欲と殺戮と血汗が混沌とした音が耳の中で渦巻いた。

 もうダメ……。

 力強く眼球を閉じる。 青みがかったグラデーションが目の奥に差し掛かっていた。

 「ちょっと待って!力で押し通すのはダメ!話し合おうよ!そしたらわかる……グッ。」

 トートの悲鳴が聞こえる。薄目で見ると、ぐったりと手足を垂れて横たわる彼女の姿があった。苦しげに顔は歪み、それでも立ち向かおうと、瞳は凛と輝いている。

 「トート!」

 「このガキ、トートっていうのか?大層なお名前だ。さぞかしご立派に育ったんだろうなあ!
 話し合う?そしたらわかり合える?馬鹿も休み休み言え!」

 大柄な男がトートの服の裾を持ち上げ、殴りかかろうとする。

 「やめてっ!」

 パラが慌てて駆けつける。間に合わない。
 
 トートの目前に拳が……。

 「………!」

 「トート!」

 彼女はなおのこと立ち上がろうとする。額に傷を負おうと、関係ないというように。

 眉毛がぴくぴくと蠢いた。目に血が凝縮して飛び出そうなほど歪んだ。

 ……許せない。こいつら!

 「トートは何もおかしなことを言っていないわ!あなたたちが間違っている………。罪のない子供をこんな風に……!」

 普段冷静な彼女が、肩を震わせて泣いている。全身から怒りが溢れ出していた。

 「もう……いいよ、パラ……。パラまでやられちゃう……。」

 弱々しく手を挙げるトートに、パラは強く言い返した。

 「ダメよトート!これじゃ意味がないじゃない!誓ったじゃないの!変えようって………。話し合って、分かり合って、変えようって……。なのに、こんな……。」

 「……夢を見るのもいい加減にしろ。お嬢ちゃん。
 お前たちは知らないだろう。
 人間というだけで、ただそこにいるというだけで、嘲り弄ぶように暴力を振るわれ……それで失われた数々の命を。
 食べるものも十分になく、働くことも許されず………。
 5つになる前に飢えじんだ子供と、泣き叫ぶ母親を!
 お前らが………お前らがやったんだぞ。お前たち“神”が殺したんだ。
 そんな奴らと」

 息を引き攣らせて今度はパラに殴りかかる。

 「分かり合えると思うなあああっ!」

 「待て、ルーカス。早まるな。」

 ぴしゃりと、ライネルが空気を破った。力強く男の手を引き留め、張り付くような笑顔を浮かべている。

 「ライネル様、でも……。奴らに思い知らせてやらないと……。」
  
 「まだ子供じゃないかルーカス。それに、面白い。初めてだ、我らを見て、話し合おうと叫ぶ連中は。ましてや子供なんて。
 面白い、実に面白い。」

 ここでライネルはケタケタと歯を鳴らして笑った。

 「それに私だって、無駄な殺傷はしたくないんでね。
 美しく、円滑に事が進むものならやってみたい。
 よし、トートとパラと言ったかな?
 話し合いに乗ろうじゃないか。ただし………魔法を使うのはなしだぞ?お兄さんからの約束だ。」

 「ですが……。」

 「黙れと言っただろう、ルーカス。」

 「……っ。はい……。」

 ライネルが血管を浮き出して、鋭い視線でルーカスを睨みつけた。
 迫力に押され、ルーカスは潔く身を引いた。視線だけは私たちを捉え、憎々しげに歯軋りをしている。

 「それで、お嬢さん方………。貴様らの目的はなんだ?何がしたい?………俺たちに、何をして欲しい?」

 含みのある、丁寧な物腰でライネルは尋ねた。目前の獲物を空腹を前にして捉えようとしているような、危険な気配を感じる。

 「まず、理由を聞かせて欲しい………。なぜこんなことをするのか、そこまでして門を開きたい理由は?」

 不協和音を喉からたなびかせながらも、私は声を絞り出した。

 汗すら流れてこない。ざらざらと肌が鳥肌立ち、赤い霜焼けが背中を焼く感覚がする。

 「ほう。貴様には言ったと思うが?……まあいいだろう。では改めて。」

 薄い髭を擦りながらライネルは言った。

 「貴様たちは知らないだろうが………。我々人間は神に痛めつけられてきた。人間というだけで、有無を言わさず。
 奴らは心底楽しむようだった。我々を傷つけるのを。そんな奴らに……情なんているのか?殺されたって、致し方ないだろう」

 「理由になっていない!貴方達が傷つけた者が、必ずしもそんなことをしたとは限らない!やり返したあんた達は、そいつらと同等よ!
 いや……。
 汚いやり口で脅して、関係ない人を巻き込んで………。自分たちを慕っていた子供すら利用して!
 あんた達はそれ以下だ!本物の“化け物”だ!」

 堪えきれない様子でヘレナが叫ぶ。涙を蹴散らし、今にも飛びかかりそうな勢いだ。

 「落ち着いて、ヘレナ。」とパラが腕を掴んでヘレナを制した。

 「それ以下だと……?ふっ。抜け抜けと、つまらぬことを言う。
 貴様は、同じ立場になってもそんなことが言えるのか?そこまで貴様は大層なものなのか?
 違うだろう。やり返したら同等だ。復讐するな? そんなものは机上の空論なのだ。 
 本当に、魂を揺さぶられ、自分の人生などどうでも良くなるほどの絶望を味わったことのない馬鹿のセリフだ。
 たとえば、貴様の大事な“母様”が………。」

 そう言って、ライネルは近くにいた女の手を引っ張った。

 生力を感じられないほど女の肌は真っ青で、整った顔は恐れを増して歪んでいる。

 これがリュシアの“母様”……。

 そう思う間もなく、ライネルは鋭い刃物で女の肌を切り付けた。

 しなびた肌に刃が食い込み、女は唸り声をあげて抵抗する。

 「……っあ……母様!……やめて、もうやめて………!」

 「……っ、リュシア……下がりなさい……!私のことはいいから……!このままじゃあなたまでも……。」

 「苦しいだろう、貴様は俺が憎いだろう!俺が同じように苦しんで欲しいと一瞬たりとも望んだのではないか?
 少女よ、これが恨みだ、執念だ!かくとその胸に焼き付けろっ!」

 見せつけるようにライネルは刃先を肌にじんわりと当てた。
 ヘレナは言葉を押し殺し、今にも崩れ落ちそうな表情で見ている。
 びりびりと、パラに捕まった手が震え、指の先までぴんと力が張った。

 「てめえ……!クソ兄貴!何がしてえんだ!」

 「貴様が言えたことではないなリュシア。それに、まだ“家族ごっこ”を続けるつもりか?」

 ライネルは薄笑う。

 「貴様だって同じことをしたことがあるのだろう?神だろうと、直接顔を見たわけではなかろうと……。
 我らに縋り付いていた貴様なら。
 7つの頃から銃を持ち戦場を駆け巡り……。
 貴様の手はどれだけ汚れているんだ?リュシア。」

 「違う、私は……。」
 
 「俺に唆かれた、そう言いたいのか?
 だが、例え俺が貴様をどんなにお立てようと……。
 貴様が手をかけた人間はそうは思わない。事実は変わらない。
 俺に認めてもらおうと……。心根は素直だって、貴様は悪魔の子にすぎない。

 ……この女もだ。」

 抵抗は無駄だ、と女のか細い手をへし折ってライネルは続ける。

 「ヘレナと言ったか、貴様?貴様の“母様”だって同じだ。恐怖にへばりついて下等ながらも悪に加わった。
 貴様は優しい人間だと思ったろう。だが!

 こんなやつは優しくもなんでもない。
 どうしようもない弱者だ。
 俺に騙された時点で!」
 
 ライネルは笑い声を轟かせる。 顔は赤らみ、逆境すらも楽しむように目を輝かせる。
 
 「いい加減にしろ!」

 トートが声を荒げると、余計にライネルは喜んだ。

 「いい、いい!いいねえ!素晴らしい絶景だ!若く純白な魂たちが、俺を目前に黒く染まっていく!心からの復讐心を胸にして!一つにまとまっていくっ!
 誰にも媚びずに、いい、いいなあ! 美しすぎて泣いちゃいそうだ!

 これが俺の求めた世界だ!これこそが!」

 顔を抱えて彼は地面に悶え始めた。 毒でも発するかのように、周りのものは近づかず、若き棟梁を不審な目で見つめている。

 ……以前もそう言っていたな。世界は変えられる、より美しく、と……。

 こんなものを美しいと感動するのは、誰から見ても狂っている……“常軌を逸している”。

 それどころか、彼こそがそれにしがみつき、苦しんでいるように見える。

 必死に根を張らなければ倒れてしまうような………。

 苦しんでいる?

 そっと、彼の周りを見渡す。

 怒りの忘我に侵され今にも突撃せんとする者、虫でも見るような目でライネルを見つめる者、今にも逃げ出そうと震える者……。

 誰も彼のことを心から見ていない。 家族、だと言うのに。私があの時見た風景は嘘だったかのように、誰も。

 結びつきなどないように思えた。 彼の“棟梁”と言う側面だけを使って、後は削っているようにさえ。

 ああ、だから彼は。

 「弱いんだね、あなた。」

 「は?」

 思いもよらぬ私の言葉に、彼は立ち止まる。笑みは消え、穴のような目を私に向けている。

 「何を言う、貴様、俺は弱くなんか……。」

 「弱いよ、あなたは。だって失くしちゃったんだもん、本当の心を。
 本当はあなた、こんな風じゃなかったんでしょう?人の苦しみを糧にするようじゃなかった。むしろ、それを嫌がっていた。
 でも、そうするしかなかったんだよね?ライネル。」

 静寂が空気に染み込んだように見えた。みんなただ私とライネルだけを見ている。 感情すらも、今はどこかに置いてしまったようだ。

 今までの私なら、こんなこと堂々と言えなかった。
 仲間と絆を深め合い、伸ばし合い、希望を抱き続ける…………
 強くなった私だから、言えた言葉だった。

 次から次へと、言葉が実を結ぶ。 ライネルは聞くも絶えないように耳を塞いで唸り続けていた。
 
 「じゃないと置いていかれるから。必死にしがみつかないと、いけなかったから。
 もう嫌なんでしょう?一人ぼっちになるのが。
 でも、そんなあなたのことは誰も知らない。見てくれないから、表面的にしか。
 それが余計に悔しかったし、自分という存在が埋められそうで怖かった。
 だからいつしかあなたは優しい心を捨てた。復讐と美徳という名目で穴を埋め誤魔化した。
 そうじゃないと生きていけなかったから。違う?」

 「違う、違う違う!黙れ……黙れ!俺はっ、俺は……。」

 その時だ。

 ずん……と厚い霧に押されて、胸の奥に響くような重い音が響いた。
 
 それとともに、彼の背中からニョキニョキと何かが枝を張って伸びてきている。

 ……なんだ?

 「ぬううう…………。」

 ライネルが唸るたび、長くなっていき、やがては葉を枝先に湿らせていった。天井を突き抜けるほど大きくなり、周りは薔薇の棘のような黒いシダで囲まれている。

 辺りにはカサカサと葉が立てならんでは一体化して、鉛色に光る水滴が滴り落ちた。

 これはまるで……。

 「木?ライネルが………木になっている!」

 ライネル………もとい“木”は、地下から這った根を抜け出し、のしのしと軋み歩いていく。

 樹胴が裂けて底まで見えるような口が出来上がり、樹液のようなものを垂らして人々をついばんだ。

 「ギャアアア!」

 「何あれ何あれ!」

 真っ青に頭の中が染まっていく。悲鳴が木に吸い込まれていき、足が震えて誰も動くことがない。
 「あれって……。」
 
 トートは何か思い当たるように悲痛な顔をした。

 「門…………ヒラク………。」

 木は、みしみしと音を立てながら奥の部屋に近づいていき、扉を引きちじった。

 岩がパラパラと音を立て、崩れ落ちていく。

 人々の涙が岩の隙間にしめり込み、雨粒とともに広がっていった。

 心が張り詰めて、私はうまく叫ぶことすらできない。

 私の言葉が、あの人を追い詰めてしまったんじゃないか……。

 疑念を抱きながら、私たちはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。


 その時だ。

 『諦めるのではありません、少女たちよ。」

 !?

  天井を見つめる。……空から何か聞こえた?

 リュシアやトートたちも、同じように天井を凝視している。 パラに関しては、心当たりがあるかのように驚きの声を上げていた。
 他の者には耳に入っていないようで、素知らぬ顔で、ただ怪物を怯え続けている。

 なびくように、その“声”は円盤状に広がっていった。

 昔から聞いたことがあるような………。懐かしい思いがする。目を瞑ると、風のそよぐ匂いが悲しみや絶望を和らげるように瞼を撫でた。

 『あなたたちにしか、皆を救える者はいません。どうか、希望を持つのです。』

 「そう言ったって……どうすりゃ、いいんだ……?」

 『力を合わせるのです。あなたたちにしかできないことを。
 言葉、祈り、告白、記憶、
 その力を光とし、皆を照らすのです。
 あとは………。
 “運命”が、あなたたちの助けとなってくれるでしょう。』

 「ち、力……?力って……。」

 『もう、時間がありません。さあ、手を繋ぎなさい。少女たちよ………。
 任せましたよ、“ホーマ”。』

 今、私の名前を……?
 
 尋ねる間もなく、言葉は尾を引いて天高く消え去っていった。

 私たちは言われるままに、手を結んだ。
 薄寒い洞窟の中でも、命の暖かさがじんわりと伝わってくる。

 言葉、祈り、告白、記憶………。その力を光とし、皆を照らす……。

 正直言ってその言葉の意味は、分からない。
 
 でも。

 自分たちにできること。今、見つけてやるしかない……!
 
 『言葉よ、届け。 苦しみを、止め………!』

 『門の神よ、我の願いを聴きたまえ………!』

 二人の胸から青白い光と金剛の光がまじ合い、天井までゆらゆらと昇っていく。

 ヘレナの胸の奥から虹色の粒が弾け、二人の光を優しく包んだ。

 トートは願った。「戦いじゃなくて、分かり合える世界を」
 パラは誓った。 「弱さを押し抜け、守り抜くことを」
 ヘレナは心で叫んだ。「ありのままで愛を受けられる自分を」

 そして私とリュシアは、不安になりながらも、私は必死に願いと記憶を凝らす。

 嬉しかったこと、悲しかったこと、そして………。

 細胞の奥底に潜む“炎”の記憶。

 赤く、闇夜を焦がし、地面を裂く烈光の炎を……。

 むくむくと胸から鈴紅色の光が湧き上がり、集まった光を昇華させた。

 光は木へと誘い込んで焦がす。

 「うグウウ!ウウ……」

 あと少し、もう少しで……。

 5人で手を合わし踏ん張る。 力んで両腕が小刻みに震え、滝のような汗が滴り落ちる。

 もうちょっとで!

 「助けに来たぞ!!」
 
 近くで、広く力強い声が響いた。 
 見やることはできない。でも、誰だか分かる。

 タレス先生だ……!

 やっぱり彼は、私たちを見捨てていなかった。
 
 嬉しく思うと同時に、光の束が一層強くなる。
 
 木は、その根を焦がされても、這いつくばるように門へと手をかけた。
 
 尖った枝先が鍵穴に押し込まれる。ガチャガチャと激しい音がして、今にも鍵穴が壊れそうだ。
 
 私たちが作り出す光さえ、木は払いのけ鍵穴を回し続けた。

 「貴様に門など開かせられるかっ!」
 
 タレス先生が門の前へと向かい、枝を押さえつける。
 振り払うように根がタレス先生の頭に巻きつけ、取り込もうとした。
 
 このままじゃ……!


 「ライネル、いや………人間に食いつく、愚かな”落神“よ。そこまでです。」
 
 大地が翻し、洞窟中に広まる、乱れた音たちが突然、止まった。
 恐る恐る目を開ける。

 そこには、光を吸い込んだ豊かな白髪を垂らし、黄金の首輪を纏った、美しい女性が立っていた。

 木はゆっくりと振り返る。ポックリと空いた目は、欲深い野生の輝きを灯していた。
 その中には、迷いや恐れ、孤独や弱さが、静かに流れ込んでいる気がした。

 「五月蝿イ……俺ノ獲物ダ……。俺ガ門ヲ開くノダ……。世界ハ、全テ、俺ノモノダ……!」

 「目を覚ますのです。あなたはかつて、民のことを思い、世界を守る、優しき門の神であったはずです。欲に溺れ、民を傷つける者ではなかった筈。思い出すのです。
 かつての門の神よ。」

 あれが、門の神だった………? でも、どうしてあんな風に……?
 
 門の神と呼ばれた木は、穴から唸り声を上げて噛みついた。

 「黙レ!貴様ニ………。神デイツズケラレル貴様ニ何ガワカル!
 全テ愚カナ人間ドモノセイダ!奴ラハ……。
 恩ヲ返ソウトセズ、ソレドコロカ俺ヲ傷ツケタ!
 俺ハ信仰ガナイト生キテイケナイノニ、祈リ一ツコボサズ……
 
 オシマイニハ、己ノ利ノタメニ、弱ッタ俺ノ力ヲ使イ、門ヲ開カセタノダ………!」


 「だから貴方は、民が苦しむように世界を歪めてしまったのですね。そして……。残った力を振り絞り、孤児の少年の心に棲みついた。
 弱い彼の心を蝕み………。やがて彼の心を乗っ取り、本当の彼を奪ってしまった。
 人々を争いの道に走るように統率し、数多なる血潮を奪ったのですね。」
  
 木と女性の言葉を聞いた瞬間、どよめきが人々の間を伝って広がっていった。皆顔をこわばらせ、身振り手振り言い合う。

 「この落神の企みで、こんな世界になっちまって、俺たちは苦しんでいるのか?」
 
 「それよりもライネルを乗っ取ってたって本当かい?じゃあ……。」
 
 「私が見ていたのは、偽物の兄貴で……本物はまだ優しいままってことか!」
  
 一人リュシアだけ顔を輝かせる。
 心の飢えのどん底に落とされた彼女は、密かに輝く可能性を見つけたような気がして、喜びと家族を奪った憤怒が入り混じった顔をしていた。

 それにしても……。
 私は考えてもいない真実を突きつけられて、処理できず茫然としていた。

 カミールを殺したのも、この騒動を起こしたのも、そも私という存在の始まりだって………。

 この一柱の神様によって起こった出来事だったっていうこと?

 驚嘆の声が思わず漏れ出そうで、口元を抑える。

 美しいこの女性は、胸元に手を組み、ふさふさとしたまつ毛から真珠のようなものを落とした。
 
 地面と触れた瞬間、木の根本を囲い込む。
 
 ふわふわとしたモヤが浮き出て、木漏れ日の優しい旋律が奏でられていった。
 
 天高く光は萌え、やがて私たちの作った“光”たちをも取り込み、ゆらゆらと湯気立つ。

 まるで、野焼きで立つ、炎柱のよう。

 寄せ集まった二万あまりの瞳に、ただその光景のみが映し出される。
 
 まるで、夢か天国かと思えるほど幻想的なそれは、人々の心を奪い、隅につく闇でさえも洗いさっていく。
 この、“落神”のように。

 「アア……ヤメテクレ……俺ハ……まだ戻りたくない!果たすんだ復讐を………。俺を苦しんだ人間たちと神たちへ!」
 
 何を?

 俺は何をしたかった?どうしてこんなに必死なんだ?何のために……

 ここまで壊した?

 わからない、ただ俺は………。

 “普通に生きたかっただけなんだ”。

 炎の中で、そんな声が聞こえた気がした。さっきまでの威圧的な声とは違い、弱く無垢な幼子の声。

 ただ、その声は欲望と切り詰めた正義感に飲み込まれて血垢がついていた。

 ああ………。

 誰が、いや何が、彼を狂わせたのだろう。

 どうしてライネルやレジスタンスは、これに飲み込まれてしまったのだろう。
 
 炎が、寂寥感のような青白い色に変わって、胸に映し出された。
 
 「貴方は……自分で自分を苦しめてしまったのです。自ら大きくした穴であなたは幸せをこぼしてしまった……。
 もっと、満たされた別の道があった筈。
 でも、復讐という名の炎に飲み込まれてしまったのなら……。
 
 さようなら、門の神よ。あなたの次の一生が……。
 幸福の道に乗せられるように。」

 炎はやがて小さくなっていき、黒く背を曲げた灰と、横たわる青年だけが残された。

 青年はぴくりともせず、澄んだ群青色の瞳を開けている。

 瞬きすらしない。死んでしまったのだろうか。

 「嘘……ライネル……。嘘だろ……返事、してくれよ……憎まれ口でもいいからさ……。」
 
 そろそろとリュシアはライネルに近づいていく。
 
 伸ばした手は……肌に触れるのが怖くて引き返していった。

 「しっかりしな!ライネル!こんなところでくたばるんじゃないよ!あんな奴に負けるんじゃないよ!!」

 傷だらけの肌で中年女はライネルの手を握った。

 「俺らも悪かった!あっさりあいつにのめり込まれてよ!奴を煽てちまってお前をこんな風に……。だから戻ってくれよ、元の優しいアンタにさ……。」
 ルーカスも、その他大勢の人もライネルの元に集まり、ひたすら彼の無事を祈り続けていた。

 軍帽を脱ぎ捨て、銃を放り出し……。
 
 「彼ら、血迷った情がない奴らだと思っていた。実際私はそういうのしか知らないし……。
 でも本当は、落神に取り込まれない彼らは……。
 誰よりも愛情深い家族だったのかもしれない……。」
 
 ヘレナがぽつりと呟いた。彼女はあの場に入ることはないが……。
 胸に迫ったかのように、彼らを眺め続けていた。

 「そう思う。だって……。私が彼らの住処に入った時……。ありもしない家に帰ったかのように、暖かさで包まれていたから……。
 家族というのはよく分からない。でも。
 彼らみたいなのがいい家族ってものなのかもしれない。
 あの時すでに嘘で覆われていたとしても、誤魔化せないくらいに……。」  
  
 声にはせず、口の中で思いを出した。
 
 何だか喉元がこそばゆい。

 愛に囲まれた青年はやがて、愛する妹の手を握り返した。
 
 少女は目を見開く。この瞬間を、取りこぼさないように。
 
 「ごめんね、皆んな……。僕が弱いせいで、皆んなを傷つけた。
 リュシア………。こんな兄貴でごめん……。僕なんてこうして、息をしているのに……。」

 「謝るなライネル!お前が悪いんじゃない!受け入れてしまった私たちが悪いんだ。どうか自分を責めないでくれ……。
 私は変わってしまったお前が怖くて、先が見えなくて、恨んだりもした。
 でも……。本当はお前が生きているだけでいいんだ。
 みんなのことが大好きなんだ!」
 
 声を震わせ、目から大粒の涙をこぼしてリュシアは泣いた。
 
 他のみんなも肩を震わしている。

 愛が確かだったことが、嬉しくて。

 「そういってもらえて……。僕は一番の幸せ者だね……。でも僕はもう、こんな体じゃ……。」

 「お待ちなさい。」

 先の女性がガラスの靴を鳴らして前に出る。 

 ライネルの心の臓に手を当て、そしてこぼれ出た灰を、そっと舐めた。
 
 「あ、あれ……。僕、体が……。元気になって……。」

 ライネルは体をむくりと起こす。血をめぐる手相を二度見し、そしてリュシアを抱きしめた。

 「生きてる………!」

 「ライネル………!」

 「おい二人だけでずるいぞ!俺たちもまぜろ!」

 「そうだそうだ!」

 陽気な笑い声が沸き、熱い涙を垂らしてみんなは抱き合った。

 そのまま、ライネルとリュシアはしばし動けず、胸に広がる幸福を静かに味わった。

 いつの間にか、バヤンやチエンバロの音が響いて、平和を祝福する。

 「ヘレナ……。私ずっと可愛いあなたを……!」
 
 「ううん、いいの母様。私母様が守ってくれて嬉しかった……!」
 
 ヘレナも崩れ落ちたように幼児に戻る。口元からは無邪気な笑みがこぼれでていた。

 女性はさらに手を広げる。光は四方八方に広がり、外へとはみ出していった。

 黒く覆われた岩壁は消え、つるつるとした地面が見えていく。

 積まれていく瓦礫は白壁の校舎へ戻っていき、傷が癒えた人々がきょろきょろと辺りを見渡していた。
 
 長い夜は明け、世界は少しずつ呼吸を取り戻していく。

 「終わった……。全て…。」

 「そうね……。やっと……。」

 自然と私たちも肩を引き寄せ、生を喜び泣いた。

 ああ、諦めないでよかった。

 どんなに苦しくても、前さえ見ていればきっと朝が来るのだから。

 「よかったわ、ホーマ。あなた、大切なことを見つけられたみたい。
 一人でも進められるようになったのね。」
 
 ふと、あの女性が私の頭を撫でる。ずっと前から私を見守っていたみたいな言い方だ。
 
 お日様の毛の匂いが鼻を掠めた。

 「ねえ、待って、あなた、もしかして……。」
 
 彼女は白い毛を星空に浮かべながら笑った。

 「ふふっ。ホーマ、大切なものは案外近くにあるものね。
 見て、もう月が見えるわ。」

 煌々とした満月が夜空を切り裂くように輝いている。
 
 “カミール”は満足げにランタンの明かりを消して空へ去っていった。

 今日がどんな日だとしても。
 
 夜空はたまらなく美しかった。

 ……ライネルはリュシアの手を握り、そっと目を閉じる。
 これまでの痛みや迷いが、星空のバヤンの音で溶け込んでいった。
 指先に伝わる温もりが、何でもないはずなのに、たまらなく愛おしい。

 リュシアもまた肩に力を抜き、息を整え始めた。

 月光が二人を優しく包み込み、地球は月面を歩き出した。

 まるで、この幸せが永遠に続くように、と。

 もう、私たちが迷うことはなかった。

 ちっぽけな少女でも……未来を選ぶものとして、歩き出せたから……。