高校生になったら、起きる時間が少しだけ早くなった。

 それでも新生活が始まって3日、寝坊で遅刻なんてやらかしはまだ一度もしてないあたり、私も大人になったってことなんだろう。朝は眠たいことに変わりはないけど。

優月(ゆづき)ー、早く起きなさい。もう7時よー」
「んー」

 扉の向こうから聞こえたお母さんの声に生返事をするとともに、枕もとのスマホを手にとる。が、画面に表示された数字は違うものだった。

「まだ6時50分じゃん……」

 どうして母親という人種は朝に実際よりも早い時間を伝えてくるのか。世界七不思議のひとつに数えられそうな謎だと思う。残りの6つはなんだろう。トーストを落としたら必ずジャムを塗った面が下になる、とかかな。
 覚醒しきっていない頭でよくわからないことを考えながら、私はベッドから身体を起こして大きく伸びをする。心地よく弛緩する筋肉と、肉体が徐々に目覚めていく感覚。

 壁にかけておいた制服に袖を通すと、まだかすかに残る新品特有の香りが鼻をついた。

「やっぱりサイズ大きかったかなあ」

 姿見に映る自分の姿は、どこか服に着られている印象がぬぐえない。赤色のチェックスカートに、緑を基調としたあざやかなブレザー。かわいいと評判の制服を着こなしているとはお世辞にもいえない。
 だけどこれから3年間着るのだ。今は少し大きいくらいがちょうどいい。
 特に胸のあたりとか。うん。

「そのうち胸のあたりがきつくなって困っちゃったりして……ふふ」

 高校に入ったら胸が大きくなるっていうし。私の成長期はまだ終わってないし。少し経てばこの制服が似合うレディになることまちがいなし、だ。そのために髪型も中学の時から少し変えて、サイドアップに結ってみたりしたし。

「ちょっと優月ー? 本当に遅刻するわよー?」
「え? わ、ちょ、やばっ」

 気づけばスマホの画面は本当に7時を示していた。あんまりゆっくりもしていられない。

 私は中学時代よりもずっと軽くなったリュックをひっつかんで、部屋を出た。


 電車に20分ほど揺られ、そこからさらに歩くこと15分。そこに、県立八条(はちじょう)高校――通称、八高《はちこう》がある。

 校門の近くには大きな桜の木が鎮座して、私たち生徒を出迎えてくれる。入学式の日がちょうど満開だったのか、地面は散り始めた花びらで桃色に染まっていた。
 そんな様子にも目を奪われながら、私は校門をくぐる。
 すると、

「野球部どうっすかあああー!?」「迷ったら漫研へ! マンガ読み放題!」
「女子テニス部! 楽しいよー!」「ダイエットにも効果的! ぜひダンスサークルへ!」
「吹奏楽! きっと夢中になれるよ!」

 縦横無尽にかけめぐる声に、反射的に足が止まった。猫背気味の背中もぴんと伸びた。

「うわ……」

 校門から下駄箱までの道を、まるで芸能人を出待ちするファン集団のような生徒たちの姿。その装いは制服だけにとどまらず、ユニフォームから果ては何かよくわからないコスプレをした人までいる。昨日までとはまったく違う光景だった。

「そっか、今日から部活勧誘が解禁なんだっけ」

 先手必勝、まだ部活を決めていない新入生をひとりでも多く勧誘しようという目論見だろう。道理でどの部も力が入るわけだ。見れば、チラシ配りだけでは効果が薄いと判断したのか、何人かは新入生を自分たちの方へずるずると引きこんでいく。もはや勧誘というよりブラックホールか蟻地獄の様相だ。

「私も何部に入るか考えないとなあ」

 目の前に広がる光景を見るに、選択肢はよりどりみどりだ。だけどなんでもいいってわけじゃない。せっかくの高校生活を彩る部活なんだし、ちゃんと考えたい。

「……よし」

 私はリュックを背負い直し、人がごった返す道へと進んだ。途端に次の獲物、もとい新入生がきたと声が次から次へとかけられる。

「バレー部に入りませんかあ!?」
「……ま、まだ考え中です」
「新しい自分に出会えるわ! さあ演劇部へ!」
「……ま、まだ考え中です」
「キミかわいいねー! どう? サッカー部のマネージャーに!」
「…………か、考え中です」

 それらを、私はうつむきながら同じセリフを返すだけにして早歩きで通り過ぎる。捕まらないよううまく人ごみをかいくぐって。力強く勧誘されたら断る自信がないし。かわいい、なんて言われた時にはちょっと立ち止まりそうになったけど。

 それに、別に今この場で決めなきゃいけないわけじゃない。放課後に見学に行ってみたりして、じっくり考えて結論を出せばいい。
 やっぱり入る部活は、自分でゆっくり決めたい。
 何も焦らなくてもいい。

 だって、私には選択権が与えられている。
 今の私は自由だ。

「女子卓球部どうですかー? 部員絶賛ぼしゅうちゅうでーっす!」
「!」

 人の荒波をようやく抜けてひと息ついたころ。背後からそんな声が届いて私の身体が岩のように硬直した。

「部員が少ないからレギュラーになれるチャンスもあるかもでーっす!」

 おそらく、いや決して私に対して発せられたものではない。それでも、その声が自分に向かっているような気がして、胸のあたりが重たくなる。

「……」

 一層歩調を速めながら、息を吐いた。卓球部だけは……ない。選択肢にすら入らない。

 卓球は、もう私には関係ないのだから。