「伊月は、また今度」
 母の薬と同じ量のラムネは、食べさせてもらえなかった。ご飯が食べられなくなるからね、と母は自分を優しく諭す。母はいつも『だめ』の代わりに『また今度』と言う。
 仕切りのある小さなケースに、母の薬はたくさん入っていた。真似がしたくて、わがままを言って、同じピルケースを買ってもらい、ラムネや飴を入れてもらった。
 鼻を刺すアンモニアと薬の匂い。母と笑いあえば、ぱっと咲いた花の香りに変わっていく。寂しさも、心の痛みさえも和らげるような、甘い香りだ。母の匂いが大好きだった。
「伊月は、また今度」
 懐かしい声がする。
 また今度、はちゃんと来る。この先の時間を約束するかのようで、黒点のような不安が、弾けるような言葉だった。
 
「伊月?」
 覗き込んだ菅崎から落ちた涙が、伊月の頬に伝う。
「起きたよ!」
 都が振り返って寮長を呼んだ。保健室とは違う白い天井が広がっていて、腕には点滴の管が付いている。はっきりとしない思考が断片的に記憶を見せ、ひどく頭が痛んだ。
「小宮は……」
「隣で寝てる」
 伊月から見えるように、菅崎は座ったまま少し下がった。特に大きなけがは小宮に見当たらない。ため息をつき、伊月はもう一度目をつむる。
「奇跡だったんだ。お前らがクローゼットの中にいて」
 菅崎の話に、耳だけを傾けた。
「陥没事故が起きたんだよ」
 風明館の旧建物側がごっそり穴の中に落ちたこと、風明館の地下にあった防空壕が原因の可能性が高いことを、菅崎は説明しながら声を詰まらせる。
「二人以外は正門に避難してたし、救助隊も既に呼んでたし」
「みんな無事でよかったな」
 寮長が、震える菅崎の肩に手を置く。
「ごめん……」
 後ろから聞こえた小宮の擦れ声に、全員が振り向いて顔を向ける。
「戦争のせいでしょ。なに言ってんの」
 沈黙を破ったのは都だった。念を押すように言う。心配はしたけどな、と寮長は優しく続けるが、小宮はごめん、と繰り返し、力なく涙を伝わせる。
「わ、伊月」
 菅崎が、無理に起き上がる伊月に手を貸した。
「小宮……」
「ずっと、悲しんでいたかった」
 小宮は両手で顔を覆う。
「もう、疲れた」
 嗚咽を漏らし泣き続ける小宮を、ベッド横のキャビネットに置かれた骨壺を、伊月たちは黙って見守った。
 太陽は高い位置にあり、病室の窓から秋の日差しが差し込む。小さな彼らを、包み込むような、温かい日だった。

 十二月、一月、二月と、時は走るように過ぎた。
 風明館は陥没事故で立ち入り禁止になっている。全国ニュースで報道もされた。
 調査の結果、平瀬台学園の他の敷地は問題ないとされ、寮生は冷暖房が入る体育館で寝泊りをしている。学園から、徒歩五分の銭湯を使えるのに加えて、大人たちの計らいにより、平瀬台の五つ星ホテルのビュッフェを三食、体育館で嗜んだ。
 この贅沢な環境下で、実力をしっかりと発揮した菅崎と寮長は、それぞれアメリカ、関西行きを決める。
 学園は、国だの訴訟だのと慌ただしくしていたが、小宮の栄養失調も回復し、伊月もかすり傷と打撲のみで済んでいた。本当に運が良かったとしか思えない、と教室から見える大穴を眺め、クラスメイトたちは言う。
 伊月たちはおかげさまで、毎晩枕投げをしたり、バスケットボールやバレーボールをしたりと、残された時間を自由に過ごした。伊月たちの中で一番、運動神経が良いのは小宮だった。四対一で恥を忍び、挑んだバスケの十一点マッチは、一点も決めさせてもらえないまま小宮に完敗する。
「昂、新聞紙取って」
 窓枠に立って、窓ふきをしている伊月に、小宮は持っていたほうきをそっと倒れないように置いて、はーい、と新聞紙を渡す。
 小宮の目元のクマはすっかり消えていた。少し顔も丸くなって、顔色もいい。あの日を境に、実は大食いなんだよね、と小宮は三人分の料理を毎日食べて、よく眠った。
「最後はピカピカにしないとなー」
 小宮は再びほうきを持って、滑るように伊月の後ろを往復する。明日に卒業式を控えた三年S組は、最後の奉仕である教室の大掃除中だ。
 伊月は目を細めながら、丁寧に窓を拭いた。三月の日差しは、十五時を回っても白く眩しい。飽きるほど眺めた、教室の窓からの景色はなにも変わらず、空は細い雲を浮かべている。
 なにかやり残したことはあるだろうか、だなんて、感傷的な感情はないが、ふと裏門にある穴が気になった。
 掃除を終え、明日は卒業式であるといった内容のHRを終え、久しぶりに昇降口から、裏門へ進む。正門を通れたあの日以来、なんとなく避けるように一度も足を運んでいなかった。
「本当ここ、気分が悪い」
 第二校舎と第三校舎を繋ぐ渡り廊下で、都が舌打ちをした。裏門に行く、と伊月が言うと、全員がついて来たのだ。第三校舎の角を曲がると裏門が見える。下を向いて一歩一歩、穴があった場所を探すように歩くが、見つからない。
「穴、ないな?」
 菅崎が確認するように言って顔を上げる。
「どの辺だったの?」
 小宮は、散らばっている全員に投げかけた。
「裏門の前」
「第三校舎の左角でしょ?」
「え、俺はここだぞ」
「菅崎は?」
 それぞれが違う方向を言うので、小宮は頼るように、菅崎に聞くが、菅崎もあさっての方向を指さしている。
「穴って何個もあるの?」
 小宮の質問に対し全員が同時に、一つ、と答えると、もう、怪奇現象は間に合ってるよ! と誰も拾えないブラックジョークを小宮が飛ばした。
「埋まってるなら、もういいか」
 伊月は腰を伸ばしながら、空を見上げる。
「いいの? 綿谷くんにとっては、動物たちとのハートフルな思い出が……」
「ない」
「泥まみれな、思い出な」
 菅崎が茶化すように言うと、寮長が懐かしいな、と笑った。
 今まで、穴を埋めようと思ったことはなかったが、伊月が勝手に穴から去ったように、穴も消えた。誰が掘ったのか、誰が埋めたのかも分からない。突然の終わりは、呆気なさに、少しのもどかしさを含んだが、伊月は振り払うように踵を返した。
 銭湯を目指す、伊月たちの影が道に伸びる。どんな深い穴も、底まで照らすようなオレンジ色の光が、空から降り注いだ。
「昂ーはやくー! 銭湯一番乗りしたいだろー!」
 前を歩く都が、後ろを振り返って小宮を呼ぶと、はーい、と後ろから声がして、小宮は伊月の隣に並んだ。
「今日の西日は一段とすごいね」
「そうだな」
「綿谷くんって、空が好きだよね」
 伊月は黙って考えながら、空を見上げる。西日に照らされると、三月のまだ冷たい気温の中から、体が必死に熱を探そうとするようで心地よかった。小宮の言う通りかもしれない。この数分間は、自分の輪郭がはっきりとする。
 自分は、今、生きていると。
 
 伊月は体育館の扉を少し開けて、外の空気を入れた。おぼろげな月が、春の夜を漂わせるが、平瀬台は星もよく見える。
 各々が布団を並べて、横になるこの共同生活も、あと数時間で終わりだ。眠って起きれば、もうここで過ごすことは二度とない。
 後は眠るだけの、だらりとした時間が流れていく。
「伊月ってさ、転校初日から、昂のこと気にかけてたよな」
「急になに……」
 菅崎の突拍子もない発言に、伊月は眠たそうに目をこすりながら声を上げた。菅崎の発言を皮切りに、伊月に容赦なく、自分の気持ちには素直になった方がいいぞ、と寮長も起き上がりながら続いた。素直にー、とクロッキー中の都も適当に口を挟む。
「え、なに? 恋の話?」
 小宮が目を輝かせて、きゃー、と隣でじたばたするので、伊月は、寝転んでいた場所を追いやられていく。
「眠い」
「早すぎるだろじじいかー。あ、昂動かないで、首の角度をもう少し右」
 都は前半を棒読みした後、真剣な声で言った。鉛筆を握り、大学の課題と向き合っている。
「恋バナ! 修学旅行みたいでいいじゃん!」
「ここ平瀬台……」
「じゃあ、春休みに卒業旅行しよう。その前借りってことで。みんなも行こう!」
 小宮は全員を巻き込み、了承を得ると、どうなのー、と伊月の体を揺らした。伊月は、あー、と声を漏らし、そのまま枕に伏せるが、誰もが囃し立てるのを止めない。長引かせても状況は、変わるとは思えなかった。
「昂が……」
「なになにー!」
「浄化体質で……」
「ほうほう?」
「体の一部を盗もうとしてた」
「顔じゃなくて、体目当てだったのか!」
 小宮が、間髪をいれずに大声を出し、周りの視線が自分に刺さった気がした。
「綿谷伊月くん、最低よ……!」
「真面目な変態だな」
 寮長と菅崎が畳み掛けるので、都はけらけらと大笑いしながら、鉛筆で真っ黒になった右手で、寮長をばんばん叩いている。
「本気だったんだよ、こっちは!」
 思ったより大きな声が出てしまい、伊月もだんだんとおかしくなった。お腹を抱えて笑っている小宮の隣に、ごろんと寝転がる。
「綿谷くんの体質に助けられたからなー」
 小宮はもちもちと、自分の頬をつまみながら言う。
「それは、ちょっと救われるかも……」
「早々に体を許さなくてよかった」
 俺の気持ちが台無しになった、という言葉を寸前のところで止めていると、ごめん冗談、と小宮が改めるので、おおげさにいいよ! と返す。
 ふざけていないと、明日が来ることを拒みそうになるのは、きっと全員が同じだった。
「ねえ、見て」
「それ、戻ってきてよかったな」
 寮長は、都が嬉しそうに掲げている絵を見て言った。
「こちらはヴァニタス。生は虚しく、富も繁栄も空虚である、といった寓意画」
 頭蓋骨や枯れた花、腐りかけの果実、砂時計、楽器などが暗闇の中に描かれていた。
「見ていると、安心するでしょ。絶対いつか死ねるって思うと、まあ、もう少し生きてみるかって肩の力が抜けるみたいな」
 都は真剣かつ、得意そうな顔で続けた。
「つまり、明日はどれだけ泣いても、ヴァニタス的にはノーカウントだから」
「都……中本の変な日本語が移って、かわいいね」
 菅崎の一言で、絵画鑑賞から枕投げに切り替わる。伊月たちが暴れるので、クラスを巻き込んだ枕投げへと発展した。
「変人班、まじで、毎晩うるせー!」
 村上が叫び、伊月たちに、たくさんの枕が飛んでくる。
 大きな笑い声と足音が、体育館を震わせた。最後の夜を惜しむのさえ忘れ、彼らは走り、枕を投げ、いくつかの白い羽が宙を舞う。
 
「これが最後のHRです。ほんの一握りだ、短編に収まるようなメッセージなんて」
 良くも悪くも雑な担任が、大人の涙を見せるので、教室はすすり泣きで満ちた。
 伊月も怖いもの見たさで、文化祭の特典は読了済みだ。だいぶ性癖が出ていた文章を思い出し、誰も笑わないのか、と冷静に思案する。前の席の菅崎が、不自然に肩を震わせるので、伊月はつられそうになるのを、唇を軽く噛んで我慢した。
 卒業式は、春の陽気が穏やかに漂う中で、厳かに晴れやかに行われた。
 菅崎は、学業成績優秀者で表彰され、中本元生徒会長の答辞は、会場を最高潮に盛り上げる。それ以外は、春眠というように、心地のよい眠気との戦いだった。小宮は、出席番号が最後の伊月と隣の席だったがために、起立の度、伊月を引っ張り上げる羽目になる。
「歩きやすいように、前を向こう。無理なら、綿谷のように横で十分だ」
 最後のHRでさえ、癖で窓の外に目をやっていた伊月は、涙ぐむ迚野の方へ向き直る。
「流石に、それはちょっと……」
「いいんだ、綿谷。これがS組だろう」
 引きつった顔をする伊月と、ふざけている担任の言い合いで、クラスメイトが一気に沸き立つ。トッティーと綿谷の攻防もこれで見納めかー、と村上は両手で大げさに涙を拭った。
「いつでも遊びに来なさい。卒業、おめでとう」
 スーツを着た迚野はいつもより少しだけ、生徒の目にかっこよく映っている。

 伊月たちは卒業証書をもって、記念撮影をするために、ぞろぞろと正門へ移動する。
「昂、嬉しそうだな」
 菅崎と伊月はクラスメイトと談笑する小宮を眺めた。小宮の部屋に置かれていた荷物も無事に穴から取り出され、小宮は卒業アルバムを三冊、胸に抱えている。まるで、初等部の頃から平瀬台学園に通っていたみたいだ。
「連絡しろよ。まあ卒業旅行で、明後日また会うか」
「初耳だけど……」
「昂のお父さんが、北海道行きの飛行機とホテルをもう予約済らしい」
 菅崎が説明し、二人は苦笑した。
 正面玄関にある大きなサクラの木も満開で、伊月は足を止めた。
「おかげで卒業できた。ありがとう」
 菅崎と交代するかのように小宮が来て、突然かしこまった。
「あれが父」
「知ってるよ」
 小宮は正門で迚野と話している男を指さす。両手で桜色の厨子を抱えている。母親の遺骨は今日まで小宮が持っていた。陥没事故以来、平瀬台学園に小宮の父は何度も足を運んだ。小宮とも伊月たちとも、たくさんの話を重ねる。今ではもう、ずいぶん顔見知りだ。
 小宮は、父親に初めてあんなに怒られたし、泣かれた、とぼんやり話していた。
「俺も四月から、平瀬台の薬学部に行くよ」
 小宮の発言に、伊月は眉根を寄せて、思わず卒業証書を落とした。
「もっと喜んでよ」
 小宮はむくれるが、伊月は冗談ではなさそうな、小宮の様子に絶句して、次の言葉が出ない。
「さっき父の許可を得た」
「ちゃんと考えた方がいい」
 これからの人生を大きく左右することだ、と小宮も分かりきっている内容を、説き続ける伊月に対し、小宮も必死に応戦した。
 羽沢大学にいた憧れの教授が、平瀬台大学に二年前に移籍したこと、本当はその教授の研究室に入りたくて、羽沢大学と平瀬台大学を併願していたこと、羽沢大学を薦める父や親せきと進路でもめていたことを順を追って話す。
「分かった?」
「分かった……いやでも……」
 伊月は声を絞り出すように、返事をした。
「というのは、ほとんど建前で、綿谷くんと平瀬台で大学生がしたかった! 夢のキャンパスライフだよ!」
「分からない……」
「え、待って!」
「一旦、頭を冷やす」
 伊月は、校舎の方へ引き返した。正当な理由も聞いたはずなのに、感情があれこれ混ざりあって、結局、腑に落ちない。もっといい説得ができるはずなのに、上手く言葉にならなかった。
「ずっと守ってくれるんでしょ!」
小宮が後ろで、去っていく伊月に大声で叫んだ。
「約束三つ目!」
 小宮が駆け寄って来る。不安そうな顔で伊月の顔を覗き込み、そして、嬉しそうに笑った。
「たいせつなことは、もっと、はやくいって」
「ごめん、サプライズしたかった……!」
 小宮が差し出したハンカチを受け取り、伊月は躊躇いもなく洟をかむ。春からも、昂と一緒だ。涙が湧き出るようにあふれ、洟が垂れる。
「来いよー! 写真取るぞー!」
 二人を呼ぶ寮長の声が、春の晴空に響いた。
「え、うわー! まって、伊月が! カメラ、中本カメラ貸して!」
「早くして! 花粉症になる!」

 楽しかった。
 本当に、楽しかった。
 
 忘れられない三か月が、一秒ごとに思い出となっていく。
 伊月たちの胸に、思い出は輝き、新しい門出を祝った。
 
 **
 
「じゃあ、小宮くん、この書類を書いたら、三年S組に行ってねー」
 事務の先生が応接室を出ていき、ドアを閉める。
 精神病院に閉じ込められた次は、ド田舎の学園だった。まさか、あれほど反対されていた、平瀬台に送り込まれるだなんて、思いもしなかった。
 ここから飛び降りたら、即死できるだろうか。応接室の窓の外へ身を乗り出して、目をつむってみる。
「本当、普通ってものを知らないな!」
 続けて重いものが、吹っ飛ばされた音がした。目を開いて二階から見下ろすと、複数人の生徒が一人の生徒を暴行している。
「なんだよ、この髪色」
「だから、地毛だって……全人類、同じ肌色、髪色、喋り方、だったら満足かよ」
 悪態をつくと、よりひどく蹴られた。一方的な暴力を見ていられず、思わず床に座り込む。
「髪を切ってやるよ。女みたいで気持ち悪いからな!」
 主犯格の男が、取り巻きの不良に、ハサミ貸せ! と続けて叫んだ。
「ザクザクいこうなー」
「うわ、こいつ気絶してね?」
「起きたら坊主なの爆笑」
 流石にやりすぎだろ……先生を呼びに、と窓から離れたとき、分かりやすく、骨が折れる乾いた音がした。
 もう一度、下を覗き込むと、倒れた不良の横に、シャツに泥を付けた生徒が立っている。続けざまに、ハサミをもった主犯格の不良を後ろから掴み、思い切り顔面を殴って転がした。
「むしゃくしゃしてんだろ、俺を殺してくれ」
 生徒は暴力性に反して、語りかけるように言った。そのまま、転がる不良に馬乗りになって、容赦なく暴行を続ける。そばで棒立ちしている、取り巻きの不良にも容赦がなく、次々と掴んでは再起不能にしていった。
「普通とかになる方法、俺にも教えろよ!」
 その生徒が叫んだ。死ね! と飛びかかった五人目の不良も、腹を蹴られて動かなくなった。顔に恐怖を浮かべ硬直した最後の一人も、狂気じみた生徒に勢いよく掴まれ、投げ飛ばされる。
「起きろよ、殺してくれよ!」
 転がったまま震える不良たちを、ひどく蹴り続けながら叫ぶ。
 不良からリンチを受けて、倒れていた生徒が意識を取り戻したのか、小さく動いた。不良を蹴るのを止め、彼は一瞥をくれる。校舎の陰から出て来た柴犬を抱えて、なにもなかったように、第二校舎の方へ去って行った。
 一気に体の力が抜け、崩れるように床へたり込む。初めて、人が殴られるのも、殴るのも見た。脱力しながら宙を見上げると、紅葉した平瀬台の美しい山々が目に入った。
 いざとなれば、死ねそうなぐらい、殴ってくれる人もいる。
 震える手で窓を閉めて、応接室を出た。
 死ぬのは、教室に行ってからでもいいかもしれない。彼と話がしてみたい。
 開いてふさがらない穴。胸の位置を一度撫でる。突き動かされるように、足は進んだ。
 
 **

「埋まってるなら、もういいか」
「いいの? 綿谷くんにとっては、動物たちとのハートフルな思い出が……」
「ない」
 きっぱりとした声で返ってくる。
 俺には、ハートフルな始まりの場所なんだけどな、なんて言ったらきっと怒るよな。おじさんになったときに、みんなに言おうかな。言えないかも。
 なんとなく、少し立ち止まってみる。
 先を歩く仲間の背中を眺めていると、都が振り返った。
「昂ーはやくー! 銭湯一番乗りしたいだろー!」
 返事をして、黄昏の中を走る。先の未来に少しだけ、期待を感じながら。