「おかえりなさい。畑を見に行っていたの?」
「……はい。少し雑草を刈ってきました。汚れてしまったので着替えてきますね」
懐妊が発覚した後、呆然としたまま寺に戻った私は、出迎えてくれた尼さまに嘘をついた。
実は私は、そもそも身代わりの花嫁を務めたことすらも明かしていなかったのだ。
これ以上しがない庶民である私が星宿家とも烏夜家とも関わることはないだろうし、無駄に心配をかける必要はないと思ったからだ。
ちなみに、初夜の身代わりと村と帝都との往復のために数日外泊したことに関しては、祝言の前に必死に懇願して、尼さまに宛てて「事情があって隣町で宿泊する」と書いた手紙だけ送らせてもらっていた。
(本当は、隣町ではなく帝都だったけれど。そして外泊なんて今までになかったから、尼さまも違和感を覚えたかもしれないけれどね……)
それでも、住職として様々な事情を抱えている人の相談を頻繁に受けていることもあってか、私があえて言わずにいることを無理に聞き出すようなことはしないでいてくれた。
しかし、こうなってしまった以上は、なるべく早く少なくとも懐妊の事実については率直に打ち明けるべきだろう。
体調を崩すことも多くなるだろうし、他の人の協力がなければ、この子を無事に産んであげることはできないかもしれない。
……と、そこでようやく、私は自分の気持ちにはっと気付いた思いがした。
(そうか。とりあえず一つ間違いないのは、私、この子を産みたいと思っているのね。むしろ当然産むものだと思っているし、子どものこともすでに大切で愛おしいものだと思っているのだわ……)
別に自分の置かれた状況は変わっていないのだが、これが分かっただけでも少し視界が晴れた気がした。
なんというか、これから進むべき道がはっきり定まったような心地がしたのだ。
(そうね、これから第一に考えるべきはこの子のことよね)
どうすれば、この子にとって一番良い環境を与えてあげられるかを一番に考えるべきなのだ。
私の置かれた立場やしがらみは、二の次にして。
そう思えば思うほど、頭の中に浮かぶのは「彼」のことだった。
彼――この子の父である、烏夜公爵。私にとっては、初恋のはるくんであるその人。
(やっぱり……この子の存在は知ってもらったほうが良いわよね)
だって、公爵の子として生きるのと、父なし子の庶民として生きるのでは、人生が百八十度違ってきてしまうだろうから。
誤解のないように言っておくと、別に私自身が庶民として生きてきたことを後悔しているわけでも恥じているわけでもない。
しかしどう考えても、村の子として生きるよりも公爵の子として生きるほうが将来の可能性がたくさん開けているに決まっているだろう。
母親のせいで、そうした未来を潰すことになるような真似はしたくなかった。
とはいえ――。
(彼は奥方である華さまを抱いたとしか思っていないのに、どう打ち明けるっていうの?)
打ち明けたところで、信じてもらえる可能性があるのだろうか。
華さまだって、純潔で嫁いだという体裁を守るために、初夜に身代わりを置いたことを認めることは決してないだろう。
「そうだわ。彼への説明も問題だけど、それ以上に華さまにこの子の存在を認めてもらうことのほうが難しい気がするわ……」
華さまにとって、この子は初夜に身代わりを使ったことの生きた証拠になってしまう。
きっと、邪魔者としか思われない。
(下手をしたら、きっと消されるんじゃないかしら……)
そんなことを考えていたせいだろうか――。
「まったく、あんたの家って犬小屋よりひどいあばら家なのね。ああ、臭い臭い」
「えっ……?」
ここで聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、私は一瞬にして震え上がった。
「まさか……は、華さま?」
そして残念なことに、その声は空耳ではなかったのだ。
「そうよ。他の誰に見えるっていうの?」
鼻を摘みながら歩いてきたその人は、質素な寺には不似合いの上等な着物に身を包んでいた。
「こ、高貴な御方が、どうして……こんなところに?」
「私だって、こんな汚いところに来たくはなかったわよ。でも殺せと命じたのに女中の裏切りであんたが生かされたというお父さまのしくじりを聞いてしまっては、結末を自分の目で見ないといけないってことは馬鹿でも分かるじゃない?」
不気味な笑顔を浮かべた華さまは、自らの腹部を撫でておもむろに呟いた。
「私、妊娠したの。もちろん、あの人の子よ」
「……っ! それは、おめでとうございます」
(妻なのだから当然だけど、華さまも彼に抱かれたのね……)
今考えるべきは、そこではないだろう。
しかし、そうと分かりつつも、私は思わず落ち込んでしまった。
そんな私に追い打ちをかけるように、華さまはまるで当然のことであるように言い放った。
「だから、あんたが本当に邪魔なの。正確に言えば、烏夜家の正当なる跡継ぎである私の子にとって害にしかならない、私生児が本当に邪魔なのよ」
「どうしてこのことを!?」
(私だって、懐妊したとついさっき知ったばかりなのに……!?)
「馬鹿ね! 初夜を誤魔化したという私の弱みを知る人間を、野に放ったまま放置しているわけがないじゃない! あんたには、いつだって監視がついていたの。そいつらが、あんたの体調不良の情報を上げてきたのよ。極め付きに、さっき産婆に会ったんでしょう? それで、分からない方がおかしいわ」
「……っ!」
(全部……全部知られてしまっている……!)
私が何を言おうが確信している口ぶりだったし、そもそも完全に図星である。
言い逃れができない状況を前にして、私は何と言うべきか必死に考えたが、全く妙案が思い浮かばなかった。
(でも、何か言わないと……!)
そうしないと、私はお腹の子とともに、この場で殺される……!
「私……あの、ええと……!」
「うるさい! うるさい、うるさい!! 裕二さま、早くこの女を殺して!!!」
華さまがそう叫んだ瞬間、彼女の背後から何者かが駆けてきた。
その手には、きらめく刃物が見えた。
逃げなきゃと、頭では思うのに。
それなのに、とっさのことに体が動かなかった。
(ああ、駄目……っ! せめてこの子だけでも守らなくちゃ!!)
それでも動かぬ体を無理やり動かし、私はお腹を抱え込むようにしてうずくまった。
その瞬間――。
「澪ちゃん!!」
愛おしい声が、私を呼んだ気がした。
次いで、私の体を温かな体温が包みこんだ。
私の頭が正常に働き出したのは、その数秒後のことだった。
「きゃあああっ!! 晴政さま!!」
華さまの耳をつんざくような悲鳴が、私を現実に引き戻した。
はっと気付くと、私を包んでいた体温が離れていくところだった。
振り返れば、そこにいたのは他でもない烏夜公爵だ。
だがその体は傾ぎ、地面にどさりとくずおれた。
その体からは、真っ赤な血がどくどくと流れ落ちていた。
(って、血……!?)
「まさか、公爵さまがかばうなんて……」
華さまの隣に立ち、呆然とそう呟いた男の手には血のついた刃物が見えた。
(間違いないわ。公爵――はるくんは、私をかばってこの男に刺されたのだわ!)
と、その時――。
「澪ちゃん、大丈夫? 怪我はない?」
流血しながらも、彼は笑顔で私に尋ねてきたのだ。
「大丈夫です! って、えっ!? 私の名前……!?」
「俺が澪ちゃんに気付かないわけがないじゃん。澪ちゃんだから初夜までしたのに。朝起きたら別人に入れ替わっているから、本当にびっくりしたよ。俺を置いていくなんてひどいな。迎えにき……うっ、げほっ、かはっ……!」
「無理して喋らないで! すぐに治療を……!」
しかし、この小さな村には医師が常駐しているわけではない。
しかも今日は、産婆はともかく医師の往診日ではないので、おそらく隣町に行かないといけない状況だ。
(こんなに血が出ているのに、それまで持つの!?)
必死に考える私の横で、華さまが叫んだ。
「そういえば、烏夜家の異能は治癒でしょう!? それで治せるんじゃないの……!?」
異能――それは、皇家や高位の華族の血筋で代々引き継がれていると言われる特別な力だ。
とはいえ、庶民は「そういうものがあるらしい」ということを知っているだけで、詳しいことまでは全く知らされていない。
だが華族である男爵令嬢として育った華さまがそう言うならばと希望を持ったが、刃物を持った男は首を横に振った。
「確かに、烏夜の異能は治癒だ。そして公爵さまも異能持ちのはずだが、異能は自分自身には使えないものなんだ。だから、別の治癒の異能持ちの人間がここにいない限り意味がない」
「そんな……!」
刃物を持った男が華さまに説明すると、華さまは衝撃を受けたように表情を引きつらせた。
異能という高位の華族の中の情報は、庶民のみならず下位の華族の中でも周知はされていなかったのかもしれない。
いずれにしても、とにかく隣町まで医者を呼びに行くしかないということだ。
しかし、公爵の顔色はどんどん悪くなっていく。
血が流れれば流れるほど、彼の生命力も失われている様子がはっきりと見て取れた。
(これじゃあ、お医者さまが来るまで待っていてはきっと間に合わない……!)
「お願い! お願いだから誰か助けてください! 神様、仏様! ……っ?」
半狂乱になりながらも、彼の体にすがりついて必死に祈った瞬間――どういうわけか、彼の体が強い光を放ったのだ。
「な、何なの……?」
私が呆然としている間に光は急速に収まった。
そして、それと同時に彼の体がぴくりと動いたのだった。
「澪ちゃん、もう大丈夫だよ。心配をかけてごめんね」
「えっ? でも、怪我は……?」
「全部治ったよ。というか、治してもらったよ」
見れば、すでに流れた血であたり一面が真っ赤に染まっているのはともかく、傷自体は本当に無くなっているようだ。
「……どうして?」
「俺たちの子は、生まれる前から優秀なんだね。お母さんのお腹にいながらにして、異能が使えるなんて立派だ」
「異能!?」
ということは、彼の血を引くこの子が彼を治してくれたのか。
(そして、烏夜の血を継がない私が治癒の異能を使えるわけもないから、私のお腹に子がいて、その父親が自分であると確信しているのね……)
そもそも彼は祝言や初夜のときから私と華さまを見分けていたようなので、自分が抱いた女が妊娠したという点でも自分の子であることを受け入れやすかったのだろう。
「ごめんね。なんで結婚相手が別人に入れ替わっちゃったのか調査するのに手間取って、懐妊した澪ちゃんを一人にしてしまって。そして、ありがとうね。俺たちの子を授かってくれて」
「……公爵さま、いえ、はるくん。この子を喜んでくれるの?」
「当然。愛する人との子が嬉しくないわけがないだろう?」
そうして、はるくんがにこりと微笑んだ瞬間――。
「なんで!? なんでこうなるの!?」
雷鳴のように響く華さまの声が、空気を切り裂いた。
……いや、本当に物理的に切り裂いたのだ。
だって、癇癪を起こした華さまが叫ぶと同時に、その体から電流がほとばしったのだから。
「きゃあっ! 何!?」
「これも異能だな」
悲鳴をあげて尻もちをついた華さまを一瞥し、はるくんが淡々と告げた。
「雷撃といえば、菱刈公爵家の異能。つまり、そのお腹にいるのは菱刈の血を継ぐ子ということだな。異論があるか、菱刈裕二」
「……いいえ。公爵さまのおっしゃる通りです」
返事をしたのは、刃物男だ。
(ということは、華さまはこの人の子を身ごもっているのに、はるくんの子だと偽ったの……!?)
ちょうどその時、数人の足音が響いてきた。
数人の側近を引き連れた白髪の男性がやってきたのだが、その顔を見た瞬間に刃物男が顔色をなくすのが傍目にも見て取れた。
「……父上」
「まったく、とんでもないことをしてくれたな。烏夜公爵、この度は息子が不始末をしでかして大変申し訳なかった。処罰や補償は必ずするが……いったん、この者たちはこちらで預かるということでよろしいだろうか?」
「そのつもりで呼んだのだから、それで構わない。ただし、ゆめゆめこの者たちを逃がすことなど無いようにしてほしい」
「それはもちろん。……では」
刃物男と華さまは、白髪の男性の一行に連れて行かれた。
華さまは嫌がっていたが、元来が箸より重いものを持ったことのないような生粋の華族のお嬢さまなので、そこまで大きな抵抗はできなかったようだ。
ずるずると引きずられていってしまえば、残ったのは私たち二人だけである。
「……まあ、これから状況を整理しなくちゃいけないことは色々とあるけれど。とりあえず、これだけは言わせて。『澪ちゃん、見っけ!』」
「……おかえり。そして約束を守ってくれてありがとうね、はるくん」
こうして、幼き日に始まった長い長い私たちのかくれんぼは、終わりを告げたのだった。
「……はい。少し雑草を刈ってきました。汚れてしまったので着替えてきますね」
懐妊が発覚した後、呆然としたまま寺に戻った私は、出迎えてくれた尼さまに嘘をついた。
実は私は、そもそも身代わりの花嫁を務めたことすらも明かしていなかったのだ。
これ以上しがない庶民である私が星宿家とも烏夜家とも関わることはないだろうし、無駄に心配をかける必要はないと思ったからだ。
ちなみに、初夜の身代わりと村と帝都との往復のために数日外泊したことに関しては、祝言の前に必死に懇願して、尼さまに宛てて「事情があって隣町で宿泊する」と書いた手紙だけ送らせてもらっていた。
(本当は、隣町ではなく帝都だったけれど。そして外泊なんて今までになかったから、尼さまも違和感を覚えたかもしれないけれどね……)
それでも、住職として様々な事情を抱えている人の相談を頻繁に受けていることもあってか、私があえて言わずにいることを無理に聞き出すようなことはしないでいてくれた。
しかし、こうなってしまった以上は、なるべく早く少なくとも懐妊の事実については率直に打ち明けるべきだろう。
体調を崩すことも多くなるだろうし、他の人の協力がなければ、この子を無事に産んであげることはできないかもしれない。
……と、そこでようやく、私は自分の気持ちにはっと気付いた思いがした。
(そうか。とりあえず一つ間違いないのは、私、この子を産みたいと思っているのね。むしろ当然産むものだと思っているし、子どものこともすでに大切で愛おしいものだと思っているのだわ……)
別に自分の置かれた状況は変わっていないのだが、これが分かっただけでも少し視界が晴れた気がした。
なんというか、これから進むべき道がはっきり定まったような心地がしたのだ。
(そうね、これから第一に考えるべきはこの子のことよね)
どうすれば、この子にとって一番良い環境を与えてあげられるかを一番に考えるべきなのだ。
私の置かれた立場やしがらみは、二の次にして。
そう思えば思うほど、頭の中に浮かぶのは「彼」のことだった。
彼――この子の父である、烏夜公爵。私にとっては、初恋のはるくんであるその人。
(やっぱり……この子の存在は知ってもらったほうが良いわよね)
だって、公爵の子として生きるのと、父なし子の庶民として生きるのでは、人生が百八十度違ってきてしまうだろうから。
誤解のないように言っておくと、別に私自身が庶民として生きてきたことを後悔しているわけでも恥じているわけでもない。
しかしどう考えても、村の子として生きるよりも公爵の子として生きるほうが将来の可能性がたくさん開けているに決まっているだろう。
母親のせいで、そうした未来を潰すことになるような真似はしたくなかった。
とはいえ――。
(彼は奥方である華さまを抱いたとしか思っていないのに、どう打ち明けるっていうの?)
打ち明けたところで、信じてもらえる可能性があるのだろうか。
華さまだって、純潔で嫁いだという体裁を守るために、初夜に身代わりを置いたことを認めることは決してないだろう。
「そうだわ。彼への説明も問題だけど、それ以上に華さまにこの子の存在を認めてもらうことのほうが難しい気がするわ……」
華さまにとって、この子は初夜に身代わりを使ったことの生きた証拠になってしまう。
きっと、邪魔者としか思われない。
(下手をしたら、きっと消されるんじゃないかしら……)
そんなことを考えていたせいだろうか――。
「まったく、あんたの家って犬小屋よりひどいあばら家なのね。ああ、臭い臭い」
「えっ……?」
ここで聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、私は一瞬にして震え上がった。
「まさか……は、華さま?」
そして残念なことに、その声は空耳ではなかったのだ。
「そうよ。他の誰に見えるっていうの?」
鼻を摘みながら歩いてきたその人は、質素な寺には不似合いの上等な着物に身を包んでいた。
「こ、高貴な御方が、どうして……こんなところに?」
「私だって、こんな汚いところに来たくはなかったわよ。でも殺せと命じたのに女中の裏切りであんたが生かされたというお父さまのしくじりを聞いてしまっては、結末を自分の目で見ないといけないってことは馬鹿でも分かるじゃない?」
不気味な笑顔を浮かべた華さまは、自らの腹部を撫でておもむろに呟いた。
「私、妊娠したの。もちろん、あの人の子よ」
「……っ! それは、おめでとうございます」
(妻なのだから当然だけど、華さまも彼に抱かれたのね……)
今考えるべきは、そこではないだろう。
しかし、そうと分かりつつも、私は思わず落ち込んでしまった。
そんな私に追い打ちをかけるように、華さまはまるで当然のことであるように言い放った。
「だから、あんたが本当に邪魔なの。正確に言えば、烏夜家の正当なる跡継ぎである私の子にとって害にしかならない、私生児が本当に邪魔なのよ」
「どうしてこのことを!?」
(私だって、懐妊したとついさっき知ったばかりなのに……!?)
「馬鹿ね! 初夜を誤魔化したという私の弱みを知る人間を、野に放ったまま放置しているわけがないじゃない! あんたには、いつだって監視がついていたの。そいつらが、あんたの体調不良の情報を上げてきたのよ。極め付きに、さっき産婆に会ったんでしょう? それで、分からない方がおかしいわ」
「……っ!」
(全部……全部知られてしまっている……!)
私が何を言おうが確信している口ぶりだったし、そもそも完全に図星である。
言い逃れができない状況を前にして、私は何と言うべきか必死に考えたが、全く妙案が思い浮かばなかった。
(でも、何か言わないと……!)
そうしないと、私はお腹の子とともに、この場で殺される……!
「私……あの、ええと……!」
「うるさい! うるさい、うるさい!! 裕二さま、早くこの女を殺して!!!」
華さまがそう叫んだ瞬間、彼女の背後から何者かが駆けてきた。
その手には、きらめく刃物が見えた。
逃げなきゃと、頭では思うのに。
それなのに、とっさのことに体が動かなかった。
(ああ、駄目……っ! せめてこの子だけでも守らなくちゃ!!)
それでも動かぬ体を無理やり動かし、私はお腹を抱え込むようにしてうずくまった。
その瞬間――。
「澪ちゃん!!」
愛おしい声が、私を呼んだ気がした。
次いで、私の体を温かな体温が包みこんだ。
私の頭が正常に働き出したのは、その数秒後のことだった。
「きゃあああっ!! 晴政さま!!」
華さまの耳をつんざくような悲鳴が、私を現実に引き戻した。
はっと気付くと、私を包んでいた体温が離れていくところだった。
振り返れば、そこにいたのは他でもない烏夜公爵だ。
だがその体は傾ぎ、地面にどさりとくずおれた。
その体からは、真っ赤な血がどくどくと流れ落ちていた。
(って、血……!?)
「まさか、公爵さまがかばうなんて……」
華さまの隣に立ち、呆然とそう呟いた男の手には血のついた刃物が見えた。
(間違いないわ。公爵――はるくんは、私をかばってこの男に刺されたのだわ!)
と、その時――。
「澪ちゃん、大丈夫? 怪我はない?」
流血しながらも、彼は笑顔で私に尋ねてきたのだ。
「大丈夫です! って、えっ!? 私の名前……!?」
「俺が澪ちゃんに気付かないわけがないじゃん。澪ちゃんだから初夜までしたのに。朝起きたら別人に入れ替わっているから、本当にびっくりしたよ。俺を置いていくなんてひどいな。迎えにき……うっ、げほっ、かはっ……!」
「無理して喋らないで! すぐに治療を……!」
しかし、この小さな村には医師が常駐しているわけではない。
しかも今日は、産婆はともかく医師の往診日ではないので、おそらく隣町に行かないといけない状況だ。
(こんなに血が出ているのに、それまで持つの!?)
必死に考える私の横で、華さまが叫んだ。
「そういえば、烏夜家の異能は治癒でしょう!? それで治せるんじゃないの……!?」
異能――それは、皇家や高位の華族の血筋で代々引き継がれていると言われる特別な力だ。
とはいえ、庶民は「そういうものがあるらしい」ということを知っているだけで、詳しいことまでは全く知らされていない。
だが華族である男爵令嬢として育った華さまがそう言うならばと希望を持ったが、刃物を持った男は首を横に振った。
「確かに、烏夜の異能は治癒だ。そして公爵さまも異能持ちのはずだが、異能は自分自身には使えないものなんだ。だから、別の治癒の異能持ちの人間がここにいない限り意味がない」
「そんな……!」
刃物を持った男が華さまに説明すると、華さまは衝撃を受けたように表情を引きつらせた。
異能という高位の華族の中の情報は、庶民のみならず下位の華族の中でも周知はされていなかったのかもしれない。
いずれにしても、とにかく隣町まで医者を呼びに行くしかないということだ。
しかし、公爵の顔色はどんどん悪くなっていく。
血が流れれば流れるほど、彼の生命力も失われている様子がはっきりと見て取れた。
(これじゃあ、お医者さまが来るまで待っていてはきっと間に合わない……!)
「お願い! お願いだから誰か助けてください! 神様、仏様! ……っ?」
半狂乱になりながらも、彼の体にすがりついて必死に祈った瞬間――どういうわけか、彼の体が強い光を放ったのだ。
「な、何なの……?」
私が呆然としている間に光は急速に収まった。
そして、それと同時に彼の体がぴくりと動いたのだった。
「澪ちゃん、もう大丈夫だよ。心配をかけてごめんね」
「えっ? でも、怪我は……?」
「全部治ったよ。というか、治してもらったよ」
見れば、すでに流れた血であたり一面が真っ赤に染まっているのはともかく、傷自体は本当に無くなっているようだ。
「……どうして?」
「俺たちの子は、生まれる前から優秀なんだね。お母さんのお腹にいながらにして、異能が使えるなんて立派だ」
「異能!?」
ということは、彼の血を引くこの子が彼を治してくれたのか。
(そして、烏夜の血を継がない私が治癒の異能を使えるわけもないから、私のお腹に子がいて、その父親が自分であると確信しているのね……)
そもそも彼は祝言や初夜のときから私と華さまを見分けていたようなので、自分が抱いた女が妊娠したという点でも自分の子であることを受け入れやすかったのだろう。
「ごめんね。なんで結婚相手が別人に入れ替わっちゃったのか調査するのに手間取って、懐妊した澪ちゃんを一人にしてしまって。そして、ありがとうね。俺たちの子を授かってくれて」
「……公爵さま、いえ、はるくん。この子を喜んでくれるの?」
「当然。愛する人との子が嬉しくないわけがないだろう?」
そうして、はるくんがにこりと微笑んだ瞬間――。
「なんで!? なんでこうなるの!?」
雷鳴のように響く華さまの声が、空気を切り裂いた。
……いや、本当に物理的に切り裂いたのだ。
だって、癇癪を起こした華さまが叫ぶと同時に、その体から電流がほとばしったのだから。
「きゃあっ! 何!?」
「これも異能だな」
悲鳴をあげて尻もちをついた華さまを一瞥し、はるくんが淡々と告げた。
「雷撃といえば、菱刈公爵家の異能。つまり、そのお腹にいるのは菱刈の血を継ぐ子ということだな。異論があるか、菱刈裕二」
「……いいえ。公爵さまのおっしゃる通りです」
返事をしたのは、刃物男だ。
(ということは、華さまはこの人の子を身ごもっているのに、はるくんの子だと偽ったの……!?)
ちょうどその時、数人の足音が響いてきた。
数人の側近を引き連れた白髪の男性がやってきたのだが、その顔を見た瞬間に刃物男が顔色をなくすのが傍目にも見て取れた。
「……父上」
「まったく、とんでもないことをしてくれたな。烏夜公爵、この度は息子が不始末をしでかして大変申し訳なかった。処罰や補償は必ずするが……いったん、この者たちはこちらで預かるということでよろしいだろうか?」
「そのつもりで呼んだのだから、それで構わない。ただし、ゆめゆめこの者たちを逃がすことなど無いようにしてほしい」
「それはもちろん。……では」
刃物男と華さまは、白髪の男性の一行に連れて行かれた。
華さまは嫌がっていたが、元来が箸より重いものを持ったことのないような生粋の華族のお嬢さまなので、そこまで大きな抵抗はできなかったようだ。
ずるずると引きずられていってしまえば、残ったのは私たち二人だけである。
「……まあ、これから状況を整理しなくちゃいけないことは色々とあるけれど。とりあえず、これだけは言わせて。『澪ちゃん、見っけ!』」
「……おかえり。そして約束を守ってくれてありがとうね、はるくん」
こうして、幼き日に始まった長い長い私たちのかくれんぼは、終わりを告げたのだった。
