朽葉色に染まっている道を踏み締めると、ほのかに秋の香りがした。
……トートの信号が、突然止まった。
あの時、赤く染められたトートの信号が消えてから……もう1時間近くなる。
彼女の気配はなく、代わりにと言うべきか、一時的に暴動も収まっていた。
……まさかそれが関係しているわけではないよね?
彼女は何かに巻き込まれてしまった?
ぞくり、と悪寒が走った。パラもヘレナも同じことを考えていたようで、しばらく誰も口を開けなかった。
「これ、トキの羽………。トートのだわ。」
不意にパラが羽を拾い上げる。
道標のように何枚も落ちており、白銀に日光が滑り落ちていた。
「トートが道標に落とした?」
「いや、レジスタンスを追っているうちに落ちちゃったのかも。襲われたんじゃ?」
「だから言ったのよ!無謀だって!だって、あいつらなら……。」
ヘレナの強気な眉はみるみる下がり、彼女は言葉を濁した。
言いたいことはわかる。
あいつらなら、本当に何をしでかすかわからない。
口に出すのも憚れるようだった。
それより彼女、まだ何かを隠している………………?
訝しげに赤い瞳が揺れていた。
「………………ワオーン………。」
立ち尽くしていると、聞きなれた犬の鳴き声が聞こえてきた。
優雅で、力強い雌犬の鳴き声。もしかして、あの子?
「ねえ、犬の鳴き声が聞こえない?あそこ、もっと北。」
「ええ、全然……あ、でも微妙に強くなっているかも?犬が近づいてきているんじゃないかしら?」
「おーい、こっちだよ!」
呼び止めながらも、期待で胸が高鳴る。あの子が生きているかもしれないと言う期待。
また会えるかもしれないと言う期待。
その期待は焚き火のように暖かく、胸の奥をじわじわと満たしていく。
足音と鳴き声が近づくたびに、目の前の景色が霞んでいく気がした。
幸福感が押し寄せ、抑えきれなくなり、膨らむ。
その一方で、犬の足音はどんどん近づいていき、宙を浮くような優雅なステップを刻んでいた。
「ハッハッハッハッ……。」
舌を出す、荒い犬の息遣いがすぐそばで響く。
堪えきれなくて、私は叫んだ。
「カミール!」
「ワオーン!」
森林から飛び出したのは、白い毛並みのサルーキ犬。
細長い手足と傾れるような毛並みが、まるで森の主のようだった。
腕を広げると、彼女が目一杯飛び込んできた。幸福がのしかかり、嬉し涙をこぼす。
「よかった、カミール。もうしんじゃったかと思ったよお……。どこにいるのかすらわからなくて……。」
抱きしめるとカミールは、(私のことは心配しなくて、大丈夫)と言うように目を細めた。
「よかったわ、ホーマ、カミール。貴方心配していたものね……。」
パラも口に手を当てて目を潤ませる。
こんなにも人に思いを馳せる、彼女らしい反応だった。
ヘレナといえば、そっぽを向いて顔を真っ赤にしている。
目元に手を当て、押し殺すように鼻を啜っていた。
……も、もしかしてあの子、泣いている?
急におかしさが込み上げてきた。不思議そうにカミールは小首を傾げる。
(ね、ねえ、パラ、ヘレナ見てよ。)
パラにこそっと耳打ちすると、パラも唇を綻びさせた。
(本当だ。あの子ってば、ああ言うところあるのね。案外いい子かも?)
しばらく二人で見とれていると、その視線に気がついたのか、鋭く睨んだ。
「ちょっとあんたたち、何がおかしいのよ!ニヤニヤしちゃって……。」
「いやー、ヘレナもそう言うところがあるんだなって。可愛い。」
「ナッ、マッ!違う!そんなんじゃないから!」
手を大きく振って否定する。まるで幼児のようで愛おしい。
ヘレナってこんなピュアだっけな。
見知った気がしていたけれど、案外知らない面がたくさんあったんだなあ。
その瞬間まで、私は再会の幸福の中に完全に浸っていた。
でも……カミールの口元に小さな異物が光っているのを見つけて、空気は一変する。
見るとそれは、紙切れである。 読んで欲しげに彼女は潤んだ瞳で見上げていた。
「なに、これ……?」
どこから持ってきたんだろう。端がよだれでにじみ、よれた紙質からも時間が立っていることがわかった。
一度深呼吸してみる。 これがただのゴミであって欲しい反面、トートからの手紙ではないか……と言う予感が胸を締め付けた。
恐る恐る開けてみる。 が、それは予想外のものだった。 驚きの声が漏れ出る。
文字が繋がっていて、と言うかただの線が並んでいる、子供の落書きとしか思えないメモだったからだ。
私は眉を顰め、紙を光にかざした。風に揺れる葉音だけが耳に残る。
彼女は綺麗な文字を書いていたはず。
これじゃあ何の手がかりもない……。
頭を抱えていると、パラが思いついたように声をかけた。
「これ“速記”じゃないかしら?」
「え、あ……。」
言われてみれば。
速記とは、話すスピードと同じくらいの速さで素早くメモを取る技法だ。
英語では、線の角度や長さで文字を表す。
速記を書くくらい彼女は時間がなかったのかな?
「暗号みたい。パッと見て書いているところを伝わらないようにしたのかもね。」
ヘレナが文字を読み取りながら言う。 まるで彼女がその技術を習得しているかのようだ。
「ヘレナ、速記、読めるの?」 私は目を細めた。
「まあ多少はね。」 ヘレナは紙を覗き込み、躊躇いながらも声を出す。
「……落ちた神」
感覚が、その言葉一点に集中した。
「計画」
パラが眉間に皺を寄せる。
「利用」
「夕刻」
喉がひゅっとなった。残された時間はあまりに少ない。
「洞窟で………。」
ヘレナはここまで言ってため息をついた。
「これだけでは意味がわからないわよ。あの子、何がしたいの?」
単語が一つ一つ出るたび息が詰まっていく。
さっきまであった幸福感は一時にして消えた。
「待って……一つ一つ意味を解いていたらわかるかも。 計画が夕刻で行われるってこと? 利用って何かしら。 落ちた神とは?」
「……母の傾倒していた、“ザラン様”のこと……?」
神妙な面持ちで、ヘレナはぽつりとつぶやいた。私はそれを見逃さず、彼女に問い詰める。
「“ザラン様”?それって何者?これと関係しているの?」
「あ、いや……。」
またヘレナは言い淀む。少しイライラして私は声音を強めた。
「ねえお願い、はっきり言ってよ!トートの……いや、この学校の全員の命に関わるかもしれないのに!」
「じゃ、じゃあ……。」
珍しく私に気圧されてヘレナは話を切り出した。 何だかいつもと立場が逆転しているな。 少し変な気分だ。
「私も全部は知らない。でも………あいつらが崇拝しているのが“ザラン様”って呼ばれることは分かる。
あれを一度見てしまったものは………………二度とあれの支配に抜け出せなくなる。
普通に見えても、どこか……違うの。」
「どう言うこと?」
「洗脳されてしまうってことよ。」
声を絞り出してヘレナが言った。
「“ザラン様”のために、って言って、あいつの指示を何でも聞くようになるの。
一見普通に見えるものでも…端々に異常さが垣間見える。」
「牛の生き血を丸々取っている奴も見たわ。
私、恐ろしすぎて気絶するかと思った……。
だってその目は………底なしの穴のように、光一つなかったから!」
顔を青ざめてヘレナは震え出した。脂汗が額を伝い、息は荒くなっている。人が変わったように彼女の様子が豹変した。
牛の生き血を絞っていたやつがいた……。
薄桃髪の少年の話を思い出す。
彼らは見たものはきっと“同じもの”。
人の嫌悪を刺激する、それは一体どんなものなのだろう。
過激派を動かしていたのはその“ザラン様”だった?
……彼女が恐れているのは、本当にそれだけなのか。
もっと違う何かを、彼女は隠れて恐れているのではないか?
そう思ったが、今の彼女には何も言えなかった。
「無理に聞いてごめん、ヘレナ。」
「大丈夫?ほら、息を吸って、吐いて……。」
パラが背中をそっと叩き、彼女を宥める。やっと理性を取り戻して、彼女は再び言った。 使命感を感じるように、言葉を絞り出して。
「私の母様も……。優しい人ほど奴に呑みこまれる……。やつは“毒”。目に見えない、でも人をじわじわと苦しめる“毒”。
きっとトートも……。」
何かいいたげにヘレナは俯いた。 犠牲になったと言いたいのだろうか? パラが柔い口調で励ました。
「ねえ、そう思い詰めなくても大丈夫よ。この手記を見るに、トートはうまくやっていると思うわ。
だって 落ちた神に 利用 計画ってことは、逆にトートがそれを言いくるめているかも知れないし。やられっぱなしになる程彼女は柔ではないと思うのよ。」
「……そううまくいく?あまり舐めない方がいいと思うけど。」
目だけをすっぽり出してヘレナは言った。パラがさらに畳み掛ける。 今度は少し手厳しい口調で。
「でも……本当に“見ただけ”で支配されるのなら、こんなの書いて、カミールに渡す余裕なんてないはずよ!
信じるしかない……。私たちが動くしかないの。トートを助けるためにも!」
パラが肩を振るわせた。感情的になっているみたいだ。 大切な親友が危ない目に遭っているかも知れないのだから、当然だろう。
かく言う私だってそうだ。あの時トートを送ってしまったこと、すごく後悔している。
どんなにトートの頭脳があったって、大勢にやられたらひとたまりもないのに……。
でも、今は黙って後悔している暇がない。
こうしている間にも、レジスタンスは休みなく動き続けているのだ。
息を吸い込み、勢いよく叫ぶ。
「止まって、二人とも!!もう時間がない!争っている場合じゃない!」
きょとんとした二つの目が私を射抜く。その視線が怖くて、目を瞑りながらも続きを言った。
「夕刻まであと2時間しかない。たった2時間!その間に調べて、奴らを追跡しなきゃならないの!」
言い終わるうち呆然としていた二人の口元が、不意と緩んだ。
ため息混じりにヘレナはいう。
「そうね。わかった。……あんた、いうようになったじゃないの。」
言葉とは裏腹に、慈愛に満ちたような優しい口調が残った。
パラもぺこりと頭を下げて続ける。
「私こそ。……迷惑かけて、ごめんなさいね。あなたの言う通りよ、ホーマ。
でも具体的にどうすればいいの?」
「じゃあ、分担して動こう。ヘレナは西門に、パラは学園内を。私は裏庭に……。」
「ちょっと待ってよ。」
「なに、ヘレナ。また文句言うつもり?そうするしかないんだよ、だって……。」
私の言葉を遮って、ヘレナは切り出した。
「違うわよ、ちょっと。私が文句ばっかり見たいじゃないの。あんたは、トートを助けて計画を援護するには、レジスタンスを追おうって言いたいんでしょ。
じゃあ私が西門は間違っているわ。
私は奴らの巣を知っているし、潜り込んでも変に思われない。
私は奴らのとこに行く………………図書室につながる、森の奥の洞窟へと。」
「一人で?」
「何?私はあんたみたいに腰抜けじゃないから問題ないわ。……今までもそうしてきた。
それに、中に入った方が確実に調べられるし、あの子……えと、”トート“を見つけられる。」
彼女の瞳が、炎のように強く揺らいだ。その剣幕に押され、私は頷く。
「……わかった。じゃあヘレナ。あなたはその通りにして。パラは校内を、私は裏庭に行くから。
”倉庫“や”家畜小屋“をもっと調べたい。気になることがあるの。」
「何をするかわからないけど、決まったわね。」
ヘレナが短く言い放ち、立ち上がった。落ち葉を踏み締める足音がやけに響く。
「でも……気をつけて。今やっていること、見られているかも。」
「はあ?そんなわけないでしょう? あんたこそ気をつけなさいよ。
夕方になると……変な声が聞こえると言うし。」
一瞬冷たい風が吹いた。秋風だ。カミールが低く唸り、耳を伏せる。
「行きましょう。時間はほとんど残っていない。」
パラが鋭い視線で空を見つめた。
太陽が空に溶けていき、先が赤く染まっていく。
……夕刻まで2時間。
私たちは視線を交わし、それぞれの方向へ背を向けた。
森の奥、洞窟の底に……何かが私を待っている。
カミールはしばし森の奥に向かって唸っていたが、すぐに私へとついていく。
トキの羽が舞ったような気がした。
☆*:.。. ……………………….。.:*☆
触れるたび、赤土が舞う。
汗が流れ落ち、塩の味が喉を刺す。
ライフル銃はすでに錆びついた。
喉に塊が落ちるような、生ぬるい感触が襲う。
もう3時間近く水を飲んでいない。秋が近づいているとはいえ、このままでは倒れてしまいそうだ。
試しに水筒を振ってみる。 が、カラカラと乾いた氷の音が鳴響くだけで、一滴も残っていなかった。
……ちっ。 ここでくたばるのかよ。
住処からはもう半里以上離れている。引き戻すわけにはいかない。
川の水も、硝煙で薄汚れて飲むに耐えなかった。
……私らが始めたこととはいえ。
これじゃ身から出た錆だな。
涼しいとはいえないどっちつかずの温度も、余計に気を逆撫でさせた。
……ライネルなんかも、私ばっかり動かしてよ。
みんなが私を邪魔者扱いする気配が、胸の奥に重くのしかかる。
最近になると特に、彼等は私にことごとく何かを言いつけては、住処からは追い出していた。
彼らは“過激派”と結びついていると言う。 信用ならない。
それに。
……私ももう子供じゃない。
知識もある。作戦の一つや二つ、任せてほしい。
今日の新月で14歳。
周りはみんな、大人の役目を与えられている。
なのに、私だけは違う。
ライネルの妹だから?
それとも……
みんな血の繋がっていない“家族”だからだろうか。
自分は一人で、誰もいないのだと……寂しげに話す少女が朧げに浮かんだ。
自分とよく似た容貌に少女。背丈も体格も似ていて、違うといえば髪の長さくらいだ。
彼女には不思議と惹かれた。
臍の緒で結ばれた仲のように、ぴたりと重なり合った気がしたのだ。
本当の居場所がなく、押しつぶされそうになっているのは、私たち二人とも同じだった。
それにしても少し可哀想なことしたかな。
今頃、抜け出しているだろうか。
それとも、冷たくなっているだろうか。
そんなこともどうでもいいと思うほど、心は何かを求めていた。
オリーブの幹を擦り合わせて、水滴をすくう。
たった一口の水が、生命が体に吹き込むー心地よさを感じた。
満を持して歩き出すと、背後から声がかかった。
「……おい、リュシア。こんなところで何をしているんじゃ?」
振り返ると、幼い頃から世話になっていた小柄な男が立っていた。
数年前より白髪が増えて、シワも深い。輝かしい碧眼は、今や白濁とした色に変わっていた。
普段は伸びやかな男だったが、今はいささか動揺が見られる。微かに手が震えている気がした。
「どうした?ディルシア爺さん。何かあったか?」
きょとんとした私に苛ついたか、彼は声を荒げた。
「どうしたんじゃないぞ。今、内部ではとんでもないことになってるって言うのに!」
「……は?なんたって私、外にいっぱなしだから。ほら水もない……。」
「そんなことはいいんじゃよ。外にいようと、お前さんも知っとくべきじゃ。
……レジスタンスは乗っ取られた。落神、もとい“ザラン様”丸ごと。
しかも、お前さんくらいの神の小娘にだ!」
「……え?」
頭の処理が追いつかない。自分がどんどん置いていかれている気がする。
老爺の言葉は耳から抜け、夢のように感じる。
「……一体誰が?私たちはうまくやれていたはずだ。」
「そうじゃな。いくら“神”の奴らだって、わしらには敵わんと思っていた。ましてや子供に侵入されるとはな。」
ディルシア爺さんはポリポリと頭を掻いた。一を聞いて十を知るような彼でも、全く見当がつかないようだ。
「なあ、ところでどんな見た目のやつなんだ?」
14くらいの神の血を引くような少女。いくつか心当たりがあった。
特に……
先ほど洞窟の入り口であった銀髪の少女。 トキの真似事をしていた彼女を引き摺り下ろし、落神の餌にでもしようと置いといたはずだった。
状況的には彼女がピッタリ当てはまる。
だが、老爺の答えは予想外のものだった。
「どっちかわからんのじゃ。」
「と言うと?」
「銀髪と、赤毛……この二人の小娘が、我らをめちゃくちゃにしおった。
そのうち一人は……ヘレナとか言ったよ。」
みるみるうちに目が見開いていく。
うまく老爺を見据えられなかった。
ヘレナ。私がホーマたちに接触しろと命じた、没落貴族の娘だった。
彼女はどうやらホーマを毛嫌いしていたみたいだし、肩に付くとは思わなかったが。
だがそうも言っていられまい。
「なあ爺さん……そいつはどこにいる?ヘレナは?」
「え、ああ……多分洞窟の中心部を駆けずり回っておるよ。っておい、どこにいくのじゃ?」
「決まっているじゃないか。ヘレナに会いにいくんだよ。」
脳のリミッターが限界を迎えていた。
彼等を止めて、ライネルたちに一泡吹かせてやる。
思った先には、老爺は小さくなっていた。
☆*:.。. ………………………….。.:*☆
明かりを毛嫌うかのように、洞窟の中は闇で覆われていた。私は手伝いで歩みながらも、音でヘレナを探す。
唸るような煙の音が鬱陶しい。人の気配どころか、虫の蠢きすらも感じられない。
まるで世界が“死んだ”ようだ。
終わりを望むように、あるいは受け入れたように。
それが不吉な予兆のような気がして、微かに肌が泡だった。
本当にここは住処なのだろうか。
「………………おーい。誰かいないのかー。」
わざと大きな声を出してみるが、返事一つない。
仕方ないので、このまま進むことにした。
………それにしてもライネルたちは一体何を考えているんだろう。
一人だとついそんなことを考えてしまう。
最近は特に私を突き放すことが増えている。 作戦の内容すら教えてくれない。
本当に私を信用していないだけなのだろうか。
もしかして……私に何か知られたくないことがあるの?
たとえば……………私を利用する、とか?
この学校を占拠したのは……奴らに復讐するためだけなのだろうか?
もっと別の目的が……。
過激派と手を組んだのはそのためなんじゃ?
いや……そんなことない。
あいつらが、いくらなんでも私を売るような真似するはずが、ない
私を本物の家族のように、それこそ赤ん坊の時から面倒見てくれたんだ。
彼らの笑顔、合間に見える優しさ………。
あれが偽りだとは思えない。
信じたい、彼らを。
悶々と考えていると、何かが目に入った。
白が反射して、異質というほど輝いている。ゆらゆらと灯籠の中で揺れては、遠ざかっていった。
あれはなんだろうか?人の形をしているのに、足音が全くしない。 だが、誰かから逃げるように、マントが翻っているのがわかった。
もしかして、ヘレナたちだろうか。 いや、違う。
あの白いマントは見覚えがあった。
………………最近レジスタンス内で好き勝手やっている“過激派”の奴らだ。
彼らは本来のレジスタンスの活動だけではなく、怪しげな儀式にも手を出していると聞いている。
全く、落ちぶれた奴らだ。
絶対に捕まえてやる。
興奮で胸は膨れ上がり、いつのまにかドタドタと足が鳴っていた。
「おい!そこいるんだろう!待ちな!」
声をかけた瞬間、それのスピードは上がり、星のような速さで駆けていった。軽やかに地面を踏み締めている様子は、とてもじゃないが追いつけそうにない。
……ちっ。
………………堂々と顔も出せねえやつに、抜け抜けと負けていられるかよ。
悔恨の念が心で燃え上がる。足に力がこもり、熱量と共に私も地面を突っ切った。
「逃れられると思うなよっ!」
冷静さを事欠いて怒鳴り散らす私をよそに、相手は奥へと消えていった。
だが、私がそれで見失ったわけではない。
湿った空気の中で残る、あの特有の匂いがまだ鼻腔の中に生きていたからだ。
その匂いは右の方へと流れていった。 目を力強く見開いて、私は匂いを辿る。
見つけた。
白いマントが目の前を横切る。 同時に頬をマントが撫でた。微かに汗ばんで、マントが濡れている。
「おい!もう逃さないからな!」
息を継ぐ間を与えずマントを引っ張ると、白髪混じりの茶髪が顕になった。
彼女の手から一筋のランプが滑り落ちる。カラン、と音を立てて地面と擦り合わせになっていた。
白いマントをかぶっていた女は、ゆっくりとこちらを振り向く。あちらこちらから切り傷がのぞいている、中年の女だ。
眉間に皺を刻み、気まずそうに彼女は下を向く。私はどの言葉もかけてやることができない。
…………その女は“レジスタンス”である仲間…………もとい、自分を育ててくれた一人だったのだ。
彼女は、私だとわかっていたのだろうか。
彼女は……私を利用するつもりだったのか……?
「ベルベット……あんた過激派だったのか……?私を利用するために……」
静かに問い詰めると、女は座り込んで、ぽつりと呟いた。
「……リュシア。あんたには関係ないさ。こっちは大変だったんだ。……変なガキに“ザラン様”が喰われちまって……。」
「はっ。あの落神か?あんなの、いつそそのかされるかわからない。でも、ベルベット……あいつを“その名前”で呼ぶってのは否定しないんだね。
“過激派”の証拠だってのに。」
冷たく見下ろすと、女は鼻で笑った。
「お前に隠してなんの徳がある?あと2時間で死ぬやつに。……あまり“ザラン様”に歯向かわない方がいいと思うよ。あんたはその方の“一部”になるってのに。」
鋭い歯を剥き出して彼女は言った。人ではなく、悍ましい怪物みたい。
それにしてもどう言うことだ?私が落神の一部になって死ぬって。
聞いたこともない。気が狂ったのだろうか。
嫌に胸に響いた。
「ふうん。何も知らないって顔してるね。いいさ。おばさんが教えてやろうじゃないか。
お前、どうやって神の門は開かれたと思う?」
「何って……。“灰の少女“を呼ばせて、彼女たちの力を使って……。」
「やだねえ。あんた、本当に何にも知らないのかい?どうしようもない程馬鹿で、鈍くて……こっちが泣きたくなるよ。」
もうこの女からは一滴も愛情が感じられない。物でも見るような瞳でこちらを見下ろした。
次に女が口にしたのは、悪魔の囁きのような物だった。
「アンタ、14年も生きてまだ気がつかないのかい?死んだんだよ。
神は”灰の少女“を食ったんだ。
数多なる人間の代わりに。二人の少女が命を捧げた。
……この世界に犠牲は必要なんだよ。
私たちが生きていくには、ガキの命一人や二人やすいもんさ。」
高らかに悪魔は笑った。身体中の毛が逆だった気がした。
人の本性に触れてしまった。ねっとりと心に纏わりつき、締め付けるものに。
“神”なんかより、彼らはずっと………。
「信じられない、って顔しているね。哀れだと思ったろう。年端の行かない子供を、自分たちのために殺させるんなんて。
あたしはねえ、リュシア。哀れむってのは自分より弱いやつにするものだと思っている。
一歩先から高みの見物するような、余裕持ってる奴がするもんさ。
だからねえ、リュシア。
あんたにその資格はないよ。」
「ど、どう言う意味だ……?」
ざらついた女の声が響いた。
時間が地面に粘りついて、這うようにゆったり進んでいく。
言葉の続きは、聞きたくなかった。
「だってあんたはその“生贄”だから。“灰の少女“なのだから……。」
どん、と胸を突かれた。確信が、たった今事実に変わって背けることができなくなる。
ああ、やっぱり。
本当だったんだ、ライネルたちは本当に私を………
物だとしか思っていなかったんだね。
くるりと背を向けて、私は女から離れていく。
何やら彼女はなじっているが、聞こえない。
あいつらのことを“家族”だと思った……。
この私が馬鹿だったんだ。
執念が胸を焦がす。認められたいという服従の気持ちが、苦しめたいという復讐心に変わっていく。
絶望のどん底だとしても、私は抜け出す術を知っている。
ヘレナたちにつこう。
本当に倒すべきなのは“神”ではなく“人間”なのだから。
魂が、燃えた。
門は再び、開かれた。
……トートの信号が、突然止まった。
あの時、赤く染められたトートの信号が消えてから……もう1時間近くなる。
彼女の気配はなく、代わりにと言うべきか、一時的に暴動も収まっていた。
……まさかそれが関係しているわけではないよね?
彼女は何かに巻き込まれてしまった?
ぞくり、と悪寒が走った。パラもヘレナも同じことを考えていたようで、しばらく誰も口を開けなかった。
「これ、トキの羽………。トートのだわ。」
不意にパラが羽を拾い上げる。
道標のように何枚も落ちており、白銀に日光が滑り落ちていた。
「トートが道標に落とした?」
「いや、レジスタンスを追っているうちに落ちちゃったのかも。襲われたんじゃ?」
「だから言ったのよ!無謀だって!だって、あいつらなら……。」
ヘレナの強気な眉はみるみる下がり、彼女は言葉を濁した。
言いたいことはわかる。
あいつらなら、本当に何をしでかすかわからない。
口に出すのも憚れるようだった。
それより彼女、まだ何かを隠している………………?
訝しげに赤い瞳が揺れていた。
「………………ワオーン………。」
立ち尽くしていると、聞きなれた犬の鳴き声が聞こえてきた。
優雅で、力強い雌犬の鳴き声。もしかして、あの子?
「ねえ、犬の鳴き声が聞こえない?あそこ、もっと北。」
「ええ、全然……あ、でも微妙に強くなっているかも?犬が近づいてきているんじゃないかしら?」
「おーい、こっちだよ!」
呼び止めながらも、期待で胸が高鳴る。あの子が生きているかもしれないと言う期待。
また会えるかもしれないと言う期待。
その期待は焚き火のように暖かく、胸の奥をじわじわと満たしていく。
足音と鳴き声が近づくたびに、目の前の景色が霞んでいく気がした。
幸福感が押し寄せ、抑えきれなくなり、膨らむ。
その一方で、犬の足音はどんどん近づいていき、宙を浮くような優雅なステップを刻んでいた。
「ハッハッハッハッ……。」
舌を出す、荒い犬の息遣いがすぐそばで響く。
堪えきれなくて、私は叫んだ。
「カミール!」
「ワオーン!」
森林から飛び出したのは、白い毛並みのサルーキ犬。
細長い手足と傾れるような毛並みが、まるで森の主のようだった。
腕を広げると、彼女が目一杯飛び込んできた。幸福がのしかかり、嬉し涙をこぼす。
「よかった、カミール。もうしんじゃったかと思ったよお……。どこにいるのかすらわからなくて……。」
抱きしめるとカミールは、(私のことは心配しなくて、大丈夫)と言うように目を細めた。
「よかったわ、ホーマ、カミール。貴方心配していたものね……。」
パラも口に手を当てて目を潤ませる。
こんなにも人に思いを馳せる、彼女らしい反応だった。
ヘレナといえば、そっぽを向いて顔を真っ赤にしている。
目元に手を当て、押し殺すように鼻を啜っていた。
……も、もしかしてあの子、泣いている?
急におかしさが込み上げてきた。不思議そうにカミールは小首を傾げる。
(ね、ねえ、パラ、ヘレナ見てよ。)
パラにこそっと耳打ちすると、パラも唇を綻びさせた。
(本当だ。あの子ってば、ああ言うところあるのね。案外いい子かも?)
しばらく二人で見とれていると、その視線に気がついたのか、鋭く睨んだ。
「ちょっとあんたたち、何がおかしいのよ!ニヤニヤしちゃって……。」
「いやー、ヘレナもそう言うところがあるんだなって。可愛い。」
「ナッ、マッ!違う!そんなんじゃないから!」
手を大きく振って否定する。まるで幼児のようで愛おしい。
ヘレナってこんなピュアだっけな。
見知った気がしていたけれど、案外知らない面がたくさんあったんだなあ。
その瞬間まで、私は再会の幸福の中に完全に浸っていた。
でも……カミールの口元に小さな異物が光っているのを見つけて、空気は一変する。
見るとそれは、紙切れである。 読んで欲しげに彼女は潤んだ瞳で見上げていた。
「なに、これ……?」
どこから持ってきたんだろう。端がよだれでにじみ、よれた紙質からも時間が立っていることがわかった。
一度深呼吸してみる。 これがただのゴミであって欲しい反面、トートからの手紙ではないか……と言う予感が胸を締め付けた。
恐る恐る開けてみる。 が、それは予想外のものだった。 驚きの声が漏れ出る。
文字が繋がっていて、と言うかただの線が並んでいる、子供の落書きとしか思えないメモだったからだ。
私は眉を顰め、紙を光にかざした。風に揺れる葉音だけが耳に残る。
彼女は綺麗な文字を書いていたはず。
これじゃあ何の手がかりもない……。
頭を抱えていると、パラが思いついたように声をかけた。
「これ“速記”じゃないかしら?」
「え、あ……。」
言われてみれば。
速記とは、話すスピードと同じくらいの速さで素早くメモを取る技法だ。
英語では、線の角度や長さで文字を表す。
速記を書くくらい彼女は時間がなかったのかな?
「暗号みたい。パッと見て書いているところを伝わらないようにしたのかもね。」
ヘレナが文字を読み取りながら言う。 まるで彼女がその技術を習得しているかのようだ。
「ヘレナ、速記、読めるの?」 私は目を細めた。
「まあ多少はね。」 ヘレナは紙を覗き込み、躊躇いながらも声を出す。
「……落ちた神」
感覚が、その言葉一点に集中した。
「計画」
パラが眉間に皺を寄せる。
「利用」
「夕刻」
喉がひゅっとなった。残された時間はあまりに少ない。
「洞窟で………。」
ヘレナはここまで言ってため息をついた。
「これだけでは意味がわからないわよ。あの子、何がしたいの?」
単語が一つ一つ出るたび息が詰まっていく。
さっきまであった幸福感は一時にして消えた。
「待って……一つ一つ意味を解いていたらわかるかも。 計画が夕刻で行われるってこと? 利用って何かしら。 落ちた神とは?」
「……母の傾倒していた、“ザラン様”のこと……?」
神妙な面持ちで、ヘレナはぽつりとつぶやいた。私はそれを見逃さず、彼女に問い詰める。
「“ザラン様”?それって何者?これと関係しているの?」
「あ、いや……。」
またヘレナは言い淀む。少しイライラして私は声音を強めた。
「ねえお願い、はっきり言ってよ!トートの……いや、この学校の全員の命に関わるかもしれないのに!」
「じゃ、じゃあ……。」
珍しく私に気圧されてヘレナは話を切り出した。 何だかいつもと立場が逆転しているな。 少し変な気分だ。
「私も全部は知らない。でも………あいつらが崇拝しているのが“ザラン様”って呼ばれることは分かる。
あれを一度見てしまったものは………………二度とあれの支配に抜け出せなくなる。
普通に見えても、どこか……違うの。」
「どう言うこと?」
「洗脳されてしまうってことよ。」
声を絞り出してヘレナが言った。
「“ザラン様”のために、って言って、あいつの指示を何でも聞くようになるの。
一見普通に見えるものでも…端々に異常さが垣間見える。」
「牛の生き血を丸々取っている奴も見たわ。
私、恐ろしすぎて気絶するかと思った……。
だってその目は………底なしの穴のように、光一つなかったから!」
顔を青ざめてヘレナは震え出した。脂汗が額を伝い、息は荒くなっている。人が変わったように彼女の様子が豹変した。
牛の生き血を絞っていたやつがいた……。
薄桃髪の少年の話を思い出す。
彼らは見たものはきっと“同じもの”。
人の嫌悪を刺激する、それは一体どんなものなのだろう。
過激派を動かしていたのはその“ザラン様”だった?
……彼女が恐れているのは、本当にそれだけなのか。
もっと違う何かを、彼女は隠れて恐れているのではないか?
そう思ったが、今の彼女には何も言えなかった。
「無理に聞いてごめん、ヘレナ。」
「大丈夫?ほら、息を吸って、吐いて……。」
パラが背中をそっと叩き、彼女を宥める。やっと理性を取り戻して、彼女は再び言った。 使命感を感じるように、言葉を絞り出して。
「私の母様も……。優しい人ほど奴に呑みこまれる……。やつは“毒”。目に見えない、でも人をじわじわと苦しめる“毒”。
きっとトートも……。」
何かいいたげにヘレナは俯いた。 犠牲になったと言いたいのだろうか? パラが柔い口調で励ました。
「ねえ、そう思い詰めなくても大丈夫よ。この手記を見るに、トートはうまくやっていると思うわ。
だって 落ちた神に 利用 計画ってことは、逆にトートがそれを言いくるめているかも知れないし。やられっぱなしになる程彼女は柔ではないと思うのよ。」
「……そううまくいく?あまり舐めない方がいいと思うけど。」
目だけをすっぽり出してヘレナは言った。パラがさらに畳み掛ける。 今度は少し手厳しい口調で。
「でも……本当に“見ただけ”で支配されるのなら、こんなの書いて、カミールに渡す余裕なんてないはずよ!
信じるしかない……。私たちが動くしかないの。トートを助けるためにも!」
パラが肩を振るわせた。感情的になっているみたいだ。 大切な親友が危ない目に遭っているかも知れないのだから、当然だろう。
かく言う私だってそうだ。あの時トートを送ってしまったこと、すごく後悔している。
どんなにトートの頭脳があったって、大勢にやられたらひとたまりもないのに……。
でも、今は黙って後悔している暇がない。
こうしている間にも、レジスタンスは休みなく動き続けているのだ。
息を吸い込み、勢いよく叫ぶ。
「止まって、二人とも!!もう時間がない!争っている場合じゃない!」
きょとんとした二つの目が私を射抜く。その視線が怖くて、目を瞑りながらも続きを言った。
「夕刻まであと2時間しかない。たった2時間!その間に調べて、奴らを追跡しなきゃならないの!」
言い終わるうち呆然としていた二人の口元が、不意と緩んだ。
ため息混じりにヘレナはいう。
「そうね。わかった。……あんた、いうようになったじゃないの。」
言葉とは裏腹に、慈愛に満ちたような優しい口調が残った。
パラもぺこりと頭を下げて続ける。
「私こそ。……迷惑かけて、ごめんなさいね。あなたの言う通りよ、ホーマ。
でも具体的にどうすればいいの?」
「じゃあ、分担して動こう。ヘレナは西門に、パラは学園内を。私は裏庭に……。」
「ちょっと待ってよ。」
「なに、ヘレナ。また文句言うつもり?そうするしかないんだよ、だって……。」
私の言葉を遮って、ヘレナは切り出した。
「違うわよ、ちょっと。私が文句ばっかり見たいじゃないの。あんたは、トートを助けて計画を援護するには、レジスタンスを追おうって言いたいんでしょ。
じゃあ私が西門は間違っているわ。
私は奴らの巣を知っているし、潜り込んでも変に思われない。
私は奴らのとこに行く………………図書室につながる、森の奥の洞窟へと。」
「一人で?」
「何?私はあんたみたいに腰抜けじゃないから問題ないわ。……今までもそうしてきた。
それに、中に入った方が確実に調べられるし、あの子……えと、”トート“を見つけられる。」
彼女の瞳が、炎のように強く揺らいだ。その剣幕に押され、私は頷く。
「……わかった。じゃあヘレナ。あなたはその通りにして。パラは校内を、私は裏庭に行くから。
”倉庫“や”家畜小屋“をもっと調べたい。気になることがあるの。」
「何をするかわからないけど、決まったわね。」
ヘレナが短く言い放ち、立ち上がった。落ち葉を踏み締める足音がやけに響く。
「でも……気をつけて。今やっていること、見られているかも。」
「はあ?そんなわけないでしょう? あんたこそ気をつけなさいよ。
夕方になると……変な声が聞こえると言うし。」
一瞬冷たい風が吹いた。秋風だ。カミールが低く唸り、耳を伏せる。
「行きましょう。時間はほとんど残っていない。」
パラが鋭い視線で空を見つめた。
太陽が空に溶けていき、先が赤く染まっていく。
……夕刻まで2時間。
私たちは視線を交わし、それぞれの方向へ背を向けた。
森の奥、洞窟の底に……何かが私を待っている。
カミールはしばし森の奥に向かって唸っていたが、すぐに私へとついていく。
トキの羽が舞ったような気がした。
☆*:.。. ……………………….。.:*☆
触れるたび、赤土が舞う。
汗が流れ落ち、塩の味が喉を刺す。
ライフル銃はすでに錆びついた。
喉に塊が落ちるような、生ぬるい感触が襲う。
もう3時間近く水を飲んでいない。秋が近づいているとはいえ、このままでは倒れてしまいそうだ。
試しに水筒を振ってみる。 が、カラカラと乾いた氷の音が鳴響くだけで、一滴も残っていなかった。
……ちっ。 ここでくたばるのかよ。
住処からはもう半里以上離れている。引き戻すわけにはいかない。
川の水も、硝煙で薄汚れて飲むに耐えなかった。
……私らが始めたこととはいえ。
これじゃ身から出た錆だな。
涼しいとはいえないどっちつかずの温度も、余計に気を逆撫でさせた。
……ライネルなんかも、私ばっかり動かしてよ。
みんなが私を邪魔者扱いする気配が、胸の奥に重くのしかかる。
最近になると特に、彼等は私にことごとく何かを言いつけては、住処からは追い出していた。
彼らは“過激派”と結びついていると言う。 信用ならない。
それに。
……私ももう子供じゃない。
知識もある。作戦の一つや二つ、任せてほしい。
今日の新月で14歳。
周りはみんな、大人の役目を与えられている。
なのに、私だけは違う。
ライネルの妹だから?
それとも……
みんな血の繋がっていない“家族”だからだろうか。
自分は一人で、誰もいないのだと……寂しげに話す少女が朧げに浮かんだ。
自分とよく似た容貌に少女。背丈も体格も似ていて、違うといえば髪の長さくらいだ。
彼女には不思議と惹かれた。
臍の緒で結ばれた仲のように、ぴたりと重なり合った気がしたのだ。
本当の居場所がなく、押しつぶされそうになっているのは、私たち二人とも同じだった。
それにしても少し可哀想なことしたかな。
今頃、抜け出しているだろうか。
それとも、冷たくなっているだろうか。
そんなこともどうでもいいと思うほど、心は何かを求めていた。
オリーブの幹を擦り合わせて、水滴をすくう。
たった一口の水が、生命が体に吹き込むー心地よさを感じた。
満を持して歩き出すと、背後から声がかかった。
「……おい、リュシア。こんなところで何をしているんじゃ?」
振り返ると、幼い頃から世話になっていた小柄な男が立っていた。
数年前より白髪が増えて、シワも深い。輝かしい碧眼は、今や白濁とした色に変わっていた。
普段は伸びやかな男だったが、今はいささか動揺が見られる。微かに手が震えている気がした。
「どうした?ディルシア爺さん。何かあったか?」
きょとんとした私に苛ついたか、彼は声を荒げた。
「どうしたんじゃないぞ。今、内部ではとんでもないことになってるって言うのに!」
「……は?なんたって私、外にいっぱなしだから。ほら水もない……。」
「そんなことはいいんじゃよ。外にいようと、お前さんも知っとくべきじゃ。
……レジスタンスは乗っ取られた。落神、もとい“ザラン様”丸ごと。
しかも、お前さんくらいの神の小娘にだ!」
「……え?」
頭の処理が追いつかない。自分がどんどん置いていかれている気がする。
老爺の言葉は耳から抜け、夢のように感じる。
「……一体誰が?私たちはうまくやれていたはずだ。」
「そうじゃな。いくら“神”の奴らだって、わしらには敵わんと思っていた。ましてや子供に侵入されるとはな。」
ディルシア爺さんはポリポリと頭を掻いた。一を聞いて十を知るような彼でも、全く見当がつかないようだ。
「なあ、ところでどんな見た目のやつなんだ?」
14くらいの神の血を引くような少女。いくつか心当たりがあった。
特に……
先ほど洞窟の入り口であった銀髪の少女。 トキの真似事をしていた彼女を引き摺り下ろし、落神の餌にでもしようと置いといたはずだった。
状況的には彼女がピッタリ当てはまる。
だが、老爺の答えは予想外のものだった。
「どっちかわからんのじゃ。」
「と言うと?」
「銀髪と、赤毛……この二人の小娘が、我らをめちゃくちゃにしおった。
そのうち一人は……ヘレナとか言ったよ。」
みるみるうちに目が見開いていく。
うまく老爺を見据えられなかった。
ヘレナ。私がホーマたちに接触しろと命じた、没落貴族の娘だった。
彼女はどうやらホーマを毛嫌いしていたみたいだし、肩に付くとは思わなかったが。
だがそうも言っていられまい。
「なあ爺さん……そいつはどこにいる?ヘレナは?」
「え、ああ……多分洞窟の中心部を駆けずり回っておるよ。っておい、どこにいくのじゃ?」
「決まっているじゃないか。ヘレナに会いにいくんだよ。」
脳のリミッターが限界を迎えていた。
彼等を止めて、ライネルたちに一泡吹かせてやる。
思った先には、老爺は小さくなっていた。
☆*:.。. ………………………….。.:*☆
明かりを毛嫌うかのように、洞窟の中は闇で覆われていた。私は手伝いで歩みながらも、音でヘレナを探す。
唸るような煙の音が鬱陶しい。人の気配どころか、虫の蠢きすらも感じられない。
まるで世界が“死んだ”ようだ。
終わりを望むように、あるいは受け入れたように。
それが不吉な予兆のような気がして、微かに肌が泡だった。
本当にここは住処なのだろうか。
「………………おーい。誰かいないのかー。」
わざと大きな声を出してみるが、返事一つない。
仕方ないので、このまま進むことにした。
………それにしてもライネルたちは一体何を考えているんだろう。
一人だとついそんなことを考えてしまう。
最近は特に私を突き放すことが増えている。 作戦の内容すら教えてくれない。
本当に私を信用していないだけなのだろうか。
もしかして……私に何か知られたくないことがあるの?
たとえば……………私を利用する、とか?
この学校を占拠したのは……奴らに復讐するためだけなのだろうか?
もっと別の目的が……。
過激派と手を組んだのはそのためなんじゃ?
いや……そんなことない。
あいつらが、いくらなんでも私を売るような真似するはずが、ない
私を本物の家族のように、それこそ赤ん坊の時から面倒見てくれたんだ。
彼らの笑顔、合間に見える優しさ………。
あれが偽りだとは思えない。
信じたい、彼らを。
悶々と考えていると、何かが目に入った。
白が反射して、異質というほど輝いている。ゆらゆらと灯籠の中で揺れては、遠ざかっていった。
あれはなんだろうか?人の形をしているのに、足音が全くしない。 だが、誰かから逃げるように、マントが翻っているのがわかった。
もしかして、ヘレナたちだろうか。 いや、違う。
あの白いマントは見覚えがあった。
………………最近レジスタンス内で好き勝手やっている“過激派”の奴らだ。
彼らは本来のレジスタンスの活動だけではなく、怪しげな儀式にも手を出していると聞いている。
全く、落ちぶれた奴らだ。
絶対に捕まえてやる。
興奮で胸は膨れ上がり、いつのまにかドタドタと足が鳴っていた。
「おい!そこいるんだろう!待ちな!」
声をかけた瞬間、それのスピードは上がり、星のような速さで駆けていった。軽やかに地面を踏み締めている様子は、とてもじゃないが追いつけそうにない。
……ちっ。
………………堂々と顔も出せねえやつに、抜け抜けと負けていられるかよ。
悔恨の念が心で燃え上がる。足に力がこもり、熱量と共に私も地面を突っ切った。
「逃れられると思うなよっ!」
冷静さを事欠いて怒鳴り散らす私をよそに、相手は奥へと消えていった。
だが、私がそれで見失ったわけではない。
湿った空気の中で残る、あの特有の匂いがまだ鼻腔の中に生きていたからだ。
その匂いは右の方へと流れていった。 目を力強く見開いて、私は匂いを辿る。
見つけた。
白いマントが目の前を横切る。 同時に頬をマントが撫でた。微かに汗ばんで、マントが濡れている。
「おい!もう逃さないからな!」
息を継ぐ間を与えずマントを引っ張ると、白髪混じりの茶髪が顕になった。
彼女の手から一筋のランプが滑り落ちる。カラン、と音を立てて地面と擦り合わせになっていた。
白いマントをかぶっていた女は、ゆっくりとこちらを振り向く。あちらこちらから切り傷がのぞいている、中年の女だ。
眉間に皺を刻み、気まずそうに彼女は下を向く。私はどの言葉もかけてやることができない。
…………その女は“レジスタンス”である仲間…………もとい、自分を育ててくれた一人だったのだ。
彼女は、私だとわかっていたのだろうか。
彼女は……私を利用するつもりだったのか……?
「ベルベット……あんた過激派だったのか……?私を利用するために……」
静かに問い詰めると、女は座り込んで、ぽつりと呟いた。
「……リュシア。あんたには関係ないさ。こっちは大変だったんだ。……変なガキに“ザラン様”が喰われちまって……。」
「はっ。あの落神か?あんなの、いつそそのかされるかわからない。でも、ベルベット……あいつを“その名前”で呼ぶってのは否定しないんだね。
“過激派”の証拠だってのに。」
冷たく見下ろすと、女は鼻で笑った。
「お前に隠してなんの徳がある?あと2時間で死ぬやつに。……あまり“ザラン様”に歯向かわない方がいいと思うよ。あんたはその方の“一部”になるってのに。」
鋭い歯を剥き出して彼女は言った。人ではなく、悍ましい怪物みたい。
それにしてもどう言うことだ?私が落神の一部になって死ぬって。
聞いたこともない。気が狂ったのだろうか。
嫌に胸に響いた。
「ふうん。何も知らないって顔してるね。いいさ。おばさんが教えてやろうじゃないか。
お前、どうやって神の門は開かれたと思う?」
「何って……。“灰の少女“を呼ばせて、彼女たちの力を使って……。」
「やだねえ。あんた、本当に何にも知らないのかい?どうしようもない程馬鹿で、鈍くて……こっちが泣きたくなるよ。」
もうこの女からは一滴も愛情が感じられない。物でも見るような瞳でこちらを見下ろした。
次に女が口にしたのは、悪魔の囁きのような物だった。
「アンタ、14年も生きてまだ気がつかないのかい?死んだんだよ。
神は”灰の少女“を食ったんだ。
数多なる人間の代わりに。二人の少女が命を捧げた。
……この世界に犠牲は必要なんだよ。
私たちが生きていくには、ガキの命一人や二人やすいもんさ。」
高らかに悪魔は笑った。身体中の毛が逆だった気がした。
人の本性に触れてしまった。ねっとりと心に纏わりつき、締め付けるものに。
“神”なんかより、彼らはずっと………。
「信じられない、って顔しているね。哀れだと思ったろう。年端の行かない子供を、自分たちのために殺させるんなんて。
あたしはねえ、リュシア。哀れむってのは自分より弱いやつにするものだと思っている。
一歩先から高みの見物するような、余裕持ってる奴がするもんさ。
だからねえ、リュシア。
あんたにその資格はないよ。」
「ど、どう言う意味だ……?」
ざらついた女の声が響いた。
時間が地面に粘りついて、這うようにゆったり進んでいく。
言葉の続きは、聞きたくなかった。
「だってあんたはその“生贄”だから。“灰の少女“なのだから……。」
どん、と胸を突かれた。確信が、たった今事実に変わって背けることができなくなる。
ああ、やっぱり。
本当だったんだ、ライネルたちは本当に私を………
物だとしか思っていなかったんだね。
くるりと背を向けて、私は女から離れていく。
何やら彼女はなじっているが、聞こえない。
あいつらのことを“家族”だと思った……。
この私が馬鹿だったんだ。
執念が胸を焦がす。認められたいという服従の気持ちが、苦しめたいという復讐心に変わっていく。
絶望のどん底だとしても、私は抜け出す術を知っている。
ヘレナたちにつこう。
本当に倒すべきなのは“神”ではなく“人間”なのだから。
魂が、燃えた。
門は再び、開かれた。

