井村君が登校してから、一回も話せていない。

 休み時間になっても、私は彼のことが気になりながらも声をかける勇気が無い。昨日の告白ですべての勇気を使い切ってしまったかのように、今の私は怯えていた。

 美織ちゃんもちょっと冷静というか、あまり急かしたりすることなく私たちの成りゆきを見守っている。

 人気者だから常に他のクラスメイトに囲まれているけど、その中から時折こちらへ視線を投げかけてくる。なんとなく、「焦らないで」と言われている気がした。

 井村君は井村君でぐったりしていた。多分、本当に眠れなかったんだろうな。今日も部活らしいけど、あんな状態で野球部の厳しい練習に臨むのはかわいそう。

 とはいえ、私は密かに井村君ウォッチングを続けていた。動物の狩りだって、一瞬のチャンスをモノにして飛びかかる。きっと今の私も同じ状況で、隙を見ては井村君に話しかける機会を窺っている。

 理想的には屋上まで連れ込んで、そこで返事を聞きたい。あそこは密談でよく使われるだけでなく、カップルが頻繁に誕生する縁起のいい場所でもある。

 机に突っ伏していた井村君がわずかに顔を上げる。

 ――チャンスかも。そう思って様子を窺う。

 井村君が微妙な表情で前の方を見ている。どこか寂しそうで、切なそうな含みを帯びた視線。その視線の先には、他のクラスメイトと談笑する美織ちゃんがいた。

 たったそれだけのことなんだけど、私はそれだけですべてを悟ってしまった。

 ――井村君は、きっと美織ちゃんのことが好きなんだ。

 その言葉が浮かんだ瞬間、背中に寒気が走った。

 なんて皮肉なんだろう。私は井村君が好きで、美織ちゃんがそれを応援してくれていたのに、肝心の井村君は美織ちゃんのことが好きだったなんて。

 振り返ると、何度もそんな場面があった。遊園地のデートだって、井村君が美織ちゃんのことを見ていると分かると、あえて強く手を握ってこっちを向かせたりしていた。

 それでも、人の心は力づくでどうにかなるもんじゃない。ましてや、誰かを好きになる気持ちなんて。

 どうして、神様は残酷なことをするんだろう。

 好きになった人が私のことも好きになってくれたら、みんな幸せになれるはずなのに。

 知らぬ間に視界がじんわりと滲んでいる。泣いていたんだって気付いて、慌てて涙を拭った。幸いにして、他の誰にも気付かれていない。

 指先で目の下を拭っていると、視線を感じたので顔を上げる。クラスメイトに囲まれた美織ちゃんが「どうしたの?」という顔で私を見ていた。

 私は「大丈夫だよ」とばかりに笑顔を作って返した。なんでそんな表情を作ったのか、自分でもよく分からない。だけど慌てている人間っていうのは、えてして笑顔でやり切ろうとする気もする。

 ――井村君が美織ちゃんを好きなら、いっそ彼女に譲ろうか。

 あれだけ焦がれていた熱は冷めだして、急に冷静な思考が湧いてくる。

 このまま行っても、私はフラれるだけだ。さっき垣間見た井村君の仕草で、私はこの先に待ち受ける未来が見えてしまった気がした。

 あーあ、結局2番目って、ダメなんだよね。

 残酷な真実を突きつけられたようで、奈落の底に突き落とされるというよりは「やっぱりか」と落胆する気持ちの方が強かった。

 井村君のことは好きだ。今でも、本当に。

 だけど、敗色濃厚な中で食い下がって、醜態を晒すのも嫌だ。そうなると、この後の身の振り方は自ずと決まってくる。

 ――美織ちゃんに、井村君を譲ろう。

 彼女に井村君を取られたくなくて、強引に手を握ったりしていたけど、そんな時でも井村君の目はいつだって美織ちゃんを見ていたんだ。私の小賢しい戦術なんかまったく意に介さずに。

 そうなると、これから何をやったところで井村君を振り向かせることが出来る気がしない。そんな気がした。

 一度諦めると、それまでにあったずっしりとした重みは消えていった。

 重圧は消えたけど、それがどこか寂しくも感じられた。そんな時――

「菜々ちゃん、ちょっといいかな?」

 知らぬ間に美織ちゃんがすぐ近くに来ていた。

 周りに見えないよう人差し指で上を指す。屋上――そこで話し合いをしようという意味だった。

 そうだね。私も美織ちゃんと話したいと思っていた。

 屋上で、彼女に井村君を任せよう。きっと二人は両想いだから、上手く付き合えるはず。

「うん」

 私は美織ちゃんに向かって頷くと、一緒に屋上へと向かって行った。