十一
いよいよ藤本さんと食事をする日がやってきた。電車を降りた僕はジーンズと黒のタートルネックの上にロングコートを羽織り、待ち合わせ場所へと向かう。駅前にある商業施設、ヘップファイブの前には酔いそうなほど人が密集していた。梅田で人気の待ち合わせ場所で、しかも日曜日の昼間だ。都会においてこれだけ人が多いのは、もはや必然と言えるだろう。
想定していたこととはいえ、あまりの人の多さに僕は半ばうんざりしていた。腕時計を見ると、約束の時間まで十分ほどある。
――ガンコだったら、こういう人混みは嫌がるかな。
ふいにそんな考えが僕の頭を過った。そして想像してみる。
ガンコなら大丈夫、大丈夫と言って、人の多い密集地帯でも嫌な顔一つせずに笑っているのかもしれない。だがこの前のリオンさんの話もある。
ガンコは明るく振る舞っているように見えても、実は無理をしている――本当にそうなのか、それともリオンさんの勘違いなのかはわからない。ただ冷静に考えると、彼の言っていることもわかるような気がした。
普段から笑顔を浮かべ、怒りや不満を露わにしない。しかし心の内まで全く同じという人間が、果たしているのだろうか。
もしもガンコが、あのいつもの表情の裏で負担を感じているのだとしたら――
「お待たせ! というか、早いね」
思考を遮るようなタイミングで声をかけられ、反射的に顔を上げる。見ると藤本さんが手を振りながらこちらに歩いて来ていた。タイトなジーンズに白のブラウス、そして茶色い革のジャケットは、クールな女性らしさを思わせる。スーツ姿ばかりを見てきただけに、何となく新鮮さを感じられた。
「さすがに元上司を待たせるわけにはいきませんし」
「おっ、言うねぇ。じゃあ行こうか。予約したお店、少し歩くんだけど大丈夫?」
「えぇ、もちろんですよ」
僕と藤本さんは歩き出した。ヘップファイブの前を去っても、相変わらず人通りは多い。アーケード街に入ると若干とはいえ道が狭くなるため、よりその窮屈さを感じられた。
「ここだよ」
そう言って藤本さんは立ち止まり、右横にあるビルを見上げる。三階建ての古いコンクリート式の建物で、一階には居酒屋が入っていた。店の扉に貼られたポスターを見る限り、博多料理を売りにしているらしい。そのすぐ側に上へと通じる階段があった。
「ここの二階なの」
そう言って藤本さんは階段を上がっていく。僕もその後に続いた。
二階に着いてすぐ目の前に木製の扉がある。それを開けると、中は照明がやや暗めの、レンガ調の壁に囲まれた空間が奥まで広がっていた。
「二名で予約している藤本です」
藤本さんがそう告げるなり、店員が席まで案内してくれた。互いに席に座るなり、僕は店内を見回しながら口を開く。
「すごく良い雰囲気のお店ですね。前に来た事あるんですか?」
「いいえ、今回が初めてよ。でも津田(つだ)くんのオススメ」
津田さんは前の職場の先輩の一人だ。恋人と仲が良いらしく、よく仕事中に惚気話を聞かされていた。
「へぇ、津田さんの」
「そう。梅田でどこかいいお店ないかなって聞いてみたらここをすすめてくれたの」
おそらくデートの際にこの店を利用したのだろう。確かに恋人同士が食事をするにはピッタリの雰囲気だ。
――もしガンコなら、店に入るなりテンションがかなり高くなっていたんだろうな。
店内を見回し、年甲斐もなくはしゃぐガンコ。そんな彼女の姿を想像し、自然と僕の口元にも笑みが浮かんだ。
「あっ、今笑ったでしょ」
藤本さんがからかうように僕の顔を覗き込んできた。慌てて笑みを引っ込め、視線を逸らす。
気持ち悪いと思われただろうか。
「いえ、別に――」
「まぁ、そういうことかって思うよね。津田くん、絶対ここに来たの彼女さんとだよ。本当に、仲が良いみたいで」
どうやら僕の想像による笑みを、上手い具合に解釈してくれたようだ。心の中で、ほっと胸をなでおろす。
藤本さんはコース料理で予約してくれていた。前妻のカプレーゼに、アラビアータパスタとマルゲリータピザ、そしてアクアパッツァと、次々と料理が運ばれてくる。それらの料理を食べながら、藤本さんと色んな話をした。この前の出張先での出来事や、妹さんが今度結婚式を挙げるので出席すること。そして自然と僕の前の職場での現状へと戻ってくる。僕も相槌を打ち、感じたことを口にする。しかし頭ではどうしてももう一方のことを考えてしまう。
ガンコならこれらの料理を見て、どんな反応をするだろう。
ガンコなら食べながらどのような話をするだろう。
ガンコなら既にお腹いっぱいと苦しそうにするだろうか。それともまだまだ食べられると、はしゃいでいるのだろうか。
この想像がせっかく誘ってくれた藤本さんに対して、失礼にあたるのは理解できる。だから考えないようにしているのだが、気付けばそのようなイメージが頭をどうしても過ぎってしまうのだ。
「国島くん?」
藤本さんに呼びかけられて、僕は我に返った。気付けば目の前にはデザートのアイスクリームが置かれている。
藤本さんは不安そうに僕を見つめていた。当然だ。一緒に食事をしている人間が、急に黙り込んでしまっては誰でも訝しむ。そのことに今さらになって気付き、僕は考え込んでしまった自分を恥じた。
「すみません。ちょっとボーッとしてしまって。あっ、このアイス美味しいですね。冬に食べるアイスもまたいいですよね」
慌ててアイスクリームを一口頬張りながら、僕は言った。しかし藤本さんが表情を変えることはない。ただ追及するような真似はせず、彼女もまたアイスクリームを口に運んだ。
お互いにデザートを食べ終え、レジへと向かう。支払いは藤本さんが済ませてくれた。もちろん僕も払おうとしたのだが、彼女に「誘ったのは私なんだし、元上司としての顔を立たせて」と言われたので、その言葉に甘えさせてもらった。
駅まで歩く道中、気まずい沈黙が僕ら二人の間を支配していた。都会である梅田は、今日も人が多く出歩いており、やかましいぐらいのはずなのに、なぜか僕と藤本さんの周囲は胃もたれしそうなほど重い空気が流れている。
藤本さんには本当に申し訳ないことをしたと思う。ただこの食事の中で、僕の中で疑問に思っていたことが確信に変わった。
「ねぇ、国島くん」
ふいに藤本さんが僕の名前を呼び、そして立ち止まった。気付けば待ち合わせ場所であったヘップファイブの前まで来ている。ビルの前は、先ほどと同じく人でごった返していた。
「はい」
僕が答えるも、藤本さんはすぐには反応しない。どうしたんだろうと疑問に思っていると彼女は深呼吸をし、振り返った。その表情は、何だか緊張しているように見える。
「好き」
唐突に言われた言葉に、僕の思考は追いつけなかった。理解が間に合わず「え?」と聞き返すしかない。
「私ね、実は国島くんのことが、ずっと好きだったの」
藤本さんが顔を赤らめながら改めて言った。
人混みの多いこの場所で、この告白の場面を気にして足を止める人は誰もいない。しかし今の僕には、そんなことはどうでも良かった。
ただ藤本さんからの告白に、戸惑うしかなかった。
「ありがとう、ございます」
何とかその一言を絞り出すことができた。しかしそこで言葉を止めるわけにはいかない。
藤本さんは自分の気持ちを伝えてくれた。彼女には恩があるし、好きな人間だ。だからこそ、僕も自分自身の気持ちを、誠意を持って答えねばならない。
「でも、ごめんなさい。僕は、藤本さんの気持ちに答えることはできません。僕にも、好きな人がいるんです」
時が止まったのかと疑いたくなるような沈黙が、僕ら二人の間を支配する。藤本さんは僕の言葉を聞いてから目を伏せていたが、やがて「そうか」と言って笑みをこぼした。
「やっぱりそうだよね――ねぇ、その好きな人って、あの店長さん? 国島くんの幼馴染っていう」
その指摘に僕は戸惑いを隠すことができなかった。「えっ?」と言う言葉が漏れ、何度も瞬きをする。
「ど、どうして――」
「国島くんさ、無意識だったんだろうけど、この前お店で話している時、チラチラとあの店長さんのことを見ていたよ。まるでどう思われているのか気にしているみたいだった」
からかうような藤本さんの笑みと言葉に、僕は恥ずかしさから顔が火照るのを感じた。彼女の言う通り、自分でも全くと言っていいほど気が付かなかった。僕はそんなに、ガンコのことを見ていたのだろうか。
「あの時から、もしかしてとは思っていたんだよね。だからさ、私自身の気持ちにもけりをつけるために、今回の食事に誘ったし、こうして告白させてもらったの。ごめんね、私の身勝手に付き合ってもらっちゃって」
そう言って藤本さんは微笑みながら僕に近づいてきた。そしてそっと僕の肩に手を置く。
「ありがとう。そして、頑張ってね」
それだけ言うと藤本さんは僕の肩から手を離し、歩き去って行った。僕は何か言わなければいけないのではないかと思いつつも、その場を動くことができない。
ただ去り際、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた瞬間を、僕は視界にとらえてしまった。それを忘れることは、きっとできないだろう。
