一
景色が、流れていく。川ように、とめどなく流れていく。
建設中のビル。昼下がりの公園。信号が青になるのを待つ、長蛇の車の列。それらが視界に映っては、流れていく。
阪急電車の特急は、停まる駅の数が少ない。大阪の梅田から僕の地元である茨木市までは、たったの二駅しか停車しない。だから休みの日や通勤ラッシュの時間帯は、十中八九と言っていいほど満員になる。
今は平日の真っ昼間。だからなのか、車内にいる人間の数は少ないし、お年寄りに席を譲らなければと変に気を遣う必要もなく、僕はザラザラとしたイスの質感を感じることができている。
時間帯によっては、特急の車内でもこんなに余裕が生まれるのか。その当たり前の事実を改めて認識し、僕は一人苦笑した。まるで人の心のようだ。
――そんな弱い心じゃ、この先やっていけないぞ。
先ほどの、面接官の声が頭の中で蘇る。髪を後ろに流し、照明を反射するぐらいジェルで固めていた。眉間に寄せた皺の下にある瞳に宿っていたのは自信か、それとも傲慢か。
心臓が掴まれ、縮んだような感覚を覚える。僕はそれから逃れるようにネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンを開けた。しかし心の圧迫感はちっとも治まらない。
悔しかった。僕だって、好きで心が弱っているわけではない。だがこれ以上考えると、周囲のせいにし、自分を甘やかすようになる。それもまた嫌だった。
何もかも中途半端だ。僕はどうして、上手く生きていくことができないのだろう。
ため息を吐くと、景色の流れが緩やかになっていく。どうやらもうすぐ着くらしい。
『まもなく、茨木市、茨木市。右側のドアが開きます、ご注意ください』
車内に男性車掌の妙に高い声が流れる。僕は足元に置いていたビジネスバッグを手に取り、立ち上がった。
駅のホームに降り立ち、階段を下ってから自動改札機を通り抜ける。ここから歩いて十分程度で家に着く。しかし気分の落ち込んだ僕は、どうしても真っ直ぐ帰る気分にはなれなかった。かと言ってどこかに行きたいという目的地もない。
どうしたものかと悩みながらも、気付けば僕の足は家とは逆の方向に向かっていた。駅前のバスターミナルを抜け、アーケード街に入って行く。平日の昼間だというのに通行人は僕の想像よりも多く、並ぶ店も心なしか賑わっているように見えた。
僕はこんなところで何をしているのだろう。どうして皆がそうしているように――同じように働くことができないのだろう。
また負の思考のスパイラルに飲み込まれそうになる。だがこの渦から逃げる方法が僕にはわからない。
この先どうなっていくのか。真っ暗な未来を重く考えながら、僕はただただ歩いていく。いつの間にかアーケード街を抜け、レンガ調の道路に入っていた。
車一台がギリギリ通れるような狭い道に、動物病院やパン屋が並んでいる。アーケード街のような屋根がないため、曇り空が丸見えだった。
この道はあまり通らない。最後にこの辺りに来たのは何か月、いや何年前だったか考えてしまうレベルだ。いつからできたのか、見覚えのない店が色々と営業している。
ふと、僕の視界に一つの看板が映り込んできた。
ピンク色の立て看板に、青いチョークで花の絵が描かれている。どの種類の花をモデルにしたのかはイマイチわからない。絵の下には黄色いチョークで「一階 コーヒーショップ ガンコ」と書かれていた。
僕は思わず立ち止まり、その看板をマジマジと見つめた。
コーヒーのイメージカラーは黑だと僕は思っている。しかしこの看板はまるで嫌がるか抵抗するかのように黒い色が一切使われず、逆の明るい色合いが使用されていた。カフェならまだしも、コーヒー豆の販売をメインとするコーヒーショップでは、やや珍しいような気もする。
次に僕は、看板の側に建っている建物に目をやった。
鉄筋コンクリートの三階建てのビル。ガンコという店は、その一階。木造のスライド式ドアは開け放たれたままで、中から漏れるオレンジ色の照明に交じり、コーヒーの独特な香りが漂ってきた。
それにしても――
「コーヒーの店に、ガンコって何だよ」
気付けば僕は思ったことを口にしていた。
子供の頃にやっていた教育番組に、そんなタイトルの人形劇があったような気がする。看板といい店名といい、何もかもがコーヒーのイメージと釣り合っていない。
しかし、なぜだろう。この「ガンコ」という名前には、妙に引っ掛かるものがあった。観たことのある番組の名前以外で。
一体、この名前は何だったろう。どうして僕は、こんなにも気になっているのだろう。
「あの――」
ふいに声をかけられ、僕は肩を飛び上がらせた。そして声がした方向に目を向ける。
一人の女性が、ドアに手を突いて店内からこちらを見つめていた。
歳はおそらく、僕と同じ二十代後半。眉は濃く、鼻は丸っこい。ショートボブに切り揃えられた茶色い髪が風に揺れ、彼女の頬にかかった。黄色のブラウスとジーンズが女性の雰囲気を明るく彩っている。
「良かったら、中でじっくり見て行きませんか?」
チワワのようなつぶらな目で女性が話しかけてきた。その表情が可愛らしく、自然と僕の心臓の鼓動が早まった。
「え、えっと」
緊張した僕はすぐに言葉を返せず、しどろもどろな態度になってしまう。それを驚かせたと勘違いしてしまったのか、女性が慌てて「あっ、いや、押し売りとかじゃないですよ」と手を振りながら言った。
「実際に商品を見てほしいなぁとは思いましたけど。もちろん、気に入ったものが無ければ、買わなくても大丈夫なんで」
「あっ、あぁ、はい。じゃあ、お言葉に甘えて」
女性に案内されるまま、僕は店内に入って行った。
入り口を挟むように、左右にはコーヒー豆が入った樽が置かれていた。ブラジルやコスタリカなど、色んな産地の豆が並べられている。どれも焙煎前の生豆の状態で、白とも緑とも言い切れない微妙な色合いをしていた。店の奥には販売カウンターとキッチンがあり、仏頂面の男と、案内している方とは違う、もう一人の女性店員が「いらっしゃいませ」と言ってこちらを見つめていた。他に客の姿はない。
店頭に置かれた明るい色調の看板とは違い、暗めの照明や木製の壁はコーヒーを売りにする雰囲気にマッチしている。店内に充満している豆の濃い匂いも居心地が良かった。
とりあえずと、僕は左右の樽に目をやる。ただ正直なところ、どの産地のコーヒーが美味しいのかというのは、僕にもわからない。コーヒーは好きなのだが、通というわけではないのだ。
「好きに見て行ってくださいね」
最初に僕に話しかけてきた女性店員が、白い歯を見せて笑った。頬が熱くなるのを感じる。
「ありがとうございます。そう、ですねぇ――」
ショーケースを眺める。そして数秒後に別の商品を見つめる。ただただその繰り返しをするしかない。それが逆に恥ずかしく、自分でも意味のない行動だと思えてくる。
「何か、好きなコーヒーの味とかってあります?」
僕の態度を見るに見かねたのか、女性店員が笑いながら声をかけた。その笑顔が何だかこちらの心を見透かしているようで、自分のことがひどくみっともなく思える。
「味、ですか」
「えぇ。コーヒーって、苦味が強いものや酸味が強いもの、後は香りとかコクとかがあるじゃないですか。その中で、お客さんは何が好きなのかなぁって」
「えっと、まぁ、苦いものが好きですね」
「苦味ですね。じゃあ、このマンデリンとかどうですかね。苦味だけじゃなくて、香りやコクも強めでオススメですよ」
そう言って店員はショーケースの一つを指さした。ケースの下部に供えられたカードには「マンデリン 産地:インドネシア」と手書きで書かれている。
「良かったら、試しに飲んでみますか?」
「え、いいんですか?」
「もちろんです。ウチはコーヒーの販売だけじゃなくて、飲むこともできるんで。あ、奥に席があるんで、そちらでお待ちください」
そう言って店員は店の奥を指さした。入ってきた時は動揺していて気付かなかったが、確かに店の左奥にカウンターと一人用の回転いすが五席そろっていた。
僕はゆっくりとした足取りで歩き、席に着く。それを見届けた女性店員は振り返り「リオン」と男性店員に呼びかけた。
「マンデリンを一つお願いね」
「焙煎の具合は?」
「シティローストで」
男性店員は口角を吊り上げ「オーケー」と低い声で答えた。
こちらも若い男だった。彫が深く、輪郭はやや角ばっている。金髪にパーマを当てており、そのうねった前髪から覗く瞳は、よく見ると青かった。日本人ではないようだが、しかし日本語は流暢に思えた。
「もっとわかりやすいポップが必要ですね。このコーヒー豆は苦味が強いかそれとも酸味が強いか、みたいな感じで」
女性店員が隣の席に座り、僕の顔を覗き込んでくる。キレイな顔立ちが至近距離に来たことで僕の心臓の鼓動はさらに高まり、思わず目を逸らしてしまう。
「いや、僕が無知だったからいけないんです」
「そんなことありません。誰にでもわかりやすいよう心がけるのは店側が頑張らないといけないことですよ。ごめんなさい、オープンしたばかりだから、まだまだ至らないところが多いんです」
チラリと僕は視線を店員に戻す。女性は舌を出し、頭を下げた。その仕草がまた可愛らしい。
どうしても彼女を見つめることができず、僕は再び目を逸らすしかなかった。その時、壁に貼られた一枚のポスターが目に入る。
コーヒーの入ったカップの周囲に、オレンジやレモンといったフルーツが描かれた絵だった。ポスターの下部には『インフューズドコーヒー、販売中!』と書かれている。
「インフューズドコーヒー?」
「あっ、気になりますか?」
女性店員がさらに表情を明るくして顔をグイッと近づけてきた。思わず僕は席の上で体を仰け反らせる。
「インフューズドコーヒーって、浸したコーヒーって意味なんです。そもそもコーヒー豆って、コーヒーチェリ―という果実の種なんですけど、コーヒー豆として清算処理する方法の一つに、ウォッシュドというものがあるんです。豆を水に漬けてから天日干しするというやり方なんですけど、この水に漬ける段階の時、フルーツもしくはスパイスを一緒に漬け込むんです。そうして味付けされたコーヒーのことを、インフューズドコーヒーって言うんですよ」
早口に熱く語る彼女に、ただただ僕は口を半開きにして訊くしかなかった。その僕の表情をどう読み取ったのか、女性店員は我に返ったように気まずそうな表情に変わった。
「ごめんなさい、私、あの、喋り過ぎましたね」
「え、いや、そんなことないですよ」
我ながら嘘が下手だとは思う。女性店員もそう感じ取ったのか、顔をさらに赤らめた。
「私、好きなものの話になると本当にオタク気質が出てしまうというか、周りのことが見えなくなって、喋りたいことを無茶苦茶喋ってしまうところがあるんです」
「いや、でも、それだけコーヒーが好きってことじゃないですか。それにコーヒーに対する熱意がすごく伝わってきましたし」
それは嘘ではなかった。本当に好きだからこそ、あそこまで熱く語ることができたし、知識も身に着けることができたのだろう。そういったものを持っているこの女性店員が、僕にはうらやましく思えた。
「じゃあ、このインフューズドコーヒーもいただいていいですか?」
「えっ、いいんですか?」
意外だったのか、女性店員が目を丸めて訊き返した。そのコロコロと変わる表情に、思わず僕は微笑んでしまう。
「紹介してくれたのは店員さんですよ。それに今まで飲んだことないですし、この機会に試してみたいんです」
「ありがとうございます! ちなみに、今の時期にうちで取り扱っているのはフルーツインフューズドで、オレンジ、レモン、ピーチの三つから選んでいただけますけど、いかがします?」
「えっと、じゃあオレンジで」
直感で僕は答えた。女性店員が大きく頷いたタイミングで、別の女性が頼んでいたコーヒーを持ってきてくれる。
「あっ、|千尋(ちひろ)。オレンジのインフューズドコーヒーも追加でお願いね」
女性が座ったまま手を挙げた。千尋と呼ばれた店員はコーヒーを僕の前に置いてから微笑み「わかりました、店長」と軽快な口調で答える。
千尋さんは黒い毛先を外にはねさせており、目はやや垂れがちだ。こちらも僕と年齢は大差ないように見える。結婚しているのか、左手の薬指には銀色に輝く指輪がはめられていた。
それよりも、今の彼女の言葉に、気になる点があった。
「あの、店長さんだったんですか?」
「はい。あんまり見えないですよね」
やや自嘲気味な笑みを女性が浮かべる。僕は慌てて「いやいや」と首を振った。
「そんなこと、ないです」
「この店、今店内にいる三人で回しているんですけどね。みんな若いでしょう? 男の方は前の職場で一緒に働いていた同僚なんです。そして女の子は小学校時代からの友達。二人とも優しいから、私が開業するって言ったら、手伝いに来てくれたんですよ」
そう言って女性は二人の店員に目を向ける。その瞳には、何かを懐かしむような雰囲気が醸し出されているように見えた。
「私、子供の頃はいわゆる転勤族だったんです。父の仕事の関係で色んなところに引っ越して。まぁ、私が小学六年生の頃、東京で父が転職したんで引っ越しの多い人生もそれまでだったんですけどね。この茨木市にも、一年だけ住んだことがあるんです」
「そう、だったんですか」
僕は戸惑いながらも相槌を打つ。
不思議だった。なぜこの女性は、客とはいえ初対面の僕に、自分の過去を語ってくれるのだろう。
そしてまた、店頭の看板を見た時のような違和感。何かが心に引っ掛かるような何とも言えない感覚が、また僕の中で生まれた。
「さっ、そんなことよりも、早くそっちのコーヒーも飲んじゃって。冷めちゃいますよ」
店長にそう指摘されて、ようやく僕は持ってきてもらったコーヒーにまだ手を突けていないことに気が付いた。
「あっ、すみません」
「いえいえ。あっ、焦らないで。慌てず、火傷せず、美味しくじっくりと味わって」
店長に指摘されたことで、僕は一呼吸の間を置き、コーヒーを啜った。気のせいか、いつもよりコクのある味わいになったような気がする。
「美味しい」
思わず僕は一言呟いていた。それを聞き、店長は満足そうに何度も頷く。
「きっと、次のインフューズドコーヒーも気に入ると思うよ」
いつの間にか店長の口調からは敬語が抜けていた。しかし不思議と馴れ馴れしさなどは感じない。というより、言い方は変かもしれないが、馴染んでいるように思える。
まるで昔からの知り合いであるかのような――
「お待たせしました」
後ろから千尋さんの声が飛んできて、反射的に僕は振り返る。彼女が持つ銀色のトレーの上には、湯気を上げるピンク色の陶器カップがのっていた。
「インフューズドコーヒーのオレンジですね」
そう言って千尋さんは僕の前にカップを置いた。見た目は普通のコーヒーと大差ないが、柑橘系の香りが確かに含まれている。
「じゃあ、こちらもいただきます」
インドネシア産のコーヒーを置き、僕はインフューズドコーヒーが入ったカップを手に持つと、唇をカップにつけ、黒い液体を少し流し込む。
驚きのあまり、目を見開いた。
確かにオレンジの味がする。しかしコーヒーの味を阻害しているかと言われれば全くそんなことはなく、むしろ普段とは全く違う酸味を引き出していて、新鮮な感覚を味わうことができた。
「お味の方はどうです?」
店長が目をランランと輝かせながら顔を近づけてきた。よっぽどインフューズドコーヒーに自信があるのか、それとも店長自身気に入っている商品なのか。いずれにせよ、早く感想を聞きたいという気持ちがヒシヒシと伝わってくる。
「すごく、美味しいです。こんなコーヒー、初めて飲みました」
お世辞などではない。今までに飲んだどのコーヒーとも違う感動があった。先ほどまで沈んでいた気持ちが嘘のように、今僕の心は舞い上がっている。
「そうでしょ! 達希(たつき)くんならきっとオレンジを気に入るんじゃないかって、そう思ったの」
店長の弾む声に合わせ、僕も何度も大きく頷いた。しかし――
「ん? ちょっと待ってください」
今の店長の言葉に違和感を覚え、自然と僕の眉間に皺が寄る。
「どうして、僕の名前を知っているんですか?」
僕がこの店に来たのは今日が初めてだ。前を通ったこともないし、そもそも存在自体知らなかった。つまり彼女が僕の名前を知る機会はないはずなのだ。それなのに、どうして「達希くん」と呼ぶことができたのだろう。
店長は先ほどまでの笑顔を引っ込め、しまったと言わんばかりに顔を引きつらせた。かと思うと寂しそうに床に目をやる。
「やっぱり、覚えてないか」
低いトーンで彼女は呟いた。その言葉を聞き、思わず僕は「覚えてない?」と訊き返す。
「それって、どういう――」
「小学校時代の話とかこの店の名前とか、色々とヒントはあったのになぁ。店の前で立っている時、私は一目でわかったよ。達希くん、昔と全然変わってないんだもん」
彼女の言葉に、僕はただただ唖然とするしかなかった。
確かに店長が小学校時代の話をした時、何らかの引っ掛かりを覚えたのは事実だった。そしてこの店「コーヒーショップ ガンコ」という名前を目にした時にも。
そこまで考えて、僕の脳裏でバチッとスパークが光り輝く。次に来たのは、自分の記憶力の悪さを責める気持ちだった。
彼女の言う通り、すぐにでも気付きそうなヒントはいくつもあった。それなのに、今に至るまで全く思い出せないなんて。
「ガンコ! 君だったのか!」
