七
リオンさんの部屋には十五分程度で到着した。驚いたことに、彼の住むアパートは僕の家のすぐ近くだった。三分ぐらい前に、実家の門の前を通り過ぎている。
ドアを開けるとリオンさんは僕から離れ、靴脱ぎ場に入って行く。暖色系のライトの下だと、傷がより生々しく見えた。
「とにかく、さっきも言ったけど明日にでも病院に行ってね。その傷、早く治してもらわないことにはウチで働けないわけだし」
「あぁ、わかっているよ」
そう言ってリオンさんはドアノブに手をかける。その時、まだ何か言いたそうに口を半開きにしたが、結局そのままドアを閉めた。
鍵のかかる音を聞いた後、どちらから言うでもなく僕とガンコは歩き出した。アパートを出ると目の前には公園があり、その上でいくつもの星が輝いていた。
「うわっ、キレイ」
僕と同じようにガンコは星空を眺めていたらしく、顔を上げながら嬉しそうに言った。その横顔が夜であるにも関わらず輝いて見えたので、反射的に僕は目を逸らす。
「茨木でもけっこう星って見えるんだね」
「まぁ、山の中とか、そういうところに比べると劣るだろうけど」
「こっちに戻ってきてから、空ってちゃんと観ていなかったかも。もったいないことしたなぁ」
僕らの足は自然と公園の中に入って行く。グラウンドを抜け、遊具やベンチのあるエリアが近づいてきた。
「ここでさ、よく遊んでいたよね」
「遊んだ、遊んだ。どっちの家からも近かったしね。でも――」
それ以上ガンコの言葉は続かなかった。しかし周囲を見回す様子で、何を言いたいのかは大体察しが付く。
「うん。ここも色々と変わっちゃったよね」
昔は木材でできていた滑り台やブランコは、安全を考慮してなのかプラスチック製のものに替わっている。木で造り上げたベンチも所々欠けており、トゲが刺さってしまうのではないかと不安を煽られた。
「これはこれでいいんだろうけどさ。何だかちょっと寂しいっていうか、どうしても違和感があるよね。あっ、これって老害かな?」
言いながらガンコはブランコに腰掛ける。鎖が揺れる様を眺めながら、僕は笑みを浮かべた。
「明確に今を否定するような言葉は使ってないし、ギリセーフかな。でもそんなことを言うなんて、ガンコも年を取ったね」
「やめてよ、三十路になると嫌でも年齢のことでショックを受けちゃうんだから。それに達希くんだって同い年じゃん」
「ごもっとも。何も言い返せません」
僕はおどけながらガンコの隣のブランコに腰掛けた。
何だか久しぶりの感覚だ。ブランコに乗るのも、ガンコとこうして砕けて話すのも。
「あのさぁ、達希くん」
不意にガンコが訊ねてきた。なぜかその声からは、どこかためらいがちな雰囲気が醸し出されている。
「ん? 何?」
「今まで何人と付き合ってきた?」
僕はブランコからずり落ちそうになってしまった。咄嗟に鎖をつかみ、何とか持ちこたえる。
「い、いきなり何?」
「いや、ふと気になったから聞いてみただけ。ほら、こういう恋愛系の話って、話題の常套句じゃん」
「だからっていきなり過ぎるでしょ」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに。で、何人と付き合ったの? 五人? 七人? まさか二桁いってる?」
ガンコはすっかり調子を取り戻したらしく、グイグイと聞いてくる。昼間のあの泣きそうだった様子が嘘のようだ。
僕はためらいながらも、下を向いて「――ゼロ」と小さく呟いた。
「えっ、ゼロ?」
「そうだよ、いない」
僕はさらに恥ずかしさを覚える。
僕だって女性に興味がないわけではなかった。女友達は複数人いるし、好きになった人も何人かいる。告白だってした。ただ、いつもフラれて終わる。
どうやら僕は、恋愛対象として見られにくいらしい。フラれた後のセリフは決まって「良い友達としてしか見れない」だ。結局何をどう改善したらいいかわからないまま、今の年齢を迎えている。
その経緯を、僕はガンコに話した。するとガンコは「納得」と呟きながら何度も頷く。
「納得って――」
「達希くん、優しすぎるんだよねぇ。そういう人って、恋人として理想的と言われつつも、じゃあ実際に付き合うってなるとなんか違うなぁって感じちゃうんだよ」
「改めて言わないでよ。傷つくなぁ」
自覚していたことではあるのだが、ガンコに言われるとさらに心にずっしりときてしまう。
「そういうガンコはどうなんだよ。付き合った人の人数は?」
「えっ、あたし?」
振られるとは思っていなかったのか、ガンコは目を丸くして自分を指さした。そしてなぜか、僕の方が身構えてしまう。
咄嗟に聞いたことではあるのだが、やっぱり聞きたくないという思いが急に生まれた。
少しの間、ブランコの鎖が軋む音しか聞こえなくなった。今度はガンコがためらいがちな表情を見せるも、やがて両手で×マークを作る。
「実は、私もゼロ」
「マジで?」
自分でもわかるぐらい素っ頓狂な声が出た。僕の心に、意外さと安堵の気持ちが交錯する。
「いや、まぁ、告白されたことはあるよ。あるんだけどね。何て言うのかな、私があまり恋愛に興味を持てなかったというかね、勉強とか仕事とか、そっちの方をつい優先したいっていう気持ちの方が強くて、だから結局いつもごめんなさいって相手に言うしかなかったんだよねぇ」
ガンコの声はどこか上ずっている。その整った横顔を見つめ、僕は相槌を打ちながらも心が沈んでいく。
恋愛よりも仕事が優先。それが何だという話なのだが、なぜかその部分が妙に引っ掛かってしまう。
まるで壁を造られたというか、境界線を引かれたような気分だ。
「じゃあ、リオンさんのことはどう思っているの? すごく息がピッタリに見えるけど」
考えるよりも先に、そんな言葉が僕の口から出てきた。自分でもしまったと思えるくらい、その声には棘が含まれている。しかしガンコに気にした様子はなく「そうなんだよねぇ」と言って彼女は俯いて大きく息を吐いた。
「達希くんってさ、気付いている?」
「気付いているって、何を?」
「それ、私に言わせる気?」
僕は首を傾げて黙るしかない。言わせる気とは、一体何のことなのか?
やや間を空けて、ガンコが恥ずかしそうに口を開く。
「その、リオンってさ、私のことを好きでいてくれているみたいなんだよね」
僕の心臓の鼓動が、早くなった。バクバクと血を流す音が耳に聞こえてくる。
「そう、なの?」
「うん。でも私はリオンのことをすごく良い仲間とは思えても、恋人として一緒にいるところは想像できないし、恋愛感情も持てていない。だから、彼の望みには答えられない。それなのにさ、その気持ちを利用して、店の手伝いをさせているんだよ? つくづく私って卑怯者なんだなって実感する」
ガンコが顔を両手で覆った。そして大きく息を吐き出し「本っ当に最低」と呟く。その姿は自分を責めているからなのか、昼間のリオンを止めようとした時や、一緒に歩いていた時よりも一層小さく、弱々しく見えた。
「違うよ」
僕は深呼吸をし、語気を強めて言った。そして立ち上がり、ガンコの前にしゃがむ。膝が砂で汚れることなど構わない。ガンコが顔を隠していたっていい。僕はただ、目の前にいる女性に、穏やかさを意識して語りかける。
「月並みな言葉かもしれないけど、本当に最低な人は、自分の行いを最低とは思わない。思えないんだ。それに気付けず、自分の行動を疑おうともせずに、一方的に価値観を押し付けてくる人こそが最低なんだ」
僕の脳裏に、色んな人の顔が浮かぶ。ホテルで働いていた頃の上司。転職活動中、否定し鼻で笑ってきた面接官。僕の都合で、最低な人達として分類した人々。
正しいとか間違っているとかじゃない。あの人達と僕とでは価値観や自身が持つ正しさが大きく違っていた。それだけの話だ。それでも自分を否定した相手に対し、どうしても憎悪を持ってしまう弱さがある。
他の人達もそうなのかはわからない。少なくとも、僕はそういうタイプの人間だった。それを自覚するたびに、自己嫌悪に陥ってしまう。
その顔達と、心に侵入してきた負の感情を押しのける意味合いも込めて、僕はガンコの肩に手を置き、強く、低く声を発する。
「少なくとも、自分の行動を省みて、直さなくちゃと思えるガンコは、絶対に最低なんかじゃない。僕は誰が何と言おうと、そう思う」
僕の目の前で、ガンコがポカンと呆気に取られたように口を開けている。なぜ彼女がそのような顔をしているのか。その理由に気付いた瞬間、僕は一瞬で顔が火照るのを感じた。急いで立ち上がり、そっぽを向く。
「ご、ごめん、何か変に熱くなっちゃって。ビックリさせちゃったよね」
「い、いや、そんなことないよ。そんなことないし、それに――」
ガンコが何か言った気がした。しかし最後の部分は妙に声が小さくなり、上手く聞き取ることができなかった。
「ん? ガンコ、何か言った?」
僕は首を傾げながら訊ねる。しかしガンコは答えようとせず、ブランコから立ち上がると、急に歩き出した。
「あっ、ちょっと」
「さっ、そろそろ帰ろう。ちょっと冷えてきたし」
「そんなに寒いかな? あっ、ねぇって――」
ガンコは真っ直ぐ歩き、僕の方を振り返ろうとはしない。僕は慌てて、彼女の後を追いかけた。
「急にどうしたんだよ。僕、そんなに気に障るようなこと言った?」
「言ってない。そもそも私、怒ってない」
「じゃあこっち向いてよ」
「絶対、イヤ」
ガンコはふざけた調子で言った。その言葉と口調が真意なのかどうか、僕は見分けることができなかった。
