ガンコ




 十二月に入り、空は毎日のように灰色に覆われるようになった。先ほどまで中年の男性が座っていたカウンター席の清掃を終え、客がいないことをいいことに僕は大きく伸びをする。
 チラリと僕はキッチンに目をやった。ガンコとリオンさんが、ミルやスケールなどといった、キッチン内における調理器具の配置がこのままで良いのか話し合っている。より効率的な作業を行いたいということらしい。
 先週、リオンさんがコーヒーショップ ガンコに復帰した。僕らと別れた翌日に本当に病院に行ったのか、傷はだいぶ回復したように見えたが、顔の所々に青痣が残っていた。しかしある程度は予想できていたので、そのことについては誰も突っ込まない。千尋さんにも後から事情を説明していたので、彼女が何か言ったこともない。
 僕は一週間前を振り返る。復帰したリオンさんは、オープン前に僕らを呼び出して早々「迷惑かけてすまなかった」と勢いよく頭を下げた。皆が驚き目を合わせたが、誰もリオンさんを責めたりはしなかった。
 あれ以降、前と変わらない、いつも通りの日常が戻ってきた。ガンコとリオンさんは相変わらず仕事の息はピッタリだし、ガンコから恋愛感情はないという話を聞いてもなお、やっぱりそんな二人を見ていると僕の心は嫌でもざわついてしまう。リオンさんとも、あまり会話をすることはない。
 ただ、僕の気のせいでないのなら、リオンさんの僕に対する態度がやや軟化したようには思う。以前は苛立ちを露わにしていたのに、この一週間は軽く笑いながら僕に指示を出したり口調が柔らかくなったりと、変化を感じられる。それが僕にはちょっと嬉しく思えるものの、人付き合いが下手なので、僕の方も態度を軟化させなければと思いつつ、中々緊張を取ることができない。
 そんなことを考えながら改めて掃除用アルコールの容器と布巾を手に取った時だった。店のスライドドアが開けられる音が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
 僕はアルコール容器と布巾を素早くキッチン前の業務用の棚に置くと、入り口に向かって歩きながら言った。今日は千尋さんがお休みなので、僕が主に接客をしていかなければならない。
 だが、僕は入り口へと向かっていた足を、反射的に止めてしまう。入ってきた客が、あまりにも意外な人物だったからだ。
「久しぶり」
 スライドドアを閉めながら、僕の元上司――藤本さんが照れ臭そうな笑みを浮かべながら手を振ってきた。驚きのあまり僕はすぐに反応することはできなかったが、ややあって正気を取り戻し、彼女に近づく。
「藤本さん! えっ、一体どうしたんですか?」
「これから病院に行くんだけどね。まだ時間あるし、国島くんが今どんなところで働いているのかなって気になって、つい来ちゃった。有言実行、ってことになるのかな?」
 藤本さんが小さく舌を出す。僕はどう反応すればよいのか、咄嗟に正解を判断することはできず、とにかく藤本さんに合わせて笑うしかない。とはいえ、僕自身、嬉しいのは事実だ。
「どうします? コーヒー豆を買って帰るでもいいですし、席に座ってコーヒーを飲んでいただくことも可能ですが」
「じゃあせっかくだし、コーヒーを飲ませてもらおうかな。国島君のオススメってある?」
「個人的には、コスタリカ産の豆を使ったコーヒーがオススメですね。苦すぎず、酸味とのバランスも取れた、飲みやすいコーヒーです」
 この店で働くようになってから、お客さんにスマートにオススメの商品を紹介できるようにと、ガンコが仕事終わりにそれぞれのコーヒーを一杯ずつ飲ませてくれた。だからこうして、すぐにその産地のコーヒーの特徴を、個人的な感想を交えて紹介することができた。
 本当は、モカフレンチというコーヒーが好きだった。モカ産のコーヒーをフレンチロースト、つまり長い時間焙煎したコーヒーだ。ただこれは苦味が非常に強くなっているので、おそらく飲む人を選ぶ。だから藤本さんにすすめるならば他のものが良いと判断したのだ。
「じゃあ、それをお願い」
「かしこまりました。では、席に座ってお待ちください」
 知り合いとはいえ、今は接客中だ。僕は適切な敬語で対応せねばと意識し、席へと案内する。一番奥に座った藤本さんは、回転いすに腰掛けながら、周囲を見回していた。
「ガンコ。コスタリカのコーヒーを一つお願い」
 僕は手を上げながら注文を伝えた。ガンコもまた手を上げ返し「オーケー」と返してくる。
 リオンさんは、僕らの軽いやり取りに、特に突っ込まない。ただ黙って生のコーヒー豆を一杯分、計量カップですくい取り、スケールで適切な量かを確かめる。
 コーヒーショップに戻ってきてから、リオンさんが僕とガンコのやり取りに口を出すことはなくなった。それが心境の変化によるものなのか、それとも何らかの理由があるのか、今の僕にはわからない。
 とにかく、前よりも働きやすくなったのは確かだ。
「そうだ。達希くん、ちょっと早いけど先に休憩に入っちゃいなよ」
 突然のガンコの提案に、僕はすぐに反応することができない。ただ何度も瞬きを繰り返すしかなかった。
「えっと、ありがたいけど、なんで?」
「なんでって、今のお客さん、達希くんの知り合いでしょ? 会話とかしたいかなって思って」
 言われて僕は納得し、何度も首を縦に振る。藤本さんとのやり取りを見れば、確かに周囲も僕と彼女が知り合いだと気付くだろう。
「でも、店の方は大丈夫? 今日は千尋さんも休みだし」
「大丈夫だって。接客については私もできるし、何より今はお客さんの出入りも落ち着いているからね。もしもやばいってなったら、その時は呼ばせてもらうけど」
「うん、それはもちろん」
 そう言って僕はエプロンを外すと、レジが置かれている方のカウンター下の収納スペースに畳んでから置くと、タンブラー二つに水を入れ、藤本さんの座る席に向かった。片方を彼女に差し出すと、スマートフォンを見ていた顔を上げ「ありがとう」とほほ笑んでくる。
「それにしても、良いお店だね」
「ありがとうございます」
 少し照れながら僕は言った。何だか自分自身のことを褒められたみたいで、素直に嬉しい。
「何て言うかすごく落ち着ける雰囲気だし、それにコーヒーの香りも充満している。コーヒー好きとしては、すごくたまらないお店だよ」
「そう言ってもらえると、働いている僕としてもすごく嬉しいです。というか、藤本さんってそんなにコーヒー好きでしたっけ?」
「昔から好きだったんだけどね。最近になってさらにこだわるようになったの。自分でコーヒーミルとか買って、豆から挽いたりしてね」
 言いながら藤本さんはコーヒーミルの上部にあるレバーを回す振りをして見せる。その姿が何だか幼く見えて、つい僕は笑ってしまった。
「そうだったんですね」
「せっかくだし、この後コーヒー豆も購入させてもらおうかなって思っているの。そうだなぁ、国島くんが勧めてくれたし、そのコスタリカ産のコーヒーを」
「お待たせしました。コスタリカコーヒーです」
 まるで会話がひと段落するのを狙っていたかのようなタイミングで、ガンコがコーヒーを持ってきた。しかしトレーの上にはカップが二つ置いている。
「ガンコ、これって――」
「私からのサービス。でも給料からはその分、引き下げさせてもらうから」
 言いながらガンコは悪戯小僧のように舌を出した。僕は「おいおい」と呆れながらも、自然と笑みがこぼれる。
「ありがとう」
 僕が礼を言うと、ガンコは驚いたような表情で振り向いた。そして照れくさそうな笑みを見せ「ぜんぜん」と答える。
 僕は少しだけ疑問に思った。礼を言うことがそこまで特別なこととは思えない。あんなに意外そうな顔を果たしてするだろうか。
 しかし答えが出るとは思えず、僕はそれ以上深く考えるのを辞めて、コーヒーを啜る。口の中に広がる味の情報が脳にまで届いた瞬間、僕は大きく目を見開いた。
 これって――
「本当に美味しい。苦すぎなくて、かと言って味が薄いわけでもない。国島くんの言う通り、本当に味のバランスが上手く取れているね」
 僕の頭に浮かんだ疑問を掻き消すようなタイミングで、藤本さんが言ってきた。目を大きく見開き、本当に喜んでくれていることがわかる。
 自分で淹れたわけでもないのにその反応がとても嬉しくて、僕は「そうでしょ!」とテンションを上げて言った。先ほど頭に浮かんだことは、一旦は後回しにすることに決める。
 それから僕と藤本さんは、色んな話をした。主には互いの近況だが、かつての職場の現状を聞くのはやはり懐かしさがこみ上げてきて、僕としても嬉しくなる。
 互いにコーヒーを飲み終えたタイミングで、藤本さんが腕時計に目をやった。「やだ、もうこんな時間」と驚いた表情を見せ、荷物用のかごに入れていたビジネスバッグを手に取ると、立ち上がった。
「あっ、そうだ国島くん。今度さ、梅田でお昼を食べに行かない?」
「えっ?」
 あまりに予想外な提案に、僕は驚いて声を上げた。なぜか居心地の悪さというか、答えにくさを感じてしまう。
「ダメかな?」
 藤本さんが不安そうに首を傾げてきた。逡巡しながら、チラリとキッチンに目をやる。一瞬ガンコと目が合ったような気がしたがそれは一秒にも満たない出来事で、今はカップを洗うことに専念している。
「いえ、いいですよ」
 僕は少し躊躇いながらも頷いた。特に断る理由はないし、それに嫌いではないかつての上司の誘いなのだ。無下にするのは失礼だろう。
「良かった」
 藤本さんが安堵の表情を浮かべる。
「じゃあ、いつがいい? あっ、でも私平日は仕事だから、空いているのが早くて今度の土日になるんだけど」
 僕はスマートフォンを取りだし、カレンダーアプリを起動した。ここにシフトが入っている日にちを記載している。
「でしたら、ちょうど土曜日が僕も休みなので、その日でどうでしょう?」
「っていうことは、三日後だね。オッケー、じゃあそうしよう!」
 それから十一時頃に梅田のHEPというビルの前で待ち合わせを約束した後、藤本さんは会計を済ませて店を後にした。僕はトレーを手に取り、カップ二つをキッチンへと持って行く。
「デートじゃん」
 キッチンに入るなり、ガンコがからかうように言ってきた。その言葉に妙な焦りを覚え、僕は慌てて否定する。
「違うよ」
「あんな美人とお昼を食べに行けるんだよ。嬉しくないの?」
「そういうのじゃないって。前の職場の上司っていうだけ。特に嫌っているわけじゃないけど」
「好きとか?」
 僕がカップを洗っている間も、ガンコはグイグイと聞いてくる。謎の焦りは、苛立ちに変わりつつあった。
「だから違うって。というか、なんでそんなに聞いてくるの?」
「別に。あんな感じの人が達希くんのタイプなのかなぁって。何て言うか、大人な女性って感じの」
 何だかガンコの声には、棘が含まれているように思えた。僕はカップを洗い終え、彼女に目を向ける。
 表情こそ笑っているが、いつもと違い強張っているように見える。まるで無理矢理、笑顔を作っているかのようだ。
 僕はこの笑顔を知っている。実際に見たことがあるというより、その無理に笑っている表情を作る心情は理解できる。
 自分の中にある何らかの感情を、必死に隠している時だ。
「ガンコ、もしかして苛立っている?」
「私が? 何を苛立つことがあるの?」
 ガンコの声と笑顔が、焦燥に駆られる。それは図星と認めているようなものだ。
「いや、わからないけど。何だか藤本さんが来てからガンコ――」
 おかしい、と言おうとしかけて、僕は言葉を止めた。それだと言い過ぎな気がするというか、下手に彼女を傷つけかねないというか、そんな危険性を感じたからだ。
 しかしおかしなタイミングで言葉を切ったのがいけなかった。ガンコが一歩前に出て、眉間に皺を寄せる。
「何? 私がどうかしたの」
「いや、別に」
「別にじゃないでしょ。達希くん、昔っから――」
 今度はガンコが途中で言葉を切った。目を大きく見開き、俯く。その表情は我に返ったと言わんばかりだ。
 しかし、ガンコの次の言葉は大まかに予想することができた。
 昔っから気が弱いだとか、言いたいことを言おうとしないだとか、概ねそんなところだろう。途中で言葉を切った理由も、おのずと想像できる。
 僕と同じで、相手を下手に傷つけてしまうと咄嗟に判断したのだ。
 だから、僕はそれ以上何も追及しない。追及できない。その代わりに、重い静けさが店内に流れた。
「二人とも、気は済んだか?」
 これまでずっと黙っていたリオンさんがここに来て口を開いた。見るとその表情は呆れたと言わんばかりで、首を何度も横に振っている。
 僕もガンコも、何も言うことができなかった。