失点の直後、下唇を強く噛んだ。
口の中に血の味が広がるよりも早く、右サイドハーフの結城瑞奈が、アーモンド型の大きな目を見開き、嗄れた声をサッカーピッチ上に響かせる。
「情熱! プレーに情熱がない! サッカーへの情熱が足りない! 愛もない!」
瑞奈は続けて、各ポジションへ戻る紺色ユニフォームのチームメイトを鼓舞するため、手を叩く。
「パスに思いを込めて。シュートに熱を込めて。走る足に気持ちを込めて!」
瑞奈の言葉に被せるように、キャプテンでボランチの渡邊拓真さんが、短く刈り込んだ髪型から受ける印象と同じような落ち着いた声で、チームメイトを奮起させようとする。
「俺たちはこんなところで終わらない。気持ちで負けるな。逆転だ」
ガンガンガンとメガホンが打ち鳴らされる音が客席から響く。二週間前の練習中に、右足首を捻挫して試合を欠場するに至った久島朔太郎が、その音を立てていた。
坊主頭には汗を滲ませた『必勝』のハチマキを巻いている。あどけなさを感じさせるくりくりの目に力をこめ、性格なのか誠実な口調で
「丁寧にパス繋いでいこう。絶対に追いつけるよ!」
と、声を張り上げる。
目にかかる程度に長い前髪をかき分けた俺は、ピッチサイドの時計盤を見る。
後半三十五分。
自分の頬を両手で張る。ぴしゃりと弾音が鳴った。アドレナリンが痛みに勝っていた。まだいける。俺は再度頬を張る。やはり痛みを感じない。フォワードの俺がゴールを決めないといけないんだ。
「晴翔くん、裏を意識して。ドンピシャなパスだすから」
センターマークに丁寧にボールを置いた瑞奈が、セミロングの髪を後ろで結わえ直す。俺はサムアップで応答しながら瑞奈と目を合わせた。瑞奈が、一瞬、恋人の俺にしか分からない好戦的な色を瞳に浮かべた。
俺は頷く。大丈夫。思いは一緒だ。
俺達は今、全日本サッカー協会が主催する、大学サッカー同好会選手権大会を戦っていた。優勝チームには天皇杯への出場資格が与えられる、年に一度の大きな大会だ。
天皇杯への出場――アマチュアでサッカーをする選手にとって、全力のプロ選手と戦える夢の舞台。
優勝して天皇杯に出場する。その目標を達成すべく、俺達は大会の三回戦の真っ最中だ。両チームともゴールできずにいた後半三十分過ぎに、速攻のカウンターから失点を許した。アディショナルタイムを含めて残り十分、俺達はこれ以上失点せずに、二点以上ゴールを決めなければ勝利できない。
審判が笛を口に咥えた。直後、ぴ、と短い音色が夏の澄んだ青空に吸い込まれた。俺はボールを蹴る。途端に、足音が声が息が、ピッチ上に溢れだす。
味方のディフェンスラインまで戻されたボールが、中盤の右サイドでポジションをとる瑞奈に渡った。
瑞奈からボールを奪いに相手が身体を寄せてくるも、足裏で器用にボールを転がす彼女は、自身の身体をくるりとターンさせてかわしていく。ポニーテールの髪がふわりと浮き、弧を描いた。
身体をぶつけ合う力では男に勝つことが難しいため、瑞奈は相手と接触をしないフェイントに長けている。やみくもに瑞奈に向けてボールを奪いにいくと、たぶん俺でもかわされてしまうだろう。女子サッカーリーグの幾つかのチームから練習参加の打診を受けている彼女の実力は伊達ではない。
大会規則に、女子選手の帯同は義務化されていない。俺たちと、前回の優勝チームを除く他のチームは男だけで構成されていた。そんな中、瑞奈は実力で、チームのスタメンをはっている。むしろ、攻撃の中心にはいつも彼女がいる。
瑞奈が顔をあげるや視線が相手のディフェンス裏を見ていた。そこへ蹴るという合図。
フォワードの俺は人工芝のピッチを踏み蹴ってダッシュする。直後、浮き球のボールを蹴る音がした。ディフェンダー達が反転してボールを追いかけだす。俺は彼らと競争しながらボールをせる。
相手ディフェンダーを一人抜き去った。ボールがペナルティエリアの手前に落ちる。もう一人の相手が斜めにピッチを突っ切ってくる。俺は駆ける足に力を入れた。
〝パスに思いを込めて。シュートに熱を込めて。走る足に気持ちを込めて!〟
パスへの思いは、充分すぎるほどだ。あとは、俺が、走る足に気持ちを込める。シュートに熱を込める。
俺は、相手よりも先にボールを確保しようと、自身の足を伸ばす。つま先の裏がボールに触れた。すぐに、ドン、と腕に相手がぶつかる衝撃がきた。
膝を曲げ、腰を落とし、体勢を維持した。ボールを奪われないように、身体全体で足もとのボールをくるむようにする。
相手も必死だった。体重をかけて俺をどかそうとする。踵が浮く。たたらを踏みそうになった反動を利用した。相手からの衝撃を受け流すように身体を半身にさばく。
「うわっ」
相手があげる声を耳にする。
前方を見やると、敵のゴールキーパーが腰を屈めていた。意図的に自身の右肩を下げる。俺の行動に反応したゴールキーパーが僅かに左足側へと重心を移動させた。
シュート――ボールがゴールキーパーの右足脇を抜け、ゴールネットに突き刺さる。わっと歓声が客席から、ベンチから、ピッチ上のチームメイトからあがる。
「いぇい、いぇい、ナイッシュー!」
ゴールマウスからボールをかっさらうように取ってきた俺に、チームメイトが駆け寄る。
「ナイス晴翔」「晴翔よくやった」「岬ぃ!」
チームメイトが相好を崩して声をかけてくるなか、瑞奈だけは違った。
「ばかもの、すぐに気持ちを切り替えて! まだ同点だから。もう一点取らないと笑えない」
相手ボールから始まる次の展開に備える瑞奈の目は険しかった。目尻の下にある泣きぼくろが、彼女に頼もしい印象を与えている。
俺は頷く。
「ああ。裏へのパスは警戒されるから、パスだしの前に崩しを入れたほうがいいかもしれない」
「あれ、やるかも。チャンスがあればだけど」
俺は目を見開く。
瑞奈が言う〝あれ〟。相手が仕掛けるタイミングを利用したフェイントだ。
練習では数回成功させているが、試合本番ではいまだ成功できていない。それをこの大一番でやろうとする彼女の度胸――。
「分かった。おまえの足もとをよく見てるから、いつでも来い」
瑞奈が手を差し出した。俺はその手を優しく、でも力強くタッチする。
「行くぞ」「うん」
試合が再開されると、相手チームの中盤で守備的なポジションをとっていた背の高い選手が前線に加わった。つまりは、攻撃の枚数を一枚増やしてきたのだ。後半四十分を過ぎている。あと一点が勝負の分かれ目だ。
俺達も勝つために布陣を変える。ディフェンスの一列前でポジションをとるボランチの拓真さんが、フォワードのポジションまであがった。拓真さんの身長は百九十センチ超えだ。これまでに何度も、ここぞという時にヘディングでゴールを決めてきた。
中盤での激しい競り合いで零れたボールを、相手チームの選手が確保する。すぐさま、自陣のペナルティエリア内に向けてクロスをあげられた。
山裾を駆けあがるような弾道で高めにボールが飛んでいく。味方のディフェンダーは、オフサイドをとるためにディフェンスラインをあげたが、間に合わなかった。相手チームの足の速いフォワードが、味方ディフェンスを突き破るように走り込んでいた。
「止めろ!」
拓真さんが叫ぶ。
ディフェンダーの佐々幸成が俊足フォワードに身体をぶつけようとするも、追いつけない。幸成を振り切った相手フォワードの前にボールが落ちる。
大きくバウンドしたボールを蹴ろうと相手フォワードがボレーシュートの体勢をとる、その直前でボールが大きくピッチ外へクリアされた。ボールを蹴りだした味方――瑞奈が、駆け戻ってきた勢いのまま前方へともんどりうつ。
「おうおうっ、ナイスカッ、瑞奈!」
幸成が瑞奈にサムアップをする。だが、身体を起こした瑞奈の表情は険しかった。
「ばかもの。『おうおうっ』じゃない! 足に情熱がこもってないのよっ!」
瑞奈が周囲に視線を配る。
「集中! 何が何でも守るの! はね返して! いったん、全員守備よ」
「おうっ」
味方が声をそろえる。「八番フリーだ!」拓真さんが指示をだす。俺は八番をマークする。彼は個人技が秀でているので、ボールを持たれると厄介だ。
「ロングスロー、気を付けて!」
朔太郎が観客席から大声で注意を促す。
確かに、普通のスローインで投げることができる距離以上の位置に、相手チームの選手が数人かたまっていた。スローインを投げようとしている相手選手は、今日の試合でロングスローを見せていないが、やたらとボールを服に擦りつけて、ボールと手が滑らないように気を遣っている。
八番は囮かもしれない。
「エリア内で壁つく――」
言い終わらぬうちにボールが投げられた。頭上を越えたボールがペナルティエリア内へと飛んでいく。今日、相手チームが初めて見せるロングスローだった。
「クソっ」
自陣のペナルティエリアの方を振り返る。ボールの落下点と目測される場所には、既に背の高い相手選手が二人走り込んでいた。味方のディフェンスが間に合っていない。
相手選手のうち一人がジャンプをする。ボールが相手選手によってヘディング――される寸前で、長身痩躯のゴールキーパー・二階堂俊介がパンチングした。
どおおと会場が沸く。
「クリアボール!」
俊介が弾かれたボールを指さす。ボールはタッチラインを越えずに、左サイドを転がっていた。相手選手が走りだす。同じく駆けだした幸成であったが、一歩反応が遅れていた。
ボールがラインを越えるか、それとも相手選手が先にボールに確保するか。
「うおおおおおー」
瑞奈がピッチのド真ん中を怒涛の走りで突っ切ってきた。
ピンときた。何度も、練習を重ねた……『あれ』だ。
ボールを確保した際に相手に背を向けたまま足裏でボールを後ろに転がし、ボールを奪いに来た相手の股を抜き去るフェイント。
相手選手よりも先に瑞奈がボールに触れた。俺は一気に相手ゴールの方へと走り始める。
瑞奈からボールを奪おうと、相手選手が背後から身体を寄せる。
瑞奈が左足裏でボールを後方に転がした。同時にその場でくるりとターンをする。相手選手の股下を転がったボールを瑞奈が足もとにおさめた。
来い!
瑞奈が右足を一閃させた。
*
「それにしても、超絶パスだっ――」
顔を真っ赤にさせた拓真さんが俺と瑞奈の前の席に座ろうとすると、同じく顔を真っ赤にさせた瑞奈が「でしょ、でしょーぅ!」と、拓真さんの語尾をかっさらった。
拓真さんは面白そうに瑞奈に視線を向け、続けて俺の表情を窺がうように見てから、ナマもう一つ、と通りかかったお店の人にビールを注文する。
チーム行きつけの居酒屋『ファンタジスタ』で、俺達は勝利の美酒に酔っていた。ちなみに俺はあまり酒を飲めない。酒飲みの瑞奈をフォローする役割を宴席では担う。
「でもね、注目して欲しいのは、パスじゃないのっ」瑞奈が唾をとばしながら箸で小皿をかちんかちん叩く。
「股抜き! あの股抜きの華麗さ! ああーん、言ってる自分でも酔いしれちゃう。へっへっへ」
「もう完全に酔ってるだろ」
俺が突っ込むや、瑞奈からドスのきいた視線を向けられ、俺は口を閉じる。
「まあ、なんだ。おまえが晴翔相手にあの技を練習してるのを見てたから、さすがと言うか、まあ、なんだ、よくやった。これで俺たちは四回戦に進めるしな」
言うそばから拓真さんが涙ぐみだした。うっうっと泣きだす前兆の息が漏れた後、テーブルに突っ伏して本格的に泣き始める。拓真さんは酒が入ると泣き上戸になるのだ。涙を流しながら、時々たくあんをぽりっと齧る。
「でしょ。でしょでしょ! それなのに、みんなゴール決めた晴翔くんを褒めるんだもん」
瑞奈がぷくりと頬をフグのように膨らませる。俺が、その頬をつつこうと手を浮かせると、「何? その手」と瑞奈が低く言い放った。
拓真さんの口ぶりを真似すれば、『まあ、なんだ。察しがいいな』。
拓真さんが突然がばっとテーブルから顔をあげ「あの逆転ゴールの貢献度は、シュートした晴翔が七十パーセントで、瑞奈が三十パーセントってとこか。ううう」と言うや、嗚咽を噛み殺しながらまた突っ伏す。
「違う。あたしが五十パーで、晴翔くんも五十パー。あたしがパスでボールを繋がなければ、あのゴールは生まれなかったんだからっ」
瑞奈はぐいのみをきゅーっとあけていく。瑞奈は、二杯目以降は日本酒派だ。
「いい飲みっぷり」
同席している幸成が、おどけた声をだした。
「うるさい、へっぽこディフェンダー。あんた、足に情熱がなさすぎるのよ。あと後ろ髪長すぎ、太りすぎ。足遅いからディフェンスが間に合わない。ダイエットにも情熱を注ぎなさいよ、このモブキャラめ」
「でたっ! 瑞奈の情熱論」
へっぽこ呼ばわりされた幸成が、被っていたヤンキースの帽子をくるりと回す。ラッパー気取りで金色のネックレスにだぼっとしたシャツを着た幸成は、へらへらした表情で薄紫色のサワーに口をつけた。
「そんな軟弱な飲み物飲んでるから、あっさり抜かれるのよ。男ならガツンと日本酒いきなさいよ」
瑞奈が手酌でぐいのみをきゅっとやる。
あはははは。幸成が、俺を見ながら朗笑した。
「晴翔。おまえどうやって瑞奈を落としたんだよ、こんな美人酒豪。おまえ日本酒どころか、酒自体ほとんど飲まないのに。やっぱ顔がしゅっとしてるからか、イケメンは得だな」
「晴翔くんじゃない。あたしが、晴翔くんを落としたの」
おおおーっ!
いつの間にか店内のチームメイト全員が、俺たちに注目して、瑞奈の発言に感嘆の声をあげていた。泣き腫らした顔の拓真さんまでもが目を丸くしている。
「愛してる晴翔君、あたしの情熱受け取って、なんて言いながら迫った?」
幸成がしなをつくり俺にもたれかかってきた。
「うるさい、セクハラ貧弱ディフェンダー。あ、脂肪たっぷりのお腹は立派だけど」
瑞奈が幸成の腹にポコポコとパンチを見舞う。
「愛してるぅ、愛してるぅ、晴翔くーん」
幸成が腕を広げて俺に抱きついてきたので、俺は幸成の腹に瑞奈以上の重たいパンチを喰らわせる。チームメイトがどっと笑う。
瑞奈がそんな笑い声に負けじと、
「愛してる、そんな歯の浮くセリフ、絶対に言ってやるもんですか」
うおおおおおおおおーっ、と店内の盛り上がりが最高潮へと昇りつめていく。
パンパーカパーン♪
幸成がふざけ口調で結婚協奏曲の韻律を口にした。
すると瑞奈がその韻律を止める指揮者のように両手を振った。
瑞奈を除いたチームメイト全員が地雷を踏んだような表情になる。突如として現れた奈落の底を見た気がした。
凍りついたような沈黙が漂っていることに、瑞奈がようやく気付いたようだ。
「へ? 何、みんなお葬式みたいな顔して」
幸成がおずおずと、恰幅のいい身体を縮こませながら瑞奈に尋ねた。
「だって、嫌だったんだろ。そのパンパーカパーンが。手で『止めるように』合図したぐらいだから」
「何言ってるのよ」
けろりとした表情で瑞奈が幸成の言葉を一蹴する。
「嬉しいに決まってるじゃない。でもね、」
にやりと頬を緩めた瑞奈は、俺をガン見してから、高々とチームメイト全員に宣言するように言い切った。
「プラチナリングを薬指に嵌めてもらう時じゃないと、パンパーカパーン♪は聞きたくないの。だ、か、ら、それまでは歌うんじゃねぇーっ」
瑞奈が皆を煽るように両手を挙げ、笑い転げるチームメイトの一人ひとりの顔に向けて指を突き出す。
「歌うなー。まだ歌うなぁ。誰かさんからプラチナリングもらうまでは封印だぁ。で、プラチナリングをもらったら、おまいら雁首揃えてあたしのために歌えーっ」
ケタケタと瑞奈が笑い声をあげる。
最後に俺に向けて、瑞奈が指をさす。ウインクしながら照準を定め、その手を鉄砲のようにした彼女が嗄れ声で言い放つ。
「バンっ!」
異様な盛り上がりを見せている俺達を眺めようと、居酒屋『ファンタジスタ』のマスター・薫さんも調理場から顔を覗かせた。青いアイシャドウがエジプトのファラオみたいだ。
「あらぁ、いい盛り上がりじゃない」
大学でゲイに目覚めたマスターが、低く甘い声で、
「瑞奈ちゃん、その考え方凄くいい。最近は顔の綺麗さだけを強調する女が多いけど、あなたは違う。美人だからこそ、そうやって言動で主張すべきなのよ。顔だけじゃだめ。いいわ。ホントにいい。だから、大吟醸サービス」
ことりと大吟醸の瓶と透明のグラスをテーブルに置く。
瑞奈の顔が喜色で染まった。舌先をちろりと覗かせて、
「みんな、セクハラ豚野郎たち、飲みが足りなーい! ばかもの」
立ち上がってメンバーを煽るや、瑞奈は透明のグラスに大吟醸をなみなみと注いだ。
「いえーい。あたし、優勝して、絶対に天皇杯のピッチに立つぞぉ! へっへっへ」
言うそばからぐびりと杯を乾かす。
「やっぱ、いいわね、瑞奈ちゃん」と感想を漏らすマスターの声をかき消すほどの勢いで、店内に笑い声が響き渡った。
*
「おろせー。あたしは大丈夫だ! 酔ってにゃい」
『ファンタジスタ』からの帰り道、瑞奈が一人暮らしをするアパートの近くで、俺におぶられた瑞奈が耳元でわめいた。
「充分酔ってるって」
ずり落ちそうになった瑞奈を再度おぶり直す。彼女の身長は俺よりも十五センチほど低いが、それでも百六十センチある。おぶり続けるのはなかなかに難儀なものだった。
「酔ってにゃい」
瑞奈が鼻先を俺の首に押しつけた。くんくん匂いをかぎだす。
「酔って呂律回ってねえだろ。語尾がネコ語になってるぞ」
「うにゃあ!」
かぷ、と瑞奈が俺の耳たぶを噛んだ。
「だっ! 痛えっ」
腕の力が緩んだ隙に、瑞奈がずるりと背中からずり落ちた。俺は噛まれた耳を押さえながら瑞奈を振り返る。
「ったく、だったら歩け、歩け。その方が俺は楽だ」
「ああー、愛の無い言葉を吐いた。晴翔くんから愛が失われたぞ」
瑞奈が路面に尻もちをついたまま俺を指さす。その指は宙でかっちりと固まらずにゆらゆら揺れている。ついでに彼女の頭も揺れていた。
「どーでもいいけど、おまえパンツ見えてるぞ。黒の」
「すけべ!」
瑞奈がアイボリーのフレアスカートの上に両腕をおろす。まだ尻を地面に下ろしたままだ。
「だいたい、愛してるなんて言うもんか、みたいなこと言ったのはどこのどいつだ」
手を瑞奈に差し伸べる。彼女はその手をぱちんと引っ叩いた。
「うにゃー!」
「ネコパンチか」
「自分で起きられる!」
地面に手をつきながら瑞奈が起き上がろうとする。瑞奈は酔いが相当回っているのか、なかなか立ち上がることができなかった。
「おまえマジ酔いしてるな」
「ばかもにょ。よゆーぅだって」
見ていられなくなった俺は、瑞奈の背後に回り、両脇に手を差し入れた。
「や、ちょ、くすぐったい」
瑞奈が身体をよじる。髪から漂う香りが、汗のせいかより強く感じられた。
「んしょ」
瑞奈を抱き起こす。
「まったくロマンもへったくれもない立たせ方だ」
「お姫様がべろんべろんに酔っぱらっている時点でロマンは消失してるって。ほら行くぞ」
瑞奈の肩を軽く小突き、肩を並べて歩こうとした。
しかし、一歩目で、瑞奈が膝から崩れるように転んだ。
「おまえマジか?」
当の瑞奈は、ぽかんとした表情をしていた。両手を地面について身体を支えている。口が半開きになっていた。
「おまえ、またパンツが」
再度手を差し伸べる。すると、今回は、瑞奈は手を払わずに、素直に俺の手を握った。力を込めて瑞奈を立たせる。
「おまえマジで酔ってるな。足に力入ってねえよ」
呆れ気味に瑞奈の顔を一瞥しようとしたところで、彼女の表情が硬まっていることに気付いた。何も言い返してこない。こんな瑞奈は珍しかった。
「どうしたんだ? 『ファンタジスタ』にスマホでも忘れてきたのか?」
瑞奈は応答しなかった。それどころか、俺の手をずっと握り締めている。いや、俺の身体にしがみついてきた。まるで、自力では立てないから、支えを必要とするように。
「おまえ、どんだけ酔って――」
「違うのっ!」
むっとするほど蒸し暑い夜空の中へ、瑞奈の言葉はあっという間に吸い込まれた。それなのに、言葉の余韻が空気中を漂っている。
瑞奈が先ほどよりも強めの声をだす。
「違うにょっ!」
「何が違うんだよ」
しがみついてくる瑞奈をきちんと立たせようとすると、途端に腰から墜下するように彼女の膝が折れた。しゃがみ込んだ瑞奈が地面から俺を見上げる。
「にゃんか、変」
「変?」
「歩けにゃい、つうか立てにゃい」
訴えてくる目に、酔いの気配は消えていた。
「走り過ぎたんだよ。おまえいつも全力プレーだから」
腰を落とした俺は、瑞奈と同じ目線の高さで話をする。
「俊介がパンチングで防いだクリアボールを追っていた時点で、本当は体力の限界が来てたんだろ」
瑞奈は口を噤んだ。
いくら瑞奈がサッカー技術に優れているとは言え、大学生の男にまじってあたりの強いサッカーをこなすには、相当な体力を使う。身体のぶつけ合いでは、体格が勝る男に太刀打ちができないのは自明の理だ。だから、瑞奈はそれをカバーするために、ピッチ上を隈なく走り回っている。足にはかなりの負担がかかっているはずだ。
「ん」
瑞奈がおとなしく頷いた。片膝をついていた俺は、彼女に対してくるりと背を向ける。
「乗れよ。やっぱりおぶってやる」
湿った空気が鼻腔を通るぐらいのちょっとした時間を置いてから、瑞奈が背中にもたれてきた。首に腕が回される。立ち上がると、首もとに瑞奈が鼻先を押しつけてきた。
「晴翔くんの匂い、しゅき」
闇空では半月が薄いヴェールを纏い、ぼんやりと輝いていた。だがすぐに、灰色のもくもくした雲が光を隠した。八月初旬の蒸し暑い夜のことだった。

