ピピピ…と遠くで目覚ましの音が聞こえる。
僕は音のなる方へ手を伸ばしてボタンを押し、すぐさま腕を引っ込めて冷たくなった腕を温めた。
これは小学校三年生の本格的な冬が始まる少し前。
まだ自分1人で朝起きることの出来ない僕は、毎日目覚ましのアラームを消して、母親に起こしてもらっていた。
朝は苦手だけど、学校は好きだったから風邪を引いた時以外、休んだことはなかった。
母親に布団をはぎ取られ、ひんやりとした空気から逃げるように、開きづらい目を手で擦りながら部屋から出る。
ぬるま湯で顔を洗ってリビングに行けば、食卓の上には目玉焼きの乗ったトーストと温かい野菜スープ。
ついていたテレビをぼんやりと見ながらそれを食べ、寝間着を脱ぎ捨てるようにして着替える。
そして少し汚れたランドセルを背負って玄関を開け、庭にいる犬の『タロ』に「行ってきます。」と、声をかけるのがいつもの日課だった。
冬の足音が聞こえ始め、気温が下がり始めた10月。
寒いのは得意じゃないけど、もうすぐ大好きな雪の季節が来ることを冷えた空気で感じれて、少しワクワクした。
(そうだ!今日はちょっと寒いし、タロであったまってから行こうかな。)
そう思って、今日は犬小屋へと近づいた。
タロはシェットランド・シープドッグという毛足が長い犬で、冬は湯たんぽみたいにあたたかい。
雪が降ると2人ではしゃいで雪遊びをするのが楽しみだった。
僕が生まれる前から飼っていたらしいから、本当はタロの方がお兄ちゃんなんだろうけど、気づいたら僕の方が大きくなっていたから、弟のように感じていた。
「タロー、おはよー!」
犬小屋を覗くと、タロは奥の方に頭を向けて眠っていた。
生まれつき耳が聞こえづらいらしいので、元々呼んでもあまり反応がない。
僕の「行ってきます。」に反応する方が少なかった。
だから僕は気にせず近づいて、まずは背中を撫でた。
「寝てるのかー?…あれ……?」
手を引っ込めて自分の手を思わず見つめる。
触れた手のひらが、冷たかった。
いつもの、あの温もりを感じない。
もう一度、今度は皮膚に触れるように奥まで触れてみるが、ひんやりとしている。
普段と違う体温に、急に胸のあたりがざわざわと嫌な感じがして、僕は急いで家に戻った。
靴を履いたまま玄関から、大きな声でお母さんを呼ぶ。
「お母さーん!タロが冷たい!」
キッチンで食器の片づけをしていたお母さんが急いで顔を出し、新聞を読んでいたお父さんも様子を見に来た。
「タロ!」
「タロ、どうした?」
みんなで名前を呼んで犬小屋を覗きこむ。
お父さんがタロのお腹や首、顔など触ってから、お母さんを見て首をゆっくりと横に振った。
すると、お母さんは急に手で顔を覆って静かに泣き始めた。
「…お母さん?」
庭の向こう、道路を通り行く人が何事かとこちらを見ては、興味なさそうに歩み去っていく。
お父さんは家から薄手の毛布を持ってきて、タロの体にそっとかけた。
「夏輝、学校に行きなさい。タロのことは、お父さんとお母さんが見ておくから。」
「……うん。わかった。」
ーーなんとなく、頭ではわかっていた。
でも、わからないふりをした。
きっとタロは寒くて元気がないんだ。
美味しいおやつでも買って帰ったら喜ぶだろうか。
新しいボールの方が喜ぶかな?
そう思いながら僕は学校に向かい、いつも通りを過ごす。
いつも通りと言っても、休み時間のドッチボールはなんだかそんなに楽しくなくて、
授業中にする落書きも、今日はあんまり描けなかった。
窓から外を見ては、「タロどうしてるかな…」と、考えてばかりで、
友人からも「今日のなつき、変だよ。」と言われてしまった。
授業が終わったら、今日は友達と遊ばずに真っすぐ家に帰ってきた。
早くタロに会いたかったからだ。
家に入る前に庭へ行き、犬小屋を見に行ったが、誰もいなかった。
いつもなら、尻尾を振って僕の帰りを待っているはずなのに。
タロのお気に入りのおもちゃも、朝お父さんがかけた毛布もなく、犬小屋はまるで新品のように空っぽだった。
不思議に思いながら家に入れば、何やら大きめのダンボールが置いてあった。
お母さんがまた通販で何か買ったのかもしれない。
僕はランドセルを部屋に放ってから洗面台で手を洗った。
「おかえりー、早かったわね。」
僕に気づいたお母さんが廊下から声をかける。
濡れた手をタオルで拭いてから声のするリビングへ駆け足で向かった。
「お母さん、タロどこに行ったの?」
「…こっちよ。」
少し悲しそうな顔をしたお母さんの後を着いて行けば、玄関に戻ってきた。
犬小屋にいないのは確認したのに、そう思うが、お母さんの足はここで止まった。
キョロキョロと辺りを見回しても、耳を澄ましても、タロの姿はどこにもない。
お母さんはしゃがんで先ほどの大きなダンボールを開けた。
「……タロ…?」
そこには毛布に横たわるタロと色とりどりのお花、タロが気に入っていたおもちゃやぬいぐるみ達が入っていた。
いくら見つめても、タロの目は開かない。
いつも上下に動いていたお腹も、動かない。
本当は、薄々、わかっていたんだ。
「タロね、……天国に、行っちゃったんだって…。」
お母さんが悲しげな、上ずった声で言った。
ダンボールから目が離せなかった。
何回見ても、寝ているようにしか見えない。けれど、ぬくもりの消えた、ぬいぐるみのようなタロ。
胸がぎゅうと絞められたように苦しくて、僕はお母さんと目が赤くなるほど泣いた。
夜、夕ご飯が終わってから知らないおじさんが家にやってきた。
お母さんたちが話してるのを聞いてると、どうやらタロを迎えにきたらしい。
…お迎えって、どこへ?
ここが僕たちの家なのに。
なんで、タロを知らない人に渡さなきゃいけないんだ…!
僕がタロを渡したくない、とダンボールにしがみついていると、おじさんは優しい声で言った。
「タロくんはね、残念だけど、もうおじいちゃんだったんだよ。私よりも、うーんと年上だ。」
「……おじい、ちゃん…。」
「そう。それでね、このままにしておくと、体がボロボロになっちゃうんだ。」
「……タロのこと、どうするの…?」
「おじさんはね、動かなくなったワンちゃん達をお空に連れていくお仕事をしてるんだ。」
おじさんは外に停めている大きな車を指差して言う。
一見ちょっと大きいだけの普通の車に見えるが、車の横にはアルファベットと天使の羽の絵が描いてある。
僕は車とおじさんを交互に見る。
この時の僕にはよくわからなかったが、後になってあのおじさんは移動式のペット火葬の人だったと知った。
「…しんじゃうと、一緒にいれないの……?」
「…そうだね。しんじゃうと、お空に行かなきゃいけないんだ。でもね、これだけ大切にされてきたタロくんなら、大切な家族のことをお空から見守ってくれるはずだよ。」
僕は少し、迷ってから渋々手を放した。
タロをこのままにしておくのも、よくないんだと思ったから。
以前、夏祭りで捕まえた金魚が死んだときは庭に埋めたけど、タロには庭じゃ狭いだろうし、空でお散歩している方が、きっと楽しいだろうから。
おじさんはダンボールからタロをゆっくりと取り出すと、綺麗な箱へと移し替えた。
お花やぬいぐるみのオモチャ、お菓子を入れていき、「これはごめんなさいね。」とプラスチックのオモチャだけが元のダンボールに取り残される。
車の後ろを開けて、更にその中にある扉を開けて台を引っ張り出す。
おじさんはその台の上に、箱ごとタロを乗せる。
扉を閉める前に、お母さんが消え入りそうな声で、泣きながらタロに声をかけた。
「…、ありがとうね……、タロ。」
それを聞いて、僕もタロに何かを伝えたくて、
「たろ…、さびしかったら…っ、かえって…、きてね……っ!また、…遊ぼうね……!」
僕の言葉を最後に扉は閉められた。
もう、二度と会えない。
明日、小屋を覗いても、弟のような兄に抱き着くことも、会うことも出来なくなる。
涙で霞んで、よく見えなかったけど、暫くしてから今まで嗅いだことのない焦げるような臭いが少しだけして、おじさんが指をさした車の上から白い煙がうっすらと見えた気がした。
僕はタロが天国で寂しくないように、と願いながら、おじさんやお母さんの真似をして手を合わせた。
おじさんが帰った後、お母さんが何枚かの写真をくれた。
それは僕とタロが写った写真だった。
赤ちゃんの僕と、一緒にお昼寝をしているタロ。
保育園を嫌がる僕と、連れて行こうとするお母さんから僕を守ってくれているタロ。
小学校の入学式に撮った、タロとの記念写真…。
どれも懐かしくて、僕はこっそり布団に持ち込んで枕の下に忍ばせる。
ベッドに横になってからも、想い出が次から次へと動画のように再生されて、目からポロポロと涙が出てきた。
タロは、ちゃんとお空に行けたんだろうか。
僕がいなくて、遊び相手に困ってないだろうか。
そんなことを考えているうちに、僕は泣き疲れて眠っていた。
次の日、今日もお母さんに起こされてから、僕は枕の下に入れていた写真をランドセルのポケットへと移動させた。
タロと学校に行きたい、なんて我儘を言った日があったけれど、こんな形で叶うなんて、ちっとも嬉しくなかった。
顔を洗いに洗面台へ行くと、泣きすぎた所為か瞼が腫れていた。
リビングへ行って改めてお母さんを見れば、お母さんも瞼が腫れていて、2人で笑いあった。
タロは僕たちのペットじゃなくて家族だったんだな、と改めて感じた。
家を出て直ぐに庭の方を見るのが癖になっていた。
もう、タロの声は聞こえない。
それだけでこんなにも静かで、寂しい。
学校に着いて、教室に入っても、誰かの笑い声は遠くに聞こえるし、挨拶を笑顔で返すことも出来ない。
友達と話しも弾まないし、昼休みに遊んでも、どこかタロのことを考えてしまう。
僕は今日も、友達と遊ばずに家に帰ることにした。
帰り道、クラスメイトの女の子が話しかけてきた。
「青山くん。昨日から元気ないけど、どうしたの?」
彼女の名前は春崎未来…だったと思う。
あまり話をしたことはないけど、掃除や給食当番で一緒になったことがある。
思えば、友達の誰にもタロの死を話してなかったことに気づく。
誤魔化そうとも思ったけど、彼女の朗らかな雰囲気に、つい口が滑って話し始めていた。
「……タロが、…飼ってた犬が、死んじゃって…。」
今日、僕は初めて、家族以外の人にタロの死を話した。
別に親しくもない、ただのクラスメイトの春崎さんに。
もしかしたら、誰かに話したかったのかもしれない。
大事な家族が、1人いなくなってしまったことを。
どこか、体の真ん中に穴が開いてしまったような、何かが抜け落ちてしまったような感覚。
言葉に詰まりながら話す僕の言葉を、彼女は静かに聞いてくれて、僕は体が少しだけ軽くなった気がした。
「…そうだったんだ。」
「生まれた時から、ずっと一緒にいたんだ。」
帰り道の空き地で、座って話をした。
タロとの思い出話も、彼女は楽しそうに聞いてくれるから、僕はもっとタロのことを教えたくて、ランドセルから昨日貰った写真を取り出した。
「わぁ!かわいいね…!」
「シェットランド・シープドッグっていう種類なんだ。」
春崎さんは写真をまじまじと見て、僕に言う。
「…ねぇ、1枚だけ写真貸してくれない?ちゃんと返すから。」
「……返してくれるなら、いいけど…。何に使うの?」
「秘密!3日後には返せると思う。楽しみにしててね!」
「?わかった。」
大事な写真だったけど、何故だか彼女は大切にしてくれる気がして、写真を貸した。
楽しみにしてて、というくらいだから、きっと何かあるのだろう。
そして、彼女と約束した3日後の放課後。
僕は彼女とあの時の空き地に集まった。
「はい、これ!」
渡されたのは貸していた写真と、小さな紙袋。
「これ何?」と聞いたが、彼女は「開けてみて!」としか言わない。
とりあえず写真をランドセルにしまって、紙袋を開けると、ビーズでできた犬のストラップが入っていた。
「これ…!タロだ…っ!!」
「ふふ、私こういうの得意なんだ。」
「すごい…っ!すごいね……!!」
僕が喜ぶと彼女も嬉しそうに笑った。
犬のグッズはよく見るけど、タロに似たグッズが売っているのを僕は見たことがなかった。
これを作るために、春崎さんは写真を借りたかったんだ。
ストラップの紐からぶら下がる、ビーズでできた小さいタロは、まるで空中を散歩しているようで、空から僕に会いに来てくれたみたいだった。
「これ、…もらっていいの?」
「もちろん。青山くんに作ったんだから。」
きっと世界に1つしかない、タロのストラップ。
嬉しくて何度も「ありがとう!」と、春崎さんにお礼を言った。
空き地で彼女とバイバイしてから、ストラップを早くお母さんに見せたくて、僕は走って玄関をくぐり、脱いだ靴もそのままにランドセルを背負ったままお母さんを探す。
「お母さん!おかーさんっ!!!見てっ!!!」
「ちょっと、手は洗った……、あら、可愛いわね。どうしたの?」
「クラスの…女の子にもらった…っ!タロが帰ってきたよ!!」
息を切らしながらお母さんにストラップを見せる。
タロにそっくりなことが本当に嬉しくて、僕は何度もビーズのタロを見た。
夜、帰ってきたお父さんにも自慢して、枕元に置いて一緒に寝た。
翌朝からはランドセルにつけて、休みの日は外して防犯ブザーなどにつける。
僕はどこへ行くにもタロのストラップを持って出かけていた。
けど、春崎さんとはそれっきり。
ずっと話しかけたかったけど、なんだか恥ずかしくて教室で話しかけることができなかった。
そのまま、帰り道で会うこともなく、翌年のクラス替え以降、同じクラスにはなれずじまい。
お母さんは直ぐにお礼をしに行ったみたいだったけど、彼女と仲良くなれないまま卒業してしまった。
