五
十一月も半ばに差し掛かり、寒さがどんどんと増していく。いつもはお客さんが入りやすいようにと開けている店のスライドドアも、さすがに今日は閉じていた。
僕がガンコの元で働くようになって一か月近くが経とうとしていた。仕事もそれなりに覚え、どこの産地のコーヒー豆にはどのような特徴があるのか、大体は言えるようになってきた。僕がコーヒー好きだから、そうした知識も吸収しやすいのかもしれない。
灰色の午後の空を眺めながら、僕はドアのガラスを拭いていた。そして大きくため息を吐く。
ここ最近、ずっと心がスッキリしない。
仕事は特別きついわけではない。残業もほとんどないし、ガンコとも気さくに話せている。仕事を教えてくれる千尋さんにしても、藤本さんと同じように面倒見が良いタイプだし、わからないことがあったら質問がしやすい。同い年だからというのもあるのかもしれないが。
問題はもう一人の、リオンさんの方だった。
僕は窓ガラス越しに、店内の様子を眺める。キッチンの中で、ガンコとリオンさんが何かを話しながら作業をしている姿が目に映った。それがより僕の心を暗くさせる。
正直に言うと、僕はリオンさんのことが苦手だった。
いつも仏頂面で、僕が話しかけても不愛想に「今は忙しい」とか「んなもん、千尋に訊け」とか言ってくる。元々の性格なのかもしれないが、心のシャッターを閉ざされているような気がしてならない。近くにガンコか千尋さんがいれば「そんな言い方しなくてもいいでしょ」などと注意してくれるのだが、何だか庇われている自分が情けなく感じ、ありがたいと思いつつもかえって落ち込んでしまう。
ガンコ曰く、リオンさんは本来もっと気さくで、あんなに不機嫌な様子を見せることはあまりないと言う。しかし僕は、逆に不機嫌なリオンさんしか見た記憶がない。身長の高さも相まって、より圧を感じてしまうのだ。
僕とリオンさんは、間違いなく相性が悪い。彼から受け入れられていないことは明らかだった。
相手が不愛想でも、気にしなければいいのかもしれない。僕も実際にそうしようと意識はしている。しかしそれをスムーズにできるほど器用ではない。
何より気になるのは、ガンコとの関係性だった。
この一か月働いてみてわかったことは、仕事だけのことではない。ガンコとリオンさん、二人の息があまりにもピッタリなのだ。
キッチンでは主にガンコとリオンさんの二人が入ってコーヒーを作っている。コーヒーマシンを使わず、焙煎から自らの手で行うのはガンコのこだわりらしいが、その分手間はかかる。それを互いにフォローして補うのだが、その様子があまりにも様になっているのだ。まるで相棒のようとも、夫婦のようとも取れる。それが僕には何だか面白くないし、なぜだか嫌でも意識してしまう。
一度千尋さんに、二人の関係をそれとなく訊いてみたことがある。ガンコとリオンさんは前からの職場の付き合いとのことだが、交際しているのか、と。しかし千尋さんは笑いながらこう言った。
「まぁ確かにあの二人は良き相棒? みたいな感じだけど、少なくとも付き合っているとかの恋愛関係じゃないよ。だから国島くんにもチャンスはあるって」
一体チャンスとは何のことなのか。そのことはなぜか照れ臭くて考えないようにしている。とにかく、そう言った関係じゃなくて良かったと安堵を覚えつつも、しかしそれが千尋さんの勘違いで、もしも僕らの知らないところで二人が付き合っていたら、という可能性も捨てきれず、モヤモヤはなくなるどころかさらに増してしまった。
何より、リオンさんはガンコに付いて日本に来たということだった。ならば、少なくともリオンさんには――
「おい」
ボーッと窓を拭いていた僕は突然声をかけられ、現実へと引き戻される。みると少し開けたスライドドアの隙間から、リオンさんが不機嫌そうな表情でこちらを睨んでいた。
「いつまで窓なんか拭いているんだよ」
「す、すみません」
そんな言い方はないだろうと思いつつも、臆病な僕は謝るしかない。ガンコはキッチンにいて、千尋さんは近くに住んでいるお客さんから頼まれたコーヒーを持って行っている。助け船を今すぐ期待することはできない。リオンさんはため息を吐くと、顎で店内をしゃくった。
「頑奈が呼んでいる」
「がん――店長が、ですか」
リオンさんは僕がガンコのことをあだ名で呼ぶのを嫌っている。僕が入って間もなくの頃、ガンコとフランクに話していると「仕事だろ。上司をあだ名で呼んで、タメ口で話す部下がいるか」と注意された。ガンコはそんなの気にしないからとフォローを入れてくれたが、以降もガンコと昔のような雰囲気で話をするたびにリオンさんに睨まれたり注意されたりすることが多々あった。僕自身も何度も言われることは嫌だったので、次第にガンコと仕事中に会話をすることが減っていき、彼女のことも店長と呼ぶようになった。仕事終わりに関しても、僕とガンコでは帰る家の方向が逆のため、一緒に並んで歩く、ということはあまりない。そもそもガンコは従業員を先に帰らせ、店の電気を消したりドアにカギをしたりと、そういった締め作業を自分一人ですることが多いので、帰宅するタイミングもずれている。
せっかく幼馴染と同じ場所で働けているというのに、段々と距離ができつつある。そのやりきれなさがどうしても僕の心に影をさす。もちろん、仕事だしそれだけで働くのもいけないとはわかっているのだが。
「何をグズグズしている。さっさと行け」
リオンさんに急かされ、慌てて僕は店の中に入る。あの青い目で睨まれると、どうしても早く動かなければと体が反応してしまう。
キッチンに近づくとガンコが僕に気付き、手招きしてくる。僕は疑問に思いながら、キッチンの中に入っていった。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いや、そんなことは――」
僕はどのような言葉遣いにしたらいいのかわからず、チラリとドアの方に目をやる。リオンさんはただ仏頂面でこちらを睨んでいた。彼のことだから、僕がタメ口を使わないかどうかと監視をしているのかもしれない。
ルールやマナーに厳しいことは、決して悪いことではない。しかしそれだけの意図ではないように僕には思えてしまう。単なる被害妄想かもしれないが。
「でね、達希くんにはこれを運ぶのをお願いしたいの」
ガンコが足元を指さす。それは蓋のない、二つの樽だった。僕の膝の高さぐらいまであり、中には黄緑とも白とも言い切れない色をした豆が入っている。焙煎前のコーヒー豆だ。
「これって――」
「新しく入荷したベトナムコーヒーの豆。これを新しく置こうと思うの。でも思いの外重くてさ。私なんかじゃ無理。だから、リオンと二人でそれぞれ運んでほしいの」
「何?」
ドアの方からリオンさんが眉間に皺を寄せてこちらに近づいてきた。
「聞いてないし、こんなの俺一人で十分だ」
「これは業務の効率の問題。一人で二往復するより、二人で一往復で済ませる方が早いでしょ。ほら、同じ店の仲間なんだし、ここは協力して、ね」
上目遣いにガンコは僕とリオンさんを交互に見る。
いくらガンコの頼みでも、この作業にはどうしても乗り気にはなれなかった。苦手な人とは可能な限り関わりたくない。例え同じ職場という限られた環境内でも、必要最低限な会話で済ませたいと、どうしても思ってしまう。
だが仕事である以上、そのような僕のわがままだけで断るわけにもいかなかった。今はため息を吐くしかない。
「大体、最初から樽に入れる作業を販売スペースでやっていればよかったんじゃないのか」
「それは言わないでよ。私もさ、豆を入れ終わってからそのことに気付いたんだしさ」
ガンコとリオンさんがまた親しそうに会話をし始める。それがまた僕の心に、ジャブで打たれたようなダメージを与えた。
「ほら、それより早く運んで。店長命令」
ガンコが手を叩いて急かしてきた。僕は我に返り、樽の上部を持つ。
「違う。底の方を持ち上げろ」
リオンさんがしゃがみ、わずかにもう一つの樽を傾かせて底部分と床の間にできた隙間に指を入れる。僕もそれに倣って樽の上部を軽く押し、僅かに空いた空間に左手の指先を滑り込ませた。
「いくぞ」
リオンさんのその掛け声で、僕らは各々の樽を持ち上げる。コーヒーの生豆をいっぱいに詰め込んだ木の丸箱は、小さな見た目からは想像できないような重さだった。少しでも気を抜けばバランスを崩してしまう。非力な僕ならなおのこと、だ。
「おい。絶対に転ぶんじゃないぞ」
前を歩くリオンさんが、振り返って言った。その声はわずかにだが震え、今の彼にも余裕がないことが窺える。
二人して姿勢を低くしながら、やっとのことでキッチンを出る。腰を痛めてしまうかもしれないが、それを気にして修正できるだけの余裕は僕にもリオンさんにもない。
そして販売スペースにあと十歩ほどで辿り着くかどうかというタイミングでのことだった。
「あ」
声をあげた時には遅かった。一瞬力が入らなくなったことが原因でバランスを崩し、僕は前のめりにこけてしまう。顎が床に当たるのと、バラバラと細かなものが大量に床に飛び散る音がしたのは、ほぼ同時だった。
這いつくばる僕の前にコーヒー豆が何粒か転がってくる。全身の体温が一気に奪われ、時間が止まったかのような静けさが店内を包んだ。この感覚が本物になれば――本当に時が止まってくれればと僕は願うが、当然そんなことが起きるわけがない。
「おい」
沈黙の空気を破るように、リオンさんのいつも以上に低い声が僕の鼓膜を揺らす。そう思った次の瞬間には首元が苦しくなり、僕は自分の意思とは無関係に立っていた。シャツの襟首をつかまれ、無理矢理立たされたのだ。いつの間に樽を置いたのか、目の前にはリオンさんの青い瞳が間近に迫っていた。
「何をしてくれてんだてめぇ!」
リオンさんの怒鳴り声が熱を持って店内に響く。それに反し、僕の体温はさらに下がっていった。
「自分が何をしたか、わかっているのか? 頑奈が新しく手に入れた豆を、台無しにしたんだぞ!」
「す、すみません――」
「すみませんじゃねぇんだよ! てめぇのそのナヨッとした非力さがいけねぇんだろうが! 頑奈が雇いたいって言うからしぶしぶ認めてやっていたが、もう我慢できねぇ。最初からお前みたいなやつはここにいるべきじゃなかったんだ! 幼馴染か何か知らないが、頑奈と馴れ馴れしくしやがって」
「そんなつもりは――」
「黙れ! 違うっていうならな、この豆全部弁償して見せろよ! それか今すぐこの店を――」
「やめて!」
僕の耳に、ガンコの甲高い声が響く。焦点も定まらない視界の中、僕は意思を失った機械のように声のした方向を見た。
ガンコがリオンさんの腕をつかみながら俯いていた。その小さな肩は震えている。リオンさんも冷静さを取り戻したのか、口を半開きにしてガンコを見つめていた。
「リオン、お願い。もう、やめて――」
ガンコは今にも泣き出しそうな声で言った。どのような表情をしているのかはわからない。わかるべきではないのかもしれない。
リオンさんは、何も言わない。ただ静かに僕の襟から手を離すと、罰が悪そうにガンコの手を自分の腕から外させた。
僕自身も、その場に立ってただ呆然とするしかなかった。
初めてだった。いつも明るく振る舞っているガンコが、こんなにも弱々しい姿を見せたことが。あんなにも必死な面を見せたことが。
僕のせいだと、反射的に思った。
僕がもっと腕力があれば、コーヒー豆をばらまかずに済んだ。そしたらリオンさんも怒ることはなかったし、こんなにも辛そうなガンコを見なくて良かったはずなのだ。
僕さえしっかりしていれば――そんな仮定を今さら考えても無駄なことはわかっている。それでも考えずにはいられない。
「クソッ」
しばらく黙っていたリオンさんが居心地悪そうに毒づいた。その場でエプロンを脱ぐと荒々しくカウンターの上に置く。
「悪いけど、今日はもうあがる」
リオンさんは誰とも目を合わせずにそう言った。僕もガンコも、その場を動くことはできないし、言葉を発することもできない。
リオンさんがドアを開け放つ。するとタイミング悪く、千尋さんがコーヒーの出前から帰ってきた。
「お疲れ。あれ、リオンもうあがり?」
千尋さんの言葉にリオンさんは何も答えず、彼女を押しのけるように出て行った。「ちょっと」と言う千尋さんの言葉が、虚しく響く。
「何あれ――えっ、修羅場?」
店内を見回した千尋さんが発した第一声がそれだった。
