二
ガンコ――宮島頑奈(みやじまかな)が僕のクラスに引っ越してきたのは、小学五年生の春の始業式だった。
あの頃のガンコは当然ながら今よりも背が低く、髪は同じショートだが色は黒かった。
最初は中々クラスに馴染めず、ずっと一人だった。しかしいつからだったろう。気付けば僕らは友達となり、互いの家や近くの公園に遊びに行くようになった。
ガンコというあだ名は、僕がつけたものだった。頑奈という名前から「頑張る女の子」というイメージが浮かび「ガンコ」と呼ぶようになった。
今思えば、嫌がられたり、イジメとして訴えられたりしても文句を言えないあだ名だとは思う。しかし彼女がこのあだ名を嫌うことはなく、むしろ気に入っている様子だった。少なくとも、僕からはそう見えた。
だが次の年の二月に、ガンコはまた転校してしまった。引っ越すという話もなく、突然に。担任の先生によると、ひっそり転校することは彼女自身が望んだことだったそうだ。お別れ会などをやると、余計に寂しさが増すから、という理由で。
子供心に、ショックだった。裏切られたような気分さえした。友達なのだから、せめて自分には言ってほしかったと。だからと言って彼女を恨むこともできず、しばらくは心にポッカリと穴が空いたような喪失感を抱えて日々を過ごした。
そのガンコが、今目の前にいる。共に遊んだ茨木市に、しかも店を持って。
「やっと思い出してくれた!」
ガンコは目を大きく見開き、白い歯を見せて笑った。その子供のような喜びようは、確かに昔と変わらない、宮島頑奈のものだ。
「まさか、こんなところで会うなんて――」
「ビックリしたでしょ? 十六、七年振りとかになるのかな」
僕が現在二十八歳なので、当時は小学五年生――十一歳の時だった。期間としてはそれぐらいになるだろう。
昔のガンコは常にと言っていいほど明るい笑顔を浮かべていたが、今の彼女がはにかむ表情は当時の面影を感じさせる。可愛らしいとは思うが、口に出すのはあまりにも照れ臭いので言わないことにした。
ただ、恨み言だけは少し口にしたい。
「何も言わずに転校するんだもん。ビックリしたよ」
ガンコが転校する少し前にも、二人で近くの河川敷で遊んだことがある。
その時は大阪では珍しく、雪が積もった日だった。二人して雪玉を作り、雪合戦をした。
積もったと言っても、ほんの数ミリ程度だ。雪玉一つ作れば地面が露わになった。ただ旅行やテレビ以外で雪が積もっている景色を見たことがない僕からすれば、感動以外の何物でもなかった。ガンコが投げてくる雪玉は当たると簡単に砕けた。しかしその冷たさは僕の皮膚にダメージを与え、思いの外痛かったのを今でも覚えている。
一しきり遊び、夕方になったので、僕らは帰ることにした。確かあの時、僕は「またね」と言って手を振った。その後、ガンコが一瞬暗い表情を浮かべたが、すぐに取り繕うような笑みを見せ「またね」と振り返したはずだ。あの刹那の顔が後から知った僕の記憶の改ざんによるものなのか、それとも引っ越すことを話さなかった彼女の罪悪感故のものなのかは、今となってはわからない。
いずれにせよ、それが彼女を見た最後であったことには変わりがない。
「あの時はごめん。先生からも聞いたと思うけどさ、なんかあの頃は居心地が良かったからこそ、言っちゃうと寂しさが倍増しそうな気がして、どうしても言い出せなかったんだよね」
ガンコが顔の前で両手を合わせて謝る。そう言われてしまうと、僕としてもそれ以上何も言うことはできない。
「それは、まぁそうかもしれないし、今なら理解できるけど」
「でも、こうして再会できたのは本当に嬉しいよ」
「僕もだよ。転校してから、東京に行ったんだよね?」
当時の担任の先生が言ったことを思い出しながら、僕は言った。ガンコは大きく頷いて「そう」と答える。
「でもさっきも言ったけど、向こうで父さんが仕事を変えてね。転勤族からは見事に足抜け。それから大学までは、ずっと東京だったの」
「大学卒業後は? やっぱりコーヒー関係?」
段々と記憶が蘇ってきた。そう言えばガンコは小学校の頃からコーヒーが好きだった。しかも砂糖やミルクを入れない、純然たるブラックを。
今でこそ僕もコーヒーが好きになったが、子供の頃はそうではない。当時の僕からすれば、苦さしか感じられないコーヒーを飲めていたのだから、ガンコはすごいと、一種の尊敬を感じずにはいられなかった。
コーヒーショップを始めたのも、もしかしたらそのコーヒー好き故かもしれない。だから新卒の会社もコーヒー関連かと思ったのだが、ガンコは首を横に振った。
「大手の通販会社。今年の七月までアメリカにいたの」
何気ない口調でガンコは答える。しかしその予想外の答えに、僕は目を大きく見開くばかりだった。
「アメリカって、マジで?」
「そう。でもやっぱりコーヒーに携わる仕事をしたいなぁって思って。で、日本に戻って来たってわけ――それより、達希くんは今何をしているの? 仕事帰り?」
ガンコが前のめりになって訊いてくる。しかし僕は返答に窮してしまう。
アメリカ帰りで、今は店の経営者。そんな輝かしい彼女に、今の僕の現状はすごく話しにくい。
「どうかしたの?」
ガンコが下から心配そうにのぞき込んでくる。自分でも無意識の内に下を向いていたらしい。
「いや、その――」
自分の中で答えが決まらず、しどろもどろな口調となってしまう。息が詰まるような思いだ。
こんな恥ずかしい自分を、どうか見ないでくれ。そう思ってしまうも、同時にこうも思った。
久し振りに会った友達に、自分のことを誤魔化す、隠すなど、果たして誠実と言えるのだろうかと。
そう思った瞬間、自然と僕の口は動き出していた。
「今は、仕事をしていない。転職活動中。おまけに、うつ病持ちなんだよね」
一度口にしてしまうと、後は湯水のように次々と言葉というものは流れ出てくるものだ。
それからは淡々とした調子で、彼女に僕の経歴を話し始めた。その間、ガンコの顔は見ず、ずっとカウンターテーブルの上に置いた手を見つめるばかりだった。
大阪の大学を出た後、僕は全国でリゾートホテルをチェーン展開している大手の会社に就職した。そして最初に配属されたのが、北海道の山中にあるホテルだった。
働き始めた当初は慣れないことも多くて、毎日のように仕事で失敗する夢を見るほど憂鬱な気分だった。しかし来てくれたお客さんには可愛がってもらえることが多く、それなりに充実はしていたのかもしれない。
しかしホテルに来てくれる客が全員、優しいというわけでもない。
名前を間違えてしまったということで、宿泊客を不快にさせてしまうパターンもあった。他には「部屋が気に入らない」「レストランで案内された席が不満だ」などと言った理由でクレームをつけに来るお客さんもいる。
それだけならいい。従業員とお客さんの関係は、悪かったとしてもその場限りで済むこともある。だが、職場内の人間関係はそうはいかない。
上司からは事あるごとに叱られた。どれも僕の失敗ばかりだ。作業効率が悪いことや、言葉遣いが間違っていることなど。僕自身のミスなのだから、反省して引きずらないようにすればいい。しかし「今まで苦労から逃げてきたからそんな性格になるんだ」と人生すら否定してくる言葉は、耐えるにはあまりにも大きすぎた。
現代の若者は我慢が足りない、面倒くさがりだなどと否定されがちだ。それはいつの時代もそうなのだろうが、それでも言われる側からしたら悔しくてならない。
だから僕は耐えようとした。見返してやりたいと思った。「現代の若者」という一つの括りでしか見てこようとしない年長者たちに、全ての若者がそうではないのだと。だからどれだけ心にダメージを負っても、我慢をし続けようと覚悟を決めていた。
そのはずだった。
おかしいと気付いたのは、働き始めてから一年と半年を過ぎたあたりだった。
夜に眠れないことが増えた。一度眠りに落ちたとしても、二時間に一回ぐらいの頻度で起きてしまうのだ。それが毎日のように続いた。
さらには仕事中も、お客さんと接する時、常に恐怖を感じるようになった。それだけなら単に失敗を恐れてのことだと自分でも納得できるのだが、手が震え、動悸が激しくなることがある。他にも上司に叱られている時、足に力が入らなくなり、急に立てなくなったことも二度あった。
さすがにこれはまずい。そう思った僕は、精神科に行ってみた。最初は人と接することに恐怖を覚えるから、対人恐怖症かと思った。だが、実際に診断を受け、うつ病だと言われた。
最初は絶望した。まさかうつ病だとは――心の病気だとは、思いも寄らなかったからだ。今後どうすればわからないながらも、僕は次の出勤日に上司にこのことを報告した。
「だからなんだ」
それが上司の第一声だった。
「大丈夫だ。俺の周りにもうつ病持ちは多いし。どの程度なら圧力をかけても悪化しないかわかっている。だから今まで通りいくぞ」
なぜか誇らしげな上司の顔を、僕は今でも覚えている。
あぁ、この人には何を言っても通じない。そんな失望が、僕の中で大きく広がった。
この人は気付いているのだろうか。僕のうつ病の原因が、あなたにあることに。もしかしたらその周りの人が、あなたのせいでうつ病を発症したのかもしれないという可能性を、一度でも考えたことはあるのだろうか。
もしないのなら、まさにめでたいという他ない。
僕の中での悪態は日を追うごとにひどくなっていった。そしてそんな自分が、心底嫌だった。
だから僕はホテルを辞め、大阪に戻って転職活動を行った。もちろん精神科に通い、うつ病が悪化しないよう医者と相談しながらだ。
次に入社したのは、医療機器をメンテナンスする会社だった。特にやりたいと思える仕事もなく、かと言って接客業は前職のこともあるので避けた。
入社と言っても、契約社員としてで、主には病院に常駐し、患者に使用した医療機器を清掃するのが主な仕事だった。本格的なメンテナンスはメーカーの研修を受けた正社員たちが行った。
契約社員として一年働けば、正社員になるための性格診断と面接を受けられる。そして一年経ち、僕はそれらにのぞんだ。
性格診断、人事面接を得て、そして役員面接へと進んだ。東京の本社に行き、緊張しながら会議室に入った。しかし始まってすぐ、会社の社長に帰れと即刻言われてしまう。
「文系出身の人間が、こういう技術職に就くのには疑問を覚えるんでね」
それが社長の意見だった。
僕は目の前が真っ暗になったような気分だった。その場で叫び出したい衝動を、必死で抑えた。
なぜ今さらそんなことを言うのか。どうして入社する際の面接の段階で落としてくれなかったのか。一体、僕のこの一年間は何だったのか。
それから先の記憶は曖昧だった。気付けば僕は大阪に戻り、適当な居酒屋で一人で何杯も酒を呑んでいた。
自分を責めずにはいられなかった。大学まで行ったのに、どうして僕はこんなにもポンコツなのか。なぜ欠陥ばかりなのか。
次の日も出勤日だったが、僕は体調不良を理由に休んだ。実際には二日酔いだったのだが、いずれにせよとても出勤できる精神状態ではなかった。現場を仕切っている課長も「わかった、ゆっくり休むんだよ」と言ってくれた。その電話越しの口調からも、面接でのことをある程度聞き及んでいることがうかがえる。
一日休み、面接から二日後。僕は勤務先の病院に出勤した。職場の皆は僕を気遣ってくれたし、ありがたいことではあったのだが、同時に申し訳ない気持ちにもなってしまう。
その日、会社の部長である藤本舞(ふじもとまい)さんが病院を訪れた。
藤本さんは三十歳という若い年齢で部長職に就いている優秀な女性だ。関西エリアの管理を任されており、それぞれのエリアの常駐先の病院に行っては職員の様子を確認したり、病院との話し合いも行ったりしているとのことだ。実際にはやることはさらにあるのだろうが、詳しく聞いたことはない。
そんな彼女が僕のところに来たのは、今後の動き方について話し合うことが目的だった。藤本さんは苦しそうな表情で転職を薦めてきた。
「二十代だし、やっぱり正社員としてどこかの会社で働いた方がいいと思うの。次の仕事先が見つかるまで、うちで働いていいから」
急に無職にするよりも良いだろうという、藤本さんなりの配慮だろう。
契約社員として入社する面接の際、面接官を担当したのが藤本さんだった。採用したのにこのような結果になってしまって申し訳ないと、彼女は後ろめたさを感じたとのことだ。会話の中で、彼女は何度も僕に「ごめんなさい」と謝ってきたし、表情は終始暗いものだった。
僕は別に、藤本さんを責めるつもりはなかった。
彼女のことは恨んでもいないし、このような結果になったとしても嫌うことはない。
藤本さんには色々と面倒を見てもらったし、何度も気にかけてもらった。だからこそ、これ以上その好意に甘えるわけにはいかなかった。もしも上が用済みと判断した人間を彼女が庇うなら、迷惑がかかるだろう。そう思ったからだ。
僕はこのまま退職を希望し、職場を去ったのが四か月前、八月の末だった。
それからの二か月間、転職活動を続けている。しかしお世辞にもうまく言っていない状況だ。
理由は明白だ。うつ病が再発したのだ。
前職の社長から、役員面接で言い放たれたことがどうしても頭から離れなかったのだ。
――文系出身の人間が、こういう技術職に就くのには疑問を覚えるんでね。
これは価値観の問題だ。社長が一方的に悪いとは思いたくない。それでもふとした瞬間に脳裏に過ぎり、僕の心に暗い影を差す。さらにはうつ病を患った過去を話せば面接官は渋面を浮かべ、ひどい時にはそんな人間はいらないと言われる。今日の面接でも「そんな弱い心じゃ、この先やっていけないぞ」と言い捨てられた。
うつ病を隠せば、もしかしたらまだ可能性はあったのかもしれない。しかしうつ病のことを黙って入社した結果、症状が再発して、それを会社に事前に報告していなかったことが原因で辞めさせられたという話も聞いたことがある。
そうした理由から、うつ病を隠すことが良い手だとはどうしても思えなかった。他人の言うことを気にしなければこんなにも弱ることはなかったのだろうが、僕は器用な性格ではなかったし、そもそもそれができるならうつ病など患うことがないのだ。
「――ってな感じかな。ごめんね、あんまり面白い話じゃなくて」
そう言って僕は一呼吸の間を置き、インフューズドコーヒーを一口啜った。冷めたせいなのか、先ほどよりも酸味が強くなっている。最初に頼んだマンデリンは、話をしている間に飲み干してしまった。
隣からガンコの声は一切飛んでこなかった。
不思議に思った。僕と再会してから先ほどまでは、屈託なく話していたというのに。
あまりにもつまらない話だったのだろうか。僕のことを、ただの甘ったれた大人だと幻滅したのだろうか。
恐怖心が膨らみつつ、恐る恐る僕は隣に目をやった。そして愕然とする。
ガンコが泣いていたのだ。目を充血させ、カウンターテーブルの上に水滴を落としている。
僕は戸惑い、助けを求めて他の店員に目をやった。しかしリオンさんも千尋さんも予想外のことだったようで、キッチン内からポカンと口を開けてこちらを見つめるばかりだった。
「ごめんね、驚かせちゃって」
我に返ったのか、ガンコが目元を拭った。その声音は先ほどよりも高く、裏返っていた。
「でも達希くん、つらかったんだね」
また予想外な言葉に僕はどう返事をすればよいのかわからず「えっ?」と訊き返した。
「だって、今の話を聞いているとそうじゃない? 君の頑張ろうという気持ちと苦しさがすごく伝わってきた。でもきっと達希くんは、今の私の想像よりもずっとつらい思いをしてきたんだろうなって考えると、何だか、ね」
それ以上は上手く言葉が出てこないのか、ガンコは天井を見上げて顔を逸らした。
先ほどまでの驚きは徐々に落ち着きつつあった。代わりに僕の涙腺も緩み始めている。
嬉しかったのだ。僕を想って泣いてくれる人がいることに。僕のことを励まし、慰めの言葉をかけてくれたことに。
都合の良い甘えなのかもしれない。それでも僕は、ガンコの言葉に救われたような気がした。
僕の涙はついに我慢の限界を迎え、瞳の端から流れ落ちた。涙が頬を、鼻筋を伝って下に落ちていく。
「ありがとう、ガンコ」
本当に自分の声なのかと疑いたくなるような、ひどく泣きじゃくった声だった。今の僕には、それしか言うことができない。
ただ嬉しかったという気持ちを短く伝える一言しか。
「なんで達希くんがお礼を言っているのよ」
ガンコが泣きながら笑顔を見せ、軽く僕の肩を叩いた。それがまた励ましてもらっているようで、さらに僕の感情の波は昂る。それを誤魔化すように僕は残りのコーヒーを慌てて飲み干した。
「コーヒー、美味しかったよ。ご馳走様」
涙が治まった僕はまるで逃げるように急いで立ち上がり、ジャケットの内ポケットに入れた財布を取りだした。しかしその手首をガンコが掴む。
急なことで僕の心臓は飛び上がった。ガンコに目をやると、真剣な表情で僕を見つめている。
「あのさ、もし達希くんが良かったらなんだけど――」
そこまで言ってガンコが口ごもった。俯いたのでその表情を確認することはできない。
数秒の間を空け、彼女が顔を上げた。その目には、何らかの決意の光が宿ったように僕には見えた。
「ウチで、働きませんか?」
最初は何を言われたのか、僕は理解することができなかった。ただ呆然と「えっ?」とまた間の抜けた声を上げるしかない。その後に「急に何を言い出すんだ」という男性の声が聞こえてきた。おそらくリオンさんだろう。しかしガンコの言葉を理解することに僕の意識は向いていたため、そちらを振り向くことはなかった。
「今の話を聞いて、達希くんが接客業にあまり乗り気じゃないっていうのはわかっているつもり。従業員のみんなのことは信じているけど、うつ病は悪化しないなんて言い切ることはできない。でも、私は達希くんと働きたいって、そう思ったの」
話している間、ガンコは瞬きすらせずに、ずっと僕を見つめ続けていた。その様子から、決して軽はずみでないことが伝わってくる。
「でも僕、うつ病持ちで、色々と迷惑をかけるかもしれないんだよ? 心の病気を理由に、ガンコに甘えたり、負担をかけたりするわけにもいかないし」
「それも含めて、私は達希くんを雇いたいの」
ガンコの目は揺るがない。彼女の真剣さがひしひしと伝わってくる。
「一体、どうしてそこまで――」
訳が分からなかった僕は、戸惑いながら訊ねた。
ガンコのスカウトは、ただ僕が小学校の同級生だからという理由だけでは済まない。同情してくれるのはありがたいが、だからと言って一緒に働こうと言い出すのはまた違うはずだ。
ここに来てようやく、ガンコは視線を僕から床に逸らした。そして蚊が泣くような小さな声で「昔、助けてもらったから」と呟くように言った。
ただ、僕には何のことだかわからなかった。
「助けた? 誰が?」
「もちろん、達希くんだよ」
「僕が? ガンコを?」
僕は驚きながら自分自身を指さした。全くと言っていいほど覚えがない。
「ほら、私が転校してきたばかりの頃のこと、覚えている?」
「あぁ。友達になってからはすごく明るかったけど、最初はとても大人しかったよね」
僕の脳内で、十六年前の光景が蘇る。
大人しかったと表現したが、実際はそんなものじゃない。ガンコは暗い顔をしたままずっと一人で席に座っていた。クラスメイトの誰とも話した姿を、あの時はまだ見たことがなかった。クラスに馴染めずにいたのだ。
一日中俯いたままの彼女に、声をかけようとする子供は誰もいなかった。僕も含めてだ。最初こそ何人かの女子が話しかけてはいたが、素っ気なく答えるガンコに近づくものは次第に減っていった。それだけならまだしも、彼女のことを裏で「人形」などと揶揄する声まで上がったのだ。僕はガンコのことを不憫に思いながらも、何も行動を起こすことができなかった。
「あの時の私はさ、ちょっと嫌気がさしてたっていうか、荒れていたんだよね」
「荒れていた?」
「そう。まぁよくある話だけど、親の都合で何回も転校してさ。どうせまた別れることになるのなら誰かと仲良くなるなんて意味ないじゃんって。だから皆と壁を作って、会話もろくにしていなかったってわけ」
「でも最初だけで、気付けばガンコは笑うようになって、クラスの皆とも打ち解けていたよね」
僕の記憶の中にいるガンコは、今日みたいに明るく笑う可愛らしい女の子だった。暗かったのは本当に転校してきて間もない頃だ。
しかしガンコは少し頬を膨らませ「やっぱり忘れている」と不満そうに言った。
「そうなれたのが、達希くんが助けてくれたからだって言っているの」
「そうだっけ?」
僕は首を傾げ、記憶を探ってみる。しかしどうにも思い出すことができない。痺れを切らしたのか、ガンコが僕の肩を小突いた。
「転校して二週間か一か月ぐらい経った頃かな。クラスの男の子――山上(やまがみ)くんだっけ――と、その取り巻きに私が絡まれたことがあるの」
「あぁ、山上か」
僕は顔を引きつらせてクラスメイトの顔を思い出していた。
山上は僕らのクラスの中で最も態度の大きい生徒だった。小学生でありながら百七十センチメートルという高身長を誇り、常に取り巻きが二人ぐらいいた。悪ガキで好奇心が強く、安全ピンの針を耳に刺してピアス代わりにしようとして、担任の先生にひどく叱られていた。
「放課後、クラスの皆が帰って、私一人だけが残ったことがあったんだ。親への反抗心というか、とにかく不満が溜まりに溜まって、何となく家に帰りたくなかったっていうだけなんだけど。で、一人でボーッと席に座りながら窓の外を眺めている時に、山上くんが絡んできたわけ。お前、いつも俺らを見下すような態度をしやがって、ムカつくんだよってね」
僕は苦笑する。いかにも山上が言いそうなことだった。高圧的な態度をする人間は、子供にも大人にもいるというわけだ。
「私はそんなつもりはないって言い返したの。でも何が気に入らなかったのかな、山上くん、私の胸倉をつかんできてね、女だからって殴られないと思うなよって言って拳を振りかざしてきたの」
「あっ!」
そこまで話を聞いて、ようやく僕は思い出した。
確かにそんなことがあった。あの時、僕は渡されたプリントを机の中に入れたままにしていたことを思い出し、教室に取りに戻ってきたのだ。その時、山上とガンコが揉めている現場に遭遇した。
考えるよりも先に、体が動いていた。僕はガンコと山上の間に立ち、両手を広げて「やめろ!」と大声を上げた。山上はそんな僕を見下ろし「邪魔すんな」と小学生ながらドスの利いた声で僕の肩を押してきた。
ハッキリ言って、かなり怖かった。手が、足が、体のあらゆる部分が震えていた。しかしここで逃げるわけにはいかない、逃げたくないという思いが、僕を何とかその場に踏みとどまらせた。
ついに山上が腕を振り上げた。殴られると思い、反射的に目をつぶった、その瞬間だった。
「そこで何をしている!」
偶然通りがかった担任の先生が慌てて教室に入ってきた。僕らは呆然とした表情で先生を見つめていた。
その場にいた全員が席に座らされ、顔を真っ赤にしている先生に事情を説明した。暴力沙汰に発展しかねない事態だったので、両親にも先生から報告が入った。心配性な僕の母親はその話を聞くなり真っ先に「何て危ないことをするの!」と怒り、僕は家に帰ってから何時間も説教を受けるはめとなった。
次の日、げんなりしながら僕は小学校に登校した。しかし席に座るなり、ガンコがソワソワとしながら僕に近づいてきた。
どうしたのだろうと首を傾げていると、ガンコは僕から目を逸らしながらも手を差し出してきた。よく見ると透明な袋が握られており、中には色んな形のチョコレートが入っていた。
「国島(くにじま)くん、甘いもの好き?」
相変わらず僕と視線を合わせないながらも、ガンコは質問してきた。僕は何度も瞬きしながら頷いた。それを視界の端で確認したのか、ガンコは初めて安堵の表情を浮かべると、改めて僕に袋を差し出してきた。
「これ、昨日のお礼。良かったら食べて」
「えっ、いいの?」
驚きのあまり、思わず僕は訊き返した。
僕としてはガンコを助けたという自覚はない。割って入ったのも成り行きに近かったし、何より最終的に解決に持って行ったのは先生だった。
「もちろん」
しかしそんな僕の戸惑う気持ちなど露知らず、ガンコは笑顔を浮かべていた。
転校してきてから初めて見る笑顔だった。その表情になぜか僕の心臓は高鳴りを覚えるも、それを顔に出すことは何となく恥ずかしいように思えたので、慌てて下を向いて「ありがとう」と袋を受け取る。
「でもこれ、溶けちゃわないかな」
「え?」
「ほら、学校でお菓子を食べるのは禁止だし、家に持って帰ってからだとドロドロになるかも」
今にして思えば、本当にずれていたと思う。そこで変に真面目さを出すものではないだろうに。
しかしガンコは怒るどころか吹き出し、次の瞬間には腹を抱えて笑った。何がそんなにおかしいのだろうと、僕はポカンと口を開けて彼女を見つめるしかなかった。
それ以降、山上は僕やガンコに接触してこなくなった。親にこっぴどく叱られたのか、それとも先生の目が光っているからなのか。その両方だと、今でも僕は思っている。
逆に僕らの方は一緒にいる時間が増えていった。先ほどまでは忘れていたが、これがきっかけだったのだ。
「だからさ、あの時の恩返しがしたいっていうか、何だかほっとけないんだよね」
隣でガンコが照れ臭そうに髪を触る。
「そんな、恩だなんて大げさだよ」
「まぁ、雇いたいっていうのは、あくまで私のわがまま。何より達希くんが私と――コーヒーショップで働きたいと思うかどうかだし、それにリオンや千尋の意見も聞いたほうがいいだろうから――ちなみに、二人はどう思う?」
ガンコは振り向き、二人の従業員に声をかけた。キッチンにいた千尋さんとリオンさんは互いに顔を見合わせた後、静かに頷く。
「俺は頑奈が採用したいと思うなら、そうすればいいと思う」
「私も同じかな。それに真面目で良い人そうだし、ありだと思う」
二人の言葉に、ガンコは満足そうに頷いた。
ガンコとこれから働ける。その予期していなかった事態に、自然と僕の胸は高鳴った。子供の頃と同じように。
