「小宮、ちゃんとさぼれるといいな」
 文化祭が始まった。風明館の中庭まで伸びた長蛇の列を、菅崎と伊月は横目にしつつ通り過ぎる。小宮はお化け役と見回り担当から外されて、村上たち客寄せ組に拉致されたまま帰って来ない。
「にしても、すごいな」
「うん」
 風明館の玄関に立てられた、大きな看板を二人は見上げた。[ぴゅあらぶ男子の古城へようこそ?君と過ごした秘密の部屋?]と書いてあり、これはお化け屋敷です、と米印の注意書きも添えてある。
 玄関の両扉が開いていて、受付けに並んだ客に、菅崎は愛嬌を振りまきながら進む。
「あ、来た。見回り兼特典補充係」
 座敷童二の厚紙を首からかけた都が、受付の補助席に座り、声をあげる。
「今、来場者は何人?」
「一三六人」
「約五万四千円か」
「こわ」
「トッティーの特典小説を鑑みて、入場料引き上げて正解だったな」
 菅崎は、迚野から受け取った紙袋を都に渡す。中には薄い冊子が入っており、表紙にはS組全員の、かわいらしいイラストが描かれていた。
「これってなにが書かれてんの?」
 自習室で小宮の着替えやメイクを手伝っていた都は、今朝のHRの騒動にはいなかった。
 迚野がサプライズとして、お化け屋敷の名前と大きな看板を今朝まで隠していたこと、入場特典を付けて動員を稼ごうと画策していたことが明らかにされ、まさに朝からクラスはお祭り騒ぎだったのだ。男子寮の自室に入れるお化け屋敷とはいえ捻りが足りないと、寮長を筆頭にしたクラスの数人から相談を受けていたらしい。
「俺らぴゅあらぶ男子S組の、ボーイズラブコメディが書いてある」
「アウトだろ」
「というのは冗談で、クラスの一人一人を主人公にしたガチの短編小説。まさに贈る言葉って感じのやつ」
「読んだ?」
 都が伊月の方を見て尋ね、伊月は首を横に振った。
「あと、都と小宮へトッティーからの伝言がある」
「なに?」
『愛しているよ。かけがえのない青い春の中で、元気に遊びなさい』
 菅崎は薔薇を散らすような声で伝える。HRでは、まるで卒業証書授与のように生徒一人一人へ冊子が手渡しされ、感極まって泣いている生徒もいた。都と小宮の冊子は教室に別途置いてあるぞ、と菅崎が付け加えると、都はふふっと口を隠して少し笑う。
「じゃあ、お互い頑張ろうな、ペナルティ」
 迚野の努力が実り、午前中の段階でお化け屋敷は大盛況となっているため、急遽増やした受付に都は駆り出されていた。寮長は生徒会に顔を出したきり捕まっているようで、見回りは伊月と菅崎に任されている。
「はい、マスターキー」
 都から客と同じように、菅崎が鍵を受け取り、旧建物側の部屋がある階段の方へ向かう。伊月も黙って後を追った。
 廊下の小道具は壊れていないか、貴重品は教室に移動しているとはいえ、部屋が荒らされていないかなどを、一部屋ずつ開けて見て回る。旧建物側の部屋に留まって生活している生徒は少ないため、先に見回りをした増築側よりも難なく進んだ。
「座敷童さーん」
「はーい」
 後ろから投げかけられた声に菅崎が振り向いて手を振ると、客から黄色い声が上がった。ファンサありがとうございまーす、と言って、誘導しているお化けの生徒と客は廊下を歩いていく。
 客に何度かすれ違ったが、悲鳴の上がるお化け屋敷というより、お化けの仮装をした男子高校生が、風明館を案内するような構図になっている。
 S組のファンになっているリピーターもいて、目星のお化けを見つけると一緒に写真を撮ったり、特典小説の感想を伝えたりしていた。
「ここも問題なさそうだな」
 ほとんど寮長が作った井戸を菅崎が見下ろした。階段の朽ちた箇所は、しっかりと隠されている。踊り場のステンドグラスにだけ暗幕がされていないが、曇り空なのもあり光が薄い。
 ポケットに手を入れ、小宮が作った折り紙の犬を握る。少し重くなっていた体がふわりと軽くなる。伊月も客寄せ組の小宮に着いて行こうとしたが、全員に却下された上に、座敷童三だからね、と首に札を掛けられながら、小宮にも説得されてしまった。
「ちょっと休憩するかー」
 菅崎が階段の中腹に腰を下ろし、伊月も隣に座った。旧建物側は気が溜まりやすいため覚悟をしていたが、準備期間の昨日までよりもなんとなく気が軽い。
「疲れた?」
「いや……」
 菅崎が顔を覗き込んで聞いてくるので、なんとなく目を逸らし、足元に目線を落とす。
「寮長がさ」
「うん」
「お前のこと、過保護って言ってた」
 笑われるのを想像していたが、菅崎は、そうかー、と言ってステンドグラスを見つめたままだ。伊月も階段に足を投げ出して、菅崎が話し出すのを待った。別に返答が気になるわけではなく、特に話題がないのだ。
「転校してきたばっかの、十一歳、十二歳の頃って覚えてるか?」
「あんまり」
「じゃあ、俺を泣かせたことは覚えてる?」
 菅崎は伊月の顔を見て、あはは、覚えてんだ、と笑った。
「あの日を境に、部屋が荒れ始めた」
「完璧を辞めたんだよ」
 菅崎は前髪をかき上げる。中等部の頃、同室になって初めての夏の出来事だった。大人顔負けの態度や、余裕をいつも漂わせている菅崎が、伊月の一言で烈火のごとく泣いたのだ。
「あの日、俺は生まれ変わったの、お前のおかげでな」
「なんだそれ」
「救われてるってことだよ」
 菅崎はポケットから、部屋割りが書かれた紙を取り出し、立ち上がる。
「あのとき俺、なんて言ったっけ」
「ナイショ」
 菅崎が口角を上げてみせた。行くぞ、と言って三階へ続く階段を上り、伊月も後を追う。最後の一段に足をかけ、三階に上がった瞬間だった。
「菅崎、まって」
 不自然に、気が溜まっている。境界をまたいだ感覚もあった。旧建物側の不便な三階に、住む生徒はいないのか、ほとんど装飾もされておらず、誰もいない。
「小宮だけなんだな、この階に住んでるの」
 紙を見ながら、菅崎が足を止める。
「先に戻ってほしい」
 菅崎は、どうして、と伊月をいなすように答え、小宮の部屋がある廊下の奥へ進んで行く。
 突き当たりの壁から三番目の部屋だ。帯のようにゆらゆらと揺れ、ドアから漏れた気が菅崎の背中越しから見える。重圧と臭いでめまいがして、足が真っ直ぐ前に出ない。
 小宮の言動から察するに、部屋に行けばなにかしら糸口があると予想をしていたが、伊月が一人で旧建物側の三階に上がることはできなかった。
 ステンドグラスまでは行くのだが、そこでいつも引き返させられる。誘導されるように、食堂まで下りてしまうのだ。階段を上がった目的すら忘れ、次の日もまた、同じことを繰り返していたのを伊月は今になって思い出した。
「鍵、貸して」
「立ち入り禁止のガムテープが貼ってあるぞ」
 菅崎は伊月に鍵を渡す。
 伊月がドアの真正面に進み、菅崎を後ろに下がらせた。気が体中を這い、思わずえづきが漏れる。震える手で鍵穴に鍵を挿すが回らない。
「菅崎、やめろ!」
 見かねた菅崎が、伊月の手の上から鍵を握る。回すが、やはり鍵は回らない。
 女がこっちを見ている。
 ドアの奥だ。
「伊月!」
 ドンッと押されたように、菅崎の方へ倒れた。あぶら汗が額を伝い、呼吸が浅くなる。来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな、絶叫が響き、痛みで頭を押さえる。正門と同じだ。三階、部屋、と境界を越えず、そこに留まる理由がある、気の有象無象。境界をまたぐと容赦がなく、気そのものが呪いのように大きい。
 こんな部屋に正気で住めるはずがないのだ。頭の痛みで声が漏れる。菅崎がなにか言っているが聞こえない。自分が倒れているのか、座っているのかも、感覚がねじれて分からない。
「小宮を、この部屋に、戻さないで」
 伊月は譫言のように繰り返す。憑代は小宮本人じゃなかった。この部屋か、この部屋にある何かが憑代だ。だったら、小宮をこの部屋から離せば、どうにかできるかもしれない。

 伊月が目を開けると、見慣れた場所だった。保健室の蛍光灯が眩しく目を細める。
「具合はどう?」
「最悪……」
 伊月は見下ろす菅崎に適当に答えた。目覚めた途端に、頭の中は小宮を部屋からどう引き離すか、部屋をどうするかで思考が飽和状態になる。
「倒れてばっかりだな」
「寝不足だった」
「明日、病院行けよ」
「わかってる」
 伊月は窓の方へ顔を向けたまま、ぼんやりと答える。遠くで生徒の声が聞こえた。文化祭は撤収作業に入っているのだろう。窓の外は、今にも雨が降りそうなほど薄暗い。
「小宮を探しに行かないと……」
 起き上がろうとするが、全く体に力が入らない――そうだ、さっき俺は――。
「伊月は、見えてるんだよな」
――キモチワルイ。
「伊月!」
 反射で立ち上がり、出て行こうとした伊月の腕を菅崎が掴む。力が上手く入らず、振り払えない。息が浅く、体が震えた。母親の声、振り下ろされる手、痛み、血の味――俺は、キモチワルイ――。髪を掻きむしり、保健室の床にへたり込む。隣にしゃがんだ菅崎の顔が怖くて見えない。早く小宮を探しにいかないと。怯えている場合じゃない。相手は菅崎だ。なのに、なんでいつも、今までも、こんなに怖くて仕方がないんだ。
「小宮は……これからどうする」
「今、考えてるよ!」
 勢いで顔を上げると、涙がこぼれた。そんなこと言われたって、俺だって、どうしたらいいか――。女が、部屋に居た。こっちを見ていた――死臭が漂う、まるで、呪いだ、俺になにができる。いつも怯えて、怖がって、一人じゃ三階にさえたどり着けなかったくせに。
「ごめん」
 菅崎の手も少し震えていた。
「俺から、小宮に聞く。菅崎はなにもしないで」
 伊月は、菅崎の顔を見ずに言う。分かった、と菅崎はそれ以上なにも言わず、伊月を掴んだ手を離した。伊月はふらつきながら、そのまま保健室を出た。

 撤収作業をしている生徒たちの合間を縫って、学園中を探したが、小宮がどこにも見当たらない。夕食の時間になっても、食堂にさえ現れなかった。部屋に戻る前にと思ったが、一足遅かった。明日、小宮が部屋から出てくるまで待つしかないのか。小宮の部屋を考えなしに再び刺激するのも危険だ。無鉄砲な自分の判断で、風明館にいる生徒を巻き込みかねない。
「小宮も疲れてんだろ」
 食堂を見渡す伊月に、配膳を手伝っている寮長が、夕食を取り分けて皿を渡す。
「お前も大丈夫か?」
 伊月は目を伏せながら頷いた。小宮の部屋から漏れていた臭いが鼻を離れず、料理の香りがしない。皿に視線を落とすと、盛られた食事がぐにゃりと曲がるようだった。
 食べる気がせず、テーブルでじっとしていると、菅崎が隣に座ってきた。菅崎は何も話さず、ただ黙って隣で食べ続ける。配膳の手伝いを終えた寮長が、食欲ないか? と伊月に声をかけながら、同じテーブルに着くと、菅崎が顔を上げた。
「小宮の部屋、開いたか?」
 感情が読み取れない声で、菅崎が寮長に聞く。伊月は息をのんだ。
「開かなかった」
「中本も無理だったか」
「勝手に……」
 二人が伊月と目を合わさないので、言葉を飲み込んだ。菅崎が開けられなかったのは、自分が隣に居たせいだと考えていたが、寮長も無理だとなると、状況の深刻さが一気に増す。
「様子、見てくる」
 伊月は席を立ち、食堂を抜けて、左奥にある階段を急いで上がった。二階の窓には、ひどく雨が打ち付けている。もう一度、あの部屋に近づけるのだろうか――声も、臭いも、予感も、記憶もすべて、雨に流されたらいいのに。一歩一歩が弱気になり、伊月は重たい足に力を入れる。
「綿谷くん?」
 突然、階段の上から声がして、体が竦んだ。小宮の足音――いや、気配に気づかなかった。
「どうしたの?」
 薄暗くて小宮の顔もよく見えないが、伊月が階段を上るたび小宮が後退る。動揺を悟られないように、気持ちを落ち着かせながら距離を詰めた。
「話したいことがある」
「お、小宮ー! あ、綿谷もいんのか」
 誰かが二階の廊下から姿を現した。食堂に行くなら一緒にいこうぜー、と小宮の肩に腕を回し、階段を下りてくる。
「ここを通ると、食堂まで近道だけど、やっぱ怖いな」
 生徒は村上だった。
「てか、俺の部屋さっき、勝手にテレビ点いてさ」
「リモコンが当たったんだろ」
 村上は、伊月の咄嗟の声にさえ怯えた様子で続ける。
「でも、隣の早川もなにか転がる音がするって。小宮の部屋はなにもないか?」
 恐怖は時間をかけて膨張する。文化祭の後、少なからず、こういうことが起きるだろうと、覚悟はしていた。
「なんかもう、気味悪くて」
「黙れよ!」
 伊月は自分の口を咄嗟に押さえた。感情の制御が上手くできず、止まらない。
「お前の勘違いだろ!」
「どうしたの……」
 怒鳴るように叫んだ伊月に小宮が声をかけるが、怪訝そうな顔をした村上が、行こうぜ、と小宮を促した。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえ、肩で息をする。
 二人が一緒に伊月の前を通り過ぎるとき、小宮の部屋から漏れた臭いが鼻をかすめた。ガンッと後頭部を殴られたような痛みが走り、倒れるように階段の壁に寄り掛かる。体が重く、頭が回らないぶん、感覚が敏感になっているのか、風明館に染みついたものと、存在しているものの区別が曖昧にゆがんでいた。気分が悪い。
 ふらつきながら、小宮を追って階段を下りると、寮長が小宮たちの配膳を手伝っているのが見えた。
「あれ? ごめん。ぼーとしてた」
 寮長は、自分で配膳した料理が一人分多いのに気づき、戸惑ったような声を上げる。後ろに立った村上も小宮に二つ分のグラスを渡そうとして、ぽかんとしている。
 ぐわんと視界が回り、冷や汗が滲む。まずい、どうしたらいい。小宮を覆う濁ったもう一つの気を感じているのは、もう俺だけじゃない。
「やっと見つけた! お前の部屋に隠してんだろ!」
 突然、食堂に響き渡る声を上げながら、都が小宮に近づいた。
「お前の部屋、こじ開けてやるからな!」
「誰か都を黙らせて!」
 伊月は食堂の入り口で反射的に叫んだ。死臭が濃くなり、小宮の部屋の前で聞いた絶叫が頭に響き渡った。割れそうな頭を押さえながら、ひどく重たい足で食堂に進み入る。
 小宮は、二つ出された料理を見つめたまま、微動だにしない。
「――小宮」
 声に息が混じった。
「うるさい!」
 小宮が破裂するように叫び、思い切り料理を床に投げつけた。皿が割れる音が響き、料理が飛び散る。さらに濃く、視界がゆがむほどの死臭が一気に広がり、小宮を包み込んだ。あまりの気の重圧に、伊月は床にしゃがみ込む。
「俺の部屋にはなにもない!」
 バチンと音を立てて、風明館の電気が落ちる。悲鳴が上がった。咄嗟に食堂を離れようとして、混乱した足跡が叫び声に混じる。
「中本、ブレーカ上げに行って!」
 菅崎が叫び、スマホで辺りを照らす。うずくまったまま、小宮を見据える伊月の肩に手を置いた。体に力が入らず、逃げることもできない。体が震える。声が出ない。
「落ち着け、小宮」
 菅崎が諭すように言う。
 居る――そこに、女が居る。小宮の後ろに立った女が伊月を見ている。暗い中でも浮かび上がり、表情まで分かるほどはっきりと存在していた。まるで、そこだけ風が吹いているかのように、なびく長い髪を細い指が押さえる。青白い肌に、浮くようなピンク色のスカート。
 やはり、小宮に似ていた。
 パッと電気が点いて、眩しさに目を細める。
「ごめん、どうかしちゃって……」
 小宮の後ろの女が揺れ動いた。怖い――目を逸らせない、動けない。臭い。
「綿谷くん。俺――」
「来るな!」
 手さぐりに掴んで投げた椅子が、小宮の横に鈍い音を立てて落ちる。
「お前、なんなんだよ!」
 叫んだ自分の声が、やたらはっきりと聞こえた。女の表情は変わらず、伊月を見据える。どうしてそこに居る。よりにもよって、どうして小宮なんだ。
 どうやって立ち上がったのかも分からない。脚が震えた。後ろで菅崎が、どこ行くんだよ! と叫ぶのが聞こえた気がした。
 
 気づいたときには、伊月はあてもなく豪雨の中を歩いていた。頭の中で響き渡り、拒絶を繰り返す絶叫を、雨音が一つ一つ記号に変える。静かになっていく。
 冷えていく体とともに、すべて自分が招いた不幸だと納得させた。小宮に近づいたのが、間違いだったのだ。自分の大切な人は、みんな居なくなる。壊れていく。知っていたじゃないか、と。
 何度も閉めた、記憶の蓋がずれる。自分で閉めていた記憶の蓋だ。どうすることもできず、伊月はただ、過去に身を任せた。十歳になったばかりの頃だった。
 鼻を刺す、薬の匂い。
 そして、人がゆっくりと死んでいく臭い。
 最後の言葉も、声も、顔も、思い出せない。ただ、別れは呆気ないこと、包み込むような大きな手は、もう二度と自分に伸ばされないこと、それだけ覚えている。
――キモチワルイ。
――大きくなれば普通になれるから。
 いつ、望むような子どもになれる。いつ、大きくなれる。
 動かない部屋のドアノブを、音を立てないように握った。同時に、近くに置いてあるヒビの入った母の姿見に自分が映る。腫れ上がった顔を見て、どのみち学校には行けなかったと言い聞かせた。閉じ込められた部屋の中で、ただ飢えに耐える。
『ねえ。お話ししようよ』
 もっと幼かった頃、生きているものと、そうでないものの区別がつかなかった。部屋の隅に居るものと話していたのが母にばれたとき、初めてぶたれた。ぶたれて痛いのは自分のなのに、母が泣きわめいていた。
――これはお母さんとの秘密。お父さんにも秘密よ。
――伊月はちゃんと、普通の体で産んであげたんだから。
『ねえ。久しぶりに話そうよ』
 母の監禁がひどく続いたときだった。耐え難い飢えと孤独の中に、懐かしい声が響いた。伊月は、助けを求めるように、その声にすがって話をした。父さんが死んでしまったこと、母さんがキモチワルイと殴ること、学校に行きたいこと、お腹が空いたこと、トイレに行きたいこと。全部、叫ぶように。
――伊月がこんなだから、お父さんは死んでしまったのよ。
――あの人を返して。
「父さんが死んだのは、俺のせいなの?」
『ちがうよ』
「父さんの代わりに、俺が死ねばよかったんだ。」
『ちがうよ』
 部屋の隅からする声は優しく否定した。何度も同じ質問を繰り返した。声も繰り返し、伊月に寄り添う。俺は悪くないのか。俺のせいじゃないのか。じゃあ、誰が悪い。
「母さんが、死ねばよかったんだ」
『そうだね』
 声は、嬉しそうに笑った。
 次に目を覚ましたとき、伊月は病院のベッドにいた。退院すると、母は事故で死んだと知らされる。小さくて白い箱に詰まった母が、平瀬台の祖父の家にあった。ぼんやり一人で眺めていた。ふと、厨子を開けて、白い瓶を取り出す。蓋をずらし、一つつまんでみる。母の遺骨は、伊月の小さな手の中で簡単に砕けた。
 俺がキモチワルイから、父さんが死んだ。
 俺が死ねばいいと思ったから、母さんが死んだ。
 大切な人は、みんな居なくなる。壊れていく――だからもう、誰もいらない。友達だなんて、幸せだなんて、自分に、許されるはずがない。
「どうして、死ねないんだ」
 重たい歩みを止めないまま、強く何度も足を叩く。早く死にたいと時間だけが過ぎ、中途半端に体だけが大人になった。今でさえ死ぬ勇気がないまま、雨に打たれている。
 伊月は、正門に立っていた。
 引き寄せられるように時計塔の下に立ち、戦没学生の追悼碑を見上げた。四十万年をかけてもまだ、人間の倫理は破綻している。世界は変わらない。歴史は繰り返す。救いのない時の中に生きている。
 自分も変わらなくてよかった。変わる必要なんてなかった。なのに、最近は楽しいと思ってしまったんだ。みんなと最後まで友達でいたかった。
 ポケットに手が伸びて、嗚咽がこぼれた。小宮が渡してきたあの折り紙だ。手のひらを伝い、冷え切った体に熱が巡る。
――綿谷くん、彩雲が出てるよ。
 伊月は顔を上げ、時計塔の辺りで目を凝らす。なにも見えないし、なにも聞こえない。自分の体質も少なからず変わっている。小宮の部屋の前で、あれほど大きな気を真正面から受けたのに、体への負担がこれだけで済んでいる。
 かさぶただらけになった、手のひらを見つめた。新しい傷には血が滲み、雨と流れる。爪の立てすぎだ。
 自分のための、自己嫌悪には飽きたか。泣くのも、怯えるのも、後悔も、もう十分だろう。
 思い出せ、小宮はさっき、どんな顔をしていた。伊月は鉛になったような体で風明館を見上げる。足を引きずるようにして、正門を出た。
「お帰り」
 風明館の玄関の外灯に照らされて、二人が待っていた。
「――あのさ」
 体が震えて、声もおぼつかない。十一月終盤の夜雨が体温を奪っていると、感覚が現実に引き戻されていく。
「拭けよ、まず」
 菅崎がずぶ濡れになった伊月を支え、バスタオルをかける。風呂に入ったら、菅崎の部屋に集合な、と寮長が風明館のドアを閉めた。

「ごめん。俺が小宮に八つ当たりしたから」
 菅崎のベッドで小さく座った都が、自分で体をきつく抱き寄せた。責任を感じて自室に引きこもっていたのを寮長が説得して、菅崎の部屋に呼んだのだ。
「あれは、都のせいじゃない」
 伊月は目を伏せながら言い、二の句が継げない。
「都はなにがあったんだ?」
 寮長が、沈黙を破るように聞いた。
「ヴァニタス――部屋の前に飾ってた絵がなくなってて」
「校内放送で持って行かれたやつ?」
 菅崎が寮長に確かめ、都は話が読めないといった様子だ。
「都の絵な、美術部門賞で表彰されたんだよ。今、校長室に飾られてる」
「風明館に居たから、僕、校内放送聞いてない……」
 寮長は、後悔を滲ませる都の肩に手を置き、もう片方の手を自分の額に当てた。表彰式も体育館であって、姿のない都の代わりに村上が登壇したこと、その手伝いを生徒会がしたことを説明する。
「ごめんな。伝えるのが遅くなって」
「僕も探し歩いてたから……」
都は少し考えた後、気のせいかもしれないけど、と続ける。
「小宮の部屋の前、靄がかかって見えた」
 三人の視線が自然と伊月に集まる。喉まで言葉は上がってきているのに、細い息しか出ない。手のひらに爪を食い込ませようとして思いとどまる。外で既に切れていた傷口が痛んだ。
「俺は……」
「知ってた。伊月の体質のこと」
「いつから」
 俯いて言う菅崎に、伊月は構えるように一言をこぼした。
「ずっと、昔から」
 菅崎は眉毛を下げて、ごめんな、と顔を上げた。伊月は小さくなって頭を抱え、声を詰まらせる。肩が震えた。意思に反して涙があふれる。突然ぐっと体が引き寄せられ、怯えるように顔を上げると、寮長にきつく抱きしめられていた。
――キモチワルイ。
 殴られる? 痛い? 違う――分かってる。もう、違うって、分かってる。分かっているのに、怖くて、苦しくて、涙が止まらない。
「小宮を……たすけたい……でも、俺だけじゃ無理だった。一人だと三階に上がれないんだ」
 嗚咽交じりの声で、震えながら必死に語る伊月の言葉を、三人は黙って聞いた。ぼたぼたと、涙と鼻水が混ざりあって、寮長の腕を汚す。
「今も、あいつになにかあったら! 急がないと……」
 寮長の腕の中で、小さな子どものように震える伊月に、菅崎はゆっくり手を伸ばした。
「一緒に考えよう」
 力の入った伊月の手のひらを、ゆっくりと広げる。爪が深く刺さった箇所が多くあり、血がひどく滲んだ。黙って見つめる菅崎に、都は持って来ていた救急箱からガーゼを取り出して、菅崎に渡す。傷口にそっと当てられると、血が染み込み、赤く広がった。菅崎は、伊月の手を包み込むように手当てを続ける。
「伊月の見えたものを教えてほしい。できるか?」
 震えながらも、伊月は顔を上げてしっかりと頷く。
「まずは作戦だ」
 菅崎は目を合わせて言った。寮長がなだめるように、とん、とん、と伊月の背中を叩く。
 
 寮長が食堂から電気ポットを持って来て、ポコポコと四人分のココアを淹れる。それぞれが受け取ってかき混ぜると、菅崎の部屋に甘い香りが広がった。
 伊月は寮長の隣に座ったまま、一口含んで、自分の考えを整理する。今すぐ小宮の部屋へ駆け付けても、深夜の気は重すぎて太刀打ちできない。太陽が上がれば、存在をくらませる可能性もある。
「――朝日が出る前の三十分間、境界の時間を狙いたい」
「あと三時間後だな」
 伊月と菅崎の話に、全員が顔を合わせた。
「部屋には俺が入る」
「さっき、僕がやろうとして激怒された方法だけど」
 都が、伊月の案に力なく笑う。でも、入れるとしたら、伊月が一番、確率が高いと思う、と菅崎は口に手を当てながら言った。
「鍵は、回ってた」
 伊月は、菅崎の言葉に眉をひそめる。
「気づいてなかったか? 中本にもさっき、確かめてもらった」
「鍵を替えたわけじゃなく……本当に、怪異の類なんだね」
 伊月が、都がキレたのもそのせい、と言い足すと、都は黙って頬杖をついた。小宮からにじみ出る気に触れて、感情の制御が付かなくなっていた。村上に怒鳴った伊月も同じだ。負の念は伝播し膨張する。
「なにが見えた」
 菅崎は、伊月を真っ直ぐに見据える。
「小宮に似た女……」
「そうか。辻褄があったな」
 菅崎は寮長と納得がいったように顔を見合わせた。少し間を置いて、綿谷が出ていったすぐにな、と寮長がゆっくりと話し出す。
「トッティーが、自分の家は停電していないのに、風明館の電気だけが急に落ちたからって、様子を見に来た」
 寮長はさっき起きたことをすべて迚野に伝えたと言い、伊月の様子をうかがうように、一息置く。
「綿谷は、小宮が転校してきた理由、知ってるか」
 話を続ける寮長に、伊月は首を横に振った。
「小宮は、お母さんを、今年の春の終わりに亡くしたそうだ」
「生きてるように、話してたよね」
「ああ、そうだ」
 難しい顔をした都に寮長は頷く。
「死別してから、小宮が暴れて手に負えなくなったらしい。療養も兼ねて夏頃に、母親の実家がある平瀬台に越してきたって」
 ある程度、体調は回復したが、小宮は東京に戻りたがらなかった。高校を卒業する必要もあったため、平瀬台学園に転校してきた、と寮長が一部始終を説明する。
「伊月は、小宮のお母さんだと思うか」
 菅崎の質問に、伊月は浅く頷く。感情のたがが外れたように、頬には細く涙が伝った。
「でも、小宮自身に憑いてない。たぶん、部屋の中になにかある」
「よく、話してくれたな。じゃあ、やることはシンプルだ」
 菅崎は、まだ震えている伊月の背中をとんと叩いた。小宮に空いている穴は、深く、塞がらないだろう。伊月もよく知っている穴だ。なにをしても満たされず、意識するほど呑み込まれていく。小宮も穴の中で変わることを拒み、孤立するのか。
「うお!」
 伊月が頬を両手で思い切り叩く音が、部屋に反響した。
「あそこまで気が大きいんだ。もう何が起こるか、俺でも分からない」
 全員が動揺を隠せない様子で、頬を赤くした伊月の話を黙って聞く。
「寮生を全員、俺が小宮の部屋に入る五分前に、学園の正門に避難させてほしい」
「今からじゃだめなのか?」
 寮長の質問に、伊月は目を伏せて続ける。
「虚を突かないと小宮の部屋には入れない。こっちの動きを悟られたら、手も足も出ないと思った方がいい」
 菅崎は立ち上がり、ペンと紙を手に取った。すらすらと風明館の間取りが描かれていくのを、全員で囲んで見下ろす。
「小宮の部屋で火事が起きた設定が、避難誘導では好都合だな」
「いいと思う」
 伊月も同意した。
「火災報知器を鳴らそう。風明館にあるのって、二酸化炭素消火器だよな」
 菅崎が寮長に視線を移し、合ってる、と寮長は頷く。
「なら、枕カバーと消火器でドライアイスが作れる。誘導したくない方に煙を作って流そう」
「お前……なんでも知ってるな……」
「俺ら一応、偏差値七十九ある学園の生徒だからね!」
 菅崎は、親指を立て自分の胸を大げさに指した。
「あと、俺は伊月と一緒に小宮の部屋へ行くから」
「だめ」
「最終兵器持ってんだよ」
 伊月は咄嗟に答え、突き返すような語気を含めたが、菅崎は飄々とする。
「真面目に言ってる」
「俺も、真面目に言ってる。これは、決定事項だから」
 菅崎は、これ以上、話はしないといった様子で言い切った。
「か、過保護、今すぐやめろ!」
 思わず声を大きくしていた。絶対に譲れないとき、菅崎は答えを曲げない。
 中等部の相部屋を決めるときだ。風明館の管理をしている高等部三年生の寮長に、菅崎が直談判したのを思い出した。伊月も菅崎に当時の寮長の部屋に連れて行かれ、自分たちよりも体の大きい上級生が、菅崎にたじろいでいるのをただ見ていた。それから三年間、部屋変えをしても、同室の相手は菅崎だった。こいつはそういうやつだ。
「菅崎になんかあったら……」
「伊月になんかあったら、どうすんの」
 菅崎が、見たこともないような弱った表情を浮かべた。
「もう嫌なんだよ、なにもしないのは」
 沈黙が流れた。言葉が出ず、伊月が菅崎を掴もうとしたとき、見かねるように寮長が両手を叩いた。菅崎の部屋の時計を指さす。
「痴話げんかはもう、終わりでいいか」
 時刻は朝の五時を指していて、残された時間はあと一時間半だ。菅崎を殴ったところで、どうにもならないことは分かっている。
「トッティーも巻き込むぞ。伊月、行こう」
 菅崎は急いで立ち上がる。消火器と枕カバー集めといて、と寮長と都に言い残し、二人は風明館を出た。伊月は黙って、菅崎の後を追った。靴もまともに履かず、寒空の中を二人は走る。
 生垣を挟んで風明館の隣にある小さな平屋に、担任は本当に住んでいた。
「夜間外出は感心しない」
 まだ月も登り、辺りが薄暗いにもかかわらず、迚野は縁側に座って二人を出迎えた。慄く伊月たちに、大人の勘だ、と言う。雨はすっかり上がっていて、混じり気のない空気が満ちていた。
「要件は?」
「六時二十五分からの五分間で、二十六名の寮生全員を正門に避難させたい」
 菅崎は直球だった。
「理由は?」
「小宮と一緒に卒業したいから」
「ちゃんと、詳細は順を追って……」
 迚野は、二人を落ち着かせるような仕草を見せるが、伊月の返答に一瞬、言葉を詰まらせた。
「先生、俺たちを信じてほしい。もう、時間がない」
 菅崎の声が震えていた。
 
「お前ら……」
「トッティー!」
「その消火器が一本、何万円するか知ってるか……」
 菅崎の部屋で、消火器を枕カバーに噴射してドライアイスを作っている寮長と都を、迚野が見下ろした。
「先生、これ避難誘導の経路と部屋割りの紙」
「名前に丸がしてあるのは?」
 迚野が菅崎から受け取った紙に、目を通しながら聞く。
「スペアキーで部屋を開けて、叫ばないと起きてこないやつ」
 手を動かしながら答える寮長に迚野は、お前も苦労してるな、と呆れ交じりに言葉をかけた。続けざまに、家から持ってきたスペアキーを既に所持している寮長以外に渡す。
「責任は俺が取る。けど、怪我だけは絶対にするな」
 全員の顔を見て、約束できるか、と迚野は声を低くする。伊月たちは黙って頷いた。
 午前六時十分。
 じゃあ、計画通りにな、と菅崎の声を皮切りに、各々が風明館に散らばった。なにが起こるか誰にも分からない。この選択が正解なのかさえも。それでも、全員の足音には迷いがなかった。
 菅崎が指定した場所の窓を開け、紙に印が付けられた箇所に、袋に入れたドライアイスと、水の入ったペットボトルを置く。蓋を少し緩め、水をこぼし続けると煙が上がった。菅崎が言った方向へ、煙が流れるのを確認する。
 午前六時二十分。
 伊月と菅崎は、二階と三階を繋ぐ踊り場に待機した。ステンドグラスから、薄暗い光が差し込んでいる。菅崎がスマホで時間を確認する際に、擦れる服の音が異様に大きく聞こえた。ドライアイスの煙も足元まで上ってきている。
 寮長が、火災報知器を押したらスタートだ。
「菅崎、引き返すなら今……だふあら」
 菅崎は振り向きざまに、片手で伊月の頬を掴んでいた。
「もう一回言ったら、本気で殴るからな」
「おこるなひょ」
 分かったか、と目を見て聞かれ、伊月が頷くと手が離れた。
「菅崎の最終兵器ってなに」
「あの厄除けを今、俺が持ってる」
 菅崎は、中本の部屋にあれから置いていた、と続けた。
「――嘘だろ」
 厄除けの存在に全く気づかなかった。吐くほど気が強かったはずだ。まさか小宮の部屋の気と相殺しているのか――。ひりりとした緊張感が一気に漂う。
 もし、菅崎が厄除けを持って隣にいなかったら、三階に上がっていない今でさえ、部屋から漏れ出している気に呑み込まれていたかもしれない。
「気をつけて行け」
 菅崎が厄除けをポケットから出し、伊月のポケットに入れた。俺は今から、小宮の部屋に入る。何があっても、必ず小宮を部屋から引きずり出す。それだけは変わらない。
「あと十秒」
 避難開始までのカウントを菅崎が始める。三、二、一――。
「火事だー! みんな正門へ逃げろー!」
 サイレンと寮長たちの声が風明館に鳴り響く。すぐに足音が増えていくのが分かった。避難まで待てるのはたった五分。六時半になったのと同時に、小宮の部屋へ向かう。突き当たりの壁から三番目の部屋だ。
 小宮をどう説得する、どうやって部屋に入る。計画だなんてあったものではなかった。
 俺は、小宮の部屋にあるものの強さを測り違えているのか。
「時間だ、行こう」
 菅崎が、考え込んでいる伊月の背中を軽く押す。
 三階に足を踏み入れ、小宮の部屋がある奥の廊下へ進んだ。覚悟して境界をまたいだのに、なにも起きなかった理由が遠くからでもわかる。
 人の腕だ。
 白い塊になるほど、小宮の部屋のドアに貼り付いて、訪問者を潰すような勢いで荒れ狂っている。大量のネズミが足に当るような感触に下を向くと、人の手が廊下を這っていた。
 それらは小宮の部屋に向かい、べちゃり、べちゃり、とドアに貼り付き音を立てる。廊下には人の爪が散乱していて、一歩踏み出すごとに、足の裏で次々と割れた。
 嫌悪と恐怖が警鐘を鳴らす。拒絶するように、胃がせり上がるのを必死に抑えた。浅くなる息を大きく吸う。
「小宮、話がしたい!」
 張り上げた伊月の声が、廊下に吸い込まれる。部屋に近づくごとに、足元を這う無数の手が、進むのを拒むように足に絡んだ。罠にかかったネズミのごとく、四肢を振ってもがき、叫んだ。
「お願いだから、開けてくれ!」
 前回も聞いた絶叫が襲い掛かる。来るなと何度も繰り返され、伊月は頭が割れそうな激痛に悶えた。死臭が濃く、息もまともにできない。無我夢中で進む。いつの間にか、手を伸ばせば、ドアノブに指が届きそうなところまで来ていたときだった。
「伊月! こっち見ろ!」
 ゴンッと、後ろで鈍い音がした。菅崎の声だ。咄嗟に振り向く。
「菅崎……」
 倒れている。動かない。駆け寄ろうとしたのと同時に、喉を突き上げる異物感が抑えられず、激しく嘔吐した。ふらつく。意識が飛びそうだ。伊月は小指を握り、力任せに骨を折った。
 痛みで意識がはっきりとする。横たわる菅崎の方へ、伊月は倒れるようにしゃがみ込んだ。名前を叫びながら、菅崎の体を何度も揺する。息はある。気に触れただけなのか。
 あぁ、やめてくれ。
 菅崎が真っ赤に染まっていく。
「菅崎、どうしよう。ごめん、血が、いっぱい出てる。ごめん、ごめん」
 赤い、赤い、菅崎が赤い。止まらない。嫌だ、菅崎。息が上手くできない。音が、消えていく。俺が死ぬから、お願い。お願いだ。代わりに死なせてくれ。
 与えられる言葉も、向けられる優しさも、自分には不釣り合いだったのだ。与えられても、奪ってばかりで、なにも十分に返せない。だって俺は、人殺しだ。空っぽだ。
「伊月」
 息をするのを忘れていた。体が必死に酸素を取り込むように、肩を上げて呼吸を繰り返す。
「――すが、さき?」
 さっきまで、自分の腕の中で動かなかった。鮮血に染まっていた。菅崎が、倒れた伊月の体を抱え込んでいた。
「お前が大切なんだよ」
 菅崎の声が震えている。
「伊月は、生きていいんだ」
 絡みつく大量の手や、床に積もった爪、菅崎の血溜まりも消えている。掻きむしった自分の腕が真っ赤に染まって、菅崎を汚していた。
「いきていい」
「そうだ。俺が命を懸けて認める」
 震える二人の声が、細く響く。
「ずっと、死にたかったんだ」
「うん」
「小宮のためじゃない。やっと死ねるって思った」
「そうか」
 ごめんなさい、ごめんなさい、と小さく続ける伊月を、菅崎はきつく抱きしめる。誰かにずっと聞いてほしかったのかもしれない。生きていることを、認めてほしかった。俺は弱い。でも、もう独りじゃない。痛いほど分かる。失いたくないものが、たくさんできた。
「綿谷! 菅崎!」
 寮長と都の声が響いた。壁にもたれて、震えながら身を寄せ合っている二人に駆け寄る。
「連れて、引き返すぞ」
 寮長が二人を見て、声を低くした。伊月に手を伸ばそうとした寮長を、菅崎が手で制す。
「伊月、これがきっと最後のチャンスだ」
 ドアが不自然に軋む音がして、伊月たちは同時に小宮の部屋の方へ振り向いた。青白くて細いものが、ドアの隙間からあふれ出ている。細くて白い女の指、腕だ――ドアを、抑えている。
「さっき、ドアノブを握ったと同時に、伊月が正気を失って暴れた。ドアから引き剥がして、ここまで戻って来たけど、俺も、もう正気でいられる自信がない」
「血が……」
 伊月は手を伸ばした。唇を噛んだのか、菅崎が口の横から血を垂らしている。
「俺にもドアを抑えている、女の指や腕が何本も見える。まるで、小宮を守るみたいにな」
「――優しい手だ」
「俺も、そう思う」
 菅崎は、伊月を強く抱きしめ、伊月も腕を回した。俺は行かないといけない。死ぬためじゃない。みんなで、これからも生きるためだ。不思議と落ち着いていた。
「菅崎を頼んだ」
 伊月は菅崎から離れ、震える足で立ち上がる。座って壁にもたれたままの菅崎を、寮長と都に預けた。二人は迷うように、伊月を見上げたまま動こうとしない。
「俺はみんなと卒業したい……」
「わかった!」
 伊月の言葉にはっとしたように、都が声を上げる。
「寮長、左側支えて。早く!」
 寮長は都の声に促される。戸惑う表情を浮かべたまま、菅崎を一人で抱えた。
「綿谷、信じていいのか」
 頷いた伊月に、寮長は続ける。
「小宮は……お前のことが大好きだからな」
「知ってるよ」
 伊月は、寮長の目をしっかりと見返す。
 二人は階段を下りる前に、一人で残る伊月を振り返った。
 足音が小さくなるのを確認して、伊月は小宮の部屋の方へ進む。掻きむしった腕が痛み、顔をしかめた。思考は冴えていて、歩みに迷いはない。
――生きていい。
 歩きながら、手のひらを確かめる。さっき血が滴っていた手のひらには、菅崎が手当てしてくれたガーゼが貼ってある。菅崎の言うことが正しいかどうかは、今はまだ分からない。でも、体の真ん中がずっしりと重く感じた。
 伊月は小宮のドアの真正面に立つ。大量の女の手は形を変え、今にも伊月に振り下ろされそうだ。足が震えてどうしようもない。無意識に食いしばっていた奥歯が音を立てた。
「昂に会せてください」
ドアノブに手をかける。青白い指がドアを軋ませながら小刻みに震える。
「友達なんです」
 突然、ドアが奥へ引いて開いた。腕が信じられない速さで動き、体が部屋に引き込まれる。勢いのまま壁に打ち付けられ、伊月はうめき声漏らした。肩で息をしながら目を開けると、窓にはまった鉄格子が伊月の顔に影を落とす。
 バタンと大きな音を立ててドアが閉まった。体を起こしながら部屋を見渡すが、がらんとした空間が広がっていて、小宮の姿がない。
 机の上の教材を除いて、備え付けの物以外は置かれていない。空き部屋のようだ。ベッドの寝具にはしわ一つなく、使われた形跡がない。
 伊月はドア横にある、クローゼットへ這って進んだ。どこの骨が折れているのかさえ、分からないほどの痛みが全身を走る。クローゼットから漏れた濃い死臭が、呼吸の度に体へ入り込み、臓器が内側から潰されているようだ。
「小宮、開けていいか……」
 伊月は返事のないクローゼットの前に座る。中で小宮の細い息だけが音を立てた。取っ手に指をかけて、ゆっくりと開く。
 小宮は子どものように小さく丸まり、なにかを隠すように抱えている。左手は、クローゼットの奥へ不自然に伸ばされていた。霞んで浮かび上がっている、母の手を握っている。この世に存在しないものだ。
「小宮……」
「だめ!」
 机の上にあった教科書や筆記用具が、伊月をめがけて飛んでくる。引き出しはガタガタと揺れ床に落ちた。伊月は構わず、小宮の抱えているものに手を伸ばす。
 軽く触れただけでも、小宮の右腕は抗う腕力もないのか、簡単に腕の中の物が露わになった。
 小さくて白い陶器の瓶――骨壺だ。
 骨を残しても、故人の念は残らない。人間の念は、浄化されたように煙とともに空へ昇っていく。弔いも悲しみも、生きている人間のためのものだ。感情は生きている人間からしか生まれない。念は故人から生まれない。残っていたとすれば、生前に生んだものだ。
 想像はしていた。小宮の感情がこもりやすく、周りにまで影響するほど、気が膨張するもの。遺骨しか思いつかなかった。骨さえも、残された人間のためにあるかのように、深く、濃く、念が染み込んでしまう。
 小宮は顔をゆがめ、力なく涙を流す。
 伊月も知っている、小さくて白い瓶。大きく感じていた母の存在が、両手に収まるほどの瓶に詰まったときの気持ち。過去の記憶を探る。母の遺骨を触って確かめたのは、きっと寂しかったから。形容しがたいほどの孤独だったように思う。
「俺も、小宮に黙ってた」
 小宮の左手が握っている霞んだ存在の方へ、伊月はゆっくりと視線を上げる。
「生きていないものが見えるんだ」
「ママは死んでない!」
 小宮が叫んだ。泣き腫らした目でこっちを見る。
 毎晩こうやって、一人で泣いていたのか。だから、ベッドには、しわ一つないのか。小宮の話しぶりからして、母親のために頑張っていたのは知っていた。進学の理由だってそうだ。
 母親を亡くして、頑張る理由が無くなるのは、小宮にとって、生き方が分からなくなるのと同じなのかもしれない。理解が及ばないほどの、喪失感なのだろう。
 伊月は目を閉じ、小宮の気と同調させた。小宮の記憶の中で、一番幸せだったころの姿だろうか。高校生の母親にしては若く、晩年の姿ではないのが分かる。
 床に突いていた伊月の手に、生温かい液体が落ちた。ボタボタと鼻血が垂れ、片手で顔を拭う。生きていないものに触れる対価は大きい。
「小宮のお母さんは、髪が長くて、すらっとしてて、ピンク色のスカートが似合ってる。話してくれた通り優しそうで、特に目が小宮と同じ。凪いだ海みたいだ」
 彼女は、伊月を見てふわりと笑っていた。
「小宮は……昂は、お母さんと同じ笑い方をするんだな」
小宮の嗚咽が大きくなり、伊月は小宮の背中をさすった。伊月の頬にも涙が伝い、血と混ざりあって床に落ちる。
「ママを喜ばせたら、病気は治るんだってずっと頑張ってた。でも、全然よくならなかった」
 小宮は泣きじゃくりながら続ける。
「俺が、病気を治せる薬を作らなきゃって。痛い手術も注射もしなくてすむような、薬を作りたいって……なのに!」
 小宮は、伊月の腕を思い切り振り払った。伊月に掴みかかり、そのまま馬乗りになって押さえつける。
「渡さない!」
 一段と濃い死臭が広がり、伊月は飛びそうな意識に必死でしがみつく。
「みんなダメって言う! 返せって言う!」
 後ろで窓が割れる音がした。押し倒した伊月の上に乗ったまま、小宮は頭を振って泣き叫び続けた。骨壺は片手に抱え、反対の手で伊月の胸を叩く。やり場のない怒りを爆発させるように。骨壺をすがるように抱く。
 また一つ、記憶の蓋が開いた。小宮の姿と母親が重なる。父を引き留めようとした母の姿だ。
 そうだ、死んだのは母だけか。
 病気だったのは、母か。
 父は、十歳にも満たない自分に金を握らせて、知らない女と消えて行った。謝っていた。数年が経って母が死んだ。母の葬式にも父は来なかった。迎えに来てくれるかもしれないと、少し思ったんだ。
 父が去って壊れた母を助けたかった。全部、自分のせいにすれば、母が楽になれると思った。
 大人は母が事故で死んだと言った。でも、母によって閉じ込められた部屋の中で、日を追うごとに臭いがきつくなるような、なにかが腐っていく臭いを覚えている。母は、自分で死を選んだのだろう。どのみち、長くは生きられなかったのだろう。
 自分を捨てた父の背中と、母の腐敗臭を記憶から消していた。長い間、蓋をしていた伊月の記憶だ。
「俺は、ずっと自分が死ねばいいと思ってた」
 伊月は、泣き叫んでいる小宮を見上げながら、こぼすように言う。朦朧とした意識の中で、地震のように部屋が揺れた――これがもう、俺たちにとって最後だ。
「失うものが多すぎて、自分を否定して、恨んできた」
 今の小宮に、聞こえているか分からない。届いてほしい。
「でも、小宮のおかげで一生分の夢が叶った。楽しかった」
 届け。
「奪わないよ。大切なら持っていていい。俺がお前をずっと、守るから」
 小宮の目に、凪いだ海の色が戻っていく。
「やっと、こっちを見てくれたな」
 伊月は声を震わせる。小宮の片腕が、だらりと床に落ちた。地鳴りが轟く中で、伊月は探すように手を動かす。確かめるように、小宮の手を握り、強く、自分の小指を絡めた。
「わたやくん……」
「約束三つ目」
 一段と大きく部屋が揺れた。床が反り上がり、上から屋根が落ちてくる。
 目の前が暗闇に包まれ、深く、深く、意識が落ちていく。