十四
今日はいつにも増してコーヒーショップは賑わっていた。カウンター席は埋まり、ショーケースの前には四人のお客さんが所せましと密集している。
ガンコと海を見に行ってから、十日が過ぎた。彼女との交際が始まったのはいいものの、忙しさのせいでデートには行けていない。
コピ・ルアクというコーヒー豆を数量限定で販売したのが原因だろう。ジャトウネコという動物の排泄物から採れる豆だが、かなり高価な扱いを受けており、百グラムだけでも七千円前後はする。
排泄物と聞くと、汚いと思う人も多いだろう。しかしジャトウネコの体内で消化されるのはコーヒー豆を覆う果実のみで、豆自体は丈夫なパーチメントで守られたまま外に出てくる。だから一応汚れてはいないし、仮に菌がいたとしても焙煎すれば殺菌できる。
ただ、コピ・ルアクは非常に珍しいコーヒー豆と言われており、僕も名前を聞いたことはあったが、実物を見るのは初めてだった。それがこの近場にいる、コーヒー好きを引き寄せてしまったらしい。ガンコはこのキャンペーンを一週間ぐらい続ける予定だったみたいだが、この調子では今日の内になくなってしまうかもしれない。
「あれ? そう言えばガンコは?」
コピ・ルアクの会計を一つ済ませたところで、僕はいつの間にかガンコの姿が店内から消えていることに気付く。先ほどまでキッチンにいたはずだが、今はリオンさんしか立っていない。
「あぁ、さっき店の外に出て行ったよ。少しだけ休ませてって」
カウンター席にコーヒーを持って行っていた千尋さんがそう言った。僕はちょっとだけ情けなく思う。
忙しないとはいえ、恋人の存在に気付くのが遅れてしまうなんて。
「達希。頑奈の様子を見に行ってやってくれ」
キッチンからリオンさんの声が飛んできた。焙煎機にコーヒー豆を入れながらこともなげに言ったが、店が慌ただしい状況ではその言葉に甘えるわけにもいかない。
「いや、でも――」
「大丈夫だって。さっきと比べると少しは落ち着いたし。それに私たちの店長がもし急な体調不良に襲われて、道端で倒れていたら、それこそ大問題じゃない」
そう言って千尋さんは僕の肩を軽く叩いた。
言っていることはわかるし、もしもそんな事態になったら、僕は冷静ではいられない。でも、やっぱり店を後にすることには気が引けた。
千尋さんは状況が落ち着いたと言ったが、僕からすれば先ほども今も大して変わっていないように思う。だが、ここで渋るのも逆に二人には申し訳ないように思えた。
「わかりました。なるべく早く戻ってくるようにするんで」
そう言って僕はエプロンを脱いで片手にかけると、店を出た。裏へと続く狭い道を通ると、すぐにガンコを見つけた。
店の裏は他の建物も密集していることもあって、薄暗い。その上、今日は空が曇っているので、なお陰鬱だ
そんなどんよりとした空気の中で、ガンコはうずくまっていた。まるで泣いている子供のようで、慌てて僕は彼女に近づく。
「ガンコ!」
僕が叫ぶや否や、ガンコは顔を上げた。眠そうに薄められた目の下には隈が浮かんでいる。それに気付いた瞬間、僕の中で嫌な予感が浮かんだ。
「あっ、達希くん」
「まさか、眠れていないのか?」
僕の言葉に、ガンコは視線を逸らした。それだけで図星だということがわかる。
僕自身、うつ病になったことがあるからわかる。様々な不安が襲い掛かり、眠れなくなることがあるのだ。昨晩のガンコも、それと同じ状態だったのだろう。
「一体、何に悩んでいるの?」
こういう時は、下手に取り乱してはいけない。僕は自分にそう言い聞かせ、一度深呼吸をすると、ガンコの隣にしゃがんだ。
「悩んでいるって言うか、ちょっと不安があるって言うか――」
「不安って? お店のこととか?」
僕が訊ねると、ガンコがこちらを向いた。そして両手を大きく広げる。
予想外な行動に、僕は「え?」と間の抜けた声を上げるしかなかった。
「えっと、ガンコ――」
「ハグ」
「はい?」
「ハグしてくれたら、答えることができるかも」
僕はポカンと口を半開きにした。だが、同時に嬉しくも思う。
こんなふうに甘えてくれるガンコが、本当に可愛らしい。
僕はふっと笑みをこぼすと、彼女の背中に腕を回した。なんだかんだと忙しかったので、抱きしめるのはあの海以来かもしれない。
「ありがとう」
耳元でガンコが囁くように言った。声量のせいなのか、その声はなぜか沈んでいるように思えた。
「その不安って言うのは、これでも解消されない?」
「というよりも、これが不安そのものって言えるのかも」
「どういうこと?」
ガンコを抱きしめながら、僕は首を傾げた。彼女はためらうように唸ると「あのね」と話を切り出す。
「正直に答えてほしいんだけど――」
「うん」
「私って、重かったり、甘えすぎたりしていない?」
「何それ」
訳がわからず、僕は訊き返した。どうしてそうなってしまうのかがわからない。
「いや、やっぱり不安に感じちゃうんだよね。その、うつ病のこともあるし、メンヘラ彼女になったりしてないかなって。まぁ、こんな質問をしている時点で、既に面倒くさいのかもしれないけれど」
ガンコがため息を吐いた。自分を責めているのかもしれないが、そんなことはない。少なくとも僕はそうは思わない。
それを伝える意味も込めて、僕はガンコをさらに強く抱きしめる。
「思わない」
「本当に?」
「気持ちはちょっとわかるよ。というより、僕も似たような不安を感じていた」
僕とガンコは、似たような苦しみを持っている。もしも二人の関係が傷の舐めあいによる依存となってしまったら、ガンコに負担をかけてしまうかもしれない。そんなことは毎日のように考えてしまうし、今日だけでも何回頭を過ったことだろう。
でも、ガンコの胸に抱えているものを聞いたことで、その不安は少しだけだが軽くなった。
互いに同じ不安を持っているからこそ、二人とも自分達の関係に慎重になれる。注意ができる。
きっと僕達二人は、僕達が思っている以上に、お互いに支え合えるのかもしれない。
そのことをガンコに伝えた。顔の横でガンコが吹き出す声が聞こえる。
「よくわかんない理屈」
「ごめん。口下手で」
「ううん。でも、言いたいことは何となく伝わったし、おかげでちょっとスッキリした」
そう言ってガンコは僕の体から離れると、立ち上がって伸びをした。僕も腰を上げ、手を差し伸べる。
「行こう、ガンコ」
ガンコが僕の手を見つめる。そして口元に悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
「まだあだ名で呼ぶの?」
僕の頭は一瞬だがフリーズする。やがてガンコの言葉の意味を理解し、顔が赤くなるのを感じた。
簡単なことではあるのだが、妙な躊躇いが僕の中で生まれ、数秒の間、頭を掻いたりして時間を稼ぐ。しかし逃げることはできないと諦め、腹をくくって口を開いた。
「行こう、頑奈」
半ば叫ぶような形になってしまった。しかしガンコは――頑奈は満面の笑みを浮かべ「よくできました」と手を取ってくれた。頑張って名前を呼んだかいがあったと言うものだ。
そして僕ら二人は歩き出す。薄暗い店の裏スペースを抜け、表の明るい道へと向かって。
きっと二人なら大丈夫だと、今は信じることができた。
