やっぱりというか、剣心君はわたしの手を引いて屋上まで連れて行った。日向はバカみたいに暑いから、いつもの風通しの良い給水塔の影まで移動する。

 わたしの鼓動は高鳴っていた。手を繋いだその時、ドキドキしているのが伝わっちゃってるんじゃないかって、余計に鼓動が高鳴った。

 ああ、もう、とうとう始まっちゃうの? わたし達の甘いラブストーリーが。

 そんなことを考えていると、剣心君が周囲をキョロキョロと見渡す。

 ええ? もしかして、いきなりキスしようとしている? ダメだよ。だって、わたし達、まだ正式には付き合って……でも、考えてみたら一緒に図書館デートとかもしているし、下の名前でも呼び合っているし、それに他のクラスメイトもわたし達の仲は応援してくれているし……そう考えたら、ここでキスしたってそんなにおかしい話じゃないのかな?

 一瞬の間に量子コンピューターみたいな演算を働かせてから、わたしは覚悟を決める。

 そうだ。わたし達はこれからの将来も一緒に考える必要があるんだ。逃げるな、わたし。どうせ結婚式ではみんなの見ている前でキスするんだから。

 わたしは目を閉じて、気持ち唇を突き出して上を向く。ここから先は、あなたがリードしなさいよね。

 暗闇の中で唇に柔らかい感触が来るのを待つ。だけど、それは何秒待っても来なかった。

「ん、何やってる?」

 いくらか戸惑い気味の声が聞こえたので目を開けると、剣心君がヤバい奴を見る目で見ていた。

「何って、その……するんでしょ?」
「ああ、悪かった。お前に頼みたいことがあってな」

 ――あ、こいつ、そういう奴だった。

 急に冷めていく感情。

 さっきまでドキドキしていた自分を殴りたくなってくる。

 ああ、ちょっと……もしかして、わたしだけがキス出来るかもって浮かれてたってこと?

 うわあ、ガチで死にたい。恥ずかしくて死ぬ。

 放っておけばそのまま屋上から身投げでもしそうなところで、剣心君が再び口を開く。

「花音、君にしか頼めないことがある」

 なんか気になる物言いね。まあ、悪い気はしないんだけどさ。恥ずかしくて死にそうだった心を叱りつけて、わたしはそれに答える。

「わたしにしか頼めないこと?」
「そうだ。心の優しい君にしか頼めないことだ」

 イマイチ話の意図が掴めないけど、わたしは頷いて先を促す。

「これはあくまで例え話だけど、たとえば花音に好きな人がいるとするよな」
「ええ? そんな、急に何を言い出すの!?」
「だから例え話だって。それとも、本当に好きな人でもいるのか?」
「……さあね」

 ここまで鈍感な剣心君も大概だけど、そこで素直になれないわたしも我ながらどうなんだろうと思う。だけど、ここで言い争っていても仕方がない。わたしの方が大人なので、剣心君の話を聞いてあげる。

「俺が助けたい人には、昔好きな人がいた。それも、26年も前の話だ」
「そんなに前の話?」
「ああ、そうなんだ。とてもそんな風には見えないけどな」

 そう言う剣心君の顔は少し赤くなっているように見えた。26年も前の話を持って来ると言うことは、その人はどう考えても三十代から四十代の年齢にいる人じゃない。

 どういうこと? 剣心君って、実は相当な年上好きだったってこと?

 まさか、わたしのライバルって熟女か何かなの?

 静かにパニックになっていると、剣心君が話を続ける。

「その人は26年前の今頃、密かに思いを寄せていた人に告白しようと決めていた。だけど、悲しい事件があってそれは成し遂げられなかった。不幸な事故が、二人の仲を切り裂いたんだ」

 まだそれしか言われていないのに、わたしの涙腺がちょっと緩くなる。すごく気になるのに、その先の話は聞かない方がいい気がした。

 だけど、そんなわたしの想いを知らない剣心君は勝手に話を進めていく。

「最初は俺一人で彼女を助けようとしていた。だけど、俺一人の力でそれは難しいと思いはじめた」

 そこまで言われてわたしもピンときた。

 剣心君に頼まれてやった図書館での調べ物――あの時調べた事故って、この話と関係あるんじゃないか。

 たしか、ウチの学校の先輩がトラックに撥ねられて亡くなった話だ。そうなると、剣心君の言っている助けたい人っていうのは、当時の事件を知る誰かってこと?

 自分の身にその事件を置き換えてみると、わたしが剣心君に告白しようと思っていたらクラスの誰かが事故で亡くなって、そのまま告白の機会も得られずに卒業して離れ離れになったって感じだろうか。うわ、それはたしかに人生レベルのトラウマになりそう。

 告白が出来ないまま過ごした26年もの歳月ってどんな感じなんだろう。気にはなるけど、わたしは絶対にそんな思いはしたくない。

 理由はよく分からないけど、剣心君はそんなかわいそうな人を一人で助けようとしていたんだ。わたしの知らないところで。

 ダメだ、まだ話を完全に聞いていないのに、もう泣きそうになってる。だけど、そんな風に終わった恋があったなんて、わたしは信じたくないよ。

 剣心君、君は本当に優しいんだね。

 なんてけなげな人なんだろう。やっぱりわたしが彼を好きになったのは間違いじゃなかった。

 密かに涙を堪えていると、剣心君がまた口を開く。

「花音、詳しいことは後で話す。頼むから、彼女を救うのを手伝ってくれないか?」
「いいよ」
「おお、本当か?」

 わたしが想像以上の即答をしたせいか、剣心君は驚いていた。もしかしたら、わたしを納得させるのに苦労すると思っていたのかもしれない。

 だけど、わたしはかわいそうな人を放っておくことは絶対にしないよ。だって、この世界では誰もが生を祝福された上で生きていくべきなんだから。

「困った人がいるなら、助けるのは当たり前じゃない」
「そ、そうか……。花音、本当にありがとうな」

 ちょっと引き気味にお礼を言うのでどうしたんだろうと思ったら、知らぬ間に涙が流れていた。もう、中学生になって年を喰うと涙もろくなるんだから。

「それじゃあ、詳細はまた後で話そう」

 剣心君がそう言うと、授業のチャイムが鳴りだした。わたしは手首で目元を拭うと、剣心君と手を繋いで教室へと戻って行った。

 わたし達はこれから何度も困難に直面することになる。

 きっとこれは神様が与えた試練の一つなんだ。それなら、喜んで乗り越えてやる。

 わたしは絶対に負けないぞ。悲劇なんかに負けずに、剣心君と幸せなゴールを迎えるんだ。