って……」
「優月は、どう思ってるの?」
「え……?」
「大事なのは、そこだと思う」

 どう思う、か?

「私は、優月の気持ちが知りたい」
「気持ちって」
「優月は、勝ちたいって思ってるの?」

 勝ちたい……私が、勝ちたいって思ってるか?

「私が聞きたいのは、それだけ」

 透き通るような瞳で、私を見る。夜にも似た黒さで、私は金縛りにあったみたいに目を逸らせない。俯くこともできない。

 勝ちたいか?
 私が、勝ちたいかだって?

「そんなの……」

 聞かれるまでもない。

「勝ちたいに、決まってるよ!」

 勝てなくていいなんて、思ってるわけがない。

「たくさん練習して、ひとりで自主練して……今度こそはって……でも、勝てなくて……」

 言えば言うほど思い出される。覆い隠したくなる過去。
 次第に目元が、胸の辺りが、熱くなる。

 勝たなきゃ、勝たなければ。そんな思いに駆られ、中学の時は来る日も来る日も練習した。誰よりも早く、誰よりも遅くまで。
 キャプテンにも選ばれて。周りから期待されて。でも応えられなくて。
 勝ちたい。勝たないと。勝ちたい。早く勝たなきゃいけない。だけど、勝てないのだ。
 だから私はもういいって……。

「私は、それだけで十分だと思う」
「青原、さん」
「その気持ちを優月が持ってるなら、誰も優月が卓球をすることを、止める権利なんて持ってない」

 そこまで言って彼女は、すう、と息を吸い込んだ。

「私は、優月と一緒に勝ちたい」
「!」

 世界が、広がった気がした。手を引かれ、扉の向こうへ行く感覚。そんなこと、誰にも言われたことがなった。

「だから」

 彼女は言う。

「私と卓球部に入って……ダブルスを組んでほしい。試合に、出てほしい」

 他の誰でもない、私に向けて。

「それが、私の気持ち」
「……迷惑、かけると思うよ?」
「そんなこと、やってみなくちゃわからない」

 いつの間にか、彼女は台の向こう側ではなく、私の隣に、立っていた。

「一緒に、勝とう」

 差し出される、手。無意識的にそれを、握る。

「……うん」
「練習しよう? 一緒に」
「うん、うん」

 うなずく。視界はゆらゆらして、鼻声になる。でも、そんなことはどうでもいい。
 私と勝ちたいと、言ってくれた人が目の前にいる。

「どうしようもない私だけど、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね。優月」

 そう返す青原さんは、今まで見たこともな柔らかな表情で笑っていて。釣られて私も、笑顔になる。
 雨はいつの間にか、上がっていた。