一睡もできず、朝を迎えた。結局、昨日は小宮になにも言い出せず、自分ができることも、なにも思い浮かばない。なにか行動を起こすことは、自分の体質を暴露するのも同じであり、今まで刷り込んできた思考と行動が伊月の意思とは反して、制限をかけていた。ただ、焦りだけが募る。
 廊下で点呼をとっている、聞き慣れた大声が頭に響き、寝返りを打った。伊月の部屋の方へ向かって、毎朝、声を張り上げるのも、三年間続いていれば、それはもう寮長の習慣だ。
 眠れないまま天井を見上げ、しばらくして、伊月は起き上がった。全身の筋肉が軋んだようだ激痛が走り、うっと声を漏らす。昨日、走ったせいだと理解したものの、遠い記憶のように感じた。
 カーテンレールに干した学ランに手を伸ばし、制服に着替える。朝食を食べに、部屋を出た。
「うわ……」
 目の前の壁に、首のない男がぶら下がっていた。昨日の夜から、風明館への飾り付けも進んでいて、見渡せる範囲の廊下は、着実にお化け屋敷に近づいていた。食堂に降りると班の全員がそろって席に着いており、各々が伊月に手を振る。
「近いって。食べにくい」
 今朝もまた、都が寮長の椅子を自分から離そうと必死だ。寮長が怯え切っているのは、誰の目にも明白だった。食堂も例に漏れず阿鼻叫喚な状態であるが、寮生はその中でいつも通り味噌汁をすすっている。
「綿谷くん、食欲ない?」
 小宮は、茶碗を投げれば綿で抱えよ、と文字のまま受け取ったように、茶碗を落としそうな菅崎の世話を焼きつつ、心配そうな顔を伊月に向けてくる。神経質に目線を逸らし、いや、と否定して、伊月は無理やり朝ごはんを胃に流し込んだ。
 食堂に置かれた大きな柱時計は、正確に振り子を動かし、八時二十分を指す。全員で風明館を出ると、空には曇天が広がり、今にも雨が降り出しそうだった。
 二十五歩で正門を目指す。伊月が正門を風明館側からの越えるのは、これで三度目だ。仏の顔も三度という。四人の背中越しから、時計塔の下、戦没学生の追悼碑、と目を走らせたが、なにも見えず、なにも感じず、問題なく通り過ぎた。
 小宮にも異変は無いが、このまま放っておける事態ではない。伊月は悟っていた――最悪、小宮の命にかかわると。迷っている時間はないのだ。

 菅崎が、うーす、と言って教室のドアを開ける。ぞろぞろ進み入ると、伊月たちの班以外は、既に制作に取り掛かっていた。教室の中も、お化け屋敷さながらだ。ブロンドヘアーの生首、吸血鬼入りの棺桶、天狗、村上家と書かれた墓、ゾンビ、と絶妙に和洋折衷している。
 制作を始めた昨日の時点で、コンセプトの不一致は明らかだった。初日に、お化け屋敷の方向性を決めたはずだが、どう着地したのかを伊月は覚えていない。
「来たな変人班!」
 村上家の墓の横に、腰に手を当て、仁王立ちした村上がこっちを見て言う。
「昨日の絵具大戦争のペナルティとして、文化祭当日は、風明館の見回り担当だからな! 休憩返上で!」
「ほんと、すみませんでしたー!」
 寮長が腰を九十度に折った勢いで、伊月の頭もぐぐっと押さえ、同じように下げさせる。伊月が虹色に染めた教室の床や壁、他の班の小道具はクラスの協力があって、昨日の下校時間までには元の色に戻された。
 くじで見回り担当は決めていたが、新たに伊月たちの名前が時間ごとに割り振られ、黒板に書かれている。スマホで写真を撮っとけよ、と村上は念を押した。
「あ、でも三十分間、休憩くれてるー」
 小宮が、ありがとね、と言うと、村上を筆頭にして、小宮はかわいいから、見回りしなくていいよー! とクラスから口々に上がった。
「アイドルだからね」
 都が誇らしげにするが、小宮はうんざりとした表情を返す。S組に女子がいる、と噂は目撃者によって一気に広がり、昨日の放課後から、野次馬がS組の廊下に押し寄せていた。今朝も昇降口で、小宮は他のクラスメイトに声をかけられており、アイドルさながらの輝きを放つ。
「はい、座れー。おはよう」
 眠たそうな迚野が、あくびを堪えたような声で教室に入ってくる。HRの内容は今日も特になく、そのまま演習組と自習組に分かれた。

 昼休みは小宮を教室に残し、廊下に群がる野次馬をかき分けながら購買に向かった。
 S組は特進コースのため、他の生徒は教室の出入が禁止されており、教室に乗り込んでくる者はいない。ただ、どちらかというと、野次馬の顔を見る限り、教室中にあふれた制作物の禍々しさで敬遠されているようだった。
 そもそも彼らは、風明館という幽霊屋敷に住む変人たちと、普段はS組を揶揄しているのだ。とはいえ、文武両道を掲げている校風なのもあり、文化祭をやるからには、片手間でやらない、といったS組の気概は相当なものである。
「井戸が二個って、俺らなにしてた?」
「遊びまくってた」
 頭を抱える寮長に、都が至極当然に答えた。他の班は衣装もほとんど出来上がっていて試着をしたり、実際に風明館に飾ってみて、色の微調整をしたりなど、制作物の最終調整に入っている。
 文化祭は明後日に迫った。寮長は焦る様子に反して、井戸の苔を描き足すのか、絵具をパレットに絞り出す。井戸の完成度は高いが、井戸は二つも並べるものではない。
「このフリルは誰が付けたよ、昨日まであった?」
 井戸にはツタのようにフリルが這っていて、寮長は、なぜ? という顔で指さす。
「俺。使い道がなかったなと、反省を込めて」
「設計者が付けたならいいか」
 寮長は菅崎の返事を受け流した。菅崎の奇行に付き合う時間は残されていないのだ。
 昼休み返上で購買のパンを片手に、井戸担当の寮長以外は、衣装の制作に入った。
「伊月、ここ来て」
 伊月は、ぼうっとしながら、菅崎に呼ばれるがまま横に立つと、学ランの上から、腕、胴脚と、ラップを巻かれ始めた。
「ネットでこうやって服を作る人がいてさ、やってみたいんだよ」
 菅崎は手を動かす。伊月は、なにか言いたげに口を開きかけたが、じっとしているだけでいいという状況に、寝不足の体を菅崎に預けた。
 スマホをいじっていた小宮は、落ち武者ヘルメットを作ろう、となにかにインスピレーションを受けたように立ち上がり、服は任せとけ、と菅崎がラップを見せた。
「都も衣装を作れよー」
 寮長は、苔を描き続けながら声をかけるが、品が無いものは作りたくない、今日も小宮の顔面キャンバスがいい、と都は全くやる気を見せず、小宮に顔を貸せと言いながら、机に伏せている。
「トイレに行くのさえ大変なんだよ……」
 小宮は勘弁してくれ、といった様子で、廊下側の窓から見える人だかりを、そっと指さした。
クラスの男たちも、毎日セーラー服でいてくれ、と代わり代わりに小宮を囃し立て、お菓子やジュースを置いていく。伊月たちが材料を置いていた教卓は、小宮の祭壇のようになっていた。
 小宮も、俺の顔がいいばかりに……と最初こそふざけていたが、今では声にさえ疲労感が滲み出ている。
「伊月が追い払ってこいよ。都に次いで不良予備軍だろ」
「都が行けばいい」
「下の名前で呼ぶな」
 伊月は、微塵も取り合わない都を無視して、今の俺の状況を分かって、わざと言っているだろと、口だけ出した状態でラップを顔にまで巻かれながら、菅崎に悪態を続けた。
「うお!」
 伊月が突然、大きく動いたため、菅崎が声を上げた。
 唐突だった。体の内側から、鳥肌が広がるような感覚を覚え、伊月は力任せに顔のラップを剥ぎ取る。
 なにか、近づいてくる。
 遠くからでも気配が分かるのは、小宮のときでさえ久しぶりで、そんなに頻発することではない。次から次へとなにが起きている――それに、やはり自分の体質はそのままだったか。
「どけ」
 ドスの効いた声がして、教室のざわつき方が変わる。だらしない足音を響かせながら、数人がS組の教室に入ってきた。同時に、異常な重たさの気も存在感を増し、伊月は立っていられず、椅子の背もたれを掴んだ。
「まじの不良が来たわ」
 菅崎は面倒そうにこぼしながら、ふらついている伊月を支えて椅子に座らせる。躊躇いなく、伊月の体に巻いたラップを切った。都を殴ってたやつだ、と小宮がこぼす。
「お前が噂の女装転校生?」
 一番、体躯いい男が小宮を舐めるように見て、取り巻きの不良たちは嫌な笑いを上げる。取り巻きの中には、腕を吊っている者が二人いて、いかにも喧嘩っ早そうな集団だった。
「あらー、都ちゃんの知り合いなんだー」
「白々しくなんだよ。消えろ」
「俺らとも、昔は仲良くしてたのに、寂しいなー」
「消えろって、言っているだろ」
 今にも掴みかかりそうな都を、落ち着け、と寮長が抱き寄せるように抑えた。
「都ちゃんって名前も、髪型も女みたいなんだから、お前の方が女装、似合ってるんじゃないの?」
「都は都だろ」
 寮長が都を後ろに隠し、前に出る。不良と並んでも寮長の方が大きいが、不良は怯まない。まずいな、と言って、伊月をさすっていた菅崎が手を止め、間に入ろうとした、その時だった。
「おっえ」
 我慢できずに、声が漏れる。まずいのは、こっちもだった。思い切り胃がせり上がり、耐えられない。いい加減、限界だ。そこを、どいてくれ……。
 寮長を押しのけるように、伊月はよろける。主犯格の不良が、都を煽るように覗き込み、姿勢を低くした瞬間だった。マーライオンのようにきれいな弧を描いて、さっき食べていた昼食のイチゴジャムパンがキラキラと口から飛び出し、不良の頭から全身に降り注いだ。
「だめ、もうちょっとでる」
 伊月のえずき、吐しゃ物の音、数秒遅れて状況をのみ込んだ様子の、取り巻きたちが上げる引きつった声。そこをどいてほしいのに、伊月の元昼ご飯に塗れた、主犯格の不良は動かない。
「おっえ」
 第二波だ。今朝、詰め込んだ、風明館の素敵な朝ごはん。のり、わかめ、小さな小槌に入っていたひじきと、消化が上手くできなかったものが出ていった。動かない不良は、第二波もまともに頭から受け、伊月の目の前には、ゾンビのような不良が出来上がる。
「はあ」
 吐いても、吐いても、重たい。こいつ、重い。横に立つ寮長が、伊月の背中をさすった。第三波を覚悟したとき、伊月の前で放心状態の不良の手から、なにかが落ちた。
 小さな白い紙、赤い印――厄除けか――。
 財布に入れるような、小さな厄除けだった。これだ。札の周りに、色まで浮いて見える。ものすごい。気が、強すぎるのだ。胃の中は空っぽなはずなのに、えずきが止まらない。
「すがさき、これどけて」
 菅崎は、伊月の視線をたどり、吐しゃ物に塗れた厄除けを躊躇わず拾った。不良たちを一瞥し、どんだけびびってS組に入って来てんだよ、と菅崎は教室の外へ出ていった。
「まー、これはトラウマだわ。大丈夫か?」
 寮長が雑巾を片手に、動かない不良へ声をかけるが、不良はびくともしない。
「こいつもS組かよ……」
 呆気に取られていた腰巾着の不良たちは、顔を上げた伊月を見るなり、ばつが悪そうに一歩後退る。
「え、知り合い?」
 寮長は不良ではなく、床を掃除しながら伊月に問う。
「しらない」
 小宮と都も手際よく掃除をしてくれていて、床に座って椅子にもたれ掛かったまま、その光景を伊月は呆然と眺める。吐き出した物は、不良がほとんど付けているため、床はあまり汚れていなかった。
「お前ら、まだいんの?」
 菅崎が息を切らして、教室に戻ってきた。
「呪われる前に、帰んなよ」
 星を散らすような胡散臭いウィンクをして、教室の外を指さす。菅崎は見るからに怒っていて、今にも机を投げそうな剣幕さえ漂っていた。
 主犯格が放心状態のため、腰巾着たちは動こうに動けなかったのだろう。廊下に落ちたら拭けと、寮長に雑巾を持たされ、汚れた主犯格を支えながら、意気消沈したように不良たちは教室から出て行った。野次馬たちも同時に黙って引いていく。
「伊月、大丈夫か?」
「むり。きげんわるい」
 伊月はぐったりしたまま、目を座らせる。喉も痛み、上手く声が出ない。菅崎は、機嫌の方かよ。なら、いいな、とほっとしたように笑った。
「綿谷くん……」
 小宮は、はっとした様子で、祭壇に置かれたミネラルウォータ―を取り、ふたを開けた。菅崎に背中をさすられている伊月に、そのまま持たせる。
 伊月が一口飲むと、突然、クラスで拍手が起きた。ありがとう、助かった、持つべきものは、体調不良の綿谷だと囃し立てる。進路が決まっている者、受験を控えている者、そんな受験期の真っただ中に、不良と不祥事を起こせるはずがない。
「綿谷がいなかったら、また謹慎処分になってた」
「よく耐えたな」
 寮長がぽん、と都の頭に手を置くと、都が唇を噛んだので、全員は視線を逸らした。悔しかったのは、都だけじゃない。
「都って、呼ばせてあげてもいい」
 洟をすすりながら生意気に言うので、笑っていいのか分からず、伊月たちは目を合わせていると、またもやクラスで拍手が起きた。
 教室に安堵感が漂う中、伊月は椅子にもたれた上半身を起こそうと、体に力を入れたが、ぺたりと床に張り付いたように、上手く立ち上がれない。不良の神社を選ぶ感覚だけは一流だ。
「運ぶぞー」
 寮長が見かねて伊月の腕を肩に回し、よっとそのまま持ち上げ背中に乗せた。
「流石だな、軽々上がったよ」
 菅崎は貸そうとした手を引いて、よろしくな、と二人を送り出す。立つ気力も無くし、再び保健室に運び込まれようとしている。寮長は一段一段ゆっくりと階段を下りた。
「最近、体調悪いよな?」
「今日は寝不足だった」
 階段の窓からは白い光が差し込み、窓枠の四角い影を床に伸ばしていた。腕と脚はゆらゆらと揺れ、寮長の背中は広くて温かい。
「寮長ってかっこいいな」
 寮長は、穏やかな声で少し笑う。最近の綿谷は、自分の気持ちを伝えてくれるから嬉しいよ、と続けた。
「菅崎が珍しくブチギレてたな」
「うん」
「綿谷に過保護だからなあ」
「それ、なんかいやだな」
「無自覚か?」
 寮長はふざけて背中を揺らした。渡り廊下を抜けると、第二校舎の一階にある保健室が見える。失礼しまーす、と寮長が言って、背中に乗ったまま、伊月が腕を伸ばし、保健室の扉を開けようとするが、びくともしない。
「お、三日ぶりだな」
 養護教諭の梅宮が、扉を開けて二人を迎えた。今日はどうした? と聞くので、寝不足で吐いたと答える。
「綿谷、どっか悪いんですかね?」
 寮長はベッドの方に進み、背中の上で伊月がスリッパをゴトン、と落としたのを確認して、ベッドに寝かせた。説得をするような顔で、梅宮が近づいてくる。
「文化祭が終わったら行きます、病院……」
「分かりました」
 伊月が先手を打つと、仕方がないなといった様子で、梅宮が眉毛を下げた。熱は測っておこうね、と体温計を伊月に差し出すので、重たい腕を必死に伸ばして受け取る。
「今から病院行けよ」
「いや」
 寮長は、風明館で伊月が倒れるように、眠りこけたのを見ている。ベッドの横に立ち、心配そうに食い下がるが、伊月は断固拒否して寮長の話をきかない。
「俺の分も作ってきて」
 寮長は、うーん、と言って頭を掻きながら視線を落とし、伊月が落としただけのスリッパをそろえた。
「時間ないし」
「分かった。しっかり休めよ」
 寮長は、何度も振り返りながら、保健室から出て行った。
 伊月はふう、とため息をつく。体温計が自分の体温に馴染んできて、挟んでいるのを忘れそうだ。保健室の天井以外に目を向けてみると、まだ少し周りが回って見える。
 体温計はすぐに鳴り、梅宮が開けるよー、とカーテンを引く。六度六分だと言いながら体温計を渡すと、しっかりと数値を確認しながら受け取られた。病院行きはぎりぎりのところで、阻止できたようだ。
「なにかあったら、声をかけてね」
 梅宮は優しくカーテを閉めた。窓から見える太陽はまだ高い位置にあり、世界の色味は少し白を多く含んだように広がっている。
 目をつむると、ぼんやりした頭の中を、嵐のような昼休みが走馬灯のように駆け抜けていく。吐いてお礼を言われることがあるとは、と自然に口角が上がる話ではあるが、小宮の顔も一緒によぎり、伊月は重たい腕を上げ、顔を両手で覆った。
 一人になると、途端に情緒がねじれる。
 小宮を守りたい。守れない。小宮が抱えているものに、気づかなければよかった――でも、俺だから気づけた。小宮が転校してきた十一月の頭から、明日でまだ二週間だ。信じられないほど、毎日が目まぐるしく、濃く、もっと時間が経っているような気がする。
 小宮の異変はいつからだ、とずっと考えていた。
――強いよね、二人って。他人に興味ないところ、一人でも生きていけそうな強さがある、みたいな。
 自習室で小宮が、伊月と都に言った言葉を思い出す。深読みすれば、小宮が一人で生きていけないといった、悲哀の言葉とも受け取れた。あのとき、深入りされたくなさそうだ、と小宮のせいにして、小宮の暗がりに、気づいていないふりをした。自分にできることは無いと卑下して、伊月は逃げたのだ。
 コンビニで疲れた、と座り込む小宮を、引っ張り上げたとき、あまりにも軽く持ち上がった。二人で階段から落ちたとき、もっと体重があったような気がしたからだ。食事をちゃんと摂っているのも知っている。なのに、たった二週で体重があんなに減るのか。
 小宮を見て、美しいと思った。どちらかといえば、凛々しいと言葉が似合うのに。
 都合のいいように違和感を無視して、言葉通りに小宮を利用した。利己的で自分のことしか考えていない。思い通りにいかない世界だからと、我儘に死にたいと叫んでいるだけだ。結局、自分がいちばんかわいいのだ。
 伊月は声を殺して泣く。こんな自分が生きながらえて、小宮が死ぬだなんて、それこそ世界が狂っている。
 女の気は、はじめからあった。転校してきたときから、あったのだ。

 泣き疲れたのと寝不足も相まって、いつの間にか眠っていた。オレンジに染まるカーテンと、窓の外で細い雲を流している空へ目を向ける。この景色は、前にも見た。体はまだ重い――そして、物理的にも重い。抱き枕にされているこの感覚にも身に覚えがあった。
 横で聞こえる、心地よさそうな人の寝息。
 左を向いて、自分の体に埋められている小宮の顔を確認した。オレンジに染まった小宮の髪は、前と同じように光を反射させた。時計の針が動く音と、小宮の寝息しか聞こえない。
 伊月は小宮の頭に手を乗せて、目を閉じる。風の吹いていない穏やかな海の上に、ぷかりと浮いているようだ。小宮の纏う気のもっと奥にあるものは、太陽のような輝きよりも、凪いだ海に近い。
 保健室のドアが開く音で、目を開けた。
「そろそろ下校時間になるよー」
 カーテンの隙間から、いいかい、と言って、梅宮が覗く。ぼんやりとした伊月に、小宮が抱き着いて、気持ちよさそうに寝息を立てているのだ。
「もー、君らは、小学生じゃないんだから」
 梅宮はくつくつと笑い、伊月の顔を見て、顔色がよくなったね、と続けた。
「小宮は隣のベッド使いなさいって言っただろー、起きなさーい」
「一回寝るとなかなか起きません」
「じゃあ綿谷に任せていいかい?」
 梅宮は、少し考える様子を見せた後、悪いけど今日は、家庭科部の活動日なんだよね、文化祭の最終確認なんだ、と続け、頷いた伊月を確認すると、足早に出ていった。
 保健室がしんと静かになる。下校する生徒たちの声も遠く、二人は取り残されたように横たわった。
「小宮」
 軽く小宮の肩を揺する。
「んー」
「小宮、起きて」
 返事はするものの、前と同じように全く起きない。
 伊月は上半身を起こすと、はっとして、小宮の顔を覗き込んだ。目元のクマが前よりもひどくなっている。昨日今日の疲れが蓄積したようなものではなく、青黒いあざに近い――どうして、午前中に気づかなかった。
 小宮の目元をよく見ると、肌がひび割れているような筋ができている。軽く指で拭うと、カサついた肌色の粉が取れた。菅崎の言っていた、肌色を肌に塗るメイクだろうか。
 小宮も一人で抱えざるを得ないのか、隠したいことなのか。小宮は、誰に対しても、なにに対しても一生懸命で、優しくて、人に囲まれるような人間だ。小宮が声を上げれば、助けてくれる人は、ごまんといるだろう。
 お前のおかげで、救われている人がたくさんいる。笑顔の後ろに、上手く隠すだなんて、らしくないだろ。
――ちゃんと、いやなことはおしえてね
 俺に、教えてくれないのは不平等だ。ちがう、俺が、小宮から逃げていたからだ。高校三年生の十一月に転校してきた生徒に、誰も踏み込まなかった。今も、伊月は小宮をほとんど知らない。でも、知っていることだって増えた。
 小宮のおかげで、一生忘れられない思い出ができた。俺はまだ、変われるだろうか。小宮の寝顔に、伊月の影が落ちる。こんなにぼろぼろになってもなお、小宮は誰も頼れず、名前を呼んでくれる母も、もうこの世にはいないのだ。
「――昂」
 小宮の瞼がぴくっとする。
「昂、起きろ」
「――わたやくん」
 小宮は眠たそうに、むにゃむにゃ口を動かした。
「いきてる?」
「生きてるよ」
 へらっと笑って、また顔を埋めてくる。小宮は以前も『おはよう』ではなく、生きているか問う。こうやってベッドに潜り込むのに、理由があったとしたら、人が温かいことを、生きていることを、確かめるためだったとしたら――。
 布団に涙が落ちて、伊月は急いで目元を拭った。そして、思い切り自分の頬を両手で叩たたく。口の中に血の味が広がった。痛かった――でも、確かに自分が生きている証拠だ。生きていれば、変われるときが来る。みんなに、小宮に、教えてもらったことだ。
「おお、タイミングぴったり」
 起きない小宮を背負って、保健室の扉を足で開けると、菅崎が目の前に立っていた。伊月と小宮の荷物も提げている。
「大丈夫か、二人とも」
 伊月の背中で、小宮がふあーとあくびをした。
「起きた?」
 小宮は、んー、と声を漏らすと、伊月の頭の上に顎を乗せて、器用にまた眠る。
「本当に起きないな」
「だろ」
「わるぐちだ」
「あ、起きた」
 小宮は、もう少し寝かせて、と嬉しそうに脚をぶらぶらさせた。伊月の後を追うように、小宮もしんどいと言って保健室に向かった、と菅崎が話す。
「あの厄除けどこに置いた?」
 あれだけ気が強かったのだ。小宮自身が纏う気も大きいが、母親の気とは反発するはず。
「適材適所にな。場所言う?」
 菅崎が投げやり気味に答え、いや、いい、と伊月も改めて断った。害にならない距離であることは感じていたし、明確な場所を聞くと意識が釣られてしまいよくない。
「よー、体調どう?」
 昇降口で菅崎が小宮の靴を取り出しているとき、寮長と合流した。後ろから、都も材料が入った袋を提げて歩いてくる。
「察しの通り、夜なべ仕事だ」
 寮長は、小宮から三人が引き継いだのであろう、落ち武者ヘルメット二つと段ボールを見せる。
「今晩、何時までするの?」
「体力が続く限りだよ」
「根性論きらい」
「俺も」
 顔をゆがめる都と伊月を見て寮長は、菅崎は味方だから、と自信ありげに答えるが、言ってねえよ、と菅崎は寮長の尻を蹴り、じゃれ始める始末だ。
 伊月たちは、昇降口から約一分半、正門から二十五歩の帰り道を進む。今にも雨が降りそうなほど厚い雲が空覆い、外はもう薄暗い。風明館から明かりが漏れ、手招きするように彼らを迎え入れた。

 夕飯の後、誰の部屋に集まるのかと、食堂で部屋決めをしているが難航した。都の部屋は、画材をこれ以上どけられない、と寮長が他の面々を見回す。
「お、俺の部屋はだめ!」
 小宮が食堂のテーブルに顔を隠して伏せた。
「はて、どうしてだい?」
「嫌がってんだから、やめろ」
 小宮の肩を揺する寮長の手を伊月が剥がす。じゃあ綿谷の部屋は……と言いかけ、伊月が目を細めるので、ですよね、と寮長は引き下がる。
「じゃあー、俺の部屋か。ごめんけど、まずは掃除からだな」
「臭いそうだから嫌」
 都は寮長に容赦がない。
 最後の砦である菅崎に、全員の視線が集まった。
「まあ、そうなるよな」
 菅崎は少し考えたような顔をしたが、なにも言わなかった。
「小宮」
 それぞれが食堂で解散する中、伊月が声をかけた。
「平気か?」
「超元気」
 小宮は振り向いて、にこっと笑った。あざのようになっていたクマがきれいに消えている。しっかり夕飯も取っていた。この不自然さが、伊月の予感をより裏付ける。
「楽しいね、文化祭楽しみ」
 伊月は黙って頷いた。聞きたいことは、山ほどある――でも、文化祭が終わるまで待とう。あと二日だ。軽やかに階段を上っていく小宮を見上げ、固く手を握りしめた。

 風呂を済ませて、増築側の三階にある菅崎の部屋に向かうと、招かれるようにドアが開け放たれていた。小宮と都が入ろうとはせず、並んで部屋の中を覗いており、理由に気づいた伊月も、逃避するかのように意識が天井に向く。
「同室のときは、ここまでじゃなかった」
 参考書やプリントが積み上げられていて、ドア付近は横を向かないと通れない。部屋の奥から、手招きをする菅崎が恐ろしい。
「どうした?」
 寮長が菅崎のベッドの上から、くつろいだ様子でこちらを覗く。玄関に並んでいた二人が、伊月の背中を押すので、ぞろぞろと部屋の奥に進んだ。物が置かれていないのは、見事に天井だけで、落ち武者ヘルメットも狭狭しく寮長の隣に置かれている。
「人間、完璧すぎると面白味が減るからな」
 菅崎は足を組んで勉強椅子に座ったまま、絶句して立ち尽くす三人に微笑んだ。
「ゴミ屋敷」
 都が漏らすと、小宮が慌てて、わー! と被さるように叫ぶ。
「じ、実は宝の山だったり?」
「お? 床に積んでたり、落ちてるものは使っていいぞ」
「全部じゃん」
 都は呆れた声を出した。残りの材料は段ボール四枚と絵具、大量のコスメ、そして、作りかけの落ち武者ヘルメット二つけだ。寮長がよし、と意を決したように立ち上がって、部屋から出ていくと、大量のゴミ袋と紙紐を持って帰って来た。
「まずは、材料集めだな!」
 掃除である。
「やったー!」
 菅崎は声を上げて喜ぶが、してやられた、というわけだった。伊月たちは寮長からゴミ袋を受け取り、まずは各々の足で踏んでいる、紙くずを拾うことから始めた。
「暗記した箇所を破るイプ?」
 机の右横に山となっている紙くずを、都がゴミ袋に詰めながら菅崎に聞く。紙の山はよく見ると、英単語帳や一問一答の問題集が破られてできていた。菅崎は頷いて、その方が効率いいからなー、と机に積まれたプリントの山を選別していく。
「参考書まで破ってる!」
「嘘だろ……菅崎の自信がすごいな」
 ベッドの足元で、伊月と紙くずを拾っている小宮が声を上げ、寮長も感心した様子で苦笑いをする。菅崎の部屋は不衛生というより、古紙があふれている状況だった。歩く度にカサカサと紙くずが音を立て、壁一面に参考書やプリントが積まれている。
「まるでハムスターの小屋だね」
「ハムスターだって」
「ハム崎」
「三人とも追い出すぞ」
「俺の部屋来る?」
 寮長以外の全員が、いい、と声を合わせた。菅崎の部屋で先に平然とくつろいでいたのだ。寮長の部屋の惨状も簡単に想像がついた。伊月たちは黙々と紙くずをゴミ袋に詰め、積まれている参考書や教科書を紙紐で縛った。
「わー、懐かしい!」
 小宮が教科書を拾い上げ、声を大きくする。中等部で使っていた理科の教科書だ。
「綿谷伊月って書いてある!」
「どうして、菅崎の部屋にあるんだよ……」
「過去のかわいい伊月から、プレゼントかな?」
 無くしたことさえ記憶にない。捨てるぞ、と伊月は、小宮から教科書を受け取り、縛る冊子と重ねた。
「そういえば、どっかに卒アルもあるかも」
「まじ! 見たい!」
「見たい、見たい!」
 寮長と小宮は目を輝かせ、紙くず集めを止めた。二人は外壁のように積まれている、ドアの付近の冊子を見上げ、協力しながら手際よく縛っていく。
「そんなに見たいもの?」
 都が不思議そうな声を出したが、二人には聞こえていない。
 縛られた冊子と膨らんだゴミ袋が、次々と廊下に出される。作業から一時間足らずで、作業ができるスペースがある程度できた。使えそうな厚紙や文房具も多く発掘されたが、卒業アルバムだけが見つからない。
「お客さん、来てくれるかなあ」
 小宮が、疲れた様子で床に座り込んだ。そもそも風明館は、校舎から少し離れている。
「客寄せパンダが、欲しいところではあるな」
「かわいいパンダの仮装なら作りたい!」
 寮長の声に振り向き、次に目を輝かせたのは都だった。
「小宮に着せたい!」
「もう俺、目立つこと嫌なんだけど……」
「出てきた卒アルは、小宮にやろう」
「え!」
「生写真を売りさばかれるぞ」
 伊月が目ざとく指摘すると、菅崎はインスタントカメラを机の引き出しから取り出して、流石、名探偵伊月くん、と言って見せる。去年の文化祭で、菅崎がメイド服を着た自分の生写真を売り、三万儲けた、と自慢してきたのを伊月は覚えていた。
「灯台下暗しも甚だしいな……」
 寮長も賛成といった様子だ。小宮は、えー、とひとりでに声を出し、天井を見上げたが、突如ひらめいたように菅崎を見た。
「綿谷くんって、初等部の卒アルにも載ってる?」
「おう。だから中等部のも合わせて二冊ともやる」
「協力しましょう」
 即答だった。小宮は息を吹き返したように、はつらつとする。寮長が、決定だな、と言って、菅崎も嬉しそうに手を揉んだ。
「あくまでも小宮のビジュアルを活かせるものにしよ」
 都はペンを持ってデザインを考え始めると、露出が激しいのはやめてよ、寒いんだからね! あとボディーラインが分かるのも絶対だめ、恥ずかしいから! と、小宮は細かく注文をつける。
 突然、寮長のポケットからスマホのアラームが鳴った。
「二十時五十分か」
 寮長は、点呼の前に捨てに行こう、と親指を廊下に向ける。開けられたままのドアからは、大量のごみが見えた。

「すごいな、俺の部屋が片付いたよ」
 菅崎が目を丸くして、部屋を見渡す。ゴミ袋が二十個を超えてから、数えるのを止めたが、使えそうな材料もしっかりとそろった。卒業アルバムも二冊とも無事に見つかり、小宮は中等部のアルバムを前金として、菅崎から受け取っている。
「疲れたー」
 都が菅崎のベッドに倒れ込むと、休憩しようぜー、と言って、自分の部屋に戻っていた寮長が、買い物袋を持って部屋に入ってきた。袋からお菓子とジュースを取り出し、床に紙コップを六個並べる。伊月は黙ってベッドの横に座り、それを見ていた。
「うわー、寮長神かよー」
 小宮が嬉しそうな声を上げ、一つ多い紙コップを袋の中に戻す。
「材料費も割ってないよな?」
 菅崎が思い出したように言うと、おー、そういえば、と寮長は気にした様子もなく、オレンジジュースを注いでいく。日々の目まぐるしさに、全員が忘れていたのだ。
「レシート、渡されてた!」
 都が、はっとしてベッドから起き上がる。無くせないからと、寮長が会計のときに、都へ預けていたらしい。それぞれが部屋に財布を取りに行って、人数分で割った材料費を寮長に納める。これはおごり、と寮長は、お菓子代は受け取らなかった。
「乾杯」
 寮長の声で全員はジュースを掲げ、口を付ける。すっきりとした甘さが喉を潤し、ごくごくと飲んだ。
「ありがとう、寮長」
 小宮が、飲み干した紙コップを両手で握り、顔を上げる。
「みんなも、ありがとう。転校した先が平瀬台でよかったなあ」
「寮長ひいては、元生徒会長の冥利に尽きるね」
 澄ました顔の寮長に、何個、体があるんだよ、と都は目線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに言う。
「楽しい思い出は、きっとこれからのお守りになる」
 寮長は笑顔を浮かべながら、都の髪をわしゃっと撫でた。
「十年後、俺らが二十八歳のとき、どんな感じになってるんだろうな」
「フェルメールを超える画家」
「IT業界の高給取り」
「製薬開発者かな」
「俺は小学校の先生だろー」
 全員の視線が伊月に注がれた。
「小説家?」
 寮長が、黙っている伊月をまじまじと見て言うと、菅崎がめちゃくちゃいいじゃん、と期待の目を向けてくる。伊月はため息をつきながら、スマホの時間を見せた。時刻は二十三時を回っている。
「作るぞ、パンダ」
「デザインはこんな感じ」
 伊月の一言を聞いた途端、都が待ってました、と言わんばかりの勢いで、さっきからなにやら書いていた紙を全員に見せる。
「やっぱり、もこもこした半ズボンはマストだと思う」
「俺の話聞いてた? 寒いよ?」
 反論する小宮に、最後まで聞いて、と都が制止する。
「トップスはバルーンスリーブにして、全体的に丸みを帯びたデザインがかわいいと思うんだ。靴は道化師みたいに、少し大きめだとポップ感が増していいかな。あ、もちろん、耳としっぽは付けるよ、分かってるだろうけど、念のため。これに関しては拒否権なしね」
 都は一息に言い、オレンジジュースを飲んだ。
「で、小宮なんだって?」
「もう、好きにしてくれ……」
「あ! 紙でフリルを作ったらかわいいかも。部屋から使えそうな材料を追加で持ってくるから、みんなで小宮の体の型をラップとガムテープで取っといて。服の上から、きもち大きめでいいよ」
 都が部屋を後にして、ドアの閉まる音がした。
「すごいな」
「よし! やるか」
「いや、都の激変についてコメントしろよ」
 なにごともなくラップを手にした寮長を、菅崎が止めた。
「都は毎晩、筆を片手にあんな感じだぞ。俺は慣れたから、そんな中で爆睡してる」
「まだ都の部屋で寝泊まりしてんのかよ」
 菅崎は、どうしようもないな、といった顔で、今晩からは自分の部屋に戻って寝ろ、と釘を刺した。

 おおー、と小宮と都を中心にクラスで称賛の声が上がる。夜な夜な制作をした甲斐もあり、小宮の客寄せパンダ衣装は、金曜日の下校時間を間近にしてほぼ完成した。他の班も明日の文化祭に向けて、小道具の設置は既に完了しており、教室はほとんどいつも通りに片付いている。
「絶対領域……太ももほっそいな……」
「セクハラすんな」
 小宮を見つめた村上が目を手で覆い、都がすかさず睨んだ。短いバルーンパンツとレッグカバーの隙間から、小宮の太ももが、少しだけ見えるデザインになっている。
 都が昨晩、デザインを起こしたままの衣装がその通りに出来上がっていて、丸い耳としっぽはもちろん、袖もかわいらしくバルーンのように膨らむ。黄色がメインカラーに使われていて、小宮によく似合っている、とクラスからの評価も高い。
「もう、着替えていい?」
「少し裾の型紙、補強させて」
 都が衣装の最終調整しているのを、伊月たちの班は満足そうに眺める。
「これで客寄せも完璧だな!」
 寝不足で顔色が悪い寮長も、誇らしそうに腕を組んだ。紙と型紙、ビニール袋、ラップなどの材料から出来ているとは思えない。二つあった落ち武者ヘルメットも解体され、パンダ衣装の一部となった。
「みんなの衣装は?」
「まだ、慌てるような時間じゃない」
 脚を組んで座っている菅崎が、落ち着かせるように手を上げる。なあ? と続けて、机に伏せている伊月の肩に腕を置いた。
 伊月は伏せたまま、特に反応せずやり過ごす。自分と変わらない身長なのに、小宮の方が細く見えた。口を開くと、小宮を問いただしてしまいそうで、ぐっと奥歯に力を入れる。元々、小宮はしっかりとした体つきではないはずだと言い聞かせた。
 明日で文化祭が終わる。それまで、小宮を信じると決めたんだ。文化祭の思い出一つ、小宮からなにも奪いたくない。
 都に衣装を調整されながら、クラスメイトに囲まれて笑っている小宮の声に、伊月は黙って耳を澄ませる。頭の中で、大丈夫だ。まだ間に合うと、何度も繰り返した。

「座敷童って紙でも、首からぶら下げとけばいいよ」
 菅崎の部屋のベッドに横になって、都があくびをしながら言った。
「流石になあ」
 寮長が五羽目のツルを折り終え、ベッドの隅に並べた。菅崎の部屋には、ノートの背表紙などの厚紙と、念のために残した紙くずが一袋残っていて、手持ち無沙汰に寮長と小宮が紙くずで折り紙をしている。
「一九〇センチの座敷童か……」
 小宮が我慢ならない様子で、口角を上げながら漏らすと、都も釣られて笑った。
「今日で準備も最後かー。一週間、長いようで早かったなー」
「終わってないけどな」
 菅崎は寮長に返答しつつ、厚紙に座敷童一、座敷童二、座敷童三、座敷童四、と書いて、小宮以外に渡す。
「ガムテープで貼っとけ。今にて、終了です」
 全員が口々に、お疲れ様でしたー、と言って、残っていたジュースやお菓子を開けて囲んだ。伊月も目をこすりながらも、自室に帰らず、なんとなく菅崎の部屋に留まっている。
「綿谷くん、あげる」
 小宮が、伊月の腕に折り紙を置いた。丁寧に顔まで書かれた犬の折り紙で、置かれた場所からだんだんと熱が広がっていく。小宮の体の一部ではなくとも、小宮が楽しいと思いながら折ったのか、気がこもっていて心地よい。
「昨日から、あんま喋んないね」
「寝不足だから」
 伊月は小宮の顔を見ないまま、短く答えた。
 目を覚ますと、部屋が青く早い朝の色に包まれていた。いつの間にか菅崎の部屋で眠っていて、足元には寮長が丸まっている。固まった体を床からゆっくり起こすと、菅崎のベッドを占領した都が見えた。
「どした……」
 伊月が動いたので、隣で眠っていた菅崎も目を覚ます。
「小宮は?」
「夜中に、部屋に戻ったっぽい」
 スマホを確認すると、画面に五時と表示され、そのまま充電が落ちた。眠気が思考を阻止するように、再び伊月は横になった。