愛して、『る』に情熱を


 女性は、咲良と名乗った。瑞奈の妹で、高校三年生だと付け足しながら。
 咲良は癖なのか、眼鏡を中指でくいっとあげ、とても高校生とは思えない堂々とした態度を見せてくる。
 瑞奈が、妹がいることに言及していたことを思い出した。それにしても何故、瑞奈の妹が俺に会いに来たのだ。……どうして? 本当に何故と自分は思っているのか? 咲良の最初の言葉を聞いた時に、俺は既に身構えていたのではないのか? 絶対に悪い話だと。
 何も言えない俺に対して、咲良は一度深々と瞼を閉じてからゆっくり開いた。それは、咲良もこの話題を口にしたくない、そううかがわせるのに十分な仕草だった。
 咲良が強い視線を俺に向け、躊躇を払いのけるように口を開く。
「姉は、おそらく数か月後から一年の間に、動けなくなります」
 言葉が耳を通過しそうになる。
 信じられないことを聞くと、一瞬、空疎な気分に見舞われるということを知った。しかし、一拍の鼓動を感じるや、すぐに言葉は疑問と絶望とを運んできた。
「どういうこと……?」
 喉から掠れ出た声が、自覚できるほどに弱々しい。眼前の咲良が言っていることを理解できないままでいたいとも思ったぐらいだ。
「詳しくは、私にもまだ分かりません。今は、病院で検査を重ねています」
 咲良がくいっと中指で眼鏡を押しあげる。
「会いに来てくれませんか? 姉に」
「何の病気……なの?」
 視界が揺れ続けていた。夜の闇が濃く狭まっている。それなのに俺は光を求めている。未来を照らす明かりを求め、希望を求め、咲良の顔を見つめる。
 闇空が、迸る光の切っ先で爪痕をつけられていた。痛みを吐き出すようにゴロゴロと空が鳴っている。
「ALS。筋委縮性側索硬化症の疑いがあります」
 しびれを切らした落雷が大地を叩く。ざああと重たい雨足の音が俺の中にたまっていく。



「知っちゃったか」
 瑞奈が憮然とした表情でため息をついた。
 遅れて、俺の背後で玄関ドアが閉まる。かちゃり、と音が立ち、俺が発した、瑞奈、という声に被さった。
 俺は、咲良から住所を教えてもらい、事前連絡なしに瑞奈の家を訪問したのだ。
「うーんんんん。まさか咲良が晴翔くんのとこに行くとは。予想外だった、むう。あたしの部屋から晴翔くんの年賀状でも見て住所調べたのかなあ」
 狭い玄関内で瑞奈が空気中を蹴る素振りをしだした。視線が俺から離れ、下に向けられる。長い睫毛が影を、瑞奈の表情に落とす。でも、それも一瞬のことだった。すぐに、瑞奈は意思の強い眼差しを俺に向けた。
「ま、ホントかどうかはまだ分からないけどね。案外、誤診になるんじゃないかな。ほら、動けるし。まだALSだと正式決定した訳じゃないし。検査はまだまだ続くし」
 瑞奈がぶんぶんと右腕をその場で回した時、背後から「あがってもらいなさい」と女性の声が聞こえた。瑞奈に目元がそっくりなミディアムヘアの中年女性。
「お母さん」瑞奈が手のひらを向けた。
「晴翔君。遠いところをありがとうね。娘から晴翔君の名前は伺っております。さ、どうぞ」
 
 お茶を運んできてくれた瑞奈のお母さんは気を遣ってくれたのか、リビングで五分ほどの談話の後、席を外してくれた。
 L字型のソファの先端同士に座っている俺と瑞奈は、暫くの間会話を交わさなかった。瑞奈は、ばつが悪そうに俯いている。こちらから水を向けないと、核心については何も喋ってはくれなさそうだ。
「瑞奈」
 ぴくりと反応を示した瑞奈が顔をゆっくりとあげ、俺と目を合わせる。
「もう会わない方がいいんだよ」
 瑞奈の口調は、吐き捨てるとまでは言わないが、投げやりだった。「もしも病気が本当だったら、晴翔くんにはすっごく迷惑をかけるし」
 瑞奈が疑われている病気――ALS、筋委縮性側索硬化症。昨夜、咲良から告げられたその病気について、俺は狂ったように検索し、調べた。そのせいか瞼が腫れぼったく感じる。
 ALSとは、身体を動かす神経『運動ニューロン』が阻害され、体内の筋肉が衰えていく疾患だ。疾患が進行すると全身の骨格筋が痩せ衰え、歩行、会話、食事が困難になる。患者の多くは、最期、呼吸筋が衰え呼吸不全で死亡する。
 気管を切開し人工呼吸器を装着する延命措置をしない限り、発症からおおよそ三年以内で亡くなる患者が多数との記述もあった。
 あまりにも、俺が知っている瑞奈の状態とはかけ離れているので、まだこの時点で俺にはピンとくるものがなかった。それでも、苦しむ瑞奈を見捨てる気持ちには絶対になれない。そばにいたい。検索で表示された症状が瑞奈に現れても、俺は彼女と一緒にいたい。
「迷惑とか、そういうの考えんなよ」
 俺の声は、俺自身が驚くほどに大きく、重々しく響いた。
「俺……おまえの彼氏だろ? そりゃ、家族じゃないから、世間的には簡単に切れる関係なのかもしれないけど。でも、でも……俺は、そういうことを望んでいない。病気で迷惑かけるから別れた方がいいなんて理屈は、俺の中で成り立たない」
 瑞奈の頬が蠕動した。瞼が痙攣したようにぱちぱちと開閉が繰り返される。雫が頬を伝い落ちる。電灯が温もりのある光を涙に纏わせていた。それが瑞奈の顎先からぽとりと落ちる。落ちる度に、室内の温度が上昇していく気がした。
 瑞奈はそれでも俺から視線を逸らさなかった。泣いているくせに、鋭く挑みかかるような目で俺を見、ぐいっと腕で目元を拭うや、くしゃっと顔を綻ばせた。まだ涙は止まっていない。彼女の顔が俺の視界の中でふいに大きくなる。瑞奈が腰を浮かせ、俺に抱きつき、
 キス。
 時計が優しく時を刻んでいる。

「お願い」
 瑞奈は俺の胸に口を押しつけていた。
「あたしの病気のことは、みんなには黙ってて」
 俺が口を挟むよりも早く瑞奈が思いのたけを語った。
「やだもん。あたしが走れなくなるのをみんなに知られちゃうのは。あたし、みんなの前では、サッカーが超、超、上手な瑞奈ちゃんでありたいの」
 本当は晴翔くんの前でもそうありたかったんだけど、漏らした瑞奈が俺の胸元で顔をあげた。
 突き抜けるような笑顔で、瑞奈は俺を見上げていた。俺の泣き顔を否定するほどに。泣いている俺を叱咤するように。病気という理不尽さをつきつけられた現実を打ち壊すように。瑞奈は、俺に向けて、俺の背後の窓枠から見える果てのない大空へ向けて、彼女自身に向けて、にいっと、憎たらしいほどに邪気のない笑顔を届けていた。



 その夜。帰宅した瑞奈のお父さんに挨拶をし、夕食をご馳走になった。お父さんは年齢の割には若々しい風貌で、真ん中で分けた髪には白髪が混ざっているものの清潔感があった。俺に『会いに来てくれませんか? 瑞奈に』と促してくれた咲良も、何てこともない顔をしながら家に帰ってきた。
「咲良、何で晴翔くんに言っちゃったんだよお」
 瑞奈が開口一番、不服そうな声を漏らすも、咲良は冷静だった。
「この方が良かったと思うから」
 くいっと眼鏡を中指であげる。
「それじゃ、勉強するから」
 後腐れのない雰囲気を醸しだした咲良が二階の自室へと階段を昇っていく。高校三年の咲良は受験を控えている。あの日は、予備校の夏期講習を休んではるばる上京したそうだ。
「俺は妹さんに感謝してるよ」
 ふーんだ、と瑞奈が箸を口と鼻の間に挟む。瑞奈のお母さんが、これ瑞奈、と叱ると、瑞奈はもっとぶーたれた表情で、ふふーんだ、と口をさらに突き出した。でも、瑞奈の目は嬉しそうに眉を下げている。

「本当にいいのよ、晴翔君。泊まっていって」
 瑞奈のお父さんもうんうんと頷いてくれたが、俺は「行きの新幹線の中でホテルを予約しちゃいまして」と瑞奈のご両親の申し出を辞退した。
 実際のところ、本当に長野駅近くのホテルを二泊分予約してある。今回のために貯金を削る覚悟もできているので、数泊分の宿泊代は何とかなりそうだ。もし、予算的に厳しくなった場合は、ご両親のご厚意に甘えようと思っている。
「また明日伺います」
 本当にどうもありがとうございます、と瑞奈のご両親が頭を下げてくるので、俺も慌てて「いえいえ」などと言いながらお辞儀をする。
「なーにやってんだか」
 瑞奈が俺の手を取り、「送るぞ」と俺を引っ張った。流石に、ご両親の目の前で手を繋ぐのは憚られる。咄嗟に手を引こうとしたが、彼女は俺の手を離さなかった。
 なし崩しのように俺ははにかみながらご両親にお礼を述べつつ、瑞奈に手を引かれて玄関を後にした。くすっと、ご両親が笑みを浮かべてくれたのがせめてもの救いだった。
 角を曲がり、ご両親の視線から逸れたところで、瑞奈が大胆に腕を絡めてきた。瑞奈のしなやかな腕の柔らかさと匂いを知覚するや、自覚せずに、ふー、と長い息が漏れた。
「ごめんね」
 瑞奈が俺の腕をぎゅっと絞るように抱き寄せる。
「怒ってる?」
「怒るどころか、気が気じゃなかった。マジ、神経きつかった」
「ホント、ごめん」
 その言葉を最後にしばらく俺と瑞奈は言葉を交わさなかった。無言で、二人寄り添ったままアスファルトの道路を歩いていく。路面に俺と瑞奈の長い影が伸びていた。歩くたびに、その影も一緒に移動してくる。路面を踏む足音と時折り聞こえてくる近所の生活音だけが、空気を振動させている気がした。だいぶ歩いたところで、瑞奈が「あのね」と言いだした。俺は足を止める。
「大学、辞めるよ」
「何だと?」
 俺の返答がおかしかったのか、きゃははと瑞奈が真面目な表情を崩した。『何だと?』だって、おかしー、と笑い声をあげ続ける瑞奈の両肩を俺は掴んだ。
「大学辞めるのはまだ早いだろう。せめて休学とか。そもそも病気かどうかがまだはっきりしてな――」
「退学するの」
 俺の言葉を遮る瑞奈の声は、笑い声から一転して固かった。俺と至近距離で目が合う。瑞奈は目をそむけない。真っすぐ俺を見ていた。
「動けないあたしを、みんなに知られたくないから」
 瑞奈の瞳が揺れた。一回揺れ、二回揺れ、三回目で止まる。
「ごめん」
 瑞奈の肩を掴む手の力を緩める。
「支える俺がショックを受けてて」
「当然だよ。もしも、立場が逆だったら、晴翔くんがALSかもしれないって診断下されたら、あたしショックで寝込んじゃうかもしれない。少なくとも、リフティングが八百回続くことはないよ」
「普通の心理状態でも、八百回はなかなか続かねえよ」
「そうなの?」
 瑞奈が、さっきまでとは打って変わった雰囲気を纏いながら、素で驚く。まるで今までの会話がなかったかのように。
 まったく、こいつは。
 自然と笑みが沸いてきた。こんなシリアスなシーンなのに、大好きだ、そう再認識する感情まで俺に抱かせてくる。だから言わずにはいられなかった。
「瑞奈、大好きだ」
「ばかもん、あたしもだ。へっへっへ」

 ホテルにチェックインすると、俺はあらためてALSについてスマホで調べ始めた。
 上肢下肢の麻痺による運動障害、喋りにくくなる言語障害、食べ物を飲み込めなくなる嚥下障害、呼吸障害など、どれもが行きの新幹線で一度は読んだ説明だったが、再度読むと、それらを説明する文章の一文字一文字が俺の心に重くのしかかってきた。知らぬうちに息を止めて黙読していたようで、呼吸まで苦しかった。
 本当にこれらの症状が瑞奈に現れるのだろうか?
 そもそもまだ診断が確定した訳じゃないのだから……読み進めるほどに不安になることを抑えられないが、検索を止めることもできなかった。
 瑞奈がこれらの症状を発症させた場合、果たして俺はそのことを真正面から受け止めることができるだろうか? そう心が俺に問いかけてくる。大丈夫。宣言しようとしているのに、本当にその宣言は果たされるのだろうか……?
 そんな折だった。俺が春奈さんのブログを見つけたのは。
『春奈のブログへようこそ とあるALS闘病者の戦いキックオフ』
 キックオフ、という単語に導かれるように、そのブログを閲覧するや、時間を忘れて読みふけっていた。
 春奈さんはどうやらサッカーを本格的にやっていた三十歳前後の女性のようだ。
 五年前にALSを発症し、現在は視線入力ができるパソコンを使ってブログを更新していた。
 女性のサッカー経験者という経歴がどうしても瑞奈とダブって見える。ブログに写真は貼られていないが、掲載文章を読む限り、春奈さんは既に手足を動かすことができない状態のようだ。
 瑞奈もいずれ……、すぐに頭を激しく振った。初期診断は誤診であって欲しい。でも、ブログに記載されている回顧録に、『よく躓くようになった』『呂律が回らなくなった』の言葉を見つけた。
 胸がぎりぎりと締め付けられる。最近の瑞奈は、何でもない平坦な道で転んだり躓いたりしていた。呂律も回っていない時があった……。
 視線がブログ中の連絡先メールアドレスで止まっていた。
 どれくらいの時間、そのメールアドレスを眺めているのか、瞬きさえも暫くできなかった。
 幾ばくかの時間が流れ、空調が効いた部屋の中であるにもかかわらず汗がこめかみを伝い落ちていくのを感じた時、俺はそのメールアドレスを宛先に、メール文をしたためていた。



「ちょっと予定が入っちゃったんだ」
 だから今日は瑞奈の家に行けない、もしくはちょっと遅くなってから行く、と電話口で伝えた時、瑞奈が微かに息を吸い込む音を拾った。普段の電話口では聴き取ることがない種類の音だった。
「ん。分かった」
 予定の詳細を瑞奈は訊いてこなかった。尋ねられた場合にそなえてそれなりのことを考えてはいたのだが、それは杞憂に終わった。あまりにも素っ気ないため、瑞奈らしくないと思ったが、これ以上話すとぼろが出てしまう気がしたので、早々に通話を終える選択をした。
 でも、これでよかったのだろうか。
 通話を終えたスマホを強く握り、ブラックアウトした画面を見つめていた。画面に俺の顔が映り込んでいた。いつもの俺の顔じゃない、そんな印象を覚えた。どこか不安に怯えた犬顔だった。
 今日はこれから春奈さんに会いに行く。
 昨夜、何度も書き直しながら春奈さん宛てに送ったメールに対して、春奈さんはすぐに連絡をくれた。どこの誰とも知れぬ相手からのメールに対し、律義に返信をもらえたことは、俺としては奇跡に近いことだ。
 それだからか、メールには、瑞奈のことを当初は軽く触れる程度に書いていたのだが、気付くと状況を詳細に語っていた。瑞奈に断りもなく第三者の春奈さんに、瑞奈のことを伝えてしまったことになる。俺は瑞奈に対してどこか後ろ暗いものを感じ、さっきの電話を早々に切った次第だった。
 春奈さんはメールでこう言ってくれた。
「よかったら私に会いに来ませんか? 病気のことが少しでも分かると思います」
 そのご厚意に甘え、俺は今から春奈さんのもとを訪れようとしている。まさに昨日の今日という早さの出来事だ。
 まだ会っていないが、俺のメール文だけで信頼を置いてくれたことに、春奈さんには感謝しなければならない。
 幸い、春奈さんは瑞奈の実家がある長野県の二つ隣りの県に在住しているため、電車を乗り継げば三時間ほどで行けそうだった。
 瑞奈、ごめん。
 俺はきっと、春奈さんに会ったら、瑞奈のことをたくさん喋ることになりそうだ。不安で、怖くて、誰かにすがりたい。瑞奈に何も言わずに、瑞奈のことを相談する、でもそうしないと俺は精神的にくじけそうだった。だから、ごめん、瑞奈。
 春奈さんの家に向かう途中、ずっとそういうことを思っていた。文庫本を開くと活字が紙面で踊り、スマホを操作すると『ALS』と検索し、余計に心が不安定になっていく。結局のところ、電車の席では文庫本やスマホを手にしたまま、瑞奈に対して謝罪を繰り返していた。そうすることでしか今の自分を平常に保つことができなかった。
 春奈さんの家の最寄り駅に着く頃には、昼を回っていた。大きな都市ではなかったため、駅周辺には行きなれたチェーンの飲食店がなく、値が張ったが地元の蕎麦屋で腹を満たした。
 春奈さんの家は、玄関口に段差は無くスロープになっていた。
 思えば、春奈さんが結婚している人なのか、親元に住んでいる人なのかも、知らなかった。春奈さんがALS患者で自身の胸の内をブログに綴っていること、サッカー経験があること、そして何よりもこれが決め手だったが、会いにきませんかと誘っていただいたこと、それだけの情報でこの家にたどり着いたことになる。
 春奈さんは歓迎してくれても、一緒に住んでいるご家族の方は、俺の訪問を厭わしく思うかもしれない。一抹の不安が頭の中を過ぎり、お土産を持つ手と、インターフォンを押す指とが、躊躇で震えた。
 こんなことはないことを祈るが、ブログ自体が嘘で、騙されていたら? この家は、春奈さんとは全然関係が無い家で、「誰それ?」と冷たい目を向けられることもありうる。
 駄目だ。もっと指が震えだしてきた。挙げた腕が下がりかけている。
 だけど、
 だけど……、不安の強さならば、騙される不安や、蔑視の目で見られる不安よりも、瑞奈の症状を受け止めきれるかの不安の方が勝っていた。
 俺は、インターフォンを押した。

「よくいらしてくれました。春奈の母です。ちらかっていますが、どうぞおあがりになって」
 お邪魔します、と口にしながら俺は履いてきたスニーカーを脱ぎそろえる。
 インターフォンを押しスピーカー越しに用件を告げた俺に対して、春奈さんの母と名乗る初老の女性は、拍子抜けするほどあっさりと玄関ドアを開き、俺を家の中に招じ入れてくれた。突然訪問した俺に非難の目を向けるどころか、笑みを浮かべてさえくれている。ハイライトのショートヘアーが似合う、優しい顔立ちの女性だった。頭まで下げられてしまう始末だったため、俺も慌てて深々と頭を垂れた。
「学生さんですか?」
 春奈さんのお母さんが、手を廊下の先へ向けながら尋ねてきた。
 俺は都内の某大学二年であることを手短に説明する。
 春奈さんのお母さんは、瑞奈のことには触れてこなかった。どこまで春奈さんのお母さんが知っているのかが分からないが、もし瑞奈の話をすることになるのならば、それでもいい。そう思わせるほどに、春奈さんのお母さんは人の好さを感じさせる柔らかい印象を持っていた。
 廊下の突き当り左側に引き戸があり、その戸を滑らせる際に、「春奈、お客さんですよ」と春奈さんのお母さんは少し大きめの声で言った。
 引き戸の内側の部屋からは返事が無い。
 一瞬、俺は、やっぱりまずかったのではと危惧の念を抱いたが、春奈さんはALS症状の進行で喋ることができないことを思い出す。瞼の裏に、瑞奈が声を出せない想像が浮かび、胸にちくりとした痛みを感じた。
 どうぞと促され、部屋の中に入るや、俺は息を飲んだ。
 目の前に、リクライニング式介護ベッドで半身を起こしているミディアムショートヘアの女性がいた。年齢は、ブログから推察されるとおり三十歳前後だろう。
 その女性が俺を見つめていた。強い意思が漲っている瞳だった。
 その瞳の中に吸い込まれていく錯覚を覚える。
 同時に、その女性の喉に繋がれているホースのようなものに目がいってしまった。接合している喉元は格子模様の空色スカーフで隠れているが、その状態は、俺にALSという病気の現実を突きつけてくるに充分だった。
 俺はひょっとするとALSという病気を甘く見ていたのかもしれない。
 すぐにメール回答をいただけたことや、メール文が健常者と同じように漢字混じりで表記されていたこと、それらが春奈さんを手足が少し不自由な方、もしくは外見上はあまり障害を持たれていないように見える方、と俺に思い込ませていた。
 春奈さんの喉元には人工呼吸器と思われる物から延びる管が繋がっていた。
 ALSを検索した際に、あらかじめ画像として確認していたにもかかわらず、今こうして目の当たりにし、管が瑞奈の喉に繋がっている絵を思い描くや、俺は頭の中が真っ白になった。
『初めまして。春奈です。ひょっとして驚かせてしまったかな?』
 春奈さんのベッド脇に置かれたパソコンモニターに、そう表示された。春奈さんのお母さんが、モニター画面の方へと俺を促してくれるも、すぐにはそのモニター画面を見ることができなかった。頭の中では、瑞奈、瑞奈……と瑞奈の名前を連呼していた。
 俺の葛藤を、春奈さんも、春奈さんのお母さんも察知してくれたようだった。特段急がせることなく、俺が自分の意思でモニター画面に目を向けるのを待ってくれていた。
 ゆっくりと視線をモニター画面に向ける。俺は文面を見て、反応に困ってしまった。正直に言うと、驚いたからだ。でも、そのことを告げることは、春奈さんを傷つけはしないだろうか。
 だが、春奈さんは気遣いのよい方だった。モニター画面で新しく言葉が紡がれていく。
『ごめんなさい。答えづらいよね』
 さらには、
『瑞奈さんのこと心配ですよね』
 と表示された時、俺はビクりと肩を震わせた。図星だった。
「心配……です、とても」本来は、急な訪問をしたことを真っ先に詫びるべきなのに、俺の口は自分の抱える心情を吐露していた。慌てて、「ありがとうございます。突然の訪問にもかかわらずお気遣いをいただいて」と付け足した。
『構いませんよ。私でお役に立てれば。瑞奈さんは、今はサッカーをお休みされているのですか?』
 春奈さんにはメール文で、瑞奈がサッカーをしていることをあらかじめ伝えていた。
「はい。大会の真っ最中なのですが、休んで病院へ通っているところです」
 春奈さんは顔を、パソコンの視線入力装置の方へと向けているため、モニター画面上で会話をしている時は、春奈さんと俺は横並びになる。春奈さんのベッド脇に一脚の椅子が置かれており、俺はその椅子に座らせてもらっていた。会話のところどころで俺は春奈さんの方を見るのだけれども、春奈さんはALS症状で首を回して俺の方を向くことができない。
 途中で、春奈さんのお母さんが淹れてくれたお茶をいただきながら会話を続けていたのだが、春奈さんが『私の顔を見てくれませんか?』とモニター画面に表示させた。
 俺は、椅子から腰を浮かし、回り込むような中腰の姿勢で春奈さんを見た。
 春奈さんの真剣な眼差しが俺の目を包んできた。暫くそのままでいてから、す、と視線が外される、視線入力装置の方へと。俺は、モニター画面の方へと振り返る。
『瑞奈さんとお話をさせていただけませんか』
 この時の俺の動揺は、春奈さんに伝わってしまっただろうか?



「遅くなってごめん」
 俺が瑞奈の実家を訪ねることができたのは、午後七時を回った頃だった。夕食をご馳走になり、今は瑞奈の部屋にいる。
「別に。やることいっぱいあったから平気だよ」
 瑞奈は手芸でもしていたのか、針と糸を片付け、ちらりと俺を見て、すぐに部屋の隅にある本棚の方へとその視線をはずした。
 文庫本がぎゅうぎゅうに押し込まれている。ほとんどがミステリー小説だった。本棚の脇には、身長大ほどの縦長の箱が置かれている。箱の上部の蓋がずれるように浮いており、慌てて何かを箱の中にしまったように思えた。こういうところが、どこか瑞奈らしいところでもあった。
 瑞奈の指先には絆創膏が貼られていた。
「指」俺が口にしかけるや、瑞奈は細かい説明は嫌なの、とでも言いたげに「ちょっと針を刺しちゃっただけ」と早口で会話を閉じた。
 春奈さんの家を辞去したのが午後二時過ぎだった。午後六時には、長野駅に着いていたのに、俺はすぐに瑞奈の家に行くことができなかった。瑞奈に会う決心がつかなかったからだ。
 怖かった。
 瑞奈の喉に管がついた姿を想像しては、頭を振り続けた。おかげで首が少し痛い。それなのに、想像が止むことはなく、むしろその想像がエスカレートし、俺の心を蝕んできた。
 足が瑞奈の家の方へと向かわなかった。駅を出て、反対方向へと目的もなく進んだ。
 一歩一歩踏みしめるごとに疲労からくるものとは違う重さを感じた。陽が傾いた空がどうしてか俺には眩しかった。弱い光のくせに、俺を強く照らしてきた。まるで俺が頭の中で描いてしまった絵をはっきり縁取るように。現実というものをくっきりと浮きあがらせようとするように。
 だから、瑞奈の実家に着いた時には、困憊していた。ただ歩いていただけなのに。大泣きした後のようなぐったりとした澱が俺の身体の中に沈殿していた。
「あのさ……」
 春奈さんのことは、まだ瑞奈には喋っていない。話していいものか判断に迷っていた。
 勝手に瑞奈のことに触れて、春奈さんに会いに行ったことは、俺にとっても、瑞奈にとっても果たして良策だったのだろうか。しかも、春奈さんは俺に伝えてきた。『瑞奈さんとお話をさせていただけませんか』と。そのことを瑞奈にどう切り出そうか。
 瑞奈がつんとすました顔を俺に向けた。
「何?」
 影が、蛍光灯ペンダントの紐の影が、瑞奈の顔から胸元にかけてかかった。
 長細い影。
 何故かそれが太い管のように思えた。喉から延びる管――シューシューと聞こえる人工呼吸器の音が耳のすぐ近くで震えるように鳴った気がした。俺は思わず目を瞑る。
「ん? 何か、今日の晴翔くんは変だぞ」瑞奈は手を腰にあてる。「何か隠している時の晴翔くん、かな?」
 俺は自分の目を見開かないでいられただろうか。瑞奈の勘の良さに内心で脱帽する。今、声を出すと裏返りそうだった。でも、何かを言わないと……。
 ドア脇の床に置いた俺のバックパックの中でスマホが震えた。長い振動の後、短い振動を二度繰り返す。
「メールじゃない? もしくはLINE。出たら」
 瑞奈が言うも、その目はバックパックではなく俺の方を見ていた。腰に両手を添えたまま。何かを見定めるような姿勢だ。
 連絡してきたのは朔太郎だろうか? でも、誰にも瑞奈の実家へ行くことを伝えていないため、心当たりがない。
「いいよ。後で確認する」
 呼吸が苦しい。部屋が狭まった錯覚に陥っていた。
「ふーん」
 瑞奈が腰から手を離し、顎の方へともってくる。
「今、確認しなよ。朔太郎君じゃない」
 瑞奈も同じことを考えたようだった。誰も心当たりがないのならば、朔太郎――。
 不思議と朔太郎にはそういうところがあった。俺と瑞奈が喧嘩した時にも、そのことを話した訳じゃないのに、タイミングよく朔太郎が電話をかけてきたり、LINEのメッセージをくれたりする。
 ふっと体中に張り詰めていた強ばりが緩まった気がした。
 俺はバックパックの中からスマホを取り出した。画面を明るくする。プッシュ通知でメールの送信者と件名が表示された。
【倉持春奈】【件名:今日は来てくれてありがとう】
 春奈さんだった。ドキりと心臓がはねた。春奈さん――。
 再び、喉に管がついた瑞奈を瞬時に脳裏に描く。鼓動が乱れた。俺は頭を振る。その仕草が、瑞奈に不信感を抱かせたようだった。
「どうしたの? 凄く変? 誰から?」
「いや、その……」
 言ったそばから、まずい応答をしたと思った。
「何それ、超変。誰? 誰にゃの?」
 瑞奈の声が高く大きくなった。
「さ……朔太郎だよ」
「嘘っ。絶対違う。だって目が泳いでるもん。右眉が上がってる。にゃに隠してるにょ!」
 瑞奈の手が伸びてきた。俺のスマホをむずりと掴む。
「あ、バカ、おまえ」
 瑞奈がスマホ画面に視線を走らせる。途端に鬼の形相になった。
「誰にゃの、倉持春にゃって! 今日は来てくれてありがとう、って書いてる。誰に会ったにょ? 誰にゃの!」
 金切り声だった。
「違う。おまえが考えているような相手じゃない」
「あたしが考えているようにゃ相手って、つまりはどういう相手にゃにょっ!」
 その時だった、ストン、と瑞奈の膝が折れた。スマホが床に落ちる音が響く。視界の端から瑞奈が消えるように崩れ落ちていく。
「瑞奈!」
 前のめりに倒れる前に、瑞奈の身体を支えた。瑞奈の手はだらりと伸びている。倒れる際に、普通ならば顔をかばうために動く手が、動いていなかった。声も聞こえてこない。俺の腕に抱かれたまま、苛立ちを隠し切れないように、激しく呼吸している。
 瑞奈の顔を窺がう。
 瑞奈は、口を半開きにしたまま、涎が顎を伝っていた。口を閉じることも、涎を拭うこともせずに、ただ、目だけを俺に向けていた。その目が驚きを示していること、腹立ちを示していること、そして諦めかけている心情を示していること、を俺は感じ取った。
 動けないのは瑞奈だけではなかった。
 瑞奈を抱いたまま、俺も凍りつくように固まっていた。
 現実が、ALSの壁が俺に迫り来る、そんな圧を感じた。
 絶望――、不吉な言葉が脳裏を過ぎる。瑞奈は力を入れることができないのか、その身体はぐにゃりと柔らかい。瑞奈の体重のすべてが俺に預けられている。でもその重さは、瑞奈の体重以上のものを、深刻さを物語っていた。
「ああああああっ」
 正気でいることなどできなかった。

「また近いうちに来てちょうだいね」
 そう言った瑞奈のお母さんが、玄関で俺に紙袋を渡してくれた。
「これは?」
「お味噌。あとはお野菜。瑞奈から晴翔君はお料理できるって聞いていたから。お味噌汁でもつくってね」
 長野県の特産品です、と咲良が付け足し、眼鏡を中指で押し上げた。
「また来てくれ」
 瑞奈のお父さんが笑みを刻んだ。ニイッと口角をあげると、その顔が醸しだす雰囲気は瑞奈にそっくりだった。途端に胸の奥でわだかまる不安がせり上がりそうになる。
 瑞奈は今、彼女の部屋で寝かされている。
 最近の瑞奈は疲れやすいのか、昼寝をしないと夕食前にソファで寝落ちしてしまうことが多いらしい。今日の彼女は昼寝をせずに、俺からの連絡を待っていたそうだ。
「晴翔さんをちょっと見送るから」
 咲良が両親の方を向きながら靴を履きだしたので、俺はこみあげてくる気がかりな感情を押し戻しながら、「いや、もう暗いし。大丈夫だよ」と咲良の行動を止めようとした。
 だが、咲良は引き下がらなかった。「そこまでですから」既に靴を履き終え、玄関ドアノブに手をかけている。
 俺は振り返り、瑞奈のご両親に向けて深々とお辞儀をした。「夕飯ご馳走様でした。また来ます」
「お粗末様でした。またね」「気をつけてな。また近いうちに来てくれ」
 ご両親の表情が寂し気に思えたのは、俺がご両親に気に入られたと、自分自身を買いかぶりすぎているからだろうか。

「姉は少し不安定になっているようです」
 玄関を出て少し歩いたところで、咲良が話しかけてきた。きっと口を開くタイミングを窺がっていたのだと思う。固い口調が、ますます固くなっていた。
「俺も、そう思うよ」
 素直に首肯すると、咲良も隣りで頷く素振りを見せた。それでも、まだ何か話し足りない空気が咲良からはひしひしと伝わってくる。俺は続きを促すように顔を咲良に向けた。咲良は歯噛みしていた。
「医学部に入って医者になり、姉の治療にあたります。姉を、治します」
 咲良は前方に視線を投じながら、ゆっくりと言葉にした。まだ言い足りなさそうだ。
「私が医者になるまで」咲良が俺の方へと顔を向けた。外灯の下で目が合う。サッカー中の瑞奈を彷彿させる強い意志を漲らせた黒目だった。「姉を支えてやってください」
 気圧される気迫がそこにはあった。
 俺は何も言い返せなかった。
 いや、言葉が見つからないはこの場合適切な表現ではないのかもしれない。俺は、咲良に教えてもらった気がした。
 運命に立ち向かえ、と。瑞奈がALSを発症したという現実に正対しろ、と。
 今の俺にはできていないことだ。
 反対に、高校三年の咲良にはできていることだ。それを痛感して、言葉を発することができなかった。
 暫くして咲良が肩の力を緩めた。同時に歩みも止まる。俺は咲良を振り返る。
「すみません。何か、とてつもなく失礼なことを言ってしまった気がします。傲慢でした。私が医者になるまで、とか。例え将来医者になることができたとしても、それまでも、それからも晴翔さんには姉を支えていただきたいです。これも傲慢に聞こえてしまうかもしれません。何て言えばいいんだろう……」
 咲良がしょげた表情をつくり俯いた。そこには、これまで咲良から感じていた力強さはなかった。そのことが、余計に俺を奮い立たせた。
 俺がショックを受けていてどうするんだ。
 俺が瑞奈を支えなくちゃいけない。咲良だけにその荷を負わせてはいけない。
 いや、咲良とご両親は既に覚悟を決めているのだろう。
 俺だけが、中途半端な心掛けでいたのだ。そんな心持ちで、ALSで闘病中の春奈さんに会いにいってしまったのだ。
 春奈さんに対しても、咲良に対しても、ご両親に対しても、そして瑞奈に対しても、俺は何と失礼な態度、心構えを見せてきたのだろう。
 俺は、俺は……瑞奈を、――支えるんだ。
「俺」
 まだ地面を見ていた。
「俺、」
 まだ視線は下を向いている。
「俺が、」
 身体の奥底から力が満ちてきた。もう地面を見ていない。夜の底を見つめていない。目でしっかりと咲良を捉え、脳裏には太陽の木漏れ日のように破顔した瑞奈の笑顔を浮かべていた。
「俺が瑞奈を支えるから、支え続けるから。だから大丈夫だ」
 外灯の下で咲良がゆっくりと顔をあげた。眼鏡がずれていた。それを中指で持ち上げる。まだ数回しか会っていないが、彼女がいつもの咲良に戻った気がした。
「ありがとうございます。私も姉を支えることができるよう、勉学に集中します」

 ある程度歩いたところで、俺は咲良に、家に戻るよう声をかけた。俺は、色々な意味でもう大丈夫だった。瑞奈を支えていく中途半端ではない決意が、充分に固まっていた。
 去り際に、意地悪かもしれないが、咲良に訊ねてみた。
「医学部難しいよ」
 咲良はほんの僅かだが、きょとんとした表情を見せ、すぐにいつもの真面目な表情に戻った。眼鏡を中指で持ち上げる。
「偏差値八十超えていますので」
 月明かりがほの温かかった。