足がガクガクしてまともに立ち上がることができない。
 普段滅多に走らないからだろう。

 嘆息と共に息があふれ、苦しさが胸を締め付ける。

 ……あの夜、彼らの話を耳にしてしまった時から何もかも変わってしまっていた。
 あの男たちの会話が、うねるように繰り返し響いている。

 ……あれは何?私は何をすればいいの?

 ……でも、私一人で、立ち向かえるはずがない。魔法が使えない“弱い”存在である私には。
 音すら遠ざかり、私は意識のどん底に静かに突き落とされていく。
 体の力が抜け、私は完全に気を失った。
 なんで、こうなったんだろう。 

 記憶が灼熱の午後へと遡る。

☆*:.。. …………………………….。.:*☆
 
 地球海の夏は、暑い。

 身体中にむわっとした熱気と湿気まとわりつく。
 
 流れ出る汗すら鬱陶しく感じた。

 それでもみんなはおしゃべりをやめない。

 今は学園祭前、放課後の準備期間。

 クラス対抗演劇の話だが、主導しているのは学級委員と陽気な一軍女子だけ。
 あとは関係ない話をしているか、暑さでぐったりしているか。
 議論も、女子たちがみんなで儚い恋物語をやると言ったきり全く進んでいなかった。

 遠く鐘が鳴る。
 低く、重く、教室の空気を震わせる音。

 胸の奥で、何か小さな恐怖が膨らんだ。

 小さく息を吐いては、廊下へ足をつけた。
 地面に練り込んだ熱気が足を這い上り、身震いする。

 するり、と足を進める。
 目は忙しなく動いていて、心音が喉元まで跳ね上がった。

 その瞬間、冷えた青白い手が肩に触れる。

 ああ、始まってしまった。

 ”奴らの時間“が。

 「やあ、ホーミスちゃん。また道に迷ったのかい?これだから”人間“は困る。」

 ねっとりした声。アレスターだ。
 ニシキヘビのような意地の悪い笑みを浮かべ、彼は廊下に立っている。
 その後ろには、いつもの影法師たち。
 彼にくっついて離れようとしない、だけど何の役にも立たない取り巻きが数人。
 
 彼らは私の本当の名前を口にしたことはない。
 ホーマをもじった“ホーミス”としか。
  
 「あんたたちには関係ないでしょ」

 「ふーん。ずいぶん強い口を聞くね。何にもできないくせに。」
 わざと大きく発音をしてアレスターが言った。

 何にもできない………………胸が刃物で刺されたように痛む。
 もう、刺すところなんて残っていないはずなのに。

 「フフッ。聞いたわよお。」
 ネメーシアが鋭く眉を潜め、声を荒げて言う。

 「この前の実技試験で大失敗をしてしまったんですってねえ。爆発まで起こして、みんなあんたのせいよ、人間!」

 「あら、やめてよ、ネメーシアちゃん。あんまり責めないであげて?ホーミスさんは魔力がないんだもの、仕方ないわよ。」

 軽蔑が混ざった哀れみの表情でヘレナがネメーシアをなだめた。
 その笑顔は優しげに見えるけれど、目の奥に冷たい光が宿っている。
 一番穏やかなようでいて、一番私を見下し、馬鹿にしている………………肌で感じた。

 「このままじゃ高等部にすら上がれないんじゃない?かわいそうに。」

 「大丈夫さ。」

 アレスターが冷ややかな笑みを浮かべていった。
 嫌な予感が胸を締め付ける。

 「俺たちが、劣等生のホーミスちゃんに魔法を教えてあげようじゃないか。ヴィンクトーラ!」

 手から光線と共に黒い縄が伸び、腕に絡みつく。

 まるで生きている“蛇”のように、じわじわとざらついた皮膚が刺していった。

 息を吸い込む間もなく、恐怖が頭を支配する。
 
 歯を食いしばり、解こうとするも、魔法で抑えられて抵抗しようがない。

 「ちょっと何するの‼︎やめてよ‼︎」 

 「親切に教えてやったのに、ずいぶん無礼な言い方だね。
 捨て子は礼儀も知らないのかい?せいぜい頑張るんだな、ホーミス!」

 捨て台詞を吐いて、奴らは立ち去っていく。
 
 私はただ、地面を這いつくばり、醜い姿で睨むことしか出来なかった。
 
 縄が皮膚を擦り、擦り傷が痛む。
 
 あんな奴らに対抗できないなんて………。ひどく胸が痛んだ。
 
 やがて廊下には誰もいなくなり、差し込んでいた陽も消えていった。

 日雇いの用務員の人が見つけてくれて、名前も知らない私にかけられた呪いを解いてくれたのは、もう月が見える頃だった。

 ☆*:.。. ……………………….。.:*☆

 廊下は視力を奪われたかのように真っ暗だ。
 小さい頃孤児院でやった、「光の届かない暗闇の実験」を思い出す。
 何人かは……魔法をこっそり使ってずるをしていたことも。

 魔法さえ、あれば。

 もがき苦しむことも、
 誰かに笑われることも、
 見下されることも、
 きっとなかった。

 そんな世界があったなら、私は……。

 失敗したって、笑ってくれる誰かがいたかもしれない。
 魔法なんていらない。ただ、心を預けられる友達がほしい。

 目から涙があふれ出て、口の中は一気に苦くなる。

 壁に手を触れた時、冷たくざらざらした感触が、孤独を突きつけた。


 すると。
 どこからか、犬の鳴き声が聞こえてきた。

 「ワン、ワンっ!」
 月明かりにも負けない光が、私の目を刺激する。

 反射的に目を細める。まぶたの間から、その光の方をじっと見つめた。

 足音が聞こえる。
 空中を歩いているかのように優雅な、でも必死さが伝わる足音。
 私の方へと近づいてきている。
 もしかして。

 「カミール!」

 「クウン!」
 私の犬、カミールだった。
 白い毛並みが艶を帯び、まるで月の精霊みたいに、現実離れした光をまとっていた。

 温もりが、冷え切った心にじんわりと染み込む。

 カミールは、ランタンを加え、体を上下に大きく揺らしながら、猛然と近づいてきた。

 全身で「遅くなってごめんね……。」というように。

 
 口からランプを離し、前足で器用に押し付ける。
 これを使いなさい、と言っているみたいだ。

 彼女の頭を撫でながら、私は深く後悔する。
 
 ああ、なぜ私はカミールのことを考えなかったんだろう。
 彼女はこうして、私のことを思い続けて助けに来たというのに。
 なんて私は欲張りで、もっと大切なことに気づかなかったんだ。
 
 胸がぎゅっと締めつけられ、喉が詰まって言葉にならない。
 自分を責める気持ちと嬉しさで体が震え、せっかくのカミールの光も視界の中でゆらいで、ぼやけていった。

 「カミール!ごめんね!ありがとう,本当にありがとう!…怖かった。怖かったよおお!」

 堪えた感情も一気にあふれ出して、止まらなくなった。

 カミールと一緒の時だけは,私は私でいられた。
 武装する必要なんかなかった。
 こんな私でも……カミールは、私の涙をなめてくれた。

 毛並みに顔を埋めると、お日様を浴びたような心地よい香りがした。

 白い毛先に、音が一心に吸い込まれていく。

 この世界は、私とカミールだけ……存在しているように思ったのに。

 ………その中に、妙な声が混ざった気がした。

 顔を上げるが、誰もいない。

 どうやら廊下の突き当たりから聞こえるようだ。

 好奇心に負けて、私は音のする方へと近づいた。

 内から呼び込むように記憶が戻ってくる。

 今度は、はっきりと。 匂いですらクッキリ思い浮かぶような。

 だって、これは………私の中の”運命の歯車“が動き出した時だから。

 ☆*:.。. …………………………….。.:*☆
 
 「………………大丈夫です、手筈は済んでいます……あなたたちの計画は,問題なく進むでしょう……」

 低く、乾いた男の声が廊下に響き渡る。一体誰だろう。

 教室も真っ暗で誰もいないはずなのに……。

 微かな足音が、静寂を切り裂くように近づいてきた。
 カミールの銀色の耳も,ピクンと跳ね上がった。 
 足跡の方を見て小さく唸っている。

 目を凝らすが、闇しか見えない。体が一気にこわばった。
 廊下の隅で、小さく冷たい声が言った。
 
 「本当にそれで間違いないんだな。我々の計画は、絶対に失敗できない…我々の運命がかかっているのだから。」

 恐ろしさを秘めたささやき声が続く。

 暗闇の中に、大きな沈黙が落ちた。
 彼の吐息だけが後を引く。

 やがて、感情のない,機械音声のような声が応じた。

 「………“灰の少女”………………古より伝わる存在をあの方に差し出すのです。誰にも気づかれません。」

 男の張り詰めた顔に、少しばかりの笑みが浮かんだ気がした。
 
 「……ふん、そなたも炎の使徒らしくなってきたな。さすが世界の“反逆者”だ。我々もそのうち,仲間をこちらに呼び込む手筈を進めようぞ。」

 低い声の男は唇を舐めた。 

 胸の奥に、底知れぬ恐怖が湧き上がる。
  
 灰の少女?炎の使徒?すり替える……誰かが犠牲になるということか?

 指先まで凍りつき、顔から血の気が引いていく。

 暗闇に潜む男たちの視線が、一瞬こちらに向いたような気がした。

 「おい、なんだ?誰かいるのか?」
 
 不気味な声が響く。

 見つかった…………!どうしよう、こっちに近づいてくる。

 カミールが「こっちについてこい」と言わんばかりに後ろを向いて走っている。

 火事場の馬鹿力か。

 私の足もこれまでに無いほど素早く、音を立てずに走り出した。

 闇の中で、誰かの呼吸のような音が耳にまとわりついてくる。
 風が壁を撫でるたび、誰かに触れられた気がして、身震いする。

 目もぐるぐる回って、心臓が爆発しそうだった

 カミールの尻尾だけが、私の“道しるべ”だった。


 あの夜、カミールの目が私を見つめていた。

 言葉なんていらない。

 ただ、その瞳が………。

 “ここからすべてが始まる”

 静かに、それだけを告げていた。