ガンコ




 藤本さんと会う前日。僕は月に一回の定期診察のため、原田先生の元を訪れていた。いくつかの質問を終えた原田先生は、満足そうに何度も頷きながらボードに挟んだ書類に何やら書きこんでいく。
「うつ病もだいぶ治まって来たね。表情も来るたびに明るくなってきているし」
「そう、ですかね。自分ではあまりわからないんですが」
「友達が経営している店で働いているということで、ストレスをあまり感じなくなっているのかもしれない。最初は接客業と聞いて不安を覚えたけれど、この調子だと問題なさそうだ。ただ――」
 そこで言葉を区切り、原田先生は僕を見つめてくる。細められた目はまるでこちらの心の奥底を読もうとしているかのようで、居心地の悪さを覚えてしまう。
「今日に関してはどうにも浮かない顔をしているね。なにか不安を抱えているんじゃないかい?」
 まさに図星だった。
「表情だけで、そこまでわかるものなんですか?」
「もちろんそれだけじゃない。視線も何度か泳いでいたし、声もいつもより暗いというか、低いトーンだった。そういった情報を合わせた結果、もしかしたら新たな問題が生まれたんじゃないかと心配になってね」
 さすがは心療内科医というべきか。その観察眼の鋭さには舌を巻くしかない。とはいえ、ガンコとの件をここで相談すべきなのか、どうしても迷ってしまう部分がある。
「先に言っておくけど、こういうことを話していいのだろうか、という心配をしているならそれは無用だよ。患者さんの話を聞き、心の不安を可能な限り取り除く。それがカウンセリングというものだからね」
 また原田先生が僕の心を見透かしてくる。これは下手に隠せないなと苦笑し、一度深呼吸をしてから話す決意をした。
 明日、元職場の上司である女性と食事をすること、そのことでガンコとケンカになったこと。そして毎日のようにガンコのことが気になってしまっていること。一体自分はガンコのことが好きなのか、それともただの幼馴染として見ているのか。それすらもよくわからないということを。
 一通り話し終えて、僕は顔を上げた。すると原田先生が呆けたように口を半開きにして固まっている。さすがに恋愛相談をされるとは思っていなかったのだろう。
 やはり話すべきではなかったのだろうか――僕の心にそんな不安が生まれた瞬間、急に原田先生が吹き出した。今度は僕が呆気に取られる番だった。
 今の話に、果たして笑う要素はあっただろうか。
「いやぁごめん、ごめん。別に君の話を笑ったわけじゃないんだ」
 原田先生が手を掲げて謝罪する。しかしそのニヤついた笑みでは説得力がない。
 一体何に対して笑ったというのだろう。
「実は偶然にもね、さっき診察をした女性患者からも同じような内容、つまり恋愛相談を受けてね。ただでさえ心療内科医に相談するのも珍しいのに、それが一日の内に二回も起こるなんてって、ちょっと驚いてしまったんだ」
 そう言ってから原田先生は姿勢を正すと、真面目な表情に戻る。
「一つ確認しておきたいんだ。その前の職場の上司のことを、君はどう思っているのかってことを」
「藤本さんのことを、ですか?」
 僕は首を傾げるしかなかった。原田先生は、なぜその部分が気になっているのだろう。ただ答えない理由とかは特にないので、僕は率直に藤本さんに感じている印象を口にする。
「そう、ですね。すごく頼りになるというか、何かあった時にすぐに相談しようと思えるような――言うなれば、姉のような存在、なんですかね。実際にいるわけではないので、あくまでイメージですけど」
 僕の言葉に、原田先生は何度も頷いた。気のせいか、その表情はどこか満足げにも見える。それが僕にはよくわからなかった。
「ねぇ、国島くん」
 原田先生が手を揉みながら前のめりな姿勢となった。
「今から僕が言うことをよく聞いてほしいんだけどね」
「はぁ」
「もしも、その前の上司さんから何か言われたら、率直に自分の気持ちを答えるようにするんだよ」
「え?」
 原田先生の言葉の意味がわからず、僕は眉間に皺を寄せて訊き返すしかなかった。しかし先生は僕の表情を気にすることなく、真っ直ぐ見つめて言葉を続ける。
「相手のことが嫌いじゃない。恩もある。だから要求は何でも受け入れよう。それじゃあ逆に相手に対して、失礼に値する。もし国島くんが本当にその人に恩を感じているなら、素直に自分の気持ちを伝えるんだ」
「あの、すみません。どういうことですか?」
 話について行くことができなくて、僕は訊ねてみた。しかし原田先生は意味深な笑みを浮かべて「もしかしたら、そのうちわかるかもしれないよ」と言うだけだった。その言葉が余計に僕を混乱させる。
 一体、原田先生は僕との会話で、何を感じ取ったというのだろう。
「あぁ、それと、そのお友達のことなんだけどね」
 思い出したように原田先生が言った。口調がわざとらしく聞こえるのは、僕がうがった見方をしているからだろうか。
「もしも自分の気持ちが固まったら――つまり、その友達のことがやっぱり好きなのだと確信を持てたのなら、機会を見て自分の気持ちを伝えるといい。もちろんすごく怖いとは思うし、勇気のいることではある。それに国島くんのうつ病のこともあるしね。だからさ、まずは無理のない程度で行動してみよう」
 原田先生の表情は、どこか昔を懐かしむような雰囲気が感じられた。それをどう取って良いのか、僕にはわからない。
 ただ、妙に勇気づけられた。その実感だけはある。
「ありがとうございました」
 僕は立ち上がると、その場で頭を下げた。それが今の僕にできる、最大級の感謝の表現だった。