音のない世界に生きる無能の幸せな妖婚


 紫音がはっと目を開けると、そこは静かな北条院家の庭だった。

 着物姿の小さな女の子が、しゃがんで何かぶつぶつ言っている。


「今日も弥生は行っちゃだめなんだって。弥生はまだ力がないからって。お父様もお母様も、お姉ちゃんに構いきりだわ」


(弥生……?)


 十歳くらいの弥生は、小枝を手にして地面で何かガリガリと書いている。


「どうして弥生はだめなの? どうして弥生じゃだめなの? お姉ちゃんばっかり。どうして弥生じゃないの?」


 弥生は永遠と同じ言葉を繰り返しながら、地面をガリガリと削り続ける。
 紫音はそんな弥生の手元を覗いて、うっと目を逸らした。
 弥生の足元にはたくさんの虫の死体が転がってた。カマキリやバッタ、蝶など、あらゆる虫がその身を引き裂かれ地面に転がっていた。

 そんな弥生の周りを瘴気のような黒い靄が覆う。



「お姉ちゃんさえいなければ。お姉ちゃんさえいなければ」
「お姉ちゃんさえいなければ、弥生が一番になれたのに」



 瞬間黒い靄は人のような形になって、弥生に手を差し伸べる。



『可哀想に。ワタシが手を貸そうか?』
「え?」



 幼い弥生はぱっと顔を上げる。


「だめ!!!」


 紫音の叫びは当然届かない。
 弥生は、きょとんとした表情を浮かべ、黒い人影を見つめる。


『ワタシの力があれば、君の望みを全部叶えてあげられるよ』
「本当に!?」
『ああ、もちろん。けれどその代わり、ワタシも欲しいものがあるんだ』
「なあに?」
『君の身体だよ。君が死んだ後でもいい。ワタシにくれるかな?』
「死んだあと? いいよ! あげるよ!」


 弥生の言葉に、黒い影がにたりと口元に笑みを広げた。


『約束だよ?』

 そう言って黒い影は消えていく。

 その直後、弥生の手には大きな水の塊が浮かび上がる。


「これって、五行の術!? すごいすごい! 弥生、こんなに大きな水、出せたことない! お父様―!!!!」


 弥生は屋敷内を駆けて行く。





 それから場面は変わって、弥生は不安そうに指を噛んでいた。


「お姉様の方が少し力が強い気がするわ。またお父様もお母様もお姉様の方へ戻っちゃう……!」
『それなら君がお姉様の力を吸い取ってしまえばいいよ』
「そんなことできるの?」
『できるさ、もちろん』



「お姉様、もう陰陽師にはなれないだろうって。五行の力がないんですって。当然よねぇ! その力は全部私がもらったんだもの!! ねえ、私は日に日に強くなっているわよね? それなのに、何故だかずっと不安なの。いつかお姉様に抜かされるんじゃないかって。この前陰陽師会で聞いたの。陰陽師が作り出した、他者を呪う術があるんですって。その呪いは、五感を奪うものだって。私もそれが欲しいわ! お姉様の五感にどれかしらの影響があれば、きっとお父様もお母様も、陰陽師として北条院の跡を継ぐのは私だって、私だけを見てくれるわ!」



「お姉様! 本当に耳が聞こえなくなったんですって! 呪いは本当だったんだわ! これでもう、無能なお姉様にお父様もお母様も期待しない! 私が一番だわ!!」



「お姉様、御影に嫁ぐんですって! あの妖屋敷の御影よ!? 笑っちゃうわ! これで北条院は私のもの! これでやっと安心できる……」



「お姉様、まだ生きていたわ。平然と。いい着物まで着ちゃって。どういうこと? 御影は何をしているの? あーよかった、生きてた時の為に呪いを込めた手土産を用意しておいて。これでお姉様の呪いも活性化するはずだわ。でもまだ安心できないわ。この不安はきっと、お姉様が死ぬまで続く。早く、早く死んでもらわないと……」



「どうしてまだ生きているのよ!!!! 津田は!? 李央は何をしているの!? 他の陰陽師達は!? どれだけ私が力を分け与えたと思うのよ!! どうして誰も連絡を寄越さないの!! 早く、早くお姉様を殺さなきゃいけないのに……っ!!!!!」



 弥生は狂ったように紫音のことばかりを考え続けた。

 両親を取られたくない。常に自分が一番でありたい。
 そんな身勝手な心は、妖との縁を深くしていく。

 弥生の心は既に妖に喰いつくされていた。





 高らかな弥生の笑い声で、紫音は意識を取り戻す。

 弥生は妖を使役するため、その妖達に力を与えるため、道元や文江だけでなく他者をも妖に喰わせていた。
 弥生は自分のために、他者の命すら使ったのだ。

 紫音は宙吊りになりながら、胸の前で強く自身の手を握り合わせた。そして、苦しい中はっきりと言葉を紡ぐ。


「弥生。私は、話せばわかると思っていた。私や私の呪いのことだけなら、きっと私はここまで怒っていない。けれど、お父様やお母様、関係のない人の命を弄んだことは、到底許されることではないわ」


『は? だから何? 私が一番になるためなら、他のどうでもいいゴミみたいな人間なんて必要ないでしょう!? 私さえいればいいのよ!!!! 津田なんて北条院を恨んでいながら、私と気が付かずに力を欲したのよ? 本当に馬鹿だわ! そんな馬鹿な人間なんかいらないでしょう! 私がいれば、お父様もお母様も、帝様もお喜びになる!!』


 弥生の言葉に、紫音は諦めがついた。


(この子はもうだめだわ。きっと妖に心を奪われる以前の話)


 弥生の本質はきっと、今も昔も変わらない。だからこそ、妖に付け入られる隙を作ってしまい、妖と結託してしまった。そのことが陰陽師として禁忌とされていることを知っていながら。

 紫音の掌に温かな光が満ちていく。


(どうか、亡くなった人達が安らかな眠りにつけますように)


 紫音が祈ると、温かな光が屋敷全体に満ちていく。


『なっ、なによ……これ……っ』


 紫音を掴んでいた大きな手がすうと消え、地面へと落ち行く紫音を黒稜が受け止める。
 周りにいたはずの無数の妖も、弥生の中にいたはずの妖も、皆、紫音の浄化の祈りの力で、綺麗さっぱりいなくなっていた。


『これが、浄化の光か……』


 黒稜が驚いたように辺りを包む温かな光を見つめる。


(すごい、なんだか私の心まで温かく包んでくれるような……)


 自分が祈りの巫女だなんて、正直信じていなかった。しかし、こうして紫音の祈りの力によって、妖や瘴気は浄化されたのだ。

 目の前にただ一人残された弥生を残して、辺りは静けさを取り戻していた。


「お姉……さま……」


 苦しそうに地面をのたうち回り息を吐き出す弥生。


「どうして……っ、どうしていつも私じゃないの……っ!」


 弥生は相当数の妖を使役し、あまつさえ紫音に強大な呪いをかけていた。人を呪わば穴二つ。その代償は言うまでもなく大きい。


『妖と契約していたのだ。その魂はもう人に戻ることはないだろう』


 妖は浄化されその姿がなくなったとしても、弥生の魂は喰いつくされている。それが戻ることはない。
 弥生は妖にかけられた呪いによって、命を落とすのだ。


(双子揃って呪いにかかって死ぬなんて、双子はどこへ行っても双子なのね……)


『行こう』


 姿を人間に戻した黒稜は、紫音の手を取って歩き出す。
 その背中にぜえぜえと苦しそうな弥生の声がかかる。


「お姉ちゃ、お姉ちゃん……待っでぇ……助けてぇ……」


 しかしその声が紫音に届くことはない。

 後ろから声を掛けられても、紫音にはわからない。紫音の聴力を奪ったのは弥生だ。その弥生が今更紫音に声を届けようなど無理な話だった。







 北条院の屋敷を出ると、張り詰めていた緊張が解けたのか紫音の脚ががくっと崩れ落ちる。それを慌てて支える黒稜。


「も、申し訳ございません……」
『構わない。祈りの巫女の力を使い過ぎたのだろう。まだ覚醒して間もないのだ。無理もない』
「ありがとう、ございます……」


 呟いた紫音は目を瞑り、間もなくしてすぅすぅと寝息が聞こえ始める。

 黒稜は紫音を背中に背負うと、ゆっくりと歩き出す。
 神経を研ぎ澄ませ、紫音の中の呪いへと集中する。


『やはり、か……』


 紫音の中の呪いは、未だ健在であった。術者もその力を与えた妖を浄化しても尚、呪いは消えていなかった。
 少しずつ、少しずつ紫音の身体を蝕んでいるのを感じる。


『くそっ、どうしたら……っ』


 黒稜は自身の無力さに嫌気が差す。弥生に利用された呪いとはいえ、本来御影が生み出したものだ。それが紫音のような心優しい娘にかけられてしまった。



『……絶対に、絶対に君を救ってみせる』



 黒稜は顔を上げると、前へと歩み続けた。