夕日が雲から肌を凍てつかせる。

 赤い光が窓から差し込み、私を急かさせた。

 あと1時間。

 日はすでに沈まりかけている。

 廊下には人の影一つなく、その事実が返って胸に迫った。

 でも、憐んでいる場合ではない。

 トートも命を張って頑張っているのよ。私もやらなきゃ。

 握りしめた拳が震えたような気がした。

 私は昔から、ここぞと言う時に動くことができなかった。

 妹が川に溺れかけても、家に泥棒が来た時だって、足が、体が動かなくて………誰かが助けてくれるのを待つことしか、出来なかった。

 結局妹も助かったし、泥棒もいなくなったけど。

 “人殺し” “軟弱者”と、何度詰られたことか。

 弱い自分が嫌いだった。

 強いふりをしている自分も……最高に、嫌だった。

 何事にも立ち向かえるトートが羨ましい。
 強い信念があるホーマが羨ましい。

 私にはそんな物、ない。 残っているのは虚栄心だけ。

 変わりたい。

 弱いだけの自分から、羨ましがっているだけの自分から……。
 できるはず、きっと、私なら。

 そう信じでもしないと、恐怖で体が動かない。

 右腕を握り締めるたび、吐き気が喉元まで上がる。

 と、その時、大きな人影が動いていた。

 「……?」

 何かに隠れているように、壁を張って歩いている。

 くるくると渦巻くような、盛り上がった頭の形をしているようだ。

 ん?盛り上がった頭の、大きな影……?

 もしかして……。

 「タレス先生?そこで何をしているのですか?」

 「ええっ。うえっと……パラヴァティ?パラこそ何しているんだ!?」

 ひどく拍子抜けた顔でタレス先生は飛び上がった。汗が滲み、瞳孔が見開いている。

 ひどい動揺だ。 まるで何かを”隠している“かのように。

 「こちらのセリフです。まるで何かに追われているようですが。」

 「鋭い、参ったよ。」

 くしゃっと笑って、ぽりぽりと頭を掻いた。

 「こんなこと言うのもなんだが………”目“をつけられているんだ。」

 「え?誰に、何で………。」

 断片的な言葉しか言えない私をよそに、タレス先生は続ける。

 「決まっている。”レジスタンス“に、だよ。」

 これ以上は言えないよ、と言うように彼はかぶりを振った。

 「やっぱり………。彼らは巻いたんですか?」

 「おそらくな。だが完全じゃない。まだどこかで見られている。ぴりぴりしているんだろう。もう時間がないから。」

 「計画まで………ですよね。既に日が沈みかけているし。」

 その言葉を聞いてタレス先生は大きく目を見開いた。

 「その情報、どこで手に入れた?計画のことまで?」

 「トートからの伝言です。断片的までしか、わかりませんが。落ちた神 利用 計画 夕刻……。この四単語しか彼女は残してくれなかった。
 それでも彼女が何をしようとしているかには十分でした。」

 「そうか………。やはり何か企んでいるな。一枚岩ではいられんということか。」

 顎髭を触りながら彼はつぶやいた。もしかしてタレス先生は、トートの居場所について知っているのだろうか……?

 「すみませんが先生、トートは……。」

 「危ない、伏せろ!!」

 「え……?」

 先生の叫び声と共に、鋭い弓矢が壁に刺さる。

 弦の音。石の破片が頬をかすめた。

 一発、または二発……。飛んでは跳ねて、地面を翻した。

 鼻先を掠めるのは、革の擦れた匂いと焦げた油の匂い。

 追手がすぐそこまで迫っている。

 おびただる殺気。手足が小刻みに震えて、逃げようにも逃げられない。

 「これって………!!」

 「ああ、”奴ら“だ。早々に見つかったか。」

 彼は似合わない舌打ちをして、私の手を掴んだ。

 「いくぞ、パラ!逃げるんだ!」

 「え、ちょっと!!」

 引っ張られるまま、私はタレス先生と走り出した。 それを追うように、風を切って矢が飛んでくる。

 髪に掠って、黒いものがひゅっと舞った気がした。塞がっていた穴に、針で刺された冷気を感じる。

 後ろを振り向くと、白いマントを着た人たちが順に追っては弓を構えている。

 「こんなに大勢……!」

 「振り向くな!突っ走れ!!」

 タレス先生が声を荒げた。それすら弄ぶように、じりじりと彼らは迫り来る。

 武器を持たない私たちは圧倒的に不利だ。何か……打つ手は……。

 「………かはっ……。」

 喉の穴が塞がれたように、苦しい。酸素がうまく回らない。

 もうダメだ……。

 『諦めるのではありません。パラヴァティ・シャルマ。』

 誰?

 脳裏響く、初めて聞く声が響いた。艶めく光の規則的な揺れが浸透する。

 『立ち向かいなさい、パラヴァティ。そなたにはこの逆境を乗り越えられる“強さ”があるのですから。』

 強さ?私に……?

 『まだわからないのですか。何度もそなたは友人を救ってきたはずです。そなたにしかないもの。思い出すのです。』

 私にしかないもの……?

 震えを飲み込み、先ほどまでの記憶を巻き戻す。

 危機一発で空へと仲間を導いたこと。傷を癒やし、守ったこと。

 …………そうか。私の強さって……。

 手を握り、目を静かに閉じた。心の中で密かに唱える。

 (大地に宿し女神よ。我の願いを聞きたまえ………)

 風が巻き上がり、光が私たちを囲んだ。

 あっという間に、外へと放り出される。 冷めた空気がやけにさっぱりしていた。

 「はあ、はあっ。何とか、なった……。」

 「え……はっ?俺、外に……?」

 息を整えながら、タレス先生は自分の手を見つめる。

 「私の力ですよ、先生………。ところで、さっき助けて下さった方はどこに?」

 「ありがとう、パラ………………さっき助けてくれた人?そんな人、どこにもいないが……?」

 「え?」

 ……おかしい。確かに聞こえたはず。

 あの人の言葉があったから、私は動けた。

 そのお礼を伝えたかったのに……。

 「それよりパラ。ちょっと待っててくれるか?急用があるんだ……。」

 そう言い残し、彼は背を向けて足早に去っていく。
 影が長く伸び、石畳が淡く揺れた。

 別れの心細さに胸が迫り、私も跡を追おうとした。

 「先生!待ってください!置いていかないで!」

 だが、答えはなく、足音だけがどんどん遠ざかっていく。

 赤い夕日だけが、跡を引いた。

 一歩前に踏み込もうとした瞬間、肩に冷たい手が触れた。

 青白く、どこかへと引き込むような誘いの手。

 「見つけた。………さあ、教えてもらおうか。あの“男”について………。」

 皮膚に低い声が、刺さった。

 思考が、追いつかない。

 あれよあれよと……世界が動いていく。

 それでもわたしは声を振り絞った。

 「何のことでしょう……?」

 「惚けるな。知らないのか、あの男は…………。」

 軋むような言葉。信じたくない言葉。

 耳すら痛むような、悍ましい事実。

 終わりの、始まりだった。

 弱いままでは、いられなかった。

☆*:.。. …………………….。.:*☆

 夜露が服に湿り込んで、体が余計に重くなる。起き上がる気力すらなく、暗闇に寄りかかっていた。

 世の中は“信じたくない事実”に溢れている。

 人はきっとそのことをよく知っている。 ただ、目を逸らしているだけだ。直視したら、苦しくてたまらないから。

 ただ、本当に向き合わなければならなくなった時………。

 人は、理性すらも超えて、壊れてしまうのだと思う。とりわけ弱い人間は。

 彼らへの愛情は、一方的だった。彼らは私を愛していなかった。 ただ己の欲求に飲まれて利用しようとしているだけだった。

 私には彼らしかいないんだ。本当の母だってもう………。

 涙が滲み、息を吸うことすら拒まれる。

 その姿でさえもう、哀れな操り人形の呻きにしか見えなかった。

 「………シア。リュシア………。」

 なんだ?遠くから甲高い叫び声が聞こえる。

 声が岩だらけのごつごつした天井に吸われては共鳴していった。

 少しずつ近づいているように見える。

 「……ねえ、本当にあってるの?その子で……確かなの?」

 違った音が揺らいだ。 幼い子供のような声だ。 不機嫌そうに誰かが答える。

 「はあ?馬鹿言わないでよ!私の言っていることが間違いだというの?まあ、見てなさい。確かに呼ばれているのを見たわ。何度も……。」

 「だけどね、“ヘレナ”。こんなところにその子は………………いないんじゃない?」

 ……暗闇に潜む二つの声。互いに絡み合い、探り合いながらも不協和音を響かせていた。

 “ヘレナ”……今ヘレナと言ったか? 耳が音の波をかき分けて一点に集中し始めた。

 自分が探していた者が、同じく私を探していた?

 一体どういう訳だろう。

 「“トート”、あんたが見たんでしょう?リュシアらしき人物がこの洞窟付近にいるって!
 焼き鳥になりかけたやつがいちいち文句言うんじゃないのっ!」

 「焼き……焼き鳥!?なってないよ!トキは美味しくないから!……やっぱヘレナ、苦手だわ〜。」

 トキ……ということは乗っ取ったと言う娘のことか。

 張り詰めた空気に、不意に軽口が混ざる。緊張の糸が一瞬だけ緩んだ。

 二人は手を組んだって聞いたけど……もしかしてあまり仲良くないのだろうか。

 「聞こえてますけど?こっちこそ鳥娘と仲良くする気は一ミリもありませんけど?ただの利害一致です。」

 ヘレナが憎らしげに言い返す。こちらにも表情が伝わるような、やけに癪な言い方だ。

 「わかってるよー……。八方美人女もわたしは嫌だけどね〜……。中身なさそうで……。」

 「あんたってそんな奴だっけ?裏表激しいんだね。……ま、あんたの方が理性ぶってて一番馬鹿っぽいけど。」

 岩肌にばちばちと音が弾け、本当に火花が散っている気がした。
 喧嘩が始まってしまった。
 どうしようか。

 二人にはどうしても“会わなければならない”。このまま通り過ぎられたら、もう会えないかもしれないのだ。

 冷気が足元で微かに震えた。息を吸うたび霧が鼻腔に入り、焦りが胸を押しつぶす。

 迷ったまま、目をキョロキョロと動かしていると、突然トートが声を上げた。

 「あーっ!!」

 「何いきなり叫んでいるのよ………。ええっ!!」

 暗闇の中で、二人と目が合った。私を指す指は小刻みに震えており、明らか拍子抜けしている。

 「リュシア……?本物……?」

 「え、まあ……。そっちこそ……。」

 恐る恐る互いに尋ね合う。それを見てトートがヘレナに耳打ちした。

 (ねえ……というか話しかけたことあるの……?)

 (いや……ないけど……今いいでしょうそんなことは!)

 小さく交わされるやり取りに、私は思わず困惑してしまった。

 だが、好機は今しかない。

 空気を打ち破るように、声を絞り出す。

 「あの………。ちょっといいかい?協力して欲しいことがあるんだが……。」

 二人は顔を見合わせた。突き合うようなしかめ面から、何かを企む悪童の笑顔が浮かぶ。

 言わずとも何か分かっていた。やりたいこと、目的。

 きっと同じだ。

 「実は私達も。やってくれる?
 一緒にレジスタンスを、滅茶苦茶にしてやろうよ。」

 小さな悪と悪が結びつく。

 誰かの理想を壊すような、出来心のような悪。

 それでも、それは、

 何かを壊すのには十分だったようだ。

 あいつらが私を使ったように、今度は私が使って見せよう。

 誰にも呑まれない、自分だけの意志で。

 薄く微笑む。

 門を打ち壊す用意はできた。

 晩夏の湿気と寒気が肌にまとわりつく。冷えた風は、私たちの背を押すように吹いていた。

☆*:.。. ………………… .。.:*☆

 喧騒とした空気が澱み、かがり火と共に散った。

 吊るした血肉の生臭さと、時折り除く金属の刃音が集中を掻き消す。

 ………嫌だねえ。これじゃ美しくならないよ。

 煙たげに手を払う。不愉快だ。何もかも。場の空気一つ俺に従わない。

 人間すらも。

 歯ぎしりをすると、欠けた歯が蠢いて、血が吹き出た。

 それにも気づかず、蠅どもは俺に寄り付いてくる。

 「ライネル様。儀式の準備は整いました。あとは灰の少女を“二つ”揃えるだけ。順調ですよ。」

 「それよりライネル様、例の娘の件ですが…………落神を操ったと言う、あの小娘。」

 「え?ああ………。」

 嘆息と共に返事をする。

 どうでもいい。

 儀式が出来ようと出来まいと、鼠が入ろうと。

 全て俺が望んだことではない。

 「入ったのは“神”の娘との噂。はらわたが煮えくりかえりますね………!」

 何を言う。

 血走った頭の、単細胞の君達の方が俺は腹ただしい。

 君たちは美しかった世界を汚した。 俺の価値観そのものを汚したんだ。

 神に奪われた俺たちは………抗い抜くと決めた筈。

 命を賭けて、信念を貫き通す。泥沼の中でも、這って歩く。

 その生命の叫びこそが、美しかった筈なのに。

 なのになんだ、このザマは。

 落神如きに精神を焦がされる?おまけに“神”のガキ如きにしてやられるだって?

 ふざけるのもいい加減にしろ。

 俺は失望した、お前たちに。

 重なっては広がる怨嗟の咆哮と、奥深くに沈む憤怒の念。それらが結びついた、人の繋がり。

 同じ信念を持つ集団は、炎の舞の如く、誰にも寄せ付けず一段と輝くものの筈だ。

 だが、今ここにあるのは………くすぶる灰にすぎない。

 触れた時の、吸い付くような熱さと眩さを、俺はまだ覚えている。

 幾人もの力が合わさって丸々自分のものになった感覚も、確かにあった。

 ゆっくりとそれは俺を咀嚼して、唾液と共に溶かしていった。

 俺は全てを差し出した。運命も、肉体も、自分の正義も。

 思考すらも塗り替えられていった。

 自分の正義は見失った。誰かの正議論を我が物顔で唱えるようになった。

 でも俺はそれで構わない。 それで世界が美しくあれるなら。 誰かも、自分も、心地よく暮らせられるのなら。

 昔、どこかのガキが俺のことを可哀想だと言った。 周りから煽られて、貴方の中身は何もないのだな、と。

 それは違う。可哀想だなんて、誰かのご都合主義だ。 高いところから見下ろして、惨状をつまみにしながら話す人間の理想像だ。

 吹き出す哀愁も、ちっぽけな想像力と、齧った程度の人生談だろう?

 歯を食いしばって足掻き苦しむ人間の本当の気持ちなんか、わかる筈ない。

 無言で立ち上がった。しばらく座り込んでいたから、尻の奥が刺さったように痛みこむ。

 「どこに行かれるのですか、ライネル様?御用は私どもに……。がはっ。」

 慌てふためく蠅を跳ね除ける。それは、鉄鋼の奥底の壁に当たり、張り付いていった。

 他は怯えたように、閏わした目で俺を見つめている。

 「黙って見てろ。貴様らにもう用はない。ここからは俺がやる。………………俺が鼠二匹共々始末して、“灰の少女”を連れ出す。
 …………俺の世界を壊したこと、存分に後悔するといい。」

 水鏡に、不敵に笑う痩せこけた男が見える。

 やがてそれは、炎へ呑まれて消えていった。

 か細い鼠の悲鳴が耳に届く。

 そして残響の中で、俺の声だけが壁に刻まれたまま、夜を割くように立ち尽くしていた。

☆*:.。. ………………………….。.:*☆

 混沌とした他の場所と違い、裏庭は以前と変わらぬ美しさを保っていた。

 うねったオリーブの木が夕風に揺れていて、冴えるような緑色は夕日で赤く染まっている。

 地面には自分の影法師が長く伸びて、途切れ途切れに羽虫のざわめきが聞こえた。

 昼間とは違い、当たる空気が心地良く肌を撫でる。感触を楽しみながらも、私は隣で歩くカミールを見つめた。

 黒々と澄んだ瞳は夕日を映し出されており、白くたなびく毛は赤く照らされ絵のように鮮やかだ。

 鼻を地面に擦り当てて、何かを探索している。

 私が見つめているのに気がつくと、尻尾を振って擦り寄ってきた。

 頭を撫でると、えもいえない草木と獣の匂いが鼻をくすぐった。

 「…………カミール、お前は本当にいい子だね。どんなに危険なところでも、逃げ出さず私についてきてくれるなんて。」

 自然と顔が綻ぶ。

 孤児院を出て以来、ずっと一緒だったカミール。

 どこから来たのかは分からない。ただ、初めての学校を不安に思う私を慰めるように、私についてきてくれた。

 ずっと前から待っていたように…………小さな舌で、私の手を舐めたのを覚えている。

 友達はトートとパラ以外、ずっといなかった。一人だと悲しく思うこともあった。

 だけど、カミールの存在が、私の大きな支えになってくれた。

 暗闇の中、灯りを灯すようにやってきてくれたこと。今、こうしてそばにいてくれること。

 貴方のおかげで今がある。

 顔を毛の中に埋めると、暖かいお日様の匂いがした。

 「ヴーー。ワンッ、ワンッ。」

 突然カミールが遠くを見つめて吠え出した。

 あまりの変化に呆然としていると、地平線の先から背の高い男が姿を現した。

 ………誰だ?一体何の用だ?

 見たこともない男だ。遠くからでも、薄気味悪い威圧感を感じる。

 カミールの吠え声と共に、男はこちらへと近づいてくる。

 足音も立てず、気配も感じさせず…………亡霊のような淡白さがあった。

 はっきりと目視できる距離に男は立ち尽くす。
 
 「な………………何の用だ、お、お前は、誰だ…………!」

 息を震わして叫ぶ。男は返事をしない。 代わりに塵でも見るような目をした。

 「………………なぜお前程度にいちいち名乗らなければならない?“神”に寄りつくゴミクズが。」

 「はあ?なんで私は、会ったばかりの奴にそう言われなければならない?……それに私は寄り付いてなどいない!」

 私の反論なぞ構わないというように男は鼻を鳴らす。

 高慢。

 その言葉が頭に浮かんだ。

 「寄り付いていないだと?これだから蠅は嫌いだ。己の行動を嫌というほど正当化しようとする。……みずぼらしい。
 お前、“神”の子供とつるんでいただろう。“人間”のくせに。人間を見下す低俗な奴らと付き合うのか?呆れる。」

 有無を言わせないという風に、男は私に指立てた。 

 その言葉に、何か黒いものが渦巻く気がした。

 頭に血が遡っていく。沸々と心が煮えたぎった。

 体の端々に力が渡っていく。 いつのまにか男の胸ぐらを掴んでいた。

 「……………黙れ。彼女たちはそんなんじゃない。人を見下しなどしない。お前の浅はかな知識でものを語るな。」

 ヒュンッ。

 瞬きをする隙に、いつのまにか体が地面に叩きつけられる。肘からは赤い血が流れていた。内側から痛みが競り上がり、苦痛で顔が歪む。

 男は檮杌(とうこつ。中国古代からの伝説に登場する、四凶の一つ。暴虐など)のような形相でこちらを睨み尽くしている。

 …………早すぎる。人間業とは思えない。

 カミールが毛を逆撫でて低く唸った。よろよろと私の前に立ち上がり、荒く息を吐く。

 「ふうーーっ。ふうーーっ。」

 「や、やめてカミール!下がって!」

 私の言葉も、彼女には届かない。全身全霊をかけて私を守ろうとしている。

 でも………………!

 「………………邪魔だ。」

 男の振り下ろした腕と共に、鋭い音が空中をつんざき、カミールの体は遠くへと飛んでいった。か細い体が地面に叩きつけられ、背骨が折れたような鈍い音がした。

 ………………嘘。

 カミールはぐったりと地面に粘りついている。

 息を吸う腹の動きはぴたりと止まり、代わりに口からは濁った血と白い泡が噴き出ていた。

 時間が、止まった。

 何も考えられない。いや、考えたくもない。

 私の何より大切な、カミールが……………目の前の男に“殺された”だなんて。

 さっきまで当たり前のように息をして、歩いて、私に甘えてきたりもして。

 その、カミールの命が、この男のせいで儚く散ってしまった。

 …………許せない。

 絶対に、この男、許せるはずがない!

 涙を溜めた目で、睨み返す。 口は震え、絶望で世界が震え落ちた。
 
 「……おま、え…………かえ、せ………………私のカミールを、かえ、せ………。」

 「たかが子供の声で、何か変わるとでも?」

 「…………。」

 私はわかった。

 彼に心なんてないということ。

 復讐に飲み込まれ、何もかも無くなったということ。

 冷たい声で、男は続ける。

 「お前たちは言ったな。話し合えば、世界は変わる、と。だが俺はそうは思わない。 そんなに世界は甘くない。 
 ……なあ、お前はみんなが平和を望むと、そう思ってんのか?自ら争いを求めるような奴もいる。他人を陥れるのに必死な奴もいる。
 そんな奴らに」

 嘲笑と共に私の腕を激しく掴む。抵抗も虚しく、細い腕はひね上げられ、体は宙に浮いた。

 「生ぬるいこと言ってんじゃねえよ!!!」

 闇へと、体が押し込まれる。畳んだ足が痺れ込んだ。

 どこへ、と聞く間もない。 ただ、その身が暗澹(あんたん)の淵を流されていった。

 カミールからは、どんどん離れていく。


 誰かが平和を祈ろうと、それは無駄だった。

 密かに抱く願望は、夢でしかなかった。

 
こいつの言った通り、話し合いなんてただの理想論だったんだ。


 ………世界はそれほど優しくない。残酷なほど人は争いを求め殺戮し、残骸の上で成り立っている。

 苦虫をすりつぶした思いも、今はなかった。

 ただ、ないはずの温もりと気配を追い求めていた。

 「…………全て揃った。完璧だ。まだ、やり直せる……………世界は変えられる!より美しく!」

 男の口から不気味な笑い声が漏れた。天高く、闇夜に向かって音が震え続ける。


 時が、艶を帯びて夕焼けをかき消した。

 階下から、聞き慣れた少女の声が聞こえた気がした。