夕日が雲から肌を凍てつかせる。
赤い光が窓から差し込み、私を急かさせた。
あと1時間。
日はすでに沈まりかけている。
廊下には人の影一つなく、その事実が返って胸に迫った。
でも、憐んでいる場合ではない。
トートも命を張って頑張っているのよ。私もやらなきゃ。
握りしめた拳が震えたような気がした。
私は昔から、ここぞと言う時に動くことができなかった。
妹が川に溺れかけても、家に泥棒が来た時だって、足が、体が動かなくて………誰かが助けてくれるのを待つことしか、出来なかった。
結局妹も助かったし、泥棒もいなくなったけど。
“人殺し” “軟弱者”と、何度詰られたことか。
弱い自分が嫌いだった。
強いふりをしている自分も……最高に、嫌だった。
何事にも立ち向かえるトートが羨ましい。
強い信念があるホーマが羨ましい。
私にはそんな物、ない。 残っているのは虚栄心だけ。
変わりたい。
弱いだけの自分から、羨ましがっているだけの自分から……。
できるはず、きっと、私なら。
そう信じでもしないと、恐怖で体が動かない。
右腕を握り締めるたび、吐き気が喉元まで上がる。
と、その時、大きな人影が動いていた。
「……?」
何かに隠れているように、壁を張って歩いている。
くるくると渦巻くような、盛り上がった頭の形をしているようだ。
ん?盛り上がった頭の、大きな影……?
もしかして……。
「タレス先生?そこで何をしているのですか?」
「ええっ。うえっと……パラヴァティ?パラこそ何しているんだ!?」
ひどく拍子抜けた顔でタレス先生は飛び上がった。汗が滲み、瞳孔が見開いている。
ひどい動揺だ。 まるで何かを”隠している“かのように。
「こちらのセリフです。まるで何かに追われているようですが。」
「鋭い、参ったよ。」
くしゃっと笑って、ぽりぽりと頭を掻いた。
「こんなこと言うのもなんだが………”目“をつけられているんだ。」
「え?誰に、何で………。」
断片的な言葉しか言えない私をよそに、タレス先生は続ける。
「決まっている。”レジスタンス“に、だよ。」
これ以上は言えないよ、と言うように彼はかぶりを振った。
「やっぱり………。彼らは巻いたんですか?」
「おそらくな。だが完全じゃない。まだどこかで見られている。ぴりぴりしているんだろう。もう時間がないから。」
「計画まで………ですよね。既に日が沈みかけているし。」
その言葉を聞いてタレス先生は大きく目を見開いた。
「その情報、どこで手に入れた?計画のことまで?」
「トートからの伝言です。断片的までしか、わかりませんが。落ちた神 利用 計画 夕刻……。この四単語しか彼女は残してくれなかった。
それでも彼女が何をしようとしているかには十分でした。」
「そうか………。やはり何か企んでいるな。一枚岩ではいられんということか。」
顎髭を触りながら彼はつぶやいた。もしかしてタレス先生は、トートの居場所について知っているのだろうか……?
「すみませんが先生、トートは……。」
「危ない、伏せろ!!」
「え……?」
先生の叫び声と共に、鋭い弓矢が壁に刺さる。
弦の音。石の破片が頬をかすめた。
一発、または二発……。飛んでは跳ねて、地面を翻した。
鼻先を掠めるのは、革の擦れた匂いと焦げた油の匂い。
追手がすぐそこまで迫っている。
おびただる殺気。手足が小刻みに震えて、逃げようにも逃げられない。
「これって………!!」
「ああ、”奴ら“だ。早々に見つかったか。」
彼は似合わない舌打ちをして、私の手を掴んだ。
「いくぞ、パラ!逃げるんだ!」
「え、ちょっと!!」
引っ張られるまま、私はタレス先生と走り出した。 それを追うように、風を切って矢が飛んでくる。
髪に掠って、黒いものがひゅっと舞った気がした。塞がっていた穴に、針で刺された冷気を感じる。
後ろを振り向くと、白いマントを着た人たちが順に追っては弓を構えている。
「こんなに大勢……!」
「振り向くな!突っ走れ!!」
タレス先生が声を荒げた。それすら弄ぶように、じりじりと彼らは迫り来る。
武器を持たない私たちは圧倒的に不利だ。何か……打つ手は……。
「………かはっ……。」
喉の穴が塞がれたように、苦しい。酸素がうまく回らない。
もうダメだ……。
『諦めるのではありません。パラヴァティ・シャルマ。』
誰?
脳裏響く、初めて聞く声が響いた。艶めく光の規則的な揺れが浸透する。
『立ち向かいなさい、パラヴァティ。そなたにはこの逆境を乗り越えられる“強さ”があるのですから。』
強さ?私に……?
『まだわからないのですか。何度もそなたは友人を救ってきたはずです。そなたにしかないもの。思い出すのです。』
私にしかないもの……?
震えを飲み込み、先ほどまでの記憶を巻き戻す。
危機一発で空へと仲間を導いたこと。傷を癒やし、守ったこと。
…………そうか。私の強さって……。
手を握り、目を静かに閉じた。心の中で密かに唱える。
(大地に宿し女神よ。我の願いを聞きたまえ………)
風が巻き上がり、光が私たちを囲んだ。
あっという間に、外へと放り出される。 冷めた空気がやけにさっぱりしていた。
「はあ、はあっ。何とか、なった……。」
「え……はっ?俺、外に……?」
息を整えながら、タレス先生は自分の手を見つめる。
「私の力ですよ、先生………。ところで、さっき助けて下さった方はどこに?」
「ありがとう、パラ………………さっき助けてくれた人?そんな人、どこにもいないが……?」
「え?」
……おかしい。確かに聞こえたはず。
あの人の言葉があったから、私は動けた。
そのお礼を伝えたかったのに……。
「それよりパラ。ちょっと待っててくれるか?急用があるんだ……。」
そう言い残し、彼は背を向けて足早に去っていく。
影が長く伸び、石畳が淡く揺れた。
別れの心細さに胸が迫り、私も跡を追おうとした。
「先生!待ってください!置いていかないで!」
だが、答えはなく、足音だけがどんどん遠ざかっていく。
赤い夕日だけが、跡を引いた。
一歩前に踏み込もうとした瞬間、肩に冷たい手が触れた。
青白く、どこかへと引き込むような誘いの手。
「見つけた。………さあ、教えてもらおうか。あの“男”について………。」
皮膚に低い声が、刺さった。
思考が、追いつかない。
あれよあれよと……世界が動いていく。
それでもわたしは声を振り絞った。
「何のことでしょう……?」
「惚けるな。知らないのか、あの男は…………。」
軋むような言葉。信じたくない言葉。
耳すら痛むような、悍ましい事実。
終わりの、始まりだった。
弱いままでは、いられなかった。
☆*:.。. …………………….。.:*☆
夜露が服に湿り込んで、体が余計に重くなる。起き上がる気力すらなく、暗闇に寄りかかっていた。
世の中は“信じたくない事実”に溢れている。
人はきっとそのことをよく知っている。 ただ、目を逸らしているだけだ。直視したら、苦しくてたまらないから。
ただ、本当に向き合わなければならなくなった時………。
人は、理性すらも超えて、壊れてしまうのだと思う。とりわけ弱い人間は。
彼らへの愛情は、一方的だった。彼らは私を愛していなかった。 ただ己の欲求に飲まれて利用しようとしているだけだった。
私には彼らしかいないんだ。本当の母だってもう………。
涙が滲み、息を吸うことすら拒まれる。
その姿でさえもう、哀れな操り人形の呻きにしか見えなかった。
「………シア。リュシア………。」
なんだ?遠くから甲高い叫び声が聞こえる。
声が岩だらけのごつごつした天井に吸われては共鳴していった。
少しずつ近づいているように見える。
「……ねえ、本当にあってるの?その子で……確かなの?」
違った音が揺らいだ。 幼い子供のような声だ。 不機嫌そうに誰かが答える。
「はあ?馬鹿言わないでよ!私の言っていることが間違いだというの?まあ、見てなさい。確かに呼ばれているのを見たわ。何度も……。」
「だけどね、“ヘレナ”。こんなところにその子は………………いないんじゃない?」
……暗闇に潜む二つの声。互いに絡み合い、探り合いながらも不協和音を響かせていた。
“ヘレナ”……今ヘレナと言ったか? 耳が音の波をかき分けて一点に集中し始めた。
自分が探していた者が、同じく私を探していた?
一体どういう訳だろう。
「“トート”、あんたが見たんでしょう?リュシアらしき人物がこの洞窟付近にいるって!
焼き鳥になりかけたやつがいちいち文句言うんじゃないのっ!」
「焼き……焼き鳥!?なってないよ!トキは美味しくないから!……やっぱヘレナ、苦手だわ〜。」
トキ……ということは乗っ取ったと言う娘のことか。
張り詰めた空気に、不意に軽口が混ざる。緊張の糸が一瞬だけ緩んだ。
二人は手を組んだって聞いたけど……もしかしてあまり仲良くないのだろうか。
「聞こえてますけど?こっちこそ鳥娘と仲良くする気は一ミリもありませんけど?ただの利害一致です。」
ヘレナが憎らしげに言い返す。こちらにも表情が伝わるような、やけに癪な言い方だ。
「わかってるよー……。八方美人女もわたしは嫌だけどね〜……。中身なさそうで……。」
「あんたってそんな奴だっけ?裏表激しいんだね。……ま、あんたの方が理性ぶってて一番馬鹿っぽいけど。」
岩肌にばちばちと音が弾け、本当に火花が散っている気がした。
喧嘩が始まってしまった。
どうしようか。
二人にはどうしても“会わなければならない”。このまま通り過ぎられたら、もう会えないかもしれないのだ。
冷気が足元で微かに震えた。息を吸うたび霧が鼻腔に入り、焦りが胸を押しつぶす。
迷ったまま、目をキョロキョロと動かしていると、突然トートが声を上げた。
「あーっ!!」
「何いきなり叫んでいるのよ………。ええっ!!」
暗闇の中で、二人と目が合った。私を指す指は小刻みに震えており、明らか拍子抜けしている。
「リュシア……?本物……?」
「え、まあ……。そっちこそ……。」
恐る恐る互いに尋ね合う。それを見てトートがヘレナに耳打ちした。
(ねえ……というか話しかけたことあるの……?)
(いや……ないけど……今いいでしょうそんなことは!)
小さく交わされるやり取りに、私は思わず困惑してしまった。
だが、好機は今しかない。
空気を打ち破るように、声を絞り出す。
「あの………。ちょっといいかい?協力して欲しいことがあるんだが……。」
二人は顔を見合わせた。突き合うようなしかめ面から、何かを企む悪童の笑顔が浮かぶ。
言わずとも何か分かっていた。やりたいこと、目的。
きっと同じだ。
「実は私達も。やってくれる?
一緒にレジスタンスを、滅茶苦茶にしてやろうよ。」
小さな悪と悪が結びつく。
誰かの理想を壊すような、出来心のような悪。
それでも、それは、
何かを壊すのには十分だったようだ。
あいつらが私を使ったように、今度は私が使って見せよう。
誰にも呑まれない、自分だけの意志で。
薄く微笑む。
門を打ち壊す用意はできた。
晩夏の湿気と寒気が肌にまとわりつく。冷えた風は、私たちの背を押すように吹いていた。
☆*:.。. ………………… .。.:*☆
喧騒とした空気が澱み、かがり火と共に散った。
吊るした血肉の生臭さと、時折り除く金属の刃音が集中を掻き消す。
………嫌だねえ。これじゃ美しくならないよ。
煙たげに手を払う。不愉快だ。何もかも。場の空気一つ俺に従わない。
人間すらも。
歯ぎしりをすると、欠けた歯が蠢いて、血が吹き出た。
それにも気づかず、蠅どもは俺に寄り付いてくる。
「ライネル様。儀式の準備は整いました。あとは灰の少女を“二つ”揃えるだけ。順調ですよ。」
「それよりライネル様、例の娘の件ですが…………落神を操ったと言う、あの小娘。」
「え?ああ………。」
嘆息と共に返事をする。
どうでもいい。
儀式が出来ようと出来まいと、鼠が入ろうと。
全て俺が望んだことではない。
「入ったのは“神”の娘との噂。はらわたが煮えくりかえりますね………!」
何を言う。
血走った頭の、単細胞の君達の方が俺は腹ただしい。
君たちは美しかった世界を汚した。 俺の価値観そのものを汚したんだ。
神に奪われた俺たちは………抗い抜くと決めた筈。
命を賭けて、信念を貫き通す。泥沼の中でも、這って歩く。
その生命の叫びこそが、美しかった筈なのに。
なのになんだ、このザマは。
落神如きに精神を焦がされる?おまけに“神”のガキ如きにしてやられるだって?
ふざけるのもいい加減にしろ。
俺は失望した、お前たちに。
重なっては広がる怨嗟の咆哮と、奥深くに沈む憤怒の念。それらが結びついた、人の繋がり。
同じ信念を持つ集団は、炎の舞の如く、誰にも寄せ付けず一段と輝くものの筈だ。
だが、今ここにあるのは………くすぶる灰にすぎない。
触れた時の、吸い付くような熱さと眩さを、俺はまだ覚えている。
幾人もの力が合わさって丸々自分のものになった感覚も、確かにあった。
ゆっくりとそれは俺を咀嚼して、唾液と共に溶かしていった。
俺は全てを差し出した。運命も、肉体も、自分の正義も。
思考すらも塗り替えられていった。
自分の正義は見失った。誰かの正議論を我が物顔で唱えるようになった。
でも俺はそれで構わない。 それで世界が美しくあれるなら。 誰かも、自分も、心地よく暮らせられるのなら。
昔、どこかのガキが俺のことを可哀想だと言った。 周りから煽られて、貴方の中身は何もないのだな、と。
それは違う。可哀想だなんて、誰かのご都合主義だ。 高いところから見下ろして、惨状をつまみにしながら話す人間の理想像だ。
吹き出す哀愁も、ちっぽけな想像力と、齧った程度の人生談だろう?
歯を食いしばって足掻き苦しむ人間の本当の気持ちなんか、わかる筈ない。
無言で立ち上がった。しばらく座り込んでいたから、尻の奥が刺さったように痛みこむ。
「どこに行かれるのですか、ライネル様?御用は私どもに……。がはっ。」
慌てふためく蠅を跳ね除ける。それは、鉄鋼の奥底の壁に当たり、張り付いていった。
他は怯えたように、閏わした目で俺を見つめている。
「黙って見てろ。貴様らにもう用はない。ここからは俺がやる。………………俺が鼠二匹共々始末して、“灰の少女”を連れ出す。
…………俺の世界を壊したこと、存分に後悔するといい。」
水鏡に、不敵に笑う痩せこけた男が見える。
やがてそれは、炎へ呑まれて消えていった。
か細い鼠の悲鳴が耳に届く。
そして残響の中で、俺の声だけが壁に刻まれたまま、夜を割くように立ち尽くしていた。
☆*:.。. ………………………….。.:*☆
混沌とした他の場所と違い、裏庭は以前と変わらぬ美しさを保っていた。
うねったオリーブの木が夕風に揺れていて、冴えるような緑色は夕日で赤く染まっている。
地面には自分の影法師が長く伸びて、途切れ途切れに羽虫のざわめきが聞こえた。
昼間とは違い、当たる空気が心地良く肌を撫でる。感触を楽しみながらも、私は隣で歩くカミールを見つめた。
黒々と澄んだ瞳は夕日を映し出されており、白くたなびく毛は赤く照らされ絵のように鮮やかだ。
鼻を地面に擦り当てて、何かを探索している。
私が見つめているのに気がつくと、尻尾を振って擦り寄ってきた。
頭を撫でると、えもいえない草木と獣の匂いが鼻をくすぐった。
「…………カミール、お前は本当にいい子だね。どんなに危険なところでも、逃げ出さず私についてきてくれるなんて。」
自然と顔が綻ぶ。
孤児院を出て以来、ずっと一緒だったカミール。
どこから来たのかは分からない。ただ、初めての学校を不安に思う私を慰めるように、私についてきてくれた。
ずっと前から待っていたように…………小さな舌で、私の手を舐めたのを覚えている。
友達はトートとパラ以外、ずっといなかった。一人だと悲しく思うこともあった。
だけど、カミールの存在が、私の大きな支えになってくれた。
暗闇の中、灯りを灯すようにやってきてくれたこと。今、こうしてそばにいてくれること。
貴方のおかげで今がある。
顔を毛の中に埋めると、暖かいお日様の匂いがした。
「ヴーー。ワンッ、ワンッ。」
突然カミールが遠くを見つめて吠え出した。
あまりの変化に呆然としていると、地平線の先から背の高い男が姿を現した。
………誰だ?一体何の用だ?
見たこともない男だ。遠くからでも、薄気味悪い威圧感を感じる。
カミールの吠え声と共に、男はこちらへと近づいてくる。
足音も立てず、気配も感じさせず…………亡霊のような淡白さがあった。
はっきりと目視できる距離に男は立ち尽くす。
「な………………何の用だ、お、お前は、誰だ…………!」
息を震わして叫ぶ。男は返事をしない。 代わりに塵でも見るような目をした。
「………………なぜお前程度にいちいち名乗らなければならない?“神”に寄りつくゴミクズが。」
「はあ?なんで私は、会ったばかりの奴にそう言われなければならない?……それに私は寄り付いてなどいない!」
私の反論なぞ構わないというように男は鼻を鳴らす。
高慢。
その言葉が頭に浮かんだ。
「寄り付いていないだと?これだから蠅は嫌いだ。己の行動を嫌というほど正当化しようとする。……みずぼらしい。
お前、“神”の子供とつるんでいただろう。“人間”のくせに。人間を見下す低俗な奴らと付き合うのか?呆れる。」
有無を言わせないという風に、男は私に指立てた。
その言葉に、何か黒いものが渦巻く気がした。
頭に血が遡っていく。沸々と心が煮えたぎった。
体の端々に力が渡っていく。 いつのまにか男の胸ぐらを掴んでいた。
「……………黙れ。彼女たちはそんなんじゃない。人を見下しなどしない。お前の浅はかな知識でものを語るな。」
ヒュンッ。
瞬きをする隙に、いつのまにか体が地面に叩きつけられる。肘からは赤い血が流れていた。内側から痛みが競り上がり、苦痛で顔が歪む。
男は檮杌(とうこつ。中国古代からの伝説に登場する、四凶の一つ。暴虐など)のような形相でこちらを睨み尽くしている。
…………早すぎる。人間業とは思えない。
カミールが毛を逆撫でて低く唸った。よろよろと私の前に立ち上がり、荒く息を吐く。
「ふうーーっ。ふうーーっ。」
「や、やめてカミール!下がって!」
私の言葉も、彼女には届かない。全身全霊をかけて私を守ろうとしている。
でも………………!
「………………邪魔だ。」
男の振り下ろした腕と共に、鋭い音が空中をつんざき、カミールの体は遠くへと飛んでいった。か細い体が地面に叩きつけられ、背骨が折れたような鈍い音がした。
………………嘘。
カミールはぐったりと地面に粘りついている。
息を吸う腹の動きはぴたりと止まり、代わりに口からは濁った血と白い泡が噴き出ていた。
時間が、止まった。
何も考えられない。いや、考えたくもない。
私の何より大切な、カミールが……………目の前の男に“殺された”だなんて。
さっきまで当たり前のように息をして、歩いて、私に甘えてきたりもして。
その、カミールの命が、この男のせいで儚く散ってしまった。
…………許せない。
絶対に、この男、許せるはずがない!
涙を溜めた目で、睨み返す。 口は震え、絶望で世界が震え落ちた。
「……おま、え…………かえ、せ………………私のカミールを、かえ、せ………。」
「たかが子供の声で、何か変わるとでも?」
「…………。」
私はわかった。
彼に心なんてないということ。
復讐に飲み込まれ、何もかも無くなったということ。
冷たい声で、男は続ける。
「お前たちは言ったな。話し合えば、世界は変わる、と。だが俺はそうは思わない。 そんなに世界は甘くない。
……なあ、お前はみんなが平和を望むと、そう思ってんのか?自ら争いを求めるような奴もいる。他人を陥れるのに必死な奴もいる。
そんな奴らに」
嘲笑と共に私の腕を激しく掴む。抵抗も虚しく、細い腕はひね上げられ、体は宙に浮いた。
「生ぬるいこと言ってんじゃねえよ!!!」
闇へと、体が押し込まれる。畳んだ足が痺れ込んだ。
どこへ、と聞く間もない。 ただ、その身が暗澹(あんたん)の淵を流されていった。
カミールからは、どんどん離れていく。
誰かが平和を祈ろうと、それは無駄だった。
密かに抱く願望は、夢でしかなかった。
こいつの言った通り、話し合いなんてただの理想論だったんだ。
………世界はそれほど優しくない。残酷なほど人は争いを求め殺戮し、残骸の上で成り立っている。
苦虫をすりつぶした思いも、今はなかった。
ただ、ないはずの温もりと気配を追い求めていた。
「…………全て揃った。完璧だ。まだ、やり直せる……………世界は変えられる!より美しく!」
男の口から不気味な笑い声が漏れた。天高く、闇夜に向かって音が震え続ける。
時が、艶を帯びて夕焼けをかき消した。
階下から、聞き慣れた少女の声が聞こえた気がした。
赤い光が窓から差し込み、私を急かさせた。
あと1時間。
日はすでに沈まりかけている。
廊下には人の影一つなく、その事実が返って胸に迫った。
でも、憐んでいる場合ではない。
トートも命を張って頑張っているのよ。私もやらなきゃ。
握りしめた拳が震えたような気がした。
私は昔から、ここぞと言う時に動くことができなかった。
妹が川に溺れかけても、家に泥棒が来た時だって、足が、体が動かなくて………誰かが助けてくれるのを待つことしか、出来なかった。
結局妹も助かったし、泥棒もいなくなったけど。
“人殺し” “軟弱者”と、何度詰られたことか。
弱い自分が嫌いだった。
強いふりをしている自分も……最高に、嫌だった。
何事にも立ち向かえるトートが羨ましい。
強い信念があるホーマが羨ましい。
私にはそんな物、ない。 残っているのは虚栄心だけ。
変わりたい。
弱いだけの自分から、羨ましがっているだけの自分から……。
できるはず、きっと、私なら。
そう信じでもしないと、恐怖で体が動かない。
右腕を握り締めるたび、吐き気が喉元まで上がる。
と、その時、大きな人影が動いていた。
「……?」
何かに隠れているように、壁を張って歩いている。
くるくると渦巻くような、盛り上がった頭の形をしているようだ。
ん?盛り上がった頭の、大きな影……?
もしかして……。
「タレス先生?そこで何をしているのですか?」
「ええっ。うえっと……パラヴァティ?パラこそ何しているんだ!?」
ひどく拍子抜けた顔でタレス先生は飛び上がった。汗が滲み、瞳孔が見開いている。
ひどい動揺だ。 まるで何かを”隠している“かのように。
「こちらのセリフです。まるで何かに追われているようですが。」
「鋭い、参ったよ。」
くしゃっと笑って、ぽりぽりと頭を掻いた。
「こんなこと言うのもなんだが………”目“をつけられているんだ。」
「え?誰に、何で………。」
断片的な言葉しか言えない私をよそに、タレス先生は続ける。
「決まっている。”レジスタンス“に、だよ。」
これ以上は言えないよ、と言うように彼はかぶりを振った。
「やっぱり………。彼らは巻いたんですか?」
「おそらくな。だが完全じゃない。まだどこかで見られている。ぴりぴりしているんだろう。もう時間がないから。」
「計画まで………ですよね。既に日が沈みかけているし。」
その言葉を聞いてタレス先生は大きく目を見開いた。
「その情報、どこで手に入れた?計画のことまで?」
「トートからの伝言です。断片的までしか、わかりませんが。落ちた神 利用 計画 夕刻……。この四単語しか彼女は残してくれなかった。
それでも彼女が何をしようとしているかには十分でした。」
「そうか………。やはり何か企んでいるな。一枚岩ではいられんということか。」
顎髭を触りながら彼はつぶやいた。もしかしてタレス先生は、トートの居場所について知っているのだろうか……?
「すみませんが先生、トートは……。」
「危ない、伏せろ!!」
「え……?」
先生の叫び声と共に、鋭い弓矢が壁に刺さる。
弦の音。石の破片が頬をかすめた。
一発、または二発……。飛んでは跳ねて、地面を翻した。
鼻先を掠めるのは、革の擦れた匂いと焦げた油の匂い。
追手がすぐそこまで迫っている。
おびただる殺気。手足が小刻みに震えて、逃げようにも逃げられない。
「これって………!!」
「ああ、”奴ら“だ。早々に見つかったか。」
彼は似合わない舌打ちをして、私の手を掴んだ。
「いくぞ、パラ!逃げるんだ!」
「え、ちょっと!!」
引っ張られるまま、私はタレス先生と走り出した。 それを追うように、風を切って矢が飛んでくる。
髪に掠って、黒いものがひゅっと舞った気がした。塞がっていた穴に、針で刺された冷気を感じる。
後ろを振り向くと、白いマントを着た人たちが順に追っては弓を構えている。
「こんなに大勢……!」
「振り向くな!突っ走れ!!」
タレス先生が声を荒げた。それすら弄ぶように、じりじりと彼らは迫り来る。
武器を持たない私たちは圧倒的に不利だ。何か……打つ手は……。
「………かはっ……。」
喉の穴が塞がれたように、苦しい。酸素がうまく回らない。
もうダメだ……。
『諦めるのではありません。パラヴァティ・シャルマ。』
誰?
脳裏響く、初めて聞く声が響いた。艶めく光の規則的な揺れが浸透する。
『立ち向かいなさい、パラヴァティ。そなたにはこの逆境を乗り越えられる“強さ”があるのですから。』
強さ?私に……?
『まだわからないのですか。何度もそなたは友人を救ってきたはずです。そなたにしかないもの。思い出すのです。』
私にしかないもの……?
震えを飲み込み、先ほどまでの記憶を巻き戻す。
危機一発で空へと仲間を導いたこと。傷を癒やし、守ったこと。
…………そうか。私の強さって……。
手を握り、目を静かに閉じた。心の中で密かに唱える。
(大地に宿し女神よ。我の願いを聞きたまえ………)
風が巻き上がり、光が私たちを囲んだ。
あっという間に、外へと放り出される。 冷めた空気がやけにさっぱりしていた。
「はあ、はあっ。何とか、なった……。」
「え……はっ?俺、外に……?」
息を整えながら、タレス先生は自分の手を見つめる。
「私の力ですよ、先生………。ところで、さっき助けて下さった方はどこに?」
「ありがとう、パラ………………さっき助けてくれた人?そんな人、どこにもいないが……?」
「え?」
……おかしい。確かに聞こえたはず。
あの人の言葉があったから、私は動けた。
そのお礼を伝えたかったのに……。
「それよりパラ。ちょっと待っててくれるか?急用があるんだ……。」
そう言い残し、彼は背を向けて足早に去っていく。
影が長く伸び、石畳が淡く揺れた。
別れの心細さに胸が迫り、私も跡を追おうとした。
「先生!待ってください!置いていかないで!」
だが、答えはなく、足音だけがどんどん遠ざかっていく。
赤い夕日だけが、跡を引いた。
一歩前に踏み込もうとした瞬間、肩に冷たい手が触れた。
青白く、どこかへと引き込むような誘いの手。
「見つけた。………さあ、教えてもらおうか。あの“男”について………。」
皮膚に低い声が、刺さった。
思考が、追いつかない。
あれよあれよと……世界が動いていく。
それでもわたしは声を振り絞った。
「何のことでしょう……?」
「惚けるな。知らないのか、あの男は…………。」
軋むような言葉。信じたくない言葉。
耳すら痛むような、悍ましい事実。
終わりの、始まりだった。
弱いままでは、いられなかった。
☆*:.。. …………………….。.:*☆
夜露が服に湿り込んで、体が余計に重くなる。起き上がる気力すらなく、暗闇に寄りかかっていた。
世の中は“信じたくない事実”に溢れている。
人はきっとそのことをよく知っている。 ただ、目を逸らしているだけだ。直視したら、苦しくてたまらないから。
ただ、本当に向き合わなければならなくなった時………。
人は、理性すらも超えて、壊れてしまうのだと思う。とりわけ弱い人間は。
彼らへの愛情は、一方的だった。彼らは私を愛していなかった。 ただ己の欲求に飲まれて利用しようとしているだけだった。
私には彼らしかいないんだ。本当の母だってもう………。
涙が滲み、息を吸うことすら拒まれる。
その姿でさえもう、哀れな操り人形の呻きにしか見えなかった。
「………シア。リュシア………。」
なんだ?遠くから甲高い叫び声が聞こえる。
声が岩だらけのごつごつした天井に吸われては共鳴していった。
少しずつ近づいているように見える。
「……ねえ、本当にあってるの?その子で……確かなの?」
違った音が揺らいだ。 幼い子供のような声だ。 不機嫌そうに誰かが答える。
「はあ?馬鹿言わないでよ!私の言っていることが間違いだというの?まあ、見てなさい。確かに呼ばれているのを見たわ。何度も……。」
「だけどね、“ヘレナ”。こんなところにその子は………………いないんじゃない?」
……暗闇に潜む二つの声。互いに絡み合い、探り合いながらも不協和音を響かせていた。
“ヘレナ”……今ヘレナと言ったか? 耳が音の波をかき分けて一点に集中し始めた。
自分が探していた者が、同じく私を探していた?
一体どういう訳だろう。
「“トート”、あんたが見たんでしょう?リュシアらしき人物がこの洞窟付近にいるって!
焼き鳥になりかけたやつがいちいち文句言うんじゃないのっ!」
「焼き……焼き鳥!?なってないよ!トキは美味しくないから!……やっぱヘレナ、苦手だわ〜。」
トキ……ということは乗っ取ったと言う娘のことか。
張り詰めた空気に、不意に軽口が混ざる。緊張の糸が一瞬だけ緩んだ。
二人は手を組んだって聞いたけど……もしかしてあまり仲良くないのだろうか。
「聞こえてますけど?こっちこそ鳥娘と仲良くする気は一ミリもありませんけど?ただの利害一致です。」
ヘレナが憎らしげに言い返す。こちらにも表情が伝わるような、やけに癪な言い方だ。
「わかってるよー……。八方美人女もわたしは嫌だけどね〜……。中身なさそうで……。」
「あんたってそんな奴だっけ?裏表激しいんだね。……ま、あんたの方が理性ぶってて一番馬鹿っぽいけど。」
岩肌にばちばちと音が弾け、本当に火花が散っている気がした。
喧嘩が始まってしまった。
どうしようか。
二人にはどうしても“会わなければならない”。このまま通り過ぎられたら、もう会えないかもしれないのだ。
冷気が足元で微かに震えた。息を吸うたび霧が鼻腔に入り、焦りが胸を押しつぶす。
迷ったまま、目をキョロキョロと動かしていると、突然トートが声を上げた。
「あーっ!!」
「何いきなり叫んでいるのよ………。ええっ!!」
暗闇の中で、二人と目が合った。私を指す指は小刻みに震えており、明らか拍子抜けしている。
「リュシア……?本物……?」
「え、まあ……。そっちこそ……。」
恐る恐る互いに尋ね合う。それを見てトートがヘレナに耳打ちした。
(ねえ……というか話しかけたことあるの……?)
(いや……ないけど……今いいでしょうそんなことは!)
小さく交わされるやり取りに、私は思わず困惑してしまった。
だが、好機は今しかない。
空気を打ち破るように、声を絞り出す。
「あの………。ちょっといいかい?協力して欲しいことがあるんだが……。」
二人は顔を見合わせた。突き合うようなしかめ面から、何かを企む悪童の笑顔が浮かぶ。
言わずとも何か分かっていた。やりたいこと、目的。
きっと同じだ。
「実は私達も。やってくれる?
一緒にレジスタンスを、滅茶苦茶にしてやろうよ。」
小さな悪と悪が結びつく。
誰かの理想を壊すような、出来心のような悪。
それでも、それは、
何かを壊すのには十分だったようだ。
あいつらが私を使ったように、今度は私が使って見せよう。
誰にも呑まれない、自分だけの意志で。
薄く微笑む。
門を打ち壊す用意はできた。
晩夏の湿気と寒気が肌にまとわりつく。冷えた風は、私たちの背を押すように吹いていた。
☆*:.。. ………………… .。.:*☆
喧騒とした空気が澱み、かがり火と共に散った。
吊るした血肉の生臭さと、時折り除く金属の刃音が集中を掻き消す。
………嫌だねえ。これじゃ美しくならないよ。
煙たげに手を払う。不愉快だ。何もかも。場の空気一つ俺に従わない。
人間すらも。
歯ぎしりをすると、欠けた歯が蠢いて、血が吹き出た。
それにも気づかず、蠅どもは俺に寄り付いてくる。
「ライネル様。儀式の準備は整いました。あとは灰の少女を“二つ”揃えるだけ。順調ですよ。」
「それよりライネル様、例の娘の件ですが…………落神を操ったと言う、あの小娘。」
「え?ああ………。」
嘆息と共に返事をする。
どうでもいい。
儀式が出来ようと出来まいと、鼠が入ろうと。
全て俺が望んだことではない。
「入ったのは“神”の娘との噂。はらわたが煮えくりかえりますね………!」
何を言う。
血走った頭の、単細胞の君達の方が俺は腹ただしい。
君たちは美しかった世界を汚した。 俺の価値観そのものを汚したんだ。
神に奪われた俺たちは………抗い抜くと決めた筈。
命を賭けて、信念を貫き通す。泥沼の中でも、這って歩く。
その生命の叫びこそが、美しかった筈なのに。
なのになんだ、このザマは。
落神如きに精神を焦がされる?おまけに“神”のガキ如きにしてやられるだって?
ふざけるのもいい加減にしろ。
俺は失望した、お前たちに。
重なっては広がる怨嗟の咆哮と、奥深くに沈む憤怒の念。それらが結びついた、人の繋がり。
同じ信念を持つ集団は、炎の舞の如く、誰にも寄せ付けず一段と輝くものの筈だ。
だが、今ここにあるのは………くすぶる灰にすぎない。
触れた時の、吸い付くような熱さと眩さを、俺はまだ覚えている。
幾人もの力が合わさって丸々自分のものになった感覚も、確かにあった。
ゆっくりとそれは俺を咀嚼して、唾液と共に溶かしていった。
俺は全てを差し出した。運命も、肉体も、自分の正義も。
思考すらも塗り替えられていった。
自分の正義は見失った。誰かの正議論を我が物顔で唱えるようになった。
でも俺はそれで構わない。 それで世界が美しくあれるなら。 誰かも、自分も、心地よく暮らせられるのなら。
昔、どこかのガキが俺のことを可哀想だと言った。 周りから煽られて、貴方の中身は何もないのだな、と。
それは違う。可哀想だなんて、誰かのご都合主義だ。 高いところから見下ろして、惨状をつまみにしながら話す人間の理想像だ。
吹き出す哀愁も、ちっぽけな想像力と、齧った程度の人生談だろう?
歯を食いしばって足掻き苦しむ人間の本当の気持ちなんか、わかる筈ない。
無言で立ち上がった。しばらく座り込んでいたから、尻の奥が刺さったように痛みこむ。
「どこに行かれるのですか、ライネル様?御用は私どもに……。がはっ。」
慌てふためく蠅を跳ね除ける。それは、鉄鋼の奥底の壁に当たり、張り付いていった。
他は怯えたように、閏わした目で俺を見つめている。
「黙って見てろ。貴様らにもう用はない。ここからは俺がやる。………………俺が鼠二匹共々始末して、“灰の少女”を連れ出す。
…………俺の世界を壊したこと、存分に後悔するといい。」
水鏡に、不敵に笑う痩せこけた男が見える。
やがてそれは、炎へ呑まれて消えていった。
か細い鼠の悲鳴が耳に届く。
そして残響の中で、俺の声だけが壁に刻まれたまま、夜を割くように立ち尽くしていた。
☆*:.。. ………………………….。.:*☆
混沌とした他の場所と違い、裏庭は以前と変わらぬ美しさを保っていた。
うねったオリーブの木が夕風に揺れていて、冴えるような緑色は夕日で赤く染まっている。
地面には自分の影法師が長く伸びて、途切れ途切れに羽虫のざわめきが聞こえた。
昼間とは違い、当たる空気が心地良く肌を撫でる。感触を楽しみながらも、私は隣で歩くカミールを見つめた。
黒々と澄んだ瞳は夕日を映し出されており、白くたなびく毛は赤く照らされ絵のように鮮やかだ。
鼻を地面に擦り当てて、何かを探索している。
私が見つめているのに気がつくと、尻尾を振って擦り寄ってきた。
頭を撫でると、えもいえない草木と獣の匂いが鼻をくすぐった。
「…………カミール、お前は本当にいい子だね。どんなに危険なところでも、逃げ出さず私についてきてくれるなんて。」
自然と顔が綻ぶ。
孤児院を出て以来、ずっと一緒だったカミール。
どこから来たのかは分からない。ただ、初めての学校を不安に思う私を慰めるように、私についてきてくれた。
ずっと前から待っていたように…………小さな舌で、私の手を舐めたのを覚えている。
友達はトートとパラ以外、ずっといなかった。一人だと悲しく思うこともあった。
だけど、カミールの存在が、私の大きな支えになってくれた。
暗闇の中、灯りを灯すようにやってきてくれたこと。今、こうしてそばにいてくれること。
貴方のおかげで今がある。
顔を毛の中に埋めると、暖かいお日様の匂いがした。
「ヴーー。ワンッ、ワンッ。」
突然カミールが遠くを見つめて吠え出した。
あまりの変化に呆然としていると、地平線の先から背の高い男が姿を現した。
………誰だ?一体何の用だ?
見たこともない男だ。遠くからでも、薄気味悪い威圧感を感じる。
カミールの吠え声と共に、男はこちらへと近づいてくる。
足音も立てず、気配も感じさせず…………亡霊のような淡白さがあった。
はっきりと目視できる距離に男は立ち尽くす。
「な………………何の用だ、お、お前は、誰だ…………!」
息を震わして叫ぶ。男は返事をしない。 代わりに塵でも見るような目をした。
「………………なぜお前程度にいちいち名乗らなければならない?“神”に寄りつくゴミクズが。」
「はあ?なんで私は、会ったばかりの奴にそう言われなければならない?……それに私は寄り付いてなどいない!」
私の反論なぞ構わないというように男は鼻を鳴らす。
高慢。
その言葉が頭に浮かんだ。
「寄り付いていないだと?これだから蠅は嫌いだ。己の行動を嫌というほど正当化しようとする。……みずぼらしい。
お前、“神”の子供とつるんでいただろう。“人間”のくせに。人間を見下す低俗な奴らと付き合うのか?呆れる。」
有無を言わせないという風に、男は私に指立てた。
その言葉に、何か黒いものが渦巻く気がした。
頭に血が遡っていく。沸々と心が煮えたぎった。
体の端々に力が渡っていく。 いつのまにか男の胸ぐらを掴んでいた。
「……………黙れ。彼女たちはそんなんじゃない。人を見下しなどしない。お前の浅はかな知識でものを語るな。」
ヒュンッ。
瞬きをする隙に、いつのまにか体が地面に叩きつけられる。肘からは赤い血が流れていた。内側から痛みが競り上がり、苦痛で顔が歪む。
男は檮杌(とうこつ。中国古代からの伝説に登場する、四凶の一つ。暴虐など)のような形相でこちらを睨み尽くしている。
…………早すぎる。人間業とは思えない。
カミールが毛を逆撫でて低く唸った。よろよろと私の前に立ち上がり、荒く息を吐く。
「ふうーーっ。ふうーーっ。」
「や、やめてカミール!下がって!」
私の言葉も、彼女には届かない。全身全霊をかけて私を守ろうとしている。
でも………………!
「………………邪魔だ。」
男の振り下ろした腕と共に、鋭い音が空中をつんざき、カミールの体は遠くへと飛んでいった。か細い体が地面に叩きつけられ、背骨が折れたような鈍い音がした。
………………嘘。
カミールはぐったりと地面に粘りついている。
息を吸う腹の動きはぴたりと止まり、代わりに口からは濁った血と白い泡が噴き出ていた。
時間が、止まった。
何も考えられない。いや、考えたくもない。
私の何より大切な、カミールが……………目の前の男に“殺された”だなんて。
さっきまで当たり前のように息をして、歩いて、私に甘えてきたりもして。
その、カミールの命が、この男のせいで儚く散ってしまった。
…………許せない。
絶対に、この男、許せるはずがない!
涙を溜めた目で、睨み返す。 口は震え、絶望で世界が震え落ちた。
「……おま、え…………かえ、せ………………私のカミールを、かえ、せ………。」
「たかが子供の声で、何か変わるとでも?」
「…………。」
私はわかった。
彼に心なんてないということ。
復讐に飲み込まれ、何もかも無くなったということ。
冷たい声で、男は続ける。
「お前たちは言ったな。話し合えば、世界は変わる、と。だが俺はそうは思わない。 そんなに世界は甘くない。
……なあ、お前はみんなが平和を望むと、そう思ってんのか?自ら争いを求めるような奴もいる。他人を陥れるのに必死な奴もいる。
そんな奴らに」
嘲笑と共に私の腕を激しく掴む。抵抗も虚しく、細い腕はひね上げられ、体は宙に浮いた。
「生ぬるいこと言ってんじゃねえよ!!!」
闇へと、体が押し込まれる。畳んだ足が痺れ込んだ。
どこへ、と聞く間もない。 ただ、その身が暗澹(あんたん)の淵を流されていった。
カミールからは、どんどん離れていく。
誰かが平和を祈ろうと、それは無駄だった。
密かに抱く願望は、夢でしかなかった。
こいつの言った通り、話し合いなんてただの理想論だったんだ。
………世界はそれほど優しくない。残酷なほど人は争いを求め殺戮し、残骸の上で成り立っている。
苦虫をすりつぶした思いも、今はなかった。
ただ、ないはずの温もりと気配を追い求めていた。
「…………全て揃った。完璧だ。まだ、やり直せる……………世界は変えられる!より美しく!」
男の口から不気味な笑い声が漏れた。天高く、闇夜に向かって音が震え続ける。
時が、艶を帯びて夕焼けをかき消した。
階下から、聞き慣れた少女の声が聞こえた気がした。

