十二
この日、僕は一日中ソワソワとした気分を味わうこととなった。店で掃除をしている時も、コーヒー豆を整理している時も、気付けばガンコの姿を目で追ってしまうのだ。
昨日、藤本さんとのランチで自分の気持ちを自覚してしまった。僕はガンコのことが好きなのだと。
思い返すと、たぶん子供の頃からそうだったのだ。いつもガンコのことを考えていたし、彼女と遊んでいる時間が、当時の僕にとっては何よりの楽しみだった。ガンコが突如転校し、そのショックを長期間引きずっていたことは、今でも忘れられない。それらを総合すると、僕は小学校の頃からガンコのことが好きだったのだと、結論づけるのは自然と言えるだろう。
しかしこの恋心を自覚できているのといないのとでは、普段の態度や意識が大きく違ってくる。ガンコのことが以前よりもキレイに見えるし、彼女を見るだけで胸が高鳴る。今まではこんなことなかったはずなのに。
だから僕は、そんな自分の不自然さを悟られたくない一心で、ガンコを意識しないように努めようとした。彼女は幼馴染で、仲のいい友達、そして職場の上司なのだ、と。しかしそうやって自分に言い聞かせるほどにかえって意識してしまうのが、人間の嫌なところである。
そもそも僕は、ガンコとどうしたいのだろう。もちろん恋心を抱いているのだから、付き合いたいし、結婚して子供も授かることができれば、どれだけ幸せだろうとは思う。
しかし下手に告白してしまったとして、フラれた場合が問題だ。これまでの関係性が一気に瓦解する危険性が高い。それは僕自身、望まないことだ。仮に付き合えたとしても、同じ職場である以上、何かの拍子にケンカして、二人の気まずい雰囲気のせいで店に悪影響を及ぼさないとも限らない。
何だかこうして考えると、ガンコに告白するだけでいくつも危険が付きまとってくるように思えてならない。やはりこの気持ちは、諦めるのがベストなのだろうか――
「国島くん。それ違うよ」
後ろから千尋さんに指摘され、僕は改めて目の前のコーヒー豆を確認する。確かに僕が補充している豆と、樽の上部に貼られた札に書かれた商品名は別の物だった。
「す、すみません」
慌ててしまったが、これ以上ミスを重ねるわけにはいかない。幸いにも、空の樽は三つある。僕は商品札を貼りかえることで、何とか失敗をカバーすることに成功した。
何だか自分が情けなく思えてくる。ガンコのことだけで、こんなにもいつも通りの行動ができなくなってしまうとは。
今は仕事に集中しなくてはいけない。そう自分に言い聞かせるも、だからと言ってそれだけで自分を完全にコントロールできるわけではない。ミスこそそれ以上起こさなかったものの、どうしてもガンコを意識してしまうのだった。そんな自分を心の中で叱咤するの繰り返し。終業時刻が来るのが、今日はいつもより遅く感じられた。
「後は私がやっとくし、みんなは先にあがっててよ」
掃除などといった締め作業を終え、後は電気を消すのとガスの元栓を閉めるのみとなったタイミングで、ガンコがそう言いだした。彼女はカウンター席に座り、パソコンとにらめっこしている。今日の売上について、データ入力しているのかもしれない。
ガンコが従業員を先に帰らせるのは、よくあることだった。もう少しで終わるのだし、最後までやりきってもいいのだが、そういうレベルだからこそ、後はガンコに任せようという気持ちにもなってしまう。何より今日の僕にとっては、いつも以上にその言葉がありがたかった。今日は彼女の近くにいると、どうにも調子が狂ってしまう。
「じゃあ、お先な」
そう言って先に身支度を済ませたリオンさんが店の入り口を開ける。それに続く形で、僕と千尋さんも店を出た。
外は思っていた以上に寒く、そして既に暗くなっていた。冬至が近い十二月の半ばなのだから当然ではあるのだが、店の中にいるとどうにも気温も外の様子もわかりにくいから少し意外に思えてしまう。
「あっ、ヤバい」
二、三分歩いたところで、僕はあることに気付き、ジーンズの右ポケットに触れた。いつもそこにあるはずのスマートフォンがない。店に忘れてきてしまったのだ。
リオンさんと千尋さんに先に帰ってもらうよう言った後、僕は急いで店に引き返した。すでにガンコが閉めていたらどうしようという不安はあったが、幸いにも店のドアから明かりが漏れていた。僕は安堵のため息を吐き、スライドドアを開けようとする。
だがそこで、僕は手を止めた。ドアに埋め込まれたガラス越しに、店の中の様子をうかがうことができる。カウンター席に座るガンコがパソコンを少しずらし、白い袋から何かを取りだした。
それは薬を包装しているPTPシートに見えた。錠剤を押し出すと、水を飲んで一気に流し込む。
そこまでおかしいことではない。薬ぐらい、誰だって飲む。そうわかっているのに、妙な胸騒ぎが僕の全身を支配した。
不安に身を任せるまま、僕はスライドドアを勢いよく開ける。当然ガンコは驚いてこちらを見た。そして慌てて薬のPTPシートと紙袋を膝の上に置き、僕の方から見えにくくする。
やはり変だ。風邪薬とかなら、急いで隠す必要はないはずだ。
「どうしたの達希くん、急に店に戻ってくるなんて。忘れ物か何か?」
ガンコは笑顔を作って聞いてくる。しかし予想外の展開だからなのか声は上ずっており、動揺を隠しきれていない。
「今隠したの、何? 薬の袋に見えたけど」
自分でも声に苛立ちが籠もっているのがわかった。何が気に食わないのか? きっと、ガンコに隠し事をされていると知ったからだろう。
「えっとね、生理の薬だよ。ほら、あんまり男の子に知られたくないやつじゃん? だから咄嗟に隠しちゃったっていうか」
僕が追及しにくいよう、ガンコはそう言ったのかもしれない。しかし目が泳いでおり、動揺を隠しきれていない。
「見せて」
言うが早いか、僕はガンコに近づいていった。ガンコは逃げるように立ち上がるが、どうやら膝の上に薬の袋を置いていたことを忘れていたらしい。カサッという音を立て、紙袋が床に落ちた。
チャンスだった。僕は袋を取るために走り出し、手を伸ばす。慌てて拾おうとしたガンコより、ほんの僅かな差で回収することができた。
「返して!」
ガンコの今にも泣き出しそうな声が耳にこだまする。しかし袋を見た僕に、彼女を気遣える余裕はなかった。
紙袋の下部には、調剤薬局の店名が書かれていた。僕が原田先生の診察の後に行っている薬局と同じだ。
胸騒ぎがする。心臓の鼓動が早くなる。僕は紙袋の中に手を入れ、ガンコが飲んでいた錠剤のシートを取りだした。
僕が飲んでいるのと同じ、抗うつ薬の名前がシートに書かれていた。
「これは、どういうことなの?」
いつの間にか僕の中から苛立ちは消え去っていた。代わりに恐怖とも言える感情に支配される。
なぜガンコが抗うつ薬を飲んでいるのか。どうしてそのことを隠そうとしたのか。
ガンコはすぐには答えなかった。俯き、僕に顔を見せないようにしている。
冷静に考えれば当然だ。理由はわからないが、彼女はこのことを必死に隠していた。それをあっさり白状しろと言う方が無理がある。
それでも僕は訊かずにはいられなかった。ガンコの肩をつかみ、彼女の今にも泣き出しそうな顔を覗き込む。
「お願い、教えて」
沈黙が店の中を支配した。やがてガンコは意を決したのか、深呼吸をすると次のように言った。
「うつ病、なんだよね。私」
平衡感覚が失われたような気がした。何とか踏みとどまり、倒れるのを防ぐ。
この薬を見た時点で、そうだろうとは思っていた。それでも本人の口からうつ病という単語が出てくると、どうしても動揺してしまう。
「詳しく、聞かせてもらってもいいかな」
僕の言葉に、ガンコは大きく頷いた。もう一度深く息を吸い込むと、覚悟を決めたのか表情が引き締まる。
「最初にうつ病が発症したのは、私がアメリカにいた頃だったの。仕事が無茶苦茶忙しかったうえに、成績を上げていっても上司たちからはもっと良いものをって更なる結果を求められてさ。時にはすごくねちっこい嫌みまで言われた。これだから日本人はバカなんだとか、何も考えていないとかね。そしていつの間にか、眠れない日が続いた。会社に行くのが――日々を生きるのが、何だか怖くなった。あぁ、これはやばいって精神科に行ったら、うつ病だって診断されたんだよね」
「そんな――」
ガンコの話を聞きながら、僕は動揺を隠すことができなかった。
「それがわかって、三か月間休職した。うつ病のことは報告した上司以外、誰も知らない。もちろんリオンも。で、アメリカにいる間に結構回復はしたんだけどね。日本に戻ってきて、この店を持つようになってから、またプレッシャーを感じるようになった。いつか潰れてしまうんじゃないか、何かの拍子に悪い評判が流れるんじゃないか、それらの問題から、達希くんたちを困らせることになるんじゃないかって、不安の種は絶えなかった。バカみたいでしょ。そんなの一々気にしたって、キリがないのはわかっているのに――で、その結果、また眠れない日が続くようになった。あぁまたか、これはヤバいかなって早めに気付いたつもりだったんだけどね。病院に行ったら案の定、既にうつ病だって」
そこでガンコは天井を見上げる。かと思うと意味深な笑みを浮かべ、僕を見た。
「達希くん、原田メンタルクリニックって知っているでしょ」
「え?」
あまりに予想外な言葉に、僕はその一言しか口にすることができなかった。
なぜガンコが原田先生のクリニックを知っているのか。通院していることは話しても、病院名は告げていなかったはずだ。
「私もさ、あそこに通っているんだよね。でさ、一回待合室で達希くんと会っているんだ」
「嘘でしょ」
「本当だよ。まぁ知り合いに見られたくないからさ、帽子を被ってマスクをして、メガネをかけていたから顔は全然見えなかったんだけどね。我ながら不審者の風貌だわ」
そう言われて僕は思い出した。確かにこの店で働き始めてすぐの診察で、こちらを妙に見つめてくる女性がいた。まさかあれがガンコだったというのか。
「全然気付かなかった」
「気付かれないようにしていたんだから当然だよ。というより、そうじゃないと私が困っちゃう」
ガンコが悪戯がバレた子供のように舌を出す。しかし表情は引きつっていた。
何を思ったのか、ガンコが立ち上がった。そしてスライドドアにはめ込まれたガラス越しに、外を見る。人通りは少なく、目に映るのは街灯に照らされた街並みばかりだ。
「私はさ、前の職場の上司たちのように、下手に圧をかけたり、怒鳴り散らしたり厭味ったらしい言い方をしたくない、絶対しないぞって、そう決めているんだよね。まぁこの前、達希くんとはちょっとケンカしちゃったけど。でもそしたらさ、いつの間にか臆病で、正しく叱ることができない人間になっちゃったんだ」
「それは――」
何か声をかけたかったが、それ以上の言葉が出てこなかったし、そもそも思い浮かばない。僕に構わず、ガンコは言葉を続けた。
「高圧的な人を見ると冷めた目で見ちゃうし、怒りっぽい人がいるとつまらない人間だなって軽蔑する。とても傲慢でしょ? それが関係しているのか、心のどこかが欠けているような感覚がずっとある。人と関わることが好きなはずなのに、一方で他人がすごく怖いと感じている。だから私、信じたい人を前にしても、無理に明るく振る舞っちゃうんだ。心がどんな状態であったとしても」
ガンコがドアから一歩下がり、振り向いた。瞳から光るものが滴り落ちる。それが涙だと気付くのに、僕は数秒遅れた。
「ねぇ達希くん。すっごく面倒くさいこと聞くね」
ガンコの声は震えていた。浮かべる笑みは弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。
「私って、やっぱりどこかおかしいのかな?」
彼女の問いかけに、僕はすぐに答えることができなかった。
違うというのは簡単だ。しかしその一言で済まされるようなものではないのもまた事実だ。
ガンコは答えを求めているのではない。ただ、苦しんでいる。胸が締め付けられるくらいつらいだろうに、助けてと言うことができない。助けの求め方がわからないのだ。
妄想と言われればそうかもしれない。しかし僕にはそう思えてならない。
彼女が吐露した思いは、僕が普段からずっと感じていたことなのだから。
「ごめんね、何か変に自分を語っちゃって。さっ、帰ろう。あっ、リオン達には引き続き秘密にしておいてよ。変に心配をされたり、気を遣わせたりしたくないし」
この沈黙をどう捉えたのか、ガンコは涙を拭うと、またいつものように笑顔の仮面を身につけた。そしてキッチンに向かって歩き出す。荷物を取ろうとしているのだろう。
気付けば僕は、彼女の腕をつかんでいた。
ガンコが目を大きく見開いて振り向く。そんな彼女を真っ直ぐ見つめた。
体内の血液から熱が奪われるのを感じた。それなのに心臓はいつもより激しく動いている。そんな矛盾を覚えながらも、僕はゆっくりと口を動かした。
「僕に、君を助けさせてほしい」
ガンコが口を半開きにした。僕自身、何を言い出すんだと思った。思考が上手く整理できていない。それをわかっていながらも、言葉を止めることができなかった。
「この前さ、藤本さん――前の職場の上司が店に来た時のこと、覚えている?」
「うん、あのキレイな人だよね」
「あぁ。ガンコは藤本さんだけじゃなくて、僕にもコーヒーを出してくれた」
話が見えてこないのか、ガンコはキョトンとした顔で首を傾げている。
「その時、ガンコは僕の好きな、モカフレンチのコーヒーを淹れてくれただろ」
ガンコは呆けた表情のまま、首を縦に振る。
あの時、コーヒーを一口啜って、僕は驚いた。てっきり藤本さんと同じコスタリカコーヒーだと思っていたのだが、それにしては苦味が濃かった。そしてすぐに、モカフレンチのコーヒー豆を使ったのだと気が付いた。
「あの時、僕は嬉しかった。そしてすごいと思ったんだ。相手のことを気にかけて、一歩先に進んだサービスをする。それは誰にだってできることじゃないし、接客をしていた僕だって、情けない話だけど思いつくことができなかった」
「達希くん――」
「そんなガンコだからこそ、僕は君の力になりたい。ガンコが苦しんでいるなら、それを僕にも話して、分けてほしい。巻き込んでほしいんだ」
「でも、達希くんにまで迷惑をかけるような真似、できないよ」
ガンコが目を伏せる。自分の苦しみを他人にも与えることに、抵抗を覚えているのだろう。
やはり、ガンコは優しい。しかし、それではガンコはどうなるのだ?
ガンコがつらい時、誰が力になってくれるのだろう。何が彼女に活力を与えてくれるのだろう。
だから、僕はガンコの力になりたいのだ。例えそれば、僕自身の傲慢さによる想いだとしても。
「ガンコがさっき言ったことが間違っているかどうかなんて、僕にはわからない。全体的に正しい、なんてことはないのかもしれない。でも、共感を覚えたのは確かだ。今後、もし誰かが君を否定してくるようなら、その分僕が肯定する。傷つく言葉を投げかけられたなら、それを覆えせるぐらい僕がガンコのことを褒める」
次第に声に熱がこもっていくのが、僕自身わかってきた。ただ、今はこの衝動を抑えることができない。
だって僕は――
「僕は、ガンコのことが好きだ。再会した時から、いや、子供の頃からずっと」
店内には時が停まってしまったのではないだろうかと疑いたくなるほどの静寂が訪れた。その静かさが、ようやく僕を大人しくさせる。それと同時に、体温が急上昇していくのがわかった。
告白してしまった。ロマンなんてあったものではない。ガンコの心が弱っているというのに、自分のことを優先し、気持ちを伝えてしまうなんて。
「あの、ガンコ、ごめ――」
咄嗟に謝ろうとしたが、僕はそれ以上言葉を続けることができなかった。
目の前にいるガンコの瞳から、滴がこぼれ落ちた。涙はどんどん流れ、彼女の頬を濡らす。
僕はどうすればいいのかわからなかった。ハンカチを差し出せばよいのだろうか。それとも抱きしめれば良いのだろうか。ただそのどちらも選ぶことができず、立ち尽くすしかない。
急に、胸に軽い衝撃を受けた。下を向くと、ガンコが僕の胸に顔を埋めている。
「ごめん、今は、このままでいさせて――」
ガンコの弱々しい声が僕の耳に届いた。驚いたし心臓の鼓動はさらに激しくなるが、それでも僕は「うん」と静かに頷く。
それからすぐに、ガンコの泣き声が店内にこだました。
