氷上に描かれた、赤と青の二重丸――「ハウス」。
カーリングシートのハウスにしゃがんだ蛇池蓮は、柄の長いブラシで目印を示し、正面を見据えた。雪肌のせいで深窓の美人と思われがちだが、目つきは鋭い。
約四十メートル先で、スキップの角鹿拓海が同じくしゃがみ、丸いストーンを構えている。アイドルと見まがう顔をわずかに傾けた。濃い青に染めた髪が、青いユニフォームの襟を撫でる。
(バイスの指示には従えないってか? 後輩)
日本ジュニアカーリング選手権・男子決勝。
毎年三月に行われる、二十一歳未満の王者チームを決める戦いだ。勝てば世界ジュニア選手権への道も開かれる。
しかし自分たち北海道WINNERSは、6‐7で白波大学に負けていた。
相手は同じ北海道の、自分の地元を拠点とするチームだ。十年前、氷の読み方やストーンの滑らせ方を手取り足取り教えてくれたおじさんたちが、「おらが町の大学の推薦蹴りやがって」と言わんばかりに観客席から見下ろしてくる。
(スキップを任されないなら、行く意味ないべ)
カーリングは一チーム四人編成だが、一人のスキップがすべてを背負う。
この試合だって、自分がスキップになるべきだった。
氷上で順番にストーンを滑らせ、ハウスの中心までの近さによって得点を競う。興味のない人にとっては奇妙だろう攻防を、もう二時間半続けてきた。
追いつけば追い越され、逆転できないまま迎えた、最終第十エンドの最終ショット。
これも、スキップが担当する。バイスの自分は目印を指示する。
現時点のストーン配置は、ハウス内側の赤丸内に相手チームのストーンがひとつ。外側の青丸寄りに自分たちのストーンがふたつ。
相手ストーンより内側、ハウスの中心にドローしにいき、確実に一点取るか。
相手ストーンをハウスからテイクアウトしつつ自分たちのストーンは残し、三点もぎ取るか。
後者のほうが難易度が高い。相手ストーンを弾き出すには、自分たちのストーンが邪魔だ。
それでも、狙う目印の位置を動かすつもりはない。
(同点でエキストラエンドなんぞまどろっこしい。このリンクには小さい頃から通ってきた。シートの氷の状況は、俺がいちばんわかってる。俺が正しい)
室温五度の中、つむじから湯気が立つほどの気迫が効いたのだろう。十年に一人の天才カーラーと名高い角鹿は、何も言わずショットの体勢を取った。
声援が静まる。角鹿が自分ごと滑りながらストーンを押し出す。手を離す際、回転を掛ける。――掛け方が甘い。
「ヤップ!」
太く叫ぶ。残りのチームメイト二人が、ストーンが曲がりやすくなるよう、その進路をブラシで掃く。
自分の正しさと存在意義を懸けたストーンが、ゴーッと滑っていく。
◎
電動キックボードが、東京の学生街をゴーッと滑っていく。
「やっぱ効率よくシェアとかサブスク活用すんのが有能っしょ」
福富大也は大学そばのシェアポートにキックボードを停め、コンビニのガラス壁で好感度の高い黒髪短髪を整えた。
通っているのは六大学のひとつだ。顔見知りに「はよ!」とか「履修登録、希望のぜんぶ取れた?」とか声を掛けつつ、所属する広告研究会の部室へ赴く。
新しい手帳の、四月二日――今日の日付には、三色ペンで赤と青の二重丸をつけてある。
部室の長テーブルに陣取り、リュックからタブレット端末を取り出すと案の定、「長期インターンの選考結果につきまして」というメールが届いていた。
(宝石の王様の名を持つ男、賢く推薦で進学。先輩情報使って履修して落単なし。広研では企業とのコラボ案件に参加。大手広告代理店のインターンは当然、合格だよな。そしたら二年にして内定取れたようなもんだ)
揚々とメール本文を開く。
「厳正な選考の結果、貴殿の採用は見送りとさせていただき」という一文にぶつかる。
「……みおくり?」
眉を顰め、画面にかぶりついた。その背後で、
「久遠、大手の長期インターン合格したんか! 親父さんと同じエリートコースだなあ、今のうちに飯奢って貸しつくっとこうかな?」
「いえ、授業と両立しないとなので、そんな暇はないかと」
同学年の久遠翔が先輩たちに囲まれている。同じインターン枠に応募していたらしい。
いかにも育ちのいいモデル体型を屈めて謙虚な返しをするが、こちらの視線に気づくや、世界一感じ悪く笑った。
(なんっで! なんで同期ツートップのあいつは合格なのに、オレは見送り!?)
成績もサークル活動実績も変わらないはずだ。タイパ重視の久遠より「ガクチカ」の数が少なかったか? それだけの差で、勝ち組人生への最短ルートを閉ざされる?
面接で何をしたと問い質すべく立ち上がるも、久遠に駆け寄る女子にぶつかられた。
それで再生ボタンを押されたかのように、高校時代の定期テストでどうしても学年一位になれなかったり、中学のマラソン大会で陸上部のスペシャリストに及ばなかったり、と万年二位な人生がよみがえる。
たまらず貧乏ゆすりした。
「絶対この一年で最強のガクチカつくって、早期内定勝ち取ってやる……っ!」
夕陽に染まる桜を横目に、路地をとぼとぼ歩く。この辺りはシェアポートがない。いちおう都内なのに。
「しっかし、最強のガクチカってどうしたらつくれる?」
ガクチカ――学生時代に力を入れたこと。採用選考では必ず問われる。
サークルとかバイト、留学やボランティアでもいい。どんな目標を設定して、どう具体的な成果を出したかってストーリーが重要だ。
「バイト、じいちゃんの銭湯手伝ってる場合じゃないかも。どうしたって『売上倍増』とはなんないし」
今ごろ久遠は都心のビルで大手代理店の入構証を受け取っているかと思うと、独り言が大きくなる。
とはいえドタキャンはよくない。「福富湯」と書かれた暖簾をくぐった。
この銭湯は一帯でもひときわ古い木造平屋建てで、いまだに番台がある。令和の現在、さすがに脱衣場の手前だが。
七十代半ばの祖父が、背もたれのない番台に座り続けるのはしんどくなってきたとのことで、週に何度か代わってあげている。「畳んだら?」とは言えない。同じ区内に住んでいるのに同居を断るくらいには、生きがいっぽい。
効率がよくないかというと、そうでもない。内職し放題だ。
愛用のA5サイズ手帳を開く。一周回ってアナログ派である。
「一年で最強のガクチカつくる、と。候補は、誰もやってなさそうなこと」
他の学生と被っては最強とは言えまい。
大きな文字で書き込んでいたら、脱衣場からおじさん連れがそそくさと出てきた。現場仕事上がりなのにくつろげなかった、という表情だ。
「ありゃ不審者だな。若えから力じゃ勝てねえ。退散退散」
「触らぬ神に祟りなしだわ」
……不審者。男湯に?
(ていっても、バイト中に警察沙汰起きたことないし)
心の中で言い訳して、引き続き一年計画を練る。
「男湯のほう、ぶつぶつうるさかったね。気味悪いからしばらく来るのやめよう」
今度は女性客が、生乾きの髪で帰っていった。
女湯でトラブルがあったとき男湯側から対応できるよう、間の壁は上部が少し開いている。
(そこを突き抜ける迷惑行為ってどんな……?)
計画に集中できない。しぶしぶ番台を下りた。時給に見合わないが、一言言うだけ言おう。
「お客さまー、お静かにお願いしま」
洗い場の引き戸を開けるなり。
湯気の中で、雪肌の青年が、デッキブラシを白灰色の床タイルに当てた。
ただでさえ多くない客はみな逃げ去り、貸し切り状態だ。それをいいことに、力いっぱい掃き始める。
ゴシゴシ。割と小刻みなリズム。ゴシゴシゴシ。足の運びも独特で、濡れたタイル上を滑っているみたいに見える。
(は?)
予想の斜め上の不審ぶりに面食らい、しばし眺めてしまった。
腰にタオル一丁で真剣な形相の青年が、洗い場の手前から浴槽の縁までまっすぐ掃き、また折り返してきたところで、ようやく我に返る。
「……。いやあの。えっと、そのブラシ備品なんで」
刺激しないよう営業スマイルを浮かべ、ブラシの回収を試みた。もう実質貸し切りだし、あとは何か壊したりしない限り好きにしていただいて。
「あんた、いい腕の筋肉してるな。いくつだ」
「え、今年二十歳ですが」
「同い歳か、ちょうどいい。俺のチームに入らないか?」
しかし不審者は放っておいてくれない。歳を確かめた上で、何やら誘ってくる。
チーム、ということは、スポーツだろうか。
たじろぎつつも青年を観察した。
(身長は百七十八のオレよりあるな。でも腕も脚も華奢だ。肌も白っろ)
中学まで野球をやっていて、今も大学の学生用トレーニングルーム(月額五百円)で映える身体づくりを欠かさない自分のほうが、よほどアスリート然としている。
「チームって?」
競技がまったく思いつかず、つい尋ねてしまった。
「カーリングだ」
青年が間髪入れず答える。
カーリングって――なんだっけ。
「あ、メダル獲った『そだねー』の?」
五秒後、高校のとき冬季オリンピックで「カーリング娘」が話題になったのを思い起こした。
広告業界志望なので、トレンドは広くチェックしている。
確か、氷上で丸い石を滑らせ、ブラシみたいなので掃いて軌道を調整しつつ、その配置で得点を競う。
(もしかしてさっきの不審な動き、その練習か? 男子は世界何位くらいなんだろ)
ともあれ、ルールが複雑なマイナースポーツ、というイメージだ。そのチームに入れと?
(タイパ悪過ぎ)
それに、わけあってウインタースポーツとは縁がない。
「オレやったことないので。他当たってください」
「俺がいれば何とでもなる。俺は蛇池蓮。こう見えてキャリア十一年目になる」
厳正な選考の結果今後のご活躍をお祈りしたのに、不審者に自己紹介されてしまった。
「カーリングは『氷上のチェス』と謳われる駆け引きの面白さに加えて、男子はパワフルで迫力もある」
しかも、風呂の湯より熱く力説してくる。目なんかばきばきだ。
(それ、スポーツの世界で生きてきた人間にありがちなミスな)
選考落ち直後だからか、面接官側の気持ちになった。
熱意や競技の面白さばかり推されても、興味のない人間には響かない。どんな目標があって、どう成果を出すか語らないと。ひとつ咳払いする。
「蛇池くん。今シーズンの目標を一言で言うと?」
視線の強さと裏腹に儚げな顔の前に人差し指を立て、端的に訊く。
蛇池は目を逸らさない。同じく人差し指を立ててみせた。
「新チーム率いて、一年で日本選手権優勝する」
一年で優勝。
手帳についさっき書いた、「一年でガクチカ」と重なる。
……彼のチームに入れば、マイナーゆえに他の学生と被らない、強力なガクチカになるのでは?
「ちなみにそれって達成可能性どのくらい?」
「俺がいれば何とでもなるって言ってるだろ。カーリングはスキップ一人がすべてを背負うんだ」
「わかりやすくたとえて」
「バレーボールならセッターでアタッカーでリベロ」
(一人で取って上げて打つって? 他のメンバーは何してんの?)
一転して情報収集にかかったものの、逆に首を傾げた。チームスポーツでそんな偏りがあり得るのか。
「おまえの実力は」
「前回の日本……ぁ選手権王者」
「まじ?」
上擦った声が洗い場の壁に反響する。じゃあ、次の日本選手権優勝にいちばん近いではないか。
(チームの他のメンバーはおまけっぽくて、効率もいい)
二位はそれ以下と同じだが、優勝できるなら乗っからない手はない。利害の一致だ。
「しょうがないな。そんなに言うなら、おまえのチーム入ってやるよ」
こうして、バイト先に現れた不審者改め自信満々な王者と、素人ながらチームメイトになった。
◎
「勝ったからいいが、第十エンドの最終ショットの指示はどうよ」
「はあ? 俺の目印どおり投げてりゃ、エキストラまでもつれなかったべ」
「したから、あの氷じゃあそこ投げんのは不可能だったって言ってんだよ」
蛇池は、優勝の賞状をくしゃりと握り締めた。
リンクのスコアボードに、「北海道WINNERS8‐7白波大学」という最終結果が輝く。日本最古のカーリング専用リンクを持つ北海道の伝統を守った。世界ジュニアB選手権代表にも内定した。
なのに、チームメイトは故郷のおじさんたちと同じ目で見てくる。――何様だ、と。
「俺なら投げれた」
「おい。スキップのショットに文句つけんのか」
「蓮先輩なら投げれたのは事実ですよ~。ぼくが及びませんでした」
最終ショットを担った当の角鹿が、一切濁りのない声で執り成す。居たたまれない。
中学からこのチームに至るまで、ずっとこうだ。スキップを任されるのは決まって、一歳下の角鹿。
「はっきり言えよ。角鹿がいるから俺には任せられないって。こったらチーム、こっちから願い下げだ!」
正しくないと言われた悔しさに長年の鬱憤も重なり、WINNERSの青いジャージを脱いで床に投げつける。
たちまちチームメイトの顔色が変わった。
「おまえはいつもいつも……ちょーっとショットうまいからって、その態度はないべ」
「おまえとじゃ世界ジュニアでいいプレーできない。オリンピックにも行けない!」
「はっ、オリンピック行くのはおまえらでない。俺だ。おまえらがジュニアでちんたらしてる間に、俺は俺のチームで一般の日本選手権優勝してやる」
負けじと人差し指を突きつける。
世界選手権もオリンピックも、ポジションごとに各チームから優れた選手を招集する方式ではない。日本王者チームがそのまま代表となる。
つまりこの宣言は、WINNERSとの決別を意味する。
「え、蓮先輩? まだ約束が、」
未練はない。かと言って青森や軽井沢に行っても、どのチームにももうスキップがいる。
思いきって東京に行ってみるか。
どんな環境だって、スキップに相応しいのは、自分だ。
◎
[明日、練習に来い。他のメンバーも紹介する]
授業中、蛇池からLINEが届いた。
別れ際にID交換したのだが、一週間音沙汰がなく、やっぱり不審者の虚言かと疑っていたところだ。
(連絡来たら来たで急だな。まあ、長期インターン落ちて時間はあるけど)
おまけメンバーでも、最低限の練習は必要だろう。チームメイトと顔合わせしないわけにもいかない。
(春だし東京だし、そんな寒くないよな?)
個人的な懸念が二割ほどあったが、やり過ごして添付の地図を確認した。
翌朝、千駄ヶ谷の屋内スケート場に踏み入る。真っ白なリンクが眩しい。
「ぶわぇっくしょおんぉん!」
特大くしゃみをかました。顔や腕がむずむずする。
なぜ二割の懸念が現実となってしまうのだ。でも、ここで引き返しては二度手間だ。
長袖のトレーニングウェアに、ニットキャップとネックウォーマーと手袋を装備した。
冷気が漂うフェンス際で、優男を探す。
「てか、東京にも通年営業のリンクあったんだな。まだ七時なのに結構人多い。おっ、カー娘」
スケート場には他にも人がいた。カーリング用とおぼしきブラシを携えた女子チームを見やる。
そう言えば用具、何も持っていない。
貸してもらえるのかな、と考えていたら、
「色目を使うな」
太い声が聞こえた。
ジャージ姿の蛇池がリンクに立っている。白目部分の多い、まさに蛇じみた瞳には軽蔑が浮かぶ。
「使ってないし! それがチームに入ってくれた人に対する態度か?」
「恰好も大げさだし」
蛇池は問いに答えず、見た目にまで文句をつけ出した。王者にしたって傲慢だ。こっちは腕を掻きむしりたくて仕方ない。
「寒冷アレルギーなんだよ、っくしょおんぉん!」
これが、ウインタースポーツとは縁がない理由だ。
「……それでよくチーム入る気になったな」
悲痛なくしゃみが響いたのかそうでもないのか、すっと腕を引かれた。蛇池はスケート靴ではないが片足のみ滑りのいい靴を履いていて、こっちは小走りになる。
リンクの端まで行くと、ブラシを持った青年が二人いた。経験者のようだ。
「彼は不動。セカンドをやってもらおうと思ってる」
前置きなく紹介される。
「セカンド」はポジションだっけ。いちおう買っておいた技術解説本を取り出す間もなく、がっちりとした長身の青年が手を差し出してきた。
「はじめまして。『打倒・北国のエリート』なチームに加われて光栄です」
癖のある黒髪は耳上を刈り上げてあり、いかつい。ただ物言いが誠実で、善良な森の熊さんみたいな印象だ。日本王者の蛇池と一緒のチームになりたかったらしい。
というか、「打倒・北国のエリート」?
微妙に趣旨が変わってないか? という顔で蛇池をチラ見しつつ、握手に応じる。
「よろし、痛っ……!」
利き手を握り潰されかけた。不動は相変わらず善良な笑顔なので、他意はなく力が強いだけと思っておこう。
「こっちは皇。リードの予定だ」
ニュアンスロングに、蛇池以上に細長い体型の青年が、最新モデルのヘッドフォンをしたまま会釈する。目は合わない。ただ、フレームの太い黒縁眼鏡がお洒落に仕上がるほど、顔がいい。
これが一年で日本一になる「チームガクチカ」か……。すすっと蛇池に肩を寄せた。
「若くない?」
「二人とも高校生だからな」
「えっ!?」
小声で訊いた意味がなくなる。しかし蛇池は動じない。
「皇は二年生で時間の融通が利く。不動は三年だが内部進学予定で問題ないし、カーリング経験も六年ある。皇のほうはまだ競技歴一年だが、eスポーツやっててゲームセンスがある。そもそも二人のポジションは体力があればいい」
「お、おまえがそう言うならいいけど」
採用理由を並べ立てられ、素人のこちらは頷くほかない。
「じゃあ、司令塔のフォーススキップはおまえとして、オレがサードバイス?」
解説本のポジション紹介ページを、脳内でおさらいした。
リード、セカンド、サード、フォースはショットする順番。フォースは、どこにどんなショットをするか一投一投指示を出すスキップが担うことがほとんどだ。
(指示も最後のショットもって、確かに一人がすべてを背負ってる)
ではスキップのショット時に指示するバイスはというと、サードが務めることが多い。
その重要なポジションを、素人に任せようと?
「四人しかいないんだからそうなるだろ。二月の日本選手権までまだ十か月あるし、何とでもなる」
「ふ、へへ、ふーん、そう」
当たり前のように言われ、にやける。面倒さより、王者に潜在能力を買われた嬉しさが勝った。
フィフスというリザーブも登録できるけれど、チームガクチカはここにいる四人でいくわけだ。
「これ、スライダー。履け」
余韻に浸る間もなく、一見ビーチサンダルに似た靴カバーを片方だけ渡される。
素人を勧誘しておいて説明が少ない。とりあえず蛇池の靴の滑りがいいほうと同じ側に装着して、リンクに降りた。
「めっっっちゃ滑る」
「スライダーだからな」
よちよちとフェンス沿いに進み、三人に合流する。
蛇池との言い合いによって身体が温まり、アレルギー症状の痒みはやわらいだ。
「さくさく練習してこ! って、『ハウス』なくない? 赤と青の二重丸」
早速初練習といきたいが、ウェアの腹に仕込んだ解説本を取り出し、リンクと見比べざるを得ない。
野球でいったらホームベースがないみたいな状況だ。
蛇池も、書き込み入り解説本とこちらの顔を見比べた末、口を開く。
「あんたが仕切るな。専用リンクでないからシートはない。ハウスの代わりに目印を置いてある」
「え、あのコーン? 遠いし小さっ」
「距離はだいたい四十メートル、ハウスの直径は三.六メートルだ。言うほど遠くないし小さくない。このストーンにカール、つまり回転を掛けて配置していく」
「こっちは生で見るとでかいな」
蛇池が、足下の丸い石を指差す。
直径三十センチと解説本にあった。これを四十メートルも滑らせるのか。
「時計回りの回転を掛けると右に、反時計回りの回転だと左に曲がる。たとえばあの赤いハンドルのストーンの真横につけたければ――皇」
「はあ……お腹痛くなってきた。この人うるさいし」
お手本として実演してくれようとしたはいいが、皇が愚痴をこぼした。誰がうるさいって?
「こらこら天空。今日は午前授業で家に帰れるから、な?」
不動が宥める。できれば「うるさい人」も訂正してほしいのだが。
二人は同じ高校らしい。よく見るとスウェットトレーナーにエスカレーター式私立校のロゴが入っている。
(待て、下のジャージ、ディオールじゃない?)
お坊ちゃん疑惑な皇がしゃがみ、陸上のスターティングブロックに似た「ハック」に右足裏を添わせた。
ショットは、これを蹴った反動で、重いストーンを滑らせる。
皇はいやいやな表情の割に、なめらかに滑り出す。
(「デリバリー」だ。柔軟性あるな。低い体勢でも右膝すれすれ氷についてない。体幹も要りそう)
オリンピック中継でちらっと観た、片膝立ちのような独特なフォーム。つい真面目に分析する。
放たれた黄色ハンドルのストーンは、リンクの逆端へまっすぐ滑っていく。
と思いきや、真ん中を越えた辺りで右に曲がり始めた。
「ヤップ!」
蛇池が合図を出す。ストーンと並走していた不動が、ブラシで氷を力強く掃く。
(これは、「スイープ」)
ブラシといっても銭湯のとは違い、ヘッドはパッドタイプだ。掃くほど曲がり方が大きくなる。
ストーンを放ってからハウスまで、約十五秒。
黄色いストーンは、目標の赤いストーンの右隣に止まった。
「おーっ、すげえ!」
職人技を目の当たりにして、感嘆の声を上げる。
皇はしゃがみ込んだままだ。せっかく褒めているのだから塞ぐな、耳を。
「氷の表面に0.5ミリの粒をつくってるおかげで、二十キログラムのストーンもこれだけ滑る」
「ん? ほんとだ、よく見たらつぶつぶしてる」
「スイープの摩擦熱でペブルを溶かして、滑りやすくしたり曲がり具合を調整したりできるんだ」
「へえ。狙いどおりいくと気持ちいいな。あれ見せてよ。ゴ、ゴン! てまとめて弾き出すやつ」
最低限参加のつもりが、楽しくなってきた。
「ダブルテイクアウトか。あんたにはまだ早いがな」
蛇池も満更でない様子でハックに着く。
「王者のお手本ショット、頼むわ」
「……。よく見てろ」
ストーンの裏をくるりと撫でて霜を払うと、安定したフォームで発進した。黄色いストーンが高速で滑っていく。
◎
ゴ、ゴン! と小気味いい音を立て、赤いストーンが黄色いストーンをふたつ、ハウスから弾き出した。
「ナイスショット」
「指示が良かった。角鹿の氷の読みは、蛇池よりずうっと正確だ」
氷に向かって耳を澄ませる仕草をしていた角鹿は、元フィフスの一言に、曖昧に笑う。
(ホームリンクは、氷ちゃんとの「コーレス」がしやすいだけべさ)
北海道WINNERSの四人は、通年営業リンクの常設シートで毎朝練習できる。市内の別々の大学に進学したメンバーがチームを続けられるよう、市がはからってくれた。同じリンクを使う一般の強豪チームの胸も借りられるし、恵まれた環境と言える。
『我が市から男子も世界ジュニア、そしてオリンピックを目指しましょう』
二年前。市が強化プロジェクトを立ち上げ、当時高三だった蛇池をスカウトした。
(蓮先輩を評価してくれるチームあった!)
同じ高校に通っていた自分も、ここぞとくっついてきた。
『天才の君も加入してくれるのかい? 望みなしだと声も掛けられなかったが……大歓迎だよ』
『ぼくも光栄です』
蛇池は、カーリングを始めた小学生時代からずっと憧れの人だ。ショットの「ウェイト」も「ライン」も生来の才覚がある。何度彼のスーパーショットに心震わせたか知れない。
(周りはぼくを天才とか言うけど、だったら蓮先輩は大天才でなきゃおかしいしょ。人間としてはちょこっとあれでも、カーラーとしては信頼してる)
市内出身の三人とチームを組み、高校を卒業しても一緒にプレーできると思ったのに……。
「蛇池のやつ、読み弱いくせに『スキップやりたい』って上京してったが、向こうはたいしたチームないべ。世界ジュニアもオリンピックも、行くのは俺たちだ」
リードが人差し指を立てる。セカンドも同じ見解らしく、頷き合う。
これまで、カーリング日本代表としてオリンピックに出場した男女三十五名のうち、三十一名が北海道出身である。残りは長野出身が三名、岩手出身が一名。北国出身のアドバンテージは大きい。
でも、さっきとは異なる微笑みを浮かべた。
「あの人は諦めませんよ~。ぼくも、あの人を諦めませんけど」
カーリングは、スキップがすべてを背負う。ただし他のメンバーが誰でもいいかと言うと、そうではない。
WINNERSはまだ、新しい五人目を補充せずにいる。
◎
チームガクチカは、リンク貸し切り代を割り勘した三グループと合同で練習した。
(一時間四万四千円って、積もり積もると結構かさむよな)
それだけかけたのに、一人だけストーンを投げられもしなかった。
解説本を読むのとやるのとでは大違いで、まずデリバリーの姿勢を保つのが難しい。それに片足だけ滑りやすい状態は、油断するとすぐバランスを崩してすっ転ぶ。蛇池に溜め息まじりに「危ないから隅で見てろ」と言われてしまった。少なくとも中学以降、こんなに手こずった経験はない。
(どうせスケートすらやったことありませんよ。てか、オレが素人だから負けたりしたら本末転倒なんだけど)
練習初日にして懸念がよぎるも、一限の時間が迫る。スケート場から大学まで電車で二十分とはいえ、そろそろ移動しないといけない。
「このスライダー、もらっていいの」
更衣室で蛇池に声を掛けたら、はっと青いジャージを鞄の奥に押し込んだ。洗濯を忘れたのだろうか。こちらのほうは見ずに言う。
「買い取り、五千円だ」
「高っか」
「靴底が競技仕様になったカーリングシューズは三万くらいする。ブラシ一式もだ」
「うそ!?」
「輸入品だからな」
コスパがよくない。盲点だった。リンク使用料割り勘の割り勘と合わせて一万円近く毟り取られた。
蛇池はさらに、スケート場前で送迎らしき高級車に乗り込む高校生組に声を掛ける。
「不動、皇。これで四人揃ったから」
「はい」
「シーズン初戦は、八月の東京都リーグとしよう」
「わかりました」
不動だけ頷く。
ウインタースポーツと思いきや、真夏にシーズンインするらしい。
個人的には、それまでに最低限の技術を習得しないといけない。
加えて――広研での経験を活かし、スポンサーを探してみようか? 財布が助かるし、スキップには及ばないが「選手で営業」なら、ガクチカの内容を充実させられる。名前のとおり価値ある男だと、チームも認めてくれるに違いない。半ば自分に言い聞かせた。
カーリングシートのハウスにしゃがんだ蛇池蓮は、柄の長いブラシで目印を示し、正面を見据えた。雪肌のせいで深窓の美人と思われがちだが、目つきは鋭い。
約四十メートル先で、スキップの角鹿拓海が同じくしゃがみ、丸いストーンを構えている。アイドルと見まがう顔をわずかに傾けた。濃い青に染めた髪が、青いユニフォームの襟を撫でる。
(バイスの指示には従えないってか? 後輩)
日本ジュニアカーリング選手権・男子決勝。
毎年三月に行われる、二十一歳未満の王者チームを決める戦いだ。勝てば世界ジュニア選手権への道も開かれる。
しかし自分たち北海道WINNERSは、6‐7で白波大学に負けていた。
相手は同じ北海道の、自分の地元を拠点とするチームだ。十年前、氷の読み方やストーンの滑らせ方を手取り足取り教えてくれたおじさんたちが、「おらが町の大学の推薦蹴りやがって」と言わんばかりに観客席から見下ろしてくる。
(スキップを任されないなら、行く意味ないべ)
カーリングは一チーム四人編成だが、一人のスキップがすべてを背負う。
この試合だって、自分がスキップになるべきだった。
氷上で順番にストーンを滑らせ、ハウスの中心までの近さによって得点を競う。興味のない人にとっては奇妙だろう攻防を、もう二時間半続けてきた。
追いつけば追い越され、逆転できないまま迎えた、最終第十エンドの最終ショット。
これも、スキップが担当する。バイスの自分は目印を指示する。
現時点のストーン配置は、ハウス内側の赤丸内に相手チームのストーンがひとつ。外側の青丸寄りに自分たちのストーンがふたつ。
相手ストーンより内側、ハウスの中心にドローしにいき、確実に一点取るか。
相手ストーンをハウスからテイクアウトしつつ自分たちのストーンは残し、三点もぎ取るか。
後者のほうが難易度が高い。相手ストーンを弾き出すには、自分たちのストーンが邪魔だ。
それでも、狙う目印の位置を動かすつもりはない。
(同点でエキストラエンドなんぞまどろっこしい。このリンクには小さい頃から通ってきた。シートの氷の状況は、俺がいちばんわかってる。俺が正しい)
室温五度の中、つむじから湯気が立つほどの気迫が効いたのだろう。十年に一人の天才カーラーと名高い角鹿は、何も言わずショットの体勢を取った。
声援が静まる。角鹿が自分ごと滑りながらストーンを押し出す。手を離す際、回転を掛ける。――掛け方が甘い。
「ヤップ!」
太く叫ぶ。残りのチームメイト二人が、ストーンが曲がりやすくなるよう、その進路をブラシで掃く。
自分の正しさと存在意義を懸けたストーンが、ゴーッと滑っていく。
◎
電動キックボードが、東京の学生街をゴーッと滑っていく。
「やっぱ効率よくシェアとかサブスク活用すんのが有能っしょ」
福富大也は大学そばのシェアポートにキックボードを停め、コンビニのガラス壁で好感度の高い黒髪短髪を整えた。
通っているのは六大学のひとつだ。顔見知りに「はよ!」とか「履修登録、希望のぜんぶ取れた?」とか声を掛けつつ、所属する広告研究会の部室へ赴く。
新しい手帳の、四月二日――今日の日付には、三色ペンで赤と青の二重丸をつけてある。
部室の長テーブルに陣取り、リュックからタブレット端末を取り出すと案の定、「長期インターンの選考結果につきまして」というメールが届いていた。
(宝石の王様の名を持つ男、賢く推薦で進学。先輩情報使って履修して落単なし。広研では企業とのコラボ案件に参加。大手広告代理店のインターンは当然、合格だよな。そしたら二年にして内定取れたようなもんだ)
揚々とメール本文を開く。
「厳正な選考の結果、貴殿の採用は見送りとさせていただき」という一文にぶつかる。
「……みおくり?」
眉を顰め、画面にかぶりついた。その背後で、
「久遠、大手の長期インターン合格したんか! 親父さんと同じエリートコースだなあ、今のうちに飯奢って貸しつくっとこうかな?」
「いえ、授業と両立しないとなので、そんな暇はないかと」
同学年の久遠翔が先輩たちに囲まれている。同じインターン枠に応募していたらしい。
いかにも育ちのいいモデル体型を屈めて謙虚な返しをするが、こちらの視線に気づくや、世界一感じ悪く笑った。
(なんっで! なんで同期ツートップのあいつは合格なのに、オレは見送り!?)
成績もサークル活動実績も変わらないはずだ。タイパ重視の久遠より「ガクチカ」の数が少なかったか? それだけの差で、勝ち組人生への最短ルートを閉ざされる?
面接で何をしたと問い質すべく立ち上がるも、久遠に駆け寄る女子にぶつかられた。
それで再生ボタンを押されたかのように、高校時代の定期テストでどうしても学年一位になれなかったり、中学のマラソン大会で陸上部のスペシャリストに及ばなかったり、と万年二位な人生がよみがえる。
たまらず貧乏ゆすりした。
「絶対この一年で最強のガクチカつくって、早期内定勝ち取ってやる……っ!」
夕陽に染まる桜を横目に、路地をとぼとぼ歩く。この辺りはシェアポートがない。いちおう都内なのに。
「しっかし、最強のガクチカってどうしたらつくれる?」
ガクチカ――学生時代に力を入れたこと。採用選考では必ず問われる。
サークルとかバイト、留学やボランティアでもいい。どんな目標を設定して、どう具体的な成果を出したかってストーリーが重要だ。
「バイト、じいちゃんの銭湯手伝ってる場合じゃないかも。どうしたって『売上倍増』とはなんないし」
今ごろ久遠は都心のビルで大手代理店の入構証を受け取っているかと思うと、独り言が大きくなる。
とはいえドタキャンはよくない。「福富湯」と書かれた暖簾をくぐった。
この銭湯は一帯でもひときわ古い木造平屋建てで、いまだに番台がある。令和の現在、さすがに脱衣場の手前だが。
七十代半ばの祖父が、背もたれのない番台に座り続けるのはしんどくなってきたとのことで、週に何度か代わってあげている。「畳んだら?」とは言えない。同じ区内に住んでいるのに同居を断るくらいには、生きがいっぽい。
効率がよくないかというと、そうでもない。内職し放題だ。
愛用のA5サイズ手帳を開く。一周回ってアナログ派である。
「一年で最強のガクチカつくる、と。候補は、誰もやってなさそうなこと」
他の学生と被っては最強とは言えまい。
大きな文字で書き込んでいたら、脱衣場からおじさん連れがそそくさと出てきた。現場仕事上がりなのにくつろげなかった、という表情だ。
「ありゃ不審者だな。若えから力じゃ勝てねえ。退散退散」
「触らぬ神に祟りなしだわ」
……不審者。男湯に?
(ていっても、バイト中に警察沙汰起きたことないし)
心の中で言い訳して、引き続き一年計画を練る。
「男湯のほう、ぶつぶつうるさかったね。気味悪いからしばらく来るのやめよう」
今度は女性客が、生乾きの髪で帰っていった。
女湯でトラブルがあったとき男湯側から対応できるよう、間の壁は上部が少し開いている。
(そこを突き抜ける迷惑行為ってどんな……?)
計画に集中できない。しぶしぶ番台を下りた。時給に見合わないが、一言言うだけ言おう。
「お客さまー、お静かにお願いしま」
洗い場の引き戸を開けるなり。
湯気の中で、雪肌の青年が、デッキブラシを白灰色の床タイルに当てた。
ただでさえ多くない客はみな逃げ去り、貸し切り状態だ。それをいいことに、力いっぱい掃き始める。
ゴシゴシ。割と小刻みなリズム。ゴシゴシゴシ。足の運びも独特で、濡れたタイル上を滑っているみたいに見える。
(は?)
予想の斜め上の不審ぶりに面食らい、しばし眺めてしまった。
腰にタオル一丁で真剣な形相の青年が、洗い場の手前から浴槽の縁までまっすぐ掃き、また折り返してきたところで、ようやく我に返る。
「……。いやあの。えっと、そのブラシ備品なんで」
刺激しないよう営業スマイルを浮かべ、ブラシの回収を試みた。もう実質貸し切りだし、あとは何か壊したりしない限り好きにしていただいて。
「あんた、いい腕の筋肉してるな。いくつだ」
「え、今年二十歳ですが」
「同い歳か、ちょうどいい。俺のチームに入らないか?」
しかし不審者は放っておいてくれない。歳を確かめた上で、何やら誘ってくる。
チーム、ということは、スポーツだろうか。
たじろぎつつも青年を観察した。
(身長は百七十八のオレよりあるな。でも腕も脚も華奢だ。肌も白っろ)
中学まで野球をやっていて、今も大学の学生用トレーニングルーム(月額五百円)で映える身体づくりを欠かさない自分のほうが、よほどアスリート然としている。
「チームって?」
競技がまったく思いつかず、つい尋ねてしまった。
「カーリングだ」
青年が間髪入れず答える。
カーリングって――なんだっけ。
「あ、メダル獲った『そだねー』の?」
五秒後、高校のとき冬季オリンピックで「カーリング娘」が話題になったのを思い起こした。
広告業界志望なので、トレンドは広くチェックしている。
確か、氷上で丸い石を滑らせ、ブラシみたいなので掃いて軌道を調整しつつ、その配置で得点を競う。
(もしかしてさっきの不審な動き、その練習か? 男子は世界何位くらいなんだろ)
ともあれ、ルールが複雑なマイナースポーツ、というイメージだ。そのチームに入れと?
(タイパ悪過ぎ)
それに、わけあってウインタースポーツとは縁がない。
「オレやったことないので。他当たってください」
「俺がいれば何とでもなる。俺は蛇池蓮。こう見えてキャリア十一年目になる」
厳正な選考の結果今後のご活躍をお祈りしたのに、不審者に自己紹介されてしまった。
「カーリングは『氷上のチェス』と謳われる駆け引きの面白さに加えて、男子はパワフルで迫力もある」
しかも、風呂の湯より熱く力説してくる。目なんかばきばきだ。
(それ、スポーツの世界で生きてきた人間にありがちなミスな)
選考落ち直後だからか、面接官側の気持ちになった。
熱意や競技の面白さばかり推されても、興味のない人間には響かない。どんな目標があって、どう成果を出すか語らないと。ひとつ咳払いする。
「蛇池くん。今シーズンの目標を一言で言うと?」
視線の強さと裏腹に儚げな顔の前に人差し指を立て、端的に訊く。
蛇池は目を逸らさない。同じく人差し指を立ててみせた。
「新チーム率いて、一年で日本選手権優勝する」
一年で優勝。
手帳についさっき書いた、「一年でガクチカ」と重なる。
……彼のチームに入れば、マイナーゆえに他の学生と被らない、強力なガクチカになるのでは?
「ちなみにそれって達成可能性どのくらい?」
「俺がいれば何とでもなるって言ってるだろ。カーリングはスキップ一人がすべてを背負うんだ」
「わかりやすくたとえて」
「バレーボールならセッターでアタッカーでリベロ」
(一人で取って上げて打つって? 他のメンバーは何してんの?)
一転して情報収集にかかったものの、逆に首を傾げた。チームスポーツでそんな偏りがあり得るのか。
「おまえの実力は」
「前回の日本……ぁ選手権王者」
「まじ?」
上擦った声が洗い場の壁に反響する。じゃあ、次の日本選手権優勝にいちばん近いではないか。
(チームの他のメンバーはおまけっぽくて、効率もいい)
二位はそれ以下と同じだが、優勝できるなら乗っからない手はない。利害の一致だ。
「しょうがないな。そんなに言うなら、おまえのチーム入ってやるよ」
こうして、バイト先に現れた不審者改め自信満々な王者と、素人ながらチームメイトになった。
◎
「勝ったからいいが、第十エンドの最終ショットの指示はどうよ」
「はあ? 俺の目印どおり投げてりゃ、エキストラまでもつれなかったべ」
「したから、あの氷じゃあそこ投げんのは不可能だったって言ってんだよ」
蛇池は、優勝の賞状をくしゃりと握り締めた。
リンクのスコアボードに、「北海道WINNERS8‐7白波大学」という最終結果が輝く。日本最古のカーリング専用リンクを持つ北海道の伝統を守った。世界ジュニアB選手権代表にも内定した。
なのに、チームメイトは故郷のおじさんたちと同じ目で見てくる。――何様だ、と。
「俺なら投げれた」
「おい。スキップのショットに文句つけんのか」
「蓮先輩なら投げれたのは事実ですよ~。ぼくが及びませんでした」
最終ショットを担った当の角鹿が、一切濁りのない声で執り成す。居たたまれない。
中学からこのチームに至るまで、ずっとこうだ。スキップを任されるのは決まって、一歳下の角鹿。
「はっきり言えよ。角鹿がいるから俺には任せられないって。こったらチーム、こっちから願い下げだ!」
正しくないと言われた悔しさに長年の鬱憤も重なり、WINNERSの青いジャージを脱いで床に投げつける。
たちまちチームメイトの顔色が変わった。
「おまえはいつもいつも……ちょーっとショットうまいからって、その態度はないべ」
「おまえとじゃ世界ジュニアでいいプレーできない。オリンピックにも行けない!」
「はっ、オリンピック行くのはおまえらでない。俺だ。おまえらがジュニアでちんたらしてる間に、俺は俺のチームで一般の日本選手権優勝してやる」
負けじと人差し指を突きつける。
世界選手権もオリンピックも、ポジションごとに各チームから優れた選手を招集する方式ではない。日本王者チームがそのまま代表となる。
つまりこの宣言は、WINNERSとの決別を意味する。
「え、蓮先輩? まだ約束が、」
未練はない。かと言って青森や軽井沢に行っても、どのチームにももうスキップがいる。
思いきって東京に行ってみるか。
どんな環境だって、スキップに相応しいのは、自分だ。
◎
[明日、練習に来い。他のメンバーも紹介する]
授業中、蛇池からLINEが届いた。
別れ際にID交換したのだが、一週間音沙汰がなく、やっぱり不審者の虚言かと疑っていたところだ。
(連絡来たら来たで急だな。まあ、長期インターン落ちて時間はあるけど)
おまけメンバーでも、最低限の練習は必要だろう。チームメイトと顔合わせしないわけにもいかない。
(春だし東京だし、そんな寒くないよな?)
個人的な懸念が二割ほどあったが、やり過ごして添付の地図を確認した。
翌朝、千駄ヶ谷の屋内スケート場に踏み入る。真っ白なリンクが眩しい。
「ぶわぇっくしょおんぉん!」
特大くしゃみをかました。顔や腕がむずむずする。
なぜ二割の懸念が現実となってしまうのだ。でも、ここで引き返しては二度手間だ。
長袖のトレーニングウェアに、ニットキャップとネックウォーマーと手袋を装備した。
冷気が漂うフェンス際で、優男を探す。
「てか、東京にも通年営業のリンクあったんだな。まだ七時なのに結構人多い。おっ、カー娘」
スケート場には他にも人がいた。カーリング用とおぼしきブラシを携えた女子チームを見やる。
そう言えば用具、何も持っていない。
貸してもらえるのかな、と考えていたら、
「色目を使うな」
太い声が聞こえた。
ジャージ姿の蛇池がリンクに立っている。白目部分の多い、まさに蛇じみた瞳には軽蔑が浮かぶ。
「使ってないし! それがチームに入ってくれた人に対する態度か?」
「恰好も大げさだし」
蛇池は問いに答えず、見た目にまで文句をつけ出した。王者にしたって傲慢だ。こっちは腕を掻きむしりたくて仕方ない。
「寒冷アレルギーなんだよ、っくしょおんぉん!」
これが、ウインタースポーツとは縁がない理由だ。
「……それでよくチーム入る気になったな」
悲痛なくしゃみが響いたのかそうでもないのか、すっと腕を引かれた。蛇池はスケート靴ではないが片足のみ滑りのいい靴を履いていて、こっちは小走りになる。
リンクの端まで行くと、ブラシを持った青年が二人いた。経験者のようだ。
「彼は不動。セカンドをやってもらおうと思ってる」
前置きなく紹介される。
「セカンド」はポジションだっけ。いちおう買っておいた技術解説本を取り出す間もなく、がっちりとした長身の青年が手を差し出してきた。
「はじめまして。『打倒・北国のエリート』なチームに加われて光栄です」
癖のある黒髪は耳上を刈り上げてあり、いかつい。ただ物言いが誠実で、善良な森の熊さんみたいな印象だ。日本王者の蛇池と一緒のチームになりたかったらしい。
というか、「打倒・北国のエリート」?
微妙に趣旨が変わってないか? という顔で蛇池をチラ見しつつ、握手に応じる。
「よろし、痛っ……!」
利き手を握り潰されかけた。不動は相変わらず善良な笑顔なので、他意はなく力が強いだけと思っておこう。
「こっちは皇。リードの予定だ」
ニュアンスロングに、蛇池以上に細長い体型の青年が、最新モデルのヘッドフォンをしたまま会釈する。目は合わない。ただ、フレームの太い黒縁眼鏡がお洒落に仕上がるほど、顔がいい。
これが一年で日本一になる「チームガクチカ」か……。すすっと蛇池に肩を寄せた。
「若くない?」
「二人とも高校生だからな」
「えっ!?」
小声で訊いた意味がなくなる。しかし蛇池は動じない。
「皇は二年生で時間の融通が利く。不動は三年だが内部進学予定で問題ないし、カーリング経験も六年ある。皇のほうはまだ競技歴一年だが、eスポーツやっててゲームセンスがある。そもそも二人のポジションは体力があればいい」
「お、おまえがそう言うならいいけど」
採用理由を並べ立てられ、素人のこちらは頷くほかない。
「じゃあ、司令塔のフォーススキップはおまえとして、オレがサードバイス?」
解説本のポジション紹介ページを、脳内でおさらいした。
リード、セカンド、サード、フォースはショットする順番。フォースは、どこにどんなショットをするか一投一投指示を出すスキップが担うことがほとんどだ。
(指示も最後のショットもって、確かに一人がすべてを背負ってる)
ではスキップのショット時に指示するバイスはというと、サードが務めることが多い。
その重要なポジションを、素人に任せようと?
「四人しかいないんだからそうなるだろ。二月の日本選手権までまだ十か月あるし、何とでもなる」
「ふ、へへ、ふーん、そう」
当たり前のように言われ、にやける。面倒さより、王者に潜在能力を買われた嬉しさが勝った。
フィフスというリザーブも登録できるけれど、チームガクチカはここにいる四人でいくわけだ。
「これ、スライダー。履け」
余韻に浸る間もなく、一見ビーチサンダルに似た靴カバーを片方だけ渡される。
素人を勧誘しておいて説明が少ない。とりあえず蛇池の靴の滑りがいいほうと同じ側に装着して、リンクに降りた。
「めっっっちゃ滑る」
「スライダーだからな」
よちよちとフェンス沿いに進み、三人に合流する。
蛇池との言い合いによって身体が温まり、アレルギー症状の痒みはやわらいだ。
「さくさく練習してこ! って、『ハウス』なくない? 赤と青の二重丸」
早速初練習といきたいが、ウェアの腹に仕込んだ解説本を取り出し、リンクと見比べざるを得ない。
野球でいったらホームベースがないみたいな状況だ。
蛇池も、書き込み入り解説本とこちらの顔を見比べた末、口を開く。
「あんたが仕切るな。専用リンクでないからシートはない。ハウスの代わりに目印を置いてある」
「え、あのコーン? 遠いし小さっ」
「距離はだいたい四十メートル、ハウスの直径は三.六メートルだ。言うほど遠くないし小さくない。このストーンにカール、つまり回転を掛けて配置していく」
「こっちは生で見るとでかいな」
蛇池が、足下の丸い石を指差す。
直径三十センチと解説本にあった。これを四十メートルも滑らせるのか。
「時計回りの回転を掛けると右に、反時計回りの回転だと左に曲がる。たとえばあの赤いハンドルのストーンの真横につけたければ――皇」
「はあ……お腹痛くなってきた。この人うるさいし」
お手本として実演してくれようとしたはいいが、皇が愚痴をこぼした。誰がうるさいって?
「こらこら天空。今日は午前授業で家に帰れるから、な?」
不動が宥める。できれば「うるさい人」も訂正してほしいのだが。
二人は同じ高校らしい。よく見るとスウェットトレーナーにエスカレーター式私立校のロゴが入っている。
(待て、下のジャージ、ディオールじゃない?)
お坊ちゃん疑惑な皇がしゃがみ、陸上のスターティングブロックに似た「ハック」に右足裏を添わせた。
ショットは、これを蹴った反動で、重いストーンを滑らせる。
皇はいやいやな表情の割に、なめらかに滑り出す。
(「デリバリー」だ。柔軟性あるな。低い体勢でも右膝すれすれ氷についてない。体幹も要りそう)
オリンピック中継でちらっと観た、片膝立ちのような独特なフォーム。つい真面目に分析する。
放たれた黄色ハンドルのストーンは、リンクの逆端へまっすぐ滑っていく。
と思いきや、真ん中を越えた辺りで右に曲がり始めた。
「ヤップ!」
蛇池が合図を出す。ストーンと並走していた不動が、ブラシで氷を力強く掃く。
(これは、「スイープ」)
ブラシといっても銭湯のとは違い、ヘッドはパッドタイプだ。掃くほど曲がり方が大きくなる。
ストーンを放ってからハウスまで、約十五秒。
黄色いストーンは、目標の赤いストーンの右隣に止まった。
「おーっ、すげえ!」
職人技を目の当たりにして、感嘆の声を上げる。
皇はしゃがみ込んだままだ。せっかく褒めているのだから塞ぐな、耳を。
「氷の表面に0.5ミリの粒をつくってるおかげで、二十キログラムのストーンもこれだけ滑る」
「ん? ほんとだ、よく見たらつぶつぶしてる」
「スイープの摩擦熱でペブルを溶かして、滑りやすくしたり曲がり具合を調整したりできるんだ」
「へえ。狙いどおりいくと気持ちいいな。あれ見せてよ。ゴ、ゴン! てまとめて弾き出すやつ」
最低限参加のつもりが、楽しくなってきた。
「ダブルテイクアウトか。あんたにはまだ早いがな」
蛇池も満更でない様子でハックに着く。
「王者のお手本ショット、頼むわ」
「……。よく見てろ」
ストーンの裏をくるりと撫でて霜を払うと、安定したフォームで発進した。黄色いストーンが高速で滑っていく。
◎
ゴ、ゴン! と小気味いい音を立て、赤いストーンが黄色いストーンをふたつ、ハウスから弾き出した。
「ナイスショット」
「指示が良かった。角鹿の氷の読みは、蛇池よりずうっと正確だ」
氷に向かって耳を澄ませる仕草をしていた角鹿は、元フィフスの一言に、曖昧に笑う。
(ホームリンクは、氷ちゃんとの「コーレス」がしやすいだけべさ)
北海道WINNERSの四人は、通年営業リンクの常設シートで毎朝練習できる。市内の別々の大学に進学したメンバーがチームを続けられるよう、市がはからってくれた。同じリンクを使う一般の強豪チームの胸も借りられるし、恵まれた環境と言える。
『我が市から男子も世界ジュニア、そしてオリンピックを目指しましょう』
二年前。市が強化プロジェクトを立ち上げ、当時高三だった蛇池をスカウトした。
(蓮先輩を評価してくれるチームあった!)
同じ高校に通っていた自分も、ここぞとくっついてきた。
『天才の君も加入してくれるのかい? 望みなしだと声も掛けられなかったが……大歓迎だよ』
『ぼくも光栄です』
蛇池は、カーリングを始めた小学生時代からずっと憧れの人だ。ショットの「ウェイト」も「ライン」も生来の才覚がある。何度彼のスーパーショットに心震わせたか知れない。
(周りはぼくを天才とか言うけど、だったら蓮先輩は大天才でなきゃおかしいしょ。人間としてはちょこっとあれでも、カーラーとしては信頼してる)
市内出身の三人とチームを組み、高校を卒業しても一緒にプレーできると思ったのに……。
「蛇池のやつ、読み弱いくせに『スキップやりたい』って上京してったが、向こうはたいしたチームないべ。世界ジュニアもオリンピックも、行くのは俺たちだ」
リードが人差し指を立てる。セカンドも同じ見解らしく、頷き合う。
これまで、カーリング日本代表としてオリンピックに出場した男女三十五名のうち、三十一名が北海道出身である。残りは長野出身が三名、岩手出身が一名。北国出身のアドバンテージは大きい。
でも、さっきとは異なる微笑みを浮かべた。
「あの人は諦めませんよ~。ぼくも、あの人を諦めませんけど」
カーリングは、スキップがすべてを背負う。ただし他のメンバーが誰でもいいかと言うと、そうではない。
WINNERSはまだ、新しい五人目を補充せずにいる。
◎
チームガクチカは、リンク貸し切り代を割り勘した三グループと合同で練習した。
(一時間四万四千円って、積もり積もると結構かさむよな)
それだけかけたのに、一人だけストーンを投げられもしなかった。
解説本を読むのとやるのとでは大違いで、まずデリバリーの姿勢を保つのが難しい。それに片足だけ滑りやすい状態は、油断するとすぐバランスを崩してすっ転ぶ。蛇池に溜め息まじりに「危ないから隅で見てろ」と言われてしまった。少なくとも中学以降、こんなに手こずった経験はない。
(どうせスケートすらやったことありませんよ。てか、オレが素人だから負けたりしたら本末転倒なんだけど)
練習初日にして懸念がよぎるも、一限の時間が迫る。スケート場から大学まで電車で二十分とはいえ、そろそろ移動しないといけない。
「このスライダー、もらっていいの」
更衣室で蛇池に声を掛けたら、はっと青いジャージを鞄の奥に押し込んだ。洗濯を忘れたのだろうか。こちらのほうは見ずに言う。
「買い取り、五千円だ」
「高っか」
「靴底が競技仕様になったカーリングシューズは三万くらいする。ブラシ一式もだ」
「うそ!?」
「輸入品だからな」
コスパがよくない。盲点だった。リンク使用料割り勘の割り勘と合わせて一万円近く毟り取られた。
蛇池はさらに、スケート場前で送迎らしき高級車に乗り込む高校生組に声を掛ける。
「不動、皇。これで四人揃ったから」
「はい」
「シーズン初戦は、八月の東京都リーグとしよう」
「わかりました」
不動だけ頷く。
ウインタースポーツと思いきや、真夏にシーズンインするらしい。
個人的には、それまでに最低限の技術を習得しないといけない。
加えて――広研での経験を活かし、スポンサーを探してみようか? 財布が助かるし、スキップには及ばないが「選手で営業」なら、ガクチカの内容を充実させられる。名前のとおり価値ある男だと、チームも認めてくれるに違いない。半ば自分に言い聞かせた。


