小宮が転校してきてから一週間が経った。
小宮とはそのまま疎遠になるかと思いきや、翌朝、小宮が豹変したのだ。
「ここ、凝ってる気がする」
伊月が倒れたり、めまいを起こしたりした理由を、伊月の不健康が原因だと小宮は解釈したのか、毎朝、伊月を捕まえては、体のあちこちを揉みほぐしている。
小宮が連日に渡り、あまりにも真剣な顔でしつこく施術に挑んでくるので、伊月は三日で観念し受け入れた。
唾液の件以降、小宮からなにも得てはいないが、伊月の慢性的な倦怠感や疲労感はごっそりと改善されている。唾液で耐性が付いたのか、卒倒のような急激な眠気に襲われるのも、初日以降なく、肌に直接触れられても問題なかった。
登校してHRが始まる前と、一限が始まる前の時間以外、小宮が伊月に付きまとうことは無かったため不便もない。
「俺もやってあげようか?」
伊月は、手を伸ばしてくる寮長を一瞥で制した。
「俺はだめなのかよー! 顔か、小宮は顔がいいからか!」
「うるさい」
「小宮のワンボちゃん加減は、伊月でも振り切れないのな」
「ワンボって?」
寮長が、菅崎の発言にポカンとすると、菅崎は足を組んだ体勢で、犬、と答える。
「綿谷くん、朝ごはんを食べようよ」
「それ、俺は一年の頃から言ってる」
寮長は続けて、諦めた方がいい、と小宮を諭した。
伊月は黙って目を閉じたまま、必要以上に口を挟まない。一つ面倒になったのが、クラスの視線だった。小宮が目立つのもあるが、クラスとあからさまに距離を取っていた伊月が、人の輪に居るのが単純に異質に見えて、好奇心を煽るのだろう。
できるだけ目立たず、やり過ごしてきた予防線がほころぶのが怖い。どんなまなざしや雑念を向けられようとも、小宮がそばにいる限り体が極端に疲弊することはないが、体質を隠すために試行錯誤してきた伊月の行動が、悪目立ちするのは避けられない。
「来週から文化祭週間だけど、参加するよね?」
「無視すんなよ」
小宮に肩をも揉まれながら、顔を覗き込まれても動じない伊月を見て、菅崎が呆れ声を出す。
「思い出作ろうぜ」
寮長は、菅崎の横の席に勝手に座り、歯を見せてにかっと笑いながら親指を立てた。小宮を挟んで、菅崎や寮長が伊月に絡むのも、今までと比べ相当増えている。
「最悪、部屋に立てこもるし……」
「綿谷、それは無理だぞ?」
寮長はなぜかはっきりと答えた。
「いやだよー!」
小宮が勢いでぐっと指に力を入れて肩のツボを押すので、耐え切れず、うっ、と声を漏らして机に倒れる。されるがままの伊月を見て、菅崎がくつくつ笑った。
「分かったよ」
伊月は伏せたまま、顔を横に向けて言う。
「参加する」
「ほんと!」
小宮の気が文字のごとく発光して、教室内にやや垂れ込んでいた気を一掃した。菅崎と寮長はよくやった、と小宮の頭をわしわしと撫でる。
そんなに三人が喜ぶことなのか、と他人事のように、伊月は目を細めながら眺めた。
風明館でお化け屋敷をするなど状況としては最悪だ。風明館が古い建物なだけでなく、平瀬台の土地柄的にも気が溜まりやすい。戦時中、軍事施設があったため田舎にもかかわらず、ひどい空襲を経験した土地なのだ。
特に人の恐怖は膨張してたちが悪い――部屋にこもったとして、自分の体がどうなるか。小宮の隣にいた方が、幾分か安全な気がしている。
「楽しみー」
小宮は、一限で使う過去問を机に出しながら、席に座って笑顔を向けてくる。
すべてを持ち得ている――一週間、小宮を眺めた感想だった。転校初日に見せた笑顔は、社交辞令ではなく、小宮そのものがよく笑う人間らしい。
転校してきたばかりとは思えないほど、小宮を中心にしてクラスに笑いが広がっていく。おかげで、ひどく体が軽いのが当たり前になりつつあった。
人は欲深いもので、それに慣れると想像しまうのだ。こんな体じゃなかったら、世界はどんなふうに見えるのか。愛されるとはどういうことなのかと。
穴に落ちたまま見上げるように、小宮に救いを求めてしまっている自分を、伊月はなんとなく感じていた。
「今日から一週間の文化祭準備は、無理に参加しなくてオッケー。自習室で勉強してください。以上」
迚野が、月曜朝のHRを締めくくり、黒板の横にある教員用のデスクに移動すると、ここからは俺が、と寮長が教卓の前へ出てくる。
「お前らー! 最後の青春ぶちかますぞー! ひよってんじゃねーぞ!」
「どこの運動部だよ」
菅崎が脚を組み直しながら、独り言ちて肩を揺らす。黒板に豪快な文字で[風明館お化け屋敷(仮)]と書かれると、しゃーねーな、付き合ってやるよー、と賛同があがったり、ネーミングに自信の無さが出てんぞー、さっきの威勢はどうしたー、と野次も混じったりと、祭りのようにクラスは湧き立つ。
「えっとー、まずはグループ分けしてから担当エリアを決めていこう。好きに五人グループになってー」
「みんなやんの?」
狼狽えるように迚野が椅子から立ち上がった。伊月は、名前と顔が一致しないクラスメイトの声に耳を傾けるのを早々に止めて、窓の外を見ていたが、迚野の方へ顔を向けた。
「菅崎もまだ、二次試験控えてんだぞ」
「余裕でーす」
「一人ぐらい、受験に備えるまともな生徒はいない?」
迚野の声は、班を作るために教室中がガタガタと机を押しながら動く音でかき消された。風明館の件もあり、建前で催しを許可したが、こうなるとは予想していなかったのだろう。一方で伊月もグループ分けという難関に苛まれたが、幸いにも小宮が動かなかった。組んでくれる? と小宮に声をかけられ、伊月はこくんと頷く。
「俺と中本入れて、あと一人だなー」
菅崎が当たり前のように振り向いて言ったあと、教室を見渡した。伊月も釣られて同じように視線を泳がすと、自分たちの班以外に微動だにしない生徒が、寮長が立つ教卓の前の席に座っている。肩まで付きそうなほど髪を伸ばしていて、個性的ではあるが、伊月はやはり名前が分からなかった。
「相浦都はー! 俺らの班なー!」
見かねたように寮長の声が飛んでくる。教室の窓側で固まっている伊月たちに、お前らがこっちに来い、と呼ぶので教卓の方へぞろぞろ移動した。
「クラス一緒だったんだ! 怪我はもう大丈夫?」
小宮は思い出したように声を上げ、続けて小宮昂です、と慌てて名乗った。
「この前は、ありがとう」
都は不自然に目を泳がせて、ぼぞぼぞと声を出した。まだうっすらと顔にあざが残っていて、前髪の隙間からは絆創膏が覗いている。
「謹慎処分明けの、しゃばの空気はどうや?」
寮長の発言に表情を硬くした都を見て、菅崎が無視してもいいからな、みんなしてるから、と付け加えた。
「よろしくな、都」
「下の名前で突然呼ぶな」
「案外、直球だな。いいね」
寮長に容赦がなかった都を見て、菅崎が嬉しそうな声を出す。
「都って名前、響きが綺麗だからいいじゃん?」
寮長はお構いなしに続けて、小宮もたしかに綺麗な名前だね、と同意して微笑む。
「みやこ……」
伊月は不意に声に出してしまい、都にキッとした表情を向けられる。
「俺このとさえ、謙真って呼んだことないのに……」
「俺も昂って呼んでほしい!」
「謙真って呼んでごらん? ほら、伊月! 伊月ー!」
迫ってくる菅崎を、伊月は、近いって、今それどころじゃない、といなしながら、みやこ、みやこと真剣に暗唱する。
「名前、覚えるの苦手なんだよ」
睨み続けてくる都に、伊月はぶっきらぼうに答える。小宮の名前をすんなり覚えられたのは、気に対する衝撃が強すぎたので稀有な成功事例だった。
「変人しか居ないの、この班」
「仲良くしような!」
寮長は満面の笑みで、不安そうな都に応えた。
一限目もそのまま文化祭準備が続く。風明館を六つにエリア分けして、それぞれ班を割り当てた。伊月たちの班は寮長がいるのもあって、旧建物側の階段が朽ちている箇所を含んだエリアだ。別に仰々しい装飾をしなくとも、旧建物側はお化け屋敷も同然である。
「自室の装飾は、各自で行ってくださーい」
意図がくみ取れていない様子のクラスメイトに、寮長は朗らかに続ける。
「余すところなく部屋も使ってあげないと、風明館に悪いだろ」
予想通り口火を切って大ブーイングが起きたため、伊月は開きかけた口を閉じた。
「はい、次から発言する前に挙手してください、早川どうぞ」
「まだ受験生もいるんだぞー!」
「今日までに受かっていない人が悪いですね」
「それでも教育学部が第一志望か、独裁者ー!」
寮長はここぞとばかりに、寮長特権で所持しているマスターキーを見せびらかす始末だ。鍵は特殊な構造になっていて、どの部屋も自由に開けられるのを寮生は知っていた。
「ボディビルコンテストみたいだな」
菅崎は他人事のように笑いながら振り向いてくるが、伊月はともかく、小宮の表情も硬かった。収拾がつかないのを見かねてか、座って眺めていた迚野が動く。やっとかと思い、伊月は半ば呆れつつ担任を目で追った。
「このように、権力や理不尽に抗うことは、社会の縮図ですが」
寮長の隣に立った迚野は、もったいぶった様子で一拍置いた。
「マスターキーは先生たちが持っているのを合わせると、六本あります!」
「はい、亀の飼い主である村上どうぞ!」
「どうなってんだよ、風明館の管理は!」
「大人がもしものときに、君たちの命を守るためです! 決して、代々の寮監の先生が鍵を無くしては見つけてを繰り返した歴戦の証ではない!」
ただ、面白くなって前に出てきただけであろう迚野に対し、菅崎が、くはは、うわーと笑いすぎて椅子から落ちた。そのまま這うように立ったかと思うと、お前ら聞けー! と叫び、菅崎も教卓に立つ始末だ。
「菅崎ってあんなだっけ?」
「綿谷くんの方が、付き合い長いでしょう……」
二人は目を細めて菅崎を見た。結論によっては本気で抗議しないといけない。ブーイングの飛び交う教室を眺めて、菅崎はなにか言ったように口を動かしたが、聞き取れなかった。
「文化祭は、他校の女子も来ます」
菅崎は二回目発言で教室を黙らせる。息を飲むような沈黙の中、小宮があまりにも怪訝そうな顔を向けてくるので、伊月は思わず笑いそうになったが、ぐっと堪えて同じように険しい表情を返す。伊月にとっても、笑っていられるような状況ではないのだ。
「男くさい三年間の学園生活に、ご褒美といったわけですよ」
意図をくみ取ったクラスの大半が、うおー! と沸き立ち、独特な一体感を生む。合法的に女子を部屋に招待できて、合法的に女子とコミュケーションが取れるといった具体だった。
「でっけえ悲鳴を、女子からいただこうぜ!」
クラスの反応で答えは出たも同然である。[風明館お化け屋敷計画(仮)]の横に[合法的に女子高校生を自室に監禁できる、最初で最後の機会だ!]と寮長が書き足して、迚野にそれはアウトと制されて消した。
「おい」
「あの」
同時だった。班で一緒に座っているだけで、クラスメイトの雄叫びの中でもお構いなく眠り続けていた都が驚いて顔を上げる。伊月と小宮がそれぞれ自分の椅子を蹴飛ばして、騒音を立てたのだ。
伊月も突然の違和感にぴくりと動きを止めていた。一瞬、小宮の気が振れたのだ。
「賛成のやつは部屋を明け渡せ、反対のやつは、当日、ドアにガムテープを貼るのを忘れないように」
菅崎は満面の笑みで、騒音を立てた二人に親指を立てると、自然にクラス内でスタンディングオベーションが起きた。伊月は棒立ちしたまま、椅子を立てる小宮を見ている。小宮は、えへへ、釣られちゃった、と恥ずかしそうに菅崎に弁明した。
はっきりとさっき、小宮の方から女の気が漂った。
自分が卒倒してもおかしくないほど、かなり念が強く、顔もはっきりと見えた。なのに、伊月の体には異変が起きない。いつも通り小宮のおかげか? 確信ができず、気の残滓さえ、既にたどれなかった。
「ちょろいねえ」
拍手に包まれた菅崎が、満足そうに伊月の肩を叩き、代わりに椅子を立ててやる。まじ無理、と都は聞こえるように悪態をつくと、再び眠る体勢を取った。
閉塞感を漂わせる陽気は、今日も時間の感覚を狂わせるようだ。黒板の横にある、キャビネットの上へ置かれた時計が三限の終わりを指していた。
昼休みになり、やや遅れて伊月が食堂に姿を現すと、気づいた菅崎と小宮がテーブルから手を振った。小宮から感じられた女の気は勘違いだったのだろうか――少しでも残滓が残っていれば、風明館に染み付いた古い記憶と相まって助長するはずだ。覚悟をして食堂に踏み入れたが、特に異変は感じられない。
四限はお化け屋敷の方向性をすり合わせるため、クラスで熱い議論が交わされたが、小宮から女の気がすることは二度となかった。
もはや悪夢でも見たのだろうと、微かに残った違和感さえ霧散していく。小宮の気はいつも通り心地よく、伊月も食事をとり分けて、惹かれるまま二人がいるテーブルに着いた。
「午後から、心霊動画の鑑賞するってよ」
スマホをいじっていた菅崎が二人に画面を見せた。いつの間にか五人のグループメッセージができていて、自習室に来てプロジェクターの用意を手伝えといった内容が書かれている。
差出人はもちろん寮長だった。なんでもまずは本物から学ぶべし……寮長からのメッセージを読み上げて、合ってるようで、ズレた発想するよなあ、と菅崎はスマホをポケットにしまう。
「とりあえず、行ってくるわ」
菅崎は食べ終えた食器を片づけて、風明館をすたすたと歩いて出ていった。
「俺はサボる」
「えー!」
小宮の声を無視して、伊月は味噌汁を飲み干す。文化祭準備は一週間続くにもかかわらず、初日の昼にして限界がきていた。予想外に勃発する面倒事に対し、教室から離れた途端に疲れがどっと押し寄せた。心霊動画の鑑賞なんて、参加しない以外の選択肢はない。
どさくさ紛れて小宮の体の一部を手に入れるどころか、既にくたばりそうな内容だ。そもそも、グループ分けも運よく小宮と一緒になれただけであって、伊月に計画なんてない。まずは、友達になるところから――友達ってどうやってなるんだ? 伊月は止めどない思考を続ける。
「綿谷くん、怖いよね。でも、大丈夫だよ!」
険しい表情で食事を続ける伊月に、小宮は自信を浮かべて言った。手にはテーブルに置いてあった赤いキャップの塩が握られている。怖いから逃げる、という選択はなく、対策を講じて挑むという姿勢だ。椅子を蹴り飛ばしたのも含め、柔らかい雰囲気とは裏腹に、小宮は存外勇ましい。
伊月はこれ以上の議論はしないといった姿勢で、半分以上残した昼食を片付けようと席を立つが、塩を持った小宮に腕を掴まれた。
「なにしてんの」
無下に腕を振りほどくのもはばかれ、緩やかな力比べの問答を繰り返していると、都が変なものを見るような目線をこちらに向けていた。伊月たちが座っている場所からは、寮生の自室に続く階段が見える。都はおぼんをもって階段を下りてきたので、自室で食べていたのだろう。
「午後に向けて、相浦くんも塩かけとく?」
少し考えるように目を泳がせた後、あーと言って、意味を理解したようだった。
「――うん」
都の返事に小宮は嬉しそうにして、自分が座っていた席に座るように促す。これでもう、大丈夫だからな! と『注文の多い料理店』さながら入念に塩をかけてやっている。
都は目を閉じて小宮にされるがままだ。皿に散った塩が鈴のように音を立てる。塩で解決できるものなんて些細であり、伊月ほどになるとほとんど意味をなさない。逃げる機会を失い、座って二人を眺めていると、伊月の頭上からも塩が降り注いだ。
「きっと効くよ」
「どうだか……」
答えは分かっている。ただ、自分を見下ろす小宮があまりにも頼もしく見えて、それがおかしくもあった。伊月と都は隣に座るよう小宮に促され、並んで黙ったまま交互に塩を振られている。
「笑ってるね?」
「笑ってないよ」
小宮は、伊月の返事に、ふうん、と言って一本目の塩を空にした。
「遅刻してんぞー」
菅崎が、伊月たちを呼びながら食堂へ入ってくる。
「菅崎もちょっとこっち来て!」
「お、原始的でいいね」
菅崎は、二本目の塩を持った小宮を見て、愉快そうに椅子に座る。
小宮はまじないのように、これで大丈夫だ、と繰り返した。小宮の声に耳を傾けながら、伊月は目を閉じる。小宮なら、本当に大丈夫にしてしまうかもしれない、と願いに近いような感情で信じたくなってしまうのだ。
「そろそろ、やばいな」
菅崎が柱時計を指さしたのを合図に、それぞれが立ち上がっておぼんや皿をかごに戻す。小宮は空になった塩の瓶を二本、燃えないゴミへ捨てた。
「トイレ寄るから、先に行ってて」
小宮が、俺も、と伊月に合わせた。長いからと断ると、つれないと言って少しむくれる。
「伊月は元からこんなだから、かんにんな」
「えー?」
菅崎が二人を連れて、はい、行くぞー、と食堂を出ていった。足から力が抜け、伊月は床にしゃがむ。心臓が大きく脈を打って痛い。遅刻している状況で、正門を避けて学園に入るなんて、不自然と思われるに決まっている。トイレを理由にするのは限界がありそうだ。
咄嗟に口元を押え、戻しそうになるのを堪えた。食べたものが何度も喉の奥を押し、涙があふれる。体質が誰かにばれたとして、母親と同じように拒絶されるとは限らない。それでも、伊月は頑なに隠し続けてきた。
――キモチワルイ。
何度も思い出される声が脳に鮮明に響く。声を振り払うように、ぐっと唇を噛むと、鉄の味が広がった。伊月にとって唯一、今も母との繋がりを感じられるのは、体質を隠し続けることだけだ。伴う自傷癖も、体質を隠せと強いてくる母に、暴力を振るわれていたからだ。
自分の行動の理由を理解できている、でも、発作は治らないし、なに一つ変わらない。霊感体質がどうにもならないのと同じように、伊月の体に染み付いてしまっている。
伊月は汗を拭いながら床に仰向けになって、風明館の玄関へ視線を向けた。
――かんにんな。
菅崎は昔からこうだ。十にも満たない年齢から、付かず離れずでいてくれる。平瀬台に転校したばかりの初等部の頃も、同室の頃も、伊月が引いた線を菅崎は越えない。いつもふざけているように振舞っているが、伊月になにが起ころうと、菅崎は何も問いたださない。それは、伊月にとってひどく楽であり、菅崎と共同生活を送れた理由でもある。菅崎がどこまで感づいているのか、全く無関心なのかは、伊月にとって思考の余地はない。
なんだよ、似非関西弁って――。大きく息を吸って呼吸を整える。なんだかもう、全部疲れた。目を閉じると、今にも眠ってしまいそうな疲労感に襲われた。
重たい体を無理やり起こし、自室に上がる階段の方に視線を向ける。やけに静かに感じ、伊月は立ち上がって、幼い子どものような頼りない足取りで風明館を出た。待ち受けるのは分かりきった地獄だと理解しているのに、かき消すように反芻されるのは、鈴のように鳴る塩の音と仲間の声だった。
「お化け屋敷の映像じゃダメなの?」
小宮は食堂から拝借した、三本目の塩を握りしめたまま、再生ボタンを押そうとする寮長に詰め寄った。
「お化け屋敷の上位互換は、この選りすぐりの心霊動画であって必ず勉強になるぞ」
「こいつはバカ言ってる自覚が無いんだわ」
菅崎は頬杖をついて姿勢悪く椅子に座り、ごめんな、と小宮をなだめる。伊月が自習室に着いてもなお、プロジェクターの不具合で機材のセッティングが続いていた。
伊月は空けられていた小宮の隣で、一言も発さないままぼんやりと座っている。廊下側の席で扉も開けっ放しのため、隣の音楽室からピアノの音が聞こえた。窓の外は秋晴れの青空が広がっていて、伊月はゆっくりと目を閉じる。
小宮の抗議もむなしく、寮長はクラスメイトに急かされて再生ボタンを押した。露骨に自習室の空気が重くなる。心拍を早めるような音楽、想像を掻き立てるようなナレーション、そして仰々しい人の絶叫が続く。
お化け屋敷も含めて恐怖体験の商売は、一定数の需要があり金になる。見えない世界への期待、異質なものへの好奇心、マンネリした日常への刺激。伊月の苦しみは、消費されるコンテンツの一つであり、副産物であった。
自習室に恐怖が立ち込めていく。厄介なのは巧妙に作られた心霊映像ではない。人の感情によって生み出された恐怖が気を寄せ集め、膨張することだ。
集まり続ける有象無象の気がだんだんと霊障をなしてく。下品に囃し立てる生徒ほど、そばに寄る気を濃くさせているのに、全く気づかない。目の前に立っているもの、肩に回されているもの、足元から見上げるもの、これだけ纏わりつかれては伊月ほどではないとしても、彼らもぐったりするだろう。
集まり続ける、悲しみ、怒り、悔やみ、負の感情の絶叫が、伊月にすがるようにのしかかっていた。
「大丈夫?」
小宮が、青ざめた伊月の顔を覗き込む。意識が保たれているのは、やはり小宮のおかげだろう。ことごとく伊月の体質と相性がいいのだ。
「――大丈夫」
「本当?」
小宮は少し食い下がるが、伊月が精一杯の精神力で、平気だと言うと、分かったと返事をした。小宮は時折、体をこわばらせながらも真剣に視聴を続け、ノートにメモさえ取っている。
既に見慣れた横顔なのに、小宮から目を離したくなかった。鼻筋が通っていて、女優のように長いまつ毛が目元に影を作っている。美しいからなのか、まつ毛の一本ぐらいなら、どうにかならないかと下心からなのか、見つめるうちに分からなくなる。
意識が朦朧として、伊月の体が小宮の方へ倒れた。自習室に来る途中で、胃の中の物をすべて吐き出してきて正解だった。
自分を支えながら、なにか言っている小宮を見たのを最後に、伊月の瞳は光を失った。
目を覚ますと、先週と同じ保健室のベッドに寝ていた。生徒たちが掃除する音が遠くか聞こえる。時計を見上げると、もう少しで下校時間だった。目を覚ました場所が病院ではなかったことに胸をなでおろしていると、足跡が近づいてくるように床が軋む。
「綿谷、起きてるか?」
「はい……」
胃液で喉が焼けていて声がかすれた。カーテンの隙間から、両手にマグカップを持った男の養護教諭が入ってくる。迚野と仲のいい眼鏡といった情報以外、この人間について知らないが、十日間に保健室に運び込まれたのが三回目ともなると顔見知りにもなる。
「ホットレモン飲める?」
ゆっくりと起き上がると、予想したほど体の調子は悪くなかった。差し出されたマグカップには油性ペンで『梅宮』と書かれている。うす切りのレモンが浮いていて、すっきりした香りが鼻腔をくすぐった。
梅宮は、これね、弟がバンドしててそのグッズ、と、伊月に差し出した同じ柄のマグカップを見せながら、湯気が立つホットレモンをごくごくと飲む。
「初等部からの記録を見るに、よくあることのようだね」
梅宮の質問に、伊月は黙って頷いた。
「ここ数年は、落ち着いていたようだけど」
梅宮が言葉を切る。病院に連れていかれるのだろうか。頻発している体調不良を上手く誤魔化せる気がしなかった。病院に行けば、週末にある文化祭の参加はまず無理だ。病院に溜まっている膨大な念で、衰弱するのは経験から知っている。
「まあちょっと、休みなさいね」
黙ったまま、ホットレモンに口をつけない伊月を、梅宮は見下ろす。
ベッドのカーテンがゆっくり引かれて、右側にある窓の景色を除き視界は真っ白に包まれた。両手で持ったホットレモンはまだ温かく、ひと口飲むと優しい酸味が口に広がる。伊月はマグカップを窓枠に置いた。
ゆっくり横になると、風明館で使われている洗剤と同じ匂いが寝具からする。目を閉じると世界の音が遠くなり、箱の中に一人で納まっているようだった。人と関わるほど、人と同じことをするほど、こういうことになる。人ができる『普通』が自分にはできない。正門から登校することも、文化祭レベルのお化け屋敷も、修学旅行も。
――修学旅行さえ、結局来なかったのに?
少なからず、菅崎を裏切り、傷つけた自覚はあった。平瀬台学園の修学旅行は、高校二年生の冬に行われる。文化祭と同じように班には菅崎がいて、一緒にどこを観光するか計画を立てた。旅行先は北海道で、伊月も行くつもりでいた。でも、行けなかったのだ。
当日、風明館を出ると、バスが正門の中に止められていた。敷居と同じように正門も境界の一つであり、正門をまたぐのは、時計台の下に集まる気の有象無象側へ進み入ることだ。
バスは正門からしか出発できない。伊月は引き返し部屋に戻った。
どんな葛藤があろうと、正門を伊月にとって賢明な判断だっただろう。事実、外泊だなんて、できたものではない。窓が小さい宿泊施設は気が溜まりやすく、不特定多数の人間が利用するのも相まって、さまざま気が蠢く場所の一つだ。
ホテルの自動ドアをくぐったとき、部屋に入ったとき、ユニットバスの扉を開けたとき、境界をまたぐたびに垂れ込めた気が体に纏わりついて、悲痛に語りかけてくるのだ。中等部の修学旅行は、外泊が怖くて行けなかった。
初等部の修学旅行は平和学習が組み込まれていて、伊月は二度と味わいたくない経験をしている。戦争の爪痕が残る建物や資料を見て回る中で、彼らの気は既に遠いものだと知った。
そこにはもう誰も囚われてはいないのだが、生きている人間の恐怖や拒絶、怒りが念となって溜まるのだ。
悲しい、苦しい、痛い、怖いと、人の憎悪が伊月の体中に響き渡る。それは確かに、人の苦悩であった。当時十二歳だった伊月は、悲痛な声に共感してしまい、気のよりどころになってしまったのだ。救うどころか、できることなんてあるはずもなく、容易く意識を飛ばした。
目を覚ますと知らない病室にいて、その病院に溜まった念にも苦しめられた。楽しい思い出なんて一つも作れなかったどころか、ほぼ一か月、日常生活がままならない始末だった。
俺は、普通ではない。
――大きくなれば普通になれるわ。
――これはお母さんとの秘密。お父さんにも秘密よ。
――伊月はちゃんと、普通の体で産んであげたんだから。
伊月が体調を崩す度に、何度も同じ言い回しで、母は言った。見えないものが見えてしまう。聞こえない声が聞こえてしまう。母の躾に従い、それらの存在を否定すると、すがるような叫びはより大きくなった。
――キモチワルイ。
――伊月がこんなだから、お父さんは死んでしまったのよ。
――あの人を返して。
父親が病死してから、母親はほとんど伊月に興味を示さなくなった。飢えをしのぐため給食を吐くまで食べ、靴はかかとを踏んで履く。母と過ごした環境はひどく貧しく、助けてくれる大人もいなかった。
母が精神的に不安定なときは、部屋で小さくなって声を漏らさずいても殴られた。母は泣き叫び、父が病死したのは、伊月の体質が引き寄せた呪いだと繰り返す。
何度も振り下ろされる母の手に怯え、必死に痛みを耐える中で、母が自分を見てくれていると、歪んだ安心さえも感じていた。
祖父に引き取られ、平瀬台へ越してきてからの数年間、伊月の記憶はほとんど抜け落ちている。中等部になると寮と教室の往復だけの生活になった。そのときに初めて、温かい食事と、清潔な衣類が当たり前に提供されていることを自覚し、自分に不釣り合いな気がして戸惑った。
高等部に上がると裏門に開いた穴の存在を知る。毎朝、必ず覗き込んでは、穴に落ち、諦めて上を眺めるだけの動物と自分を無意識に重ねた。穴に落ちた動物と同じように、伊月が自分に許した唯一の自由は、窓から空を見上げること、それだけなのだ。
すべては体質を隠すために。この欲求は、伊月が制御できるものではなく、行動を抑制する、悲痛な枷でもなく、伊月にとって、生きる目的に近いものとなっていた。
異常な重みを感じて目を開けた。さっき起きたときより体がひどく重い。まだ、自分は保健室で寝ていたのかと、意識がはっきりしていく。窓から西日が差し込んでいて、日が落ちる前に帰ろうと力を入れると、自分のではない腕と足が体に巻き付いているのが目に入った。
息を呑み、心拍が一気に上がったが、気の流れで予想はついた。
自分の脇腹に埋められた顔は、やはり小宮だ。伊月はしばらく天井を凝視したが、小宮に起きる気配はない。抱き枕にされていたたまれない状況が続き、隣で眠る同級生へ視線を移す。
西日に照らされた小宮の寝顔は、穏やかで気持ちよさそうだ。
自分とは対照的に、思うままに、行動して、笑って、語りかけて。自分らしく過ごせるってどんな気分だろう――なに一つ思い出せないどころか、そんな時間が自分にあったのかさえ分からない。体質を隠す中で、父も母も友達も失い、自分自身さえも消えたような気がした。
伊月が少し動くと、小宮は寝息の混じった声を漏らす。そもそもどうして、ここに小宮が寝ているのか。自分の胸の上に置かれ、重たい小宮の手を伊月は指でそっとつついた。血が通っていて温かい――生きている人間の重みがする。
自習室で倒れたときの気持ち悪さは、跡形もなく消えていた。さっき起きたときも、今までにない回復の早さだと感じていたが、はやり小宮が隣にいると体が楽で心地よい。
小宮と階段から落ちたとき、凪いだ海に飛び込むようだと思った――海なんて、見たこともないのに――。異形が普通を望んでしまった悲劇を、同じように自分もなぞるのだろう。俺は、小宮を利用しているのだから。
伊月は、小宮を自分から剥がし、声をかける。
「小宮、起きて」
声をかけただけでは起きず、肩を揺さぶった。
「わたにゃくん」
「なに、起きて」
「いきてる?」
「生きてるよ」
「鑑賞会、いやだったよね」
小宮は、ごめんね、と続ける。伊月に返す言葉がなかった。
「ちゃんと、いやなことはおしえてね」
小宮はとろんとした眼差しにもかかわらず、視線を逸らさせてはくれなかった。責任を感じているような、申し訳なさも滲んでいる。黙ったままの伊月に、小宮はそっと小指を差し出した。
「おしえてね、約束」
動かない伊月の手を取って、小宮は小指を絡ませた。
「わ! 泣かないで」
意思とは反して、理解できない涙があふれた。小宮をいつも突き離せないのは、俺が小宮を利用したいからだ。その他の理由は必要ない。だってあと、卒業まで三か月もない。この生活は決して続かず、幻にさえ近いものだ。
震える伊月をさすりながら、ごめんね、ごめんね、と小宮は繰り返し謝るが、伊月の泣き方はどんどんひどくなる。
心配してくれる声がある、さすってもらえる手がある、今、自分は一人じゃない。そう思うほど、母から与えられたものと比べてしまい、息ができなくなってしまう。伊月は小さな子どものように丸くなって、声を漏らして泣いた。
次に目を開けると、小宮の腕の中に収まっていた。守られるように抱かれ、穏やかな心音が聞こえる。首だけを動かして見渡すと、保健室は月明りで照らされていた。窓枠に置いたマグカップは片づけられている。
意識がはっきりしてくるのと同時に、寝る前の醜態が思い出された。父が死んだときでさえ、こんなふうに泣きじゃくっただろうか。記憶にはないような気がした。
暗がりに目が慣れると、小宮の顔がはっきりと月明りで浮かぶ。居心地の悪さが増すようだったが、それよりも、小宮の目元が気になった。異常なクマができている。
伊月は小宮を起こさないようにそっと起き上がり、顔を近づけて確認する。人のことばかり世話を焼いて、気疲れだろうか。新たな土地、寮生活、人間関係と、疲労は溜まるはずだ。小宮が転校してきて、まだ一週間と少ししか経っていない。どうして、こんな時期に、転校してきちゃったんだろうな。
小宮は、一回寝るとすぐには起きないらしい。小宮の柔らかい髪に、自分の指を通すと、さらりとすり抜けた。小宮を保健室に残して、伊月は裏門へ向かった。
「綿谷くんが俺を置いて、寮に戻った」
食堂で夕飯を食べていると、小宮が機嫌を損ねた様子で隣に座ってきた。寮長がよけてくれていた夕飯を大きな口で頬張る。学校のドアがすべて施錠されており、保健室の窓から出ようとしたところ、迚野と鉢合わせて怒られたと続けた。
「よく寝てたから……」
「また明日ね、俺はもう寝る!」
ものすごい勢いで夕飯を平らげても、まだ腹の虫が治まらない様子で小宮は席を立つ。保健室での件を問いただされることもなく、おかげで気まずさもなかった。
「どしたの? サボり魔二人は喧嘩中?」
部屋に戻る小宮とすれ違った菅崎が、マグカップを持って伊月の前に座る。小宮もなんか体調悪かったみたいだぞ、と続けた。
小宮の目のクマは、やはり見間違いではなかったのだろう。理由は分からないが、食事を摂っているときは、不思議と顔色が良かったように思う。
保健室に置き去りにした話をすると、菅崎は笑った。
「あんなに怒るとは思わなかった」
「それぐらい嫌だったんだろ」
起こしたとして、正門から一緒に帰れるわけじゃない。窓から出るのも、別に嫌がるほどでもないだろう。こうやって、夕飯も寮長が気を回してくれる。なにがそんなに、気に障ったのか。
「一緒に寝ていたかったのか……」
「は?」
「起きたら、隣で寝てて」
菅崎は、一緒のベッドに? でかい男子高校生二人が? と面白に続ける。
「保健室のベッドは狭いって」
「誰にも言うなよ」
念のために釘を刺す。小宮はなにも言ってこないかもしれないが、やはり思い出すと居心地が悪い。自分の目元の赤みは引いていたはずだよな、と顔に手を当てる。
不意にどすどすと階段を下りる音が、食堂に響いたかと思うと、小宮だった。『機嫌が悪い』と顔に書いてある様子で、電気ポットが置かれた台へ進み、じょぼじょぼとマグカップにお湯を注いでいる。
一言も発さない小宮が珍しく、菅崎と伊月がまじまじと見つめていると、二人に向かってチッと舌打ちをして、小宮はまた食堂を出ていった。
「最高……すぎるだろ、あいつぜったい、わざとじゃん」
「最悪……」
笑いを堪えたように言う菅崎は人でなしか。まさか、こんな険悪な雰囲気になるなんて。
「どうやって仲直りするんだっけ」
「え?」
「そもそも、友達ってどうやってなるんだ?」
菅崎は伊月の肩に腕を回して、面白そうに叩く。
「がんばれ」
それだけだった。鬱陶しい腕を振りほどきながら、残りの夕飯をかき込む。あまりにも長く感じた、文化祭準備一日目がようやく終わる。これがあと四日も続く。考えるとため息が出たが、腹が満たされてくると、どうにか頑張れそうな気もした。
小宮とはそのまま疎遠になるかと思いきや、翌朝、小宮が豹変したのだ。
「ここ、凝ってる気がする」
伊月が倒れたり、めまいを起こしたりした理由を、伊月の不健康が原因だと小宮は解釈したのか、毎朝、伊月を捕まえては、体のあちこちを揉みほぐしている。
小宮が連日に渡り、あまりにも真剣な顔でしつこく施術に挑んでくるので、伊月は三日で観念し受け入れた。
唾液の件以降、小宮からなにも得てはいないが、伊月の慢性的な倦怠感や疲労感はごっそりと改善されている。唾液で耐性が付いたのか、卒倒のような急激な眠気に襲われるのも、初日以降なく、肌に直接触れられても問題なかった。
登校してHRが始まる前と、一限が始まる前の時間以外、小宮が伊月に付きまとうことは無かったため不便もない。
「俺もやってあげようか?」
伊月は、手を伸ばしてくる寮長を一瞥で制した。
「俺はだめなのかよー! 顔か、小宮は顔がいいからか!」
「うるさい」
「小宮のワンボちゃん加減は、伊月でも振り切れないのな」
「ワンボって?」
寮長が、菅崎の発言にポカンとすると、菅崎は足を組んだ体勢で、犬、と答える。
「綿谷くん、朝ごはんを食べようよ」
「それ、俺は一年の頃から言ってる」
寮長は続けて、諦めた方がいい、と小宮を諭した。
伊月は黙って目を閉じたまま、必要以上に口を挟まない。一つ面倒になったのが、クラスの視線だった。小宮が目立つのもあるが、クラスとあからさまに距離を取っていた伊月が、人の輪に居るのが単純に異質に見えて、好奇心を煽るのだろう。
できるだけ目立たず、やり過ごしてきた予防線がほころぶのが怖い。どんなまなざしや雑念を向けられようとも、小宮がそばにいる限り体が極端に疲弊することはないが、体質を隠すために試行錯誤してきた伊月の行動が、悪目立ちするのは避けられない。
「来週から文化祭週間だけど、参加するよね?」
「無視すんなよ」
小宮に肩をも揉まれながら、顔を覗き込まれても動じない伊月を見て、菅崎が呆れ声を出す。
「思い出作ろうぜ」
寮長は、菅崎の横の席に勝手に座り、歯を見せてにかっと笑いながら親指を立てた。小宮を挟んで、菅崎や寮長が伊月に絡むのも、今までと比べ相当増えている。
「最悪、部屋に立てこもるし……」
「綿谷、それは無理だぞ?」
寮長はなぜかはっきりと答えた。
「いやだよー!」
小宮が勢いでぐっと指に力を入れて肩のツボを押すので、耐え切れず、うっ、と声を漏らして机に倒れる。されるがままの伊月を見て、菅崎がくつくつ笑った。
「分かったよ」
伊月は伏せたまま、顔を横に向けて言う。
「参加する」
「ほんと!」
小宮の気が文字のごとく発光して、教室内にやや垂れ込んでいた気を一掃した。菅崎と寮長はよくやった、と小宮の頭をわしわしと撫でる。
そんなに三人が喜ぶことなのか、と他人事のように、伊月は目を細めながら眺めた。
風明館でお化け屋敷をするなど状況としては最悪だ。風明館が古い建物なだけでなく、平瀬台の土地柄的にも気が溜まりやすい。戦時中、軍事施設があったため田舎にもかかわらず、ひどい空襲を経験した土地なのだ。
特に人の恐怖は膨張してたちが悪い――部屋にこもったとして、自分の体がどうなるか。小宮の隣にいた方が、幾分か安全な気がしている。
「楽しみー」
小宮は、一限で使う過去問を机に出しながら、席に座って笑顔を向けてくる。
すべてを持ち得ている――一週間、小宮を眺めた感想だった。転校初日に見せた笑顔は、社交辞令ではなく、小宮そのものがよく笑う人間らしい。
転校してきたばかりとは思えないほど、小宮を中心にしてクラスに笑いが広がっていく。おかげで、ひどく体が軽いのが当たり前になりつつあった。
人は欲深いもので、それに慣れると想像しまうのだ。こんな体じゃなかったら、世界はどんなふうに見えるのか。愛されるとはどういうことなのかと。
穴に落ちたまま見上げるように、小宮に救いを求めてしまっている自分を、伊月はなんとなく感じていた。
「今日から一週間の文化祭準備は、無理に参加しなくてオッケー。自習室で勉強してください。以上」
迚野が、月曜朝のHRを締めくくり、黒板の横にある教員用のデスクに移動すると、ここからは俺が、と寮長が教卓の前へ出てくる。
「お前らー! 最後の青春ぶちかますぞー! ひよってんじゃねーぞ!」
「どこの運動部だよ」
菅崎が脚を組み直しながら、独り言ちて肩を揺らす。黒板に豪快な文字で[風明館お化け屋敷(仮)]と書かれると、しゃーねーな、付き合ってやるよー、と賛同があがったり、ネーミングに自信の無さが出てんぞー、さっきの威勢はどうしたー、と野次も混じったりと、祭りのようにクラスは湧き立つ。
「えっとー、まずはグループ分けしてから担当エリアを決めていこう。好きに五人グループになってー」
「みんなやんの?」
狼狽えるように迚野が椅子から立ち上がった。伊月は、名前と顔が一致しないクラスメイトの声に耳を傾けるのを早々に止めて、窓の外を見ていたが、迚野の方へ顔を向けた。
「菅崎もまだ、二次試験控えてんだぞ」
「余裕でーす」
「一人ぐらい、受験に備えるまともな生徒はいない?」
迚野の声は、班を作るために教室中がガタガタと机を押しながら動く音でかき消された。風明館の件もあり、建前で催しを許可したが、こうなるとは予想していなかったのだろう。一方で伊月もグループ分けという難関に苛まれたが、幸いにも小宮が動かなかった。組んでくれる? と小宮に声をかけられ、伊月はこくんと頷く。
「俺と中本入れて、あと一人だなー」
菅崎が当たり前のように振り向いて言ったあと、教室を見渡した。伊月も釣られて同じように視線を泳がすと、自分たちの班以外に微動だにしない生徒が、寮長が立つ教卓の前の席に座っている。肩まで付きそうなほど髪を伸ばしていて、個性的ではあるが、伊月はやはり名前が分からなかった。
「相浦都はー! 俺らの班なー!」
見かねたように寮長の声が飛んでくる。教室の窓側で固まっている伊月たちに、お前らがこっちに来い、と呼ぶので教卓の方へぞろぞろ移動した。
「クラス一緒だったんだ! 怪我はもう大丈夫?」
小宮は思い出したように声を上げ、続けて小宮昂です、と慌てて名乗った。
「この前は、ありがとう」
都は不自然に目を泳がせて、ぼぞぼぞと声を出した。まだうっすらと顔にあざが残っていて、前髪の隙間からは絆創膏が覗いている。
「謹慎処分明けの、しゃばの空気はどうや?」
寮長の発言に表情を硬くした都を見て、菅崎が無視してもいいからな、みんなしてるから、と付け加えた。
「よろしくな、都」
「下の名前で突然呼ぶな」
「案外、直球だな。いいね」
寮長に容赦がなかった都を見て、菅崎が嬉しそうな声を出す。
「都って名前、響きが綺麗だからいいじゃん?」
寮長はお構いなしに続けて、小宮もたしかに綺麗な名前だね、と同意して微笑む。
「みやこ……」
伊月は不意に声に出してしまい、都にキッとした表情を向けられる。
「俺このとさえ、謙真って呼んだことないのに……」
「俺も昂って呼んでほしい!」
「謙真って呼んでごらん? ほら、伊月! 伊月ー!」
迫ってくる菅崎を、伊月は、近いって、今それどころじゃない、といなしながら、みやこ、みやこと真剣に暗唱する。
「名前、覚えるの苦手なんだよ」
睨み続けてくる都に、伊月はぶっきらぼうに答える。小宮の名前をすんなり覚えられたのは、気に対する衝撃が強すぎたので稀有な成功事例だった。
「変人しか居ないの、この班」
「仲良くしような!」
寮長は満面の笑みで、不安そうな都に応えた。
一限目もそのまま文化祭準備が続く。風明館を六つにエリア分けして、それぞれ班を割り当てた。伊月たちの班は寮長がいるのもあって、旧建物側の階段が朽ちている箇所を含んだエリアだ。別に仰々しい装飾をしなくとも、旧建物側はお化け屋敷も同然である。
「自室の装飾は、各自で行ってくださーい」
意図がくみ取れていない様子のクラスメイトに、寮長は朗らかに続ける。
「余すところなく部屋も使ってあげないと、風明館に悪いだろ」
予想通り口火を切って大ブーイングが起きたため、伊月は開きかけた口を閉じた。
「はい、次から発言する前に挙手してください、早川どうぞ」
「まだ受験生もいるんだぞー!」
「今日までに受かっていない人が悪いですね」
「それでも教育学部が第一志望か、独裁者ー!」
寮長はここぞとばかりに、寮長特権で所持しているマスターキーを見せびらかす始末だ。鍵は特殊な構造になっていて、どの部屋も自由に開けられるのを寮生は知っていた。
「ボディビルコンテストみたいだな」
菅崎は他人事のように笑いながら振り向いてくるが、伊月はともかく、小宮の表情も硬かった。収拾がつかないのを見かねてか、座って眺めていた迚野が動く。やっとかと思い、伊月は半ば呆れつつ担任を目で追った。
「このように、権力や理不尽に抗うことは、社会の縮図ですが」
寮長の隣に立った迚野は、もったいぶった様子で一拍置いた。
「マスターキーは先生たちが持っているのを合わせると、六本あります!」
「はい、亀の飼い主である村上どうぞ!」
「どうなってんだよ、風明館の管理は!」
「大人がもしものときに、君たちの命を守るためです! 決して、代々の寮監の先生が鍵を無くしては見つけてを繰り返した歴戦の証ではない!」
ただ、面白くなって前に出てきただけであろう迚野に対し、菅崎が、くはは、うわーと笑いすぎて椅子から落ちた。そのまま這うように立ったかと思うと、お前ら聞けー! と叫び、菅崎も教卓に立つ始末だ。
「菅崎ってあんなだっけ?」
「綿谷くんの方が、付き合い長いでしょう……」
二人は目を細めて菅崎を見た。結論によっては本気で抗議しないといけない。ブーイングの飛び交う教室を眺めて、菅崎はなにか言ったように口を動かしたが、聞き取れなかった。
「文化祭は、他校の女子も来ます」
菅崎は二回目発言で教室を黙らせる。息を飲むような沈黙の中、小宮があまりにも怪訝そうな顔を向けてくるので、伊月は思わず笑いそうになったが、ぐっと堪えて同じように険しい表情を返す。伊月にとっても、笑っていられるような状況ではないのだ。
「男くさい三年間の学園生活に、ご褒美といったわけですよ」
意図をくみ取ったクラスの大半が、うおー! と沸き立ち、独特な一体感を生む。合法的に女子を部屋に招待できて、合法的に女子とコミュケーションが取れるといった具体だった。
「でっけえ悲鳴を、女子からいただこうぜ!」
クラスの反応で答えは出たも同然である。[風明館お化け屋敷計画(仮)]の横に[合法的に女子高校生を自室に監禁できる、最初で最後の機会だ!]と寮長が書き足して、迚野にそれはアウトと制されて消した。
「おい」
「あの」
同時だった。班で一緒に座っているだけで、クラスメイトの雄叫びの中でもお構いなく眠り続けていた都が驚いて顔を上げる。伊月と小宮がそれぞれ自分の椅子を蹴飛ばして、騒音を立てたのだ。
伊月も突然の違和感にぴくりと動きを止めていた。一瞬、小宮の気が振れたのだ。
「賛成のやつは部屋を明け渡せ、反対のやつは、当日、ドアにガムテープを貼るのを忘れないように」
菅崎は満面の笑みで、騒音を立てた二人に親指を立てると、自然にクラス内でスタンディングオベーションが起きた。伊月は棒立ちしたまま、椅子を立てる小宮を見ている。小宮は、えへへ、釣られちゃった、と恥ずかしそうに菅崎に弁明した。
はっきりとさっき、小宮の方から女の気が漂った。
自分が卒倒してもおかしくないほど、かなり念が強く、顔もはっきりと見えた。なのに、伊月の体には異変が起きない。いつも通り小宮のおかげか? 確信ができず、気の残滓さえ、既にたどれなかった。
「ちょろいねえ」
拍手に包まれた菅崎が、満足そうに伊月の肩を叩き、代わりに椅子を立ててやる。まじ無理、と都は聞こえるように悪態をつくと、再び眠る体勢を取った。
閉塞感を漂わせる陽気は、今日も時間の感覚を狂わせるようだ。黒板の横にある、キャビネットの上へ置かれた時計が三限の終わりを指していた。
昼休みになり、やや遅れて伊月が食堂に姿を現すと、気づいた菅崎と小宮がテーブルから手を振った。小宮から感じられた女の気は勘違いだったのだろうか――少しでも残滓が残っていれば、風明館に染み付いた古い記憶と相まって助長するはずだ。覚悟をして食堂に踏み入れたが、特に異変は感じられない。
四限はお化け屋敷の方向性をすり合わせるため、クラスで熱い議論が交わされたが、小宮から女の気がすることは二度となかった。
もはや悪夢でも見たのだろうと、微かに残った違和感さえ霧散していく。小宮の気はいつも通り心地よく、伊月も食事をとり分けて、惹かれるまま二人がいるテーブルに着いた。
「午後から、心霊動画の鑑賞するってよ」
スマホをいじっていた菅崎が二人に画面を見せた。いつの間にか五人のグループメッセージができていて、自習室に来てプロジェクターの用意を手伝えといった内容が書かれている。
差出人はもちろん寮長だった。なんでもまずは本物から学ぶべし……寮長からのメッセージを読み上げて、合ってるようで、ズレた発想するよなあ、と菅崎はスマホをポケットにしまう。
「とりあえず、行ってくるわ」
菅崎は食べ終えた食器を片づけて、風明館をすたすたと歩いて出ていった。
「俺はサボる」
「えー!」
小宮の声を無視して、伊月は味噌汁を飲み干す。文化祭準備は一週間続くにもかかわらず、初日の昼にして限界がきていた。予想外に勃発する面倒事に対し、教室から離れた途端に疲れがどっと押し寄せた。心霊動画の鑑賞なんて、参加しない以外の選択肢はない。
どさくさ紛れて小宮の体の一部を手に入れるどころか、既にくたばりそうな内容だ。そもそも、グループ分けも運よく小宮と一緒になれただけであって、伊月に計画なんてない。まずは、友達になるところから――友達ってどうやってなるんだ? 伊月は止めどない思考を続ける。
「綿谷くん、怖いよね。でも、大丈夫だよ!」
険しい表情で食事を続ける伊月に、小宮は自信を浮かべて言った。手にはテーブルに置いてあった赤いキャップの塩が握られている。怖いから逃げる、という選択はなく、対策を講じて挑むという姿勢だ。椅子を蹴り飛ばしたのも含め、柔らかい雰囲気とは裏腹に、小宮は存外勇ましい。
伊月はこれ以上の議論はしないといった姿勢で、半分以上残した昼食を片付けようと席を立つが、塩を持った小宮に腕を掴まれた。
「なにしてんの」
無下に腕を振りほどくのもはばかれ、緩やかな力比べの問答を繰り返していると、都が変なものを見るような目線をこちらに向けていた。伊月たちが座っている場所からは、寮生の自室に続く階段が見える。都はおぼんをもって階段を下りてきたので、自室で食べていたのだろう。
「午後に向けて、相浦くんも塩かけとく?」
少し考えるように目を泳がせた後、あーと言って、意味を理解したようだった。
「――うん」
都の返事に小宮は嬉しそうにして、自分が座っていた席に座るように促す。これでもう、大丈夫だからな! と『注文の多い料理店』さながら入念に塩をかけてやっている。
都は目を閉じて小宮にされるがままだ。皿に散った塩が鈴のように音を立てる。塩で解決できるものなんて些細であり、伊月ほどになるとほとんど意味をなさない。逃げる機会を失い、座って二人を眺めていると、伊月の頭上からも塩が降り注いだ。
「きっと効くよ」
「どうだか……」
答えは分かっている。ただ、自分を見下ろす小宮があまりにも頼もしく見えて、それがおかしくもあった。伊月と都は隣に座るよう小宮に促され、並んで黙ったまま交互に塩を振られている。
「笑ってるね?」
「笑ってないよ」
小宮は、伊月の返事に、ふうん、と言って一本目の塩を空にした。
「遅刻してんぞー」
菅崎が、伊月たちを呼びながら食堂へ入ってくる。
「菅崎もちょっとこっち来て!」
「お、原始的でいいね」
菅崎は、二本目の塩を持った小宮を見て、愉快そうに椅子に座る。
小宮はまじないのように、これで大丈夫だ、と繰り返した。小宮の声に耳を傾けながら、伊月は目を閉じる。小宮なら、本当に大丈夫にしてしまうかもしれない、と願いに近いような感情で信じたくなってしまうのだ。
「そろそろ、やばいな」
菅崎が柱時計を指さしたのを合図に、それぞれが立ち上がっておぼんや皿をかごに戻す。小宮は空になった塩の瓶を二本、燃えないゴミへ捨てた。
「トイレ寄るから、先に行ってて」
小宮が、俺も、と伊月に合わせた。長いからと断ると、つれないと言って少しむくれる。
「伊月は元からこんなだから、かんにんな」
「えー?」
菅崎が二人を連れて、はい、行くぞー、と食堂を出ていった。足から力が抜け、伊月は床にしゃがむ。心臓が大きく脈を打って痛い。遅刻している状況で、正門を避けて学園に入るなんて、不自然と思われるに決まっている。トイレを理由にするのは限界がありそうだ。
咄嗟に口元を押え、戻しそうになるのを堪えた。食べたものが何度も喉の奥を押し、涙があふれる。体質が誰かにばれたとして、母親と同じように拒絶されるとは限らない。それでも、伊月は頑なに隠し続けてきた。
――キモチワルイ。
何度も思い出される声が脳に鮮明に響く。声を振り払うように、ぐっと唇を噛むと、鉄の味が広がった。伊月にとって唯一、今も母との繋がりを感じられるのは、体質を隠し続けることだけだ。伴う自傷癖も、体質を隠せと強いてくる母に、暴力を振るわれていたからだ。
自分の行動の理由を理解できている、でも、発作は治らないし、なに一つ変わらない。霊感体質がどうにもならないのと同じように、伊月の体に染み付いてしまっている。
伊月は汗を拭いながら床に仰向けになって、風明館の玄関へ視線を向けた。
――かんにんな。
菅崎は昔からこうだ。十にも満たない年齢から、付かず離れずでいてくれる。平瀬台に転校したばかりの初等部の頃も、同室の頃も、伊月が引いた線を菅崎は越えない。いつもふざけているように振舞っているが、伊月になにが起ころうと、菅崎は何も問いたださない。それは、伊月にとってひどく楽であり、菅崎と共同生活を送れた理由でもある。菅崎がどこまで感づいているのか、全く無関心なのかは、伊月にとって思考の余地はない。
なんだよ、似非関西弁って――。大きく息を吸って呼吸を整える。なんだかもう、全部疲れた。目を閉じると、今にも眠ってしまいそうな疲労感に襲われた。
重たい体を無理やり起こし、自室に上がる階段の方に視線を向ける。やけに静かに感じ、伊月は立ち上がって、幼い子どものような頼りない足取りで風明館を出た。待ち受けるのは分かりきった地獄だと理解しているのに、かき消すように反芻されるのは、鈴のように鳴る塩の音と仲間の声だった。
「お化け屋敷の映像じゃダメなの?」
小宮は食堂から拝借した、三本目の塩を握りしめたまま、再生ボタンを押そうとする寮長に詰め寄った。
「お化け屋敷の上位互換は、この選りすぐりの心霊動画であって必ず勉強になるぞ」
「こいつはバカ言ってる自覚が無いんだわ」
菅崎は頬杖をついて姿勢悪く椅子に座り、ごめんな、と小宮をなだめる。伊月が自習室に着いてもなお、プロジェクターの不具合で機材のセッティングが続いていた。
伊月は空けられていた小宮の隣で、一言も発さないままぼんやりと座っている。廊下側の席で扉も開けっ放しのため、隣の音楽室からピアノの音が聞こえた。窓の外は秋晴れの青空が広がっていて、伊月はゆっくりと目を閉じる。
小宮の抗議もむなしく、寮長はクラスメイトに急かされて再生ボタンを押した。露骨に自習室の空気が重くなる。心拍を早めるような音楽、想像を掻き立てるようなナレーション、そして仰々しい人の絶叫が続く。
お化け屋敷も含めて恐怖体験の商売は、一定数の需要があり金になる。見えない世界への期待、異質なものへの好奇心、マンネリした日常への刺激。伊月の苦しみは、消費されるコンテンツの一つであり、副産物であった。
自習室に恐怖が立ち込めていく。厄介なのは巧妙に作られた心霊映像ではない。人の感情によって生み出された恐怖が気を寄せ集め、膨張することだ。
集まり続ける有象無象の気がだんだんと霊障をなしてく。下品に囃し立てる生徒ほど、そばに寄る気を濃くさせているのに、全く気づかない。目の前に立っているもの、肩に回されているもの、足元から見上げるもの、これだけ纏わりつかれては伊月ほどではないとしても、彼らもぐったりするだろう。
集まり続ける、悲しみ、怒り、悔やみ、負の感情の絶叫が、伊月にすがるようにのしかかっていた。
「大丈夫?」
小宮が、青ざめた伊月の顔を覗き込む。意識が保たれているのは、やはり小宮のおかげだろう。ことごとく伊月の体質と相性がいいのだ。
「――大丈夫」
「本当?」
小宮は少し食い下がるが、伊月が精一杯の精神力で、平気だと言うと、分かったと返事をした。小宮は時折、体をこわばらせながらも真剣に視聴を続け、ノートにメモさえ取っている。
既に見慣れた横顔なのに、小宮から目を離したくなかった。鼻筋が通っていて、女優のように長いまつ毛が目元に影を作っている。美しいからなのか、まつ毛の一本ぐらいなら、どうにかならないかと下心からなのか、見つめるうちに分からなくなる。
意識が朦朧として、伊月の体が小宮の方へ倒れた。自習室に来る途中で、胃の中の物をすべて吐き出してきて正解だった。
自分を支えながら、なにか言っている小宮を見たのを最後に、伊月の瞳は光を失った。
目を覚ますと、先週と同じ保健室のベッドに寝ていた。生徒たちが掃除する音が遠くか聞こえる。時計を見上げると、もう少しで下校時間だった。目を覚ました場所が病院ではなかったことに胸をなでおろしていると、足跡が近づいてくるように床が軋む。
「綿谷、起きてるか?」
「はい……」
胃液で喉が焼けていて声がかすれた。カーテンの隙間から、両手にマグカップを持った男の養護教諭が入ってくる。迚野と仲のいい眼鏡といった情報以外、この人間について知らないが、十日間に保健室に運び込まれたのが三回目ともなると顔見知りにもなる。
「ホットレモン飲める?」
ゆっくりと起き上がると、予想したほど体の調子は悪くなかった。差し出されたマグカップには油性ペンで『梅宮』と書かれている。うす切りのレモンが浮いていて、すっきりした香りが鼻腔をくすぐった。
梅宮は、これね、弟がバンドしててそのグッズ、と、伊月に差し出した同じ柄のマグカップを見せながら、湯気が立つホットレモンをごくごくと飲む。
「初等部からの記録を見るに、よくあることのようだね」
梅宮の質問に、伊月は黙って頷いた。
「ここ数年は、落ち着いていたようだけど」
梅宮が言葉を切る。病院に連れていかれるのだろうか。頻発している体調不良を上手く誤魔化せる気がしなかった。病院に行けば、週末にある文化祭の参加はまず無理だ。病院に溜まっている膨大な念で、衰弱するのは経験から知っている。
「まあちょっと、休みなさいね」
黙ったまま、ホットレモンに口をつけない伊月を、梅宮は見下ろす。
ベッドのカーテンがゆっくり引かれて、右側にある窓の景色を除き視界は真っ白に包まれた。両手で持ったホットレモンはまだ温かく、ひと口飲むと優しい酸味が口に広がる。伊月はマグカップを窓枠に置いた。
ゆっくり横になると、風明館で使われている洗剤と同じ匂いが寝具からする。目を閉じると世界の音が遠くなり、箱の中に一人で納まっているようだった。人と関わるほど、人と同じことをするほど、こういうことになる。人ができる『普通』が自分にはできない。正門から登校することも、文化祭レベルのお化け屋敷も、修学旅行も。
――修学旅行さえ、結局来なかったのに?
少なからず、菅崎を裏切り、傷つけた自覚はあった。平瀬台学園の修学旅行は、高校二年生の冬に行われる。文化祭と同じように班には菅崎がいて、一緒にどこを観光するか計画を立てた。旅行先は北海道で、伊月も行くつもりでいた。でも、行けなかったのだ。
当日、風明館を出ると、バスが正門の中に止められていた。敷居と同じように正門も境界の一つであり、正門をまたぐのは、時計台の下に集まる気の有象無象側へ進み入ることだ。
バスは正門からしか出発できない。伊月は引き返し部屋に戻った。
どんな葛藤があろうと、正門を伊月にとって賢明な判断だっただろう。事実、外泊だなんて、できたものではない。窓が小さい宿泊施設は気が溜まりやすく、不特定多数の人間が利用するのも相まって、さまざま気が蠢く場所の一つだ。
ホテルの自動ドアをくぐったとき、部屋に入ったとき、ユニットバスの扉を開けたとき、境界をまたぐたびに垂れ込めた気が体に纏わりついて、悲痛に語りかけてくるのだ。中等部の修学旅行は、外泊が怖くて行けなかった。
初等部の修学旅行は平和学習が組み込まれていて、伊月は二度と味わいたくない経験をしている。戦争の爪痕が残る建物や資料を見て回る中で、彼らの気は既に遠いものだと知った。
そこにはもう誰も囚われてはいないのだが、生きている人間の恐怖や拒絶、怒りが念となって溜まるのだ。
悲しい、苦しい、痛い、怖いと、人の憎悪が伊月の体中に響き渡る。それは確かに、人の苦悩であった。当時十二歳だった伊月は、悲痛な声に共感してしまい、気のよりどころになってしまったのだ。救うどころか、できることなんてあるはずもなく、容易く意識を飛ばした。
目を覚ますと知らない病室にいて、その病院に溜まった念にも苦しめられた。楽しい思い出なんて一つも作れなかったどころか、ほぼ一か月、日常生活がままならない始末だった。
俺は、普通ではない。
――大きくなれば普通になれるわ。
――これはお母さんとの秘密。お父さんにも秘密よ。
――伊月はちゃんと、普通の体で産んであげたんだから。
伊月が体調を崩す度に、何度も同じ言い回しで、母は言った。見えないものが見えてしまう。聞こえない声が聞こえてしまう。母の躾に従い、それらの存在を否定すると、すがるような叫びはより大きくなった。
――キモチワルイ。
――伊月がこんなだから、お父さんは死んでしまったのよ。
――あの人を返して。
父親が病死してから、母親はほとんど伊月に興味を示さなくなった。飢えをしのぐため給食を吐くまで食べ、靴はかかとを踏んで履く。母と過ごした環境はひどく貧しく、助けてくれる大人もいなかった。
母が精神的に不安定なときは、部屋で小さくなって声を漏らさずいても殴られた。母は泣き叫び、父が病死したのは、伊月の体質が引き寄せた呪いだと繰り返す。
何度も振り下ろされる母の手に怯え、必死に痛みを耐える中で、母が自分を見てくれていると、歪んだ安心さえも感じていた。
祖父に引き取られ、平瀬台へ越してきてからの数年間、伊月の記憶はほとんど抜け落ちている。中等部になると寮と教室の往復だけの生活になった。そのときに初めて、温かい食事と、清潔な衣類が当たり前に提供されていることを自覚し、自分に不釣り合いな気がして戸惑った。
高等部に上がると裏門に開いた穴の存在を知る。毎朝、必ず覗き込んでは、穴に落ち、諦めて上を眺めるだけの動物と自分を無意識に重ねた。穴に落ちた動物と同じように、伊月が自分に許した唯一の自由は、窓から空を見上げること、それだけなのだ。
すべては体質を隠すために。この欲求は、伊月が制御できるものではなく、行動を抑制する、悲痛な枷でもなく、伊月にとって、生きる目的に近いものとなっていた。
異常な重みを感じて目を開けた。さっき起きたときより体がひどく重い。まだ、自分は保健室で寝ていたのかと、意識がはっきりしていく。窓から西日が差し込んでいて、日が落ちる前に帰ろうと力を入れると、自分のではない腕と足が体に巻き付いているのが目に入った。
息を呑み、心拍が一気に上がったが、気の流れで予想はついた。
自分の脇腹に埋められた顔は、やはり小宮だ。伊月はしばらく天井を凝視したが、小宮に起きる気配はない。抱き枕にされていたたまれない状況が続き、隣で眠る同級生へ視線を移す。
西日に照らされた小宮の寝顔は、穏やかで気持ちよさそうだ。
自分とは対照的に、思うままに、行動して、笑って、語りかけて。自分らしく過ごせるってどんな気分だろう――なに一つ思い出せないどころか、そんな時間が自分にあったのかさえ分からない。体質を隠す中で、父も母も友達も失い、自分自身さえも消えたような気がした。
伊月が少し動くと、小宮は寝息の混じった声を漏らす。そもそもどうして、ここに小宮が寝ているのか。自分の胸の上に置かれ、重たい小宮の手を伊月は指でそっとつついた。血が通っていて温かい――生きている人間の重みがする。
自習室で倒れたときの気持ち悪さは、跡形もなく消えていた。さっき起きたときも、今までにない回復の早さだと感じていたが、はやり小宮が隣にいると体が楽で心地よい。
小宮と階段から落ちたとき、凪いだ海に飛び込むようだと思った――海なんて、見たこともないのに――。異形が普通を望んでしまった悲劇を、同じように自分もなぞるのだろう。俺は、小宮を利用しているのだから。
伊月は、小宮を自分から剥がし、声をかける。
「小宮、起きて」
声をかけただけでは起きず、肩を揺さぶった。
「わたにゃくん」
「なに、起きて」
「いきてる?」
「生きてるよ」
「鑑賞会、いやだったよね」
小宮は、ごめんね、と続ける。伊月に返す言葉がなかった。
「ちゃんと、いやなことはおしえてね」
小宮はとろんとした眼差しにもかかわらず、視線を逸らさせてはくれなかった。責任を感じているような、申し訳なさも滲んでいる。黙ったままの伊月に、小宮はそっと小指を差し出した。
「おしえてね、約束」
動かない伊月の手を取って、小宮は小指を絡ませた。
「わ! 泣かないで」
意思とは反して、理解できない涙があふれた。小宮をいつも突き離せないのは、俺が小宮を利用したいからだ。その他の理由は必要ない。だってあと、卒業まで三か月もない。この生活は決して続かず、幻にさえ近いものだ。
震える伊月をさすりながら、ごめんね、ごめんね、と小宮は繰り返し謝るが、伊月の泣き方はどんどんひどくなる。
心配してくれる声がある、さすってもらえる手がある、今、自分は一人じゃない。そう思うほど、母から与えられたものと比べてしまい、息ができなくなってしまう。伊月は小さな子どものように丸くなって、声を漏らして泣いた。
次に目を開けると、小宮の腕の中に収まっていた。守られるように抱かれ、穏やかな心音が聞こえる。首だけを動かして見渡すと、保健室は月明りで照らされていた。窓枠に置いたマグカップは片づけられている。
意識がはっきりしてくるのと同時に、寝る前の醜態が思い出された。父が死んだときでさえ、こんなふうに泣きじゃくっただろうか。記憶にはないような気がした。
暗がりに目が慣れると、小宮の顔がはっきりと月明りで浮かぶ。居心地の悪さが増すようだったが、それよりも、小宮の目元が気になった。異常なクマができている。
伊月は小宮を起こさないようにそっと起き上がり、顔を近づけて確認する。人のことばかり世話を焼いて、気疲れだろうか。新たな土地、寮生活、人間関係と、疲労は溜まるはずだ。小宮が転校してきて、まだ一週間と少ししか経っていない。どうして、こんな時期に、転校してきちゃったんだろうな。
小宮は、一回寝るとすぐには起きないらしい。小宮の柔らかい髪に、自分の指を通すと、さらりとすり抜けた。小宮を保健室に残して、伊月は裏門へ向かった。
「綿谷くんが俺を置いて、寮に戻った」
食堂で夕飯を食べていると、小宮が機嫌を損ねた様子で隣に座ってきた。寮長がよけてくれていた夕飯を大きな口で頬張る。学校のドアがすべて施錠されており、保健室の窓から出ようとしたところ、迚野と鉢合わせて怒られたと続けた。
「よく寝てたから……」
「また明日ね、俺はもう寝る!」
ものすごい勢いで夕飯を平らげても、まだ腹の虫が治まらない様子で小宮は席を立つ。保健室での件を問いただされることもなく、おかげで気まずさもなかった。
「どしたの? サボり魔二人は喧嘩中?」
部屋に戻る小宮とすれ違った菅崎が、マグカップを持って伊月の前に座る。小宮もなんか体調悪かったみたいだぞ、と続けた。
小宮の目のクマは、やはり見間違いではなかったのだろう。理由は分からないが、食事を摂っているときは、不思議と顔色が良かったように思う。
保健室に置き去りにした話をすると、菅崎は笑った。
「あんなに怒るとは思わなかった」
「それぐらい嫌だったんだろ」
起こしたとして、正門から一緒に帰れるわけじゃない。窓から出るのも、別に嫌がるほどでもないだろう。こうやって、夕飯も寮長が気を回してくれる。なにがそんなに、気に障ったのか。
「一緒に寝ていたかったのか……」
「は?」
「起きたら、隣で寝てて」
菅崎は、一緒のベッドに? でかい男子高校生二人が? と面白に続ける。
「保健室のベッドは狭いって」
「誰にも言うなよ」
念のために釘を刺す。小宮はなにも言ってこないかもしれないが、やはり思い出すと居心地が悪い。自分の目元の赤みは引いていたはずだよな、と顔に手を当てる。
不意にどすどすと階段を下りる音が、食堂に響いたかと思うと、小宮だった。『機嫌が悪い』と顔に書いてある様子で、電気ポットが置かれた台へ進み、じょぼじょぼとマグカップにお湯を注いでいる。
一言も発さない小宮が珍しく、菅崎と伊月がまじまじと見つめていると、二人に向かってチッと舌打ちをして、小宮はまた食堂を出ていった。
「最高……すぎるだろ、あいつぜったい、わざとじゃん」
「最悪……」
笑いを堪えたように言う菅崎は人でなしか。まさか、こんな険悪な雰囲気になるなんて。
「どうやって仲直りするんだっけ」
「え?」
「そもそも、友達ってどうやってなるんだ?」
菅崎は伊月の肩に腕を回して、面白そうに叩く。
「がんばれ」
それだけだった。鬱陶しい腕を振りほどきながら、残りの夕飯をかき込む。あまりにも長く感じた、文化祭準備一日目がようやく終わる。これがあと四日も続く。考えるとため息が出たが、腹が満たされてくると、どうにか頑張れそうな気もした。
