試合会場を去る際、水沼が進路を塞いでいた。
足を引き摺りながら歩く朔太郎が最初に気付き、スマホを片手に幸成と談笑していた俺の背がつつかれる。
「水沼」
その後の言葉が続かなかった。
タンクトップにハーフパンツ姿の水沼は、筋肉で覆われた全身を震わせながら俺を見据えていた。殺気のような捩じれた空気感が彼を取りまいていた。
「おまえ……」
ざらりとした声で水沼がゆっくりと腕をあげ、俺を指さした。その指先も、泥酔者のようにゆらゆらしている。
幸成の隣りにいた拓真さんが俺を庇うように、一歩前に出た。
「名前を教えろ」
横柄な水沼の態度に、幸成が怒りをぶつけた。
「てめえ、因縁つけようってのか。あんだけ汚ぇラフプレーばっかりしやがって。名前でSNS検索して、悪さしようって腹だろ。晴翔、絶対ぇ本名言うなよ。つうか、俺、こいつを殴らねぇと気がすまねぇ! 泣かす」
朔太郎が慌てて幸成を抑えようとした、その時――
「すまん……」
水沼が深々と頭を下げた。
両ひざに手をやり、腰の高さまで頭が沈んでいた。その姿勢を固定させた彼は、顔をあげる素振りを見せなかった。
突然のことに、俺たちは一時呆然とする。頭を沸騰させていた幸成から、ひゅっ、と不自然に吸い込まれた息の音が立った。首を垂れさせたまま水沼が言葉を続けた。
「完敗だ。もはや何も言えない」
水沼の頭頂に陽があたり、髪には子供みたいな天使の輪が映り込んだ。
ひょっとすると、水沼は、俺たちと同じ種類の人間なのかもしれない。言動や態度こそ褒められるべきものではないかもしれないが、根っこはサッカー小僧なのだ。
サッカーが好きで、サッカーで勝ちたくて、そのために、サッカーに情熱を注いでいる。情熱を出し切って負けたからこそ、今こうやって、素直に頭を下げてきた。そういうヤツなんだろう。
「岬晴翔」
手を差し出した。気配を察知した水沼は、俺の手を見、段々と顔をあげ、俺の目を直視した後、がっちりと手を握り返してくれた。
「水沼武尊だ」
拓真さんや幸成、朔太郎とも、水沼は握手を交わす。そこにあったのはお互いの健闘をたたえ合った、まぎれもないサッカーへの情熱の煌めきだった。
〝また、いつかピッチで戦おう〟
そのいつかが来た時、今度こそは、俺はペナルティキックではなく、プレーの流れの中で水沼からゴールを奪いたい。
*
「みんな、おめーっ!」
幸成が中ジョッキを高々と掲げるや、チームメイト達が一斉にジョッキをぶつけ合った。浮かれた喧騒が『ファンタジスタ』内で瞬時に生まれる。もっと言えば、『ファンタジスタ』に来る前から、チームメイトの気持ちは盛り上がっていた。俺を除いて。
準決勝終了直後から瑞奈に連絡を試みているのだが、瑞奈からの折り返し電話やメッセージは返ってこない。瑞奈のことだから、スマホを放置したまま外出していることも考えられる。
たかだか二時間ほど連絡がつかないだけだ。束縛はやめよう。
そう思う一方で、前夜の瑞奈の言葉が思い返される。
――ALSだよ。
打ち明けられた際に、受話口で微かに拾った瑞奈の呼吸音が忘れられない。
あの時、俺はスマホを握りしめながら手を伸ばした。瑞奈を抱き寄せたく、手を、必死に伸ばした。掴んだのは、手に触れるのは、湿気をふくんだ空気だけだった。
……俺が瑞奈を支えないといけない。
とり乱してどうする。でも、でも……、見えるものすべてが涙で歪んだあの瞬間を、俺は忘れることができなかった。
「瑞奈ちゃんから連絡きた?」
朔太郎が声を落としながら訊いてきた。
いっそのこと朔太郎に瑞奈のALS診断を打ち明けた方が、気が楽になるのではないだろうか。彼ならば信頼できる。周囲に吹聴して物事を荒立てることにはならない。
いつまで瑞奈のことをチームメイトには黙っていないといけないのだろうか……。
いつかは知らせるべきだ。でもそのいつかが分からない。瑞奈はずっと隠し通すつもりなのだろうか。
「朔太郎……」
口が残酷なまでに戦慄き、声が震えていた。
「無理に言わなくてもいいよ」
「……え」
朔太郎の方へ顔を向けていた。俺は今どんな形相でいるのだろう。どうしてか、わだかまっていたものが、ゆっくりと喉を伝い落ちていく気がした。
朔太郎はどこまでも柔和な色を表情に浮かべていた。
「話せる時が来たら話せばいい。ごめん、無理に聞きだそうとして。瑞奈ちゃんが帰って来られないのには、何らかの事情がある。皆、うすうす気付いている。だって、瑞奈ちゃんだよ。夢の中でも晴翔と一緒にサッカーをしたーいって酔っ払いながら叫んでたぐらいだから。のっぴきならない事情がある。言うことに躊躇するのは当然のことだよ。ただ、瑞奈ちゃんもそうだけど、晴翔も抱え込み過ぎないでね。色々と悩んでそうだからさ」
ぽん、と肩を叩かれた。
拓真さんだった。
「まあ、なんだ。行ってこい。瑞奈のもとへ」
拓真さんが目を細めてゆっくりと頷きを示した。
「俺たちに報告しなくていい。余計なことを考えずに、おまえと瑞奈だけの時間を過ごしてこい。早く行け。今なら終電に間に合う」
「行くんだ、晴翔」俊介が口にする。
「晴翔、急げ」幸成が店のドアを指さす。
「行ってらっしゃい、晴翔」朔太郎がにこりと笑んだ。
「感動しちゃう。強く抱きしめるのよ。あ、これ。大吟醸、持っていきなさい」と、マスターが日本酒の瓶をカウンターにことりと置いた。
みんな……みんな……――、最高だよ。
笑顔に見送られて、俺は店の外へとダッシュしていた。
*
遅い時間帯の新幹線は空いていた。
座席についてからも瑞奈に連絡を取り続けているのだが、相変わらず反応が無い。スマホ画面と車窓とに、交互に目を配ることを繰り返していた。
車窓は鏡のように車内の明かりを反射させていた。顔を近づけると、不安気な瞳が真っすぐに俺を見返してくる。
目を閉じかけた時、瞑目は逃げなんじゃないかと思い直した。瑞奈を支える俺がしっかりしないでどうする。
窓に映り込む自分を睨む。今度は鋭い視線が俺に『腹をくくれ』と迫ってきた。頷いた。
大丈夫、その表情だ。怖がるな。手を鉄砲のようにして、こめかみにあてた。心の中で「バン」と唱える。
長野駅で降り改札を抜けると、俺は脇目もふらずに駆けた。水気の多い空気が肌にじっとりまとわりついてくる。すぐに汗が全身から吹き出した。鼻腔をくぐる田舎都市特有の緑のこもった匂いが、昼間よりも強かった。
早く瑞奈に会いたい。
会って、大丈夫だ俺がいる、と伝えたい。
勝った、決勝に瑞奈を連れていける、とも言いたい。
日中あれだけ走った俺の足が、瑞奈の実家が近づくにつれて軽くなる。瑞奈に会える嬉しさで昂揚し、走っているうちに笑顔の瑞奈しか浮かばなくなっていた。声を聞きたかった。匂いを、温もりを感じたかった。
走る足の腿を高く上げ、アスファルトを強く蹴る、蹴る。腕を振る。いつしか俺は全力疾走していた。
「それが……」
玄関先で咲良が顔を曇らせた。
背後では、急いで寝間着から着替えたと思われる瑞奈のお父さんとお母さんが、すまなそうな表情を浮かべて立っている。
「病院から帰ってきたっきり、部屋に閉じこもっちゃってて」
私にも事情が分からないんです、と咲良がため息交じりに呟く。
ここでは何だからあがって、と瑞奈のお母さんがリビングへと促してくれた。夜十一時を回っているのに、家にあげてもらえるのは、本当に申し訳ない。
リビングには団欒の余韻があった。でも、前回と比べて、僅かな緊張感もまたあった。瑞奈が部屋にこもっていることが関係しているのだろうか。
お父さんが瑞奈を呼ぶ。
俺が来たことは、瑞奈は既に気付いているはずだ。玄関ドアの手前で瑞奈の部屋を見あげた際に、部屋のカーテンが小さく揺れた。咲良の声も聞こえてきた。晴翔さん来たよお姉ちゃん、とお父さんよりも力強くドアをノックしている。
「ごめんね」お母さんがお茶碗と幾つかの小鉢を載せた木製トレーをテーブルに置く。「お夕飯まだなんじゃない。あり合わせのものだけど」
ありがたかった。
『ファンタジスタ』では何も食べていないし、新幹線乗車時も瑞奈のことを考え続けていたため飲まず食わずだった。それでも空腹レベルまでは達していないのか、動かす箸のテンポが途切れ途切れになる。
二階にいる瑞奈が気になってしようがない。何度か箸を置きかけ、今すぐ二階の瑞奈の部屋に踏み込みたい気持ちに駆られた。
衝動を抑えつつ食事を進めていた時だった。
二階の部屋のドアが開く気配があった。お姉ちゃん、と咲良が声をあげる。
俺は箸を動かすのを止めた。
とんとんとん、と階段をゆっくり降りてくる音がする。揺れる空気が伝播してくるみたいだ。鼓動が速まり、唾を飲み込むと、喉の奥に酸っぱさが残った。
足音がすぐ近くで止まる。
「ばかもにょ、来るのが遅い。へっへっへ」
腰に両手をあてた瑞奈は、破顔していた。
半ば連れ去られるように瑞奈に腕を掴まれ、彼女の部屋に来た。
そもそも病院から帰ってきて部屋に引き籠もったままならば、まずは家族に事情を話すべきだが、ご両親は快く俺を彼女の部屋へと送り出してくれた。
「おまえ、まずはご家族に今日の病院の話をすべきじゃねえのか?」
部屋のドアを後ろ手で閉めた瑞奈は、俺の言葉を無視し、こう言い放った。
「明日、一緒にボール蹴ろ」
「……は?」
何を言ってるんだこいつは、と言うよりは、瑞奈の言葉が宇宙語として耳に雪崩れ込んできた。遅れて理解が追いつく。
「何言ってんだ? 安静が必要に決まってるだろ」
瑞奈が黙る。立ったままぎゅっと両手を握っている。瞳が揺れていた。何かを伝えたそうに、下唇を噛んでいる。
風が颯々と窓から運ばれてきた。駅前の風とは比較にならないほどに、吹いてくる風はさやさやと心地よかった。
「結婚……しない? あたしと」
意識がとびかける。
え、と唇が形を成していた。体内で動いているのは心臓だけのような気がした。ばくばくと力強い拍動。彼女の声がじわっと耳から身体の奥へ奥へと沁み入ってきた。感情や思考が少しずつ、その沁み込みに追いついていく。
「ちょっと待て、いきなり何だこの展開」
ようやく俺が口にする。瑞奈はそれさえも許さぬ勢いで、畳み込んできた。
「駄目? 駄目かにゃ? うーん、駄目だよね、あたしじゃ。ALSで迷惑かけちゃうし。でも、あたしは結婚するにゃら晴翔くんしか考えられにゃいんだよね。だから……、でも、そっか、そうだよね。結婚してもすぐにバツが付いちゃうから、それって晴翔くんのその後の人生が」
「おまえ、ちょっと待て。なんかめっちゃくちゃ先走りしてる。つうか、明日サッカーすることと結婚することを一緒に並べて提案するなよ。しかも突然」
瑞奈は俺の言葉に被さるように、がっついてきた。
「駄目? 駄目かにゃ? あたしじゃ駄目?」
「駄目なんてことはない。むしろ嬉しい。俺だって結婚するなら瑞奈しか考えられない」
俺は瑞奈を守り抜く。
いざ口にすると、テレた。頬が熱い!
「やりい。その言葉かたじけにゃい。あたし聞いたぞ。心に今、刻んだぞ。信じていい? 信じるぞ? ね、ね」
「ああ。本心だ。結婚するなら瑞奈だよ」
これって、プロポーズ?
まさか今日するとは思っていなかった。しかも言わされた感がハンパない。俺としては急な話だったが、瑞奈の中ではそうでもなかったのか。でも、……嬉しかった。俺は襟を正して彼女を見つめる。
「瑞奈、結婚してくれ」
俺の偽らざる気持ちだ。指輪を用意していないが、こういう言葉を口にすると、自然と相手の指を持ち上げてしまうものだった。まるでエンゲージリングをはめるように、瑞奈の薬指を撫で――
細……い。
感触で分かるぐらいに、瑞奈の指が細くなっていた。吸い込む息を途中で止めてしまった。
「どんとこい」
瑞奈が身体をぶつけるようにして、俺に抱きついた。
彼女の背中が激しく震えていた。鼻を啜り上げている。
「馬鹿野郎。嬉しい、って返事しろよ。どんとこいって、相撲部屋か」
「へっへっへ」
瑞奈を抱きしめる。啜り上げる鼻音が二重になった。彼女の背に掌をあてながら、俺も泣いていた。目で見る以上に、彼女の身体が痩せていた。激しい感情の揺れは、瑞奈と結婚できる嬉しさからであって欲しかった。
「なんか、おまえ上手くなってねえ」
「そんなことにゃい。ボール蹴ることが久しぶりなんだし」
俺が蹴ったボールを、瑞奈がトラップする。ぴたりと足もとにおさまっていた。
昨夜はご厚意に甘え、瑞奈の家に泊まらせてもらった。お父さんのパジャマまで拝借し、おしかけたにもかかわらず至れり尽くせりで、瑞奈のご両親には頭が上がらない。そうして、朝食後の早い時間帯から、近くの運動公園で瑞奈とボールを蹴っている。
呼吸をする度に、酸素が体内をめぐり脳が冴える。気持ち良かった。ぼむっ、とボールを蹴る弾音も、東京で聞くそれとは、気のせいか違って聞こえる。俺ばかりかボールまで喜んでいるみたいだ。
瑞奈が足を交差させながら蹴る。プロサッカー選手のようなラボーナという蹴り方だ。トラップするやバックスピンがかかった。繊細な足もとの技術がないと蹴れない類のパス。しかもラボーナで。
「やっぱ上手くなってるよ」
心が弾んでいた。こうやってサッカーができるのだから、瑞奈の病状は良くなっているのでは。ALSは一時的な診断で、少し休んだら今までどおりの日常がやってくるのではないだろうか。
「川南ちゃん、何か言ってた?」
瑞奈がボールをリフトアップし、額の上にのせる。そのままボールを落とさないようにバランスをとりつつ、喋りかけてきた。額にのせることは俺でもできるが、話しながらは無理だ。
「準決勝で負けたら承知しない、って凄まれたよ。あと、相手キーパーの攻略アドバイス」
「結構ズバッと言うでしょ、川南ちゃん」
瑞奈はまだボールを額の上にのせている。陽の光を浴びた瑞奈はどこか神々しい。サッカーの神様に愛された天使みたいだ。
「怖いくらいだったよ。もし準決勝で負けてたらビンタされてたかも」
「ビンタじゃ済まないなー」瑞奈が、にいっと笑みを刻んだ。「刺しちゃうかも」
物騒なことをあっけらかんと口にした瑞奈は、ポンポン、と額でボールをリフティングする。まさにボールと一心同体だ。
「どうして川南は、あんなにもおまえに執着するんだ?」
「ん、川南ちゃんとはね、さかのぼれば小学校の頃からだしにゃあ」
「そんなに古いのか」
てっきり中学や高校時代からだと思っていた。
「まあね」
ボールを足もとにおさめた瑞奈が遠くを見つめる。
「川南ちゃんはさ、うちの隣りの学区に住んでいたんだ。小学校は違うけど、入ってるサッカーチームは一緒だったにょ。あの頃から川南ちゃんは超上手かった」
「おまえもめちゃくちゃ上手いだろ」
「違う。違う」
瑞奈が顔の前で手を振る。謙遜じゃなくてマジ振りだ。
「川南ちゃんは別格。背も高いし、男子にあたり負けしないどころか、逆に男子を吹っ飛ばして泣かしてた。テクニックもあるし、プレーの視野も広い。川南ちゃんにパスすると、ばんばんゴールに繋がってた。でもね――」
瑞奈の視線が下がる。ボールを見るともなしに見ている感じだ。ぱちぱちと瞬きをする。瞳が揺れ、止まった。
「セレクションがあったにょ。五年生にあがる時」
声が小さくなる。
セレクションとは、サッカーが上手な子供の中から、より巧みな子供を選抜することだ。大方が、各チームから推薦された子供たちが一堂に集められ、試合をする。その試合の中で将来の伸びしろがある子供だけが選抜され、よりレベルの高いチームでのプレーや練習を経験する。
「今だったら大問題ににゃるんだろうけど……、女子がセレクションで合格できる枠が、どうやら一人だけだったみたいにゃのよね。超不平等。だから、あたしか川南ちゃんのどちらかしか選抜されにゃい」
「それは……」
続ける言葉を飲み込んだ。当時の瑞奈と川南にとって、納得できるものではなかっただろう。二人とも選抜されるべき逸材なのだから。
「で、あたしが合格しちゃった……。セレクションの時、川南ちゃんはゴールを三点決めた。だけど、その三点は全部あたしからのパスだったの。おまけにあたし、何だか絶好調で……川南ちゃんを経由しないで四点取っちゃった」
凄い。この頃から無双してやがる。
だが、語る瑞奈の表情には何一つとして浮かれたものはない。むしろ、辛い思い出を吐露するみたいに、眉間には皺が寄っていた。
「川南ちゃんはセレクションの不合格通知後、一家そろって引っ越した。チームにもあたしにも何も言わないで。それで、次に会ったのが中学の時だった。川南ちゃんは東京のクラブチームにいた。前みたいにきゃいきゃいできなくなってたにょ……」
瑞奈がリズミカルにリフティングをしだす。ボールを蹴るといつも笑顔になるのに、表情は硬いままだ。
「決勝は出るんだろ?」
ボールが、落ちた。
てん、てん、てん、とボールが転がって、俺の足もとに来た。珍しいな、瑞奈がミスるなんて――
「あたし、あとちょっとで死ぬ……にょ」
「……は?」
瑞奈の顔をまじまじと見る。
俯いていた顔を徐々に上げる瑞奈。頬を涙が伝っていた。瞳がぷくりと膨らむや、破れ、伝い、雫が顎先から地面に落ちていく。
「進行性球麻痺型のALSである疑いが強いって」
瑞奈の声がやわららかく届いてくる。『死ぬ』とか『進行性』とかネガティヴな単語が混じっているのに、彼女は落ち着いていた。
一方の俺は……嵐に見舞われていた。真っ青な空と煌めく太陽の陽ざしが、貧血時みたいに一瞬にして灰色に染まった。膝が震え、腰からすとんと落ちかけた。
「進行性球麻痺型のALS……?」
「そう。かにゃり進行が速いALS。発症から三か月以内で死亡することもあるにょ。舌の萎縮や構音障害、いわゆる言語障害が見られやすい……あたし自覚ある、上手く喋れてにゃいって」
見えない槍で心臓を突かれた気がした。
瑞奈の発声は、時々『にゃ』や『にょ』になる。
「だからね、もうサッカーはできにゃいぞ」
帰宅した瑞奈は、自身のALSについて進行性球麻痺型の疑いが強いことを、ご両親と咲良に伝えた。
余命が三か月以内かもしれないと言及すると、それまで黙っていた瑞奈のお母さんが「嘘でしょお!」と発狂するように声をあらげ、顔を覆った。
泣くのを我慢しているのか黙ったままの瑞奈のお父さんが、そっとお母さんの背に手をやる。室内から、鼻を啜る以外の一切の音が途絶えた。
俺の視界は色彩を失ったままだ。クーラーが効いている室内で汗をかいていた。
夜、緊張の糸がぷつりと切れたように、瑞奈が高熱をだして倒れた。
息苦しそうにひゅうひゅうと乾いた呼吸を繰り返している。すぐに救急車を呼んだ。担架で運ばれる瑞奈の瞼が閉じられる寸前、彼女の瞳が曇るように光を反射させなくなった。
「瑞奈!」
「下がって」救急隊員が瑞奈を救急車の中へと運び込む。
鳴り響くサイレンの赤色灯は、灰色のままだ。救急車が遠ざかっていくほどに、身体の中に重石を積まれていくみたいだった。
滅茶苦茶だ。
眼前の出来事が、世の中が、現実が、不合理で狂っている。冷鉄の扉で出口をすべて塞がれたみたいだ。叩いても音が虚しく響くだけ。それでも俺は叩き続ける、殴り続ける。骨が折れようとも。血が吹きだそうとも。瑞奈を守るためにぶっ叩く。
しかし、叩くほどに鉄扉が分厚く頑丈になっていくみたいだ。俺を嘲笑うように硬くなっていく。
いつしかがっくりと膝をついていた。
腕もあげられずにだらりとさげる。瑞奈が乗った救急車はもう見えない。辺りはもう、真っ暗だった。
*
「つらい」
瑞奈が鼻マスク越しに俺を見た。シューシューと空気の出し入れ音が、鼻マスクから漏れている。入院して二週間が経った。
「鼻マスク、もういや」
自力呼吸だけで酸素を取り込めなくなった瑞奈は、飲み込む喉の筋力も衰え、食欲ががくんと落ちていた。
「瑞奈」
握った手を、握り返そうとする瑞奈。しかし、すぐに脱力するように、彼女から力が抜けていく。
「力が入りゃにゃい」
寂しそうに口もとをゆがめようとするも、その表情は硬い。瞼の下の表情筋が僅かに動いただけで、口まわりは凍ったように張っていた。
頭部を摩ってやると、気持ちいいのか、瑞奈は目を閉じた。鼻マスクからすーと深い呼吸音がし、こわばりがほどけた。眠りに落ちたのだ。
指先で瑞奈の眉あたりを撫でていると、ぱちりとその瞼が開かれた。
「眠ってたんじゃないのか?」
瑞奈は俺の問いに答えなかった。口を難儀そうに開く。
「つらい。鼻マスク止めて。もう……死にたい」
瑞奈が俺を直視する。手が鼻マスクの電源に向けられた。
「引っこ抜いて」
黒目を大きくしながら、瑞奈が乞うような視線を投げた。
彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。お願い、と訴えかける瑞奈が、大丈夫だから、と俺に安堵を抱かせるように、首をぎこちなく縦に振る。
俺の腕が浮いた。
電源をじっと見る。お願い、瑞奈は喋っていないのに、そう背を押された気がした。手が電源に伸びる。瑞奈からの身じろぎが止んだ。音を立てて唾を飲み込んだ俺は、鎖骨あたりに変な力が入っているのを感じながら手指を開く。電源コードに指がかかった。瑞奈が固唾をのんでいることが伝わってくる。瑞奈を楽にさせたい。瑞奈から辛さを取り除いてあげ……、俺……何やってるんだ?
弾かれたように、指が電源コードから離れた。
「楽にして……欲しかったにょに」
畳むように瞼を閉じた瑞奈。涙が一粒浮いている。暫くすると苦しそうな寝息が聞こえてきた。
もしも次に、同じことを頼まれたら、俺はどうするだろうか……? 答えのでない感情のやり場。血を流すように泣くしかできなかった。
「どうやらもう長くはないようだ」
病院に併設する喫茶店で、瑞奈のお父さんが俺に告げた。
さあっと血が引き、意識がとびかける。椅子に座ったままふらついたようで、お父さんが心配そうにテーブルから手を浮かせていた。
「だ、いじょうぶ、です」
コーヒーカップの取っ手を掴むと、指先が震え、かちかちとカップがソーサーにあたった。遅れて、熱い、と感じた。指にホットコーヒーを零していた。
「ところで、大学の授業は大丈夫? あと、天皇杯出場をかけたサッカーの決勝戦、そろそろだよね? あ、別に帰ってくれって催促しているんじゃないよ。むしろ晴翔君にいてもらって安心しているし、助かっている。だけど、申し訳なくも思っている。きみの学生生活もあるから、ちょっと心配になってね」
瑞奈が入院してからずっと、彼女の家に泊めさせてもらっている。九月から大学の後期授業が始まっているが、前期の授業を真面目に受講していたため、これくらいの日数を欠席したところで単位に影響はでないだろう。
「うちは娘二人だから、息子が出来たみたいで、本当に嬉しいよ。果たせなかった天皇杯出場の夢を、瑞奈と晴翔君の二人が追いかけてくれてもいるし」
お父さんがサッカーをやっていたことは瑞奈からうすうす聞いていたが、天皇杯を目指していたことは知らなかった。
「瑞奈が天皇杯出場にこだわっているのは、お父さんの夢でもあったからなんですか」
「親子二代にかけてのね」
遠い目をしたお父さんが、コーヒーカップを口にやった。
「大学の時も社会人になってからも、目標は天皇杯だった。だけど、壁が厚くてね。気付くともうこんな歳だ。中年世代向けのチームに現在も入っているが、もう天皇杯うんぬんのレベルではなくなっている。瑞奈はそんな親心をよく分かっているようだ」
瑞奈のお父さんが視線をテーブルに落とした。コーヒーカップを再度口につけるも、唇を湿らす程度で、すぐにカップをソーサーに戻した。
「お父さん」
テーブルに置かれたコーヒーカップをソーサーごと脇へどけた。緊張していた。でも、声を震わせたくない。
「瑞奈と、結婚させてください」
周囲の喧噪が止む、そう感じられる時間が僅かにあった。カップとソーサーが当たる音、話し声、何もかもが消えた。
唯一、お父さんの身じろぎ、息づかいだけに俺は感覚を集中させた。
お父さんがゆっくりと口を開きかけ、閉じ、また開いた。
「ありがとう。でも、駄目だ」
「え」
正直、耳を疑った。俺はお父さんから信頼されていないのだろうか。口を閉じることができなかった。きいいん、と超音波みたいな耳鳴りがしだした。
慌てた様子でお父さんが表情を緩めた。下がった目尻の近くに、瑞奈みたいな泣きぼくろがあることに、今気付いた。
「本当にありがとう。そこまで瑞奈を思ってくれて、ありがとう。いや、すまない」
お父さんが深々と頭を下げる。テーブルに額がつきかけていた。
「え、お父さん、そんな」こんな時、どう対応すればいいのだろうか。あ。「どうか、頭を上げてください。お父さん」
お父さんは姿勢を変えてくれなかった。どうしよう、そう思った時、ずずずっと鼻を啜る音を聞いた。
顔を俯かせたままズボンのポケットからハンカチを取り出したお父さんは、頭頂、肩、背を小刻みに震わせながら目もとと鼻を拭った。少し時間を置き、
「見苦しいところをお見せした。すまん」
と、顔をあげたお父さんは、柔和ながらも真摯な顔つきを俺に向けてくれた。
「瑞奈はきみと出会えて幸せだ。親としても、晴翔君を選んだ瑞奈が誇らしい」
お父さんの態度が、これがお世辞ではないことを伝えてきた。
「でも、晴翔君――」
お父さんが言いづらそうに、一度言葉を区切った。
「瑞奈との結婚は、きみにはもったいない。自分の娘を卑下して言っているんじゃない。もしも瑞奈が……病気でなければ、断るどころか喜んで、娘をもらってくれてありがとう、と申し上げる。だが、瑞奈には、もう……未来がない。だが、きみには、晴翔君にはこの先がある。死ぬ瑞奈に囚われさせる訳にはいかない。最近は声が出せなくなってもいる。晴翔君には黙っててということだったが、瑞奈は文字盤を使った会話を試み始めている。視線入力パソコンには抵抗があるようだ。それでもいずれは、そういうコミュニケーションになる」
「いいんです。それでもいいんです」
椅子から腰を浮かしていた。声が大きくなっていた。周囲の客が怪訝そうな目でこちらを見ているかもしれないが、今は構っていられない。
「瑞奈と結婚させてください。俺、瑞奈以外には考えられません」
お父さんが口を噤む。奥歯を噛みしめているのが分かるほどだ。瞼もぎゅっと閉じていた。苦しそうに思案してくれていた。首をゆっくりと動かし、頷く。また頷く。ぴたりとその動きが、止まった。
ダムを決壊させたように、突如としてお父さんが滂沱した。
身体を震わせながら、唸るような涙声で「晴翔君――」と俺の名前を呼んだのち、
「駄目だ……申し訳ないっ」
ショルダーバッグにプラチナの結婚指輪が入っていることを告げることができなかった。
「今日は体調いいかりゃ、ちょっと屋上行かにゃい?」
窓から見える茜空に視線をやっていた瑞奈が、ゆっくりと俺の方を向いた。確かに、午前中よりも瑞奈の顔色が良くなっていた。にいっと口の端をあげられていることからしても、今の瑞奈は快調そうだ。具合が悪い時には気持ちを表情であらわすことさえ、最近の瑞奈は難しくなってきている。
「ああ。でも用心して歩けよ。つうか、俺にしがみついて歩け。昨日の夜も転んだって看護師さんから聞いたぞ」
「ふにゅう~、口止めしといたのににゃあ」
瑞奈がそっとスリッパに足を入れる。
「ほら、掴まれ」
瑞奈に身を寄せると、彼女が俺の背に腕を回した。ベッドから瑞奈を引っこ抜くように立たせる。
「お尻触った」
「しょうがねえだろう。ケツを支えないと上手くいかないんだから」
「あ、傷つく。暗に太ったって言いたいんでしょ」
「逆だよ。おまえまた痩せたよ。太んなきゃ免疫つかねえぞ」
「まあいいや。大目に見てあげりゅ。へっへっへ」
瑞奈をなかば抱きしめながら、病室を出る。リノリウムの廊下はよく磨かれ、歩くたびにキュッキュと小気味良い音が立った。
屋上にあがると、すうっと肌触りの良い風が吹き抜けていった。
「いい風。もう秋にゃんだね。あたし、秋が一番好きだにゃあ。特にこの空、大好き」
ベンチに腰をおろし、瑞奈が空を仰いだ。くんくんと犬みたいに空気の匂いをかいでいる。茜色の空に濃い藍色が混じりかけていた。うろこ雲が果てることなく続いている。
「写真撮りたい。晴翔くん、今スマホありゅ?」
「ああ、あるけど」俺はジーンズのポケットからスマホを取り出す。
「撮って。それで、あたしのLINEに送って」
言われたとおりに空を写す。瑞奈とのトークルームに画像を貼った。スマホをベンチ脇に置く。
「あの日も綺麗な茜空だったね」
「あの日?」
「あたしと晴翔くんが初めて会った日だよ」
喋る瑞奈が嬉しそうに目元を緩ませた。
「ああ」
「練習初日、誰もがあたしを見て目が点になっていたにょに、晴翔くんだけは違った」
「そりゃそうだろ。男女混合をうたっていないチームに突然おまえが現れて、しかもスカートのままサッカーしだすんだから」
「でも、晴翔くんはあたしのパスを真っ先に受けてくれた。みんにゃが遠巻きにあたしを見ているにゃか。しかも、女子に向かってもっと強いパス出せって注文もつけて」
くすっと、瑞奈が笑い声を立てる。
「そりゃあ、パス受けたら分かるよ。あ、こいつレベチだって。おまけに遠慮してやがるし。だから、あの時は、おまえがする本気のサッカーを知りたくなった」
「あたしも、知りたくなったよ。晴翔くんがパスを返してくれた時。パスって、色々と分かりゅ。その人の気持ちや真摯な態度も。晴翔くんはとてもまっすぐにゃ人だと思った。たった一本のパスでここまで強い気持ちを伝えてくる人は初めてだった。だから、最初に交わしたパスで、あたしは恋に落ちたの、晴翔くんに。結婚したい、ってもうその時かりゃ」
「俺も……思ってたよ。おまえからのボールを受けて、一緒にサッカーしたい気持ち以上に、心の中で何かが燃え上がってくるのを感じた。こんなことは初めてだった。もう、おまえしか見えなくなった。俺がサッカーをする理由までもが、瑞奈ありきになっていくのを止められなかった。おまえといつまでも一緒にいたい。ともに生きていきたい。そう切に願う自分がいた」
「恋の情熱だ!」瑞奈が嬉しそうに口にする。「一緒だね」
相好を崩す瑞奈の様子が、顔を見るまでもなく伝わってくる。
「ああ、一緒だった」
俺も自然と笑っていた。久しぶりの笑みだった。
だが、――
「ごめんね」
突然の瑞奈からの謝罪。
「何がだよ」
瑞奈に目を向けると、夕暮れを見つめたままの彼女の顔の輪郭が、夕闇に溶け込んでいた。
「……結婚。お父さんから聞いたよ」
「……ああ」
言葉が続かず、俺も瑞奈も、それっきり口を噤んだ。
寄りかかってきた瑞奈に俺はハッとする。感じる重みが、……軽すぎる。命が削られている事実を、俺は突きつけられた気がした。風が強まり散り散りになるうろこ雲が涙でぼやけていく。
「でも、やっぱ、あたしとは結婚しにゃい方がいいと思う。いいと思うじゃにゃくて、んー、結婚するにゃ。あたしはもう晴翔くんの足を引っ張るだけだかりゃ」
「そんなこと言うなよ」
「言うよ!」
瑞奈の声が上擦った。下唇を噛みながら、今できる精一杯の目で俺を睨む。
「お願い。もうあたしのことは忘れて。別れよ。それがいいにょ!」
「ちょっと待て、おまえいきなり何を言いだすんだ――」
「別れて別れて別れて! それで新しいヒトを見つけて。もっと健康で、もっと優しくて、あたしの次に綺麗なヒト。それで、サッカーに打ち込んで。あたしのことにゃんか気にしにゃいでサッカーに没頭できりゅ環境を手に入れて。このままじゃ晴翔くんのサッカーへの情熱が冷めちゃう。もう、あたしかりゃ離れて、羽ばたいて。新しいフィールドへ向かって!」
「瑞奈、落ち着けって」
「落ち着いてるよ! じゃなきゃ、こんにゃこと言えにゃい! あたしは死にゅんだよ!でも、生きたいの! 生きることに執着するとこを晴翔くんに見せたくにゃいにょ! ねえ、分かってよ! 分かってよ!」
瑞奈が俺の胸を叩いてきた。力を込めているつもりなのかもしれないが、全く力が伝わってこなかった。幼児に叩かれているみたいだ。それでも瑞奈は叩くことを止めない。ぜいぜいと呼吸を荒げ、涙を溢れさせながらぶってくる。痛くないのに目の奥がつんと来た。
「瑞奈!」
「うるさい! もう声出すにょも大変にゃにょ!」
「瑞奈ぁっ!」声を裏返しながら叫んだ。
「帰って! もう来にゃいで! もうあたしと会わにゃいで! 二度とここに来にゃいで! ああああああーっ……?」
ぶぶぶぶぶぶ。ぶぶぶぶぶ。ぶぶぶぶぶ。
「――」
「――」
俺のスマホが振動していた。
ディスプレイには見慣れない番号が表示されている。家電からだ。おそらくは今いる長野県に隣接する地域ないしは近くから。
ぶぶぶぶぶ。ぶぶぶぶぶ。ぶぶぶぶぶ。
嫌な予感しかなかった。
躊躇する俺に、瑞奈が言う。
「出て」
おそらく瑞奈が考えていることはあたっている。そして、それは俺が考えていることでもあった。『応答』を震える指先でスワイプした。
春奈さんが、亡くなった。
かかってきた家電は、春奈さんの母親からだった。二回しかお会いしなかったが、訃報は俺の心に大きな影を落とした。
春奈さんの母親から丁寧すぎるほどに生前のお礼を述べられる。どこか上の空で返答をした。春奈さんの死と、瑞奈が重なっていく。春奈さんの母親が瑞奈について触れてきた。俺はひゅっと息を飲む。その空気が電話越しでも伝わったのか、春奈さんの母親は以後の言葉を濁した。
電話を切ると、腋の下が汗で滲んでいた。
「春奈さんが……どうしたにょ?」
瑞奈の声が震えている。薄々気付いているのだろう。
どっどっど、と心臓が暴れている。俺の中で臆病風が吹き荒れていた。
告げていいのだろうか? 瑞奈は正気を保てるだろうか? 待ち受ける過酷な現実に押し潰されないだろうか?
嘘、吐く?
心の隙間に生じたその考えが急速に膨らんだ。もうそれしかない気になっている。大切なのは瑞奈のメンタルをいかに崩さないかだ。
「春奈さん……」
「亡くにゃった」
俺の手をスマホごと握り込んだ瑞奈が、言葉を受け継いだ。
すぐ目の前に、表情を曇らせた瑞奈の顔があった。情熱の煌めきが、今の瑞奈の瞳からは微塵も感じられなかった。
否定しろ。否定するんだ!
心はそう叫んでいるのに、口から漏れ出たのは、
「うん」
と肯定の言葉だった。
「そっか」
首筋にナイフをあてられたような冷気がきた。遠くに見える樹々の黄色みがかった葉がざわりと騒いだ気がした。
「部屋、戻ろうきゃ――」
瑞奈が呟く声は、山脈を越えて吹く風にさらわれた。
病室に戻った瑞奈が布団の上に倒れ込む。額に触れると、とてつもない熱を感じた。
えっ、と内心では驚くものの、心のどこかでこうなることが予想できていた気もした。
とり乱しながら、指先は冷静にナースコールを押していた。看護師が駆けつけ、医師が呼ばれる。室内の空気がふつふつと沸騰し始める。せわしない足音が乱れかう。
瑞奈の家族に連絡をとった。お母さんはすぐに病院へ向かうとのことだった。瑞奈の鼻マスクからか細い息が途切れ途切れに聞こえる。瑞奈は瞼を閉じたまま微動だにしない。
医師が看護師に指示をだす。足音が大きくなる。春奈さんの死が瑞奈に重なる……。俺はいやいやをするように首を振った。それでも重なり続けていた。首どころか身体を激しく振る。医師も看護師も俺のことなんか見ていない。俺は頭を抱える。その場でうずくまる。夜の底で、聳え立つ現実の厚い壁に押し潰されていく。
だいぶ時間を置いてから、瑞奈は小康状態に入った。
寝入ったようで、瑞奈の胸の上の掛け布団が穏やかに上下している。最後まで残っていた看護師が退室すると、瑞奈のお母さんも、咲良も、俺も、ようやく長い息をついた。
「晴翔君、疲れたでしょう。家で休んで」
瑞奈のお母さんは、目のまわりにうっすらとした隈を張りつかせていた。
「大丈夫です。お母さんこそ」
お母さんは軽く首を振った。「晴翔君お夕飯まだでしょう。食べにいってらっしゃい」
昼から何も食べてないが、空腹は感じられなかった。「あまりお腹が空いていなくて」
お母さんが小さな笑みを零した。「一緒ね。目の隈も一緒」
瑞奈のお父さんは東京へ出張中だったため、まだ病院には着けていなかった。連絡を受けて新幹線に飛び乗ったそうで、おそらくはそろそろこちらに到着する。
「晴翔さん!」
スマホを操作していた咲良が、画面を俺に向けた。「これ、ここ、ここです」
いつも落ち着いている咲良が珍しく昂っている。
俺はスマホの画面に視線を落とした。
それは、久しぶりに見る春奈さんのブログだった。
春奈さんは亡くなる前に何を思ったのだろう、そう考えをめぐらしながら、文面に目を走らせようと――
P.S.瑞奈ちゃん、晴翔くん
生きて 恋して あきらめないで
瑞奈と俺に向けられたメッセージだった。
呼吸を止めて画面に見入る。
ブログの日付は、春奈さんが亡くなる三日前になっていた。
視線入力する春奈さんの息遣いが、パソコンに向かう春奈さんの眼差しが、瑞奈と俺に向けた春奈さんの気持ちが、そこにあった。
喋ることができない春奈さんが、話しかけてくれているみたいだ。
ぽっと温もりが宿る。小春日和のような穏やかな空気が天から降ってくる。一瞬そんな心地がした。
春奈さん、ありがとうございます。
その場で黙とうをする。
瞼を開くと、咲良と瑞奈のお母さんも俺にならうように目を瞑り、天に祈りを捧げていた。
「にゃにしてるにょ?」
俺の顔が綻んだ。
*
瑞奈が息を飲む。
画面を食い入るように見る瞳には、試合中に見せる落ち着きや情熱を宿らせていた。明らかに何かが切り替わった。その何か――きっと、前向きな気持ちや生きる意志。まさにそれは、春奈さんが俺たちに遺してくれた言葉だった。
生きて 恋して あきらめないで
「晴翔くん」
凪いだ海を感じさせる表情を瑞奈が見せた。スマホの画面を、労るように優しく両手で包んでいる。
「みんにゃに、病気のことを話すよ」
爽やかな風が吹いた。病室の窓もドアも閉まっているのに。
「ああ」
俺は頷く。
「それがいい」
「晴翔くん、いい目してる」
「おまえもな」
瑞奈が死ぬ、二週間前の出来事だった。

