「あらぁ、澪さん。これは、ご懐妊ね! 心当たりはある?」

 体調不良を相談した産婆にそう言われた時、私は衝撃に目を見開いた。

「……心当たりは、あります」
「じゃあ、きっと喜ぶでしょうから、すぐに相手の方にも教えてあげなさいね!」
「……そうですね」

 口ではそう答えながら、内心では真逆のことを思っていた。

(言えない。言えるはずもないわ。だって、この子は本来私が授かって良い運命の子ではなかったのだから……)

***

 私こと澪は、帝都から離れた小さな村の尼寺で育った孤児だった。
 寺の前に捨てられていた赤子の私を、住職の尼さまが見つけたらしい。
 それ以来、尼さまは自分の子どものように私を育ててくださった。
 十八歳になった今の私は、もっぱら尼さまの手伝いをしながら穏やかな日々を暮らしている。

 そんなどこにでもいるしがない庶民だった私が、数奇な運命に巻き込まれ始めたのは、ほんの二ヶ月ほど前のこと――。

 その日もいつも通り、日課である寺の掃き掃除をしていた。
 すると、どういうわけか、私はいきなり強い衝撃を受けて気を失ったのだ。
 おそらく、背後から気配もなく忍び寄った何者かに昏倒させられたのだと思う。
 はっと目覚めると、そこは立派なお屋敷の一室だった。

「やっと起きたのね?」

 間近で刺々しい声が聞こえ、人がいると思っていなかった私は驚いて声の主を見た。

「えっ……!?」

 そこにいたのは、紛れもなく「私」だった。
 正確に言えば、私自身と瓜二つの容姿の女性がそこにいたのだ。
 女性は私を不快そうな眼差しで見つめながら口を開いた。

「はぁ。こんなみすぼらしい女が私の妹だなんてね」
「……妹?」
「そうよ。忌々しいことに、私たちは双子の姉妹らしいわよ?」

 聞けば、ここは華族である星宿(ほしやど)男爵の屋敷らしい。
 女性は、自らを星宿(ほしやど)(はな)と名乗った。

「まあつまり、捨てられてさえいなければ、あんたも星宿の令嬢として生きていたんでしょうね。でもお母さまが私を産んだところまでは何ともなかったのに、あんたを産んだ後に容態が急変して亡くなったから、恨みに思ったお父さまがあんたを殺すように指示したんですってよ。とはいえ、殺すのは忍びないと思った女中が、命令に背いて遠くの村に捨てることにしたらしいけど。その女中が、つい最近死んだのだけれどね。何を思ったのか、今際の際に私にだけ懺悔したのよ。しかも、もしよければ今からでもたった一人の妹を迎え入れてあげたらどうか、なんて言うじゃない」

 ということは、この人は私を家族として迎え入れようとして……?

「……まったく! 自分は死ぬからってこっちに面倒な話を押し付けるなんて、本当に迷惑の極みでしかないわ!!」

 ……違った。家族に迎え入れる気はこれっぽっちもないようだ。
 ではどうして今更私の前に現れたのだろうと思っていると――。

「まあ、迷惑は迷惑だけど、自分の出自も知らずにただの庶民として生きているなら、我が家の家督継承にも関わらないし、あえて殺す理由もなかったわ。だからこのまま永遠に放置しようと思ったんだけど、ちょうどあんたが役に立てる出番が来たから連れてきたってわけ。偉大なるお姉さま(・・・・)のために働けることを光栄に思いなさいよね、みすぼらしい私の妹ちゃん?」
「お、お断りすることは……?」
「あら、あの尼(老いぼれ)がどうなっても良いの? それなら好きにすれば?」

 あんまりな発言だが、生まれながらの華族である彼女にはきっとそれだけの力があるのだろう。
 現に、私はずっと暮らしていた村からあっさり誘拐されてこの屋敷に連れてこられているのだ。
 その事実が、彼女の言葉が上辺だけのものではない証左に思われた。

「私にできる限りのことは何でもいたします! だから、どうか! 村や尼さまには手を出さないでくださいませんか!?」

 必死に言い募る私を一瞥してから、彼女は小さく嘆息した。

「あんた、処女?」
「しょ……えっ?」
「処女か、って聞いているんだけど?」
「は、はい。処女ですが……?」
「じゃあ、私の代わりに烏夜(うや)公爵に嫁いでよ」

 淡々と告げられたのは、あまりにも予想外の言葉で――。

「嫁ぐ? 私が? 烏夜公爵に? ……って、公爵ですか!?」

 公爵といえば、華族の頂点だ。
 星宿家の男爵という爵位でさえ平民育ちの私には恐れ多いものなのに、公爵なんて雲の上の存在すぎてもはや実在するのかと疑ってしまうくらいの爵位である。

(そんな人に嫁ぐなんて、分不相応にも程があるというものよ!?)

「無理です! 私は平民育ちなんですよ!? それなのに公爵の妻だなんて!!」
「そうよ。あんたには無理よ」
「……えっ?」
「あははっ! まさか本当の妻になれると思っていたの? 馬鹿ね。身の程知らずは、あっという間に身を滅ぼすわよ! ふふっ、あははははっ!」

 涙を流すほどに笑う彼女を、私は呆気にとられながら見つめた。

「でも今、公爵に嫁ぎなさい、って……」
「それは、一夜だけ私の身代わりを務めなさいって意味よ。それが終わったら、あんたは用済み。その後に一生、天下の烏夜公爵の夫人として生きるのは、この私!」
「一夜だけ? なぜそのようなことを? 華さまが最初から嫁がれてはいけないのですか……?」
「……はぁ。高位の華族になればなるほど、伝統やら慣習やらにいっそう厳しいのよ。まったく、結婚相手を変えることになると分かっていたら、あんな男となんてやらなかったのにね……」

 彼女がそれ以上説明することはなかったけれど、雰囲気からおおまかな事情は分かったと思う。
 公爵家の花嫁には純潔が求められているのに、何らかの事情により彼女はそうではないため、初夜をこなす「処女の身代わり」がほしいということなのだろう。
 しかも双子とあって、私の容姿は彼女に瓜二つだ。
 身代わりとするのに、これほどお誂え向きの人間はいなかったのだ。

 その数時間後、私は命じられるがままに公爵との祝言の席に臨んだ。
 華やいだ空間とは対照的に、不本意なことをさせられる悔しさや公爵という権力者を騙すという恐怖に震える私の心は絶望感でいっぱいだった。
 ――そこで、私の隣に立つことになる人物の正体を知るまでは。

(……どうして彼がここにいるの!?)

 大人になって、姿形は変わっていた。
 しかし、見間違えようはずもない。
 私の仮初めの婿となった、烏夜公爵こと烏夜晴政(はるまさ)
 それは、あろうことか、幼い頃たくさん遊んだはるくん(・・・・)に違いなかったのだ。

(まさか、初恋の人と祝言をあげることになるなんて。そして、初夜まですることになるなんて……!)

 夢見心地になるあまり、そのときばかりは現実を忘れて、仮初めの幸福に浸っていた。
 初夜も、喜んで応じた。
 彼はどこまでも大事に私を抱いてくれたと思う。
 しかし、私はあくまでも一夜限りの妻である。

 事前に受けていた指示に従い、彼がぐっすり眠っていることを確認してから、夜明け前にこっそり華さまと入れ替わり、私は村に戻った。
 その後は、まるで何事もなかったように尼さまの手伝いをする日々を過ごした。
 行動はこれまで通りに振る舞ったつもりだが、心はなかなか切り替えられない。
 それでも最近になってようやく、あの一夜の思い出を胸にこの先の日々を生きていこうと思い定めることができたところだったのに。
 その矢先に告げられたのが、今回の懐妊である。
 どうしようという気持ちが先に立ち、私は産婆に向けて曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。

***