四
ベージュの壁で覆われた診察室。僕は前の席に座る原田(はらだ)先生に、近況を報告していた。自分の体調と精神状態を含めて。
「――うん。非常に良い傾向だね。表情も先月より明るくなっているし、ハキハキと喋れるようになっている。以前のように眠れないとか、動悸が激しくなったり、急に立てなくなったりするようなこともない?」
原田先生はやや垂れがちな目でパソコンと僕の顔を見比べながら言った。僕がいるところからだと画面の表示は小さくてよくは読めないが、おそらく今までの診察の内容が書かれているのだろう。
僕はこの原田先生が院長を務める「原田メンタルクリニック」に月一回の定期健診を受けに来ていた。医院の場所がJR茨木駅の前にあるオフィスビルの中。同じ茨木市内でも、僕の家からは徒歩三十分以上の距離がある。それでもここを選んだのは、家の近くの心療内科よりも、クチコミの評価が高いからだった。
「ええ。少なくともこの一か月ぐらいは、大丈夫です。睡眠に関しては、今の職場になってから途中で何度も起きたり、全く眠れなくなったり、ということもなくなってきています」
「小学校のお友達が経営しているカフェ、だっけ。職場に心を許せる人がいるっていうのが、国島くんの精神的支えになっているのかもしれないね」
原田先生は柔和な笑みを浮かべながら何度も頷く。こけた頬を最初見た時は正直不安に感じたが、今ではその顔が誰よりも頼もしく思える。
「あ、カフェというよりも、コーヒーショップです。コーヒー豆の販売がメインの」
「あぁ、そうか。これは失礼。いやぁ、どうにも一緒くたに考えてしまって、ダメだねぇ」
原田先生が頭を掻きながら笑う。しかしすぐに真顔に戻り「けど」と言葉に真剣さを帯びさせた。
「正直、僕はまだ心配なんだ」
「心配、ですか?」
僕は首をひねる。原田先生は大きく頷いた。
「そう。君が初めてうつ病を発症した時、ホテルで働いていた。そして細かいところは違うだろうけど、今度の仕事も接客業――うつ病を発症した原因がその接客にも少なからずあった以上、どうしても何かの拍子に悪化してしまうのではないかと、気にせずにはいられないんだよ」
原田先生の言わんとしていることはわかった。ガンコに誘われた時も、僕自身、不安に感じていたことなのだ。
五日前から僕はコーヒーショップ ガンコで働いている。主には千尋さんから店に置いているコーヒー豆の種類とその特徴を教えてもらい、お客さんが来て、商品を選ぶのに悩んでいたら相談に乗るというのが主な業務だ。といっても僕はまだ新人だから、豆の案内は主に千尋さんがやっている。僕はせいぜいコーヒーを飲みに来たお客さんを席まで案内したり、ガンコやリオンさんが淹れたコーヒーを運んだり、お客さんが使っていた食器をバッシングしたりしている。つまりはほぼホールスタッフというわけだ。当然仕事のこともある程度覚えてきたら本格的に販売も行っていくこととなるだろう。
人と接することに恐怖を覚えてしまった僕が、コーヒーショップの店員など勤まるのか。今でも正直に言うとわからない。しかし――
「でも、今はこの仕事をしたいんです。コーヒーは僕にとっても好きな飲み物だし、ガンコの――その友達の言う、コーヒーで人に元気を与えたいって考えにもすごく感銘を覚えたから」
何よりガンコと一緒に働きたい――その言葉がまた出そうになったが、何とか直前で飲み込むことができた。
原田先生は何度も頷きながら「そうか」と呟く。
「君がそこまで言うのならわかった。もしまた何かあったら、定期診断以外の時でもいいからいつでも来なさい。僕も、君の力になりたいからね」
「ありがとうございます」
それから次の診断日について原田先生と打ち合わせをした後、診察室を出た。そんなに広くない受付前の待合スペースで席を探す。平日の昼間だというのに席は埋まりつつあったが、観葉植物と雑誌ラックの側に設置されている席が空いていたので、僕はラッキーと思いつつそこに座る。
それにしても心の病を抱える人がこんなにも多くいるとは。僕の中に何とも言えない感情が生まれた。同じ仲間がいると思えばいいのか、それとも現代社会の厳しさに異議を唱えればいいのか、判断がつかない。
その時、誰かがこちらをじっと見つめているような、そんな視線を感じた。僕は気になり、そちらに目をやる。
僕が見た瞬間、一人の女性がすぐに顔を下に向けた。室内だというのに帽子を被っており、メガネとマスクを身につけている。そのため顔を確認することはできない。白いトレーナーにジーンズとラフな格好をしているが、そのダボッとした膨らみ具合から痩せている方だとうかがえる。何より彼女からは、近寄りがたい雰囲気が感じられた。まるで心の壁を作られているかのような。顔を隠しているからというのもあるのだろうが。
もっとも、ここは心療内科だ。つまり何らかの要因で心を病んだ人が治療のために訪れる場所。あの女性も、精神的な負担を減らすために顔を隠しているのかもしれない。例えば見られることでさらにしんどい思いをするとか。
とはいえ、さきほどの視線がどうも気になる。どうして彼女は、僕を見つめていたのだろうか。
声をかけても問題はないだろうが、何しろ視線を感じたのは一瞬のことだ。勘違いだった可能性も十分にある。そうだとしたらものすごく恥ずかしい。
「国島達希さーん、お待たせしました」
受付の女性から名前を呼ばれ、反射的に僕は立ち上がった。正直、ナイスタイミングだと思った。
受付に行って会計を済ませ、クリニックを出る。そしてビルの外に出て近くの調剤薬局へと向かった。
こちらは原田メンタルクリニック以上に人が並んでいた。その大半がお年寄りだ。他所のクリニックでの診察を受けてきた人達なのだろう。
僕は処方箋の紙を受付の女性に渡し、受付番号が印字された紙を受け取ると、カウンター上の天井に吊るされたモニターに目をやる。画面には現在呼び出している受付番号と、待ち時間の目安が表示されていた。その待ち時間は、約一時間と出ている。結構長い。
一時間も薬局でただただ座って待つのはどうかと思い、僕は昼食を取ることにした。薬局を出て、駅の方面へと向かう。
確か駅前に新しくカフェができたはずだ。前から気になっていたので、そこで時間になるまでゆっくりするのもありかもしれない。そんな風に僕が考えながら歩き、原田メンタルクリニックが入っているビルの前を通り過ぎた時だった。
「国島くん!」
突然背後から名前を呼ばれ、僕は立ち止まった。振り返ると、一人の女性がこちらに手を振りながら歩いてきた。知っている人物だ。前の職場の上司の、藤本舞さん。
「久しぶり! まさかこんなところで会えるなんてね」
藤本さんは短く切った茶髪のボブを揺らし、快活な笑みで僕に話しかけてきた。上等であろうスーツを着こなし、キャリアウーマンとしての佇まいが様になっている。僕も自然と頬を緩ませ「本当ですね」と答える。
「お元気にされていましたか?」
「してたしてた! というか、国島くんこそ元気? LINEでのメッセージぐらいしかやり取りができていなかったけど」
藤本さんは僕が辞めてからも心配し、頻繁に近況を聞いてくれていた。退職後もそんな風に気にかけてくれる人間は、そうはいないだろう。彼女のそうした面倒見の良さがあるから、嫌いにはなれない。部長という役職だが年齢は三十と、歳が近いこともあってか姉貴分のように自然と頼りにできる存在だ。
「ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんとご飯食べているの?」
「食べていますよ。実家暮らしですし、そこのところは困っていません。それに、新しい仕事も決まりましたし」
「本当に? おめでとう!」
藤本さんが手を合わせて自分のことのように喜んでくれた。その反応が嬉しくて、同時にちょっと恥ずかしくなる。
「次はどんな仕事なの?」
「コーヒーショップの店員です。小学校の頃の友達が経営していて、雇ってもらうことになったんです」
「コーヒーショップか、いいなぁ。そういえば国島くん、コーヒー好きだったよね」
それから僕らは、その場で立ち話をした。前の職場が現在どうなっているかの近況、人気のファーストフード店の新作について、そしてお互いに恋人ができたかどうかのちょっとした軽い話まで。藤本さんに現在恋人がいないのは今でも意外に思う。藤本さんは面倒見が良いし、美人だ。男なら放っておかないとは思うのだが、やはり若くして部長になった人は僕なんかとは何かが違うのかもしれない。
「あっ、やば。もうすぐバスが出ちゃう」
ふいに藤本さんが腕時計を見て焦りの表情を浮かべた。これから社員が常駐している病院に行き、現場責任者と何らかの打ち合わせがあるそうだ。
「すみません、何だか引き留めちゃって」
「何言っているの。私から話かけたんだよ。あっ、その国島くんが働いているっていうコーヒーショップ、今度行ってもいい? いつになるかはちょっとわからないけど」
「えぇ、もちろん」
知り合いに自分の働いている姿を見られるのは、正直恥ずかしい。しかし絶対イヤだというほどの拒絶感もなく、すんなりとオーケーの言葉が僕の口から出た。
「じゃあ、またね」
藤本さんが手を振りながら歩き去って行く。遠ざかっていくパンプスの音を聞きながら、僕は自分の腕時計に目をやった。
思った以上に時間が経過している。今から昼食を食べていると、目安の待ち時間をオーバーしてしまうだろう。カフェに行くのは後回しにすることに決め、来た道を戻ることにした。
その時、前方から先ほど診察室にいた女性がこちらに歩いてきているのが目に映った。相変わらず猫背で俯き、顔を見せないようにしている。ちゃんと前が見えているのだろうかと僕は少し心配になったが、さすがに声をかけることはできなかった。ただ、なぜかその女性が妙に気になってしまう。その理由が自分でもわからない。だからモヤモヤする。
僕は横断歩道の前に立ち、信号を待つ振りをしながらその女性の様子を横目で見た。
女性は立ち止まることなく、淡々と駅の方面へと歩いていく。ただ妙なことに、向こうも何度か後ろを振り返って僕の方を見てきた。僕は何だか気まずくなって、慌てて視線を逸らす
僕の気のせいだとは思う。思うのだが、やはりあの女性は僕のことを見ていたとしか考えられない。自意識過剰かもしれないが、どうしてもそう感じずにはいられなかった。
やがて女性の姿が完全に見えなくなった。そのことに僕は安堵とも寂しさとも言えない感情を胸に抱き、立ってから何度も変わった青信号の横断歩道をようやく渡る決意をした。
