愛して、『る』に情熱を


 翌朝、宿泊していたホテルの窓から見る空は澄みきった碧さを張り巡らせていた。
 真っ白な雲が大空のキャンバスを背景にして浮き上がっている。
 空気を吸いたく、碧空の下で思いきり両手を広げて伸びをしたく、顔も洗わずに外へ出た。
 深呼吸をすると、ホテル前の歩道は車の往来がある大通り沿いにもかかわらず、俺の通う大学周辺で吸う空気よりも酸素が濃く美味しい。
「あー」
 思わず声が漏れた。自分でも失笑するくらいに間抜けな、でも前向きな声色だと思った。
 俺は手にしていたスマホの画面を見る。春奈さんからのメールだ。
 昨夜は、このメールを機に、瑞奈とのいざこざがあった。文面には、訪問に対するお礼と、次のような文言が添えられていた。

【診断が下される前後は、とても不安定な心持ちになります。本人が病気に向き合えるよう、家族だけではなく、友人、恋人が支えてあげて下さい】

 もしこのメールを咲良との昨夜の会話前に見ていたら、俺はその責任の重さに耐えられなかったかもしれない。瑞奈を支える前に、俺自身を支えることができていなかったからだ。
 でも、今は違う。
 瑞奈を支える。瑞奈と一緒に生きたい。
 目元に力を込めて空の先を見つめた。紺碧の空は果てしなく広がっている。蒼穹に優しく包まれている気がした。
 もう迷いはなかった。俺は、進む。瑞奈の病気が空のように果てがないものでも、瑞奈と寄り添ってどこまでも突き進んでいく。
 瑞奈宛てに電話をかけようとスマホを耳にあてた。
 何気ない気持ちで視線を上方に投げる。一筋の太い雲が縦に長く伸びていた。途端に、包容されているという安心感にぐらつきを覚えた。
 コール音が続いている。瑞奈はスマホの近くにいないのだろうか。俺はスマホを耳に押しつける。一筋の太い雲が千切れ始める。まだ瑞奈はでない。コール音が闇の奥を引っ掻き回しているイメージを抱いた。瑞奈はでない。
 電話を切った時、天空の下で自分がひどく心細い存在である気がした。
 俺は頭を振る。また瑞奈に電話をかけた。コール音が虚しく響いていた。
 カラスが一羽、俺の眼前を横切りながら上昇し、黒の線で蒼空を割いた。瑞奈はでなかった。



 瑞奈の実家を訪れると、瑞奈のお母さんは驚きもしたが、同時に嬉しそうな表情を浮かべてくれた。本来ならば今頃は新幹線に乗っているはずだった。
「安いホテルが見つかったので」
 嘘だった。今まで泊まっていたホテルを延泊した。瑞奈のご両親に余計な心配をかけたくなかった。
 お母さんが、二階の瑞奈の部屋に向けて「晴翔君が来てくれたよぉ」と大声で呼びかけるも、瑞奈が降りてくる気配はなかった。
 ごめんね。ちょっと呼びに行ってくるね、とお母さんは階段を昇り始める。みしりと階段が音を立てた時、瑞奈の声が響いた。「帰ってもらって」
「何言ってるのよ、せっかく晴翔君が来てくれたのに」
 お母さんがなおも階段を昇ろうとすると、再び、
「帰ってもらって。会いたくないの」
 取り付く島もない返事が二階から聞こえてくる。瑞奈のお母さんが俺を振り返った。困惑の表情だった。瑞奈のお母さんは言葉を発しようと口を開いたが、何と言っていいのか分からず、口を閉じることができないようだった。
「お母さん」
 俺は、瑞奈の部屋に届くほどの大きい声で喋る。
「また後で来ます。済ませたい用事を終えてからまた来ます」
 瑞奈に会う以外の用事など、本当は無かった。
 瑞奈のお母さんがゆっくりと階段を降りてくる。「ごめんなさい。朝から全然下に降りてこないのよ。ドアも開けてくれないの」
 俺は笑って気にしない素振りを見せる。
 瑞奈のお母さんは申し訳なさそうに表情を歪めた。
「咲良がいたら、咲良が無理矢理にでも瑞奈を引っ張ってくるのに。朝から夏期講習に行っちゃったのよね。やっぱ、私が」
 まるで敵陣内に乗り込むように腕まくりをしたお母さんを、俺は止める。
「大丈夫です」
 お母さんと瑞奈の共通点を垣間見た気がした。

 瑞奈の実家から立ち去ると、どこへ行こうか途方に暮れた。通りかかった公園のベンチに腰を下ろし、スマホで瑞奈にLINEメッセージを送信する。
【会いたい】
 本当は、どうした? とか、春奈さんのことに触れるとか、瑞奈に訊きたいこと、伝えたいことはたくさんあるのに、LINEメッセージで打った文章は簡潔だった。とにかく瑞奈と会って話したかった。
「会いたい」
 俺は口にもした。その声はすぐに炎天下の空気中に掻き消えていく。
 今日も暑い。朝の天気予報では、三十五度近辺まで気温が上昇するとのことだ。着ているポロシャツの袖でこめかみを拭うと、袖に汗の滲みができた。
 滑り台の奥にあるベンチに座っていると、公園のレイアウトは同じなのに東京よりも草いきれが満ちている気がした。力強い蝉の鳴き声がする。ブランコで遊ぶ子供たちの歓声がいきいきと聞こえてきた。
 メッセージ欄に既読が付く。俺は太陽に焦がされながら画面を見続けた。
 頬上を汗が伝い始めた。俺は姿勢を崩さずに、スマホの画面に目を向けている。ブラックアウトしそうになる画面をその都度タップし、明かりを灯す。瑞奈からのメッセージは来ない。
 ぽたりと画面上に汗が落ちた。俺は指で画面を拭う。拭いたそばから画面上に細かな水滴が散乱する。そうしているうちに、また画面上に大きな汗の粒が落ちる。拭く。瑞奈からのメッセージは表示されない。頭頂部に焼けるような熱が降り注いでくる。片手でスマホを持ち、片手で頭頂部に手をやった。今度は、その手が炙られるような熱を感じた。それでも画面を見続ける。メッセージは送信されてこない。
 電話をしようか。
 電話マークに指を伸ばしかけて、止めた。
 瑞奈は、今は話したくないのだろう。無理矢理、電話に出させたくなかった。瑞奈が喋ることができる状態で、俺は話したかった。電話マークから指先を離す。そのタイミングはいつだろう。画面を見つめる。
 腋の下が、背中が、ジーンズの中まで汗ばんでいた。瑞奈がメッセージを送信してくれるまで、待とう。スマホのバッテリーは今朝充電したばかりだ。俺はブラックアウトしそうになる画面を、つつくように触る。メッセージは来ない。
 スマホの画面を見続けているさなかだった。子供たちの声が消え、蝉の声が遠くなり、 視界の端から薄紫色の膜が広がってきたと思うや、急に意識が……――



「ばかもん」
 瑞奈がクッションを膝と顎の間に挟んだ姿勢で、繰り返した。
「ばかもん」
「ばかばか言うな」
 俺が言い返すと、瑞奈がクッションを投げてきた。俺はそれをよける。が、顔に違うものが命中した。枕だった。
「ばかもんはばかもんなんだ。たこ、いか。ざこ。もぶ……」
 ベッドに座る瑞奈が、他に投げられるものを探す。
「だいたい、こんな炎天下の中……もし咲良が、倒れている晴翔くんを見つけなかったら、熱中症で死んじゃってたんだぞ。ばかもん。たこ、いか。ざこ。もぶ」
 瑞奈の手が目覚まし時計を掴んだ。
「おまえ、それヤバい」
 時計の固そうな出っ張りに目が吸い寄せられ、俺はあわてて腰を浮かせる。
 瑞奈が振りかぶる寸前で、その手を止めた。
 だが、止まらないものがあった――涙だった。瑞奈が大声で泣き始める。瑞奈の部屋内でぐしゃぐしゃの潰れた声が飽和しだす。
 炎天下の公園で意識を失った俺を、夏期講習帰りの咲良が見つけてくれたことは、不幸中の幸いだった。すぐに病院に運ばれ、点滴を受けた後、俺は瑞奈の実家に帰された。
 今は、瑞奈の部屋で二人っきりで話している。瑞奈の泣き声は、階下のご両親や咲良に聞こえているだろう。
「死んじゃってたかもしれないんだぞ。ば……」
 涙ながらに瑞奈が言った。布団の端を握り締め、唸った。
「あたしより先に死ぬな……ばか、……もん」
 俺は奥歯を噛みしめた。言葉を絞り出せなかった。ぎゅっと両手を握り込む。爪が手の平に食い込む。痛くなかった。ただ、背中から震えていた。
 瑞奈の荒い息が段々と落ち着いてきた。布団を掴む手が緩んでいる。顔をあげ、睨むように俺を見た。
「もう会わないほうがいいの。晴翔くんに迷惑かけるから」
 沈黙が落ちる。呼吸音が聞こえてこない。俺からも、瑞奈からも。浅く息を吸っている訳ではない。呼吸を止めていた。意図せずに、自然と。
 すう、と吸音が小さく立つ。瑞奈だった。俺も吸う。口を開いた。
「おまえと一緒に生きていきたい」
「嘘」
「ウソじゃない」
「じゃあ、誰なの、倉持春奈って」
 それは……、言い淀む。俺はまだ中途半端なのか。
「言えない人なのね」
 違う……。そうじゃない。
「帰って」
 瑞奈の声がうわずった。
「帰って帰って帰ってもう来ないで」
 瑞奈が立ち上がる。ベッドの上から俺を睨みつける。
「帰ってよぉおお」
「患者さんなんだ!」
 俺はフローリングの床を見つめながら、吐くように言った。駄目だ。こんな態度を見せてはいけない。きちんと話さなければいけない。俺は顔をゆっくりとあげる。瑞奈を正視する。
「倉持春奈さんは、ALSの患者さんだ」
 瑞奈が、理解できない、とでも言いたげな目を俺に向けていた。口を開く。しかし、何も言わないまま、閉じられた。顎が引かれる。より険しい視線で俺を見てくる。
「昨日、ALSを患っている倉持春奈さんに会いに行った。春奈さんに瑞奈のことを喋ってしまった、おまえに無断で。ごめん」
 強い緊張感が瑞奈の瞳に宿っていた。目を逸らしたいほどの圧が瑞奈から伝わってくる。真意を確かめるように、瑞奈が俺を直視していた。息が止まった。瑞奈に首を絞められているみたいだ。でも、絶対に目をそむけない。俺も、瑞奈を真正面から見つめる。
 どれほどの時間が経ったのだろうか。瑞奈の表情から硬さが消えた。少なくとも、険しい目つきは止んでいた。
「話して。最初からちゃんと。説明して、あたしに分かるように」



「なんだ。てっきりもう、晴翔くんは新しい人を見つけたんだと思ってたぞ」
 説明を終えると、久方ぶりに、相好を崩した瑞奈を見た気がした。
「そんな訳ねえだろ」
「だって、ALSって根本的な治療方法がまだないんだよ。治る見込みがないんだよ。手足を動かせなくなるんだよ。そんなあたしと付き合ってて面白い? そんな彼女でいいの? 迷惑かけるんだよ。何にもできなくなるんだよ。その……え、えっちだって将来してあげられないし……」
 恥ずかしそうに瑞奈は俯いたが、すぐにキッと俺を睨んだ。
「いやじゃん。絶対にそんな彼女よりも新しい女の方がいいに決まってるよ」
「迷惑じゃねえよ!」
 声が喉元で爆発した。言葉を発した俺自身が思わず顔をしかめたぐらいだ。瑞奈も驚いたようで肩をびくりとはねさせた。
「ごめん、大きな声出して」
 瑞奈は不安気な表情を浮かべていた。今にも泣きだしそうだった。
 ごめん、俺は再度口にしてから、ゆっくりと言葉を噛んで含めるように言った。
「俺は瑞奈と一緒に生きていきたいんだ。本気だよ。確かに、覚悟はしている。瑞奈の身体が動かなくなった時のことを想像すると、叫び出したいくらいにつらく、怖くなる。でも、でも……好きなんだよ。瑞奈のことが。新しい女なんて眼中にねえよ。俺はいつだっておまえしか眼中にねえんだよ」
 言葉を一度切ると、瑞奈が「晴翔くん、」と呼びかけてきた。声が震えていた。瑞奈、安心してくれ。俺はどこにもいかない。俺はおまえのそばにいる。この気持ちを伝えたくて言葉を繰り返す。
「好きなんだよ、おまえが」
 瑞奈が――倒れるように俺に抱きついた。

 翌日の朝、俺と瑞奈は電車に乗っていた。
 春奈さんに会いに行くのだ。今回も急な展開になってしまったが、春奈さんは『気にしないでお越しください』とメール文に書いてくれた。本当にありがたかった。ただし、視線入力をし続けての会話は、春奈さんに負担がかかるだろうから、三十分ほどお話しさせて下さい、とあらかじめ時間を区切って春奈さんには伝えていた。
「今思えば、倉持春奈さんって、あたし知ってるかも」
 思い出そうとするために瑞奈が右手の人さし指を顎にあてる。左手は俺と繋いだままシートに座っていた。
「マジか? なんで?」
「記憶が正しければ、女子サッカーで有名だった人だよ。あたし多分、春奈さんがプレーする試合を見に行ったことあると思う。小学生の頃」
 くらもちはるなさん、くらもちはるなさん、瑞奈がぶつぶつ呟きながら顎にあてた指をくりくり回し始める。
「ねえ、ちょっとスマホで【倉持春奈 女子サッカー】と検索してくれない?」
「おまえ検索もできないのか」
 瑞奈は、大学生にもかかわらず操作がシンプルなスマホ『らくらくホン』を使っている。俺は、春奈さんの名前をALSではなく、女子サッカーで検索する――
「凄え……」
 あんぐり口を開けるとはこのことだろうか。口を閉じることができなかった。
 春奈さんは、女子サッカーの日本代表にも選ばれたほどの人だった。なでしこリーグの優勝チームに在籍していたことも記載されている。本人のブログにはサッカーをやっていたことが綴られていたが、まさかここまで本格的にサッカーをしており、有名な選手だったとは。
 瑞奈が俺の手元からスマホを奪った。
「でしょ。やっぱり、あの倉持春奈選手だ。あ、ほらほら、あたしと同じ右のインサイドハーフ。うわー、今からこの人に会えるんだね。嬉しいな。色々と話したいぞ。晴翔くん、隠さないでさっさと春奈さんのことを教えてくれればよかったのに」
 瑞奈がウキウキとした素振りでスマホを俺の手に戻す。
 瑞奈の言葉がちくりと心に刺さった。きっと瑞奈自身は分かっていないのだろう。春奈さんと会う、そのことがどれほどのことかを。
 口を動かして喋ることができない春奈さんとは、視線入力パソコンのディスプレイを介して話すことを、俺はこの場では言及することができなかった。

 春奈さんが待つリビングに入った時、瑞奈の背中が硬直したのが分かった。
 瑞奈の背に触れると、鼓動が伝わってきた。少し速い。
「またも急におしかけてしまい、すみません」
 春奈さんのお母さんもリビングに入ってきたところで、頭を下げた。隣りで瑞奈もお辞儀をする。
「初めまして、結城瑞奈です」
 既に、春奈さんのお母さんには、玄関先で自己紹介をしているので、瑞奈は春奈さんに向けて再度お辞儀をした。春奈さんの視線が暫くの間瑞奈に据えられた後、視線入力用のパソコンに向けられる。それを機に、俺と瑞奈は、春奈さんに近づいた。
『初めまして倉持春奈です』
 モニターに表示された春奈さんの言葉を見て、瑞奈は素直に、凄い、と口にした。モニターに続けて文字が打ち込まれていく。
『同じ感じ』と表示されたところで、『感じ』が消され『漢字』と修正される。
『同じ漢字だね。奈』
「あっ」瑞奈は一拍置き、視線をモニターから春奈さんに向けた。「ホントですね。わあっ、嬉しい。あの春奈選手と一緒の『奈』なんだ。改めてびっくりです」
 おや? 瑞奈の受け答えのリズムに俺は違和感を抱く。いつもと違うテンポだ。女子サッカーの大先輩を目の前にして、緊張しているのだろうか。俺も、改めて春奈さんが偉大な女子サッカー選手だったことを知るや、今こうして相対していると、指先が微かに震える。
『緊張してません?』
 表情が変わらない春奈さんではあるが、微笑んだ気がした。
「だって、あの倉持春奈さんですよ。あたし、今、倉持春奈さんと……話しているんですよ。緊張しますって」
 高揚気味の口調で手を浮かし、春奈さんの手を握ろうとするも、瑞奈は一瞬の躊躇を見せた。
 春奈さんのお母さんが察してくれたのか、「よければ手を握ってやってください」とにっこり笑う。
「いいんですか、手を握っても。憧れの選手の手」
 春奈がおそるおそる手を伸ばす。モニターには、たった一文字だけ『笑』と表示されていたが、瑞奈は気付いていない。
「わお。やった。あの倉持春奈さんの手だ」
『ポジションはどこですか?』
 春奈さんの手を握ることで上気しているせいか、瑞奈はモニターに春奈さんの言葉が表示されたことに気付いていない。
 つんつんと瑞奈の背をつつく。まだその背は硬かった。
「春奈さんが、瑞奈のポジションを訊いてるよ」
 振り返る瑞奈の眦には、うっすらと涙がたまっていた。それほどまでに嬉しいとは、俺はこの機会を提供できたことに胸をなでおろす。
「右サイドです。右インサイドハーフや、右ウイングとか」
『私と一緒だね』
「あたし、試合会場で春奈さんのプレーを見たことあるんですよ。もう十年ぐらい前、小学生の頃です」
『すっごく昔』
 瑞奈はモニターと春奈さんとを交互に見ながら、終始楽しそうに会話をしていた。あらかじめ決めていた三十分は瞬く間に過ぎた。少し、春奈さんの目が疲労を感じているような気がした。
「瑞奈、そろそろ」
「あ、もうそんな時間。すみません、勝手に舞い上がってしまい」
『久しぶりに凄く楽しかったです』
 モニターに顔を向けたまま瑞奈が寸刻黙った、そんな気がした。でもすぐに、
「あたしもです。また会ってください」
 と笑顔を浮かべ、振り返り、春奈さんの手を再度握った。
モニターに春奈さんがこう漏らした。
『晴翔くんも、ありがとうございました。瑞奈ちゃんと晴翔くんがとても羨ましい。私ももっと恋愛をしたかったな』



 春奈さんの家からの帰りの電車で、突然、瑞奈が泣きだした。
「ちょ、瑞奈」
 あっという間に、周囲の乗客からの好奇の眼差しにさらされる。瑞奈の背をさする間も、瑞奈はぽろぽろと目から玉のような涙を流している。瑞奈が俺の手を、一度強く握ってから、離した。
「別れてもいいんだよ」
 瑞奈が小刻みに息を吐きながら、顔を俺に向けた。真っ赤な目が俺を見据えている。「晴翔くんは別の人と恋愛をすべきだよ」
「おまえ、またそんなことを」
「晴翔くんも分かったでしょ。ALSが進行したら、モニター越しの会話になっちゃうんだよ。ううん、あたしは機械音痴だから、あんな風にモニターに文字を映すことなんてきっとできない。指使ってもできないことを視線だけでするなんてムリ。もう晴翔くんとはお話しできないんだよ。気持ちを伝えられないの。そんなんで晴翔くん楽しい? 歩けない、動けないあたしが彼女でいいはずないじゃない」
 一気に喋った瑞奈が、涙と一緒に大きく息を吸った。喘息の発作のような激しい息遣いになる。
 空気が破裂しそうなほどにぴんと張っていた。もう周囲の視線は気にならなかった。それどころではなかった。瑞奈のメンタルが崩壊しかけているのを感じた。
「瑞奈、落ち着け」
 瑞奈の両肩を掴むと、瑞奈はいやいやをするように上体を激しく揺すった。
「『同じ感じ』の文字を最初に見た時、名前の『漢字』じゃなくて、雰囲気の『感じ』で当ってる気がしたの。同じ病気に罹患している『感じ』を、あたしも春奈さんから感じとった。春奈さんをまじまじと見て、自分の姿を当てはめて、身震いするほどの恐怖を感じた。同時に、そうかって納得できるものも感じた」
 瑞奈が俺の手を払いのけ、逆に俺の肩を掴んできた。顔を寄せるほどに近づけ、肩に指をめり込ませながら俺に迫る。
「『久しぶりに凄く楽しかった』時間を、あたしは晴翔くんに強いることになるの。あたしに付き合うとそういう時間を過ごすことになるの。それで晴翔くんはいいの? いい訳ない。駄目だよ。動けなくなるあたしに、晴翔くんを付き合わせたくない。いつまでもこんな重たい女に付き合う必要ない。晴翔くんはあたしから羽ばたくべき。だから――」
 俺は馬鹿だった。
 春奈さんの部屋で瑞奈の目に浮かぶ涙を嬉し涙と解釈して、俺は悦に入っていた。
 そんなことがあるはずなかったのだ。
 瑞奈は予想される自分の未来図に怯え、泣くほどに悲嘆にくれていた。誰かの支えが無いと崩れてしまうほどの衝撃を必死に耐え、せめて俺だけは巻き込まないようにと瑞奈は葛藤していた。
 どうしてそのことをすぐに気付かなかった。俺はまだ覚悟が中途半端なのでは。これじゃあ駄目だ。駄目なんだ。
「瑞奈ぁあああっ!」
 きっと車両中の乗客全員が俺達を見ていたと思う。それで構わなかった。俺の瞳には瑞奈しか映っていないのだから。他人など気にしている余裕はなかった。
 俺は支えないといけない。瑞奈と一緒に生きたい。
 一緒に生きるために、瑞奈を支えると覚悟を決めた心持ちに偽りはない。中途半端じゃいけない。俺は、瑞奈と一緒に前を向いて、歩いて行くんだ。
「俺は何度でも言う。俺はおまえと一緒に生きていきたい。俺がお前を支える。サッカーが一人だけで勝つことができないのと一緒だ。チームメイトが必要だ。人生もそうだ。瑞奈の人生には俺が必要なんだ」
 後から考えれば、人生をサッカーに例えるなんて随分と飛躍した例えだっただろう。だけど、この時の俺には、この例えが全てだった。サッカーが俺と瑞奈を結び付けてくれたのだから、これ以上の例えは考えられなかった。
「だから、俺はおまえと別れない。おまえと一緒に生きる」
 瑞奈の目が見開かれる。不安な色を瞳に灯したまま、瑞奈は瞬きもせずに俺を見つめていた。
「いいの?」
 弱々しい声と一緒に涙が零れていく。俺は頷きを返した。
「もう泣くな。約束だ」
 すると、どこからともなく拍手が鳴った。
 誰かの拍手につられて、車両内のあちらこちらで拍手の音が鳴りだすと、それは大きなうねりとなった。気付くと大音量の拍手の音に、俺と瑞奈は包まれていた。瑞奈と一緒に車両内を見回す。
 好奇な視線を向けられていたと当初感じていた視線は、皆、優しく穏やかで温かな視線だった。
 拍手が止まらない。さらに増幅されていく。騒ぎに気付いた隣の車両の人も拍手をしてくれていた。次から次へと拍手をする人が増えていく。名前も知らない、たまたま同じ電車に乗り合わせただけの人達が、俺と瑞奈に生きる勇気をくれていた。支え合う心の神髄を伝えてくれていた。
 俺と瑞奈は図ったまでもなく、同時にゆっくりと、心を込めて頭を下げた。