愛して、『る』に情熱を


「逆サイ! 逆サイ!」「フリー!」「裏取られんなぁ!」
 翌日の練習は夕方からだった。明後日には四回戦の試合が組まれている。
 前回の試合でオフサイドをとれず危機を招いたことを教訓に、俺達は入念にディフェンスラインの上げ下げを練習していた。
 攻め手と守り手に別れて、ピッチでひたすら上下運動を繰り返す。守り手の中心で指揮をとるのはセンターバックの幸成だった。
 一方、攻め手は、ボランチの拓真さんがボール運びをコントロールする。直接ロングボールをフォワードの俺に蹴り込んでくることもあれば、瑞奈達サイド選手を経由して俺にパスを回してくることもある。
 この日も瑞奈はサイドでいきいきとプレーしていた。昨夜、歩けなくなったことが嘘のような快足ぶりを見せている。
「ちょっと、なんでそこでワンツーしないの! 足動かなくなるまで走ってよっ」
 おまけに、要求レベルが上がっていた。叱られたチームメイトが苦笑いをする。
「よおーし、小休止」
 拓真さんが合図をする。メンバーたちがピッチ外に出て、クーラーボックスのスポドリを飲み始めた。
「ああー、美味い」「つか、暑ぃ」「冷えたスポドリ最高」
 夕方になっても気温は下がらず、おまけに西の空にへばりついた夕陽が俺たちを焦がしていた。
「でさ、ちょっとテンポが遅いと思うの」
 瑞奈が、飲んだスポドリのキャップを閉め、周囲へ視線を配った。
「今回の練習の狙いはオフサイドをとる守り手が主体だけど、攻め手のパスのテンポをもっと速めてもいいんじゃない。実際、次の相手はパスサッカーで有名なとこだし。このままじゃ、相手の速いパスに振り回されそう。そうならないためにもテンポよいパス回しに慣れておかないと」
「組み立てでワンクッション入れるか」
 腕組みをした拓真さんが目を瞑る。脳の中で何かを探すように、閉じる瞼に力が込められていた。
「晴翔。前線で張るんじゃなくて、サイドがボール持ったら、いったん下がれ。そこでサイドがコーナーポスト前のスペースまでボールを運ぶ。サイドラインまで深く抉ったら、マイナスでボールを出し、晴翔が受ける。晴翔はそのボールを、後方から上がってきた奴にラストパスする」
「うはぁ、最高っ!」
 瑞奈が瞬時に反応した。
「そんなパス回しでゴール出来たら超嬉しくない? でも、果たしてディフェンスがオフサイドとれるかしら。パスで振り回されて足を滑らせないでね」
 瑞奈が挑発するように幸成を見る。
「最高っス」
 幸成の返答に、全員が爆笑の声をあげた。



「瑞奈、帰り、一人で平気か?」
 練習後、瑞奈の最寄り駅の、一つ手前の駅に電車が止まった際に俺は訊いてみた。
「何が? 痴漢に注意?」
「いや、そうじゃなくて」
 瑞奈の足もとを見る。
「おまえ今日も限界越えて走っただろ。また昨日みたいに足腰立たなくなるんじゃないのか」
「へーきだよ」
 瑞奈が呆気なく言い返す。少し口調が緩んでいた。
「今日はお酒飲んでにゃいし。今あたしは次の対戦相手のことで燃えてるの。次だけじゃない、優勝のために。このまま順当に勝ち上がっていけば、湖北大スパーズが決勝の相手でしょ」
「ああ」
 湖北大スパーズは昨年度の覇者だ。ボール支配率の高いサッカーで勝ち進んでいると聞く。
 その湖北大スパーズサッカーの中心にいるのが、川南澪という女子選手だった。
 瑞奈みたいに技術、走力、判断力が高い。しかも、男の中にまじってもあたり負けしない強靭な身体ももっている。
「前の試合で、川南ちゃんが偵察に来てた」
「そうだったのか」
 瑞奈と川南は、昔からのライバルらしい。きっとお互いの存在を認め合いながら切磋琢磨し、サッカー力を磨いてきたのだろう。
「絶対に負けられにゃいの」
 話すうちに瑞奈は気炎を揚げていた。
「そっか、でもな、時に休めよ。走りっぱじゃいつか故障する。蓄積された疲労は逃がさないとだめだ」
「疲労なんかにゃい」
 瑞奈の顔が綻んだ。語尾がまた「にゃい」と、ネコ語のように呂律が回らなかったことを恥ずかしがっていそうだ。
「だいじょーぶだって。そんな犬みたいに心配そうな顔しないでよ」
 くすくすと笑いながら瑞奈が俺の胸を小突いた。
「犬は心配そうな顔なのか?」
「晴翔くんが心配する時、あと不安そうな顔する時って、なんか犬顔になるんだよね。それと、嘘つくときは右眉が……あ、何でもない。へっへっへ」
 電車が駅に着き、反対側のドアが開く。瑞奈が、床におろしていたバックパックを「よ」と背負った。「じゃね」と歩き始めた途端、彼女の足がもつれた。
「おい」俺が駆け寄るよりも早く、瑞奈は「恥ずかしー」と言いながら立ち上がる。
 実際、車内の視線が瑞奈と俺に集まっていた。足を取られた彼女を目撃したのか、失笑している乗客もいる。
「瑞奈、マジで大丈夫か?」
 閉まりかけたドアからするっと出ていった瑞奈が、「へーき。りゃね」と言葉を残した直後、電車が動き始める。瑞奈がホームを歩きながら、俺に向けて笑顔で手を振った。俺はその様を、何故だか笑えずに見ていた。
 りゃね? ……じゃね、って言いたかったのか?
 何だろう。この胸騒ぎ。
 スマホをカバンから取り出し、瑞奈にLINEのメッセージを送った。
『何かあったら連絡くれ。すぐに行くから』
 俺の家の最寄り駅までは、この快速電車をあと三十分乗り続けないといけない。今までなんとも思わなかった三十分が、今夜は随分と長い距離に感じられた。続けてメッセージを送る。
『やっぱ引き返そうか?』
 次の停車駅までは約七分。俺は暫くスマホの画面を見続けていた。なかなか既読が付かない。瑞奈は極度の機械音痴だ。今どきの若者のくせに、スマホなどの情報端末を苦手としている。
 ようやく既読が付き、それからたっぷり時間をあけ『いい』さらには『帰ったら電話する』と絵文字の無い返事が来た時には、電車が次の停車駅で止まるために速度をだいぶ落としていた。この二つのメッセージを打つのに何分もかかるのが、瑞奈なのだ。
 俺はスマホを尻ポケットに捻じ込んだ。ドア窓から外を見ようとして、窓ガラスに映り込んだ自分の顔を見、苦笑した。
 犬の顔だった。



「無事か?」
「何それ?」
 スマホの送話口から瑞奈の笑い声が聞こえてきた。自宅の最寄り駅に着いた俺は歩きながら瑞奈に電話をしていた。
「無事だったらいいんだよ」
 少しだけ間があいた。気のせいともいえるほどの、ほんの短い間。
「無事だよ。今、家だし。つか、心配し過ぎ」
「ああ、」よかった、との言葉を俺は飲み込む。確かにどうしてここまで今夜の俺は瑞奈を心配するのだろうか。
「ただね……」
 ん? 俺は瑞奈の言葉に身構える。スマホを握る手に力が入った。「どうした? 何かあったのか?」
 送話口から聞こえてきたのは、あっけらかんとした瑞奈の笑い声だった。「晴翔くん、にゃんか娘のお父さんみたい」
「いや、笑ってないで言えよ。『ただね……』の先を。どうしたんだ?」
「おっとっとしちゃった」
「おっとっと?」意味が分からない。俺は繰り返す。「おっとっと?」
 瑞奈が電話の向こうで「ぶっ」と吹きだした。間髪を容れずに、きゃはははと朗笑する声が耳元で弾ける。
「何かね、自分でも笑っちゃうんだけど。また転びそうになってさ。おっとっとと前につんのめっちゃったんだよね。あたし、今日何度目だろう。自分でもホント笑っちゃう」
「躓いたのか? 道路の縁石とか? 坂道?」尋ねながら、瑞奈のアパート近くに坂道はあっただろうかと道順を思い浮かべる。
「普通の平坦な道で。アホみたいだよね、あたし」
「ちょっとサッカー控えた方がいいんじゃないのか? 疲労たまってるよ。マジで足動かなくなるまで走ってるし。オーバーワークだ」
「ええー、別に大丈夫だよ。練習量から言えば高校の頃の方がもっと多かったし。あれかな、お酒に弱くなったのかな? もう二十歳だし。へっへっへ」
「逆だろ。まだ二十歳で、これからもっとおまえはサッカーと酒に強くなるよ」
「何それ、褒めてるの? まあいいけどね。晴翔くんの分まであたしがお酒を飲むから、あたしはどんどんお酒に強くにゃるってことで」
 にゃる……「酔ってる?」
「へ? 流石に帰ってすぐだからまだ飲んでにゃいよ。ヒトを酔っぱらいみたいに」
 電話の向こうで瑞奈がふくれた気がしたので、俺はとりなすように言う。
「とりあえず、明日の練習は少し手を抜けよ。明後日の試合でコケられても困るからさ」
「むーり、無理無理よん、あたしは絶対に手を抜かない。あ、サッカーだから『足を抜かない』と言った方がいいのかな? ん? 余計に分かんないか。でも、とにかく、あたしは情熱をぶつけるから。練習でもパッション。試合でもパッション。情熱が足りないプレーはしたくないの」
 瑞奈らしい言葉だなと思った矢先のことだった。
 上空でばりばりと前触れもなく雷の音がした。
「え」瑞奈が固まる気配を電話越しに感じる。
「そっちでも聞こえたか? 雷。今日、降る予報じゃないよな」
「うん」
 瑞奈が言うそばから、どおおんと重く響き渡る落雷の音が鳴った。
「ひっ」
 瑞奈が息を吸い込んだ。同時にぽつりと俺の鼻先に滴が当たる。あっという間に激しい雨が俺を襲った。
「うわっ、降ってきた。瑞奈、ちょっと電話切る。後でな」
「うん。気をつけてきゃえってね」
 瑞奈の声と俺の耳との間に水が流れ込んできたみたいに雨に打たれる。急いでスマホをカバンにしまい、駆けだした。ばしゃばしゃと足もとで水が跳ねる。
 闇空が光の筋でひび割れた。直後、どん、とひと際大きい落雷音が轟く。音の余韻が残響音のように空気中に漂いだす。
 だが、雷の音は次第に俺の意識の中から消え去っていった。
 瑞奈が電話の最後で言った言葉が、脳内でリフレインしていたのだ。『きゃえってね』
 ……帰ってね、だよな。
 あいつ、自分で呂律が回っていないことに気付いてないのか?
 雨が勢いを増していく。考えごとをしながら走っているため、俺はいつもよりも走る速度が遅いことに気付けなかった。



「いい芝。やっぱ天然芝はいいね。弾力があるっていうか柔らかい」一足先にピッチ入りした瑞奈がスパイクで芝上をびょんぴょん跳ねている。「ああ最高。ピッチの匂いもいい」
 天然芝を保護するためにスパイク裏を消毒液に浸した俺も、芝のピッチを踏みしめるや瑞奈と一緒に跳び跳ねたくなった。
 普段は砂利や人工芝のピッチでサッカーをするため、天然芝のピッチに立つとテンションが上がる。ましてや今日は快晴だ。水をまかれた芝が太陽の光を受け、エメラルドが敷き詰められたように輝いていた。
「いい顔」
「え?」
「晴翔くん、今、凄くいい顔してたよ。生きてるーみたいな。まあ、きっとあたしも同じなんだろうけど」
「犬顔か?」
「違うよ。んー」瑞奈が考える仕草を見せた。「ズルい顔」
「何だそれ」
「気分がいい時の晴翔くんの顔って――」
 君たち駄目だよ、試合以外でピッチに入っちゃ、芝でのアップは禁止だよ、と厳めしい表情を浮かべたサッカー場の係員が俺たちに注意を促した。瑞奈はぺろりと舌をだす。「ごめんなさーい」今度は俺に向き合い、さらりと言った。「ズルいほどカッコいい顔になるんだよね」



「ああ、女が女に惚れそうよ」
 四回戦の試合後、『ファンタジスタ』で、マスターの薫さんが、コップから升に大吟醸を盛大に零しながら、うっとりと言った。
 瑞奈は既に升とコップに手が伸びている。舌を口からちろりと出していた。
「おまたせ」
 瑞奈がコップではなく升から直接ぐびりと飲んだ。
「うはあー、美味しいよコレ」
 瑞奈は腕で口もとを拭う。拭ったそばから再び升に顔ごと口をつけていた。
「瑞奈ちゃんの二得点も凄いけど、何よりも朔太郎君を殴ったのが痺れる話ね」
「殴られたんじゃなくて、引っ叩かれたんですよ。情熱が足りないって」
 朔太郎がもじもじと言い返した。
「まあ、同じもんよ」
 マスターはさらっと受け流し、「やっぱり肝心な時は女の出番よね」と瑞奈の升に再び大吟醸を注ぐ。瑞奈が「うわおっ」と歓喜した。
「ゆっくりやってちょうだい。勝利の宴を」
 大吟醸をテーブルに置いたマスターが瑞奈にウインクをする。アイシャドウの青色が蛍光灯の明かりを受け、少しだけ淫靡な輝きを放った。
「全部あげるわ、御褒美」
「キャー!」
 興奮した瑞奈が、かたじけにゃい、とカウンターへ戻って行くマスターに舌足らずな口調で最敬礼した。拓真さんが立ち上がった。
「よし、まあ、なんだ。改めてみんなで乾杯するぞ」
 既に泣く兆候が見られる拓真さんが中ジョッキを掲げる。
「次は準々決勝だ。ちょっと期間あくけど、次も勝負だ! 優勝して、絶対に天皇杯に出場しよう」
 すかさず幸成が「乾杯!」とジョッキを高々と持ち上げた。
「「「乾杯っ!」」」
 テーブルのあちこちで疲労を感じさせない声があがる。中ジョッキの瓶どうしがぶつかる硬音がはじける。瑞奈が升を手に立ち上がった。既に目の下が赤く染まっている。
「汗臭いみんにゃ、情熱飲みだからね。サッカーも情熱! 情熱出して天皇杯! お酒も情熱! 忘れんにゃよー」
 チームメイトを煽ろうと升の中の酒を飲み干そうとした時だった。
 がくり、と瑞奈の膝が折れ、悲鳴をあげる間もなく瑞奈がくずおれた。
 床に膝をついた瑞奈は、自分の身に何が起きたのかが分からずに目と口をぽっかりと開けていた。穿いているジーンズは大吟醸まみれだ。一瞬の静寂が店内を満たした。 
 瑞奈を介抱するため、俺は瑞奈の方へと歩く。
「瑞奈、もう酔ってるー!」
 幸成が瑞奈を指さし、手を叩いてはしゃぎ始めた。幸成の笑い声が伝染するように、チームメイトも次々と手を叩きながら笑いだす。
「瑞奈、役者だな!」「みんなコケんなよ」「笑いに身体張ってるよ。マジ凄え」
 やがて、瑞奈もその声に応えるように、しゃがんだままくつくつと笑い始めた。
「コケろ、コケろぉ! 笑いにも情熱だあ!」
 瑞奈が升に残っていた大吟醸を喉に流し込むと、「晴翔との愛も、情熱だあ!」と誰かが囃したてた。
「ぶっ」
 瑞奈が、俺に向けて口にふくんだ酒を吹き出した。
 大爆笑に俺達は包まれる。
 
「おろせー。あたしは大丈夫だ! 酔ってにゃい」
「おまえ、前もまったく同じセリフを吐いてたぞ」
「吐いてにゃい」
 『ファンタジスタ』からの帰り道、瑞奈をおぶり、彼女のアパートへの道を歩いていた。前回とまったく同じだった。違うのはジーンズ姿の瑞奈の服装だけだ。瑞奈はおぶられた足をぴょこんと伸ばし、俺の首もとに鼻先を押しつけている。その足は大吟醸をかぶったため、酒臭かった。
「あー、重っ」
 俺は瑞奈をおぶり直す。
「なぬ!」
 瑞奈が背でゆさゆさと揺れ始めた。
「聞き捨てならぬ! 乙女に対する狼藉に等しい言動だ。おろせ、おろせぇっー」
「ばか、暴れるな」
「ばかとはにゃにごとだ。ばかとは」
「おまえよく人前で、ばかもの、とか言うだろ」
「ばかもにょ。そんにゃことは言ってにゃい」
 言うや瑞奈が無理矢理に足を地面につけた。俺の背から重さが消える。
「はれ?」
 気の抜けた言葉とともに、瑞奈の尻が地面に落ちた。
「だったら、立て。歩け。俺はもうおぶらん」
 俺は前を向いて歩き始める。
「だいたいおまえ飲みすぎだろう。日本酒を一瓶飲み干すなって。今日はおまえが二ゴール決めての勝利だったから気持ちよく酔えるだろうけど、介抱する俺の身にもな――」
 瑞奈がついて来ていなかった。「ん?」と振り返る。
 路面で尻もちをついたまま瑞奈が放心していた。
「おまえ、そんなとこで座り続けてると、完全に酔っ払いだぞ」
 瑞奈は言い返してこない。だらしなく口と目を開けたままだ。どこを見ているのかさえ分からない。
「瑞奈。瑞奈?」
 これは完全に酔い潰れやがったな。瑞奈の方へと歩みだすと、彼女がぽつりと呟いた。
「力が、入りゃにゃい……」
「そりゃそうだろ。酔ってるんだから」
「違うにょ。酔ってるかりゃじゃにゃくて、足が、足が……」
「そういうのを酔ってるって言うんだよ。おまけに呂律も回ってないし」
「違うにょ」
 瑞奈が必死な視線を俺に向けてきた。さっきまでの放心していた際の目つきとはまったく意味合いの違う眼差しを俺に投じている。
 夏なのに冷風が首もとを掠めていく。瑞奈は真剣な表情で、それこそ酔いが完全に醒めた顔で俺に訴えかけていた。
「足が動きゃないの。足……変」
「試合の疲労か?」声を落として訊いた。「今日も走ったし」
「違うにょ……そういう感じじゃにゃい。動かそうにも足が動いてくれにゃい。あたしの足じゃにゃいみたいに」
 地面にへたり込んだまま、瑞奈が必死の目で訴えてくる。
 俺も一緒にしゃがんだ。すると、瑞奈が上半身から俺に抱きついた。足に鉛が入っているみたいに、路面に足を投げ出したまま俺に抱きついている。どこか変な姿勢、変な動き、これって……ヤバいのか? 
「瑞奈、足見せろ。どこが動かせない?」
「全部。足の付け根かりゃ下、全部」
 瑞奈の足を触るも異変を感じられない。腫れてもいない。
「分からない。痛むか?」
「痛くにゃい」
「これは、ちょっと病院行くしかない気がする。捻挫したとか、筋違えたとかじゃないんだろ」
「うん……あ……れ……?」
 瑞奈の右足がゆっくりと動いた。
「動いた……」
 身体が動くことに瑞奈自身が驚いていた。
「立てるか?」
 瑞奈の手を握って助け起こす。手は汗でひどく湿っていた。
「あ、大丈夫そう」
 手に伝わる力が緩み、瑞奈がゆっくりと立ち上がった。そうして、二歩、三歩、とリハビリする怪我人のようにゆっくりと歩を進める。
「歩けた」
 瑞奈が嬉しそうに振り返った。
「何だったんだ?」
「んー、分からない。でも、力、入るよっ、ほら」
 瑞奈がボールを蹴る素振りをした。
「うん。大丈夫」
「明日から実家帰るんだろ? だったら、実家近くの病院へ行ってみろよ、一応」
「う……ん……」
 健康優良児の誰しもがそうであるように、瑞奈は病院へ行くことを躊躇った。
「痺れるんだろ?」
「痺れとはちょっと違うんだよね。なんか、足が自分の言うことを聞いてくれない感じ」
「準々決勝までは少し間があくから、ちょっと診てもらえよ。その方が、安心だろ」
「ん。そ……だね。そうしてみる……か。むむむむ」
 ようやく頷いた瑞奈が手を差し出してきた。その手を握る。瑞奈が俺の手に鼻をつけ、すーはーと深呼吸した。
「晴翔くんの匂いを身体の中に貯金しておかないと」
 瑞奈の吐く息が手にこそばゆかった。

 翌日は久しぶりに練習も試合もない日だった。
 実家に一時帰省する瑞奈からは、朝、めずらしく電話ではなくLINEメッセージが届いた。キッチンスペースでトースターに食パンを入れながらメッセージを読む。
『行ってくる。しばらく会えないけど泣くな』
 絵文字がないざっくばらんな文章を打つのにどれほどの時間を要したのか。瑞奈からメッセージを受け取ると失笑してしまう。キーボードや、文字入力画面を前に固まる瑞奈が容易に想像できるのだ。
 サッカーボールをあんなにも器用に蹴り、転がし、トラップできるのに、どうしてパソコンやスマホなどの情報端末や電化製品になると不器用になるのか。
 にやつきを抑えられずにスマホを見ていると、スマホが振動した。瑞奈の名前が表示されている。
「おはよ」
 送話口から瑞奈の声と一緒に駅の喧噪が聞こえてきた。
「ああ、おはよう。これから新幹線か?」
「うん。三日で帰ってくるから」
「もっとゆっくりしてこいよ。拓真さんには上手く言っておくから」
「ばかもの。練習休んだら下手になる」
「おまえはちょっとぐらい下手になった方がいい」
「またそうやってひとをおだてて。狙いは?」
「……ちゃんと病院へ行けよ」
 昨夜のことが気になっていた。思えば、あんなことは昨夜だけでなく、最近は度々あった気がする。
「ん」
「声、小さ」
「帰ったら、居残り練習付き合ってね。休んだ分を取り返す」
 まったく、こいつは。
「分かった」
 電話の向こうで発車メロディが鳴りだした。駅のアナウンスが、瑞奈の実家方面を告げていた。
「ごめん、これに乗るの」
「気をつけてな」
「うん。大好き」
「へ?」
 瑞奈が女らしい言葉を吐いたので俺は一瞬、言葉を失った。
「何よ。やっぱ言うんじゃなかった! ちくしょー、憶えてろ」
 負けた悪役みたいな捨て台詞を残し、瑞奈が電話を切る。ぷつりと断絶された回線音を耳にしながら、俺は笑い転げていた。食パンの焦げた匂いが気にならないほど。



「まだ瑞奈からは連絡がないのか?」
 練習場で顔をあわせるやいなや、拓真さんが訊いてきた。
「はい……まだ」
 答えながらスマホをチェックするも、瑞奈からの着信、LINEメッセージは無い。「やっぱり、無いです」自分でも声が落胆しているのが分かった。
「そうか」
 拓真さんの声も、どこか消沈していた。
 帰省した瑞奈と連絡がつかなくなってから一週間が経つ。
 帰省したその足で整形外科を受診し、検査のために地元の大学病院を紹介されたこと、検査の結果を聞くために帰省期間が一週間延びたこと、検査結果を翌朝に聞きに行くこと、それら三つのことについては、逐一、瑞奈から電話で聞かされていた。
 だが、検査結果を聞きにいった日以降、瑞奈と連絡がつかなくなった。
 連絡は来ないし、また、俺から連絡を入れても繋がらない。LINEメッセージには既読さえ付かない。
 瑞奈の実家が長野にあることは知っているが、細かい住所までは知らなかった。
 一昨日、新幹線に乗って長野駅まで行ったのだが、そこから先は雲の中を進んでいるみたいだった。検査を受検したであろう大学病院にも行ったが、入院している形跡も無く、結局、何の手がかりも見つけられないまま手ぶらで帰って来たのだ。興信所に頼むにはさすがに抵抗感を覚えるため、まだしていない。
「瑞奈ちゃん、心配だね」
 俺の心を代弁するように朔太郎が口にする。俺は黙って頷いた。
 幸成が少し言いづらそうに、口を開こうとしていた。俺が、構わない、と視線で幸成に合図を出すと、幸成は声を落として訊いてきた。
「おまえら別れ話でもした?」
 俺は首を振る。振りながら、電話で最後に交わした瑞奈の言葉を思い出す。大好き。
「じゃあなんで連絡ないんだよ」
 幸成が、理解できないとばかりにため息をつく。それがチームメイトに連鎖した。朔太郎は気付かれないように配慮したのかもしれないが、小さくため息をついたのが俺には分かった。拓真さんも「そうか」と言いながら、長く息を吐いた。
 瑞奈がいない。そのことは、俺だけでなく、チームの中にも重苦しい雰囲気をもたらしていた。
 瑞奈と連絡がつかないまま、準々決勝の日が目前に迫っている。明日だ。
「練習開始するぞ」「はい」
 拓真さんの言葉にチームメイトが応じる。瑞奈の声が聞こえないとどこか別のチームみたいだった。
 ふと、ピッチ上の砂利に小さな染みができる。できたそばからぽつぽつと水滴が地面やボール、俺たちを叩き始めた。顔をあげると、薄黒いもくもくした雲が視界一杯に垂れこめていた。

 身体を動かす練習は三十分ほどしかできなかった。
 雨程度ではサッカーのプレーを止めることはないのだが、雷鳴が轟き始めたため、俺たちはやむなくピッチから離れた。ピッチでプレーをする人に雷が落ちることがまれにあるからだ。
 そうして今、俺たちはピッチに併設されている管理棟の控室に避難している。雨風と雷はおさまるどころか強くなっていた。暴風雨が控室の窓を叩き揺らしている。
「やみそうもないな」
 窓辺に立つ幸成が嘆息した。やりきれないとばかりに、手に持つタオルで顔を拭く。「ベランダに洗濯物吊るしっぱなんだよ」
「今日雨降る予報じゃなかったよな」「俺も洗濯もの出しっぱだ」「うわっ、悲惨」などと周囲では声があがる。窓の外で煌めきのようなものが見えるや、管理棟ごと揺さぶるような落雷が近くであった。
「うへえ」「帰れるかな」
「みんな」
 拓真さんがパンパンと手を叩いた。
「雨は気になるが、聞いてくれ。明日のことだ」
 チームメイトの顔が自分の方を向いたのを待ってから、拓真さんはサッカー用のマグネットボードを手にする。
「まずは、明日のフォーメーションだ……」
 拓真さんがボードに丸くて小さなマグネットを貼りながら、各人のポジションと担う役割を説明していく。右サイドハーフでは、瑞奈の名前は挙げられず、他のチームメイトの名前が呼ばれた。
「拓真さん」
 幸成が、質問とばかりに手を挙げた。
「なんだ?」
「もし瑞奈が明日来たら、どうするんですか?」
 控室内が静まる。ごおおと強風が管理棟を吹き抜けていった。
「バックアッパーだ。先発はさせない」
 拓真さんが言い切るも、言葉の裏には戸惑いのようなものが潜んでいた。
 拓真さんも俺もチームメイトの誰しもが、瑞奈抜きで準々決勝を戦うことになるとは思ってもいなかった。瑞奈が音信不通になる日が続くにつれ、それが現実味を帯び、とうとう今日、拓真さんの口からその旨が告げられた。
 いや、ひょっとしたら、明日になったら会場に、瑞奈はひょっこり現れるのかもしれない。機械音痴が電話機の扱いにも波及してしまって、連絡がとれなかったなどと、常人では理解できぬ理由を並べながら。
 明日どころか今すぐ連絡が欲しい。俺がスマホを確認しようとした時、今日一番の大きな落雷が大地を砲撃した。眉間を滴が伝う。汗か、拭き切れていない雨粒か、分からなかった。



 スマホが振動し、瑞奈の名前を表示させると、俺は目を疑った。同時に不安が込み上がる。瑞奈ではない人、たとえば家族であったり警察であったり、はたまたスマホを拾った人が瑞奈に関する凶報を告げてくる……。
 俺はゆっくりと息を吸い込んでから、電話の応答をタップした。
「ごめんね、今まで連絡しなくて」
 のっけから謝罪の言葉だった。それでも安堵の感情がせり上がってきた。
「瑞奈……」
 それ以降の言葉を続けられずに長い息を吐く。
 ぺたんと力が抜けたように、俺は部屋のフローリングに腰を落ち着けた。力んでいた全身が一斉に緩んだ気がした。自然と顎があがった。窓枠の外は闇だ。帰宅してから夕食さえ摂っていない。今が何時かも分からない。ただ、だいぶ時間が過ぎていた。その間何をしていたのかさえ思い出せなかった。
「うん……」
 言葉数の少ない瑞奈の音声からは、彼女がどこにいるのかさえ推測できなかった。周囲に人はいないようで、彼女の声しか聞こえてこなかった。
「心配してたよ」
 瑞奈が、ごめんね、と繰り返した。とても沈んだ声だった。
 瑞奈の声を聞くにつれて、違う不安が呼び起こされていた。――別れを切りだされるのか? 実家付近で久しぶりに再会したクラスメイトと運命の恋に落ちる。映画っぽいが、ありえない話ではない。
「まだ帰ることができないの」
 瑞奈が苦し気に呟く。別れを告げられる不安に駆られた俺は、喉のすぐそこまで疑問詞が出かかる。どうして? だけど、口から出たのは全く違う言葉だった。
「声が聴きたかった」
 本音だ。
 帰ってこられない理由よりも何よりも、瑞奈の声が聴きたかった。ずっと、ずっと聴きたくて仕方がなかった。だから繰り返した。
「おまえの声が聴きたかった」
 瑞奈が息を吸った気配が送話口から伝わる。逆に俺は息を吐き続けていた。
 胸の奥におしこんでいた感情が溢れ、せき止めていた想いが決壊した。
 スマホを持つ手の感覚が失われていく。そのくせぎゅっとスマホを握っていた。俺と瑞奈とを繋ぐこのスマホを、絶対に離したくない。瑞奈を離したくない。
「晴翔くん」
 瑞奈が言い淀むように俺の名を口にした。スマホを持つ手を持ち替えたような雑音が入る。
 どうした? 
 そう言いたいのに、言えなかった。先を促すのが怖かった。瑞奈が吐露する内容を受け止めることができるのか怯えていた。
 瑞奈が一度閉じていた口を開くような、そんな気配が電話の向こうであった。
「もうサッカーやめちゃおうかな、って思ってるんだ」
「え……」
 予想外の言葉。返答が思いつかない。
「え……」
 また口にする。その先が続かなかった。
「ごめん、びっくりさせちゃうよね、こんなこと言ったら。それに、練習を無断欠席し続けてるし。明日の試合にも行こうとしていないし。ごめん。ごめ――」
 瑞奈の声が割れた。言葉が最後まで発声されずに、かわりにむせび泣く息がひっきりなしに届き始める。鼻を啜る音が聞こえてきた。その音が俺の耳を通って、心に突き刺さってきた。痛みを感じるほど、深く俺を抉った。
「瑞奈……瑞奈ぁっ!」
 俺は送話口で叫んだ。
 スマホが壊れるんじゃないか、聞いている瑞奈の鼓膜が破れるんじゃないか、そう思わせるほどに大きな声量で。
 それでも俺は声を張り上げ続ける。叫ばないと瑞奈が遠くに行ってしまう気がした。「瑞奈ぁっ! 瑞奈ぁっ!」
 何度も、馬鹿みたいに瑞奈の名前しか口にしない。声が掠れだした時、瑞奈が唐突に伝えてきた。泣きながら。咽びながら。俺以上に声高に泣きたてながら。咆哮しながら。慟哭しながら。
「もう会わない方がいいと思うの! さよな――」
 瑞奈の言葉を最後まで聴き取れずに電話が切れた。後に残ったのは、つーつーという瑞奈との繋がりを断たれた電子音だった。



 準々決勝が行われるピッチ脇で声をかけられた。
「瑞奈はどうしたの?」
 振り返ると、鮮やかな黄色のサッカーユニフォームを着たショートボブの女性が、大きな目で俺を睨み、立っていた。腕を組み、背中に紺色のバックパックを背負っている。俺より少し低いぐらいのこの女性は確か――
「川南澪さん、でしたっけ」
 俺は丁重に尋ねたつもりだが、川南には険があった。そう、とだけ応え、仁王立ちの姿勢を崩さない。相変わらず鋭い目つきで俺を見てくる。ハーフっぽい顔立ちで瞳の色に茶色が混ざっていた。
「今日は、欠席だけど」
「どうして?」
 目をさらに大きく広げ、間髪を容れずに川南が疑問を挟む。
 川南が所属する湖北大スパーズは、俺達が試合をする前の時間帯のカードで、既に勝利をおさめていた。昼を挟んでいるため、大方の選手は帰ってしまったらしく、ユニフォーム姿の選手は川南を含め数名しかいない。
「体調がよくなくてね」
 当たり障りのないことを言っても川南は追及の手を緩めなかった。
「風邪?」
 俺は寸刻黙る。瑞奈の名前を口にされるだけでも、正直キツい。多少は真実を述べなければ納得してもらえなさそうだ。
「いや、足を怪我した」
「重傷なの? 見学にさえ来ないなんて」
 口を閉ざす俺の態度に、川南は痺れをきらしたようだ。
「まあいいわ。あんた達、絶対に負けないでね。あんた達と戦うにはお互い決勝まで行かないといけない。わたしは瑞奈と戦いたいのよ。彼女に直接試合で勝って優勝したいの。だからこんな準々決勝で負けたら承知しないからね。瑞奈がいない分、全力で走りなさい」
 とんでもなく傲慢なセリフだ。不快感を覚えたが、言葉の端々では瑞奈へのリスペクトも感じられたので、俺は何も言い返さずに頷いた。
 川南が去ると、入れ替わるように朔太郎が心配そうな顔で歩いてきた。
「ごめん。声が聞こえてきちゃって……。なんか、凄い威圧感だったね」
「初めて話したけど、瑞奈をライバル視する度合いがハンパねえな」
「それだけ瑞奈ちゃんが上手いってことなんだね……」
 朔太郎の声が尻すぼむ。
 朔太郎や拓真さんらチームメイトには、瑞奈と連絡が取れたことを報告した。足の検査で暫く休むことを伝えたが、彼女がサッカーを辞めたいと言っていたこと、そして、俺とはもう会わない旨の言及があったことは、伝えていなかった。
 幸成は単純に「瑞奈抜きで勝ち進められるかな」と反応していたが、拓真さんは敢えてその場では何も訊いてこなかった。
 朔太郎も詳細を尋ねてこないが、俺と瑞奈との間で何かネガティヴな感情が交錯していることを感じとっているようだ。
 今はそっとしておいて欲しい。ともすると昨夜の瑞奈の言葉が脳裏に甦ってくる。
『もう会わない方がいいと思うの! さよな――』
 胸をキリキリと絞られ、痛みを覚えた。この場で瑞奈の名前をわめきそうなほど。どうしてだ? 昨夜聞けなかった『会わない方がいい』理由を知りたい。
 あれから胸が潰れる思いで何度も瑞奈に電話をしたが、電源を切られていた。LINEメッセージにも再び既読がつかなくなった。留守電を残しても、なしのつぶてだ。
 俺の表情が余程沈痛なものになっていたのか、朔太郎が、大丈夫? と訊いてくる。
 ここで『辛い』と言えればどんなに楽か。
 いや、言ってもいいんじゃないのか、朔太郎は親友だ。でも、でも……親友だからこそ、チームメイトだからこそ、準々決勝キックオフを直前にして余計な心配をさせたくなかった。
 そう、俺は、今は、――試合に集中しなければならない。
「大丈夫だ」
 朔太郎の顔を見ずに応えた。
 瑞奈だったらきっと「ばかもん。だいじょーぶ」と応えただろう、と思いながら。

 前半を終えた時点で両者ともに譲らず、ゼロ対ゼロで折り返した。
 準々決勝に駒を進めるだけあって、相手のディフェンスは堅かった。
 縦へのドリブル突破、パスで崩す、サイド攻撃、ロングパス、色々な攻撃を仕掛けてみたが、相手のディフェンスは統率がとれており、シュートに持ち込むことさえ難しかった。
 何よりも相手のミスが全くない。このレベルの壁を打ち砕くには強力な個の力が欲しかった。瑞奈が必要だった。
 十五分間のハーフタイムは短い。俺たちは、相手チームから点を取るための根本的な解決策を見いだす間もなく、後半のピッチに立っていた。
 瑞奈がいないと、チームが大海原で漂流しているみたいだ。拓真さんが何とか舵を取ろうとするのだが、依然として俺たちは彷徨い続けていると言えた。
 後半キックオフの笛が鳴る。
 相手ボールで始まるや、相手は早々に仕掛けてきた。
 前半、四人でディフェンスを形成していた相手チームは、後半はそれを三人にしていた。かわりに中盤を五人とし、前半よりも一人分厚みを増している。中盤でボールを支配し、前線にパスを供給するスタイルをとってきたのだ。同時に、ディフェンス時には、両サイドの中盤の選手がディフェンスラインまで下がるため、五人で守ることになる。まさに攻守隙の無い陣形だった。
 その分、両サイドの中盤の選手が攻守に上下運動を繰り返して走り回るため、とてつもない運動量が必要となる。それに耐えるだけのスタミナと、強靭な足が両サイドの選手には要求されるフォーメーションとも言えた。
 ボールが大きくクリアされた際、拓真さんが俺に耳打ちした。
「相手両サイドのスタミナが切れる残り二十分が、勝負の時だ。サイドを崩す。そのつもりでいろ」
 俺は、了解とサムアップをして応じる。
 拓真さんのゲームプランに従えば、俺たちは絶対に失点してはいけない。残り二十分で一点を取り、逃げ切る。だから、俺は高い位置でのプレスを心掛ける。相手の攻撃の芽を早々に摘むことに集中した。
 ことは後半の十分過ぎに起きた。
 俺からのプレスを受けた相手の中盤選手がボールを失いかけた。俺はそのボールを奪取しようと足を伸ばす。相手選手もマイボールにしようと必死に足を伸ばす。その際に俺の足が相手のつま先を少しだけ踏んでしまった。途端に相手選手が足を手で押さえ、痛そうにピッチ上でのたうち回った。
 え? そこまで強く踏んでいない。
 審判が笛を吹く。俺のファールだと言う。
「いや、ちょっと待ってください。彼は演技してますよ。軽く足が重なったぐらいです」
 審判に抗議した俺の背後で、ボールが蹴られる音がした。
 ボールを蹴ったのは、俺に足を踏まれたと主張していた選手だった。ボールを蹴るやすぐさま駆けだしている。
「な」
 俺が審判と話をしている際に、味方の集中が途切れてしまっていた。慌ててフォーメーションを整え、蹴られたボールをはね返そうと、サイドバックの朔太郎が走っていく。
 相手選手もまた走り込んでいた。朔太郎の行く手を阻むように身体をあて邪魔をしてくる。朔太郎も必死に抗い彼の前に入ろうとしたが、かわされた朔太郎が振り切られそうになる。味方のディフェンスが、ボールが転がっている方へとぐぐっと寄る。そのタイミングで、朔太郎を腕で抑えていた相手選手が、大きく逆サイドへとボールを蹴った。
「しまった」
 拓真さんの声が聞こえた。それはチーム全体の声でもあった。
 逆サイドには大きなフリースペースが出来ていた。そこへ、ボールを蹴られたのだ。相手フォワードがボールに追いつこうと怒涛の走りを見せている。
「逆サイッ」
 誰かが叫ぶ。
「止めろ!」
 もはや誰の声か分からなかった。相手チームが、攻撃の厚みを増しながら総攻撃を仕掛けてきた。中盤を含めて七人の選手が俺たちのペナルティエリア内に向けて進撃してきている。駆ける足音が恐怖に感じるほどだ。
「マーク!」
 七人もの相手選手を一度にマークすることは不可能だ。それでも俺たちは、センターバックの幸成を中心に、ゴール前でクロスボール対応のフォーメーションをとろうとした。
 ボールに追いついたフォワードがペナルティエリア内に向けボールを蹴ってくる――誰しもがそう思った。
 しかし、ボールを確保した相手選手はボールを蹴らずに、逆サイドからドリブルでカットインしてきた。クロスボール対応をするはずだった味方ディフェンダーが、その選手に身体を寄せざるを得なくなる。
「待て! 囮だ!」
 拓真さんが叫ぶも間に合わない。
 相手選手を止めるために引っ張り出された味方の背後のスペースががら空きになる。そこへ相手選手がスルーパスを出した。同時に二名の相手選手が反応していた。
「シュートブロック!」
 一人の相手選手がスルーパスに追いつき、シュート体勢に入る。幸成がシュートブロックのために、右足を投げ出す。が、相手選手はシュートを打たなかった。フェイント。ちょんと左方向にボールがはたかれる。幸成の身体は、はたかれたボールとは逆方向の右に跳んでいる。
 そこへ、もう一人の相手選手が詰めていた。拓真さんがファール覚悟で後ろからぶつかっていくも、相手選手は倒れない。走ってきた勢いを殺さずにボールをシュートする。
 横っ飛びでセーブを試みるゴールキーパーの俊介が長身の背を伸ばしボールを指先にあてるも、ボールは勢いを失わなかった。俊介の身体がピッチの芝に落ちるより早く、ボールはゴールネットを揺らしていた。

「落ち着こう。まだ一点だ。追いつくぞ」
 拓真さんがチームメイトに視線を走らせる。幸成も「慌てんな。まだ時間はあっからな」と手を叩いている。
 ゴールされたボールが、センターサークルの手前で俺に渡される。いつも手にしているボールが重く感じられた。それは失点の重さだった。ゲームプランが崩れた。絶対にゴールを許してはいけなかったのに――俺のファールが失点のきっかけになってしまった。
 唇を噛む。顔をあげられない。早くボールをセンターマークに置いてリスタートし点を取らないといけないのに、ボールどころか足まで重く感じられた。俺のプレーが失点を招いた……。気持ちを切り替えろ。頭では分かっているのに、難しかった。
 こんな時に瑞奈がいてくれれば。「だいじょーぶ。あたしが点取るから」と肩でも叩いてくれただろう。瑞奈がいれば、相手の堅いディフェンスを個の力で崩せるのに。瑞奈がいれば、瑞奈が……。
「――……! 晴翔っ!」
 名前を呼ばれていた。拓真さんだ。振り返るも、拓真さんの顔を直視できなかった。ピッチの芝に視線を落とす。
「まあ、なんだ。晴翔、まずは俺を見ろ」
 そう促されるも、なかなか顔をあげることができない。余計に顔を下に向けてしまう。
「いいか」
 拓真さんが語気を荒げた。
 歯を食いしばる。叱責を受ける覚悟はあった。平手打ちも構わない。ぎゅっと拳を握りしめる。
「はっきりさせておく。失点はおまえのせいではない」
 え?
 俺の顔が瞬時にあがった。拓真さんをまじまじと見る。拓真さんは俺と目が合うや、目尻を下げた。
「そんなにしょげるな。おまえは前線できちんとプレスをかけた。ファールになったのは相手が役者だっただけだ。問題はその後の対応にあった」
 拓真さんはゆっくりと噛みくだくように喋ってくれている。俺の目を見て、俺の心配をほぐすように、まっすぐ俺に向き合ってくれていた。
「ファール判定がくだされた際に気を抜いた。あの時は俺も含めて、チーム全体に集中が切れた雰囲気が漂った。本来ならばすぐにそれを察知して、キャプテンである俺が声がけするべきだった。だから、失点は俺のせいだ」
「いや、そんな」
「晴翔」
 いつの間にか朔太郎が拓真さんの隣りにいた。いや、朔太郎だけでなく幸成も俊介も、チームメイトが集まっていた。
「気にしなくていいよ。僕たち全員が集中力を切らしたことが失点に繋がった。むしろ晴翔には高い位置でプレスをかけてもらって、感謝しているんだから」
 朔太郎が俺の背に優しく手を置く。
 幸成が「何だ、晴翔。別に気にする必要ねえだろ」と豪快に笑った。それを機に、チームメイトが「よし取り返すぞ!」「集中だ」「逆転すんぞ、まだ時間はある」と気炎を吐き、お互いに決意を漲らせた目を交わし合う。
「晴翔、こんなとこで負けたら」
 拓真さんが立ち位置を変え、くい、と親指で背後を指し示す。
「あいつにぶっ殺されるぞ」
 拓真さんが指し示す先には、逆立った目をしている川南澪が立っていた。
「あいつが決勝で俺たちとやりたがっているのは知っている」拓真さんが苦笑いする。「負けられない戦いなんだよ。瑞奈のためにもな」
 その言葉でチームメイトの心に火がついたようだった。
「そうだ。瑞奈のためにも負けられねえよ」「負けたら瑞奈に怒られるじゃん」「瑞奈がいないから負けたとか言われたくねぇ」
 みんな、瑞奈は……、瑞奈は……。
「晴翔」
 拓真さんが落ち着いた声で俺の名前を呼ぶ。「今は、集中しろ。目の前のことに集中だ。勝つためにはおまえのゴールが必要なんだ。狙え。積極的にシュートしろ」力強く背を叩かれる。
 幸成がチームメイト全員に届くように、いや、ここにはいない瑞奈にも届くぐらいの声量で叫んだ。「俺たちは強い。こんなとこで負けられねえんだよ!」
 おうっ! 
 野太い声が真夏の空を揺さぶった。俺の中で何かが吹っ切れた気がした。
 みんな、ありがとう。俺はチームメイトをゆっくりと見回す。チームメイトもお互いの目を見て頷きあった。
 ぴ、と審判が短く笛を吹き、試合を再開することを告げた。もうボールは重くなかった。前を向く。ゴールまでの距離が近くなった、気がした。
 試合が再開されると、相手のディフェンスラインには五人が並んでいた。奪った一点を守り切るつもりなのだろう。両サイドの二名は一転して攻撃参加をせずに、こちらからのサイド攻撃を警戒している。
 逆に俺たちはディフェンスラインの人数を四人から三人に減らし、一人を一列前に配置した。必然的に、中盤からフォワードに至る選手のポジションが前がかりになる。守備よりも、点を取るための攻撃的な布陣だった。
 時間が経つにつれ、中盤において数的有利に立つ機会が増えてきた。味方がボールを保持できるようになり、フォワードの俺のところにもボールが渡るようになった。
 それでも相手の堅牢なディフェンスを崩すことは難しかった。攻めるこちらも必死ならば、守る相手も全力だ。後半二十分が過ぎる頃には、攻める俺たち、守る相手、という構図ができあがっていた。
「あせるな。丁寧にいくぞ。時間はまだある!」拓真さんが右サイドの選手にボールをはたいた。
 右サイドの選手からボールをもらえるスペースをピッチ上で探すも、相手チームの寄せが速い。あっという間にフリースペースが消されていた。
 くそっ。ずらりと並ぶ五人の相手ディフェンスの壁が厚い。足が止まりかける。味方の右サイドの選手もドリブルで持ち運ぶことを止め、一度、ボランチの拓真さんにボールを戻した。
 どうしたらいい? シュートできるスペースはどこにある? どのスペースを使えばいい? 
 ボールと相手の動きを見ながら必死に考える。そろそろ後半も三十分になる。残された時間は、十五分と数分のアディショナルタイムだ。
 もしも、もしも――瑞奈だったら、どうする……?
 そう思ったのは、必然的な成り行きだったのかもしれない。
 攻守が拮抗した時は、いつも瑞奈が打開してくれた。
 あいつが突破していた……その方法は……フェイントとドリブルだ。あいつのずば抜けた個人技があってこそできていたもの。
 駄目だ。
 途端に俺は後ろ向きになる。あいつがいたからこそできたのだ。瑞奈がいれば。瑞奈がいないと――。
 ボールがタッチラインを割った。俺たちボールのスローイン。近くにいた俺がボールを手にすると、拓真さんが近づいてきた。
 普段は、スローインはサイドの選手がボールを投げる。中央でポジションをとる拓真さんが投げることはないはずだった。
 拓真さんはボールを受け取ろうと手を伸ばしている。スローインを投げるために、俺からボールをもらおうとしていた味方が、戸惑う仕草を見せた。その間も、拓真さんはボールを寄こせと言わんばかりに手を伸ばしてくる。俺は、ボールを手渡すために拓真さんに近寄った。すると、拓真さんが耳打ちしてきた。
「晴翔、仕掛けろ。ドリブルで仕掛けるんだ」
「俺がですか?」
 俺は、クロスに合わせてゴールを決めるタイプのフォワードだ。ドリブル突破は瑞奈が得意としている分野で、とても俺にできるとは思えない。きっとボールを失ってしまう。
「瑞奈と練習を重ねたおまえなら、できるはずだ。思い出せ。瑞奈のフェイントを。相手のかわし方を。まあ、なんだ。失敗しても構わん。やってみろ」
 それだけ言うと、拓真さんはふいと俺に背を向け、ピッチの中央の方へと戻って行く。味方が、あれ? という表情をしながら再び俺の方へ手を伸ばした。
 拓真さんは、俺に、仕掛けるよう伝えたくて、スローインをするふりをしてそのことを言いに来たのだ。
「どうした? ボール」
 俺の手と足が止まっていた。
 味方が、俺が手にするボールに触れる。俺はその間も考えていた。いや、迷っていた。俺にできるだろうか? 瑞奈のようなフェイントやドリブルをすることができるだろうか? なあ、瑞奈、俺にできるのだろうか?
 その時、瑞奈の声が聞こえた気がした。
 きっと空耳だ。瑞奈はここにいないのだから。絶対に瑞奈の声のはずがない。でも、でも……俺には空耳で充分だった。瑞奈なら、絶対にこう言うはずだ。
 ――ばかもん。まかせろ。
「俺に向かって投げてくれ」
 ボールを手にした味方に、俺は頼んでいた。

 スローインのボールが俺に向かって投げられる。
 相手選手が俺のトラップを邪魔しようとぶつかってきた。身体がよろめく。まともなトラップができそうもなかった。
 もし瑞奈だったらどうするだろうか、と瞬時に考えをめぐらす。
 体格で男に勝てない瑞奈は、それを技術で補い相手を抜き去ってきた。彼女のトラップを再現するんだ。
 瑞奈ならばぶつかってきた相手に力で張り合おうとはしない。むしろ、ぶつかってきた相手の力を逆手にとるはず。そのイメージを脳内に浮かべると、身体が自然に動いた。
 右からぶつかってきた相手にどかされるように重心を左にずらす。身体を半身にすると、相手から受ける力がさーっと抜けていくのが分かった。
「うわ」
 相手の声を聞きながら、スローインで投げられたボールに対して俺は、背後から回り込むようにターンをする。相手の押す力をそのまま利用したので、素早いターンができた。視界の端で、俺にぶつかってきた相手が勢いのままピッチにすっ転んでいた。
 左足を伸ばした俺は、遠ざかりそうになっていたボールを回収するために、足の甲にあてる。
 ボールを足もとにおさめた俺は即座にドリブルを開始する。背中で観衆のどよめきを聞いた。一人目を抜き去っていた。
 視線をゴールの方へ向ける。俺に向けて二人の選手が迫っていた。正面からと、左斜めから。右にはタッチラインがあるため、左か後ろにしかパスとドリブルの選択肢がない。でもそれは、常人の考えだ。
 瑞奈だったらどうする?
 ……そうか。
 進路を斜め左前に向けた。通常ならばここで横パスを選択するが、瑞奈はそれを逆手に取るはず――。
 パスをするように足を浮かせた。左斜めから俺に向かってきた相手選手がパスカットをするために足を突き出す。相手選手の重心が左にずれた。
 今だ。瑞奈ならきっとこうする。
 パスを蹴らずに右足でボールを跨いだ。相手選手は俺の動きにつられて足を伸ばし切っている。跨ぎ終えた俺は右足の甲でボールをちょんと右にはたく。その瞬間、俺と相手選手とが完全に入れ替わった。二人目を抜き去る。
 すぐに難題にぶち当たった。正面から向かってくる相手が、俺の足ごとボールを刈るように、足もとへスライディングタックルをしてきていた。
 瑞奈ならば……得意技・ルーレットだろう。
 瑞奈が何度も見せていたルーレットを、俺は忠実になぞる。
 相手選手のスパイクが俺の足首を襲う寸前で、俺は右足を浮かせ、ボールを踏みつけながらターンをする。回転する方向へと足裏でボールを転がす。ルーレットのようにくるりと。
 回転を終えた身体を相手ゴールに向けると、俺にスライディングをしてきた相手は誰もいない芝の上を滑っていた。三人目を抜き去る。
 視線をゴールに向けた。相手選手を抜き去ったおかげで生じたスペースを、俺はドリブルで疾走する。
「カバーしろ!」
 裏返った声がした。相手チームが初めて見せた動揺もしくは混乱だ。
 相手チームのディフェンスラインが崩れる。その綻びを目がけて突進する。俺を止めようと、相手選手がボールではなく俺の進行方向に立ち塞がろうとする。ファールも辞さない、オブストラクション(進行方向に立ち塞がって邪魔をするファール)だ。このままではぶつかる。でも、瑞奈だったら――ダブルタッチ! 
 瑞奈の声が聞こえた気がした。
 右足でボールを内股に弾き、すぐに左足でボールを持ち替える。突然の進路変更に相手選手はついてこられない。
 だが、相手も必死だった。俺のユニフォームの袖を掴んだ。ふざけるな! 完全にファールだ。
 ここまでか……。これだけ相手を抜いてきたのに。ここでファールされて止められてしまうのか。
 ユニフォームをぐいっと引っぱられる。俺の走る速度が落ちる。
 ――あたしだったら、もうシュートしちゃうな。遠いけど。でも、遠いからこそゴールキーパーも油断しているし。
 引っ張られた姿勢のまま、右足を思い切り振り抜いた。



「結局四人抜きでゴール決めたのね。凄いじゃない晴翔君。まるで瑞奈ちゃんみたい」
 『ファンタジスタ』のオーナー・薫さんが、日本酒の瓶に手を伸ばしたところで「あ、今日は瑞奈ちゃんいないんだ」と手を引っ込めた。「あらぁ、じゃあ今日は寂しいわね」とも。
「マスター、今日は晴翔に注いでやってくださいよ。こいつが二点決めたから、俺たちは勝てたんですから」
 幸成が早くも顔を真っ赤に染めあげて何の意味があるのか拍手をしだす。
「別に俺が決めたから勝てた訳じゃないだろう。全員が必死で守って、気力を振り絞って攻撃したからだろ」
 俺は幸成の拍手を止めるために、手で抑えようとする。すると、めずらしく朔太郎が「まあまあ、そんな固いこと言わないで。今日の晴翔は、マン・オブ・ザ・マッチだよ」と、おちゃらけて俺の前にぐいのみを置いた。
「晴翔。まあ、なんだ。今日ぐらいは素直に喜べ。勝てたのはおまえの活躍があってだ」
 まだ酔いが回らず素面に近い拓真さんに言われると、俺は口を閉ざさざるを得ない。でも、心の中では、こう思っている。
 違う。俺じゃなくて、瑞奈がいたからだ。
 正確には、瑞奈が今まで身をもってプレーで示したものを、俺がなぞったからだ。たまたまそれが上手くいっただけに過ぎない。瑞奈のプレーを見ていなかったら、瑞奈がいなかったら、とてもじゃないができなかった活躍だ。
 幸成が、自身が被るヤンキースのキャップのつばを後ろ向きに被り直した。サッカーだけでなく野球も好きな幸成は、飲み会の時にはたいていこのキャップを被っている。キャップを後ろ被りする時は、存分に飲むサインだ。幸成が、試合を蒸し返すように述べる。
「後半三十分過ぎに三人抜きで同点ゴールを決め。あ、シュートしながら、もう一人抜いたか。んで、試合終了間際に劇的逆転ゴール!」言いながら、幸成の顔が興奮でさらに赤くなっていく。
「おまえ飲みすぎだ」
 幸成のキャップのつばを前向きにくるんと回した。
「おまえは飲まなすぎだ。今日は瑞奈を送らなくていいんだから、たまには飲め」
 幸成は俺の前に置かれたぐいのみを手にするや、マスターお願いします、とマスターの方を向く。
「そう言うことね」
 何がそう言うことなのか分からないが、マスターが嬉しそうに、幸成が持つぐいのみに日本酒を注ぎだす。
「晴翔、たまにはいいんじゃない」
 朔太郎が、俺ではなく、幸成の援護射撃をした。
 仕方がない。確かに今日は瑞奈がいないのだから、多少は足もとがフラついても大丈夫だろう。覚悟を込めてぐいのみを傾ける。
 日本酒が喉元を通っていく時、朔太郎が思い出したかのように呟いた。「そうか、瑞奈ちゃん今日はいないのか」
 おおおお、と酒が入った拓真さんの泣き声が響き始める。しかし、その声は俺の耳を掠めるだけで、まともに耳の中には入ってこなかった。
 今日はいない――今日……だけなのだろうか……?
 日本酒が胃袋に落ちる熱い感覚とともに、得も言われぬ不安がとぐろを巻いていた。

 酔った。
 気持ちが悪い。見える景色が大揺れにぐらついていた。
 酒を飲めない質なのに、今夜は飲んでしまった。自身の内で生じる不安を打ち消すために飲み続けたようなものだ。
 だが、飲むほどに余計に瑞奈のことを考えてしまい、酒の量が増えた。瑞奈のことが脳内にへばりつくように俺の頭の中を占めていた。
 帰りの電車で、瑞奈のアパートの最寄り駅に着くと、反射的に降りかけた。自分の足と思考が、瑞奈がいないという現実をぐっと俺に突きつけてくる。
 思わず、瑞奈ぁ、とぼやくと、周囲の乗客がぎょっとしたような顔を俺に向けた。誰しもが酔客の戯言と思っただろう。
 自宅の最寄り駅で降り、ふわふわした足取りで歩く。家まで徒歩五分の距離が遠かった。背負うバックパックがずしりと肩に食い込み、背中で汗が滲んでいく。
 熱帯夜だった。そのくせ妙に薄ら寒さを覚えていた。自宅のワンルームマンション前に着く頃には、震えながら全身に汗をぐっしょりとかいていた。
 闇空の向こうから遠雷が聞こえていた。
 エレベーターが無いため、三階まで階段で昇る。階段の踊り場から玄関前へと続く外廊下に折れると、突き当りの俺の部屋の前でのそりと人影が立ち上がった。俺は目を見開く。
 瑞奈? 
 声をあげかけて、飲み込んだ。
 淡い玄関灯に照らされたその人物は、はっきりと表情を確認できないが、それでも女性であることは分かった。背丈が、瑞奈よりも高い、と直感的に思った。眼鏡のレンズが蛍光灯の光を鈍く反射させていた。瑞奈は眼鏡をかけていない。コンタクトレンズもしていないため、眼鏡をかけることはない。
 瑞奈ではない。
 揺れる視界の中でじっと見ると、髪型は瑞奈とは違い、眼前の人物はボーイッシュなショートヘアーだ。着ている服もジーンズに白シャツで、フェミニンさを感じさせない。
 誰? 
 口にする前に女性が先に口を開いた。かけている紫色のスクエア眼鏡を中指でくいっとあげながら。
「岬晴翔さんですね?」
 声が瑞奈ではない。だが、それよりもどうして俺の名前を? 俺が訊ねるよりも早く、女性が言い切った。厳かな口調で。
「お話があります。姉の瑞奈のことで」
 汗がひき、一気に酔いが醒めた。極限の悪寒が身体を貫く。ぴかりと闇空に光の亀裂が走った。