After Story
「カンパーイ!」
互いが持つ缶ビールを当てて、僕と頑奈は一口目を喉に流し込んだ。冷えたビールの苦味と飲みごたえは四月の暖かくなりつつある気候に適しており、感動のあまり声が出る。
僕と頑奈は、三重県の伊勢市にやってきていた。宿泊しているリゾートホテルの部屋は和室で、窓から見える景色は深夜というのもあり、明りもあまり灯っていなくて暗くはある。だからこそ落ち着ける雰囲気を醸し出していた。
伊勢に行こうと言い出したのは、頑奈からだった。彼女曰く、伊勢うどんを食べたいし、伊勢にある有名なテーマパークにも行きたい。小学校時代、一度だけ家族旅行で行ったらしいのだが、せっかく今は大阪にいるのだし、もう一度立ち寄りたい、とのことだった。
もちろん僕も二つ返事で答えた。僕は人生の大半を大阪で過ごしたが、伊勢に行ったことは未だになかった。伊勢うどんにもテーマパークにも興味がないわけではなかったのだが、自分一人で行こうとまでは思えなかったのだ。だから恋人からの提案に、断る理由はない。
何より、初めてできた彼女との旅行なのだ。どこに行くとしても、例え大阪府内であろうとも、僕はきっとオーケーを出しただろう。
ただし、この旅行は計画の段階で出鼻をくじかれることとなる。
間の悪いことに、テーマパークはリニューアル工事のため、休園となっていたのだ。僕もガンコもスマートフォンに表示された公式サイトを見て「それはないだろ!」と大声を上げた。
もっとも、頑奈としては他にも水族館や伊勢神宮と、行きたいところは色々とあったので、何とか代案を立てることができた。旅行の計画がグダグダにならずに済んで、本当に良かったと思う。
そして今日、近鉄線の特急に乗車し、遥々三重県まで来たというわけだ。正午頃には到着し、駅の周辺でしらす丼を食べた後、ガンコが行きたがっていた水族館へと向かった。
水族館なんて、小学校以来だった。勢いの激しい雨こそ降ったものの、館内にいたことで濡れずに済んだ。コツメカワウソはクリッとした目があまりにも可愛らしくて悶えたくなったし、セイウチは腹にまで届きそうな牙を生やしていた。正直セイウチに関しては、迫力こそ大きかったものの、あの牙を刺されたら一たまりもないという想像の方が恐ろしかったことは、頑奈にはとても言えない。
そうやって水族館を一通り楽しんだ後、路線バスを乗り継いで、山中にあるリゾートホテルへとやってきた。館内は広々としているだけでなく温泉も気持ちよくて、久しぶりに充実した旅行を味わうことができている。
頑奈と交際して四か月。僕のうつ病はかなり回復した。発症前と同じように眠れてもいるし、食欲もある。陰鬱な考えに思考が乗っ取られることも、少なくなった。原田先生も「よくここまで治まってくれたね」と感心し、一か月ごとの定期健診も先月が最後となった。もっとも、原田先生としてはまだ終わりと判断したわけではないらしく「また症状が出たらいつでも連絡しなさい」と最後に言ってくれた。それが建前ではなく、本心から来る言葉なのだろうと、不思議と僕は素直に信じることができた。
頑奈もまた、二か月前に通院期間を終えていた。口には出さなかったが、この旅行はきっと二人の快気祝いも兼ねているのだろう。似たような苦しみを味わった僕と頑奈だからこそ、今飲んでいるお酒もより美味しく感じられる。
――さて。問題はここからか。
テレビから流れるバラエティ番組の音声を聞きながら、僕は腕から汗が滲み出るのを感じた。
恋人と旅行に来ている。つまり同じ部屋で一泊するのだ。そうなると、誰もが自然とある一つのことを想像するだろう。
――つまりは、セックスだ。
当然、今まで彼女がいたことのない僕に、経験はなかった。大学時代、先輩にソープに誘われて、そこで一度体験したとは言える。ただ、そういうお店ではない、恋人との肉体関係となると、話はだいぶ違ってくる。
正直に言おう。僕はここから、どう切り出せば良いのかがわからない。
ストレートにやろうと言ってもいいのか、それとも雰囲気を作り出してから、どちらから言うでもなく始めていけば良いのか。理想としては後者であることはわかっている。わかっているが、そのやり方がわからない。
本当に、自分の童貞さ加減が理解できてしまって情けない。理想的な、女性をリードできるだけの男には程遠い。
「ねぇ、達希くん」
唐突に名前を呼ばれ、僕は思考の世界から現実に引き戻された。見ると頑奈が訝しむような表情を浮かべ、僕を上目遣いに見つめていた。
「今、何か考え事をしていたでしょ?」
「え、いや、何も考えていないよ」
図星だったため、僕の声はしどろもどろな調子となってしまう。当然、それで頑奈を誤魔化せるはずもない。彼女はさらに眉間に皺を寄せ、僕への疑いをさらに濃くした。
「どうせ、いやらしいことでも考えていたんじゃないの」
「ちょっ、なんでそうなるんだよ」
「だって、恋人が同じ部屋で二人きりなんだからねぇ。でもどう切り出せばいいのかわからなくて困っていた、というところじゃないの」
僕はぐぅのねも出せなかった。寸分たがわず言い当てられたことが悔しくて仕方がない。
「全く、本当に不器用なんだから」
そう言って頑奈は唇を尖らせて立ち上がった。そして僕の隣まで来ると座り、頭を僕の肩に乗せてくる。淡路島で海を眺めていた時と同じように。
「えっと、頑奈?」
「ごめん。正直、私もよくわからないし、ちょっと怖い」
そんな弱々しい声が聞こえてきた。僕は驚き、隣に目をやる。頑奈の頬が真っ赤になっているのは、おそらくお酒のせいだけではない。
しかし、同時に少しではあるが、緊張がほぐれたような気がした。
頑奈も、僕と同じだったのだ。
考えれば当然だ。彼女のスペックの高さでついつい忘れがちにはなってしまうが、頑奈も僕と同じで、今まで恋人がいたことがない。どうすれば良いのか、彼女自身もわからないのだろう。
だから、僕の考えを言い当てることができたのだ。そして僕は、腹を決めた。
今まで彼女に散々助けてもらってきたのだ。今度は僕が彼女をリードする立場に回らなくては。
「頑奈」
僕が呼びかけると、頑奈がこちらを向いた。数秒の間、僕らは見つめ合う。そしてどちらから言うでもなく、唇を重ねた。
キスならば今までも何度もしてきた。しかし今回は、何だかいつもとは違う。
これからセックスをするという考えが頭にあるからだろうか。感情の昂りも、唇の感触も今までとは明らかに異なる。
鼻息が荒くならないよう、キスをしながらも意識した。代わりに股間に血がドンドンと溜まっていくのを感じる。
「ねぇ、待って」
頑奈が唇を離し、僕を見つめてきた。その瞳はトロンとしており、充血している。
ふいに僕は冷静になった。そしてやってしまったかという恐怖が、心を支配する。
「ご、ごめん。怖がらせちゃったよね」
慌てて頑奈の体から手を離し、僕は飛びのいた。すると頑奈も動揺し「ち、違うの」と手を振ってくる。
「そうじゃないの。いや、そうじゃなくもないっていうか、実際に少し怖かったっていうか、でも達希くんを拒絶したいわけじゃなくて、あぁ、もう!」
頑奈が頭を抱え、その場でうずくまった。そして大きくため息を吐く。
「何だか頭の中がすごいこんがらがっている。達希くんのことは好きだし、この旅行でさらに一歩踏み出した関係になるのかなとも思っていた。でも、いざその時になったら、どうしても戸惑いが生まれちゃう」
頑奈の声は徐々に震え出していた。下を向いて自身の髪をつかんでいるが、そこから水滴が一滴、二滴と落ちて行っているところを目にしてしまった。
瞬間的に、僕の心に自分自身への怒りが湧いてきた。
自分のことばかりを考えて、今彼女がどのような気持ちを抱いているのか、わかった気になっていた。頑奈も怖さと勇気を抱えていたのに、その点を気遣えずにいた。
――なんて浅はかなんだろう。
僕は拳を強く握りしめた。そして静かに、頑奈に近づく。
僕の気配を察したのか、頑奈が顔を上げた。案の定、その瞳からは涙が流れていた。僕は力を入れ過ぎないよう意識して、彼女を抱きしめた。
「僕の方こそ、本当にごめん。頑奈のこと、ちゃんと気遣うことができなかった」
「そ、そんなこと――」
「おかしいよね。友達だった時は、ちょっとしたことでも互いに笑い合うことができていたのに、今では二人でやることの一つ一つが初めてで、本当にこれでいいのかなって考えながらスキンシップを取っている」
僕の中で、悔しさがこみ上げてきた。やはり――
「僕が頑奈に告白をしていなければ――」
「それは言わないで」
頑奈が僕の言葉を遮った。その声は低く、怒りに満ちていた。
「さすがにさ、それは本気で怒るよ。私は達希くんに告白されて嬉しかったし、こうしてお付き合いできていることが無茶苦茶嬉しい。それなのに、上手くいかないことが出てきたから、告白すべきじゃなかった? ハッキリ言って、それって私としては侮辱でしかないし、じゃあ私のあの嬉しさは、気持ちは何だったのってなるから」
頑奈は僕を睨みつけながらマシンガンの如く言葉を浴びせてきた。僕はただ黙ってそれを聞くしかない。
頑奈がここまで怒りを露わにするのは、久しぶりだった。藤本さんのことで少し言い合いになった時以来だろう。付き合ってから今まで、ケンカをしたことは一度もない。
つまり、それほど彼女にとってショックなことを、僕は口走ってしまったということだ。同時に自分の愚かさが本当に嫌になる。
頑奈の言う通りだ。あの時の告白を否定するということは、今の関係もおかしいと言っているようなものだ。それは決して誰も幸せにしない、ひどい拒絶だ。
「ごめん」
僕はたった一言、それだけしか言えなかった。視界がぼやけ、溢れた涙が頬をつたってくすぐったい。
本当に、二八歳にもなって情けない。こうした幼稚な部分が抜けきらないから、自分でも嫌になる。
すると、頑奈が僕を包んできた。その体は温かく、乱れていた心が一気に落ち着きを取り戻す。
「私たちはさ、他の人よりも色んなことのペースが遅いのかもしれない。でも、そんなのどうだっていい。私たちは私たちなりに、関係を作り上げていこうよ」
「うん」
「これからもさ、今回みたいに上手くいかなくて落ち込んだり、何かを焦ってケンカしたりすることはあると思う。でも、これだけは覚えておいて。私は達希くんのことが好き。そして、達希くんが私のことを好きだって言ってくれた言葉を信じている」
「僕もだよ、頑奈」
不思議と、力んでいた体はいつの間にかほぐれていた。彼女の体を強く抱きしめると、その唇にキスをする。そのまま二人でベッドの上に寝転んだ。
僕らはどこまでいっても不器用だ。人生を上手く生きることに憧れる、空を井戸の中から見つめるだけの蛙――
でも、そこから這い上がろうと努力をしている。一人ではなく、二人で。
僕と頑奈なら、何でも乗り越えることができる。今はただ、その充足感に満たされていた。
了
