白いマントが舞うとともに、焦げた炭火の匂いがあたりに散った。
 北の門はすでに……レジスタンスの統制下に置かれていた。
 人々は黙って見ていることしかできない。
 合図のように、トロンボーンやチューバの乾いた低音が響く。
 彼らは爆弾を一つ投げやっては、また爆発させていた。

 それを横目で見やりながら、トートが容赦なく飛行魔法を使う。
 青白い光と共に、彼女の小さな体は空高くまで舞い上がった。
 腕の部分は、滑らかな白金色の羽毛に生え変わり、足を伸ばすと、大きな翼が広がった。

 まるで、獲物を探す、“トキ”みたい。

 遠くまで目を凝らし、彼女は何かを追いかけて、飛んで行った。

 「待ってトート。どこ行くの!?」

 トートが鳥になっちゃった? 脳の処理が追いつかない私は必死で彼女の後を追い回す。

 トキもといトートはウィンクをして、ささやかにこう言った。

 「私が鳥の姿でレジスタンスを追いかける。そして、灰の少女らしき人を見つけるつもり。
 ホーマとにた人を探せばいいんでしょ? 簡単、簡単♩」

 「ええっ?……で、でも見つかったらトート一人で捕まえるつもり?相手は過激派だよ。危なすぎるって!」

 「大丈夫。流石にそんなことしない。信号を出して二人に送るから、その時二人は私が示す方に来て!じゃあ!」

 散歩にでも出かけるような軽いノリで、彼女は去っていく。 鳥の飛行には、流石に私も追いつけない。 

 上を見て走っているから、思わず石につまずいて転んでしまった。

 「大丈夫?」

 「うん、怪我はしていない。それよりトート、どういうこと?神のみんなは普通あんなふうに鳥になれるの?
 確かにみんなは“鳥のように”自由に翔ける。でも、誰も実際に鳥になってはいない。」


 「ううん、みんなじゃないわ。彼女の家系のものは特別鳥になれるのよ。……って、実際に私も初めて見たけどね。」

 肩をすくめてパラが言う。そう言われても、容易に納得出来たわけではない。
 無理やり丸め込ませて、私は空を見上げた。
 飛行機雲のような軌跡がぼんやりと浮かび、消えていった。

☆*:.。. …………………….。.:*☆

 「私たち、どうすればいいんだろう?」

 「うーん、そうね……。考えていなかった。とりあえず、救助しつつ、レジスタンスや灰の少女について情報を得るのはどう?何か手掛かりがあるかも。」

 「……手がかりって、どこで探せばいい?」

 「そ、それもわからないわ。私たち、今までこう言うのは全てトートに任せていたのね。あの子は暴走しがちだけど、いないとかなり困るわね……。」

 パラが頬に手を当てる。私もひどく同意した。私たちは彼女のような深い知識も、突拍子のないことを思いつく頭もない。

 「とりあえず歩かない?周りの人に尋ねてみるのもいい手掛かりになると思うし。あっ、でも私、絶賛戦犯として広まっているんだった。」

 「私のマント、かすわ。これを被ると、相手からは全く誰かわからなくなるの。レジスタンスから逃れるのにも好都合よ。はい。」

 そう言ってパラは私の頭にふわりとマントを被せた。ジャスミンやマリーゴールドの花の香りに包まれ、気持ち良くて目を瞑る。
 花畑の中にいるみたいだ。私が誰かに労われている感覚。自然と緊張はほぐれ、口元に笑みが浮かぶ。
 「すごい、これ、気持ちいい……。」

 「ふふっ、よかった。これであなたはホーマだとわからなくなったし、大丈夫よ。……周りは見えるでしょう?」

 「うん、もちろん。で、どこいく?」

 「まずは門の周辺にいる人たちから聞こう。」

 「いいね、それ。」

 歩いていると、門の周りにいる集団が早速訝しげな視線を投げた。

 (ね、ねえ……。逆に怪しいんじゃない?これ。)

 (でも仕方ないわよ。こうするしかなかったんだから。)

 「は、ハーイ!みんな、大丈夫?あ、ジョージ、腕怪我しちゃったの?すごい擦り傷〜。大丈夫、私なら治せるわ。」

 涼しい顔でパラは誤魔化す。

 ……この人、演技下手だ。
 声はすっかり硬直し、顔には冷や汗が漂っており、瞬きひとつしていない。
 ジョージと呼ばれた人はパラに向かって不満げに返した。

 「俺、ジョージじゃねえし。ユーリだよ。お前誰?下級生?」

 そもそも知り合いですらなかったみたいだ。

 「それより後ろ被ったやつは誰だ?まさかレジスタンスじゃないよな?」

 問い詰めるような激しい口調で、少年たちは私の方を睨み返した。
 手に汗を握っている私と対照的に、さきのガタガタな演技でパラは笑い返す。

 「大丈夫。彼女はミステリアスだけど、とても優しいの。 いつもの彼女だから安心して。」

 手をふりふり振りかざしていった。 あまりに棒読みすぎる。 

 誰が信じるんだよ……と思ったその時だった。

 「なるほど!そうなんだね、疑って悪かったよ!」

 し、信じちゃった。

 彼等の態度は一変して友好的になり、顔には気さくな笑みが浮かび上がった。

 ほっと息をつくも、こんなんで騙せたの?と戸惑いを隠せない。

 横目で見るとパラがグーサインをして笑っていた。

 (私演技には自信あるのよ!小さい頃演劇してたしね!万事休すよ!)

 (う、うん……。)

 パラ、ごめんだけどこの演技力で通ってた………の…?

 そんな言葉を押し込み、とりあえずグーサインを小さく返した。

 男子生徒はそれすら気づかず、「すまないが、ここ治癒魔法使ってくれない?」と頼み込んでしまっている。

 鈍感なのか、純粋なのか……。

 わからないけど、久しぶりに気が緩んだ気がした。

 「ところで、ちょっと聞いてもいい?白いマントをかぶって松明を持った軍団は見なかった?」

 パラが治癒魔法をユクの腕にかざしながら言った。

 「白マント?さっきいたレジスタンスじゃなくて?」

 「うーん、まあその軍団もレジスタンスなんだけど、そうじゃなくて、本当に真っ白の……いかにも怪しい軍団。何か知らない?」

 「なんでそんなこと聞くんだ?」

 「それは、えーと……。」

 まさか、追いかけて暴動を止める、なんてことは言えまい。パラと私が言葉に困っていると、薄桃髪の少年が手を挙げた。

 「それじゃないかもだけど……怪しいヤツは見た、かな……?」

 「な、何?教えてっ!」
 
 身を乗り出したパラに押されて、「じゃ、じゃあ……。」と控えめに少年は語り出した。

 「俺が爆弾から逃れようと、東の家畜小屋に行った時にさ…‥変なヤツ見たんだよな……。」

 「へ、変なヤツ……?」

 「あ、ああ……。思い出すだけで気持ち悪いよ。アイツ……う、牛の血を一匹残らず抜いてたんだ!」

 「え……。」

 少年は腕をさすって怯え顔で言った。鳥肌が肌に泡だった。
 想像するだけでも不気味だ。私は彼にさらに聞き出す。

 「状況を詳しく教えて……?」

 「黒髪の、長身の男だった。アイツは白い袋を何枚も持って、乳を搾り出すように血だけを取っていた。それも溢れんばかりに……。
 う、牛の血って何に使うんだ?吸血血なのか?俺、怖くて逃げ出しちゃったよ……。」

 私とパラは顔を見合わせた。
 黒髪の長身の男……。動物の生き血を求める……。もしかして過激派が儀式の準備を探していた?

 「その男、どこに向かっていたかわかる?」

 「し、知らないよ、さっきも言った通り、俺逃げちゃったんだから。あ、でも……。
 俺の足音聞いたら、あいつ慌てて南に行った気がする……。」

 「南……。」

 咄嗟に頭の中に地図を思い浮かべる。家畜小屋から南……。裏山だ。
 時はもう……過ぎたのかもしれない。

 「行こう、パラ。」

 パラのしなやかな右腕を掴み、左へと引き伸ばした。
 慌ててパラはついていく。

 「ま、待ってよ……その、ミステリアスな少女〜。」

 「え、俺らの救助は!?」

 「ごめん、急用思い出した!それじゃあ!」

 「ええっ?」

 戸惑う彼等をよそに、私たちは裏山へと向かう。

 彼等はもうすぐそこで、儀式をするつもりだ。

 追いかけて、“もう一人の灰の少女”を捕まえなきゃ!

 紅色の夕陽が、煌々と私たちの背中を照らしていた。

☆*:.。. ……………….。.:*☆

 「ヘレナ。いい加減灰の少女を捕まえたの!?」

 灰色がかった髪の四十前の女が詰問する。

 若さと整った顔に似つかわしくなく、顔には深いシワが刻まれていた。

 「む、無理だよ、こんなに人がいるんだし……。」

 躊躇いがちにそういうか否か、素早く女の手が飛び込んで、私の頬をむかえうった。

 冷えたような痛みがピリピリと刺し、思わず顔をしかめる。

 「母親の私になんて生意気なの!さっさと見つけなさい!“ザラン様”を煩わせるんじゃないわよ!」

 本当に使えない子……。憎々しげに女は暗い廊下へと姿を消していく。

 全てはあの子……“ホーマ”のせいだ。

 あいつがいなかったら、私はきっと……。

 おしまいまでは言えなかった。あいつ如きに僻んでいる気がしたから。 
 僻むのは全て……“弱者”がやることだ。

 拳を握りしめ、私は女を追いかけた。

 彼女の靴の音が、いやに響いていた。


 部屋に入った途端、きつい香の匂いが鼻腔を刺激し、むせそうになる。

 壁にかかる生肉の匂いを誤魔化すような炊き方だ。

 床には、赤い粉筆で書かれた魔法陣が書かれており、松明がそれを囲むように赤々と燃えている。

 はっきり言って、趣味が悪い。

 ………なんとかの少女?を連れてきて、神の門を開かせる?

 ばっかみたい。 そんなの、ただの昔話でしょ?

 彼等は諦めることなんだろうか?

 ひどいことされたって聞いたけど、全てあんたたち人間が始めたこと。

 ……これは人の家庭を壊してまで、やることなの?

 不満げに唇を尖らせていると、後ろから男の声がした。

 「ヘレナ。ぼーっと突っ立って、何してるんだ?」

 「私が何しようと勝手でしょう?ほっといて、今機嫌悪いんだから。」

 あっち行って、とラオスを払おうとするも、あいつはじっとそこから動かない。

 それどころか、私の目を覗き込んだりする。

 ………………心の内を覗き込まれるようで、気持ち悪い。

 思わず私は身を引いた。ラオスは気まずそうに目を逸らす。

 「それよか、お前は“灰の少女”を見つけてきたのか?顔は知ってるんだろう?」

 「あんたまで?別に人手は嫌と言うほどたりているでしょう?」

 「そんな言い方ないだろ。仕事は早い方がいい。“ザラン様”も機嫌が悪いぞ。」

 「………………みんな“人間様”の言うことにしがみつくのね。」

 皮肉げに口角を上げていってやると、ラオスは複雑そうに顔を曇らして言い返す。

 「お、おまえだって彼等に同情するだろう?俺たちは半神でも、支配される側に近い。仕事だって困ってるんだぞ?」

 彼の声は本気だった。

 「残虐で自分主義な奴らにしがみつく理由なんてないじゃないかっ!」
 
 「それが本当なのかわかんないって言ってんのよ!大昔の話を持ち出すのがそもそも怪しいじゃない!あんたも親たちの言いなりになるつもり!?」

 「……っ、俺だって……。」

 またラオスが下を向く。その行為すらいじらしくて、私は背を向けて外へと向かった。

 気晴らしにここにきても無駄だった。

 心の中のわだかまりが強くなるだけだ。風の吹く音すらうるさく感じる。自然と奥歯が音を立てていた。

 「おい、どこ行くんだよ!」

 「あんたたちがそう言うから、灰の少女を探しに行くんじゃないの!連れてけばいいんでしょ、連れてけば!いちいちうるさいんだって!」

 八つ当たりのように一喝する。ラオスが一瞬傷ついたような顔をしたが、気にしない。 あんな中身薄いやつ、友達でもなんでもない。

 「なんであのみそっかすのせいでこんな思いしなきゃならないのよっ。」

 蹴った石は思ったより遠くに当たって、遠くの川辺で砕けていった。

 ……母様だって昔はあんなふうじゃなかった。

 いつも私のこと気にかけてくれて、疲れたらホットココアなんか作ってくれて……。

 目頭が熱くなる。母様は………全てはあの男のせいで変わってしまった。

 あれは、灰色の空がどこまでも続くような天気だった………。

 きゅっ、きゅっ、と歩くたび、靴と雪が擦れ合ってなった。私は家が待ち遠しくて、雪で足が汚れるのも知らず、夢中で駆け出す。

 まだ母様に会っていないのに、口元から話したいことがでかかった。 
 古語のテストで一番で、先生に褒められたこと。仲良しのアミアちゃんに、誕生日パーティーに誘われたこと。

 あの頃の私は、世界が全て桃色に染まっているような浮かれ具合だった。 蝶々が飛んでいることも、誰かが鉛筆を転がしたことも……。

 その全てがおかしくて、世界は幸せに包まれているものだと思っていた。……だからあのことに全く気づけなかった。

 母様は優しい人だった。うちだけが裕福なのは申し訳が立たないわ、と軽やかに笑って、私が学校に行っている間は慈善活動に勤しんでいた。

 いつの日か、母様から食料をたっぷり分けてもらった人が、泣いてうちに礼を伝えにいったことを覚えている。

 あの時の母さまはヒーローみたいだった。どこからか母様から温かい光が漏れ出るようで……。毛布の下から密かに手を合わせてしまった。

 実の子である私でも、彼女は神秘のベールを纏う聖女のようだと思った。

 その日も母様は、私が学校から帰ると、手を広げて暖かく出迎えてくれた。

 でも、今日はいつもと様子が違う。

 私を出迎えるや否や、彼女は薄紅色の出かけ用の帽子をかぶっていそいそと外出の準備を始めた。

 「……?母様、どこ行くの?おしごとはもう終わったんじゃないの?」

 「ふふ。ヘレナ、母様は今日、用事を頼まれて隣の街に行くのよ。」

 「ようじ?」

 「ええ、そうよ。そこにはね、食べるものがなくて困っている方がたくさんいるの。ヘレナ、私たちは助け合わなきゃダメでしょう?」

 そう言って母様は私を膝下に抱き上げた。もう8歳だったけれど、なんだかこそばゆくて嬉しかった。

 「ヘレナも来る?いいお勉強になるわよ?」

 「ヘレナ、母様と一緒がいい!」

 「ふふ。いい子ね、ヘレナ。早速いきましょう?」

 私と母様は家を出て、隣街へと降りていった。

 街は輝かんばかりの活気で溢れていた。

 子供の笑い声、母親たちの井戸端会議……。

 ショーウインドウに並ぶ、黄色く熟れた果実のような色合いの服や甘く焦げたパンの匂い……。

 それらの感触が私を心から楽しませていた。

 だが、その風景は母と路地裏に踏み入れたことで一変する。

 ネズミが歩き、はえが飛び交うような、泥水に突っ込んだかのような異臭が漂う。

 そしてそこには……壁に張り付く無数の死体。

 「……ひっ。」

 子供の私はあまりのおぞましさに飛び跳ねる。母も蒼白した顔で口を覆った。

 「え……なに、これ、一体何が……?」

 私は夢を見ているんだろうか。 これが本当にこの世なんだろうか。

 だとしたらここは……私が知っていた“世界”じゃない。

 絶望感に苛まれ、固まる私たちに、ある男が近づいてきた。

 ジーンズは色あせて、いくつもの穴が空いている。 獣のような鋭い目つきに、灰色メッシュの暗い髪。 そして過度に痩せている、17くらいの男。
 足を引き摺る音がずるずると沁みる。
 まるでハイエナみたい、と思った。

 その男は手を広げてこう言った。

 「奥様方……。何をぼんやり見ているんだい?これがそんなにおかしいか?」

 「え、ええ……。だってこれはあんまりに……。」

 母のか細い声に、男は薄くニヤリと笑った。

 「へーえ。ご婦人たちはずいぶん恵まれていたんだねえ。身なりにしても。この世界はね、そんな甘い世界じゃないのさ。
 あなたたちご婦人が、お遊び気分で偽善活動しても、補えない位にね。」

 「………………っ。」
 
 母様の三角帽子が揺れる。私も母様も何も言い返すことができない。

 「ま、いいさ。私はご婦人方を痛めつけたいわけじゃないんだ。それでも……このままだと貴方の娘さんも、危ないかもしれないねえ。」

 「む、娘がどうかしたんですか……。」

 「その子供、半神だろう?半神だろうとなんだろうと、人間の血が入っているものはことごとくこうなるのさ。奥さん、貴方もだ。」

 そうして男はか細い手でさっきの死体を指差した。 思わず私は後退りする。 

 心臓の鼓動が目前まで響いて、足から力が抜けて、走り出すことができない。

 私も、こうなっちゃうの……?この男の人、何言ってるの……?

 圧倒的な恐怖。見せつけられる現実。誰が抗えるだろうか。

 「わかるだろう?この世界の住民は、人間をことごとく根絶やしにしたいんだ。我らは搾取され続けるしかない……。」

 血走った目で男は小型カメラを握りつぶした。そのカメラで何を撮っていたか、考えたくもなかった。

 「じゃあ、一体どうすればいいんですの……?」

 「ハハハッ。決まっているだろう。………抗うのさ。
 あいつらが俺らを根絶やしにするつもりなら、こっちだってそうすればいい。
 自分たちがしたこと全てをわからせればいい。
 誰が何を言おうと………………“これは俺の正義”だ。
 大切なものを失う苦しみを……あいつらも知ればいいんだ。」

 目を向いて男はまた笑った。胸が凍りつくような、鋭い笑顔だった。
 こちらに手を差し伸べて言う。

 「奥さん、どうするんだい?このまま震えて死を待つか……。
 我らと抗い、娘を守るか。」

 「わ、私……。」
 
 「か、母様……。」

 グッと何かを堪えるようにしばし母は考え込んだ。しばらくして、あの母とは思えない形相で男を見つめる。

 「貴方たちに、手を貸しますわ……。」

 「嘘、母様!?」

 「私はそうすると思っていた。そうとなれば、決まっている……。明日の夜、この路地街で待っている。
 ……リュシアの兄、“ライネル”の紹介で来たと、な……。」

 そう言って男は暗闇の中に姿を消した。恐る恐る母様を見ると、いつもとは違う、何かを決心したような顔で何処かを見つめていた。

 「かあ、さま……。どうしたの……?」

 「ヘレナ。母様、貴方を守るからね。」

 「え…?」

 そう言って母様は私を力いっぱい抱きしめた。

 彼女が私を抱いたのは、これが最後だった。

 それからは、人が変わったように厳しくなって……。

 あいつらの組織にのめり込むようになった。

 しまいには“ザラン様”といういかにも怪しい存在を信じ込むようになってしまった。

 あの男すらいなければ。

 世界がこんなのでなければ。

 母様は前と変わらない、“優しい母様”でいたはずだ。

 思い返すと、いつにも増して心が荒み、じっとしていられなくて地面を駆けた。

☆*:.。. …………………….。.:*☆

 「あいつっ……。どこにいるのよ!」

 太陽がいじらしく背中を焦がす。手足は焼けて、赤くひりひりと腫れてしまっている。

 見渡しても見渡しても、荒野。

 ため息をつく。 これじゃとても見つけられない。

 それにしても………。

 この光景を見ていると、さらなる怒りが湧いてきそうだ。 “学校”という場所までも破壊する、奴らへの怒り。

 ま、私は学校の奴らなんて、最初から興味なかったけれど。

 あいつらが傷つこうが傷つきまいが、関係ない。

 誰も私の“本当”の姿なんて知らないのだから。

 思えば今の私に、何が残っているのだろうか。

 家族へも、友人へも、今や何も思い入れがない。

 あるのは“嘘”でできた、かりそめの絆だけ。

 たとえみんなを失っても……。

 私は涙を流す自信がない。

 だけど………。

 なぜ今私は怒っているのだろうか。 何からくる怒りなのだろうか? 

 それすらも見失って、ただ虚ろな心だけが残った。


 汗をぐっしょりかきながら、足を進めると、門の辺りで人影が見えた。

 怪我人たちがうずくまる場所で、熱心に駆け回る二人の少女が見える。

 背が高く、輝かんばかりの美しさを放つ少女と、マントを被った黒髪の目立たぬ少女。

 彼女たちは怪我人に治療を施し、話し込んでいるようだった。

 あいつらはきっと……。

 足音を決して、ターゲットへと近づく。 後ろに組んだ腕から、密かに”テルマオ(拘束する呪文)“を唱えていた。

 「大丈夫?すぐに直してあげるから。待っててちょうだい。」

 「私でよかったら何か聞かせて。」

 ほのかな薬品の匂い。なびく淡い光。

 こんなの、ただの偽善に決まってる。あいつらもきっと、自分たちのことしか考えていないんだ。

 でも……。

 足が止まって、動かない。 何かが私を引き留めている。

 なんでこんなに心が引き留められるの?

 自然と昔の母様の姿が思い出された。 誰かのことだけを思う、この光のような母様を。

 あの男は偽善と言ったけれど、母様は違う。

 誰かを差し伸べる、本物の”善“だったんだ。

 わなわなと唇が震える。 抑えていたものが溢れ出しそうだ。

 だけど……。

 私は本当の私になっちゃダメなんだ。 じゃないと、じゃないと………。

 「……ヘレナ?そこで何しているんだ?」

 とぼけたような声が聞こえた。

 くそっ、あいつに見つかったか。

 マントから黒い目が真っ直ぐに私を見据えた。

 せめてもの抵抗として睨みつける。力を振り絞って呪文を唱えようとするが、光にならずに消えていった。

 「あ、あんたを捕まえるために決まっているでしょ!」

 「ああ……。そういえば私、貴方たちには必要なんだったね。儀式をするための”灰の少女“として。」

 やんわりとあいつが言う。 大事として考えていないのか、やけに冷静だ。

 「あんた、自分が今どうなっているか何にもわかっていないでしょっ!」

 「だって、急に誰かの都合で担がれても、私よくわかんないし……。」

 「ほんっと、あんたは鈍いわねっ。何もかも……。」

 「でもそれは貴方もだろ?ヘレナ。」

 「は?」

 「貴方だってわかっていないし、慣れてないだろう。」

 表情を緩め、あいつは言う。私は何も言い返せない。

 「急に誰かの都合で役をなすりつけられて、自分の正義を決められて……。
 そんな自分を押し殺すようなこと、そうやすやす受け入れられないだろう。」

 「……っ。」

 「私は無理をした。自分という存在が丸々塗り替えられてしまいそうで怖かったんだ。
 それは貴方も一緒だろう?ただの子供である私たちが、大人の都合で我慢できるはずないんだ。」

 「……一緒にしないでよ、あんたなんかと。」

 「え?」
 
 「私はあんたと違って、守るものがあるから、愛されたいものがあるから役になりきるのよっ!
 我慢しても、辛くても、やんなきゃいけないのよっ!」

 言った瞬間、涙が溢れ出し、崩れ落ちる。 ダメ、抑えなきゃ、あいつ如きに泣かされてたまるか。 でも……止まらない。

 「……その愛する人は、貴方の正義を塗り替えてまでやって欲しいんだろうか。」

 「……は?」

 「貴方の愛する人は、本当は貴方に幸せになって欲しかったんじゃないだろうか。自分を押し殺すんじゃなくて……。
 その人はうまく伝えられなかったかもしれない。それでも心の奥底は、貴方のことを思っていたんじゃないか。」

 「あんたに、何が……。」

 言いながら口の中に苦い味が広がった。

 私を守る……あの時母様はそう言ってしっかり私を抱きしめた。

 さっき母様に叩かれた頬が疼いた。

 母様は今も、優しい母様だった?

 私と同じ、守るために“演じていた”だけなの?

 でも。

 「だからって、私どうすればいいのよっ、もう、戻れないわよ……。」

 嗚咽が溢れでる。

 なんて醜いんだろう、私。

 なんてバカだったんだろう。

 後悔しても、“素直なヘレナ”にはもう戻れない。

 私の赤毛を、そっと彼女が撫でた。

 「まだ戻れるよ、ヘレナ。
 曲がった道を戻ればいいだけなんだから。
 ……一緒に儀式を止めよう。あなたの大切な人も救える。
 私たちでも“世界”は変えられる。」

 気がつくと、パラもホーマも私の方を見ていた。

 二人とも、弾けんばかりの笑顔で私を見つめる。

 ああ、眩しい。

 明るさに、まだ目が慣れない。

 私もああなりたい。あんな風に輝きたい。

 「なれるよ、ヘレナ。私たちにはなんだって。」

 ホーマが優しく言った。そっと手を差し伸べる。

 「そう、なの……?なりたい自分になっていいの?」

 「いいよ、だってヘレナ、自分の人生は他でもない自分のものなんだから。」

 心にすっと、光が差し込む。

 いつのまにか手をとってしまっていた。

 空に赤い光が浮かんだ。

 それらは私たちを優しく包み込む。

 トキの羽が私の肌を撫でた。

 母様。

 私、進んでいいのかな。

 いいわよ……。

 母の優しい笑顔が浮かんだ気がした。