高校三年生である伊月(いづき)たちを最後に、風明館(ふうめいかん)はあと三か月で長い歴史に幕を閉じる。
 平瀬台(ひらせだい)学園高等学校は、西日本の辺境にそびえ立つ伝統ある男子校だが、建築でいえば学園と道を挟んで佇んでいる、男子寮の風明館の方が有名だった。
 寮の玄関がある旧建物側は、大正時代の建築様式がそのまま残っていて、大正ロマンといえば聞こえは良いが、階段の隅が朽ちていたり、隙間風が吹き抜けたりと快適とは言えない。昭和に増築された新建物側の老朽化も進んでいるため、風明館は翌春に取り壊しが決まった。
 自室の窓から、寮生がまばらに登校するのが見える。伊月は、道を挟んだ先にある学園の正門へ、ふと視線を移しそうになり咄嗟に屈んだ。ゴンッと窓枠に頭をぶつけ、朽ちた木が少し床に散らばる。
 女の霊と、目が合うからだ。
 正門の左奥にある、時計塔の下にそれはいる。今朝は女の気配を中心に、有象無象の濁った気が靄を成して集まっていた。意思には反して、この世の理に外れたものたちを反芻してしまう。体が抑え付けられたように急激に重くなり、伊月は低く声を漏らした。必死に腕を伸ばしカーテンを力任せに引いて、床に倒れこむ。
 目の端にかすめただけ。正門の境界を越えていないのに、この有様だ。上がった息を整えながら、目線の先にある時計を見ると、針は八時五分を指す。HRには早いが、風明館から二十五歩の正門を通れないため、もう部屋を出ないといけない。
 伊月はゆっくりと起き上がり、立てるか確認する。重たい頭をもたげながら部屋の鍵を閉めると、途端に吐き気に襲われた。トイレに走る。気に触れると日常生活さえままならない。
 物心ついた頃には既に、俗に言う、霊感体質だった。
 
「今日は、柴犬か……」
 正門に背を向けて第三校舎側へ回ると裏門があり、裏門のすぐ前の地面には、不自然に穴が開いている。『伝統ある』と書いて『変われない』と読むような学園には、昔から生徒の間で埋めてはならないと暗黙の了解がされている穴があった。
 既に遅刻だと諦めて、伊月はだるそうに学ランを脱いだ。コンクリートが敷かれている校舎の隅に、汚れないようにまるめて置く。地面に開いている穴を慣れたようにまたぎ、足に力を入れ、泥が付かないよう慎重に穴に落ちている柴犬を抱き上げた。
 柴犬には新しい首輪がしてあり、嬉しそうに尻尾を振る。地面に下して軽く撫でると、少しだけ肩が軽くなった。第三校舎は古い分、気が溜まりやすい。受験を控えた晩秋は学園全体の気も重く垂れ込んだ。
 伊月は穴の底を黙って見つめる。前に落ちていた猫も諦めたように、穴の中で小さくなっていた。人が落ちて這い上がれない程の大きさではないが、穴に落ちたものはいつもそうだ。
「本当、普通ってものを知らないな!」
 声がした方から肉を殴るような音が続き、苦しそうな呻き声が混じった。第三校舎の陰から覗くと、第二校舎へ繋がる渡り廊下でガラの悪い生徒が束になり、一人の生徒を殴っている。
 伊月は、目を細めて小さく息を吐いた。リンチが繰り広げられる横を通らないと、昇降口に行けない。三か月後に卒業を控えた今、余計な面倒に巻き込まれる趣味はなかった。
 開いている窓を探して教室に入るかと思考を巡らしていると、腕の中で拾得物がクーン、と鼻を鳴らし、べたべたと伊月にしがみ付く。結局、今日も泥だらけになる始末であった。
 
綿谷伊月(わたやいづき)くーん、遅刻でーす。流石に気づきまーす」
 HRの最中で教卓に立っているS組の担任が、教室の後ろ扉から入ってきた伊月に声をかける。ジャージを着た国語科の教師は、三年間でこの人だけだ。特進コースのS組は偏差値七十九と賢いにもかかわらず、担任の迚野(とての)は伸びた髪を後ろでまとめて、無精ひげを生やしているような体たらくであった。
「また、お前のカメが脱走か?」
「カメにしては、足跡がでかいっす!」
 担任に細い目を向けられた生徒が答える。
 別に穴に落ちた生き物を助けるために、裏門を通って登校している訳ではない。尊い命を助けたいという正義感も無い。ただ数日に一回、割と高確率で、伊月は穴に落ちている生き物と遭遇する。
「おはよ、今朝は犬?」
 前の席に座る菅崎謙真(すがさきけんま)が振り向き、泥が付着した伊月のシャツを指さす。
「犬を拾うだけで、ここまで汚れるか?」
「元気いっぱいの犬だった」
 菅崎が嘘は良くないぞ、と食い下がるので、伊月は椅子に座ったまま菅崎の椅子を離すように足で前に押し出した。
 菅崎との付き合いは、伊月が初等部の途中に平瀬台学園小学校へ転校したときから続いている。二年前までは中等部も風明館の相部屋を使っていて、伊月と菅崎は三年間、同室だったのもあり、腐れ縁というやつだ。
 担任が出席簿を閉じた。
「転校生を紹介する」
 伊月は、担任の一言でざわつく教室に反して、机に肘を付き窓の外に目を向ける。十一月の朝は寝坊した太陽を無理やり働かせているようなあやふやさがあった。季節さえけだるそうな日々でも、決まった時間に起きて、制服を着て、学校に行く。毎日が繰り返しで、なにも変わらない――そう、思っていた。
「伊月、大丈夫か? すごい勢いで足ぶつけるじゃん」
 今までの自分が死を迎えたような出会いがあるなんて、十八歳の伊月は知る由もない。あまりの衝撃に、体が反射で跳ね上がったのだ。
 なにかが、来る。
「どこ行ったかなあ、俺のクラスは問題児だらけかー」
 担任が教室の扉を開けて、身を乗り出しながら廊下を見渡す。すみませーん、と廊下の奥から声がして、軽快な足音が近づいて来る。
「家庭の事情で転校になりましたー」
 黒板の前にふわりと立ち、緊張感の無い声で彼は言う。空気が変わった――軽くなった? いつも通り教室には、受験期特有の重たい念が溜まっていたのに。
小宮昂(こみやこう)です」
 纏う気があまりにも澄んでいる。クラスに向けられた咲くような笑顔よりも、小宮が纏う爆発的な気に惹かれて呼吸を忘れる。もはや、彼の気が発光さえして見え、伊月は震える体を抑えるように机に伏せた。
「迷ったか?」
「なんか絵? を持った生徒が倒れていて、保健室に預けてきました」
「あーもー、相浦(さうら)だよ」
 迚野は、教卓の前の空いている席を見下ろしながら、だらりとした前髪をかき上げ、こりゃまた喧嘩だな、と渋い顔をする。切り替えるように小宮へ自己紹介を促した。
 東京に住んでいた、誕生日は八月――声が耳をすり抜けていく。ゆっくり顔を上げると、視線が小宮とぴったり合った。伊月が目を離せないでいると、小宮はにこりと微笑む。
「知り合い?」
 菅崎が振り向きながら聞いてくるので、知らない、と答えるが声が震えた。さっき助けた柴犬の一億倍と言っていいほど、小宮の気は心地よい。今までにない体験は恐怖に近く、伊月の額を汗が伝う。
「じゃ、綿谷ー、学園と風明館の案内してやれ。小宮から協調性と愛嬌を学ぶということで」
「困ります」
 伊月は反射的に答えた。これは本能だ。近づいてはいけない。
「綿谷の隣の席は、ご覧の通り空いていますし、お前、今日、日直だから」
「俺より、寮長が適任……」
 クラスの視線が担任と伊月へ交合に向けられる。
中本(なかもと)は、選抜推薦入試を滑ったので、今も勉強が忙しいんです」
「傷を抉らないでくださーい!」
 良いも悪いもすべて自分の気で跳ね除けているような、寮長の声が響く。声量とは裏腹に露骨に覇気を失ったような顔を浮かべているので、クラスの中で笑いが起きた。
「綿谷、よろしくな……」
 おでこを机にくっつけて、親指でグッドマークを向けてくる。朝の点呼に出ない伊月を、一年生のときは毎朝かかさず、部屋の前まで迎えに来ていたような人間だ。声を聞くとやはり、今朝もあからさまに自分の部屋の方へ、起きろと叫んでいた気がする。
 小宮は促されるままに、伊月の隣の席へ腰を下ろした。
 寮長のように生気だけが強い人間の他に、周りさえ浄化していく人間がごく稀にいるのは知っていた。でも、ここまで自分の体質と相性がいいのは初めてじゃないのか。頼む――存在するわけがない神にさえ、すがりたい気持ちになった。なにを頼みたいのかさえも分からない。そうだ、近づきたくない。何者? 同じ人間が持つ気か? 頭の中をぐるぐる回る思考が止まらない。
「ごめんね。よろしくね、綿谷くん」
 隣から朗らかな声が投げかけられる。目を合わせないまま、伊月は声が震えないように努めた。
「よろしく……」
 冷や汗でシャツが背中に貼り付く。一言を発するのが限界だった。一旦、思考を整理しよう。俺はなにも気づいていない。なにもなかった。そういうことにする。普通の人には分からない感覚で、自分だけが感じる『なにか』と小宮の気は同じ類のものだ。
 これ以上なにも考えるなと思考を抑えながら、深く机に伏せると、次は異常な眠気が伊月を襲った。次から次へと起こる体の変化に抗えないまま、教室の声が遠くなっていく。伊月は、すこんと気を失ったかのように、深く、眠りこけた。

「綿谷くん」
 声に誘われるように目を開けた。教室が眩しくて伊月は目を細める。
「お昼休みだよ」
 進路が既に決まっていて、ほとんどを寝て過ごす伊月を律儀に起こす人間は、この教室には居なかった――高校三年生の十一月に、転校生か。ぼんやりとした思考のまま、申し訳なさそうに眉毛を下げる小宮を、伊月はじっと見上げた。
 目を、逸らせない。飲み込む物が無いのに思わず、喉がごくんと動く。
「食堂に行こう……」
「ありがとう」
 小宮は断られると思っていたのだろう。予想外の伊月の返事に少しだけ声を高くする。
 二人は一緒に席を立ち、教室を出た。伊月の拒否反応のような体の異変は治まっていたが、次は羽が生えたように体が異常に軽く、感情さえ浮足立つ。深く息を吐いても、鼓動がなんとなく速い。
 警鐘を鳴らす理性と本能の狭間で、決着のつかない判断が揺れたまま、ずるずると小宮に引き寄せられているのが明白に理解できた。
「平瀬台学園って広いんだねー」
「小学校から大学まで一貫だから、それなりに」
 昇降口に向かう道すがら、校舎の案内をして歩いた。小宮は学園のパンフレットを広げ、S組があったのが第一校舎で、隣の第二校舎に自習室があって場所は二階、と確認していく。
「今はまだ、クラス全体で過去問の演習中だけど……」
 いつもより喋りすぎている自覚があって、伊月は言葉を詰まらせた。小宮が、ん? と顔を向ける。調子が狂うのだ。
「受験終了組は、自習室で資格の勉強とか、既に出されている大学の課題をする予定で、たぶん文化祭が終ってからがそう」
 小宮の機嫌の良さは分かりやすく伝わってくるほどだった。底がつきそうもない笑顔は、いったいどういう仕組みで湧いているのだろうか。
「綿谷くんはもう、進路は決まってるの?」
「一応」
「平瀬台大学にそのまま上がる感じ?」
「そう」
「いいなー、そっか」
 廊下を歩きながら小宮は、窓の外へ視線を移した。
「俺もこの街にずっと居たい。少し行けば海もあるんだよね? 空気も甘い気がする」
「だから機嫌がいいのか?」
 伊月はこぼすように聞いていた。平瀬台は視界に必ず山が入るほど田舎だ。学園の校舎よりも高い建物は無く、ここから目立って見えるのは風明館と奥にある平瀬台学園の小学校、中学校ぐらいだった。
「ここ、母の故郷なんだよ」
 小宮は、やっと来られたなー、と続けて小さく言って先を歩いて行く。小宮の話に相槌を打ちながら、保健室、図書室、職員室と案内していると、視線の先に生徒が群がっているのが見えた。
「購買も、ある……」
「あはは、寮生じゃない生徒もいるもんね。俺はでも、食堂の昼ご飯に賛成だよ」
 混じりけの無い笑顔が、伊月に向けられる。
「ん? 綿谷くん、きょとんとしてる」
「トイレ寄っていくから、風明館の食堂で待ってて」
 伊月は、小宮の返事も待たず踵を返した。あまりにも気が晴れるから、動揺する――平和そうで間抜けな音で表現されたな、と思いながら、裏門へ急ぎ走って風明館へ向かった。

「もったいないなあ。崩しちゃうなんて」
 小宮が食事をテーブルに置きながら、大正時代の建築様式が際立つ食堂を見渡す。
 窓の色ガラスから日差しが入るものの、食堂は昼間でも薄暗い。切子で菊の模様が施された照明が天井からいくつもぶら下がり、灯りがともされていた。
「この柱時計、時間あってるの?」
「あってる」
 小宮は食堂の入り口付近に置かれた、大きい柱時計を眺める。内装にもこだわりがあり意匠の凝らされた家具は、柱や梁と同じくダークブラウンの木材で作られている。テーブルごとに並べられた椅子のクッションには、大正ロマンを象徴する赤色が映えていて、落ち着いた中にもどこか華やかな雰囲気が漂う。
 伊月は小宮の前に座り、黙って食事を口に運んだ。
「このお肉おいしい!」
 小宮は満面の笑みを浮かべると、でも、早く食べないと昼休みが終わっちゃうね、と続け、時折、味の感想を挟みながら満足そうに味わった。
 本来ならば交わることもなかっただろう。あまりにも自分とかけ離れている性格で、小宮は愛されるのが当たり前のような人間だった。箸の持ち方さえ、異様に綺麗に見える。
「綿谷くん、部屋で着替えていくよね?」
 小首をかしげて見てくる小宮に、伊月は我に返って自分のシャツを見下ろした。左手で軽く触ると、乾いた砂が指に付く。
 ため息をついて、箸を置いた。腹が満ちたせいかまた眠気がぶり返し、意識がぼんやりとする。どうして――案内なんか、引き受けたんだろうな。
 こめかみを押さえて視線を向けると、ふふ、とこっちを見て笑う小宮と目が合った。
 
 食事を終え、伊月の自室に向かう間も、二人のとりとめのない会話は続く。伊月は相槌を打ちながら、小宮を少し後ろから追いかけた。年季の入った風明館の階段を、小宮は軽やかに上っていく。
 匂いがふわりと風に乗って、鼻をかすめた――生きている、人間の匂いだ。意識しないように会話に集中するが、伊月の相槌は曖昧になる。
「文化祭でのお化け屋敷、楽しみだね」
「お化け屋敷?」
「うん、綿谷くんが寝てるときに決まった」
 小宮は、怪訝な顔をしている伊月に、三年生は例年催しをしないが、風明館の最後を飾りたいというクラスからの熱い希望でS組は特別に催しが許された、と説明する。
「風明館で?」
「そう!」
 階段にある窓から木漏れ日が差し込んで、嬉しそうな小宮を照らす。伊月は顔を逸らした。喉が詰まる感覚に襲われ、逃れるように考えを巡らすが、目が泳ぐだけだ。
「S組は去年の文化祭、なにをしたの?」
「覚えてない」
 そっけない返事に、そっかー、と空気を読んだように、小宮はそれ以上詮索しない。床の軋む音が響く。生徒の声がだんだんと遠くなり、二人だけが取り残されたように存在している。
 不特定多数の人間が出入りする文化祭は、気に触れやすい。毎年、自室で過ごしていたのに、風明館が会場となれば逃げ場がない――それどころか、お化け屋敷だなんて。
 自分に纏わりつく怨念のような感情、悲痛な叫び声、形容しがたい臭気を想像して、喉が少し狭くなった。
 同じ時に閉じ込められたような閉塞感のある陽気の中で、伊月の足元へ極彩色が落ちる。
「おしゃれだよなー」
 三階に続く階段の中腹に立ち、壁にはまった大きなステンドグラスの方へ、小宮が振り返った瞬間だった――。
「うわ!」
 小宮が体勢を崩し、伊月の方へ落ちてくる。咄嗟に手を伸ばすと、小宮の肌に触れた場所から熱が巡り急激な眠気に襲われた。
 遠くなる意識の中、伊月は必死に確信を否定している。とうの昔に諦めて、手放した感覚だ。欲しても、泣いて求めても、母親からは決して、与えられることは無かった。
 自分に回された両手から、小宮の心地よい気が体に注がれていく――どう受け止めていいか分からない。泣きたくなるような、こみ上げる胸のざわめきを隠したかった。
 二人は抱き合って落ちる――まるで、凪いだ海に飛び込むようだった。

「お前ら夜も一緒に食ってんの?」
 夕飯のおぼんを持った菅崎が二人に声をかけ、伊月と小宮が向かい合って座っているテーブルに着く。小宮は唐揚げを食べていた手を止めて、迎えるように微笑んだ。
「菅崎でいいよ、よろしくな」
 小宮は、菅崎が伸ばした手を、よろしく、と軽く握り返した。
「風明館のご飯って、すごくおいしいんだね」
「本当にいいやつじゃん……」
 菅崎は自分の唐揚げを一つつまんで、もっと食べな、と小宮の皿に入れる。目の前の光景に伊月は一瞥もしないまま、ぼんやりと食事を続ける。
 食堂は金曜日の夜なのもあり、いつもよりがやがやとしているが、寮生の全員がS組というのもあって転校生の小宮を珍しがったり、囃し立てたりする者はいなかった。
「風明館の階段から落ちて、気を失ったんだって?」
「ぎりぎり失ってない」
「俺が、階段の端が腐ってるのに気づかなくて……」
 小宮は伊月を覗き込んで、本当にごめんね、と申し訳なさそうにする。幸いどちらにも怪我はなかった。小宮が落ちてくる瞬間、伊月は助けるように手を伸ばしたが、小宮に守られる形で階段の踊り場に転がり落ちていた。
 予想以上の腕力で小宮に体を抱き寄せられたのだ。生物学上、小宮も同じ男だったと変に改めて認識する。そのまま呆気にとられていると伊月は小宮に担がれて、保健室で寝かされた後、今に至る。
「あそこのボロさやばいだろ」
「でも、すごくきれいだった」
 食堂は風明館の旧建物側にあり、伊月たちが今座っている場所からも見える階段を上ると、二階と三階を繋ぐ階段の踊り場に、大きなステンドグラスがはめ込まれている。風明館を象徴する一つだ。山風が海へ抜けるような平瀬台の土地を模したデザインが施されていて、代々の生徒が記憶を染み込ませる場所でもある。
 食堂から増築側にある自分の部屋へ行く近道ではあるが、伊月は体質的に好んで通る場所ではなかった。小宮と居たからだろうか。本能的にその階段を避けず、自然と道なりに自分の部屋へ向かっていた。
「伊月、小宮のこと見過ぎだろ」
 菅崎が頬杖をついて悪い顔をしながら、好きなの? と伊月を見る。
「好きなの?」
 伊月が悪態をつこうとしたのと同時だった。寮長が配膳の手伝いを終えて、小宮の隣に座りながら、菅崎と同じ質問を繰り返す。
 風明館の食事は食堂で作られている訳ではなく、食器と一緒に業者から届けられている。混み合う時間は、寮長が率先してとり分けをしているのだ。
「これからよろしくな。みんなから寮長って呼ばれてる」
 小宮に握手を求める寮長を、菅崎は指をそろえて、崖っぷち受験生の中本丈一郎(なかもとじょういちろう)くんだよ、と手のひらで示した。お前も受験生だろ……、俺はバリバリ合格圏内なんでね、と二人は軽口をたたき合うが、突然示し合せたようにがばっと伊月の方へ顔を向ける。
「「で、好きなの?」」
「あはは」
 そろった声に我慢しきれないといった様子で小宮が噴き出した。このように伊月に容赦なく構うのは、三年間でこの二人だけだ。伊月は呆れ顔で箸を止めたが、結局なにも言わず、冷えた味噌汁をすする。
「そのかわいい顔は、ママ似だろ?」
「菅崎、正解。俺はママ似です」
 寮長が、絶対美人じゃん……卒業式で遠くから見てみたい、と目を輝かせるので、遠くからかよ、と菅崎が小突く。
「ママのハンバーグおいしいから、ぜひみんなにも振る舞いたいな」
「ハンバーグはうちの中本ママも負けてないぞ」
「ママ呼びは君らのルール?」
 反射的に聞いていたのを同時に自覚して、伊月は誤魔化すようにお茶を飲み干す。
「ママって呼ばないと、返事してくれなくて」
 小宮が恥ずかしそうに答えると二人も続いて、そうなんだよ、と同意している。伊月は彼らを一瞥して、食べかけの料理が載ったおぼんを持って席を立った。
「お前が、誰かと飯食べるとか珍しいな」
「まだ風明館の案内中なんだよ」
「文化祭ちゃんと参加しろよ。最後なんだから」
 引き止めるように寮長も続ける。
「――考えとく」
「修学旅行さえ、結局来なかったのに?」
 菅崎の一言に、伊月は声を絞り出そうとするも、言葉にならず口だけが動いた。
「これ、お礼!」
 なにかが突如、開いた口に無理やり詰め込まれ、果汁が口いっぱいにひろがった。小宮によって、上手に箸でつままれたデザートのイチゴは伊月の口に運ばれ、一拍遅れた条件反射によって口で潰されたのだ。
「お、間接キッス」
「まじか! 男子校で縁の無いビッグイベント!」
「伊月!」
 食器の落ちる音が食堂に響いた。体から突然力が抜け、横に座る菅崎にもたれ掛かる。指一つ動かせず、伊月はずるずると床にへたり込んだ。
「中本、救急車呼んで! あと迚野先生も! 多分家にいるだろ!」
 菅崎の声に、寮長は分かった! と叫ぶ。周りの音がぐわぐわと大きく響く中で、会話だけが鮮明で、脳で直接再生されているようだ。
「伊月! 伊月!」
「――小宮って、何者なの」
 伊月が声を漏らすと、菅崎が体を揺するのを止めた。
「生きてるな!」
「綿谷くん!」
 小宮は狼狽した様子で震えながら、伊月に身を寄せる。肌に触れたときの比ではない急激な眠気に襲われ、意識が深く潜っていく。伊月は閉じていく瞼を開けようとするが、抗えずこくんと首を傾けた。
「こいつ、寝てるな……」
 意地になって睡魔と格闘しながら、まだ寝てない、と菅崎に言い返すが、声になったかどうかさえ分からなかった。本日二度目の意識混濁の中、とうとう伊月は卒倒する。

 目覚めると暗闇が広がっていた。今が、何時なのか検討もつかないが、見渡すと保健室のベッドで寝かされているのは理解できた。
 明瞭になっていく意識とともに、覚えている記憶を反芻する。原因は小宮だと分かっている。肌――そして、唾液か。箸に付着するほどの量でこの有様なのだ。小宮に近づくのは危険だと、理解しているつもりだった。
――キモチワルイ。
 伊月は両手で耳をふさいだ。母の記憶で唯一覚えているのは、自分を拒絶する声だ。自分を殴る手だ。なにかがあってからでは遅い。体質のことは誰にも気づかれたくない。歯がカチカチと音を立て、奥歯を食いしばる。
 どうしてあんなやつが転校してきてしまったんだ。いくら理性で拒絶しても、体が勝手に小宮を求めてしまうのが嫌だ。手のひらに爪が食い込み、意思とは反して涙が流れる。
「綿谷――」
 保健室に響いた嗚咽に、迚野はためらいなくカーテンを開けた。伊月が目を覚ますまで、起こさずに付き添っていたのだろう。
「息をゆっくり吐け、大丈夫だ」
 背中をさすってくる手を振りほどきたかった。朦朧とする意識の中で、高校生活が終わろうと、人生は終わらない事実を恨む。それでいて自殺する勇気もなく、惰性で生命活動を続けている自分がどうしようもなく醜い。
 このまま死なせてほしい、そう願って毎晩目を閉じる。
 
 次に目を覚ますと、保健室は薄い青に染まっていた。頭上の壁にかけられた時計は、六時半前を指している。朝日が昇りきる前の静けさは、この広い世界に一人、伊月だけが存在しているかのようだ。
 一生、青白く染まる部屋の中で死ぬまで丸まっているのがいい。変化はいらない。握りしめた手のひらが不意に痛む。乾いた血が付いている箇所から、また新しく血が滲んだ。保健室の寝具を汚さないように、伊月は自分の服を握りしめ、静かに肩を震わせる。
 今までにないほど、頭がすっきりして体が軽い。慢性的な倦怠感が解消されたような気さえする。涙が、止まらなかった。

「ごめんなさい」
 転校初日に、案内係を二度、物理的に倒した男が教室で頭を下げる。土日の間、伊月がほとんど部屋から出なかったため、小宮とは二日ぶりだった。
 伊月は視線を手元に落とす。あの晩、露骨に態度に出していた自覚があった。小宮のあれは、気を使った行為だと理解している分、責めるどころか感情的になった自分を思い出していたたまれない。
「寝不足だから」
 短く答え、窓の外へ顔を逸らす。小宮はうん、と元気の無い返事をした後、それ以上の会話は続かなかった。
 倒れた後の話を眠たそうな迚野から土曜の朝に説明された。迚野の家で鍋を囲んでいた養護教諭と一緒に駆け付けたが、爆睡しているだけと判断して、救急隊もすぐに帰っていったらしい。
 念のためだと言って保健室を出るときに、伊月はそのまま病院へ連れていかれそうになったが、全力で迚野の腕を振り払い健康を主張した。学園の近くにある、古い病院に連れ込まれた方が、たまったものではない。
 伊月は、なにを見るでもなく、習慣のように窓の外へ顔を向け続けた。二階から見える空も十分に広く、S組の窓の下には中庭があるだけで視界も開けている。
 教室の空気がやはり心地よかった。朝方の濁流のような希死念慮が、ぴたりと息をひそめている。小宮がそばにいるだけで、ただ、無念なほどに息がしやすい。
 過去問を解く紙とシャーペンが擦れる音だけが教室に響き、淡々と午前が過ぎていく。騒がしいクラスの雰囲気が通常とはいえ、進路が決まっている者と、決まっていない者が混在する教室は、秋からだんだんと複雑になった。見栄と嫉妬が塊となって、どす黒く、重く、垂れ込むこともある。伊月にとって十代の純粋無垢な感情は、簡単に鋭利な刃となった。
 クラスの中だけではなく、学園全体の気が鎌首をもたげるように、徐々に臭気が立ち込めている。特に顕著なのは、就職組のクラスがある第三校舎や、慌ただしくなる職員室だった。
 伊月の体調もそれに伴い、ひどく不安定になる。黒い霧となって見えるほどの気を纏った生徒も出てくるので、伊月はいつも警戒態勢で過ごしていた。一昨日まで、そういった生活が当たり前だった――でも――。
 伊月は過去問を解いているふりをして、右横へ視線を少し移した。理性が本能に追い付かず、気づけば目で追っている。襟足まで丸みを帯びた髪はしなやかで、教室の光が反射しているのか、少し明るく見えた――髪でも、いいのだろうか。
 小宮の体の一部を継続的にもらえれば、この厄介な体質は落ち着いて、楽になれるかもしれない。選んだ瞬間に現実的ではないと選択肢ではなくなる問答を、気づけば何度も繰り返している。
「風呂とか洗濯の説明は、俺と中本がしたから」
 前に座る菅崎が不意に、伊月の方へ振り向いた。ありがとね、と小宮の声も横から飛ばされる。案内係は終わった。他のクラスメイトと同様に、小宮と関わることはもうないと思うと、少しだけ体から力が抜ける。
 伊月はそのまま、いつも通りに机へ伏せた。