ガンコ




 接客は千尋さんに任せ、僕とガンコは散らばった豆の片づけを行った。派手にやらかした割に短時間で済ませることができたのは、ガンコの的確な指示があってこそだ。
 結局、閉店になってもリオンさんは戻ってこなかった。正直いても空気が重くなっていただろうから先に帰ってくれてよかったと思う反面、そんな風に思ってしまう自分にも嫌気がさしたし、何より彼があんなにも怒る原因を作ったのは僕自身だったので、八方塞がりのような居心地の悪さを感じた。
「そんなに達希くんが気にすることじゃないわよ。明らかにあいつが言い過ぎているし、何より機嫌が悪くなったからってそんなに怒るなんて、子供っぽいのよね」
 事情を聞いた千尋さんにはそうフォローしてもらったが、それでも僕の気持ちはあまり軽くはならなかった。あの騒動の後、ガンコはいつものように明るく振る舞ってはいるものの、先ほどの弱々しい姿を見ては、何だか無理に演じているように思えてならない。それもこれも、全部僕がしっかりしていなかったことが原因だと言うのに。
 閉店作業を終え、気付けば店の外は暗くなり、赤いレンガ調の道路を街灯が照らしていた。店の電気を全部消し、ドアに鍵をかける。
「じゃあ、お疲れ様」
 千尋さんは託児所に預けている娘さんを迎えに行かなければならないということで、そそくさと歩き去って行った。店の前には僕とガンコが残る。何だか彼女に気を遣わせてしまったような気がしてならない。
 昼間の騒動以来、ガンコとはまともに会話すらできていない。気まずい空気が僕らの周りに漂う。
 このまま帰ってしまうのも感じが悪い気がするし、何よりそうしたくはない。かと言って、じゃあ具体的にどうしたいのか。思いつかないながらも、この沈黙を破る第一声が欲しくて、僕は口を開く。
「あの、さぁ――」
「ねぇ、達希くん」
 僕の言葉に被せるかのようなタイミングで、ガンコが言った。笑みを浮かべてはいるが頬の辺りが引きつっていて、やはり無理をしていることがわかる。
「少しさ、この辺り歩かない?」
「――うん」
 頷くと同時に、僕らはゆっくりと歩き出した。街灯が照らす街は人がまばらに歩いており、僕とガンコのスニーカーの靴音を簡単に消してしまう。
「昔さ、何かあるたびにこうして近所を歩いたよね」
「小学生だったから、行ける範囲は限られていたけどね」
 近くの河原、公園、それに商店街。僕の脳裏に、十歳の頃の記憶が蘇る。
 親や先生に叱られたり、テストでひどい点を取ったり。そうした落ち込むことがあるたびに、お互いを呼び出して近くを歩き回りながら愚痴を言い合った。「付き合っているのか」とか「好き同士だ」とかでクラスメイトから冷やかされてもおかしくなかったはずだが、なぜかそういった記憶はない。おかげで彼女が引越しをするその日まで、気兼ねない関係を続けることができた。
「昼間はさ、ごめんね」
 近くのアーケード街に入ろうとするタイミングで、ガンコが低い声で謝罪した。それに僕は面食らい、何度も瞬きをする。
「ガンコが謝ることじゃないよ。あれは、僕が――」
「わざと、だったんだよね」
 僕は自分の耳を疑った。
「わざとって?」
「販売スペースに樽を置いて新しいコーヒー豆を入れる。そうした方が効率が良いって、最初から気付いていた。っていうか、普段からコーヒー豆の補充の時にはそうしているしね。気付いていながら、あえて私はキッチンで作業して、二人に持って行ってもらうように仕組んだの」
「一体どうして――」
 ガンコの意図がわからず、僕は眉間に皺を寄せながら先を促した。昔からあるパン屋の前を通り過ぎ、アーケード街の中でも道が狭く、人通りが少ない通りに差し掛かる。
「仲良くしてほしかったんだよね。リオンと、達希くんに」
 ガンコがため息を吐き、アーケード街の丸い屋根を見つめた。
「前にも少し言ったけど、リオンは誰にでも気さくに話しかけられる性格で、何て言うか、相手をリラックスさせることが上手いんだよね。それに自分なりに筋を通そうとするし、誰かの力になろうと動くことができる。ほら、今だってさ、前の職場の同期だからっていう理由だけで、私のところで働いてくれているし」
 それって、相手がガンコだからなのではないか? そう思ったが、さすがにそれは穿った言い方になるかもしれないと思い、僕は口を閉ざすことにした。
「そして達希くんは、昔と変わらず優しくて、相手のことを気遣える」
「いや、そんな――」
「そんな二人だから、仲良くしてほしいって思ったの。でも――ごめん、それって私の自分勝手な気持ちを二人に押し付けていただけだったよね。そういうのはしちゃいけない、しないようにしようって、十分注意していたつもりだったのに」
 自嘲気味にガンコは笑う。気まずい沈黙が、僕らの間に流れた。その時、その空気を破るかのように、怒号が飛んでくる。そして、うめき声の後に「こんなもんかよ!」という挑発する声。
 僕とガンコは顔を見合わせた。今この通りを歩いているのは僕ら二人しかいない。しかし今の声は、間違いなく近くから聞こえてきた。
 となると――考えるよりも先に、僕の体は動いていた。そして近くの路地裏を見て回る。
 ケンカとかカツアゲとか、そういう面倒事であるのは間違いない。普段なら絶対に関わりたくない。知り合いの声さえ聞こえなかったら。
 あの声は、確かにリオンさんの声だった。
 そして、見つけた。通りから離れるように伸びた路地裏で、何人もの影が集まっている。僕はとっさに建物の影に隠れ、様子をうかがった。暗がりでハッキリと顔を見ることはできないが、一人が地面に座り込み、その周りを四人くらいの人間が囲っている。まるで逃がさないかのように。あるいはこれから痛めつけようとしているかのように。
 後からガンコがやってくる。彼女もまた路地裏の様子を確認しようとするが、僕はガンコの肩を押し、静かに首を横に振った。
 僕は深く息を吸う。これからやろうとしていることは、怒号が聞こえてからの短時間で何度も脳内でシミュレーションをしたことだ。上手くいくかどうかはわからないし、失敗すれば今度は僕が殴られる。だが、見てしまった以上はもう放っておくわけにもいかない。
 心はまだぶれている。そのブレを修正する意味も含めて、僕は勢いに身を任せ、大声をあげた。
「お巡りさん! こっちです! ここで人が襲われています!」
 時が止まったかのような静寂が、一瞬この場を支配した。先ほどまで聞こえていた怒号も、何かを殴ったりするような音も聞こえない。隣に立つガンコは「何をしているの」と批難するかのように固まりながら僕を見つめている。
「早く! 早く来てください! お願いですから早く!」
 すぐに僕は思いつく限りの言葉を続けた。静けさを与えてはいけないと、すぐに感じ取ったのだ。
 もし沈黙を与えれば、リオンさんを殴っている連中は冷静さを取り戻すだろう。そして警察が来るというのは嘘だと気付くかもしれない。
 そんなことになってはいけない。それでは僕だけでなく、ガンコまで標的となってしまう。
 あの連中が何者なのかはわからないが、とにかく今は一刻も早く退散してもらわなければならない。
「そうです! ここです! ここで人が殴られているんです!」
 叫び声に交じり、ドタドタといくつもの足音が聞こえた。やがてその音が遠ざかっていく。
 僕は警察官を呼ぶ振りを続けながら、路地裏をコッソリと見た。いくつも立っていた影は消え、後に残っているのはその場でうずくまっている一人だけだった。
 僕は震える手でスマートフォンを取りだし、ライトを点灯した。眩しそうに手をかざしたその顔は、血だらけではあるもののリオンさんで間違いなかった。
「リオンさん! 大丈夫ですか?」
 安全を確認するなり、僕はスマートフォンをズボンのポケットにしまって、ガンコと共にリオンさんの元に駆け寄った。膝をつき、リオンさんの顔を見る。
表通りから漏れる街灯で薄っすらと浮かび上がったリオンさんの姿は、ひどいものだった。目の周りは腫れ、鼻からは血が流れて彼の来ているシャツを真っ赤に染め上げている。暗がりでよく見ないとわからないが、頬と唇の端にも痣ができていた。
「お前達、なんで――」
 見えているのかどうかもわからない腫れあがった片目で、リオンさんは僕とガンコを交互に見た。ガンコは「そんなことより」と金切り声を上げる。
「一体、何があったっていうのよ。ボロボロじゃない」
「あぁ、まぁ、ちょっとな――」
 リオンさんが珍しく歯切れの悪い言い方をする。その態度に苛立ちを覚えたのか、ガンコが「ちょっとって――」と呆れたように額に手を当てた。
「それより、警察が来るってやつ。あれって嘘なのか?」
 リオンさんが僕を見つめて言った。僕は黙って首を縦に振る。
「だったら、早くここを離れた方がいいな。あいつらが嘘だと気付いて戻ってきたら、さらに面倒なことになりかねない」
「だったら店に――」
「いや、ダメだ」
 ガンコの提案を、即座にリオンさんは却下した。
「何でよ。ここからだとあんたの家より店の方が近いじゃない」
「このご時世だ。店にボロボロの店員が入って行くところを客の誰かに見られてみろ。コーヒーショップ ガンコの店員が暴力沙汰かとか何とか騒がれたり、SNSで拡散されたりするかもしれない。そうなったら、店の経営にも大きく響きかねない」
「だったら最初からケンカをしないでよ!」
 ガンコが怒鳴り声を上げ、その場の空気が凍った。僕は呆けたようにガンコを見つめる。
 彼女と再会してから、ガンコが怒る姿を見たのは初めてだった。いつも元気で明るく振る舞っており、怒りの感情を、少なくとも店内では見せたことはなかったのに。
 やはり、それほどリオンさんが大切ということなのだろうか。その思考が脳裏を過ぎった瞬間、僕の心臓が締め上げられるように苦しくなる。
「とりあえず、ここを離れましょう」
 僕は今の自分の気持ちを誤魔化すために、何よりもこの状況を変えたいがために手を叩いて言った。そしてリオンさんに目を向ける。
「じゃあリオンさん、店がダメなら、どこだったらいいんですか? この近くで、友達とか彼女さんとか、そういう頼れる家ってあります?」
「ついこの間日本に越してきたばっかりだぞ。どっちもいねぇよ。けど、ここから歩いて行ける範囲内に住んでいる。だから俺をアパートまで連れて行ってくれたらそれでいい」
 そう言ってリオンさんは立ち上がろうとする。しかしダメージがでかいらしく、その場でふらついた。
 クソッ、とリオンさんが毒づく。なにに悔しがっているのかは、具体的にはわからない。僕は手を差し出し、つかむよう促した。リオンさんはためらいを見せるが、すぐに思い直したのか僕の手をつかみ、立ち上がる。そのまま僕は肩を貸し、路地裏を出た。ガンコは僕とは反対側に並んで歩く。またリオンさんがふらついた時、支えられるようにするためだろう。
「今さらだけど、救急車呼ぶ気はないんでしょ?」
 ガンコがため息交じりに訊ねた。リオンさんは自嘲気味に笑い「当然」と呟くように言う。
「そんな大げさなケガじゃねぇよ」
「そんな大げさなケガにしか見えないの。とにかく、明日から一週間、リオンは仕事お休みね」
「はぁ?」
 リオンさんが驚き、ガンコに目をやった。体格の大きいリオンさんに引っ張られるような形で僕はバランスを崩しかけるが、何とかおし留まる。
「だってそうでしょ。そのケガ、今日や明日で治るようなものだと思ってんの? そんなアザまみれの顔で店に立つつもり? SNSでいつどんな風に発信されるかもわからないこの時代に?」
「いや、それは――」
「とりあえず、最低一週間は休むこと。来週に出勤したかったら、今すぐ救急車を呼ぶのは勘弁してあげるからその間に病院に行きなさい」
 勢いを取り戻したガンコに、リオンさんはただたじろぐばかりだった。勝負する気力もないのか、推し負けるような形で「はい」と小さく呟くように言う。
「それで、何であんなところでケンカになったんですか?」
 話が一区切りついたと判断し、僕は気になっていたことを訊ねた。リオンさんは言いづらそうに目を逸らすも、ため息を吐いてから口を開く。
「店を出ても機嫌が治まらなくてな。何杯かハシゴで飲んでいたんだ。そしたらさっきの連中、たぶんこの辺りの大学生グループだと思うが、その一人とたまたま肩がぶつかってな」
「まさかそれで因縁をつけられて、揉め事になったっていうの?」
 ガンコの問いかけに、リオンさんは一瞬フリーズしたかのように固まった。しかしすぐにまた歩き出しながら小さく頷く。ガンコは呆れたとばかりにわざとらしく大きなため息を吐いた。
「そんなの、ほっとけば良かったじゃない。いい大人なんだし、数としても向こうの方が多いんだからさ」
「それは、まぁそうなんだが、あの時は俺もイラついていたし、気を紛らわせることができるかもしれないって、そう思ったんだ」
「思ったって――」
「まぁまぁ、ガンコもそこらへんにして」
 僕はリオンさんに肩を貸しながら二人をなだめにかかる。このまま言い合いを続けても、おそらく不毛なだけだ。
 何より、ガンコとリオンさんが仲良さそうに口ケンカをしているところは、僕としてもつらい。
 ガンコはまだ何か言いたそうに口を半開きにしていた。しかし思いとどまってくれたのか、前を向く。
「とにかく、達希くんに感謝した方が良いわよ。あの時、リオンを助けたのは達希くんなんだから」
「――なぁ、国島」
 ガンコの言葉に答えるでもなく、リオンさんは僕の名前を呼んだ。僕はとっさに身構えつつ、次の言葉を待つ。
「どうしてあの時、俺を助けた?」
「え? どうしてって――」
「ハッキリ言わせてもらうと、俺はお前のことが気に食わないし、お前も俺のことを嫌っていると思っていた。見て見ぬ振りをして当然のはずだ」
「それは――」
「それに、あの警官を呼ぶ振りにしたってそうだ。あんなハッタリ、バレる可能性の方が高かったはずだし、そうなったら今度はお前自身に被害が及んだはずだ。その危険を、お前は考えなかったのか?」
 リオンさんの言葉に、僕はすぐに答えることはできなかった。
 もちろんリオンさんが上げたリスクは、僕自身も考えていた。上手くいかないかもしれないとは思いつつも、あの時は咄嗟というか、リオンさんを助けなければならないという思いの方が強く、そうした不安を掻き消した形に近かったのかもしれない。
 僕自身の思考を整理した後、ややためらいがちに口を開く。
「確かに、僕はあなたのことが苦手です。正直に言わせてもらうと」
 隣でリオンさんが鼻で笑う音が聞こえた。それに構わず「でも」と言葉を続ける。
「苦手だからって理由で、ひどい目にあっているのに見て見ぬ振りをしていい理由にはならないですし、そんなみっともない真似をして、さらに自分を嫌いになりたくはなかったんです」
 今、考えうる限りの言葉を、僕は出し尽くした。しかし中々返事は返ってこない。
 僕はチラリと視線を横にやった。なぜかリオンさんは腫れあがった顔に呆然とした表情を浮かべて僕を見つめていた。
「えっと、答えになっていましたかね?」
 何かずれたことを言ったのだろうかと不安になり、恐る恐る僕は訊ねた。リオンさんは答えず、何度も瞬きを繰り返したかと思うと、急に吹き出した。
 僕はただ困惑するしかない。いつも仏頂面なリオンさんが、このように笑うとは。
「それ、お前が好きだっていう特撮のセリフか何かか? それとも影響?」
 今度はリオンさんがやや的外れとも思える質問をしてきた。僕は戸惑いながらも答える。
「どちらかと言うと、影響ですかね。似たようなセリフはありますけど。えっ、なんかオタクっぽい感じになっていました?」
「いや、でも、そうか――」
 何がツボに入ったのか、リオンさんは相変わらず笑い続けている。僕は助け船を求めてガンコに目をやった。しかし彼女はなぜかピースサインを作り、僕に笑いかけるばかりだ。しかもなぜか、その笑顔はどこか誇らしそうにも見える。
 混乱する僕の隣で一しきり笑ったリオンさんが、絞り出すような声で呟いた。
「敵わねぇな、こりゃ」