二日後、俺は新幹線の長野駅のホームに立っていた。
「あたしに暫く会えないからって泣くなよ」
瑞奈がそっと俺の手を握る。柔らかく温かい感触が心地良く、ずっと握り締めていたくなる。
「本当にいいのか、チームメイトには黙ったままで」
瑞奈の顔色を窺うと、「ん」と視線を逸らした瑞奈が片足を浮かせ足をぶらぶらさせ始めた。
「いいの。みんなには黙ってて」
声がホームに落ち、霧消していく。瑞奈のこの決断にも、きっと色々な葛藤があったはずだ。
「分かった」
瑞奈が俺の腕に手を回し、ぎゅっと締め付けるように掴まった。ぶらつかせていた足をぴたりと止めた。
「ん」
乗車予定の新幹線が入線してきた。ホームドアの上方から風がぴゅうっと吹き、瑞奈の顔が髪で隠れた。今から、俺だけがこの新幹線に乗る。瑞奈は実家にとどまり検査を受け続ける予定だった。
瑞奈からは離れたくなかったが、瑞奈が「帰って」と譲らなかった。
「だって、このまま晴翔くんが帰らなかったら、あたしが病気になったことがバレちゃうし」
そう言われるとつらかった。
正鵠を得た言で、俺は従わざるを得ない。既に何人かのチームメイトがLINEで瑞奈のことを問い合わせてきている。その度にはぐらかしてきたが、いつまでそれを続けることができるか。瑞奈は『里心がついちゃって』と返答しているようだ。
新幹線のドアが開く。何人かの乗客が降り、また乗車していく。慌ただしい雑踏音が、寂しさを薄めようとしていく。発車メロディが鳴りだす。
「ほら、乗った。乗った」
「またすぐに戻ってくるからな。つうか、絶対におまえが東京に戻って来いよ。ご両親が許してくれるのなら、一緒に暮らしてもいい。俺が支える。準決勝もある。勝っておまえを決勝に連れていく。川南澪もおまえを待ってるし」
乗車口で振り返りながら瑞奈の手をもう一度握る。瑞奈が俺以上に力を込めて握り返した。
「川南ちゃんかあ」
瑞奈が遠い目をした。
「約束したんだ。決勝で会おうって。ああ、あたしって約束が多い女だな。一緒に生きるとかさぁ」
微笑んだ瑞奈が、すぐに俺の方へと視線を戻した。駅員のアナウンスが遠くで聞こえている。
「瑞奈」
「晴翔くん」
近くで、いや俺たちのすぐ前で、警告するように笛がピッピッピと吹かれた。続けて「お見送りの人は、下がってください」とも。駅員のマイクアナウンスが忙しない口調で同じ言葉を繰り返していた。
「笛吹かれた。イエローカード一枚」
す、と瑞奈の手が離れる。
「あ」
俺と瑞奈とを断絶するように、ガタガタと音を立てながら新幹線のドアが閉まっていく。窓枠の外で瑞奈がゆっくりと手を振った。
がくん、と大きな揺れが一度あった後、すぐに新幹線が走り出す。
窓枠からあっという間に瑞奈の顔が消えた。駅の風景がとろけるように眼前を流れていき、寸刻も間を置かずに駅外の風景が窓枠を埋め尽くした時、俺は初めて自分が泣いていることに気付いた。
*
東京に戻ると、あっという間に準決勝の日が迫って来た。
「おまえら別れたの?」
幸成の肥えた腹にパンチを浴びせながらも、内心では瑞奈が東京に本当に戻ってくるのかが心配だった。電話では、瑞奈はけろりとした口調で「大丈夫だよ。検査結果が出たらすぐにそっちへ行くから」と言ってくるのだが、その検査結果が判明する日を俺に教えてくれることはなかった。
明日は帰ってくるだろう。そう思い続けるうちに、準決勝の前日を迎えたのだ。
夜、瑞奈が電話で「うーん、やっぱ準決勝は行けないや」と口にした時、俺の精神を安定的に繋ぐ糸みたいなものがぷちりと切れた。
「なあ瑞奈、いつ検査結果が分かるんだ? それぐらい教えてくれ。おまえまさか検査結果を俺に報告しないつもりなのか」
強めの口調で問いただしてしまった。送話口が無音を運んでくる。瑞奈の息遣いさえ感じられなくなった。
スマホを握る手に汗をかき始める。無音。俺が何かを言うべきか。無音。ごめん驚かせたよなと言うべきか。無音。汗が眼前の光景を溶かすように、視界がぼやけていく。もう我慢できない。
「瑞――」
「ばれたか」
「はい?」
「だから、ばれたか。へっへっへ」
おまえそれどういうこと、と言うよりも先に瑞奈が言葉を続けた。
「今日だったんだ。結果出たの。明日も病院から呼び出しを受けてるでごじゃる」
心臓が跳ねた。
口から鼓動音が跳び出そうなほどに、激しく脈が高鳴っている。息苦しさを覚える。手の平にじっとりとした汗を感じる。尋ねたい言葉を口にすることができなかった。そんな俺の気配を察したのか、瑞奈がゆっくり言い放った。
「ALSだよ。確定診断で結果出た」
その言葉は、遠くから一気に俺の耳を侵襲した。殴られるよりも大きな衝撃で頭がくらりとした。
汗の粒がこめかみを伝って、顎先から滴り落ちた。
ぼやけていた視界が白濁とした靄のようなもので覆われていく。腰から下の感覚がなくなっていく。俺は今立てているのだろうか。そもそもこの電話は現実なのだろうか。そろそろアラームが鳴って俺はベッドの上で朝陽の透けたカーテンを目にするのではないだろうか。
「ごめんね。だから、そっちには行けな――」
「今から、おまえのとこに行く」
既に旅行用のバックパックに目を向けていた。手足が勝手に動きだす。宿泊に必要なものを詰め始める。相変わらずスマホを握る手は汗まみれで、いや、全身が汗まみれで、おまけに鼻息が荒くなっていた。何かをしていないと精神的におかしくなりそうだった。
「まだ新幹線間に合う。最終に乗る」
「晴翔くん、駄目っ」
「何が駄目なんだよ」俺は荷造りする手を休めない。
「こっち来ないで、準決勝に出て」
「準決勝どころじゃないだろ」苛立ちで、言葉尻が舌でまくりあがる。呼吸が脈動が感情が、どんどんと荒くなっていく。同時に、部屋が急に狭く感じだしていた。圧迫されていく。空間的にも心理的にも、なんだか圧し潰されそうだ。何かをしていないと、何かを喋っていないと、おかしくなりそうだった。「俺はおまえを支えるんだ。約束しただろ、一緒に生きるって」
「駄目だよ。準決勝に出なきゃ」
「だから、そんな場合じゃないだろ!」
「違うにょっ!」
送話口からの乱れた息。苦しそうだ。ぜいぜい言ってる。呼吸を整えようとしているのか、時折り大きく息を吸い込んでいた。その音が俺の脳の中へ黒い澱を流し込んでくるようだった。
「晴翔くんが出にゃきゃ、勝てにゃい。やだよ。こんなふうに迷惑かけるの。あたしが病気になったから、晴翔くんが出場できなくて、それで負けたにゃんて嫌にゃの。ねえ、支えてくれるにゃら、明日は試合に出て」
言い返せない。口を開き、また閉じた。瑞奈の呼吸音が少しずつ平静を取り戻していくのを電話越しで感じながら、俺はその場でくずおれた。
「あたしの性格分かってるでしょ。嫌にゃにょ。あたしのせいで晴翔くんが試合に出られにゃいにゃんて。お願い。出て。パスに思いを込めて。シュートに熱を込めて。走る足に気持ちを込めて! そして勝って、あたしを決勝に連れていって。そのために、晴翔くんは、今はこっちに来にゃいで」
視界が滲んだ。涙。プールの中で目を開けた時のように、目に映るものがゆらりと揺れる。スマホを耳に強く押しあてたまま、ゆっくりと顔をあげた。窓の外に柔らかい光を纏った満月が見える。涙が零れた。
「おまえ、強いな。ホントに強いよ」
不思議と涙は数滴で止まった。零れ落ちた時に、余計なものを一緒に絡め落としてくれたのか、視界がクリアになっていた。煌々と輝く月がはっきりと見えた。
「ばかもにょ。今頃気付いたにょか。へっへっへ」
「どうして結城瑞奈がまたいないの?」
午後の陽ざしが容赦なく肌を炙ってくるなか、川南澪が険しい目つきで食ってかかってきた。あっという間に距離を詰められる。じとっとした汗を腋に感じた。
「今日も体調が悪いんだ」
果たして、川南は怒り狂った。
「この前もそう言ったじゃない!」端正な顔立ちが歪み、裂くほどに大きく開いた口からは濃いピンク色の扁桃腺が見えた。「いったい瑞奈は何をしているの? 瑞奈なしで勝てるの? あんた達が何を考えているのかさっぱり分からない」
どうして川南はここまで瑞奈との勝負に固執するのだろう。川南と瑞奈との間に、過去、何があったのだろうか。瑞奈からはそのことを聞かされたことがない。
俺が疑問を抱き困惑しているにもかかわらず、川南は興奮気味に吠えてきた。
「わたし達はもう勝ったんだから。いい? わたしは瑞奈と戦いたいの。決勝で戦うために、血を吐くような練習を積んできたの。なのに、どうして瑞奈がいないの? あんた達がここで敗れたら、わたしの努力は何にもならないの。だから、今すぐ瑞奈を呼んできて。じゃないと、あんた達だけじゃ勝てない!」
川南が既にベンチ入りしている集団の方を向く。これから俺達が戦う、準決勝の相手チームの選手が、試合前の準備にとりかかっていた。
川南達のチームは、午前中に行われたもう一つの準決勝で勝利をおさめ、決勝戦進出を決めていた。
相手チームがアップを始める。鋭い号令が耳に届きだす。特に、ゴールマウス付近からは激しい怒号のような声が響いてくる。後ろ髪の長いゴールキーパーがシュートを次から次へと止めていた。
川南が、くいっと親指を立て、後ろ向きでそのゴールキーパーを指さした。
「ここまですべての試合で無失点よ」冷たい鉈を首筋にあてられた気がした。「どんなシュートも、あのキーパーがセーブしちゃうの。失点率0.00よ。信じらんない。今年入ったばかりのほやほや新入生のくせに」
目がかっと見開いた。視線は長髪のゴールキーパーを捉えていた。
「ゴリラみたいな顔も、長身で髪が長いのも鬱陶しいけど。でも、試合中の判断力、瞬発力、ビルドアップ時の足もとの技術、後方からのコーチング力、ポジショニング、学習能力、挙げればきりがないほど、すべてが完璧なゴールキーパーよ。瑞奈がいないのに、あのキーパーから、あんた達はゴールを奪えるの?」
言われなくとも、キーパーの動きを一度見れば、川南が主張したいことは分かった。
一言で簡略に言い表すと、『とてつもない』ゴールキーパーだ。
ごくりと喉が鳴った。飲み込めないものが喉に残る。不快だった。喉に力を入れて飲み込もうと試みるも、駄目だった。その間も、件のゴールキーパーは立て続けにシュートをストップしている。さきほどからゴールネットは一度も揺れていなかった。
「一つだけアドバイスをあげる。負けてもらったら困るから」川南が不敵な笑みを漏らした。「正々堂々といくことね。どれだけシュートを止められても、焦ってトリッキーな攻撃をしかけないこと。あのキーパーの裏をかこうとしても、絶対にすべて読まれるから」
川南がぎろりと目を光らせた。剥き出しの野性の匂いを嗅いだ気がした。
「あんたたちを、瑞奈を、完膚なきまでに叩きのめすのはわたしの役割だから。負けたら承知しないよ。それと、これ、わたしのID」
え。驚く俺に背を向けて、川南が歩き去っていく。振り向かず、背中越しに川南が言い放った。
「瑞奈にLINEで状況説明しろって、言っといて」
機械音痴の瑞奈にLINEのID検索は無理だ。とてもじゃないけど言える雰囲気ではなかった。
キックオフ前の両者整列の際に、長髪ゴールキーパーが不遜な態度で俺達を舐めまわした。間近で見ると壁のように背が高く、横幅もある巨体だ。圧迫感そのものとも言えた。
「わしからゴール奪えるか、おのれら? ふん」
憤慨した幸成が、何だとてめぇ、と?みつこうとするのを、拓真さんが制した。
「幸成、抑えろ。その憤りの感情は試合で晴らせ」
「優等生じゃの。せめてゴールを脅かすシュートを期待しているっち。ききき」
「やめろ水沼」
水沼と呼ばれた長髪ゴールキーパーが、相手チームのキャプテンと思しき選手から窘められる。
両陣営が各ポジションに散っていく際も、水沼は高圧的な態度を崩さなかった。「くそみたいなシュート打ってくるなよ。せめて楽しませるシュートを打ってこいよ。ひひひ」
幸成が、バン、と俺の肩を強く叩く。目が逆立っていた。「ゴール決めて、絶対にあいつを泣かせろ。ちきしょーめ」
小学生のケンカみたいな文言だったが、気持ちはよく分かった。俺はゆっくり頷いて拳を握る。
俺はフォワードだけに色々なゴールキーパーと対峙してきたが、正直、初めて目にするタイプのゴールキーパーだった。
川南と話している時に感じた、水沼からの威圧感が、近くで接するとより強烈だった。
もし試合中に水沼と一対一の場面が訪れたら、俺は落ち着いてシュートすることができるだろうか。
いけない……、戦う前から気弱になっている。俺は、両頬を強く張った。その場で跳び、のしのしとゴールマウスの方へ歩いて行く水沼の背を睨んだ。
*
水沼だけが悪目立ちするチームだと思っていたが、試合が進むにつれてそれだけではないことが分かってきた。全体的に相手チームに乱暴なプレーが多く見られるのだ。
攻撃時、相手ディフェンスライン裏へのスルーパスに抜け出すと、ユニフォームの襟首を掴まれ引き倒された。ユニフォームに裂け目が入るほどのラフプレーだったので俺は非難するも、襟首を掴んだ相手選手は平然とした顔で自身の持ち場に戻って行く。
拓真さんはレッドカードを主張したが、相手選手にはイエローカードの提示がなされただけだ。
こちらが守備に回る際にも、危険なプレーをしかけられた。朔太郎がライン際でボールを確保するや、背後からスライディングタックルをくらった。相手スパイクがボールではなく朔太郎の足を直撃したため、朔太郎は倒れ、悶絶の表情を浮かべた。明らかに危険なタックルだった。
ピッチは一時騒然となり、俺達は審判と相手チームに猛抗議をした。
だが、提示されたのはレッドカードではなく、イエローカードだった。刈られた部位がアキレス腱から逸れていたため、レッドカードではなくイエローカードだと主審が申し渡してきたのだ。
納得できない判定だらけだった。襟首を掴まれた前述のファールもあったため、相手選手を糾弾するも、相手チームはスライディングタックルをした選手はおろか、誰一人として謝ってくる者はいなかった。
「朔太郎、大丈夫か?」
肩を貸すと、朔太郎はケンケンをするように刈られた足を引き摺った。
「ちょっとヤバいかも。前にケガしたとこにあたった。痛っ」
「交代するか?」拓真さんが朔太郎の足首に触れる。「腫れてはいないな」
「なんとかイケそうです。でも、念のため、ベンチにアップ指示をお願いします」
「そうだな」
拓真さんがベンチに向けてアップをするよう身振りで示す。ディフェンスの選手が勢いよくベンチから走り出て、アップを開始する。
「相手は、今大会で一番カードが多いチームなんだって」朔太郎がゆっくりと足首を回した。「たぶん、あいつらにとって、こんなことはまだまだ序の口なのかもしれない。表情と行動を見ている限り、フェア精神なんてなさそうだし。うちがチャンスの時は、レッド覚悟で止めにくるだろうから、晴翔、気をつけてね」
味方ボールで試合が再開されると、今度は幸成がラフプレーの餌食になった。
ボールの競り合いで、相手選手から肘打ちを顔面に喰らったのだ。一度ピッチに倒れ、空を仰いだ幸成だったが、数秒を置かずして怒りと鼻血で顔を染めあげながら立ちあがった。
「てめぇ、ふざけんなこらぁっ!」
ぴぴっ、と審判が笛を鳴らす。だが、幸成の耳には、笛の音は届いていないようだ。肘打ちをした相手選手の胸ぐらを掴みかかる。
拓真さんが「抑えろ、幸成!」と制止しようとするも、遅かった。
相手選手が自身の顔を手で覆いながら、後方に倒れた。ピッチ上で足をばたつかせながらのたうち回る。
「何だ?」
呆気にとられた幸成が、足もとで身をよじらせる相手選手から距離をとった時、ぴ、と強い笛が吹かれた。
まずい。
俺が思うよりも早く、審判が幸成に、注意を意味するイエローカードを提示した。ついで、審判が倒れている相手選手に起きるよう指示を出し、その選手にもイエローカードを提示する。
「ちょ、何で俺までイエローなんすか」
幸成は審判に詰め寄った。
「よせ、幸成」拓真さんが、幸成と審判との間に割って入る。「こらえろ、幸成。相手の挑発に乗るな」
「だって、あいつが俺に肘かましてきやがったのに、なんで俺がイエローなんすか」
幸成が、審判と拓真さんの二人に不満気な顔を向ける。顎を引いた審判が、動じない姿勢で幸成に向き直った。
「きみの報復行為に対するイエローだ」
「報復? ちょっとユニフォームへ手が伸びただけですよ。押してもないのに、あいつが大袈裟に倒れたんです。報復になってない」
幸成が肘打ちをしてきた相手選手を指さそうとした。すると、その相手選手が顔を歪め、泣きだしそうな声を絞り出した。
「首から上を強く押されて、倒されました。報復行為です」
「んだと、てめえっ!」
かっとなった幸成が相手選手に駆け寄り、再び首もとを掴もうとした。
「幸成!」
拓真さんも俊介も朔太郎も俺も、チームメイトのほとんどが同時に声をあげた。
ばたり、と相手選手が腰からピッチに倒れる。又もや顔を手で覆って、悶えるように芝上でもがいた。直後、ピーッ、と強く長い笛の音が響き渡る。
胸ポケットに手を突っ込んだ審判が、幸成に向けて毅然とした態度で一枚のカードを提示した。
赤色。退場処分をあらわすレッドカードだ。
観客席を含めた会場全体が、ぴりりとした不穏な雰囲気に包まれる。
幸成は、頭より上方で掲げられたレッド―カードを見あげ、口を開けたまま立ちすくんでいた。一瞬にして十歳以上老け込んだように感じられる表情のまま、頬をぴくりとも動かさずに固まっている。
「ちょっと待ってください」拓真さんが審判にぶつからん勢いでにじり寄った。「胸ぐらを掴もうとはしましたが、手が触れる前に相手選手は自分から倒れてます。あきらかにカードを誘発する自演行為です」
言葉こそ丁寧だが、拓真さんには珍しく青筋を立てていた。
当然だ。レッドカードは、試合で退場となるばかりではなく、次戦も出場停止となる処分だ。今日の準決勝を勝ち進んでも、幸成は決勝戦のピッチには立てない。ベンチ入りさえできずに、観客席から試合を見守ることになってしまう。
守りの中核となる幸成を欠くことは、チームとしても一大事だった。
犬が威嚇するような唸り声が聞こえた。
幸成だった。うううう、がああああ、と低く大地を揺するような声を漏らし、肘打ちをしてきた相手選手を睨んでいた。
ピッチ上に剣呑な空気が生まれる。相手選手が蠅を追い払うような仕草をして、その場から立ち去ろうとした。幸成の頬がひきつり、一気に破れた。
「ふざけんな、てめえぇぇぇッ!」
幸成が拳を振り上げた。「幸成っ!」現場に居合わせているチームメイトのうち誰かが、咄嗟に幸成の身体に組みついた。それでも幸成はチームメイトを引き摺りながら、相手選手を殴ろうと歩を進めている。また一人、また一人、とチームメイトが幸成を止めるために、スクラムを組む。俺もその中に加わっていた。
「幸成!」「幸成、抑えろ」
幸成は涙を溢れさせていた。
畜生、畜生と唾を飛ばし、膝をピッチにつけた後、幸成は身体を支える力を失ったように前方へ倒れた。
朔太郎が幸成をかばうように抱きかかえた。なおも、畜生畜生と幸成はぼやくように呟き続けている。
両脇をチームメイトが支えながら、幸成が退場していく。がっくりとうな垂れた幸成の背中が、気持ちを代弁していた。丸まり、生気を根こそぎ奪われていた。
試合が再開される直前、肘打ちをした相手選手が自陣のベンチに向けてサムアップをした。口角をあげてにやりと笑う。前半三十分過ぎのことだった。俺達はいまだにシュートを一本も打てていない。
チームは劣勢に立たされた。
一人少ないため、攻撃よりも守備に奔走する時間が長くなる。ボール支配率は明らかに相手の方が上だ。パスを回され、右へ左へと否応なく身体を振らされる。時折、縦へ鋭いパスも通されるため、上下運動も加わり、ふくらはぎが悲鳴をあげていた。
朔太郎の怪我の部位は大丈夫だろうか。ボールをクリアするたびに顔を顰めている。朔太郎だけではなかった、皆の顔が苦しそうに歪み始めていた。
前半終了の笛とともに、俺は片膝をついた。
自分の不甲斐なさを責める気力さえも削がれていた。
0対0の両者ともにスコアレスで折り返すことになったものの、ボール支配率、パス成功数、ドリブル突破率、コーナーキック数、フリーキック数、シュート数、挙げればきりがないほど、数値で表せるスタッツは相手の方が上回っていた。
走行距離は俺たちの方が走っているが、これは守備に奔走している分、走らされた結果によるものだ。きっと後半では、スタミナ切れなど、ボディーブローを喰らい続けたような疲労に俺達は見舞われる。
特にシュート数が問題だった。
ゼロだ。一本もシュートを打てていない。相手チームのペナルティエリア内でボールを保持することすらできていない。
高い位置まで上がっている水沼が、まるで第二のディフェンダーのように立ちはだかり、足で、頭で、ボールを弾き返していた。フィールドプレーヤー並みにボールの扱いが巧みなのだ。
せめて、瑞奈がいれば――。
瑞奈の創造性豊かなプレーならば、相手を切り崩し、水沼の意表をつくパスから決定機をつくることができる。
俺が瑞奈の代わりを務めないといけない。そう思うも、瑞奈のようにはプレーできなかった。無理なんだ、無理なんだよ。瑞奈がいないと、……勝てない。
「晴翔」
身体の中に次々と石を放り込まれている心情になっていた俺に、拓真さんが穏やかに話しかけてくれる。
「気にするな。後半きっとチャンスが来る」
拓真さんが俺の手を掴んだ。そうして、俺を引っ張り上げるように立たせてくれた。
「すみません、でも……」
「その『すみません』は、おまえを立たせたことについてか? それともおまえがシュートを打てなかったことについてか?」
笑いながら拓真さんが俺の背に手を回した。俺は下唇を噛む。
「シュートを打てませんでした。フォワードなのに。瑞奈のようにもプレーできませんでしたし」
目に力が入らない。眼前がぼやけだしていた。鼻の奥でつんとしたものを感じる。息苦しい。足が重かった。
「泣くな」
拓真さんが短く言い放つ。顎をあげ、前方をしっかりと見据えながら。
「すみません」
「三度目の『すみません』は聞きたくないからな」拓真さんが苦笑した。「なあ、晴翔。おまえ背負い過ぎだよ」
どういうこと? 黙考するように口を噤むと、自然と涙が目の奥に引っ込んでいった。
「背負い過ぎ……ですか?」
「物理的なものじゃない。心理的なものだ。別におまえが攻撃を組み立てなくてもいいんだよ」
心を撃ち抜かれた気がした。震える声で拓真さんに尋ねる。
「俺……交代ですか?」
拓真さんはぶんぶんと手を大袈裟に振った。「違う。違う」拓真さんが足を止める。はからずも一歩前へ出た俺は、拓真さんを振り返った。「今朝、瑞奈からLINEが来た」
え……。
拓真さんが目尻を下げる。
「『すみません。晴翔くんをよろしくお願いします』とだけ書かれてたよ。休む理由にも触れず、どう晴翔をよろしく扱えばいいのかも書かずに。『すみません』で始まるのはおまえと一緒だ」
拓真さんが今度は盛大に大口を開けて笑った。俺は、口を噤んでいる。
「まあ、なんだ。瑞奈が休む理由を、おまえからさぐるつもりはない。あいつが休むからにはそれなりの理由があると思っている。ただ、『晴翔くんをよろしくお願いします』にはしっかり対応しなくてはいけないと思った。普段の瑞奈はそんなことを言わんからな」
拓真さんが空を見上げた。
今日も快晴だった。夏らしいくっきりとした雲が蒼い空に浮かんでいる。汗が耳裏から首筋を沿って流れた。
「瑞奈がピッチにいると、おまえはもっとリラックスしてプレーしている。それはきっと、瑞奈がボールを繋いでくれる安心感からだろう。実際のところ、瑞奈とおまえのホットラインで俺達は数えきれないほど得点を決めてきた。だが、今は瑞奈がいない」
拓真さんが一度唇を湿らせた。
拓真さんは空に目をやったままだ。
「瑞奈の分までプレーをしなくてもいい。それは、瑞奈の代わりに今日、右サイドのポジションにいる大河がこなすべきプレーだ。もしくは、ウイングバックを申し出た朔太郎が担う。おまえは、大河や朔太郎がボールを繋げるように導け。それは、瑞奈がいる時に、おまえが自然とやっていることだ。それを、大河と朔太郎に対してもやるだけでいいんだ。おまえと瑞奈がやるほどの息の合ったパス交換までは求めない。おまえと瑞奈は出会った頃から、つがいのようなゴールデンコンビ級のパス回しをしていたからな。気負い過ぎるな。もっと肩の力を抜いて、瑞奈がいる時のようにのびのびとやれば絶対にシュートチャンスがやってくる」
いつの間にか、拓真さんが俺の目を直視していた。
温かくも厳しい視線だった。熱がそこにあった。俺を滾らせる、でも落ち着かせる、不思議なエネルギーを感じた。
あ、これって……情熱。
瑞奈の叫び声が、必死に前を向く顔が、脳裏で思い返される。『情熱!』瑞奈がすぐ近くで俺を鼓舞しているみたいだ。目に力がこもっていく。足が、ふっ、と軽くなった。視界はもうぼやけていなかった。
「いい顔になった。後半が勝負だ」
拓真さんが俺の背を強く、でも優しく叩く。
「はいっ」
声が碧空に吸い込まれた。
後半になっても、前半同様に厳しい防戦を強いられていた。俊介のセービングで何とか失点を免れたシーンもあった。朔太郎が時折り足を引き摺りながら、的確な位置どりで相手の攻撃の芽を摘む。0対0をキープ出来ているのは、一人少ない俺たちにとって上出来な結果だった。
俺は、後半から、得意とする相手ディフェンスの裏への走りに特化したポジショニングをしていた。瑞奈が得意とする中盤からの繋ぎは、大河に任せる。
すると、今まで俺が張っていた右サイドにスペースが生まれ、右サイドバックの朔太郎と、右インサイドハーフの大河の連携がスムーズにいくようになった。
攻撃を形成できる一本の道筋が通ったのだ。
時間が経つにつれ、シュートにたどり着けるリズムが整っていく。点を取らなければ。ますはシュートだ。
俺がワントップで中央の高い位置にい続けることにより、警戒した水沼が高い位置をとらなくなった。ゴールマウス近辺でポジションをとりだす。水沼だけでなく、相手チームのディフェンスラインが俺に押されるように後方に下がっていた。
そうして、両者無得点のまま、後半三十分に突入した時。
ウイングバックの役割が機能し始めていた朔太郎が、大河とのワンツーでサイドを駆けあがることに成功した。
「削れぇっ!」
水沼の号令で、相手選手が朔太郎めがけてスライディングタックルをする。足先が浮いている。このままでは、ボールではなく、朔太郎の足首が刈られてしまう。ボールを奪うのではなく、朔太郎を転ばすためのタックルだ。
朔太郎に向けられたスパイクの裏が、太陽光を反射して牙のように光った。躊躇などを微塵にも感じさせない勢いで、相手が芝上を滑っていく。朔太郎は相手のタックルに気付いていないのか、避ける素振りを見せない。
「朔太郎!」
思わず叫んだ瞬間、朔太郎が決死の目を俺に向けた。
朔太郎は気付いていた。
でも、――避けない。
何故なら、ボールを繋ぐため。俺にクロスをあげるため。
あえてタックルを受けようとしていた。相手選手をかわす選択をすると、ボールが暴れ、質の良いクロスをあげられない――。
ボールを朔太郎が蹴った。直後、耳が、朔太郎の悲鳴を拾う。
朔太郎はタックルの直撃を受けて倒れているだろう。しかし、ここで朔太郎を見てはいけない。
朔太郎がその身を犠牲にしてまで繋ごうとしたボールが、俺のもとに飛んできていた。もう間近だ。俺が見るべきはボールだ。
横回転がかかったボールが空中で緩やかな弧を描いている。少し高い。俺は跳んだ。背を反らせる。ボールの真芯を見る。太陽が眩しい。目を瞑るな。額に神経を集中させる。頭をボールに向けて、力強く振った。ヘディング――……眼前が暗くなった。額で弾いたはずのボールに、キーパーグローブがかかっていた。
手!?
突如として現れた大きな壁、身体。俺のヘディングを、いや、俺達の希望を打ち砕く、――水沼。
背中からピッチに落ちる直前、がっちりとボールをセーブしている水沼と目が合った。
笑っていた。このサッカーが茶番だと言わんばかりに、瞳に揶揄の色を浮かべている。
遅れて笛が吹かれた。
審判が足首を指さし、のたうち回っている朔太郎のもとへ走っていく。ファールを受けながらも朔太郎がクロスをあげたため、審判がアドバンテージをとってファールを流していた。水沼がボールをセービングしたことでゲームを一時中断させ、改めて審判が笛を吹いた。
朔太郎のもとへ味方の選手が次々と駆けつける。タックルをした相手選手は、審判からイエローカードを提示されていた。相手選手は不服そうに表情を歪ませて、その場から離れていく。朔太郎を一瞥もせずに。
俺は尻を芝につけたまま、その一連の出来事を見ていた。どこかふわふわした感触が意識の奥底で漂っていた。頭がぼうっとする。現実を直視できず、寝苦しい夢の中にいるみたいだ。
拓真さんが審判に向かって激しく抗議する。タックルがイエローカードではなくレッドカードだと主張している。
どうして……俺は立ち上がらないのだ。どうして傍観しているのだ。どうして朔太郎のもとへ駆けつけないのだ。どうして拓真さんと一緒に審判に詰め寄らないのだ。どうして、どうして……。
力が、入らなかった。
目の前に暗幕をおろされた気分だった。いや、これは、……絶望だ。
朔太郎が身を犠牲にしてあげたクロスへの、俺のヘディングのタイミングは完璧だった。額がボールの真芯を捉え、そのボールはゴールネットを揺らすはずだった。はずだったのに……、――水沼。失点率0.00。全試合無失点。
どうしたらゴールを奪えるのだ? 考えるそばから、気持ちが萎えていく。
拓真さんが荒げる声を、朔太郎が痛がる声を知覚しながら、俺はうな垂れていた。やがて何も聞こえなくなった。目を瞑る。深く濃い澱みの中へ引きずり込まれていく……。
止血した朔太郎は、血で滲んだソックスを履き替え、再びピッチに立った。状態を確かめるように足首をゆっくりと回し、深く息を吐いた。「走れます」
拓真さんが苦渋の選択をするように「すまない」と朔太郎の肩に手を置く。控えのディフェンダーは他にいるのだが、幸成が退場している今、危険察知力や走力、クロスの精度で秀でる朔太郎を交代させることは難しい。
「晴翔」
どこか遠くで俺の名前が呼ばれていた、と思う矢先、拓真さんは俺のすぐ前にいた。
「晴翔、どうした? 目が虚ろだぞ」
拓真さんの声を水の中で聞いているみたいだ。
立っていることに耐えられなくなり、俺はピッチにへたり込む。拓真さんのスパイクの紐が芝で擦れたのか、うっすらと緑色に染まっていた。
どうしてか、自分が履いているスパイクを脱ぎたくなった。
「拓真さん」絞り出した声は嗄れていた。「俺、交代してもいいですか?」
何を……言っているのだろう。自分から交代を申し出るなんて。
でも、それが正しい提案に思えた。今の俺は戦力にならない。水沼が守るゴールのネットを揺らせる気がしない。拓真さんの応答を待たずに、自分の靴紐を解き始めた。
「晴翔」上から降ってくる声が耳をすり抜けていく。「晴翔」俺は顔さえもあげずに靴紐を解き続けている。もう限界だった。早くピッチから退出したかった。「晴翔?」
……声色が変わっていた。いや、声の主が変わっていた。
紐を解く手を止める。俺が顔をあげる前に、その人が俺の前でしゃがんだ。朔太郎だった。俺と同じ目線の高さで、俺をじっと見つめてくる。俺は相変わらず視界がぼやけているけど、朔太郎の瞳が爛々と光っていることだけは分かった。
「情熱だよ」
「え……?」
おぼろげだった朔太郎の顔が空気中にくっきり浮きあがった、気がした。
朔太郎が繰り返す。「情熱だよ」
微笑みながら、俺との距離を詰める。足に負荷がかかったのか、痛っ、と小さく零した。
「瑞奈ちゃんだったら、こういう時絶対に『情熱が足りない』って言うよ。チームみんなに向けて。でもね……もし今の晴翔を見たら、瑞奈ちゃんは晴翔を決め打ちで『晴翔くん、情熱が足りなーい。モブキャラめ』って言うと思う」
瑞奈の口調を真似た朔太郎は、言ったそばから顔を赤くしていた。
「交代は認めんぞ」
顔をあげると拓真さんが仁王立ちしていた。
「瑞奈からの『よろしく』は、きっとこのタイミングで対応しろということだな」
にいっと、まるで瑞奈が得意げに笑む時のように口角をあげた拓真さんが、ぐしゃぐしゃと俺の頭頂部の髪をかき混ぜる。
「瑞奈の言いつけを破ると後が怖い。それに、」
ぐっ、と拓真さんが親指で観客席の方をさす。退場処分となった幸成が、観客席で、身体よりも大きい旗を振っていた。
チーム名の下に『その足に情熱を!』と書かれている。いつの間にあんなものを用意したのか。今までの試合であれほどまでに大きな旗が振られているのは見たことがなかった。
「瑞奈が俺の家に送ってきた旗だよ。あまりにでかくて、最初は何事かと思った」拓真さんが苦笑した。「たぶん手作りだ。刺繍されているからな」
刺繍、あ……。
思い出す。瑞奈の実家で見た身長大ほどの縦長の箱。本棚の隣りに置かれていた箱の大きさは、幸成が降る旗と同じくらいの長さではないだろうか。確か、あの時瑞奈は、針と糸を片付けていた。指先に絆創膏を貼って。手指が思いどおりに動かずに針を刺して……。
「みんなぁ、情熱出せぇ! このへたれども、うるぁあああっ!」
旗を大ぶりに振りながら、幸成が瑞奈のように声を張りあげた。情熱……。ドクン、と心臓が大きく脈打つや、身体の奥底に熱を感じ始める。
「晴翔、おまえが情熱プレーを見せないでどうする。このまま負けたら、瑞奈を決勝に連れていくことができないぞ」
拓真さんが空を見あげる。今日の拓真さんは空に目を向ける回数が多かった。つられて俺も顔をあげる。突き抜けるような青空は果てしなく、今この時、瑞奈も空を見あげているのでは、そんなふうに思った。
情熱! プレーに情熱がない! サッカーへの情熱が足りない!
実際は、何も聞こえないのに、聞こえた気がした。いや、確かに……幸成が叫んでいる。朔太郎が笑顔で語りかけてくる。拓真さんが落ち着いた口調で俺の背中を押してくれる。チームメイトが合唱するように謳いあげている。みんなが瑞奈の言葉を口にしている。
そう。
あいつは、いる。ここにいる――。
抑え切れない熱情が、激しい闘争心が溢れてきた。鼓動が勢いづく。
俺は、負けたくない。
「もう一度だけチャンスをください」
青雲を背景に鋭角に切り取られた拓真さんの顎が動く。
「やれ。何度でもチャレンジしろ、一度だけとは言わず」
蒼穹の彼方から心地良い風が吹いた。
試合が中断されたため、ドロップボールで試合が再開された。
水沼が大きくボールを蹴り上げる。センターサークル内に落下するボールを拓真さんがヘディングしようとするや、相手選手が背中から拓真さんにぶつかってきた。
即座に笛が吹かれる。拓真さんは片膝をつき鼻に手をやる。その手を、血が伝っていた。
「止血処理をしてくるように」と、審判がピッチの外へ出るように指示を出す。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、鼻から下を鮮血で染めた顔で拓真さんは振り向いた。「情熱を滾らせて興奮したようだ」目元を涼やかにしてさらりと言う。
「だったら、瑞奈は鼻血だらけですね」
拓真さんが声をあげずに白い歯を見せた。不思議とリラックスしだしている自分がいた。良い意味で力が抜けていた。
「ぜってぇ、わざとだ」大河が吐き捨てながら、間接フリーキックの位置にボールを乱雑に置く。「マジ、こんなにもフェアプレーからかけ離れたチームは初めてだ。ったく」
大河が冷静さを失っていた。言葉も荒い。朔太郎との連携プレーをしてもらうためには冷静になって欲しいところだった。
「まあ、なんだ、正義は勝つ」
大河がきょとんとした顔を俺に向けた。ジェルで立てた髪型同様に、逆立っていた目つきが丸くなった。
笑うとこだよと突っ込む前に、テレた俺は付け加える。「と、拓真さんなら言うよ」
ようやく頬を緩めた大河は、背筋がすっと垂直に伸びていた。穏やかな目つきになっている。これなら、きちんとした視野でピッチを見渡せるだろう。
「足を引き摺っている朔太郎に、これ以上激しい上下運動をさせたくないから、俺がサイドに張ってあがるようにする。だから、そのつもりでな」大河がクロスボールを蹴るみたいにその場で足を振った。「まあ、瑞奈ほどは上手くいかないけど」
大河の表情は、試合に臨む瑞奈と同じくらい頼もしかった。
「頼む。絶対にボールにも追いつくから」
拳を突き出す。大河も拳をこつんとあててくれた。
大河が左側のタッチラインへと強くボールを蹴る。
右サイドを突破できなくなっていたため、サイドチェンジで攻撃のリズムを変えるのだ。右に寄っていた相手ディフェンダーが反応し、左へと布陣を変える。
あ。
微かに陣形が乱れた。相手センターバック二人の間が広がり、ディフェンスラインも揃っていない。
要は、隙間が空いたのだ。
思った矢先、俺は駆けだしていた。
審判がちらっと腕時計を見た。ひょっとすると、最後のチャンスかもしれない。俺は自分が走る前方を指さす。そこへパスを出してくれ、と。俺の動きを察知した味方選手がセンターバック間にパスを通した。
しまった、という声を耳にしながら、俺は、センターバック間の割れ目を裂くように走り抜ける。
オフサイドを判定する副審はフラッグをあげていない。俺の目の先で、ボールが伸びる。速いパスだった。ボールが逃げていくみたいだ。
――走る足に情熱を込めてっ!
声が聞こえた……気がした。瑞奈の息遣いを感じるほど近くで。
届け、届け、ボールに足が届け。想いが瑞奈に届け。
俺は足を前方へと投げ出す。伸ばした右足のシューズ先がボールに触れる。直後、ふっと力を抜いた。ボールが弾まずに俺の足もとでぴたりと収まる。
トラップした右足で芝を捻じ込むように踏んだ。体勢を崩さないよう大腿筋に力を入れ、左足を振りかぶる。
残り時間はもうない。決めれば俺達が勝つ。勝てるんだ。
左足を振り抜――突如として、壁が生じる。両腕を広げた体勢で水沼が跳び込んできていた。
水沼の手がボールを弾く。ボールが上空へと浮きあがった。
だが、シュートの勢いは弾かれてもなお削がれていなかった。浮いたボールは、水沼の背後でルーズボールとなって浮いている。彼の身体の重心は前方へと傾いているため、ボールを追いかけることは不可能だ。対して、俺は前を向いている。ダッシュするための体重移動も既になされている。
〝押し込め〟
朔太郎が幸成が拓真さんがチームメイトが、大声で俺を後押しした。きっと瑞奈も力添えをしてくれている。
俺は前へと駆けだす。奥歯を噛む。風がひゅっと耳もとで音を立てた。ボールを目がけて、跳ぶ――
突然、天地がひっくり返った。
ヘディングで押し込むためにボールへと突き出していた上半身がぐらりと傾いた。視野に収まっていたボールが一瞬にして消え、かわりに青々とした天然芝が目に入る。なぜ自分の体勢がこんなにも崩れているのか、分からなかった。
事態を把握したのは、顔面から芝に落ちてからだ。
俺の胴体を掴む手があった。真っ赤なユニフォームの袖が目に飛び込んできた。
相手チームのセンターバックが俺のヘディングを阻止するために、背中から俺の胴に抱きついていた。
威嚇するような笛が吹かれ、審判が、俺を抱き止めたセンターバックにレッドカードを提示する。
芝にうつぶせになりながら、退場していく相手選手、それと周囲を見ていた……。
拓真さんが審判に意見している。幸成がピッチに怒鳴り込もうとして第四審から注意を受けている。
それらの様が白黒映画みたいに俺の目には映っていた。遠ざかる退場選手の背中にも色は付いていない。視界が揺れだす。わなわなと俺は震えていた。
「残念だったな。だが、これがわしらの戦い方だ」
水沼がボールをペナルティマークに置いた。
「あとは、わしがPKをストップすればいい。そうすれば延長戦に突入だ。仮に延長戦でもお互いゴールできなければ、PK戦だ。そこでわしはまたPKをストップする。どのみちおまえらはわしらに勝てない。決勝へはわしらが行く。そして優勝して、わしらが天皇杯に出場する」
からからと水沼が嗤った。哄笑が耳穴を侵襲する。耳を塞いでも耳鳴りのように、彼が嘲る声が俺の頭の中で反響した。
「どうして……」
芝をむしることさえできずにうつぶせのまま、無慈悲な空気に俺は押し潰されていた。
「晴翔、キッカーはおまえだ」
拓真さんの言葉に、表情が遅れて反応をあらわした。目を見開き、口もぽっかりと開けてしまう。
「俺、そんな……自信ないです」
自分でも、声がぼそぼそと小さい、と思った。でも、これ以上ハキハキ喋ることはできなかった。俯き、足もとの芝を見る。芝がぽつりと抉れていた。身を縮こまらせて、そこに隠れたい衝動に駆られた。
既に後半のアディショナルタイムに突入していた。
俺がペナルティエリア内でファールを受けたことによって得たペナルティキック(PK)だ。ここでゴールを決めれば、勝てる。勝てるのだが、……キーパーは、水沼だ。
「何やってんだよぉ! 早く蹴れよぉ!」
相手チームの選手が野次を飛ばす。
「ビビってんじゃねえよ、オラ」
低くねちゃついた声は水沼だ。気温は三十度近いはずなのに寒気を覚えた。
審判が目線でペナルティキックを蹴るように合図をした。
「晴翔、怖いか?」
穏やかな口調で拓真さんが尋ねてきた。
「まあ、怖いよな。ゴールを決めれば勝利、だが外すと……。チームの明暗を分けるキッカーを任される訳だから、心臓に毛が生えていても蹴る瞬間は不安にかられる」
頷いた。俺の心理をまさに言いあらわしている。拓真さんが空を見あげた。今日、三度目だ。
「俺も怖い」
天を仰ぎ見たまま拓真さんが唾を飲み込んだ。喉がゆっくりと隆起する。
「俺は決められないだろう。朔太郎が蹴っても、仮に退場した幸成が蹴ったとしても結果は同じだ。外す」
拓真さんが顎を沈めるように視線を平行に戻した。俺と目が合う。
「ここで決めることができるのは、瑞奈と、――おまえだけだ、晴翔」
「ど、どうして俺が。瑞奈なら納得ですが」
「瑞奈は、……別格だな」拓真さんが含み笑いをする。「でも、おまえも、別格だ」
「俺が……ですか」
静かに拓真さんが頷いた。「別格だ。いや、別格になりつつある、と言った方が的確か。おまえには俺達が持っていないゴールへの嗅覚がある。練習で磨けるものではない。嫉妬するくらいの才能だ。だが、……おまえはその能力を無意識のうちに自身の殻の中に押し込んでいる。勿体ない。晴翔、その才能を殻から出せ」
「殻から……出す」
「俺達には、おまえの才能が必要なんだ。殻を突き破ったゴールへの嗅覚が、今求められ、そして優勝するためには不可欠だ。だから出すんだ。発揮しろ、おまえの才能を。ゴールを奪え」
どくん。
大きく胸が高鳴った。腹の底が身体の奥が全身が、熱くなっていく。そのくせ妙なほどに冷静さが頭頂から降りてくるのが分かった。視界がクリアになっていく。耳が微かな風の揺れを感知する。心地よい風が吹いた。
「蹴らせてください」
ペナルティマークにボールを置き直し、ボールを見つめながら、助走のために後ろへさがる。相手チームからの野次が激しくなっていた。ブーイングの雨を浴びているみたいだ。集中しているはずなのに、胸までざわざわしだす。
四歩目、五歩目、遠いか? いやここでいい、止まる。視線をあげた。前を向く。
水沼がじっとりとした目を俺に向けていた。
両腕を掲げるように広げた彼が舌を出した。唇を左から右へとゆっくり舐めていく。その場でぴょんぴょんと跳びだす。凄まじいほどの敏捷なバネを感じさせる膝だ。そうしながらも、水沼は俺の目の裏までを舐めまわすような視線をよこしてきた。
ペナルティキックは心理戦だ。
ゴールマウスの端に冷静にシュートをすれば、決めることができる。
だが、決めなくてはという自分からのプレッシャーや、外せという相手ゴールキーパーからの精神的なプレスに負けた時、キッカーがシュートするボールはゴールマウスから外れる、もしくはゴールキーパーにセービングされる。
ゴールキーパーから受けるプレスは圧倒的だった。
俺は長めに息を吐く。目を瞑った。
何度も何度も、深呼吸をする。目を開いた。
ゴールマウスが狭い。しかも、水沼が縦横に膨らんでいるみたいだ。
そんなありえない光景をイメージさせるほどの緊迫感で吐きそうだった。
失点率0.00。ふざけた数値。
それでも、そのスコアは彼に相応しかった。
水沼がさらに膨らむ。かろうじて息を吐く。きちんと蹴れるだろうか? 端に蹴れるだろうか? 外さないだろうか? ……吹き出す汗が額を伝い落ち、目に入る。目を瞬かせるとさらに視野が狭まっていた。
不意に俺は立てているのか? と思った。力が入っているのか脱力しているのかあやふやな気持ちだ。意識が遠くなる感覚。
呼吸が浅くなった。苦しい。背中でシャツが汗で貼りついていた。
ゴールマウスの端を狙うのではなく、真ん中を蹴ってみるか。
ふと、そう思った。
だいたいにおいてキッカーはゴールマウスの端を狙う。だから、ゴールキーパーも端に跳ぶ。
その裏をかく……いけるかも。
もう一歩さがって助走の距離をとる。
いける気がしてきた。乱れていた呼吸が平常に戻りだす。
水沼の思考の裏をかく。完璧じゃないか。真ん中に蹴る以外の選択肢が陳腐なものに思えてきた。
意識的にこちらからも水沼と目を合わせる。おまえと駆け引きしてやる。
水沼が「ん?」と目を細めた。
ゴールマウスの右端をちらっと見る。フェイクだ。右端を狙っていると思わせる。
なあ、瑞奈。これでいいんだろ。心の中で問いかける。当然ながら応答などあるはずもない。
が、ざわざわとした落ち着かない気分が俺をとりまいた。
え……!?
水沼が、にたあっ、と口をゆがめていた。
決断した考えがぐらつく。怖い。思わず視線をさまよわせた。
観客席に川南澪がいた。睨むように俺を見ている。その目が何かを言いたげだった。
『焦ってトリッキーな攻撃をしかけないこと。あのキーパーの裏をかこうとしても、絶対にすべて読まれるから』
川南からのアドバイスが浮かび上がる。裏をかこうとしても、読まれる……。
俺は遠く、川南の瞳を探るように凝視する。川南が微かに頷いた気がした。
ざわついていた心情にゆっくりとした変化が生まれていく。何かが見える予感。瞼を閉じた。
何が見える? 何がある?
瞑目したまま腕をあげ、指先を伸ばす。何かに触れようと、何かを掴み取ろうと、手指を広げ、その先に、瑞奈の顔があった。
頬に触れる。温かく柔らかい。まさにその時だった。意識の中で瑞奈が言明した。
――勝負するしかないんじゃない。
瞼を開けようとすると、それをさせないぐらいに早い話の接ぎ穂をもって、意識の中の瑞奈が言葉を続けてきた。
――晴翔くんの嘘はバレるよ。嘘つくとき右眉がぴくりと上がる。全部分かっちゃう、あ、嘘だって。だから、正々堂々、思い切り端っこにボール蹴って勝負したら。情熱をこめたシュートをがっつりと決めて欲しいな。だいたいさ、半年前に新宿で飲み会したって言ってたけど、あの時右の眉が上がっててさ、『あ、女だ』って……。
俺は慌てて目を開けた。ふつりと瑞奈の映像が途切れる。頬が熱くなっていた。
「バレてた……?」顔をぶんぶんと真横に振る。
「何をぶつぶつ言ってんだよ。審判、遅延行為だ」
水沼が審判に視線をやった。この時、水沼の集中が切れたような気がした。
審判が胸ポケットに指先をつっこみながら俺の方へ数歩進み、イエローカードを提示する。遅延行為によるカードだ。
「ったくよう」
水沼が再びゴールマウスの前で両腕を広げた。
水沼とゴールマウスとの間にある隙間が、先ほどよりも広がった気がする。
コールマウスが狭いとも、水沼が膨らんでいるとも、もう思わなかった。
直視してきた水沼を俺は睨み返す。
決めた。
勝負する。
逃げない、諦めない、絶対に負けない。瑞奈を決勝に連れていく。
ゆっくりと踵を上げ、助走する。
蹴るボールのコースが浮き上がっている気がした。助走するスピードを速める。殻を破れ。才能を出し尽くせ。
もうゴールマウスを見ない。水沼も見ない。ボールだけを見る。
芝を踏み込み、右足で大きく振りかぶった。勝負だ。情熱だ。
渾身の力でシュートを打つ――。
ボールが右端へと鋭い横回転で飛んでいく。水沼も右端に跳び、反応していた。
全てが一瞬のことだ。それなのに、その一瞬がとてつもなく長かった。
水沼の手が、身体が伸びる。
ボールも伸びた。スピードを増す。キーパーグローブを掠めたボールが、ちっ、と音を立てた。それでも、ボールの勢いが勝った――ゴールネットに突き刺さる。
山が動くようなどよめき、そして、大地を揺さぶる大歓声。
審判が笛を吹いた。試合終了のホイッスルだ。
俺は駆けだした。チームメイトのもとへ。ここにはいない瑞奈のもとへ。
瑞奈、瑞奈、瑞奈!
「晴翔、よくやったああああ!」「晴翔ぉ!」「でかした、晴翔!」
誰かに押し倒された。チームメイトが一斉に覆い被さってくる。重いって。でも、嬉しい。込み上がる喜悦の興奮のまま俺は倒れた姿勢で腕を突き上げる。
空の蒼さが、眩しいくらいに目に染みた。

