愛して、『る』に情熱を


『い』
『っ』
『て』
 いって。
 手にしていた文字盤をおろした俺は首を横に振った。
「行かない。瑞奈を置いて、決勝に出るなんて」
 パジャマ姿の瑞奈はリクライニング式のベッドを起こして、俺を見つめていた。
 彼女が二回瞬く。文字盤を使用したいの合図だ。
 俺はA3サイズほどの透明なアクリル製文字盤を再び掲げ、文字盤越しに瑞奈を見る。
 文字盤には、あかさたな順に平仮名や〝 。数字が記載されている。自力会話ができなくなった瑞奈は、この文字盤を利用して、俺や家族とコミュニケーションを取っていた。
 先日の、川南との一対一対決で倒れた瑞奈は、すぐに病院へ運ばれた。
 二日間の昏睡状態から回復したものの、瑞奈は自身の身体をほぼ動かせなくなった。口も、喉も動かしにくいため、発話が困難だった。呼吸も苦しいようで、鼻マスクからは忙しない息遣いが聞こえてくる。なんとか思いどおりになるのは瞼と目玉だけのようだ。
「あ、か、さ、た」と言ったところで、瑞奈が瞬く。
「た行か」
 今度は、た行を順に読みあげながら、文字盤越しに瑞奈と目を合わせる。
「た、ち、つ、て」
 『て』の文字越しに、瑞奈が瞬いた。
「て?」
 確認のために口にするが、瑞奈は瞼を動かさない。こういう場合は、濁点を意味することが多いのを、俺はこの数日間の文字盤コミュニケーションで学びつつあった。
 文字盤の〝 越しに瑞奈を見ると、案の定、瑞奈が瞬いた。
「一文字目は『で』か」
 瑞奈がパチパチと瞼で拍手するように、複数回瞬く。
「あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら」
 瑞奈が二回瞬いた。
「次は、ら行だな」俺は文字盤の、ら行越しに瑞奈を見る。「ら、り、る、れ、ろ」
 『ろ』で瑞奈が瞬いた。
「『で』『ろ』?」
 でろ。
 言った瞬間、にやりとしてしまった。まさか文字盤で命令されるとは。瑞奈も笑っていることを伝えたいのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 川南のチームとの決勝戦は翌日だ。
 瑞奈と川南の一対一対決は引き分けに終わった。
 瑞奈が気を失わなければ、二人の戦いはずっと続いていたのだろうか。続いたとしても、どこかのタイミングで瑞奈が倒れていたかもしれない。そもそも、あの対決が瑞奈の症状を悪化させてしまった……二人の対決を止めなかった自責の念に、あの対決の日から俺は苛まれている。のうのうと決勝に出場してよいのだろうか……。
 瑞奈が、また文字盤の使用を所望してきた。俺が文字盤を手にすると、瑞奈が瞬いて、自身の思いを伝えてくる。
『き』
『に』
『す』
『る』
『な』
 きにするな。
「いや、気にするって」
 瑞奈は心の中を読めるのだろうか。彼女の髪の毛をくしゃっと力を抜いて摘まむと、気持ちよさそうに目を瞑った。瑞奈の体温を感じる。瑞奈の匂いに包まれ、俺も瞼を閉じた。
 暫くそのままでいると、病室のドアが開いた。
 咲良と、瑞奈のご両親だった。
「晴翔くん、明日は決勝戦だろ。瑞奈やうちらに気を遣わないで、準備してくれ。もうこんな時間だ」
 お父さんが壁にかけられている時計を柔和な顔つきで見やる。午後六時過ぎ。
 あの日、瑞奈を病院外へ連れ出したことを、ご家族は誰も怒らなかった。むしろ感謝されたほどだ。瑞奈が大好きなサッカーをできた、その手助けをしてくれてありがとう、と。
「あの、俺、やっぱり明日は欠場します」
「どうしてだい? せっかくの決勝なんだし」
 お父さんに続いて、お母さんも「瑞奈のことはちゃんと見てるから、安心してプレーしてらっしゃい」と声をかけてくれる。
「でも、やっぱり……」
「え? 何? お姉ちゃん」
 咲良が瑞奈に話しかけていた。瑞奈が何かを言いたそうに目をぱちぱちさせている。咲良が文字盤を掲げ、瑞奈の伝えたい気持ちを言葉にする。
『ば』
『か』
『も』
『ん』
 ばかもん。
 一瞬、病室内に沈黙が落ちる。
 瑞奈のメッセージを読み上げた咲良は、自分で口にした言葉に唖然としていた。お父さんとお母さんも水鉄砲をいきなり顔に浴びたような表情だ。
 ぷっ、と咲良が吹いた。それを皮切りにお父さんが目尻を下げて朗笑し、お母さんもくくくと笑い声を漏らす。
 瑞奈の澄んだ声が聞こえた気がした。「ばかもん」と。
 俺は瑞奈をじっと見つめる。瑞奈の黒目がちな瞳が真っすぐに俺を見返していた。とてつもない意志の強さと情熱を滾らせて俺を叱咤激励する。ばかもん。
「晴翔くん」
 お父さんが笑みを湛えたまま、「これでも、明日の試合を欠場するのかい?」ぽん、と俺の肩に手を置いた。じんわりとお父さんの熱が伝わってくる。
「行ってらっしゃいよ」お母さんが穏やかに言葉を添えた。
『い』
『け』
 行け、だ。咲良がぐいっと眼鏡を中指で持ち上げながら、瑞奈のメッセージを俺に伝えた。
 瑞奈が俺の背を押してくれていた。
 瑞奈だけじゃない。咲良が、瑞奈のお父さんが、お母さんが、情熱を俺に伝えてくれている。こんなことまでされたら……
「行ってきます。優勝して、天皇杯出場を決めて、おまえのもとに帰ってくる」
 瑞奈の黒目がより大きく輝いた。
 煌めきに導かれるように、俺は勢いよく病室を飛び出す。今から新幹線に乗れば明日の決勝には間に合う。
 外に出ると、三日月が柔らかいオレンジ色の膜を纏っていた。儚い夜を照らす最後の命の灯火だった。



「最後集中しろ。逃げ切ろうと考えるな。むしろ点を取って引き離すんだ」
 拓真さんがパンパンと手を叩き、周囲にゲキをとばす。
 チームメイトが一斉に「おうっ!」と鬨の声をあげた。
 決勝戦は後半アディショナルタイムに入っていた。1対0で俺達がリードしている。連携プレーから俺が押し込んだ一点をあと二分間守り切れば、優勝だ。でも、その二分を〝退くな〟と、拓真さんは宣言した。むしろ追加点を奪え、と。
 もしもこの場に瑞奈がいたら、きっとこう言うだろう。
〝ばかもん。攻撃の手を緩めるな。パスに思いを込めて。シュートに熱を込めて。走る足に気持ちを込めて。情熱を出しなさいよ!〟
「情熱だ」
 気付くと、瑞奈みたいに吠えていた。チームメイトたちも「情熱」と勇壮に叫ぶ。
 瑞奈の言葉で俺達は気持ちが一つになる。ピッチ上に瑞奈がいるみたいだ。
「情熱こいやぁああっ! 点取ろうぜぇっ!」
 レッドカードでベンチ入りできなかった幸成が、観客席から、曇り空にケンカを売るように声を張り上げる。
 俊介がゴールキックを蹴った。ボールがぐんぐんと灰色の空を突き破って伸びていく。
 俺はボールを追う。
 ボールの落下地点を目がけて川南も走り込んでいた。駆けながら目が合う。川南は試合を諦めていなかった。
 ――あとは任せた。あたしがパスを繋ぐのは、繋ぎたいのは、晴翔くんだけ。
 瑞奈の想いを、パスを、確かに俺は受けた。
 茜空の下で初めて出会った時みたいだ。情熱と想いに満ちたパス。
 いつだって、そして、これからも――
 ボールがピッチでバウンドする手前で、俺はトラップした。ピタリとボールが足もとにおさまる。情熱を足に込めると、瑞奈みたいにボールが吸いつくトラップができる。
 間髪を容れずに、ドン、と左上腕に衝撃を受ける。
 女性の力とは思えないほどのショルダーチャージに身体がぐらつきそうになる。これが相手チームのエース・川南なのだ。全力で俺に勝負を挑んでいる。
 俺も自分の力を出し切らないと失礼だ。本気でいかないと、瑞奈みたいにピッチで無双する川南を超えることなんてできない。
 トラップしたボールを後ろ足のチョップフェイントで左に弾く。
 身体を即座に捻った川南が、俺の前に立ちはだかる。読まれていた。
 川南と正対した俺は、右方向へと足裏でボールを転がす。緩急をつけるために、わざとゆっくりボールを運ぶ。それも川南に読まれていた。鋭いプレスをかけられ、ボールが川南のつま先で小突かれた。
 弾かれたボールが俺の背後で浮いているのが間接視野で分かった。川南は既に動いている。常人離れしたステップを踏み、ボール確保に向かっていた。
 今からターンをしても、とても川南には追いつけない。
 瑞奈だったら、……どうする?
 瑞奈がこれまで見せてきた数々のプレーが脳裏に過ぎる。
 咄嗟の機転がチームを救ってきた。そう、機転――
 背後へ零れたボールに向けて、後ろ足を精一杯に伸ばした。
 重心が後ろへと傾き、倒れそうだ。足がもげそうだ。
 踏ん張れ、カッコ悪い体勢でも何でもいい、情熱をボールにぶつける!
 つま先がボールに触れた、瞬間、俺はつま先でボールを蹴り、ピッチに叩きつけた。ボールが大きくバウンドする。縦回転するボールが俺の頭上へと浮き戻ってくる。
 瑞奈の機転と俺の発想をミックスさせたプレーだ。あとはこのボールを――突如として俺の身体に、さっきよりも重たい衝撃がきた。
 川南の執念だった。どこまでも異次元の重心移動で俺を前に進ませない。
 バランスを崩した俺の頭上を越えて、ボールが前方へ落ちる。ボールが逃げいていく。ボールが……逃がしてなるものか!
 ――その足に情熱を込めて!
 瑞奈の声が、聞こえた気がした。
「うおおおおおおおっ」
 いきり声と一緒に、右足でピッチを蹴った。反動を利用して、そっくり返りそうになっていた身体を捻る。後方にあった身体の重心が、つんのめるほどに前へと傾いた。
「だああああああっ」
 足に腰に身体に情熱を込め、俺は走りだす。走る、走る。
 高くバウンドしたボールを、ジャンプしながら胸でおさめた。ボールが俺の胸元で微笑んだ気がした。
 これじゃないのか? 
 瑞奈がボールから感じていたものは、このやわらかい笑みなんじゃないのか?
 ゴールまでの道筋がくっきりと眼前に浮かぶ。瑞奈みたいに。
「行けえっ!」
 身体を横に倒しながら、俺は渾身の力を込めて、情熱を込めて、ボレーシュートを放つ。
 ぐん、とボールが伸びる。瑞奈の後押しを受けているように。
 反応できない相手ディフェンダーが、目だけでボールを追っていた。
 ぐん、とまたボールがスピードに乗る。
 瑞奈の、朔太郎の、幸成の、拓真さんの、チームメイトの、瑞奈のご両親の、咲良の、春奈さんの、この勝利にかかわるすべての人の想いと情熱が、ボールに力を与える。
 横っ跳びをした相手ゴールキーパーが指先にボールにあてる。チッ、とキーパーグローブを掠める音がした。
 ボールは、弾かれなかった。
 俺たちの勢いや想い、情熱は止められなかった。
 ボールがゴールネットを突き刺す。
 響き渡るホイッスルの音色が空へと舞い上がった。試合終了の合図。
 どおおおっと地響きのような歓声と浮き立つ騒がしさが、会場を揺らす。
 駆けてくる。
 仲間が手を突き上げ、ある者は咆哮し、ある者は飛び跳ねて走ってくる。
 歓喜の輪が扇状に広がった。幸成が俺に向けてダイヴした。それを皮切りに、次々と誰かしらがダイヴする。もう揉みくちゃだ。
「優勝だ!」叫んだ。
「優勝ぉおおおっ!」「天皇杯行くぞぉ!」
 手が伸び、俺を立ち上がらせる。いつの間にか皆で円陣を組み、大合唱していた。
「カンピオーネ(チャンピオン)! カンピオーネ! オーレ―オーレーオーレー!」
 謳いあげる。声と突き上げた腕が空を揺さぶり過ぎたのか、雨粒が落ちてきた。それでもピッチからは誰も去ろうとはしない。謳いあげていく。
「カンピオーネ! カンピオーネ! オーレ―オーレーオーレー!」
 雨でも嵐でも、何でも来い! そう言わんばかりに俺達は謳う。情熱を滾らせて。
「瑞奈!」
 ここにはいない、けれど俺たちは確信している。この声が瑞奈に届くことを。瑞奈を呼ぶ声が大きくなる。皆で声を合わせる。俺も声を張り上げる。
「瑞奈ぁあああああアッ!」
「カンピオーネ! カンピオーネ! 瑞奈ぁ! 瑞奈ァッ!」
 俺たちの歌声は続いてく。
 激しさを増す雨の中、瑞奈に届けと俺たちは声を嗄らす――俺のカバンの中で、スマホが鳴っていることになど気付かずに。
 どす黒く染まった雨空の彼方で遠雷が轟いていた。その音も、今の俺の耳には入ってこなかった。



 瑞奈の死を知らされた。
 
 抗えない力で天地をひっくり返された。俺は地面に手をつく。足腰が立たなかった。力を入れようとしても、回路が切断されたように力が入らない。息苦しかった。
 芝の匂いさえも感じられない。味覚だけがあった。鼻の奥でつんとくる涙。慟哭――
「晴翔……」
 荒れた呼吸が小康状態になったタイミングで、朔太郎の声が聞こえた。
 四つん這いの姿勢で首を垂らしている俺の脇で、朔太郎が膝をつき、俺の背に手を置いた。
 瑞奈のお父さんからの電話を受けたのが朔太郎だった。当初は俺宛てに電話をしたのだが、応答がなかったために、俺の次によく名前を聞いていた朔太郎に電話をかけたそうだ。
 優勝の円陣を組み勝利の歌を謳いあげてからまだ十分も経過していない。
 周囲では、瑞奈の死を知らされたチームメイトが号泣していた。呻き声や鼻を啜る音に埋め尽くされている。
「朔太郎」
 絞り出た声は空気中で蒸発してしまうほどに小さく脆かった。
 嗚咽するままに、俺は手当たりしだいに辺りの芝を引き抜き、握り潰していく。いつしか何も掴むことができなくなっていた。湿った土の感触だけがあった。
 ふいに寒気を覚えた。身体の中から熱が奪われていく。自分を支えるができなかった。もう、何もかもがどうでもいい、瑞奈がいない世界なんて……ゆっくりと身体が前傾し、谷底へと落下するように、俺は倒れ伏していく――
 誰かが俺を支えた。
 しっかりとした頑丈な手だ。それも一人ではなく、二人、三人……何人もの手で支えられていた。
 拓真さんが朔太郎が幸成が俊介が、仲間達がチームメイトが、俺を支えてくれていた。冷え切っていた俺の身体に小さな火が灯っていく。
 拓真さんの声がした。
「晴翔、俺達は皆で戦ったんだ。皆、瑞奈も含めて全員の勝利だ」
 ゆっくりと俺の身体が抱き起こされていく。立ち上がることなんて不可能だと思っていたのに、仲間が俺を助け起こしてくれていた。
 俺の真正面から声が届く。
「晴翔。瑞奈ちゃんのもとへ行って」
 朔太郎の言葉に、俺の心臓が強く拍動した。
 瑞奈に誓った。優勝して瑞奈のもとへ帰ると。こんな所で倒れている場合じゃない。
「晴翔――」
 拓真さんが俺の肩に手を置いた。
「その、なんだ……もしもおまえが了承してくれるのならば、俺達も一緒に行っていいか? もちろんおまえと瑞奈だけの時間を過ごせるように配慮する……」
 首を縦に振る。ダメなはずない。
「瑞奈も、みんなに会いたがっていますよ。一緒に帰りましょう、瑞奈のもとへ」



「瑞奈」
 語りかけるそばから、俺の声が部屋の中で行き場を失っていくようだった。それでも、俺は声をかけ続ける。「瑞奈」彼女からの返事は無いと分かっているのに。「瑞奈」何度でも口にする。
 瑞奈の頬や額に手をあてた。冷たくなっていると感覚が伝えてくるのに、彼女の温もりを探り当てるようにその柔らかな髪をとく。髪の束をなかば噛むように口にあてた。匂いが残っていた。残酷なまでに瑞奈だった。
 枯れ果てたはずの涙がまた溢れてくる。寂々たる室内でしゃくりあげる度に意識を失いそうだった。
「あの」
 咲良がそっと俺に声をかけてくれた。
「姉が、晴翔さんに内緒にしていたことがあって」
 覚悟を決めるように、咲良が息を吸う。
「姉は視線入力を練習していたんです。文字盤を使った会話ではたくさん喋ることができないから。晴翔さんといっぱい喋りたいから。晴翔さんに色々な気持ちを遺したいから。でも、視線入力しているところは内緒にしたかったようで。たぶん、……驚かせたかったんじゃないでしょうか」
「瑞奈が」
 あの機械音痴な瑞奈が――。
「ようやく長い文章を視線入力で書けるようになって。その時に書いた文章を保存しているんです。晴翔さんへの想いに満ち満ちた文章が」
 ぽっと瑞奈の顔が浮かぶ。
 どんな時でもあきらめない瑞奈らしい情熱を漲らせた表情で、にいいっと笑む。
「咲良さん、瑞奈が視線入力した文面を見せてくれませんか」
 直後だった。
 声が、聞こえた。
 3、2、1とカウントダウンする瑞奈の声。
 そうして――

晴翔くーん
びっくりしたでしょ。驚かせるために内緒にしてたから、驚けっ! 愛の銃弾だ!
だってさ、文字盤だと一文字ずつだから時間かかって、晴翔くんとたくさん話すことができぬっ。だーかーら、視線入力! 頑張ったぜー。もう自由自在に入力できる。あたたたたたた! なんてことも、これだったら伝えられる。ん? あたたたたたた、だったら文字盤でも簡単か。
さあて、優勝したかな? 
ねえ咲良、これ保存しないでよ。あくまでも練習なんだから。
ん? なんか不敵な笑み。おいこら、ぜってー保存すんな。
でも、楽しみだな。晴翔くんが驚く顔。あたしがこんなふーにパソコンを操る。くうー、その絵、最高じゃない。
せっかくだから、口では言えないことを言ってあげようじゃないか。喜びたまえ。あー、ちょっと息苦しい。
晴翔くん、愛して

 瑞奈の音声が途絶えた。
 イントネーションやリズムが、人間が喋るよりも平たいトーンになっているが、紛れもない瑞奈の声で、文章が読みあげられた。
 ALS患者の声を事前に収録しておくことで、コンピューターのプラットフォ―ム上で患者が自分の声で喋っているように聞かせる技術がある。そのことは知っていた。でも、それを瑞奈が仕込むなんて。
 どれだけの時間を要しただろうか。LINEの文面でさえ長時間かけて入力する瑞奈だ。パソコンを前にして地蔵になる瑞奈を容易に想像できた。
 俺の感傷を邪魔しないよう控えめな声で、咲良が補足してくれた。
「保存しないでって姉は書いてるけど、保存しちゃったんです。だって、この後すぐに姉は意識を失って、そのまま――」
 虫の音が聞こえるくらいに、居室内が静けさに包まれた。息つぎや、身じろぎを忘れてしまう時間がゆっくりと過ぎる。
「咲良さん、もう一回……お願いします」
 頷いた咲良がパソコンに向き直る。
 俺もパソコンに近づいた。
 瑞奈の声が聞こえてくる。
 パソコンのスピーカーからだけではなく、頭の中に瑞奈が現れて喋ってくれている、恥ずかしそうに時々顔を俯かせ、でも顔を上げた時はまっすぐに俺を見て。
 俺は目を瞑って、瑞奈の声に耳を傾ける――

「愛してる、そんな歯の浮くセリフ、絶対に言ってやるもんですか」

 瑞奈の言葉が蘇った。
 死ぬ直前でもそれはないだろう。愛して、で終えずに、愛してる、まで言い切ってくれよ。
 そう思うと、悲しいのに、俺の顔が綻んだ。
 
 愛して、る。

 あ。
 瑞奈が俺に語りかけてきた、気がした。
 最後の『る』に、言えなかった『る』にたっぷりの情熱を注いで。
「お父さん……」
 声が掠れた。駄目だ、俺も情熱を込めて言わないと。力を貸してくれ、瑞奈。
「これを、瑞奈の指に嵌めさせてください!」
 叫ぶように切り出した。必死だった。伝えたかった。瑞奈への想いを。俺と瑞奈の未来は確かにここに存在するのだから。
 バックパックから小ぶりの箱を取り出す。
 プラチナの指輪だ。
「晴翔君、ありがとう」
 丁重に頭をさげてくれたお父さんが、俺の背に震える手を添えた。そうして二人して瑞奈のもとへと歩く。
 なんだかバージンロードみたいだ。
 きっと瑞奈はこの光景を見て吹き出しているだろう。晴翔くん、何でお父さんと一緒にバージンロードを歩くの、あたしの役割なのに、と。
 背後から、お母さんと咲良が声をつまらせながらついて来てくれているのが分かる。瑞奈はきっと大爆笑だ。俺の足取りは軽く、笑顔になっていた。
 俺の表情を確認したチームメイトが拍手をする。
 パンパーカパーン♪
 幸成が結婚協奏曲の韻律を口にすると、瞬く間に大合唱となった。俺と瑞奈の人生の門出を祝福するために、皆、泣きながら笑い、歌っていた。
 大切な家族と仲間に、俺と瑞奈は囲まれている。
 すぐそばで空耳のように、でもしっかり瑞奈の笑い声が聴こえてきた。俺は瑞奈の薬指をそっと持ち上げ、指輪を嵌める。
 号数を小さくしたにもかかわらず、指輪は、――大きかった。
 色々な表情が浮かんできた。微笑んだ顔、怒った顔、すました顔、真剣な顔、すねた顔、本を読む時の顔、勉強に飽きた時の顔、サッカーボールを蹴る時の少女のような顔。見ていて飽きない。それくらいにくるくると変わる表情だった。
 瑞奈の手を握りながら、俺もペアの指輪を嵌める。
 風が、俺の首筋を、瑞奈と繋いだ手を優しく撫でていった。
 窓から吹き込んできた柔らかい風は肌寒くない。どこか熱を帯びていた。まるで俺と瑞奈が出会った時のようだ。
 俺は風に包まれながら、ゆっくりと瞼を閉じる。瑞奈を感じながら。
                                   了